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社会学部紀要 44☆/表紙(44)記念号(多い)

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は じ め に

本年 2013 年(平成 25 年)は,観測史上初めて という異常気象が日本各地で発生した。猛暑,集 中豪雨,竜巻,台風,そして大雨による濁流が伊 豆大島の町を襲った。一つの集落が町ごと跡形も なく土砂に埋まってしまった。今から,52 年前, 同じことが伊那谷に起こっていた。 1961(昭和 36)年,6 月 26 日から 28 日にかけ て,長野県南部を集中豪雨が襲った。梅雨前線が 台風 6 号に刺激されて,活発になり,近畿から東 海を経て,27 日には長野県南部の天竜川を飯田 市から伊那市方面に,豪雨をもたらした。飯田測 候所では,27 日には 325 mm に達している。26 日の降り始めから 28 日午後 2 時までの連続降雨 量は 500 mm になり開設以来の最高記録に達し た。南アルプス西側,中央構造帯の崩れやすい花 崗岩の地質,戦中戦後の森林伐採などもあって, 山間の急斜面の土砂は崩れ,土石流,「山津波」 となって,谷間の村々を襲った。ふだんは水害と は無関係と思われていた村がことごとく飲み込ま れてしまった。飯田市伊賀良(いがら)地区を荒 らし,松川町野底川を奔流化し,天竜川の東岸を 北上し,大鹿村北川を壊滅させ,中川村四徳を全 村飲み込んだ。さらに駒ヶ根市新宮川支流大洞地 区を濁流が襲い一家 5 人がその犠牲になった。さ らに天竜川本流を氾濫させ,長谷村奥浦を押しつ ぶして,諏訪方面に抜けていった。大鹿村では, いったん,雨が上がり,豪雨は峠を越えたかと思 われた 29 日,午前 9 時 10 分,中心地の西側にあ る大西山が,大きな壁のような塊となって崩落 し,大量の土石流が小渋川をせき止め,住宅地に 流れ込んで,多くの命を奪った。 これが,伊那谷三六災害といわれ,その記憶を 伊那谷の人たちは,「忘れない・忘れられない記 憶」として後世に受け継ごうとしている。半世紀 以上が経過した今,人びとの記憶は,時間の経過 とともに薄れる。ある意味では風化しないと,そ の後の自分の人生を歩み出すことができない。し かしそれは「忘れてしまっている」ことではな い。その記憶が悲惨であればあるほど,生き残っ た者にはいろんな思いが錯綜し,なかなか言葉に ならないのである。しかし伊那谷の人びとは,自 分の経験を文字として残してきた。「声」として 残してきた。 2011年は三六災害 50 年目に当たる。折しもそ の年 3 月 11 日には,東日本大震災が発生した。 日本人の多くが自然の強大さと人間の弱さを目の 当たりにした。東北地方の太平洋岸は何度となく 地震と大津波に襲われた過去を持っている。「忘 れない」ために,いろんな所に「記念碑」が建て られていた。一時は,高台に避難した。「災害は 忘れた頃にやってくる。それに備えよ」とは,言 える。しかし人は「そこに」住み続けなければな らないし,生活をしなければならない。とくに漁 業を生業にしてきた人たちは,沿岸部に戻らざる を得ない。教訓が生かされていないのではない。 本来,いろんな災害や戦争での経験は,その人 の数だけ「経験」がある。その「経験をどう受け 継ぎ,後世に伝えるか」。この課題を伊那谷の三 六災害から探ってみたい。

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.「記憶を記録する」中川村

上伊那郡中川村の記録を見ていこう。中川村の

〈論 文〉

災害の記憶を語り継ぐ

──「伊那谷三六災害」アーカイブ化の試み──

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東に陣馬形山という 1455 m の堂々とした山があ る。狭いが舗装されていて,頂上近くまで車で行 ける。頂上に立つと眼前に中央アルプスが迫る。 下には伊那谷が見える。駒ヶ根市から松川町まで 見渡せる。中央にけっこう蛇行している天竜川が 流れている。広大であるがのどかな風景である。52 年前,この天竜川が荒れ狂い,周囲の山々が豪雨 で削り取られた。中川村は天竜川流域と天竜川の 東側(東竜)地域の氾濫,さらに山間部の四徳, 桑原地区などに土石流が流れ込み,四徳の全村に 壊滅的な被害をもたらし,全村移住を余儀なくさ れた。『昭和 36 年 6 月梅雨前線豪雨災害調書』 (中川村)によると,18 名もの犠牲者を出し,家 の流失 98 世帯,半壊を含めると 133 世帯と記録 されている。さらに家屋の浸水は 164 世帯に及ん でいる。罹災世帯数 297 世帯,1392 名の罹災者 を出した。中川村全体の 20% 近くが罹災したこ とになる。人々は押し寄せる濁流や土石流に備 え,高台へと避難したが,想像を絶する大きな岩 が音を立てて家を押しつぶした。山からは「木が 立ったまま」滑ってきたという。そのとき,村人 を避難誘導し,また災害救助を,刻々伝えていた のは,ちょうど 1 周年を迎えた有線放送であっ た。 有線放送 片桐地区(中川村)の当時の有線放送記録が残 されている。当日の有線放送の原稿が残ってい た。すべて鉛筆による走り書きで,その緊迫した 状況が伺える。 1964年 11 月発行の『中川村災害誌』からその 一部を紹介する。 ○石神の住宅が危険,大至急直行 中組消防団 は谷田の白沢馨氏宅へ直行せよ 黒牛の皆さん。大トビを持って下村宅へ集合 ○スクールバス 2 時半に出た。(桑原行き)北 井の所から歩いて行くから迎えに出よ。四 徳,大張の皆さん,仁科定吉さん宅流失寸 前,すぐ頼む ○北組の皆さん。松島正男さん宅付近の暗渠が 決壊いたしましたから,その河川筋の皆さん は避難してください。 ○中組の消防団と予備消防団の家庭の皆さんへ お知らせいたします。団員の皆さんは,全身 ズブぬれでありますから,それぞれ着替えを 持って中組集会所へお出かけください。 27日の夕方から夜にかけての有線放送の概要 として 21 枚のメモが紹介されている。有線放送 局の日誌にも「瞬時の休むこともなく,電話交 換,情報放送を続けた」と記録されている。 そして,災害直後,有線放送局は自主番組とし て「水害恐怖の 3 日間」を企画している。6 月 27 日,豪雨の音,有線放送のチャイム,半鐘の音な どが鳴り響いている当時の様子が,そのまま放送 されている。さらに 7 月に「婦人の時間 災害当 時を語る」,9 月には「マイクは歩く 災害その 後」を放送。これらを見ても,当時の各地の集落 単位での情報手段は有線放送が大きな役割を果た していた。有線放送以外では,当時の建設省の天 竜川河川事務所が,独自の無線情報機器をもって いただけである。 災害から 3 年後の 1964(昭和 39)年には,「村 便り 災害復興祭記念式」を放送。その後,36 災害についての放送はなく,20 年後の 1980(昭 和 55)年 6 月 24 日に,「我が村を振り返るシリ ーズ 36 災害とその後」と題して,四徳出身で, 駒ヶ根市在住の宮下まことさんが,さらに 8 月 14 日には「36 災害から 20 年 四徳をみつめる」と して美里(中川村)の有賀博幸さんが,語ってい る。翌年 1981(昭和 56)年の 6 月 24 日には「過 去をしのんで 恐怖の時から 20 年 36災害の教 訓」が報じられている。その後は,資料 1 に見ら れるように定期的に「36 災害の記憶」などが繰 り返し放送されている。3 年後の 1964 年以降 17 年間,有線放送の記録を見る限りでは,三六災害 に関する放送はない。その理由は定かではない が,1980 年後の内容は,ほとんど「回顧」「経 験」「教訓」「記憶」であったことを考えると,20 年経過して,ようやく「自分の経験」を少し客観 化して話せるようになったからかも知れない。 中川村では,これらの音声記録を,有線放送が 廃止されるのを機会に,当時,オープンリールの テープレコーダーで録音されていたものを,デジ 災害の記憶を語り継ぐ 101

