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18 世紀イギリスの古楽復興

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Bull.Fac.Educ.HirosakiUniv.94:29‑36(Oct,2005)

1 8 世紀イギリスの古楽復興

AStudyofRevivalofAncientMusicinEighteenthCenturyEngland

今 井 民 子一

TamikoIMAI

論文要 旨】

ヨーロ ッパの他 の国 よ りも1世紀先駆 けて始 まったイギ リスの古楽復興運動 は,17世紀半 ばの王政復古 を きっかけに芽 ばえた愛国心 と自国文化再興への気運 を背景 に生 まれた。その 目的は,18世紀の政治的,社会 的変動 に伴 う人々の趣味の低俗化 に対す る古典的規範の確立 を 目ざす ものである 本論では,18世紀の古楽 復興 の代表的音楽組織,「古楽 アカデ ミー」 とこれ を継承す る世紀末の 「古楽 コンサー ト」 をと りあげ,主 にレパー トリーか ら窺 えるコンサー トの特徴 を検証 し, また当時のイギ リスで古典的地位 を確立 した コレッ リとパーセルの受容状況,同時代 の音楽史家, ホ‑キ ンズバーニーの古楽観 もあわせて検討 した。

キーワー ド:18世紀 イギ リス音楽,古楽復興

Ⅰ 古楽アカデ ミー

まず ここでは, イギ リスにおける古楽運動の中 心 で,最 も古 い音楽組織,「古楽 アカデ ミー」 の 活動 について検討す る。古楽 アカデ ミーは,古楽 の定期的演奏 を 目的に, ロン ドンの指導的な音楽 家たちによ り1726年創立 され,当初 は 「声楽 アカ デ ミー」 と称 した (W.Weber,1992,P.56) ンバーの大部分 は,組織の名称が示す ように,チ ャ ペル ・ロイヤル とセ ン ト ・ポール大聖堂, ウェス トミンス ター ・アビイの歌手たちで, この中には 3つ の聖 堂 の聖 歌 隊 の指 導者,M.グ リー ン とB.

ゲイツ も含 まれ る (同,P.57) アカデ ミーの理 事 たちは,外 国の有名音楽家 を熱心 にと りこみ, カス トラー トの長老,P.F.トージ, ドイツのオー ボエ奏者 で作 曲家 のJ.E.ガ リヤー ド,作 曲,台 本 も手が けるオペ ラ興行師N.ハ イム,ヘ ンデルの オペ ラの ライバ ル,G.ボノ ンチ一二,カス トラー トの大家,F.ベ ルナルデ イ,F.ジェ ミニア‑こ らが入会 した。

ア カデ ミー は演奏 に主 眼が おか れたので, ボ ローニ ヤのアカデ ミア・フィラルモニカと異 な り, 入会の際の対位法の試験や教 師の指導 もなかった

(同,P.58) レパ ー トリー は極 めて特徴 的で, イギ リス とイタリアの伝統的な多声 の宗教 曲 と世 俗 曲に限 られ,第1回の コンサー トはマ レンツイ

オのモテ ッ ト,モー リーの詩篇 曲,A.ス トラデ ッ ラ とA.ステ フ ァーこのマ ドリガルであ った。 ま た, アカデ ミーの権威づ けのために,理事たちは ハ ノーヴァの宮廷楽長のステ ファー二を名誉総裁 に選び,就任 に際 して彼 はアカデ ミーに自作 をい

くつか進呈 した。

アカデ ミーの活動が公的か私的かについては, 人々が集会の客 として毎 回珍 しい作 品が聴 ける と い う点では公的であるが, 曲 目の趣味が居酒屋や ホールの コンサー トと異 な り,聴衆が限 られてい る点では私 的である ともいえる (同,P.59) がてアカデ ミーに混乱が生 じ, まず ボノ ンチ一二 に よるA.ロ ッテ イの マ ドリガル の剰 窃 事 件 を きっかけに, グリー ンがセ ン ト ・ポールの聖歌隊 を連れて去 り,次にゲーツがチ ャペル ・ロイヤル の歌手たち とともにアカデ ミーをやめた (同,P.

