福 嶋 寛 之
*
はじめに
戦前期日本は海外に版図を有し異民族を統治する植民地帝国としてあった が、その一方で独立の主権国家に自国民を安価な労働力=移民として送り出す 後発の近代国家でもあった。本稿が分析対象とするのは、1930 年代/ブラジ ルの日本人移民である。というのも、1930 年代は満州事変後の日本に限らず、
現地ブラジルでもナショナリズムが台頭し、日本人の側が同化政策にさらされ たからである。異民族に同化を求めていた帝国日本は、一方で同化が求められ る側にもあった。
特に 1938 年の日本語教育の制限強化は、ブラジル内にあった日本人学校を 実質的に壊滅させた。注目したいのは、それゆえにかえって強烈な日本主義教 育論――ここでは「日本精神」「陛下の赤子」「八紘一宇」といったタームで彩 られる教育論を指す――が噴出したことである。それはブラジルへの同化は民 族の「退化」とみなす認識を前提とするものだった。しかし日本政府(外務省)
からすれば、主権の及ばない外国下で「日本」を強調する行為は排日を招きか ねないもので、警戒すべき対象であった。筆者の最終的な関心は現地ブラジル 日本人の側から提起される、それ自体としては正統な日本主義イデオロギーの
* 福岡大学人文学部准教授
ブラジル日本人移民の教育と日本国家
― 〈日本人の同化〉問題に関する予備的考察 ―
主張を日本国家の側はどのように処理しようとしたのかという点にある。
よって筆者の視線は、現地ブラジルでの日本人教育に関する日本国家(外務 省)、実質的にはその出先機関である現地領事の動向に置かれる。しかしなが らこの点についての事実関係は不明な点が極めて多い。というのも従来、移民 史研究では主として移民そのものに視線が向けられ、日本国家の側の分析はあ まりなされてこなかった1。よって移民地での日本主義的教育の実践という現 象が、あたかも日本国家の政策であったかのように描かれる2。一方でそれと は反対に、「戦前の在伯邦人子弟教育に関して日本政府、少なくとも外務省が、
国家として国粋主義的政策を具体的に進めて関与していたとは考えにくい」3と の指摘も以前から存在し、理解に混乱が見られる。
同じ問題を反対側から見てみよう。現段階でブラジル日本人移民教育史に関 する最も詳細な研究は、根川幸男氏によるものである。根川氏の研究も、日本 国家というより現地日本人の教育実践に主たる関心を置いたものだが、例えば キリスト教的平等主義にもとづいて「皇民化」教育に消極的だった事例などが 強調されている。具体的には、御真影の奉戴や教育勅語奉読をしなかった事例 がそれである4。確かに「臣民教育」に距離をとった実践例はあっただろう。
しかし筆者にとっては、むしろそれが可能であった点のほうが重要だと思われ る。そもそも主権の及ばない外国下で、日本国家の側が排日というリスクを犯 してまで、現地日本人(子弟)に臣民教育を施そうとしたのだろうか。そして 日本国家の関与を過大に評価しては、当時、既に存在していた「棄民」論とも 齟齬を来す。細かい点になるが、ブラジルでも確かに存在する御真影や教育勅 語謄本や国定教科書は、日本国家の側(本国政府・現地領事)が手配したものな のかどうか、実は史料として確認されるものではない。
以上のような研究状況から、本稿ではまずは考察の舞台を整えることを目的 として、事実関係の把握に努めたい。具体的には、1938 年の日本人学校の実 質的な閉鎖を画期とみなす立場から、それへと至る前史の考察が主となる。
よってそのカウンターとして噴出する日本主義教育論、それに対する日本本国 側の処理については別の機会に譲る。
さて、日本政府や現地領事らの動向を検討したものに飯窪秀樹氏の研究があ る5。具体的な理解の違いについては本論部分でその都度述べるとして、本稿 ではさらにそのうえに、現在でも未使用の日本外務省の史料、そして最近使用 が画期的に簡便となった現地刊行の日本語新聞=邦字新聞6を用いて、事実関 係のさらなる把握につとめたい。特に邦字新聞は、現地日本人移民にとっては 日本語で本国・現地双方の情報を得ることが出来る極めて重要なメディアで、
地域によっては講読率 9 割に及んだとされる7。また毎年必要だった在外徴集 延期願の手続き要領や、領事による様々な告知が掲載されるなど、現地日本人 と領事館(その先の日本本国政府)との関係を見るうえで重要である。特に本稿 で頻繁に使用する『伯剌西爾時報』は総領事館の御用紙とされ、領事たちの発 言が多く掲載されている。
続いて用語を確認しておきたい。当時、ブラジル日本人移民は「在外邦人」
「在留民」、その子どもは「在外邦人子弟」「日系伯国市民」、そして一般的呼称 として「第二世」などと称された。一世の場合、帰化しない限りは日本国籍の ままで、かつ日本への帰国も想定されていたから、在外国の日本人=「在外邦 人」と称されたのだろう。問題はその子弟の「第二世」で、現地生まれならば 出生地主義のため現地ブラジル国籍をもつ。これを意識すれば「日系伯国市民」
と称される。ただ手続き次第では、血統主義をとる日本との二重国籍者にもな りえたし8、さらに生まれは日本、幼少期にブラジルに渡った「準二世」もい るなど複雑な構成となる。ただ、当時の使用例を見ると多くは「在外邦人子弟」
と称されている。すなわち「在外邦人」の「子弟」というように、一世と連続 的に捉えられた。この点は法的にブラジル国民であったかとは別次元で、一世 が子弟をどのような存在として捉えていたか、あるいは望んでいたかを示すも ので、それ自体、思想史的な分析対象となる。
最後に、頻繁に用いる以下の外務省外交史料館所蔵の史料は、簿冊名がまぎ らわしいので、ここで一覧させておく。また出典を示す際には下記の要領で略 記する。なお現段階でもデジタル化されていないので、請求番号も付しておい た(「伯国」はブラジルの漢字表記「伯剌西爾」に由来する。適宜、本論でも使用する)。
・『本邦移民保護、奨励並救済関係雑件』J.1.2.0.J7 →『救済関係雑件』
・『本邦移民保護、奨励並救済関係雑件 伯国関係』J.1.2.0.J7-1 →『救済関係雑件/伯国』
・『本邦移民法規並政策関係雑件』J.1.1.0.J1 →『政策関係雑件』
・『 外国ニ於ケル排日関係雑件 伯国ノ部 第二世教育問題』J.1.1.0.J/X1-BR1-1 →『第 二世教育問題』
そのほか中略を意味する……、改行を意味する/、補足の〔 〕はすべて引 用者による。
第 1 章 在外日本人教育と日本政府=外務省 1 北米での排日経験と方針の転換
ブラジル日本人移民への日本政府としての関わりを見る前に、そもそも日本 の主権の及ばない地域で日本国民としての教育を行うのか否か、この問題の認 識から検討しておこう。この点に関する日本政府の方針については、ハワイ・
米国本土を事例とした研究が既に存在する9。ただそれらは当該地域に限定さ れたもので、他地域を含めたトータルな方針の分析とはなっていない。