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タル化して,現在,CD に保存して中川村図書館 が保管している。 記念誌 文字としての記録は,中川村では,「災害調書」 で,被害状況を克明に残している。その他,記念 誌として,『中川村の災害誌 36.6 梅雨前線豪雨』 (1964 中川村役場)がある。これは災害から三年 を経て,当時の災害状況とともに復興の様子など が記されている。全村が土石流で押し流された四 徳集落からの移住の状況なども個人名を明記し記 録されて,今では貴重な資料となっている。 そして 2011 年 3 月 11 日,東日本大震災が起こ った。日本国民が自然の恐怖を目の当たりにし た。伊那谷の人たちにとっては,あの三六災害か ら 50 年という節目の年でもあった。この年には 伊那谷の飯田市から諏訪市にかけて三六災害を語 るリレー座談会などが実施されたようである。中 川村でも 10 月には「三六災害 50 年 村民の集 い」が実施され,『中川村の三六災害−あれから 50年−《記憶を記録する》』(2012 中川村歴史民俗 資料館)も出版された。2013 年には『記念誌∼ 忘れまい あの体験を∼』が中川村三六災害五十 年記念事業有志の会によって発行されている。中 川村全体の文字による記録では,1964 年に記念 誌が出されて,2011 年まで空白がある。東日本 大震災が再び,災害への関心を呼び起こさせたの は間違いない。 他には資料 2 にみるように,各地域の公民館が 発行する『館報』など,それぞれの地域の記憶が 残されている。また郷土誌『伊那路』が独自の研 究成果や災害状況の記録を残している。この郷土 誌『伊那路』は郷土史だけでなく,災害や社会問 題,さらには文学や郷土にゆかりのある人物など いろんな分野の研究成果を収録している。 資料 1 三六災害関係有線放送 中川村有線放送自主番組 特集 水害恐怖の 3 日間 27日から 3 日間を語る 1961年(昭和 36)6 月 婦人の時間 災害発生当時を語る 片桐地区 飯島りつ子 1961年(昭和 36)7 月 6 日 マイクは歩く 災害その後 小和田堤防工事現場から 1961年(昭和 36)9 月 村便り 災害復興祭 記念式他 1964年(昭和 39)11 月 14 日 我が村を振り返るシリーズ 36災害とその後 四徳出身 宮下まこと 駒ヶ根市在住 1980年(昭和 55)6 月 24 日 話の広場 36 災害から 20 年 四徳をみつめる 有賀博幸 美里 1980年(昭和 55)8 月 14 日 過去をしのんで 恐怖の時から 20 年 36災害の教訓 1981年(昭和 56)6 月 24 日 私の体験 四徳での思い出 西小学校長 福島武光(59) 1987年(昭和 62)7 月 20 日 村の歴史 36 災害回顧 小和田 荒井春(73) 1989年(平成 1)7 月 20 日 時の話題 36 災害の追憶 四徳学校記念碑除幕式 1991年(平成 3)6 月 26 日 あの日あの時 36 災害 今,瞼に焼き付いていること 中央 小林安子(64) 1993年(平成 5)6 月 28 日 時の話題 36 災害の記憶 中組 松村盛次 北組 中川英雄 南田島 米山八百,村田金一,矢沢孝二 1994年(平成 6)6 月 24 日 あの日あの時 36 災害の思い出 田島 松下千里 1995年(平成 7)6 月 29 日 ふるさとの歴史 36 災害の記録 当時の音などから 2001年(平成 13)6 月 27 日 心のスケッチ 36 災害からの格闘 桑原 初崎実男 2003年(平成 15)6 月 27 日 102

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資料 2 中川村三六災害関連記録一覧 災害調書 中川村 1961年 1961, 7 中川村の災害誌 中川村役場 1964年(昭和 39) 1964, 11, 14 三六災害 50 年 中川 村民の集い 中川村 2011年 2011, 10, 15 中川村の三六災害 −あれから 50 年−《記 憶を記録する》 中川村歴史民俗資料 館 2011年 10 月 15 日から 11 月 13 日 2012, 3, 31 記念誌 ∼忘れまい あの体験を∼ 中川村三六災害五十 年記念事業有志の会 2013, 6 片桐地区水害情報 中川西公民館 片桐 地区協議会 1961, 8, 1 中川村公民館報 なかがわ 中川中央公民館 1961, 8, 1 館報中川 第 237 号 公民館報編集委員会 中川村公民館 2012, 3, 15 分館誌 畦道 第 19 号 公民館美里分館 有賀幹旺 手取沢今昔 1999, 3 分館誌 畦道 第 21 号 公民館美里分館 三六災害の記録 2003, 3, 20 分館誌 畦道 第 22 号 公民館美里分館 有賀幹旺 手取川沢今昔 2005, 3, 31 伊那路第 5 巻第 9 号梅 雨前線災害特集号 上伊那郷土研究会 矢崎明 災害体験記−上伊那郡中川村− 1961, 9, 15 小松兼夫 大水害に際して 小松礼子 四徳鉱泉罹災記 向山雅重 林を立てる 伊那路第 5 巻第 10 号 梅雨前線特集号(続) 上伊那郷土研究会 下平加賀雄 中川村被災概況 1961, 10, 15 春日芳茂 中川村四徳水災記 篠田徳登 山津波体験談探訪 松村義也 中川村水害見聞録 北原真人 中川村四徳史料探訪記 伊那路第 55 巻第 7 号 上伊那郷土研究会 伊藤修 三六災害から五十年の歳月を経て (1)−中川村滝沢・桑原・四徳− 2011, 7, 10 大場英明 三六災害の記憶−飯島氏・宮崎氏夫 妻よりの聞き取り− 山本勝 「私の三六災害」北信濃にいて 『伊那路』編集部『伊那路』等に見る「三六災害」発 生当時の記録(2) 北原昌弘 伊那路「三六災」の思い出−大鹿村 大西山大崩落後の脱出行聞記− 災害の記憶を語り継ぐ 103