60)す ぐれた聖歌隊 と外 国の有名音楽家 を失 う 危機 に陥 ったアカデ ミーは,1731年,「古楽 アカ デ ミー」 と名称 を変更 し,以前 に も増 して古楽色 を強調 した (同,P.61) 。

当時 ア カデ ミー を統 率 したの は, ドイ ツ人の

.C.ペ ブ シュで,彼 はは じめ ロ ン ドンの劇場 や コ ンサー トで活躍 し,痛烈 な風刺 オペ ラ,《乞食 オ ペ ラ》で大成功 を収めたが,やがて古楽研究への 関心 を深 め,音楽理論書 を出版 した。彼 は強力 な リーダー シップを発揮 してアカデ ミー を運営 しっ

*弘前大学教育学部音楽講座

DepartmentofMusic,FacultyofEducations,HirosakiUniverslty

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つ生徒の教育 に もあたったが,彼の レパー トリー の基本路線 は1770年 まで保 たれ,「マ ドリガル ・ ソサ イエテ ィ」 と並 んで,16世紀の宗教,世俗 曲 を定期 的 に演奏 す るユ ニー クな音楽組織 となっ た。 アカデ ミーの記録では, この団体の 目的はオ ペ ラではな く,パ レス トリーナ と同時代かそれ以 前の作 品の調査,研究 とし, さらに同時代の有名 曲 も扱 うべ し, と唱っている (同,P.62)

アカデ ミーの活動 は一般のイ ンテ リ層 に も浸透 し,1743年,ヘイマーケ ッ ト劇場 の受難週間コン サー トで, アカデ ミーの音楽家 によるア レグリの

《ミゼ レ‑ レ≫ を聴 いたH.ウオルポールは,最上 の声 楽 曲 に心 打 た れ た と述 べ て い る (同,P.

63)。 しか し, アカデ ミーの古楽趣 味 は,一般 の 音楽社会では特殊 な ものであ り,古楽が真 に市民 権 を得 るのは18世紀末の新 しい音楽組織,「古楽 コンサー ト」の確立 と,1784年のヘ ンデル記念大 コンサー トの開催 を待 たなければな らなかった。

アカデ ミーの レパー トリーは,1570年代の タリ スのモテ ッ トか ら同時代 のヘ ンデルの作 品 まで極 めて長期 にわた り,最 も古い ものではムー トンの 曲まで含 まれている その定番 は,16,17世紀の 宗教 曲,す なわちパ レス トリーナ,ヴィク トリア, ア レグリ,コロンナ,バー ドのモテ ッ トや詩篇 曲, ミサ曲の抜粋 であ り, もう一つは同時代 のマ レン ツイオ,モー リー,ウイル ビー,ベネ ッ ト,ファー マ‑のマ ドリガルで,集会の最後 には誤 ってバー ド作 とされて きた 《ノン ・ノー ビス ・ドミネ≫が 歌 われた (,P.64)。17世紀の レパー トリーは, ーセルの音楽が 中心 で, ア ンセムや4声 の詩篇 曲,劇音楽の抜粋が とりあげ られ,その他17世紀 後期の作品 として, ロック, ローズ兄弟,ス トラ デ ッラ. カリッシ ミもわずかに演奏 された。

一 方, 同時代 の作 品 もア カデ ミーの重要 な レ ー トリーであったが,それ らは限 られたジャン ルのかな り保守的なス タイルの ものが多 く,例 え ばステファー二や ロッテ イのマ ドリガル, ク ック や トラヴ ァ‑スの カンツオネ ッタ,アス トルガや ペ ブシュの宗教 曲な どであった(,P.65)。また, アカデ ミーの レパー トリーには,その古楽趣味 と 矛盾 しなが らも愛好 された2人の作 曲家,ペ ル ゴ レージとヘ ンデルの音楽がある ペルゴレージの 人気 は,彼の早逝後 まもな くイギ リスで も広 ま り, 特 に控 え 目だが最新のギ ャラン ト様式の宗教 曲は 人気があ り, アカデ ミーでは1750年代か ら70年代 まで5声 の詩篇 モテ ッ トとミサ 曲が演奏 された。

ヘ ンデルの声楽 曲 もアカデ ミーの趣味 とかな り対 照的だが,初期の1730年代の宗教 曲は大変保守的 で,オラ トリオやオー ドも同 じ傾向を示 している

とくにオラ トリオはアカデ ミーの レパー トリーの 中心であ り,《エステル》《エ ジプ トのイス ラエル 人≫《メサ イヤ》その他 《カロリーネ女王の葬送 ア ンセム》《シャン ドス ・ア ンセム≫ な どが1730

年 代 か ら50年 代 に か け て 演 奏 さ れ た (同,P.