先にハワイ・米国本土を事例とした先行研究から確認しよう。それらによれ ば、当初の日本国民教育の実践という日本政府の方針は、やがて排日を機に現 地国への同化へと転換されていったと説明される。具体的には、1906 年の沢 柳政太郎(文部次官)が示した「外国在留日本人ノ教育ニ就テハ日本国民タル ノ精神ヲ失ハシメス」との当初の指針は、その後、排日下の在サンフランシス コ総領事からの見直しの提言をうけ、1922 年、外務・文部両次官の間で、〈土 地の状況によっては沢柳指針から外れても構わない〉と確認された、というも
のである。日本国民教育の実践の可否が外交的判断でなされている点に注意し ておこう。加えて、それぞれの移民地の教育方針について、現地領事たちの裁 量が大きくなる点にも注意しておきたい。
さてここで転換された方針は、1924 年の米国排日移民法以後、主たる移民 先になっていく南米にも適用されていく。実際、ブラジルでは教育勅語の下付 申請が却下されている。先の新方針が日本政府で採用された直後の 1924 年、
ブラジル内の日本人会から副領事を介して本国外務省あてに教育勅語の下付申 請が行われている。ところが、これに対して外務省は「当分見合ハセラルル方 可然哉」と消極的で、念のため文部省に確認を求めている10。文部省の回答は 直接には確認できないが、その回答をうけての外務省の文書には「在北米南米 ノ日本人学校デハ其ノ地方ノ事情ニ依リ之ニ適スル教育方針ヲ定メ得ルコトニ 曽テ文部省ト打合済」とある。先に見た沢柳指針からの転換(1922 年)のこと であり、結局、ブラジルでは日本政府から教育勅語は下付されないままであっ たと見られる(この点は第 3 章で再び扱う)。関連して御真影についても見ておこ う。根川幸男氏によれば、宮内省「御写真録」の全記録を見ても在外公館を除 けばブラジルへの下賜は確認できず、他方、ブラジルでは御真影の複写版が販 売され流通していたという11。この指摘は大変重要である。ブラジルの日本人 においては御真影の複写版まで作製して日本的な教育が行われようとしていた こと、しかし一方で、結局のところ日本政府としては公式に御真影を下賜する ことはなかったことが示唆されているからである。
要するに、日本政府は海外に散らばる自国民をどこまでも追いかけて国民教 育を施そうとはしていない。当時、日本国内の学校と同等のものとして日本政 府が認定する「在外指定学校」なる制度があった。それらは外国下にありなが ら日本国内の教育令に準拠することを原則とした、まさしく通常の意味での日 本人学校で(植民地人も就学可)、日本国内の学校との接続関係も有した(進学・
入学・転校可)。詳細な検討は機会を改めたいが、そのような在外指定学校の設
置地域は条約上、行政権を行使しえた中国・満洲(国)に圧倒的に偏り、ほか 南洋(東南アジア)にいくつかあるにとどまり、多くの日本人移民が渡ったは ずの北米・南米についてはぺルーの 2 校を例外として全く設置されなかった12。 本稿で扱うブラジル内の日本人学校も含め、北米・南米ともに、日本の国民教 育機関とは制度的に切れていたのであり、それはそれで構わないとされていた わけである。
2 「非文明国」への同化という問題
では、そうした地域での教育を日本政府はどのように扱おうとしていたの か。外務省で移民保護行政を管轄する通商局第三課『在外子弟教育問題(未定 稿)』(1931 年)に即してみてみよう。まずそこで確認されるのは、外務省にお いては日本が行政権を行使しうる地域とそうでない地域が峻別されていた点で ある。すなわち、中国(租界地)など領事裁判権が認められている地域ならば
「何等干渉ヲ受クベキ地位ニアラズ」(149 頁)、他方、南北米・南洋などは「教 育主権ノ侵害ナリトノ排日論」が想定される地域として扱われている(151 頁)。 最近、日本の勢力圏・非勢力圏を問わず、そして移民・植民という区分をあえ てしないで、植民地人も含めた人々のトータルな移動の分析が進んでいるが13、 少なくとも外務省において両者は峻別されていた。重要なのはしたがって、日 本の行政権が及ばない地域での現地国からの干渉は「教育主権当然ノ発動」で、
新来移民を「一日モ早ク自国国民性ニ同化セシメ」るのはやむを得ない、と同 化の要求に理解すら示していた点である(115 頁)。
この立場をより詳細に示すものとして、外務省亜米利加局(通商局第三課の移 民保護事務を継承)の『在外邦人指導啓発提要』(1935 年)に所収された、在ア ルゼンチン山崎公使の見解を見てみよう(以下、同 110 〜 113 頁)。それによると、
まず移民送出の目的について、日本国内では「過剰なる人口の処分」や「失業 の緩和」などが挙げられることがあるが、これは外務省の方針とは異なるとい
う。ここで反対の立場として想定されているのは、1929 年に新設された拓務 省(その前身の内務省社会局)の立場と見てよい。しかし山崎公使によると、移 民受入れ国は日本の人口問題を憐れんで是認したのではなくて、単に労働力を 欲する「国家的利己主義」に基づくものとされる。とすれば、現地日本人たち は受入国といかなる関係を結ぶべきか。例えば中国など「〔日本〕国家の実力 を用いて之を実行せんとする地方」ならば「同化せしむる要なく、寧ろ我国粋 を発揮」させればよい、しかしそうではない地域なら「収受国民の文化に同化 する様」指導すべきである。というのも「国粋主義」への固執は「必ず排斥の 起ることを予期」させるからである。山崎公使によると、移住者はいわば「養 子」であって厳に「養家」の習慣に馴致しなければならず、生家(日本国家)
の側も経済的援助などは不要で、「教育、信教、風俗等に干渉するの不可」で あるという。よって坂本龍起(外務省通商局第三課長)が述べるように、将来そ の子弟が「顔形」だけ日本人となっても、また「仮令日本語を解せず将又日本 に忠誠ならずとも」、日本民族の血を継承した者が現地国に貢献するところが あれば母国・母国人としては満足である、とされる14。要するに、日本政府の 人間が自国民の現地国への同化を公然と説くわけである。
重要なのは、一方でこれとは反対の発言も存在することである。例えば、い ま引用してきた『在外邦人指導啓発提要』(1935 年)のなかで、在マサトラン(メ キシコ)大谷領事は、「我天長節の遙拝式に参列する者皆無に近きは寒心に堪 へず」、「斯る非国民的二世」への指導を訴える(95 頁)。「非国民的二世」とあ るように、ここでの「二世」は日本の国民意識をもつべき存在とされている。
また在メキシコ伊勢川総領事も「第二世に日本精神を吹込むことは到底望みな きが如く……」(106 頁)と、二世の「日本精神」体得が困難な状況が問題とし て提起されている。要するに、外務省内でも個別にみていくと見解に幅があ り、公言もされていた。このような不統一な発言が、やがて現地ブラジル日本 人社会を混乱させることになるのである。