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2.NHK「日本の素顔」

「傷心の谷間−伊那谷 その後−」

1962年 4 月 22 日放映の NHK「日本の素顔」212 集は,発生から 1 年も経たない時期の映像記録と して,貴重なものである。被災した人たちの現 状,とくに移住せざるを得なくなった人たちの苦 悩が描かれている。 天竜川は,昔から「あばれ天竜」といわれたよ うに,繰り返し氾濫を繰り返してきた。天竜川流 域に広がる伊那谷。閉ざされた山村に近代の光が 差し込み,川の流域が広がるに従って災害の規模 も大きくなった。三六災害では,この天竜川流域 の農村や商店街だけでなく,その支流の谷間に 細々と生きてきた村が壊滅的な被害を受けた。大 鹿村北川,中川村四徳,長谷村奥浦などは,村の 住民全体が移住を余儀なくさせるような被害であ った。これらの村々は,中世以来,この地に住 み,急峻な斜面を切り開き狭い農地を作り,生活 してきた。過去の度重なる自然災害の教訓から旧 家の家は石垣を築き,そこに家を建て,そこを安 住の地として様々な工夫と改良を重ね生活をして きた。明治以降は炭焼き,養蚕業をも生業にして きた。しかし森林の伐採も進み,花崗岩というも ろい地質に加えて,斜面の土がより一層崩れやす い地形は,その弱点を露呈させることになった。 この集中豪雨は,「山津波」「土石流」となって村 全体を飲み込んでいった。多くの村人は,今まで の経験から,高台の尾根にあがり,木に捕まりな がら,一夜を過ごした。しかし何人かは家ととも に,濁流に流された。さらに今まで安全だった 「旧家」も何軒かが被害を受けた。このことが, 村全体の「移住」を考えた一つの要因だと言われ ている。 放映されたのは昭和 37 年 4 月 22 日,災害から わずか 10 ヶ月後である。そこには災害からの復 興をめざす国や自治体,住民の様子が描かれてい る。「復旧事業は 60% が終わり,この雨期までに は 90% が終了予定であると,建設省は言う。し かし地方河川の支流に当たる所は,30% も達し ていない」。ここに「日本の山村のひとつの縮図 がある」と述べていた。ふるさとを捨て,新しい 土地に移住を余儀なくされた。しかしここでもい ろんな問題が立ちふさがっていた。 移住資金がないので,「出るに出られない」。村 から 5 万円の「つなぎ資金」が「支給されたが, 行き先での仕事がない。分家の人たちの行き場が ない。四徳では,80 戸のほとんどが土砂に埋ま った。四徳分校は復旧されたが,58 人いた児童 は 20 人に減り,新入生は 1 人になっていた。駒 ヶ根市は,四徳からの移住を受け入れ,「原外垣」 に仮設住宅を作った。職業訓練なども実施して仕 事を保障したり,女性には近くの家電工場への就 職を斡旋したりしたが,収入は山仕事の半分程度 に過ぎなかった。資金のあるものは,新たな地に 家を建てた。ここでも「持つものと,持たないも の」が,形となって表れた。 大鹿村北川はまさに「忘れられた村」であっ た。災害から 10 ヶ月経っても,ほとんど手つか ずの状態であった。分校も土砂に埋もれて,その 伊那路第 55 巻第 8 号 上伊那郷土研究会 伊藤修 三六災害から五十年の歳月を経て (2)−中川村滝沢・桑原・四徳− 2011, 8, 10 伊那路第 55 巻第 12 号 上伊那郷土研究会 『伊那路』編集部『伊那路』等に見る「三六災害」発 生当時の記録(3) 2011, 12, 10 伊那路第 56 巻第 4 号 上伊那郷土研究会 有賀直雄 忘れ得ぬ故郷 中川村銭集落と「三 六災害」(1) 2012, 4, 10 上伊那教育 第 26 号 水害特集 1961, 10 伊那 下平加賀雄 一望白河原と化した四徳・桑原を往 く 1961, 9 伊那 2011. 8 月号 伊那史学会 明石浩司 上伊那地方事務所林務課が記録した 三六災害 2011, 8, 1 104

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まま廃校になった。人も訪れることのない北川地 区。踏みとどまっている人は「ここは動きたくな い。誰も,私っきりじゃない。いい人ばっかり だ。その人たちと散りばらになるということは, 実に残念だよ。ここ出て行った方だってね,就職 から何から何までほんとうにみんな困るだで。出 て行きたいけれど,お金がなくて行かれん。ほん とうにみんな難儀しているだで。政府の人は顕微 鏡で見てもわからん小さな所だけれども,選挙っ て言ったら,是非,頼むって,みんな来ます。そ の人が,この北川をないと思っていられちゃ困 る」と訴えていた。 自治省や長野県も,移住を促進する政策を進め ているが,土地の価値を割り出す作業や,移住者 の人数によって各人に割り当てられる費用も決ま らないという理由で,実際に移住者に移住資金が 手に渡るのがのびのびになっているのが現状であ った。「予算は取れたけれども,被災者の方にど ういう形で流れてくるのかということに,ひじょ うに手間取っているために,移住後資金難に陥っ て,結局,帰ってきてしまう。移住資金は,仮支 給でもいいから欲しい。金がいるのは明日ではな く,今日なのです」と,被災者は訴えていた。 現実は,資金のあるもの,将来の見通しのつい たものから,村を離れていく。しかし炭焼き一本 に頼ってきた多くの人たちは,出るに出られず, 残るに残れない。国会では,伊那谷の被災者への 「特別時限立法」が叫ばれていたけれども,結局 立ち消えになってしまった。 NHK「日本の素顔」はこう締めくくっていた。 「天竜川の治水工事を進めても,支流の砂防 ダムなどの工事を進めないと根本的には解決し ない。しかしそこまで手が回らない。支流の人 たちは,結局,自分たちの力に頼らざるを得な い。長い間,自分たちの「生きるすべ」を,こ の人たちは見いだしてきた。これからも同じこ とになるのであろう。忘れられた伊那谷の被災 地は,取り残されていく日本の山村そのものの 姿でもあるのです」。 今の東日本大震災の復興のあり方に,この教訓 は生かされているのか,疑問である。