66)

古楽コンサー トの レパー トリー

次 に,18世紀末 に活動 した 「古楽 コンサー ト」

について,その レパー トリー を中心 に検討す る

1776年か ら90年 までの期 間では,ヘ ンデルの作 品 が圧倒的に多 く,他の作 曲家 をはるかに凌いでい (W.Weber,1992,P.173)特定の作 曲家だけ が,ある時期 目立 って多 く演奏 されるのは珍 しく な く,18世紀 フランスの リュ リィ,19世紀初めの ベー トーヴェ ン,古楽アカデ ミーのパ レス トリー ナの ように,これ らは規範の確立 に貢献 している

古楽 コンサー トの特徴 は, ロン ドンの劇場が彼の 特 定の人気作 品だけに限ってい るのに対 し,328

曲を幅広 くとりあげ, この中には,1707年以来全 く演奏 され なか った Dixtdominusも含 まれ ている

一方,ヘ ンデルのオペ ラは,一般 には旧式の も の としてす っか りすたれてお り,18世紀末 には, ヘ ンデ ルの有名 ア リアが宗教 曲に使 われ る有様 だったが,古楽 コンサー トでは,中心 レパー トリー として曲数,演奏 回数 ともに三分の一 を占めてい た (,P.174)。その中には,失敗作 に終わ り, 初演以来一度 も演奏 されない もの もあったが, こ れはヘ ンデル音楽の熱心 な収集家で もあったコン サー トの理事 たちの努力 による ものだった。オペ ラのア リアの タイプは,ゆっ くりとした内省的な ものが好 まれ,それ らは小編成のオーケス トラの 伴奏 をもち,半音階的効果 とダ ・カーポア リアを 逸脱 した表現力豊かな ものが多い (,P.175)

オラ トリオは, コンサー トではある機能 をもっ て演奏 され,す なわち,集会の最後 には 《メサイ ヤ≫の 《ハ レルヤ≫,《サ ウル》や 《ヨシュア≫か らの合唱が, また中間では叙述的な歌詞の ものが 歌 われた。 オラ トリオのア リアは, オペ ラと同様 に程徐 で内省的な ものが多 く,技巧 的なア リアは 限 られていた。注 目すべ きことは,ヘ シデルの記 念音楽祭の定番であった 《メサ イヤ≫や 《マ カベ

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アのユ ダ≫ はそれほ ど多 くない ことで,担 し,当 時のイギ リスの国威発場の風潮のあ らわれか ら,

《マ カベ アのユ ダ》 の士気 を鼓舞す るア リアは好 まれた (同,P.176)特 に人気 の高かったオラ ト リオは,《サムソン》《イエ フタ》《サ ウル》である

《サ ムソ ン≫ は, ロ ン ドンの劇場 や音楽祭 と同様 に古楽 コンサー トで も好 まれ, また,ヘ ンデルの 生前,最 も人気 のあった 《サ ウル≫ は劇場 よ りも よ くとりあげ られ,中で も,《死のマーチ》や ダヴイ デ とヨナ タンの力強いア リアが よ く演奏 された。

《イエ フタ》 は,彼女が死 に臨む場面の ア リア と 合唱が演奏 され,全 曲の通 し演奏 も1回行われた。

その他,ヘ ンデルの生前,死後 ともにほ とん ど演 奏 されなか った 《テオ ド‑ラ》《ソロモ ン》《エ ジ プ トのイス ラエル人≫な ども何度か とりあげ られ た。

オー ドやマスクの選曲に関 して も,陽気 な酒盛 りの歌 は避 けるな ど,古楽 コンサー トを支配す る ま じめな雰囲気があ らわれている。宗教 曲は古楽 コンサー トでは比較 的少 な く,最 も多 く演奏 され たのは,有名 な 《ユ トレヒ ト テ・デウム》や 《ゲ ッ ティンゲ ン ・テ ・デウム≫ではな く, シャン ドス 侯 のための《シャン ドス ・ア ンセム》であった (同,