そうした様相を見る前に、これまでみた外務省の基本的なスタンス――先方 が独立国家ならば同化の要求は拒否できないとする立場――とは反対の、同化 拒否論を確認しておこう。後に見るように、それは現地日本人の側からも提起 されるものだった。例えば、民間の移民事業家・永田稠(日本力行会)は『在 外子弟教育論』(同会、1932 年)のなかで次のように述べている(6 頁)。 然し同化論も時と所に依るので、特に居住国の文化と教育施設が日本以下
なる場合には、その独立国であるとその属領であるとを論ぜず同化論は愚 論である。
要するに、同化すべきか否かは先方の文明度次第とされる。もちろん、ここ でいう文明度に客観的な指標などはない。ただ、彼我の文明度を同化すべきか 否かの判断材料とする発想は、そもそも日本が言うところの「非文明国」へと 移民を送出せざるを得なくなった状況によっている。すなわち、この直前の 1924 年に日本がアメリカから突きつけられた排日移民法のインパクトである。
例えば、1931 年の拓務・文部両省主催の講習会にて岡実(東京日日新聞副社長・
法学博士)は、朝鮮・台湾に「極く僅ばかりの人間を移す、即ち植民する」こ とはできるが、「国外の土地に対する移民の自由は概ね失つてしまつて居る」、
ただ唯一の例外はラテン系統の国で、これらは「非常に劣等」である、劣等だ からこそ欧州からの移植民は多くなく、日本にとって「まだ空き地がある訳で ある」と述べている15。先に見た、現地への同化は先方の文明度次第とする発 想は、言うところの「劣等」な地域しか残されなくなった、1924 年の米国排 日移民法以後の産物と言えよう。
しかし確認してきたように、外務省の基本的な立場としては、相手国が独立 国家であれば同化の要求は拒否出来ないというものだった。先の「同化論は愚 論」と述べた永田稠の著作『在外子弟教育論』は、もともと永田が外務省から の委嘱で行ったブラジル視察の報告書で、タイトルだけを変えて一般にも刊行 された。オリジナル版にあたる『伯国教育状況視察報告』(外務省通商局、1932 年)
の前書きには、外務省通商局第三課名で「必ズシモ当省ノ所見トハ一致スルモ ノニ非ザル」との注意書きが付されている。小嶋茂氏は、この注意書きは外務 省と永田の見解の相違を示すものと推測しているが16、その通りだろう。ただ 本稿から見て重要なのは、そうした見解の相違が埋められることなく存在し続 けたこと、それがまた現地国からの同化が政策として要求されたとき、現地日 本人社会を混乱させることになる点である。以下、舞台をブラジルに移そう。
第 2 章 ブラジル日本人学校と現地領事館 1 ブラジル日本人移民社会の特徴と教育状況
まずはブラジル日本人移民の教育状況を日本人移民社会の特徴に留意しなが ら確認していこう17。ここでは考察の舞台となる 1920 年代以降の状況について 述べる。
第一におさえるべきは、日本人移民約 20 万人が日本の 20 数倍の面積をもつ ブラジルに広く分散したのではなくてサンパウロ州に集中して入植したこと、
その多くが現地ブラジル人でも近寄らない奥地=未開拓の地に集団で入植した ことである(ブラジルからすればそのような地域の開発を日本人に期待した)。よっ てそこには日本人を主体とするコミュニティーが形成された。第二は、ブラジ ルからの受入れ条件として、労働力確保の観点から家族移民という形態がとら れたことである。これは単身・出稼ぎの場合とは異なって、最初から子どもの 教育問題が発生することを意味した。そして第三は、戦前期ブラジル移民のお よそ 4 分の 3 が 1924 年以降の新しい移民だったことである18。このことは 1930 年代のブラジル同化政策が展開された際、多くの日本人の滞在期間がま だ短かったことを意味する。この点は定住意識の弱さ、子どもの多くがこれか ら言語を学ぶ年少者であったことを推測させる19。
先に述べたように、日本人移民の多くが入植した地域は奥地であったから、
現地ブラジルの学校は整備されていなかった。よって無教育状態をおそれた日
本人移民自ら(日本人会など)が学校を創設した(日本外務省・領事館ではない)。 そして多くの場合、ブラジル側に寄付・移管して公立学校化させたり、私立学 校として公認を得ることで、ブラジル人教員の派遣や、何より日本人父兄が最 も重視した日本語教育(後述)を合法的に実施しようと試みた。1920 年代段階 でみれば、ブラジルでは公認をうけた学校であれば課外において、そして 10 歳以上かつポルトガル語の能力を有する児童に対して、外国語としての日本語 教育が認められていた。よって同じ校舎を課外において日本人の日本語学校と して開校する形態も見られた20。ただ問題となるのが教師の確保で、日本語担 当の日本人教師(一世)はともかく、それ以外の正規科目を担当するブラジル 人教師は奥地ゆえになかなか根付かず、事実上、日本人教員主体の日本人学校 になりがちだった21。そして多くの学校では日本の国定教科書(国語)がその まま使用された。領事は当然、排日をおそれて「速ヤカニ之ヲ廃止スル」こと を求める立場だったから22、ここでの国定教科書は現地日本人が自ら調達して いたと見られる23。ただ当初は、日本人入植地は奥地であったためブラジル当 局の目に入ることはなく事実上、放置された。ところが、やがて排日団体によ る告発で広く状況が知られるようになると、日本人学校は日本人不同化の象徴 とみなされるようになる(後述)。なお、1936 年時点で学齢児童数は約 1.5 万人、
就学児童数は約 1.3 万人、就学率は 82%24、学校閉鎖直前の 1938 年 10 月時点 で学校数は 476 校とされている25。きちんとした統計がないのは、領事館でさ え細部まで把握できるわけではないからである26。
学校の実像を見ておこう。調査対象は一部にとどまるが、在サントス日本領 事館による 1937 年頃の「私立日本語0学校」の統計を見ると27、学校名は地名を 冠した「〇〇小学校」や「〇〇日本人0小学校」という形で確認できる。この場 合、日本語学校・日本人学校は置換可能な表現としてあったことになる。教師 は一校あたり 2 〜 10 人強で日・伯双方で構成されるが、この統計では多くの 学校で伯国人のほうが多い(領事館の指導によるものだろう。後述)。学年はほと
んどがブラジル公立学校(4 年制の集合学校=グルッポ・エスコラール)より長い 6 年制だが、学校によっては在籍者ゼロの学年もある。児童数は一校あたり 30 名弱〜 100 名強まで、またこの統計では児童は「日系」「伯系」「日生」との分 類で把握されている。おそらく「日系」とは現地生まれで伯国国籍をもつ日本 人二世、「伯系」とは純粋なブラジル人児童、「日生」とは日本生まれで日本国 籍しか持たない児童を指すと思われる。数をみると「日系」が最多だが「日生」
もそれなりに多く、「伯系」は少ないが大半の学校で在籍者がいる。小学校建設・