3.「三六災害を忘れない」

−50 年の時を経て−

2011年は,三六災害から 50 年目の節目の年で あった。奇しくも 3 月 11 日,東日本大震災は, その防災意識を再認識させ,伊那谷全体で,50 年を振り返るさまざまな取り組みが実施された。 そのいくつかを紹介する。 (1)演劇「演劇的記録三六災害五十年」 三六災害 50 年実行委員会主催の「三六災害 50 年シンポジウム」が 2011 年 6 月 19 日,飯田文化 会館で開催された。この実行委員会には,信州大 学名誉教授,北澤秋司,林野庁,国土交通省天竜 川河川事務所,伊那地方の建設事務所をはじめ, 上伊那広域連合や南信州広域連合などで構成され ている。 当日の式典では,災害当時の記録映像が流さ れ,地質学の観点から松島信幸理学博士の「三六 災害と伊那谷」という基調講演の後,シンポジウ ム「三六災害から 50 年∼共助力の再興とその補 完について∼」がもたれた。 注目すべきことは,その式典,シンポジウムに 先立って,サイドイベントとして,演劇「演劇的 記録三六災害五十年」が行われたことである。こ の企画は南信州広域連合であり,これは飯田市, 松川町,大鹿村など下伊那地方の行政機関で構成 されている。 演劇の作・構成・演出は,ふじたあさや。音楽 は川崎絵都夫。出演は地元飯田市の演劇集団「演 劇宿」で,劇中の合唱は地元の人びと,詩や作文 の朗読は小中学生である。この模様は DVD に収 録され,「防災学習」として「三六災害から 50 年 土砂災害・水害に備えて」という教材ととも に,関係各機関に配布されている。 劇作家のふじたあさや氏は「三六災害 50 年を 記念してシンポジウムをやるので,その前座とし て『演劇宿』で何かできないかという話が持ち込 まれたとき,ぼくはすぐに乗り気になった」と言 う。その理由を彼は「地域でやる演劇の役割のひ とつにこうしたことがあるのは,演劇にとってと 災害の記憶を語り継ぐ 105

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っても意義深いことだと思ったからである」と述 べている。シンポジウムを知らせる案内のチラシ に彼は次のように続けている。 「演劇はもともと何もないところに世界を構 築する,つまり嘘をつく,嘘をつくことで真実 を伝える媒体である。嘘が嘘として成り立つた めには,本当かと思わせる一瞬がなくてはなら ないし,嘘でも対価を払って見るものがあるの は,そこにのっぴきならないメッセージがある からだろう。そうした行為が表現として成り立 つためには,演じ手の中に実感があることが必 須の条件になる。そして演じ手の中の実感は, 必ず観客の記憶の中の実感を呼び起こすのであ る。だから演劇は,事実によって立った時,力 強さを発揮する。時には百フィートの映像的記 録より,三時間の議論より,三十分の演劇の方 が力を持つことがある。 三六災害の記憶を風化させないために,この 力を役立てたいと思ったのである。 記憶は,当然のことだが,当事者の記憶が薄 れれば,あるいは当事者がいなくなれば,風化 する。世間話,噂話が語り継がれて『民話』に なるように,事実は,演劇として語り継がれた ときに,『伝説』になる。…三六災害の記憶は, 演劇として語り継ぐことで『伝説』にしなけれ ばならない。 五十年後,東日本大震災の記憶を風化させな いためにも,三六災害の記憶は『伝説』化しな ければならないのだ。 飯田に「演劇宿」があることの存在理由が, 今,問われている」。 少々長くなったが,「記憶を伝える」ひとつの 方法として重要な提言であるので,紹介した。 劇では,大鹿村の大西山の崩落で犠牲になった 天竜川上流河川事務所の職員のことも描かれてい て,現在の事務所職員も出演している。事務所職 員には,身を挺して職務を全うし,犠牲になった 女性職員のことが忘れられない。彼女は大量の土 砂の中から,両手を合わせた姿で遺体となって発 見されたのである。土砂が襲いかかり,自らの体 が浮き沈みし,意識が薄れていく中で,何を思 い,どんなことを叫びながら,命を終えていった のか。私たちは,どこまでこのことを「わかる」 のか。どこまで想像力を働かせ,彼女の「最期」 に近づくことができるのか。また劇中の合唱団に は,多くの大鹿村の人たちが参加している。大鹿 村出演者代表の長尾勝氏は「三六災害から 50 年, 伊那谷を襲ったあの悲惨な災害を伝えていくため 演劇的記録が企画され,その内容から大鹿村に出 演依頼がありました。村内に呼びかけ 40 人が参 加することになりましたが,全く経験のない私た ちに渡された三つの合唱曲。本当に歌えるのか不 安でしたが,一生懸命にご指導いただき,また演 劇宿の皆さんの熱い思いに引き込まれ,ここまで 来ることができました。今回参加させていただ き,演劇や歌が災害の悲惨さや命の尊さを肌で感 じさせてくれることを実感しました。伊那谷で起 きた三六災害を知らない世代や子どもたちに伝え ていける良い作品になったと思います」と書いて いる。合唱曲を手がけたのは,ふじたあさや氏と 六公演を共に手がけている川崎絵都夫氏である。 日々の合唱指導には,地元の小学校の校長先生が 担われたようである。 (2)歌舞伎「三六災害半世紀」伊那市長谷 伊那市長谷。高遠から長谷,分杭峠を経て大鹿 に至る秋葉街道。天竜川からは離れたこの山間の 村にも,三六災害は襲った。長谷でも 3 人が亡く なった。2012 年 4 月 29 日,この長谷にある「中 尾座」で「三六災害半世紀」という題目で,歌舞 伎公演が行われた。長谷村中尾地区に江戸時代か ら伝わる農村歌舞伎で,「中尾歌舞伎」として親 しまれてきた。 太平洋戦争で一時途絶えるが,昭和六一年,当 時の青年会が復活に立ち上がった。その中心人物 であったのが中村徳彦さんである。中村さんは, 戦前の中尾歌舞伎の中心人物であった祖父の遺志 を受け継いで,その保存に力を入れている。現在 の中尾歌舞伎保存会のメンバーも,それぞれの仕 事を持ちながら歌舞伎公演を続けている。したが って準備や練習も週末の土日に限られるという。 公演間近になると夜遅くまで練習する。 106