P.177)以上,古楽 コ ンサー トにお けるヘ ンデ ルの レパー トリーの傾 向は,忘れ られた作 品を含 む多様性, まじめ さ,趣味の良 さ,強い世俗色で ある。

ヘ ンデル以外では, イギ リス とイ タリアの作 曲 家が愛好 され, まず コレッリ, ジェ ミニア一二, G.サマルテ ィーニの コンチ ェル ト,次 にパ ーセ ル,ペルゴ レージ,ハ ツセのオペ ラの抜粋が続 く が,パーセル以外のイギ リス人 として,C.アヴイ ソンの コンチェル トも目立 って多かった。ペルゴ レージの人気 は ヨーロッパ 中に広 まっていたが, 古楽 コンサー トで も宗教 曲,世俗 カンター タ,オ ペ ラアリアな ど,パーセルやヘ ンデルに匹敵す る 多様 なジャンルが とりあげ られた (,P.178)

イギ リスにおけるイタリア音楽の愛好 は, 自国の 音楽 を愛す る民族主義 とともに国際趣味 をも反映 す る ものであ り,ヘ ンデルはイギ リス とイ タリア の音楽 を統合す る役割 を果た した。16,17世紀の マ ドリガルにつ いては,「キ ャッチ ・クラブ」 と 関連の深い洗練 された傾 向を示 し,11人の作 曲家 の中では3人のイ タリア人, コンヴェル シ, ジ ョ ヴ ァネ ッリ,最大のマ ドリガル作 曲家,マ レンツイ オの ものが多 く, またイギ リスの作 曲家では,最

もまじめ とされるJ.ウイルビーが好 まれた。

コレッリの コンチェル トは,1750年代 にイタリ アや ドイツのヴァイオ リン奏者が新 しい技巧的ス タイルを流行 させて以来,影響力 を失 ったが,地 方の音楽サークルで コレッリの継承者 たち (ヘ ン デル, ジェ ミニア一二,アヴイソン) とともに生 き続 け, ロン ドンで もヘ ンデル記念大 コンサー ト をきっかけに復活 した (,P.179) 古楽 コンサー

トで は, コ レッリの コンチ ェル ト (作 品612 と作 品2の ソナ タ,11番 の編 曲) は,古典 的規範 の象徴 として毎回 とりあげ られた。 また,ヘ ンデ ルの コンチ ェル トは,作 品3のオーボエ ・コンチェ ル トと作 品6が演奏 され,一方ジェ ミニア‑ニは, コ レッリの作 品3,4,5の ソナ タの編 曲が よ く演 奏 された。 さらに, コレッリを踏襲 しつつ新 しい 方 向 を 目ざ したG.サマ ルテ ィーニ も序 曲が多 く 演奏 された。演奏 曲の作 曲者 とジャンル,作 品番 号がプログラムに正 しく表示 された ことも古楽 コ ンサー トの特徴 で,一般の コンサー トでは1820 代 にや っ と実現 され た (同,P.180)作 品番号 の明示 は,個 々の作 品の独立性 に対す る新 しい意 識のあ らわれで,そ こには作品の永続性 と偉大 さ が こめ られていた。

一方, オペ ラのア リアを レパー トリーに含める 古楽 コンサー トは,以前の古楽 アカデ ミー と根本 的 に異 なってい る (同,P.181) 。 オペ ラが古 楽 コンサー トの演 目となったのは,宗教 曲や器楽曲 よ りも新 しく,1720年か ら60年 にかけてのオペ ラ に対 す る敬 愛 の高 ま りとともにペ ル ゴ レー ジや ハ ツセ らナポ リ派のオペ ラが とりあげ られ,ヘ ン デル も同列の もの と目された。その中心 は18世紀 オペ ラの一人者,ハ ツセで,18世紀未 にはそのス タイルはす っか り旧式 の もの となっていたが,

1780年代の古楽 コンサー トでは彼 のオペ ラや世俗 カ ンター タが大 い に親 しまれ た (同,P.182)

