富士山信仰の戦時下的転成 : 法曹・高窪喜八郎の 活動を中心として
著者名(日) 松本 武彦
雑誌名 山梨学院大学法学論集
巻 70
ページ 1‑30
発行年 2013‑02‑15
URL http://id.nii.ac.jp/1188/00000494/
論
富
説士 山 信 仰 の 戦 時 下 的 転 成
││ 法曹
・高 窪喜 八郎 の活 動を 中心 とし て│
│
松 本 武 彦
目 次 はじ めに 一 石油 掘削 の経 過 二 戦時 下の 経済 統制 と石 油資 源 三 資金 的背 景 四 なぜ 富士 山だ った のか 五 神秘 体験 と古 代史 探求 六 天津 教事 件と 高窪 七 社会 的反 響 おわ りに
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はじ めに 昭和
十四
︵一 九三 九︶ 年六 月七 日︑
﹃読 売新 聞﹄ 朝刊 の第 三面 に︑ 次の よう な広 告が 掲載 され た︒ 富士 山麓 油井 ニ就 テ 生等 組合 事業 トシ テ昭 和十 二年 末ヨ リ富 士山 麓岩 倉鉱 山第 一号 油井 ノ試 掘ヲ 開始 シ︑ 爾来 現今 ニ至 ル迄 極メ テ 困難 ナル 岩盤 地層 ヲ八 百九 十五 米掘 進シ タリ
︒然 ルニ 此ノ 掘進 中ニ 於テ 政府 ハ科 学的 調査 ノ結 果全 然出 油ノ 見 込ナ シト 断シ
︑引 続キ 此ノ 掘進 ヲ為 スコ トハ 非常 時局 下ニ 於ケ ル資 材ノ 濫費 トナ ルヲ 以テ 速カ ニ中 止ア リタ ク︑ 若シ 任意 ニ中 止ヲ 為サ サル ニ於 テハ 命令 ヲ発 シテ 中止 スル ノ他 ナシ ト極 メテ 強硬 ナル 警告 アリ タル コト 一再 ニ 止マ ラス
︒然 レト モ拙 者及 同志 一名 ハ深 ク其 ノ成 功ヲ 確信 スル ノミ ナラ ス︑ 本事 業ノ 開始 ニ方 リ事 業現 場ニ 齋 庭ヲ 設ケ 大宮 浅間 神社 外八 神社 総テ 九柱 ノ大 神達 ヲ奉 齋シ
︑本 事業 ハ御 神業 トシ テ之 ヲ行 イ如 何ナ ル困 難ニ 遭 遇ス ルモ 断シ テ中 絶セ サル ヘキ コト ヲ誓 ヒ奉 リシ ヲ以 テ任 意ニ 中絶 シ能 ハサ ルカ 為︑ 右数 度ノ 警告 アリ タル ニ 拘ハ ラス 不安 ノ中 ニ掘 進ヲ 続ケ 今日 ニ及 ヒタ リト 雖モ 最早 此ノ 上警 告ヲ 無視 シテ 掘進 ヲ継 続シ 能ハ サル ノ状 態 トナ リタ ルヲ 以テ
︑斯 ナル 以上 ハ速 カニ 中止 ノ発 令ア リタ キ旨 ヲ上 申シ タリ
︒ 右ノ 次第 ナル ヲ以 テ︑ 日ナ ラス シテ 発令 ヲ見 本事 業ヲ 廃止 スル ノ止 ムヲ 得サ ルニ 至ル ヘキ 状勢 ニ在 リ︒ 右後 援者 各位 ニ謹 告ス
︒ 昭和 十四 年六 月七 日
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静岡 県富 士郡 大淵 村 帝国 資源 富士 鉱業 所 高窪 喜八 郎
︵句 読点
││ 松本
︶ 広告 主の 高窪 喜八 郎と は︑ 法学 博士 の学 位を もつ 中央 大学 教授
・理 事で あり
︑東 京市 神田 区小 川町 三丁 目二 八番 地に 自ら 設立 した 法律 評論 社で
﹃法 律学 説判 例総 覧﹄
︑﹃ 商法 総論
﹄︑
﹃法 律年 鑑﹄ とい った 書籍 類や 雑誌
﹃法 律評 論﹄ を編 纂︑ 刊行 する かた わら
︑弁 護士 とし ても 特に 経済 界に 多く の依 頼者 を抱 える
︑い わば 法曹 界の 重鎮 のひ と りと いっ てよ い人 物で あっ た︒ 高窪 は一 八七 三︵ 明治 六︶ 年八 月︑ 埼玉 県に 生ま れ︑ 刻苦 勉励 して
︑明 治三 十一 年東 京法 学院 のち の中 央大 学の 第一 三回 卒業 生と して 世に 出た
︒同 年弁 護士 とな り大 阪で 三年 間法 律事 務に 就き
︑そ の後 東京 に事 務所 を構 える が︑ 明治 四十 二年 には 東洋 汽船 会社 の文 書課 長に 転進
︒さ らに 四十 四年 には
︑弁 護士 に復 帰︒ 民事 なか でも 商事 関係 の 専門 家と して 複数 の銀 行や その 他一 般会 社の 顧問 をつ とめ てい た︒ 大正 十一
︵一 九二 二︶ 年三 月︑
﹁取 引所 法ヲ 論ス
﹂で 法学 博士 の学 位を 授与 され
︑上 述の よう に中 央大 学教 授・ 理事 とし て︑ 法曹 教育 の分 野で も主 導的 人物 の一 人と なる
︒こ の間 大正 八年 には
︑中 央大 学の 財団 法人 化に 際し
︑ 基金 募集 実行 委員 をつ とめ
︑昭 和四
︵一 九二 九︶ 年十 一月 に中 央大 学駿 河台 校舎 で開 催さ れた 学友 会主 催の 第四 五 回創 立記 念祭 では