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今まで手がけてきたのは,江戸時代から続く伝 統的な歌舞伎の演目である。新作歌舞伎など考え もしなかった。「今回,『三六災害』を題材に歌舞 伎を演じるなど,想像もしていなかったし,正 直,はじめは乗り気でなかった」と,中村さんは 言う。「三六災害の記憶を伝統文化で伝えたいと いう思いで,中尾歌舞伎保存会が立ち上がった, というのは嘘です」と笑う。 たまたま,当時,国土交通省天竜川上流河川事 務所の草野愼一さんが,「三六災害 50 周年」を記 念する歌舞伎の台本ができたと,保存会のメンバ ーのもとに,その脚本を持ち込んできたのであ る。2011 年 1 月のことである。その年は三六災 害から五〇年目ということで,いろんな企画を開 催するその一つとして,中尾歌舞伎に目をつけ, 相談にきたのである。保存会は,新作歌舞伎など 無理だと思っていたが,草野さんの意気込みと, 相談会の後の「酒の勢い」もあって,なんとか 「やる方向」で動きはじめた。しかし 3 月東日本 大震災が起こった。全国的な自粛ムードのなか, 中尾歌舞伎の春の定期公演も取りやめになり,新 作歌舞伎の進捗も止まっていた。さらに 7 月に は,脚本を書いた草野さんが広島に異動になっ た。しかしこれが中尾歌舞伎公演『三六災害 半 世紀』を推し進めることになったのである。その 後の事情を中村さんは,社団法人全国治水砂防協 会の『砂防と治水 208』(2012. 8)に「伊那谷 三六災害を題材にした新作歌舞伎を上演」という 文章で,詳しく書いている。 「平成 23 年 7 月,草野さんが異動で広島に赴 かれた。何かの縁であるかのように本件も再び 動き始める。以前からお世話になっていた国立 劇場顧問の織田綋二さんに台本の監修をお願い した。そして織田さんの提案で,土石流を中国 地方に伝わるヤマタノオロチ神楽の大蛇で表現 することとなった。幸運にも広島から大蛇を譲 り受けることになり,平成 23 年 12 月 10 日, 我々は広島へと出かけた」。 それから,わずか 4 ヶ月で,新作歌舞伎『三六 災害半世紀』公演が実現することになった。しか し新作歌舞伎は思いの外,苦労の連続であった。 場面の変更や大道具など,裏方さんの苦労も大変 だった。またこの新作では義太夫の代わりにコロ スという群唱という形を取ったので,全員初めて の経験で,戸惑うことも多かったと振り返る。そ れでも,2012 年 4 月 29 日,公演までにたどり着 いた。そして中村さんは「あの痛ましい東日本大 震災から 1 年,いろいろな意味で災害の教訓とし て三六災害歌舞伎をつくりあげたことで,少しで も地元伊那谷や関係者の皆様のお役に立てれば幸 いと思っている」と締めくくっている。 今までの八つの伝統歌舞伎の演目の他にこの新 作歌舞伎が加わった。毎年,中尾歌舞伎公演とし て春秋二回の公演が行われているので,この新作 歌舞伎『三六災害半世紀』は 4 年ごとに演じられ ることになる。歌舞伎という形で,必ず 4 年後に 「三六災害を思い起こすことができる」というこ とである。 (3)「三六災害を語り継ぐ会」大鹿村 長野県下伊那郡大鹿村。4 月中旬には,遅い春 が一気にやってきて,いろんな花が咲き誇る。遠 くに見える南アルプスの赤石岳は,まだ雪に覆わ れているがここでは桜が満開である。その風景は 「日本の最も美しい村連合」に加盟していて,ま さに「桃源郷」と呼ぶにふさわしい。村を流れる 小渋川の西側には大西山があり,その麓の公園に は桜が咲き乱れている。その風景を見て,50 年 前の惨事を,誰が想像できるだろうか。 昭和 36 年 6 月 27 日から降り続いた豪雨もやっ と峠を越え,29 日朝には太陽も顔を出し薄日が 漏れだした 9 時 10 分,轟音とともに大西山が大 きな壁となって崩落して,小渋川をせき止め,川 の反対側の文満集落に濁流が一気に流れ込み,こ の地域だけで 42 名という多くの犠牲者を出した。 これより先,鹿塩川沿いの北川集落では,27 日 は降り続く豪雨の中,午前中に各家庭では子ども たちを分校に迎えに行き,家からより安全な高台 に避難をはじめていた。増水した鹿塩川の土石流 や材木が橋を塞ぎ,危険な状態になったので,橋 の撤去作業をしていた午後 2 時過ぎ,鉄砲水が襲 い,村人 3 名がその犠牲になった。その後,さら 災害の記憶を語り継ぐ 107

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に山の崩落,山津波が発生し,大量の土石流が分 校や家屋を襲い,集落の数軒を残し,村は壊滅的 な状態になった。 この記憶を大鹿村ケーブルテレビが「あれから 50年…語り継ぐ三六災害」「三六災害から 50 年 北川被災者に聴く」という二つの映像記録とし て残している。 「あれから 50 年…語り継ぐ三六災害」は,3 人 の語り手へのインタビューで構成されている。片 桐満千代さんは,当時 42 才で,小渋川を挟んで 大西山の対岸にある集落で,被害にあった。崩落 によってせき止められた小渋川の濁流が押し寄せ た。新築したばかりの片桐さんの家には,近所の 人や親戚が避難してきていた。「まぁ,2 階にで もいれば,大丈夫だと思っていた」が,「いつも と違うもの」を感じた片桐さんは,高台の神社に 避難するように促し,自分たちは,家に残った。 その後,濁流が家を押し流した。片桐さんも濁流 に呑み込まれ,流された。片桐さんは流れに浮き 沈みしながら,ずいぶん流されたが,流れてきた 家の柱などが流れをせき止め,何とか命を取り留 めた。「おこし,ひとつで這い上がり」救助を待 っていた。這い上がった場所は,小渋川の対岸の 山裾であった。語りは 20 分ほど続く。淡々と語 っているが,片桐さんは,その災害で 2 才になる 娘さんを亡くしている。「死骸があがってよかっ た。藁の上で死んでいた。あがってよかった。お 墓に行ったらおるで」と語っている。「今では桜 が咲く大西山。ありがたいようで,ありがたくな いようで…」と,何度も繰り返していた。 もう一人は,妻と中学 2 年だった娘さんを亡く した小坂さん。鍛冶屋の仕事をしていた小坂さん は,当日,諏訪方面で仕事していたが,連絡を受 けて急遽帰ってきた。小渋トンネルからは車が通 れないので歩いて「30 分で家に帰ってきた」。ふ つうは,1 時間以上かかる道のりである。その 後,残された二人の息子との 3 人の避難生活のこ とが語られた。学校の空き教室での避難生活。9 ヶ月間,お弁当も作って学校へ通わせた。その 後,「今の嫁さんが来てくれたんで,助かった」 という。「山をうらんだってしょうがない。無理 におこしたんじゃないで」「なんちゅうていいか, 生まれたとこじゃで,ここにおった方がいい。そ う思っている」と締めくくった。もう一人は,全 国各地でダム工事や,災害の復旧事業に携わって きた男性の証言である。その年の 9 月に,大鹿村 北川の復旧工事現場に来た。測量技師 15 人の他, ブルドーザー 4 台,ショベルカー 4 台,全部で 60 人が送り込まれた。「来たとき,教室の中を川の 水が流れているのを見て,北川地区の人の訴えを 聞いて,涙が出た」という。「いろんな所で仕事 してきたが,ここが一番」と,今も大鹿村に住み 続けている。 「三六災害から 50 年 北川被災者に聴く」は,27 日,土石流と鉄砲水に襲われ,村の大半が埋まっ てしまった北川の人たちの座談会形式の証言記録 である。北川は,戦前には林業,製材業,木地師 などで生計を維持し,大鹿村の中でももっとも先 進的な地域であった。その後は高度経済成長で人 口の流出が続き,昭和 30 年代には 38 戸になって いたが,平和でのどかな生活をしていた。そこ に,降り続く雨の中,荒れ狂う鹿塩川は氾濫し, 土石流や山津波も加わり,数戸を残して壊滅的な 被害に見舞われ,全村移住を余儀なくされたので ある。住み慣れた村を離れて,近隣の駒ヶ根市や 伊那市などへ移り住んだ 10 人が,50 年前の「忘 れたいけれど,忘れられない」記憶を語ってい る。 北川の人たちは今までの経験から,27 日午前 中に子どもたちを学校に迎えに行き,高台の家や 尾根の方に避難させていた。その後,午後 2 時 頃,鉄砲水と山津波が村や学校を襲っている。鉄 砲水が出たとき,橋桁の撤去作業をしていた作業 員 3 人が,濁流に巻き込まれ犠牲になったが,他 の住民は全員,無事であった。 当時,消防団員で,橋桁の撤去作業をしていた 人は,「とにかく,水の音で何も聞こえない」状 況だった。そして鉄砲水で「橋も小屋もいっしょ に流れてきた」という。「鹿塩川の合流点で,木 につかまって手を振って,助けを求めている人が いたが何も聞こえなかった」と振り返る。また当 時,小学校 3 年生だったある人は,昼を食べて, ちょっとしたら父が家族 4 人を連れて少し高台の 親戚の家に避難した。そのとき,木が立ったまま 108