担 し,オペ ラの演 目に新 しいジャンルであるオペ ラ ・ブッフアがほ とん どと りあげ られていない点 は, この コンサー トの保守性 を物語 っている なわち, ここでのオペ ラ ・ブ ッフアはコンテイの

《ドン ・キシ ョッテ≫のア リア1曲のみで,あの歴 史的なペルゴレージの 《ラ ・セルヴァ ・パ ドロー ナ≫ は全 く歌 われず,ペルゴ レージもガル ッども オペ ラ ・セ リアのみが扱 われている また, フラ ンス趣味 とと り入 れた ヨメ ッリの 「改革 オペ ラ」

も全 く演奏 されず,彼 のオペ ラは古い タイプの も のだけ とりあげ られた (同,P.183)

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32 井 民

古楽 コンサー トのオペ ラの演 目の保守性 は, イ タリアオペ ラの拠点であるへ イマーケ ッ ト劇場の 趣味に起 因す る もので, ここでは大陸 よ りも何年 もお くれてイ タリアオペ ラが紹介 され, オペ ラ ・ ブ ッフアは成立後20年 を経てか ら, また ヨメ ッリ と後継 者 の グル ックの改革 オペ ラは1770年代 に なって浸透 し始める。また,18世紀半 ばのオペ ラ・

セ リアは,そのスペ クタクル と舞踊で広い聴衆層 を獲得 したに もかかわ らず, ア リアのみ を歌 う古 楽 コンサー トの演奏ス タイルは,オペ ラを知的で 格式あるもの とした きらいがある

古楽 コンサー トは古楽アカデ ミー よ りも世俗化 の傾 向を強めたが,理事のJ.ベイツは,18世紀初 柄,中期の多声 の宗教 曲をと り入れてアカデ ミズ ムを保 とうとし, この中には ヨメ ッリ, レオ, カ ルダラ,B.マルチ ェ ッロ,∫.H.グラウ ン,ペ ル ゴ レー ジ らの宗教 曲が含 まれ る (同,P.184) とりわけよ くと りあげ られたのは,ペ ルゴレージ の 《ス タバ ー ト ・マ‑テル》 で,A.アイ ンシュ タイ ンが 「宗教的室内楽 曲」 と称 した ように,比 較的小編成で控 え 目だが最新 のス タイルで書かれ てい る (同,P.185) 同種 の ジ ャ ンルの もの と して,古楽 コンサー トの最 も初期の レパー トリー であるカリッシ ミのモテ ッ ト 《アマ ンテア‑テ ・ ジェ ンテス》があるが,古楽 アカデ ミーが彼 のオ ラ トリオ 《イエ フタ》 と 《ソロモ ンの審判》 を愛 好 したのに比べ る と関心 は薄 らいでいる

次に,数の点ではイ タリア人のオペ ラや器楽曲 に到底及 ばないなが らも,17世紀半ば以降のイギ リスの作 曲家 も古 楽 コ ンサ ー トで は健 闘 してい る。 (同,P.186)彼 らは5つの世代,すなわち, 第1,第2世代 の ロ ック,パ ーセル, 第3世代 の ク ロフ ト,ペ ブシュ,第4世代 のアヴイソン,ア‑ ン, ボイス,ヘ イズ を経 て最後の第5世代 にわたって いる この中では当然の ことなが ら,パーセルの 作 品が 曲数,演奏 回数 ともに他 を圧倒 してい る (,P.187)パーセルに次いで人気 の高いのは, 地方在住のアヴイソンの コンチ ェル トで, この こ とは地方の音楽活動が ロン ドンの音楽界 に与 える 強い影響力 を示 している 古楽 コンサー トの器楽 曲はコレッリを除 くとイギ リスの作 曲家の ものが 多 く,背景 には 自国の音楽擁護の意識が働 いてい る。 また当時は, プ レジャー ・ガーデ ンの器楽 曲 が古楽 コンサー トで演奏 される とい う,公式 と非 公式の音楽の境界があい まいになった とはいえ, 古楽 コンサー トでは,キ ャッチやバ ラッ ド, また

本来は劇場で演奏す る 《王宮の花火の音楽》や 《水 上の音楽》 は全 くとりあげず,独 自の領域 を守 っ ていた (同,P.188)

コ レツリ,パーセルの受容

コレッリの音楽 を評 して,同時代 の音楽史家, C.バーニーは,「コレッリの コンチ ェル トは彼 の どのジャンルにも増 して,堅固に時代 と流行の攻 撃 に立 ち向かった,(C.Burney,1776,Vol.,P.