改築にあたっての寄付者一覧のなかに、ブラジル人らしき名前が確認できる事 情もこれで理解できる28。日本人学校とも日本語学校とも称された学校だが、
公認を受けた学校であればブラジル人児童もいた。ただそれでも日本人・日本 語学校と呼ぼうとした日本人移民たちの心情も読み取るべきだろう。
よって日本語教育が何より重視されたのはもちろんだが、一方で現地で生活 するうえで必要なポルトガル語の授業も行われた29。また天長節を祝いつつ現 地ブラジルの行事も行われた。当時、日・伯どちらに比重をかけるかによって
「日主伯従主義」「伯主日従主義」などと表現されたが30、両者の間でバランス をとろうとした点では共通する。その意味で、その後到来するブラジルからの 同化政策は、「日本」そのものの消去を求める点で次元が異なっていた31。 さて、その「日本」を象徴するものとして父兄が最も重視していたのが日本 語であった。ここで念頭におくべきは、先に見たように子どもたちの多くが未 だ幼少期、これから言語を学ぶ年代が多かったことである。そのような子を持 つ親世代(一世)を最も悩ませたのが、子どもたち=二世が日本語を喪失して いくことであった。所謂「準二世」に属し、父が教師であったという半田知雄 は、親世代の心情を次のように描写している32。「自分たちの子孫が日本語習得 の機会を失うことによって、自分たちから離れていくかもしれないという不 安……「外人」と同じような人間になってしまうことは、民族の滅亡だとさえ 感じたのである」。確かに、現地ポルトガル語をいつまでも駆使できない親世
代からすれば、子どもたちが日本語をうまく話せないことは家族内での意思疎 通が不全になるだけでなく異国の地で孤立すること、一代限りで自身という存 在が消滅してしまうと感じられた。さらに重要なのは「言葉ばかりではない、
精神が失われるのである」と言うときの「精神」で、そこでは「だれが親孝行 を教えるか」といった家族道徳が挙げられている点である。移民地においては
「家長の命令一下、全家族員が協力して働く」、だとすれば親孝行に代表される 家族道徳は文字通り生活=生存に関わるものであった33。日本語はそうした家 族関係・道徳の基盤なのである。
考えてみれば、ブラジル版『日本語読本』編纂に関わった一人、佐野保太郎
(文部省図書監修官)が述べていたように、「若し自然のまゝに捨てておくと、実 際彼等の日本語がめちゃ なものになつてしまふ」34といった状況は、日本 国内にはない環境だった。そうした環境では、修身以前に兎にも角にも日本語 が重要とされた。ブラジルで用いられた「日本精神」なる言葉への多義的な意 味合いについては機会を改めて検討するが、日本語は一世たちにとってはまさ しく自らの生存・存在に関わるものであったがゆえに、日本語教育の禁止は衝 撃を与えることになったのである。
2 現地領事館の指導
ここでは日本政府との関わりを見るために、日本外務省の出先機関について 確認しておこう35。1940 年段階でみると、リオ・デジャネイロに外交機関とし ての大使館があるほか、現地日本人の生活に関わるものとして総領事館がサン パウロに、領事館がサントスなど 6 箇所に置かれている(分館含む)。総領事・
領事は数年サイクルで日本から派遣され帰国していくが、他方、書記生や通訳 官クラスで 10 数年にわたって現地勤務を続ける存在もいる。なかには退官後 もブラジルに留まり、事業を興すかたわら現職外交官と現地日本人を橋渡しす る存在もいた。例えば多羅間鉄輔・古谷重綱はいずれも元外交官で、この後見
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る伯国内の教育指導機関=「普及会」の幹部に就任し、大戦勃発後も現地にと どまり続ける。各領事館レベルでの詳細な陣容までは確認できないが、邦字新 聞や在伯領事会議の状況をみると、教育事務を主として担うのはブラジル全体 でも副領事クラスで 1 名確認できる程度である(例えば、菱川敬三・在サンパウ ロ総領事館副領事)。
その代わりブラジルの場合、間接的ながら領事館による現地日本人の教育指 導機関が存在した。現在のところ他の移民国で類似の機関は確認できない。ブ ラジルの場合、約 20 万人もの日本人移民がいた点もさることながら、1920 年 代以降、渡航費まで援助して行政として送り出したという事情があるからだろ う。教育指導機関の名称は時期によって変わるが、1927 年、赤松祐之(在サン パウロ総領事)の呼びかけで創設された「在伯日本人教育会」を嚆矢とし、そ の後、「サンパウロ日本人学校父兄会」(1929 年)、「ブラジル日本人教育普及会」
(1936 年)、「ブラジル日本人文教普及会」(1938 年)と名称変更され36、最終的に は日伯国交断絶前夜の 1941 年 9 月に解散したとされる(以下、「普及会」で統一 する)。普及会の性格については、佐藤信太郎(外務書記官)が「総領事館の代 行機関として将又伯国子弟教育の中枢機関」37と表現している点に端的に示さ れる。「代行機関」とされるのは、日本の官憲が現地日本人(子弟)の教育に 関与することは、内政干渉との疑念を持たれるからである。ある程度まとまっ た形で全容が確認できる 1935 年度の「事業報告」によると、12 名と小さな組 織だが、活動内容は以下のようなものとされている38。
イ、一般庶務(各種学校補助金ノ下附申請及ビ受領手続、学用品ノ供給及ビ取扱 事務、教師ノ就職斡旋、各地学校財産ノ保管、一般教育行政ニ関スル注意指示、学 童ノ体格検査、修学旅行ニ関スル周旋案内、学校事情調査諸表作成)/ロ、教科 書編纂/ハ、正教員養成/ニ、育英事業/ホ、サンパウロ学院経営 イにあるように、日本政府からの補助金は普及会を通じて各学校に配分され た。また、当初からではなかったが教員人事権も持つようになる。そのほか、
日本の国定国語教科書に代わるブラジル版『日本語読本』などの編纂(ロ)や、
育英事業(ニ)もおこなった。この場合の育英とは、二世にブラジルの高等教 育を受けさせ、日本人移民社会でのリーダーの養成を想定したものであった
(主として教師、ほか医師・法律家)39。
先の佐藤信太郎(外務書記官)は、日本政府が間接的ながらも関与すること について、教育施設が不十分なブラジルでは放任すれば「近代文化に浴せざる 第二世を生じ著しく其の素質を低下し、移住奨励の趣旨を没却するに至る」と 説明している40。ここでの「移住奨励の趣旨」の直接的な説明はないが、子ど もの「退化」を憂えて現地に腰を据えない、移民事業が根付かず後継者も育た ないといった事態を想定していると思われる。とはいえ、以上のような日本政 府の関与を、外国下で日本臣民を養成しようとしたと解釈するのは早計であ る。後述するように、そのように見たのは現地排日論者だったとしても、実際 それを行動に移せば排日を招き、新規移民の受け入れ停止となりかねないこと はそれ以前の北米で経験済みだった。日本政府・領事館からすれば、現地日本 人が排日を惹起させずに事業を維持させ、また移民送出が継続されることに最 大の眼目があったのであり、その意味で必要な「指導」であった。