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流れてきた」と,その時の記憶を語る。その他に も「畑がゆらゆらゆらゆら揺れながら流れてき た」と,当時を語る。またある人は「両親は尾根 伝いに位牌だけもって,親戚の家にやってきて, 家族がバラバラにならずに済んだ」と,子ども心 に思ったという。ある高齢の語り手は「今までも 危険箇所がいくつかあって,警戒していたが,三 六のときは,そこでないところがやられた」と証 言している。学校や家は壊滅的になったが,その 後,米俵を引っ張り出し,桑の実や岩塩で食いつ ないだ。子どもたち 24 人は,10 km 離れた鹿塩 小学校に,寄宿舎に泊まりながら,通学した。土 曜日には 3 時間かけて,自宅に戻った。家がなく ても,家族と会えるのが楽しみだった。その後, 国は 1 年 9 ヶ月後の昭和 37 年 3 月 31 日までに 「移住」を通達してきた。「さよならも言わないま ま,みんな,どこかへ行った。これは悲しいもの だった」という。これは,中川村四徳とともに, 災害による集団移住の初めての試みだった。その 後の国のこうした山間部集落への政策の基本姿勢 が垣間見える。 (4)『濁流の子』−駒ヶ根市中沢の三六災害− 駒ヶ根市では天竜川の東,中沢地域が大きな被 害を受けた。伊那山脈から天竜川に流れ込む新宮 川や百々目木川などの支流で発生した土石流で, 多くの家屋が崩壊した。新宮川の上流の大洞集落 では一家 5 人が濁流に飲み込まれ,犠牲になっ た。 中沢では,6 月 24 日から降り出した雨が 27 日 には 155 mm に達し,28 日朝,新宮川が氾濫し, 土石流が襲った。流失 38 戸,全半壊 101 戸に及 んだ。中沢でも,当時の避難の呼びかけは有線放 送しかなかった。昭和 34 年に中沢農協放送協会 として発足した。1 回線 20 戸ほどで構成されて いて,当時,全部で 46 回線 1000 戸が加入してい た。しかしそのうち,16 回線,350 戸ほどが不通 になった。当時,有線放送室に勤務していた矢沢 さんのお宅には,当時の有線放送の録音記録が残 されているが,災害当日のものはなかった。しか し中沢では,中沢公民館や中沢区高齢者クラブが 中心になって『中沢公民館文集 渓声』を発行 し,地域のつながりを保ってきた。他に仲間によ る『谷あい』や保護者による『石楠花』などもあ る。『渓声』では,36 災害特集として「濁流」を 作っている。その中に矢沢さんが「『災害』の日 活躍した有線放送」と題して,当日の有線放送 室の様子を克明に書いている。一部を紹介する。 6月 27 日,午前 10 時半頃,私は有線放送室 の窓辺から雨足が急に激しくなるのを眺めてい た。交換台の赤ランプの点滅する様子を見なが ら……。大雨で有線の線路が“大丈夫”かと頭 をよぎる。交換台の呼び出しランプが“呼び出 し”か,それとも“ 故 障 ” か を 考 え な が ら ……。この頃から放送室にて彼方此方から通話 申し込みと放送依頼が飛び込んで……。“田圃 の土手が”“家の縁の下に”“道路,水路が溢れ ている”“消防団員の出動を”頻々として増水 や危険の依頼で放送室は忙しくなっていた。故 障の赤ランプの一番先は,南洞の桃ケ平回線で あったと思う。(中略)次に私は落合方面に向 かう。…大洞,山中,大曽倉方面の重要な分岐 点に向かうが川の流れが激しく,分岐柱に昇る のが危険で,やむを得ず落合線の井筒屋さん前 の道を挟んで川端の柱に昇り,大洞線 24 戸を 切断する。…その後,放送室へ。放送室では “消防さんの出動要請”“学校生徒の集団帰宅” “パン工場の浸水”“栗沢線の不通”……“新宮 川岸橋”の危険など夢中でアナウンサーや交換 業務をしていた。(中略)午後 9 時頃には,有 線 46 回線の内,16 回線約 350 戸の皆さんが故 障で不通となり,上割南,北洞の被害状況もわ からないまま,唯々朝を待つだけとなりまし た。女性 3 名の交換手は通話交換に,状況放送 に一生懸命でした。長い長い一日でした。 また,中沢農協放送協会に勤めて 2 年目だった ある女性の交換手も,次のように当日のことを書 いている。「午後 1 時からの出勤で,合羽,長靴 姿で着いたときにはびしょぬれでした。私が交換 台に座った頃から赤ランプの点滅が頻りで,呼び 出しが忙しくなりました。子どもたちの下校,消 防団からの連絡などなど。夜に入ると電話が通じ 災害の記憶を語り継ぐ 109