442)また,∫.ホ‑ キ ンズ は 「古 典 的作 曲家 とい えば,コレッリのパ ッセージを思い浮かべ る,(J. Hawkins,1776,Vol.,P.677)と述べその古典的 価値 を強調 している コレッリは, ローマのオ ッ トボーニ枢機郷の手厚い庇護の もと,器楽 曲だけ の作 曲に専念す る とい う境遇 に恵 まれ,18世紀の 批 評家,C.ア ヴ イソ ンも 「コレッリの和声 の絶 妙 な手法は,彼が人生の大半 を自作 の修正 に費 し た証 であ る」 と語 ってい る (C.Avison,1753,P.

38,95)。 イギ リスの地方 で は, コ レッリの コ ン チ ェル トは当時一般 には主流であったヴィヴァル デ ィの もの よ りも好 まれ,そのス タイルは教会 ソ ナ タ形式の保守的で小規模 の ものであったが, ボ ローニ ヤのアカデ ミズム とヴェネツィアの奇抜 さ の中間をい く特徴 も見 させている (W.Weber,P.

78)ヴィヴ ァルデ ィの コンチ ェル トが,1741 の彼 の死後 イギ リスです っか りすたれて しまった のに対 し,1714年 に死後 出版 されたコレッリの曲 はノーウィッチ, リーズ,マ ンチェス ターな どの 地方都市 に も登場 し, また,聴衆の好み も18世紀 初期 の,軽快 な舞 曲楽章の独奏 ソナ タか ら,世紀 半 ば以 降は,《ク リスマス ・コンチ ェル ト》の よ うな堂 々 と した楽 章 の 曲へ と変化 した (同,P.

79)

イギ リスにおけるコレッリブームは,彼 の継承 者たち, フェステ ィング, カス トル ッチ, ジェミ ニア‑こ らを生み出 した。 とりわけ,最 も成功 し たジェ ミニア一二は,す ぐれたヴァイオ リン教 師 として も知 られたが,そのス タイルはコレッリに 比べ て半音階が多 く, リズムが 自由で演奏技巧 も 難 し くなってい る (同,P.80)コ レッリの継承 者たちは, 自作 の タイ トルにコレッリとの関連 を 強調 してその価値 を宣伝 しようとしたが, コレッ リがほ とん ど評価 されなかったイ タリアでは全 く 考 えられないことだった。ヘ ンデルの コンチェル トもコレッリー派 に組み こまれたが,実際,楽章 の数や配列の柔軟 さ,フーガへの関心,トウツテ ィ

(5)

とソロ楽句の明瞭な差異の否定 な ど, コレッリの 影響が窺 える もっ とも,彼 の コンチ ェル トを多 様化す るオペ ラ風 の旋律や フランスの舞 曲形式 な

どは, コレッリよ りもイタリア的である

コレッリの コンチェル トは,18世紀の音楽文化 の中で教育上の規範 となってお り,アヴイソンが, 新 しい同時代の作 曲家たちの多 くは彼か ら和声 の 要素 を受け継いだ, とい うように, コレッリの確 立 した和声 の公式 と作 曲上の基本的な手段 として の調性 は, とくにアマチュア音楽家 にとっては尊 敬の的であ り, よ り明確 な歴史感覚 を養 うことと なった (同,P.81) 。 出版 において も,彼 の音楽 は弦楽 曲の基準 とな り,「コレッリに倣 う」 とタ イ トルに記 した ソロ ・ソナ タや,1720年代以降は 彼 の トリオや ソナ タを大編成 に編 曲 した コンチ ェ ル トが出版 され コンサー トの主要 な レパー トリー となった。

古楽 アカデ ミーでは,ペ ブシュが彼 の コンチェ ル トを校訂 出版 し, またアマチュア音楽家の筆頭 として活躍 したニー ドラーは,ホ‑キ ンズ よ り「当 代‑の コレッリ演奏家」 とよばれた。 コレッリ熱 は,プロの音楽家 よ りもアマチュア音楽家 に広 ま ,1720,30年代 のロ ン ドンでは 「コレッリの頭」