したがって領事館、その下請機関としての普及会は、現地日本人が求める日 本語教育だけを考えていたわけではない。1933 年、サンパウロ州政府によっ て私立学校の外国語教員にはポルトガル語能力の証明を必要とするとされる と、普及会(このときは父兄会)は日本人教員を対象としたポルトガル語の講習 会を開催している。この講習は毎年行われ、講師の手当や教科書代などの経費 は総領事館が支出した。また、排日の火種とされる未公認学校に対しても公認 の手続きをとるよう指導し、1936 年には、普及会を通して下付される政府補 助金は公認学校に限定するとの方針が示された41。
このように現地領事館は、現地との摩擦を極力回避し、移民事業を維持する ことこそ第一義的な行動原理とした。1935 年 6 月、在サンパウロ総領事館は『ブ
ラジル公民読本』なる冊子を作製してい る(【資料】)。ブラジルの国制など平易 に、また淡々と解説した読本だが、奥付 も値段も記されていないから現地日本人 に無料で配布したのだろう。まさしく
「ブラジル公民」としてのガイド・ブッ クを日本の出先領事館が作製し、現地日 本人に配布したのである。
次章では、日本語教育・日本人学校の 展開を見ていくが、領事らからすれば、
その指導は現地ブラジル側の動向を意識 しながら行われた。しかしそうした遠慮 がちな態度は、現地日本人の側からの不 満を生みだし、日本主義的な教育へと傾 斜させる素地を形成させるのである。
第 3 章 第二世教育方針をめぐって
――日本人学校閉鎖(1938 年)まで――
1 初期方針――1920 年代後半――
1924 年の米国排日移民法の経験から、ブラジルでの日本人の同化問題は当 初から意識されていた。1927 年 1 月、海本徹雄(在サンパウロ副領事)は視察報 告書のなかで、北米での排日が日本人の不同化問題に由来していたことに触れ ながら、「『ブラジル』ニ於ケル同化トハ何ヲ意味スルヤ」との考察を行ってい る(以下、引用は 830 〜 833 枚目)42。
しかし結論は、日本人は無条件に現地へ同化すべきと説くものではない。そ
(筆者蔵)
【資料】
こには第 1 章で見たような、ブラジルへの同化=退化とする認識が明確に存在 していた。海本副領事によると、在伯邦人が多く居住する農村部は「原始的テ アリ、非文明的テアル」、日常接する外国人も「無知蒙昧ナル伯国人」もしく は「低級ナル欧洲各国移民」である、よってそれらへの同化は「優秀ナル大和 民族ノ血液ヲ退化サスモノニ外ナラナイ」。したがって海本によれば、在伯同 胞は宗教・国語・風俗習慣等の「形式上、表面的ノ模倣同化」にとどまるべき で「決シテ精神的内面的同化テハナイ」。むしろ「大和民族ノ有スル長所」を 保持し「我等ヲ範トシセムル」覚悟と自信がなくてはならない、という。
重要なのは、具体的な同化のあり方として、宗教・国語・衣食住など風俗習 慣を伯国と同じくすること、などと並んで、「伯国ニ対シ忠良ナル臣民トナリ、
日本トノ政府関係ヲ切断スルコト」ともされている点である(832 枚目)。つま り、精神的同化を拒否して大和民族の長所を維持することと日本帝国臣民とし ての意識を持つことは同義ではない。引用したように「伯国ニ対シ忠良ナル臣 民トナリ」と断言され、それに必要な資質として「大和民族の美質」の保持が 説かれている。したがって海本は日本語教育にどこまでも固執はしていない。
海本は、これまた先行するハワイでの日本語学校排斥問題に言及しながら、ブ ラジルでも「排日屋ニ利用サレテ、在米第二世ノ市民権剥奪運動ノ好材料ニ供 セラルル時ノ来ルコトヲ知ラナイノダ」と述べる(869 枚目)。そして「自分ハ 主義トシテ、第二世ニ国語〔日本語〕教育ヲ施スコトニ反対テアル」、しかし 父兄の考えが改まるまではやむを得ないとする立場であった(878 〜 879 枚目)。 こうしたスタンスは、領事らによる現地日本人の指導のあり方にも反映され る。1928 年 11 月、海本徹雄(総領事代理)を代表に、日本外務大臣あてに報告 した現地邦人指導方針によると、①未公認学校には至急、公認の手続きをとら せること、②日本語教育は法令内で行わせること、あわせて③伯国人教員の派 遣を当局に要請すること、とされていた43。この指導方針は、実際にいくつか の日本人学校が法令違反を犯していることが判明し、サンパウロ州教育局長か
ら「日本人ノ如ク勝手ニ学校ヲ建設シ日本語ヲ教授スルコトハ承認シ得ス」と の指摘をうけたことによるもので、要するに摩擦=排日回避を第一義とする観 点からの「指導」であった。
とはいえ現地日本人の側からすると、こうした伯国寄りの教育方針は不満を 蓄積させるものだった。領事館の立場はやがて「伯主日従主義」として定式化 されるが、その代行機関=父兄会(普及会の前身)に属する者からも「伯主日 従主義」は明確に批判されている。1931 年 3 月、父兄会の木村末喜(書記長)
は総領事あての意見書44のなかで、未発達な「伯国ノ教育行政ニノミ依頼シ居 リテハ我同胞ノ前途ハ退化ト堕落トアルノミ」、米国のように「文化ノ進ミタ ル国柄」ならまだしも、ブラジルのように「非文化的国情」のもとでの「伯主 日従主義ハ不可」である、と強く主張している(同 12 〜 13 頁)。次節で見てい くように、こうした不満は排日への対応として領事館が「伯主日従主義」へと 傾斜していくほど、蓄積されていくものだった。
2 排日の本格化と「伯主日従主義」――1935 年前後――
ブラジル側の排日の動きはおよそ 1933 年頃から始まる。以下、その様相45 と日本側の対応について見ていこう。まずは当時のブラジルの状況から確認 する。
19 世紀前半に独立したブラジルは、19 世紀後半に帝政から共和制に移行し たものの州の権限が強い分権型が続く。ところが 1930 年、世界恐慌で各地の 有力者が凋落するなか革命を通して登場したのがバルガスである。バルガスは 各州の権限を中央政府に一元化し、いわばブラジルでの国民国家形成を目指 す。具体的には資源の国有化などを行う一方で、外国人移民の制限と既存移民 の同化を求める一連の「ナショナリザソン政策」を推進した。その後、バルガ スは、1937 年にはクーデターを起こし独裁体制を敷く。そして翌 1938 年の外 国語教育の制限強化によって、事実上、日本人学校は壊滅状態となる。