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なくなり「家が流れる助けて」「お父さんと連絡 が途絶えた」「土蔵の中に子どもがいるから」と, 助けを求める人々の対応に夜通し放送するという より叫んでいました。災害後,集団で赤穂(駒ヶ 根市)に出て仮設住宅での生活の取材に何度か訪 問しましたが,家と田畑等を失った人々にどんな 言葉をかければ良いのか迷っていると,皆さん優 しく接して下さいました。災害で失ったものの大 きさは二十歳の私の想像を超えるものだったと思 うのに,皆さん新しい生活に前向きでした」。こ のことから,当時,有線放送が地域住民に果たし た役割の大きさが見て取れる。 駒ヶ根市では,天竜川東部の中沢に被害が集中 したため,地域の消防団や区長をはじめとした地 域住民が右往左往し,対応に負われていたが,天 竜川西部にある市役所とはなかなか連絡も取れ ず,また市役所の方も「現状」把握ができないま ま,対策本部の立ち上げや,対応が遅れた面が否 めなかった。しかし伊那谷全体の被害の全貌が分 かってきた後,市は被災者の受け入れや,仮設住 宅への入居や雇用促進などの対策は,いち早く進 めた。 見てきたように「三六災害」を忘れないための 記憶の保存や語り継ぎは,中沢公民館や中沢高齢 者クラブが中心になって,進めてきたようであ る。 駒ヶ根市では,50 年後の 2012 年 2 月に,市や 教育委員会,国土交通省中部地方整備局天竜川上 流河川事務所の協賛のもと,「三六災害 50 周年編 集委員会」の編集・発行で『語り継ぐ 中沢の三 六災害 あれから 50 年』を出版し,三六災害の 「記憶」を語り継ごうとしている。 そして駒ヶ根市の三六災害で忘れてはならない のは,一家 5 人の犠牲を出したということであ る。一家の中で幸い命が助かったのは父親と当時 小学校 1 年であった娘さんのふたりである。娘さ んにとっては,祖父母と母親,そして兄と弟が一 瞬にして「目の前からいなくなった」のである。 天竜川上流河川事務所が 1993 年,三六災害 30 年目に『続・濁流の子』を発刊している。河川事 務所が実施した座談会で,彼女は 6 歳の時の経験 を語っている。「家の中は危ないということで, 祖父母と私を含めて兄弟 3 人が土蔵に逃げ込み, 両親は外に見回りに行きました。そして一瞬の山 津波で,母,祖父母,兄が亡くなりました」。そ の後,安全な高台に逃げるには,目の前の濁流を 越えなければ山側には行けない。父親が 3 歳にな る弟をまず濁流の中,向こう側に渡らせて,再び 濁流を越えて娘さんを迎えに来た。彼女は怪我を していたので,父親が負ぶって山側にたどり着い たとき,弟は濁流に呑み込まれて,姿が見えなく なっていた。「結局,生き残ったのは私と父だけ だったんです。2 日後,父と一緒に家の跡を見に 行きましたが,なにもかもが河原になって跡形も ありませんでした」と語っている。 彼女は,災害後,父親と共に,そこを離れ,同 じ駒ヶ根市内に住んでおられることを聞き,連絡 を取って,2013 年 9 月,お宅にお邪魔し,お話 を伺うことができた。 自然の驚異の中で「一瞬にして,今まであった 当たり前のものが,目の前からいなくなった」 「ある日突然,全部,なくなるということは,や っぱり体験したことがないと,わからないでしょ うね」。そんな経験の中で「いろんな思いをして きましたから,人間も地球の中に,住まわせても らっている一つの生命体,一部だと思うんで」と 語る。想像を絶する過酷な経験をしながら「自然 の中で,自然と共に生きる人間のあり方」を伝え ようとしていることに,感動を覚えた。 ところで,『濁流の子』は,三六災害当時,高 校生であった碓田栄一さんが,被災した子どもた ちは勉強したくてもできない。せめて参考書でも 送りたいと,数人の友だちとはじめた運動が,受 験雑誌を通して,高校生仲間に広がり,全国から 600人の協力者を得るまでになった。その後, 「伊那谷の災害を残したい。その中で大人だけで なく子どもも苦労しながら一生懸命生きていると いう姿を,何らかの形で世間の人に訴えたい」と いう思いが,ガリ版刷りの災害記録文集『濁流の 子』になった。3 年後の昭和 39 年(1961 年)の ことである。その後,その文集のあることを知っ た天竜川上流河川事務所の企画で,災害から 30 年後の 1991 年(平成 3 年),『濁流の子』が復刻 され,さらに 2 年後,1993 年には『続・濁流の 110

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子−伊那谷昭和 36 年災害をのりこえて−』が出 版されている。

4.「人と暮らしの伊那谷遺産」

プロジェクト

−天竜川上流河川事務所の取り組み−

伊那谷のほぼ中央部に位置する駒ヶ根市に国土 交通省天竜川上流河川事務所がある。伊那谷三六 災害を忘れないために,また防災意識高揚のため に,さまざまな活動を展開してきた。わけても 2011年の東日本大震災は,その防災意識をさら に高めた。またこの年が三六災害から 50 年とい う節目の年でもあり,伊那谷の各自治体よりなる 広域連合と連携しながら,いろんな企画を実施し てきたことは,先に見てきたとおりである。 映像としては 2011 年 3 月には,企画・社団法 人中部建設協会,制作・信越放送株式会社による 『三六災害から 50 年 よみがえった伊那谷∼そし て今』(21 分)と SBC スペシャルとして信越放 送で 2011 年 6 月 29 日に放映された『忘るまじ災 禍の記憶∼三六災害から半世紀∼』(46 分)があ る。 『三六災害から 50 年 よみがえった伊那谷∼そ して今』は,当時の災害映像と被災者へのインタ ビューで構成されて,その後の復旧にむけた各地 の努力を紹介している。また当時の建設省小渋川 砂防出張所の職員が,村の唯一の情報伝達の手段 であった「無線機」を運び出し,村人への安全な 避難を伝えようとしたことも紹介されている。も う一方の『忘るまじ災禍の記憶∼三六災害から半 世紀∼』は,両親を失ったきょうだいのその後を 辿りながら,残されたものの生き方や思いを伝 え,また 50 年目に各地で実施された「三六災害 を語るリレー座談会」が紹介され,今後の防災意 識を高めるための教材として作成されている。 その年,東日本大震災後,人々の防災意識への 関心が高まったこともあるが,シンポジウム,パ ネル展示,防災訓練,座談会などを 60 の団体が 100回の事業を実施し,延べ約 14000 人が参加し たと伝えている。テレビでは 4 社,ラジオでは 3 社が,特別番組を組んだ。新聞では,8 紙が関連 記事を掲載した。 出版物としては『想いおこす三六災害』(企画 ・発行 社団法人 中部建設協会)があり,地形 学,治水・河川管理,さらに災害復旧の観点か ら,三六災害の全貌をまとめている。地質学が専 門の信州大学名誉教授北澤秋司,天竜川上流河川 事務所長の草野愼一など 12 名の「三六災害 50 年 誌編集委員」によって作成されたものである。防 災意識の向上を願ったものであり,多くの写真や 流域の地質などの地図も使われている。 また,天竜川上流河川事務所のホームページに 『三六災害アーカイブス』を立ち上げ,その中で 「災害を語り継ぐ貴重な記録資料を地域で幅広く 活用していただくために作成しています」と述 べ,「名称から検索」「地図から検索」して,より 詳しい情報を知ることができる仕組みになってい る。さらに「天竜川河川事務所が進める治水・河 川管理等の取り組みについて先人の営みを踏まえ て整理し,情報発信していくことで,防災教育や 地域振興をより効果的に支援する」ために,『人 と暮らしの伊那谷遺産』プロジェクトを提唱して いる。伊那谷遺産を選定するだけでなく,「参加 型イベントを手助けする資料を提供」し,また 『濁流の子』を伊那谷遺産に選定し「災害教訓を 伝承する仕組みを作ります」とも述べている。こ のことは,三六災害の『語り部』の発掘,伝承に つながる貴重な活動と考えられる。