︑教 授代 表と して 祝辞 を述 べて いる
︒さ らに
︑昭 和十 年の 五十 周年 記念 事業 では
︑募 金委 員と し て活 動
( )
した
︒弁 護士 とし ての 豊富 な実 務経 験を もつ だけ でな く︑ 中央 大学 の教 員と して
︑ま た大 学理 事会 の一 員と
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して
︑大 正・ 昭和 初期 の法 曹教 育な らび に法 曹教 育機 関の 運営 に深 く関 わっ た人 物で もあ った
︒ 以上 のよ うな 立場 にあ った 高窪 が︑ なぜ 戦時 下の 富士 山麓 で石 油掘 削を おこ なっ てい たの か︒ その 背景
・理 由に つい て明 らか にす るこ とが
︑本 稿の 目的 であ る︒ 一
石油 掘削 の経 過 上掲
﹁富 士山 麓油 井ニ 就テ
﹂に もあ るよ うに
︑高 窪ら が富 士南 麓︑ 当時 の静 岡県 富士 郡大 淵村 にお いて 油井 の掘 削を 開始 した のは
︑昭 和十 二年 末︑ 正確 には 十二 年十 二月 一日 のこ とで あ
( )
った
︒し かし
︑地 元新 聞な どに よれ ば︑
法学 博士 にし て弁 護士 の経 営名 義人
﹁東 京神 田区 小川 町三 丁目
﹂高 窪喜 八郎 によ る帝 国資 源富 士鉱 業所 では
︑同 地 で前 年秋 から 道路 工事 や地 上設 備の 建設 をお こな い︑ この 作業 だけ で五
〇万 円を 要し たと され て
( )
おり
︑当 事者 の認
識と は別 に︑
﹁富 士山 麓油 井﹂ の開 発事 業は
︑事 実上 昭和 十一 年秋 には 開始 され てい たと すべ きで あろ う︒ 当初
︑作 業は 日本 鑿泉 合資 会社 とい う水 資源 掘削 に実 績の ある 会社 が︑ 鉱業 部を 発足 させ て請 け負
( )
った
︒上 掲広 告に ある
﹁岩 倉鉱 山第 一号 油井
﹂は
︑二 か所 あっ た掘 削候 補地 のう ちの 第二 候補 地で あ
( )
った
︒
事業 場に は発 電所
︑鉄 工場
︑製 材工 場︑ 木工 所︑ コン クリ ート 製の 雨水 貯水 用プ ール など の作 業関 連施 設の ほか
︑ 一〇
〇名 収容 の作 業員 宿舎 が設 けら れ︑ また 近隣 から 通勤 する 作業 員も いて 相当 数の 作業 関係 者が 出入 りし てお り︑ 彼ら のう ち通 勤者 の給 料は 月額 七〇 円に も及
( )
んだ
︑と いう
︒
掘削 開始 前か ら︑ 成功 の暁 には 油井 など すべ てを 国に 献納 する もの と
( )
され
︑そ のた めに 清水 港ま での パイ プラ イ
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ンや 同港 での 貯油 施設 も計 画さ
( )
れた
︒
実際 の掘 削は
︑昭 和十 三年 九月 二十 六日 に四 三八 メー トル まで 掘削 した とこ ろで 初め て油 徴が みら れ︑ さら に十 月一 日︑ 四七 七メ ート ル地 点で 油徴 は更 に増 勢と なっ た︑ と
( )
いう
︒そ して
︑四 八〇 メー トル 掘り 下げ たと ころ で︑
一日 七石 とい うか ら︑ 一石 約一 八〇 リッ トル とし て一 日お よそ 一・ 二キ ロリ ット ルあ まり の出 油を みた
︑と さ
( )
れる
︒
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直径 一一 イン チの 鉄管 の中 でロ ータ リー が回 転し
︑一 日七 台の トラ ック で水 を運 び入 れた り︑ 福島 県か ら粘 土を 取 り寄 せる
( )
など
︑作 業現 場は にわ かに 活況 を呈 した よう だ︒
11
とこ ろが 作業 開始 から 約二 年後 のお そら く昭 和十 三年 秋頃
︑四
〇〇 メー トル から 五〇
〇メ ート ルの 間で
︑大 出水 に会 って 作業 は頓 挫し
︑出 資者 のう ち黒 川福 三郎 と草 川求 馬が 事業 から 撤退
( )
した
︒
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また
︑こ うし た事 態も あっ て︑ 翌昭 和十 四年 二月
︑七 九五 メー トル まで 掘削 した とこ ろで 日本 鑿泉 も出 油の 見込 みな しと して 撤退 し︑ 以降
︑高 窪の 帝国 資源 によ る単 独事 業と な
( )
った
︒そ して 冒頭 の﹃ 読売 新聞
﹄の 広告 にあ るよ