次にブラジル日本人移民の側からみてみよう。欧州移民に続いて後から入り 込んだ日本人移民は、1930 年代になると最大多数の入移民民族となってい た46。ただ当初は多くは農村奥地に入っていったから目立つ存在ではなく、法 令に違反する日本語教育(未公認学校、日本人のみの教員で日本語のみの授業、10 歳未満児童への日本語教育など)も見逃されていた。そうしたなか、日本人を不 同化民族として摘発し攻撃していったのが、排日団体アルベルト・トーレス協 会であった。同協会は日本人移民の不同化性を告発し、現地ブラジル新聞に通 報し記事にさせた。1934 年頃になるとブラジル新聞紙上では排日記事であふ れ、それは日本語に翻訳されて邦字新聞でも報じられるようになった。そうし た不同化の象徴とされたのが二世への日本語教育を行う日本人学校であった。
外務省本省もそれに関する情報を収集し『第二世教育問題』と題するファイル を作製しているが、それは 1935 年から開始されている。そのなかからひとつ 拾うと、1935 年 2 月の現地報道として、児童は小さな頃から「日本思想」が 注入され日本語ばかりを使う、ブラジル人を「ガイジン」「毛唐」と称し日本 のほうに愛着をもっている、といった具合である47。確かに【表 1】で確認で きるように、1933 年頃、日本人移民の入国数はピークに達し、それに合わせ て 小 学 校 数 も 1932 年以降のわずか 4 年 で 2.5 倍近くも増加 している。後述する 1934 年 の「 二 分 制 限法」で新規移民の 割当は 1 割にまで激 減するのだが、既に 入国した子どもたち が育っていくから就
【表 1】 小学校数推移
小学校数 移民
入国数
在留民 総人口 1932 年 2 月 170 1931 年末 5,601 108,918 1933 年 2 月 243 1932 年末 11,686 114,519 1934 年 2 月 275 1933 年末 24,406 138,925 1935 年 2 月 345 1934 年末 21,756 160,681 1936 年 2 月 437 1935 年末 9,572 170,253
【出典】「伯国邦人子弟教育ト其批難並ニ父兄会改織ママト其 事業等ニ関スル調書」(1936 年 8 月、『救済関係雑件/
伯国』17 巻)2 頁。
学者数・小学校数の増加は止まらない。よって現地排日も止まらない。
こうしたトーレス協会の通報をうけ、1936 年 9 月にはサンパウロ州教育局 長アルメイダ・ジュニオールが日本人入植地の小学校を直接視察する。その状 況はブラジル側の新聞で報道され、さらにそれが日本語に翻訳され邦字新聞や 外務省本省にも届けられた。それによると日本人児童・教師とももっぱら日本 語を使用し、伯人教師のほうが日本語を学んでいる、すなわち「同化させ様と する者が、反対に同化させられ様としてゐる」48などと報じられた。ジュニ オール局長は、安東義喬(普及会理事長)との対談で、「我々ブラジル人側から 見ればブラジル国内に日本の一部分を見るやうな感じであり、之は放棄し難い 問題である」49と直接伝えている。
以上のような、不同化を根拠とした排日は日本側からすると、1910 〜 20 年 代に北米で経験済みであった。しかし北米での場合と異なっていたのは、1930 年代という歴史的タイミング、すなわち日本本国のアジアでの対外行動とも関 わっていた点である。ブラジルから見れば満洲事変後の日本は弱国ではなく軍 事大国であり、ブラジルへの領土的野心をもつ侵略国としてイメージされた。
そして日本人学校こそはその危険な分子をブラジル内で養成するものとされ た50。さらに 1936 年に日本が日独防共協定を締結すると、日本人移民はブラジ ル内のナチス=ドイツ人移民と同類として括られるまでになった。
では、日本領事館側はこのような状況に対してどのように対応したのか。
1934 年 2 月、在伯領事館・分館に勤務する現地外交官 10 名弱が在サンパウロ 日本総領事館に集い、「対伯移民政策ノ研究」と題する検討を行っている51。そ こでの教育問題の箇所をみると、従来「伯主日従主義」で通してきたが不徹底 のため排日の火種になっている、よって改めて「伯主日従主義」の徹底を図る、
とされている。この場合の「伯主日従主義」とは、「要スルニ伯語教育ヲ主ト シ日本語教育ハ補習的、従属的ノ教育ヲ施スト云フコトニ外ナラナイ」とされ
るものである(以上、1035 〜 1036 枚目)。注目すべきは、この場合、では「何ノ 程度迄日本語ヲ補習教育トシテ教ヘルカ」についての議論である(1037 枚目以 下)。ここには日本語教育はあくまで「従」=補充でありながら、それでもどの ような意味で日本語教育が必要なのかの認識が示されるはずである。【表 2】
はその意見を簡潔にまとめたものだが、見ての通り、親子間の意思疎通、就職 するうえでの便宜、日伯国際親善といったもので占められ、日本語=「国語」
を通じた国民精神の涵養52といったものは思ったより出てきていない。
こうした「伯主日従主義」路線は、1934 年 3 月の林久次郎(在伯大使)によ る「対伯移民政策論」53としてまとめられる。それによれば、「我移植民子弟ノ 教育ハ伯国市民タルヲ目標トシテ行ヒ、其ノ補充トシテ母国ノ長所ヲ採リ教習 セシムルコトヲ可トス」と「伯国市民」の養成が目標と明記されていた。反対
【表 2】 日本語教育の必要性についての意見(1934 年 2 月、サンパウロ総領事館にて)
原口事務代理(バウルー領事館)
①大半は農村居住で両親の多くは伯語を解さない。②農村のブラジル小学校は 2 年で、
これでは伯語も十分に話せない。③日本語をきちんと学習しなかったため親と思想の 相違を生じ、後悔している者が多い。
斎藤主任(サントス出張所)
①日本語を理解できず日本文化を解する機会が無いのは本人の損失。②将来、就職問 題など伯語だけでは困難。
内山総領事(サンパウロ総領事館)
①精神的民族的意味よりすれば必要でもあり希望でもある。②経済的発展の立場より、
多数の言語を駆使できるほうがよい。③父兄との問題、家庭の円満。④知識向上には 二言語のほうが有利。⑤日本との連絡より見て便利。⑥伯国内の日本人間の連絡。
海本副領事(サンパウロ総領事館)
①親子の家族生活上の必要。②日伯両国の間に立つ職業を求めるのが得策。③日本語 通じて日本を理解する者が多いほど両国親善になる。④日本文化の紹介。⑤南米北米 問わず、民族的特性を活かしての在住国文化への貢献、それこそ在住国市民としての 責務である。
【出典】本文にて注記した。
に父兄の感情的希望で「母国式教育」を主とすれば「子弟ノ将来ニ不利」にな るだけでなく、伯国国是にも反し「我移民政策ニ累ヲ及ホス」とされる。その 後、林大使の文書は自ら議長を務める在伯領事会議で検討され、以下のような
「結論」として確認されるに至る。すなわち「将来伯国人トナルヘキ子弟ノ教 育ヲ伯主日従主義ニ依ルコトトシ、之カ徹底ニ努力スルコト」54。重要なのは、
この「伯主日従主義」からすれば日本語教育はどうしても行わなければならな いものではなかった点である。本章 1 節でも同様に述べていたが、海本徹雄