お わ り に

「伊那谷三六災害」の記憶をどのように語り継 ぐか,伊那谷各地でのアーカイブ化を概観してき た。どのように記憶が記録されているのか。何を どのように伝え,残そうとしているのか。いろん な自治体や個人の方を訪ねたが,「外」から概観 しただけに終わったかも知れない。 国土交通省天竜川上流河川事務所が,そのアー カイブ化を含めて,「伊那谷三六災害を語り伝え ること」に大きな役割を果たしている。河川事務 所の啓発活動には,単に治水・防災の観点だけで なく,昨今の気象の急激な変化などから,今も絶 えず浸食をつづける伊那谷の山々に対する住民へ の警告があるのかもしれない。有線放送の記録 CD化を含めて,その時々の「記憶を記録する」 災害の記憶を語り継ぐ 111

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ことに関して,中川村の取り組みには,目を見張 るものがある。その他,大鹿村では村役場やケー ブルテレビ局が,DVD として,当時の経験を残 そうとしている。長谷村(現・伊那市)では,歌 舞伎で表現する試みがなされ,4 年に 1 回,公演 されることになっている。 その他,伊那谷を歩きながら,その人情に触れ た気がした。中川村では,歴史民俗資料館の伊藤 修さんや図書館の杉沢かおりさんから,「三六災 資料」「有線放送 CD 記録」など貴重なものをお 借りした。天竜川上流河川事務所でも,多くの資 料の紹介や DVD をお借りした。また駒ヶ根市中 沢では,上村睦生さんに,当時有線放送室におら れた矢沢古里さん,中沢公民館長の山口久夫さん を紹介していただき,しかも中沢地区を私と一緒 に歩いていただいた。大鹿村でも役場職員の方に 貴重な映像を紹介してもらったし,伊那市長谷支 所でも,歌舞伎保存会のみなさんにお世話になっ た。 劇作家ふじたあさや氏は「世間話,噂話が語り 継がれて『民話』になるように,事実は,演劇と して語り継がれたときに,『伝説』になる。…三 六災害の記憶は,演劇として語り継ぐことで『伝 説』にしなければならない」という。私も三六災 害を「伝説」にするために,三六災害の「語り 部」が大切であると考えている。 私(たち)にとって大事なのは「災害の経験か ら何を受け継ぐのか」である。 「災害の怖さ,自然の驚異を知る」「災害は予測 を超えて発生する」「災害は忘れた頃にやってく る」「災害に備える」など,すべてその通りだと 思う。ただ,「災害の経験」を聞いた私たちの側 が,どこまで実感としてその経験が「わかる」の か。 「3 人きょうだいがいて,最近,なんで私だけ が助かったのかなってことを考えるんですね。兄 と弟がいたのに。父はとっても悲しかったと思い ますよ」 「天災って,一口に言っても,そのぉ,別れた 人,生きた人,亡くなった人っていうの,どこに 違いがあるのかなって,いうのをね。すごく思い ますね」 そして最後に「やっぱり今,こうやって,家族 があるとか,うちがあるとか,物があるとか,友 達がいるということが当たり前で,(それが)あ る日突然,全部,なくなるということは,やっぱ り体験したことがないと,わからないでしょう ね」 こうした「語り」に,どこまで想像力と洞察力 を働かせることができるのか。 今後,「災害の経験」から,私(たち)は「何 を受け継ぐのか」を探っていきたいと思ってい る。 参考文献・資料 『昭和 36 年 6 月梅雨前線豪雨 災害調書』中川村 1961 『伊那路 第 5 巻 9 号 梅雨前線災害特集号』上伊那 郷土研究会 1961 『中川村の災害誌 36. 6梅雨前線豪雨』中川村役場 1964 『濁流の子−伊那谷災害の記録』碓田栄一 1964 『続・濁流の子 伊那谷昭和 36 年災害をのりこえて −』建設省中部地方建設局天竜川上流工事事務所 1993 『分館誌 畦道 第 21 号』「三六災害の記録」中川村 公民館美里分館 2003 『三六災害 50 年 中川村民の集い』中川村 2011 『中沢公民館文集 渓声 36 災害特集号 濁流』中 沢高齢者クラブ,中沢公民館 2011 『想いおこす 三六災害』社団法人中部建設協会 2011 『伊那路 第 55 巻第 7 号 三六災害 50 年特集号』上 伊那郷土研究会 2011 『語り継ぐ 中沢の三六災害 あれから 50 年』三六 災害 50 周年編集委員会 2012 『中川村の三六災害−あれから 50 年−《記憶を記録す る》』中川村歴史民族資料館 2012 『記念誌∼忘れまい あの体験を∼』中川村三六災害 五十年記念事業有志の会 2013 DVD記録 1962, 6「傷心の谷間−伊那谷 その後−」『日本の素 顔』212 集 112

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2011, 3「三六災害から 50 年 よみがえった伊那谷∼ そして今」製作信越放送 社団法人中部建設協会 地域づくり技術研究所 2011, 6「あれから 50 年…語り継ぐ三六災害」制作大 鹿村 CATV 「三六災害から 50 年北川被災者に聴く」制作 大鹿村 CATV 2011, 9 演劇「演劇的記録 三六災害五十年」企画 ・製作南信州広域連合 2012, 1「SBC スペシャル 忘るまじ 災禍の記憶∼ 三六災害から半世紀∼」制作著作 SBC 信越放送 論文等 横山秀司 1989「長野県の山村・四徳の集団移住と それに伴う社会構造の変化」『駿台史学』第 77 号 久保田義喜 1991「水害による集団移住と集落の再 編−36 災害被災地山村の社会経済的変貌−」『明 治大学社会科学研究所紀要』第 29 巻 2 号 小松谷雄 1996『土石流で壊滅した山里の村 望郷 ・四徳の里』ほおずき書籍 災害の記憶を語り継ぐ 113

参照

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