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うに
︑地 下八 九五 メー トル まで 掘進 した とこ ろで
︑以 前か ら本 格的 出油 の見 込み が立 たな い同 事業 の自 主的 中止 を 求め てい た政 府に
︑継 続か 否か の判 断を 仰ぐ こと とな った
︒ 結局
︑百 数十 万円 の費 用を かけ
( )
たが
︑昭 和十 六年 春︑ 後述 の有 力出 資者 の死 去も あっ て︑ 残余 の物 資す べて を買
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い入 れ原 価で 政府 に売 却し
︑事 業を 整理
( )
した
︒こ の時 点で 掘削 は一 一六
〇メ ート ル︑ 海面 下三 六〇 メー トル にま で
15
及ん だ︑ と
( )
いう
︒
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高窪 が事 前に 意見 を徴 した 地質 学者 には
︑出 油は 有望 との 見方 もあ
( )
った とさ れて いる が︑ 最終 的に は︑ 富士 山麓
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に油 井を とい う彼 のも くろ みは
︑お よそ 四年 半の 時間 をか けて
︑千 メー トル あま りの 縦穴 と地 元作 業員 への 労賃 と
─ 5 ─
を残 し︑ 水泡 に帰 して しま った ので ある
︒ 二
戦時 下の 経済 統制 と石 油資 源 高窪
の富 士山 麓に おけ る活 動が
︑当 時日 本が 置か れた 戦時 体制 を背 景と して いた こと は言 うま でも ない
︒い わゆ る昭 和恐 慌か ら昭 和十 年頃 まで の日 本経 済は
︑カ ルテ ルの 形成 や統 制経 済の 発想 が一 部に 芽生 えて きた とこ ろで は あっ たが
︑産 業界 はも とよ り政 府も これ に批 判的 であ った とさ
( )
れる
︒
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しか し︑ 盧溝 橋事 件を きっ かけ に日 中の 戦争 が本 格化 する と︑ 近衛 内閣 のも とで 軍事 費の 増大 や国 際収 支の 悪化 を招 き︑ 臨時 資金 調整 法や 輸出 入品 等臨 時措 置法 とい った 統制 法案 が次 々に 成立
( )
した
︒結 果と して 軍需 産業 への 積
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極的 資金 供給 と輸 出入 に関 係す る物 資に 統制 の手 が加 えら れる こと とな
( )
った
︒
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昭和 十二 年十 月企 画院 が設 立さ れ︑ 戦時 経済 統制 体制 の中 心機 関と して
︑貿 易計 画や 資金 計画 の立 案な どが なさ れ︑ 輸入 物資 の内 容・ 量・ 軍民 への 割り 当て を決 定す る物 資動 員計 画が 策定 され るこ とと な
( )
った
︒
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昭和 十三 年に は企 画院 に出 向し てい た陸 軍軍 人や 関係 者が 中心 的役 割を 果た して
︑国 家総 動員 法が 立案 され
︑戦 時に おけ る人 的物 的資 源の 統制 を目 指
( )
した
︒国 内生 産の ほと んど なか った 石油 は︑ 輸入 依存 の代 表的 物資 であ った
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から
︑統 制・ 物動 計画 の対 象と して 典型 的な 例と
( )
なり
︑輸 入の 削減 がな され た︒ 昭和 十三 年の 物動 改定 の時 点で
︑
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石油 に関 して は︑ 灯油 五六 パー セン ト︑ 工業 用重 油三 七パ ーセ ント
︑汽 船用 一五 パー セン トな どの 削減
︑ガ ソリ ン に関 して は︑ 一般 自動 車用 六五 パー セン ト︑ 貨物 用二 五パ ーセ ント
︑工 場向 け一 五パ ーセ ント など の削 減が 定め ら
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