(在サンパウロ総領事館副領事)は「日本語教育ハ伯国法ヲ犯シテマテ行フ必要ナ キモ、適法ニ手続ヲ経テ行フハ差支ヘナク別ニ中止セシムル必要ナシ」55と、
法を犯してまで行う必要はないが中止させるほどでもない、との認識を示して いる。
このような「伯主日従主義」は邦字新聞を通じて一般に伝達される。内山岩 太郎(在サンパウロ総領事)による告知「排日の時局に直面し在留同胞に告ぐ」56 によれば、「永住主義」とならんで「伯国第一主義」が掲げられ、「伯国第一主 義は常に日本第二主義を意味する」、したがって「日本語教育の如きも伯国国 法の許す範囲に於て」行うべきもの、とされるほか、事細かな指示として、ブ ラジル国旗国歌に敬意を表すること、「日本文字」の看板はなるべくローマ字 に書き改めること、葬式や酒宴の習慣に注意すること、などが挙げられて いる。
とはいえ、領事たちも教育面での「伯主日従主義」が実際には困難だったこ とも認識していた57。海本副領事は、伯国人教員が得難い事情で「巳ママムヲ得ス 日主伯従主義トナル傾向アルハ遺憾ナリ」と述べ、ブラジル側が学校を整備し ない限り「日本語教育ヲ止メシムルコトハ不可能ナリ」とも言う。内山総領事 も、伯国人教員の不在ゆえに「伯主々義モ実際問題トシテハ相当困難ナリ」と 認めている。よって伯主主義も困難な実態が改善されない限り、日本人不同化 論=排日もやまない。
そうしたなか、衝撃を与えたのが 1934 年 6 月の「移民二分制限法」であった。
この措置は各国過去 50 年間の入移民数の 2%だけを今後新規移民として受け 入れるというもので、日本の場合、1930 年代にこそ最大多数(2 万数千余)を ほこっていたが、過去 50 年の合計となると大きく落ち込む。よってこの措置 で、日本人移民の 1 年あたりの割当は約 10 分の 1(2,800 人)程度にまで削減 された。現地日本人からすれば新規移民は母国日本からの後続部隊であったか ら、それが極小化されることは異国の地に取り残されることを意味した。
二分制限法をうけ 1935 年 3 月、在伯大使は各領事あてに当面の対策に関す る方針を通知している。その方針の基調は従来と変わらず「伯主日従主義」で、
むしろその確認であった。そのなかに「第二世教育方針」という項目があり、
これまで日本政府が「邦人子弟教育」に関する補助を与えてきた理由について、
以下のように述べられている。
右ハ決シテ純日本式教育ヲ施スヘシトイフ意味ニアラサルハ勿論ニシテ、
要スルニ日本民族ノ美点ヲ保持スルト共ニ将来伯国社会ニ於テ伯人ト伍シ 十分活動シ得ル有為ナル人物ヲ養成セントスルニアルハ今更喋々ヲ要セサ ル所ニシテ……58
ここでは「純日本式教育」との意味づけは明確に否定され、あくまで「日本 民族ノ美点」を通じた伯国への貢献が説かれている。そして、前者はともかく 後者については、広く周知されるものだった。例えば 1936 年 10 月、邦字新聞 上には「伯国生れの小ママ供はブラジル国民に/日本語教育は民族性の発揮の為」
と、タイトルに簡潔明瞭に示される記事が掲載されている。中身をみても、
「日本民族の偉大性」を発揮させるべく日本語教育を施し、もって「優良なる 伯国々民たらしむる」ことが重要と主張されている59。この少し前、1936 年 3 月に父兄会は「ブラジル日本人教育普及会」に名称変更されるが、その定款第 2 条にも「本会ハ在伯日本人子弟ニ教育ノ便宜ヲ與ヘ善良ナル伯国市民タラシ
ムルヲ以テ其ノ目的トシ、之ニ必要ナル事業ヲ行フ」60と、「善良ナル伯国市民」
の養成が正面から謳われている。排日のなか、その対応として「善良ナル伯国 市民」「伯主日従主義」が前面に押し出されたわけである。
もとより「伯主日従主義」という言葉は古くから、かつ北米など他の移民地 でも「米主日従主義」といった具合に使用されてきた、通俗的な表現であった。
重要なのは標語レベルならともかく実質までが求められるようになると、「伯 主日従主義」に対する不満も持ち上がるという点である。前述したように 1936 年 9 月、サンパウロ州教育局長による日本人学校視察が行われると、総 領事館では各領事ほか普及会会長が集い、再びだが従来通りの「伯主日従主義」
の徹底が確認され、邦字新聞でも報じられた61。ところが変わっていたのは読 者=日本人移民の側の反応だった。邦字新聞には「憤慨生」と称する読者の声 として、「日本語教育廃止に類する伯主日従主義は根本的に誤つてゐると思 ふ」62との言葉が掲載された。普及会は決して日本語教育廃止を提起したわけ ではなかったが、この読者によると「伯主日従主義」は日本語教育の「廃止」
に類するものと理解された。排日下での「伯主」は、伯国側に迎合し自ら「日 本」を消滅させる立場にほかならなかった。高揚する排日という現実のなかで の「伯主日従主義」は「日本」を消去するものとしての意味を帯びるわけである。
しかし、先に挙げた邦字新聞の見出しにも掲げられていたように、「伯国生 れの小ママ供はブラジル国民に」なることは一般に承知のことだったはずである。
しかしそのことが直ちに、自分たちの子どもが自分たちと同じ日本人でなくな るとの認識までには至っていなかったと思われる。事実、先の邦字新聞記事を よく読むと、大使が内部文書(前掲注 58 の史料)で述べていたような、「純日本 式教育」としての意味づけを否定する言及まではなされていない。前普及会理 事長の安東義喬(日伯拓殖株式会社)ですら日本外務省での座談会にて、定款に ある「善良なるブラジル人を作る」との規定は「唯々書いてあるだけであつて、
実際さういふやうに考へて居らぬ人も少な〔くな〕かつた」と証言している63。
まさしく〈郷に入ったら郷に従う〉式で「善良なる伯国市民」は、平時は標語 レベルでとどめてよいものだった。しかしながらその内実が求められ、自身の 子どもが日本人であることまで否定されるようになると、「伯主日従」といっ たときの日・伯の間で緊張が生まれる。こうした状況のなか、日本から派遣さ れた石井繁美(外務省嘱託)なる人物の登場で、「伯主日従主義」の超克が図ら れようとするのである。
3 石井繁美(外務省嘱託)の普及会改組(1937 年 7 月)
第二次大戦後の 1949 年、サンパウロで刊行された香山六郎編著『移民四十 年史』(私家版)は一部不正確なところがあるが、当時、現地に居合わせた人々 によって執筆されたもので貴重な情報が多く含まれている。同書 307 〜 308 頁
(執筆は安藤潔)からは以下の点が確認できる。
① 1937 年に日本から派遣されてきた石井繁美(外務省嘱託)が普及会改組 を行い、それまでの「邦人子弟に日本人の美点をつたえ、善良なるブ ラジル人につくるという行き方」から「日本語教育の徹底と日本精神 の涵養」を目的としたものへと方針転換させた。
② 石井が改組した普及会にあって「地方支部主事」として各地の日本人教師 を指導したのが、同じく日本から派遣された数名の小学校教員であった。
③ 彼等はブラジルの事情に疎く「ひたすら日本的な気分で二世教育を指導 しようとする傾向が強」く、「ブラジル永住を理想としている一部のコ ロニヤ派」からは喜ばれなかったが、コロニア〔colonia;日本人社会〕
にも広がってきた「フワッショ的な国粋気分から邦人社会の大部分は普 及会の国家主義的精神に共鳴するようになつた」。
キー・パーソンとなる①の石井繁美(外務省嘱託)については、『移民四十年史』
で「佐賀県出身」の「葉がくれ武士の精神を理想とした」人物と描かれるほか 不明であるが、外務省の文書では南米移民を管轄する亜米利加局第二課の嘱託
で、担当は「予算事務」であり教育とはされていない64。管見の限り、ほかの 場で教育に関わっている経験は確認できず、教育については素人であったと見 られる。続いて②の各地の日本人教員たちを指導した、同じく日本から派遣さ れた小学校教員は当時「外務省派遣教員」と呼ばれた存在で、これは石井が来 伯する少し前の 1935 年から始まる。外務省の文書によると「在伯邦人小学校 ニ於ケル中堅教員養成ノ目的」で東京府公立小学校訓導から選定され、休職の うえ伯国に派遣するとされた65。確認できる限り、1935 年以降、毎年 3 人ずつ 第 3 回まで続いた66。「要項」によると、彼らは日本の小学校で 10 年以上勤務 した教員のなかから選ばれ、渡伯後、総領事の監督を受けながらポルトガル語 検定試験の合格(「伯専」=「邦語専科」の免許取得。第 2 章第 2 節参照)が求められ、
その後、伯国内の日本人小学校に赴任する。と同時に、普及会の「学事指導員」
(=前掲②の「主事」)として、他 の日本人教員を指導する任務が 与えられていた67。確かに【表 3】
で現地日本人教員の資格をみる と、伯国の正教員資格を持つ者 はほとんどいないのはともか く、日本の教員免許を持つ者も 2 割程度で、高学歴だが教育経 験を持たない者で占められてい た。派遣教員の任務は、そうし た教員たちへの指導であった。
そして一応、「当国官憲ヨリ其 ノ挙動ニ付睨マレ居ル派遣教 員」68と見られる存在ではあっ た。
【表3】 「在伯邦人小学校教員資格別調」
(1934 年4月1日現在)
邦人 伯人 伯国正教員 師範出 3 49
検定出 16
本邦正教員 師範出 15 検定出 38
伯国師範半途退学 8
本邦准教員 11
伯国専門学校以上卒業 1
本邦専門学校以上卒業 58
伯国中等学校卒業 14
本邦中等学校卒業 143
其ノ他 53 83
合計 321 171
【出典】亜米利加局〔第二課〕「昭和十一年 度予算説明資料」(1935 年8月、『救済関 係雑件』第5巻)87 頁。表現は原文のまま。
以上を総合させると、日本から派遣され、しかしすぐには経歴が判明しない ようなレベルの石井繁美(外務省嘱託)および 30 代半ばの小学校教員数人が、
300 名近くの在ブラジル日本人教員を指導する立場にあったわけである。
重要なのは、先の『移民四十年史』の指摘③にあったように、「国家主義的 精神」が石井繁美や派遣教員といった外部=日本から持ち込まれ、一部とは呼 応しつつもブラジル内の永住派とのあいだで意識のズレが存在していた、とさ れる点である。永住の決意なるものを測るのは実は難しいのだが、少なくとも 現地に拠点を置き続けようとする立場からすれば、排日を招きかねない「〔日 本の〕国家主義的精神」の主張はストレートにはできないのである。
では、石井繁美の活動を 1937 年 7 月の普及会改組を中心に見ていこう。改 組にあたっては、石井や現地領事らで構成された「小委員会」がまずは原案を 作成し、それが領事会議に提出・討議される形をとった。主要改正点を箇条書 きした文書69および領事会議での説明70から、改組の輪郭は以下にまとめら れる。
①これまで普及会の活動は不活発で、実際には領事館が動いてきた。しかし それでは伯国側からの疑念を生むため、「領事館ノ厄介」にならないよう「民 間ノ独立セル会」として活動させる。②具体的には、学校経営者を会員として 組み込み事業に参画させ、会費を徴集して財政的基礎をつくる。③ただし「未 ダ官辺ノ監督」が必要で、普及会会長は総領事の推薦、大使の承認を要する。
そして、会長のもとに事務を掌理させる「事務総長」を置き(その後、「事務長」
に改称)、これも総領事の推薦とする。④各地の学校との関係としては、地方 6 ケ所に「支部」を設置し、指導員として「地方主事」を置く。さらにその下に 有力な教員から選ばれた「学務委員」を置く。
普及会がそれまで有名無実であったことは以前から問題とされており71、こ の改組の少し前の 1935 年段階では、外務省本省で別の計画が立てられている。
比較を通じてここでの改組の特徴をクリアーにしよう。簡潔に述べれば、外務
省本省の計画はむしろ普及会を縮小させ、代わりに「学務官」を設置する、い わば直接的なテコ入れ計画であった。しかしこれについては現地領事側から反 対される。すなわち「伯国ニ於ケル邦人教育ノ為、態々日本カ学務官ヲ置クト ナルト対外関係上面白クナイ誤解ヲ来ス虞カアル」、よって「父兄会ニ配属シ 其ノ方面ノ仕事ヲスル立前ニシテ貰ヒ度イト思フ」72。実際、この通りとなる。
すなわち 1937 年の改組では、普及会(前掲史料では父兄会)を民間団体化かつ 組織を拡大させ、それを領事館が監督する。そして新たに置いた「事務長」が 普及会を内部からコントールする。【表 4】で改組後の普及会の陣容をみると、
改組前の 12 名から巨大化し、各学校との間でヒエラルヒーを構成する仕組み となっている。会の方針を決める評議員には元外交官の多羅間鉄輔・古谷重綱 のほか現役教員・教員経験者が就任しているが73、実質的な核はやはり「事務長」
そして「主事」である。「事務長」には石井繁美(外務省嘱託)が、その手足となっ て各地の教員たちを指 導する「主事」には全 て「外務省派遣教員」
(葛岡唯雄、五十嵐重虎、
九鬼隆)が就任した。
以上のように、ブラ ジル内でありながら日 本の行政機構さながら の系統立った組織が創 られた。事実、領事会 議では「餘リ蜘蛛ノ巣 ヲ張ル様ニ組織立ツテ ヤルコトハ如何カト思 フ」との懸念が示され
【表 4】「ブラジル日本人教育普及会」役員一覧
(1937 年 7 月現在)
会 長 古谷重綱
理 事 多羅間鉄輔、菅山鷲造、藤田克巳、矢崎節夫
評議員
安瀬盛次、岩本一郎、君塚慎、佐藤清太郎、下 江椋太郎、菅山輝吉、菅山鷲造、多羅間鉄輔、
中野巌、芳賀仁吉、花城清安、馬場直、藤田克 巳、古谷重綱、日沖剛、間崎三三一、村上誠基、
矢崎節夫、安田良一、脇山甚作、(五十音順)
事務長 石井繁美
主 事
五十嵐重虎(第一支部・第四支部)
九鬼隆(第二支部・第三支部)
葛岡唯雄(第五・六支部)
1.『救済関係雑件/伯国』19 巻より。
2. 二重下線が元外交官。一重下線が教員(経験者)(根 川書 120 頁)
3.主事傘下の「学務委員」については省略した。