と称す る楽譜商 もあ らわれたが, とりわけ,地方 都市ではアマチュア音楽家の団体が コレッリの普 及 に大 きく貢献 し,18世紀 にはその数 は百以上 に 上 った (同,P.82) その音楽サークルは,以前 よ りも多人数で コンチ ェル トを多 く演奏 し,地域 のオルガ ン奏者や音楽教 師, ダンス教 師によって 主宰 され,共 同体 に娯楽 と音楽教育,祝賀行事の 場 を提供 した。 コレッリの コンチェル トが普及 し たの は,華麗 なテ クニ ックを要す るヴ ィヴ ァル デ ィの ものに比べてアマチュア演奏家が容易 に演 奏 で きるためであ り, リピェ‑ ノ部分 は等質で ミ ス をして も全体 のア ンサ ンブルを損 な うことはな く, また上手 な演奏家 はコンチェルテ ィーノで技 を発揮 で きた (,P.83)。従 って,地方の音楽サー クルの活動 はイギ リスの音楽出版の一大市場 とな り,例 えば,作 品1の ソナ タは1680年 か ら1735 35版,作 品6の コ ンチ ェル トは1800年 まで に42 版 を重ねた。

コレッリを古典的規範 として最初 に位置づ けた の は,批評家 のR.ノースで,彼 は音楽 の古典 を 16,7世紀 の教会音楽 ではな く, コレッリの器楽 に求めた (同,P.84)ノースは,18世紀音楽 に おける商業主義 と名技性 を追求 を批判 し,かつて

の家庭音楽 を中心 とした真筆 な音楽文化 を理想 と した。彼 は変化の元凶をヴ ァイオ リンに求め,上 声 を担 う,その鋭い突 き通す音色 と悲憤 な表現が かつてのヴイオールを打 ち負か し,奏者 に破壊 的 な競争心 を もた らした とす る (同,P.85) ノー スは人々の趣味 と判断力の低下 を憂 え, ヴィヴァ ルデ ィの価値 を認めなが らも, コレッリの規範 と しての特別の役割 を強調 した (同,P.88)

コレッリと並 んでパーセル も18世紀 イギ リスに おいて音楽の古典 と目された。彼の作 品は多岐に わた り,まず,ア ンセムやサーヴィスはチ ャペル・

ロイヤ ルや聖堂 の レパ ー トリーであ り, また,

《テ ・デ ウム とユ ピラーテ》 は,ヘ ンデルのオ ラ トリオの伝統確立 を推進 した音楽祭の主要作 品 と なった (同,P.90)また劇音楽 はロ ン ドンの舞 台で定期 的に再演 され, さらにキ ャッチは家庭や 居酒屋 で歌 われた。パーセルの劇音楽の復古上演 は,1705年,イタリアオペ ラのイギ リスへの参入 に伴 うロン ドンの劇場の危機 的混乱が きっかけで あ る「セ ミ ・オペ ラ」 といわれ るマス クや音楽 の余興 を含 む演劇 とともに,彼 の死後忘れ られて いた劇音楽 は再演 され, ドル リー ・レー ン劇場, ヘ イマーケ ッ ト劇場, リンカー ンズ ・イ ン劇場が

《イ ン ドの女王》《アーサー王》《デ イ ド‑ とエ ネ アス》な どを上演 した (同,P.91)。 それ らは,ち ょ うどコレッリの コンチェル トが コンサー トの曲 目 の 中で新 しい同時代 の作 品 と対 照 をな した よう に,新 しいオペ ラの急激 な流 れ とうま くバ ランス を保 っていた (同,P.92)また,パ ーセルの劇 音楽 は全体が上演 されるよ りも,劇場やホールの コンサー トでその劇中歌 を歌 うことが多かった。

18世紀前半のパーセルの批評 には,強い愛国的 調子が見 られ,例 えばあるウイッグ党員 は,パー セルの 《ドン ・キホーテ》か らの 《イギ リスの天 才≫ を荘重,崇高で勇気 を鼓舞す る と絶賛 してい る (同,P.93) パーセル崇拝の愛 国的傾 向は, 当時のイギ リスの政治的,社会的情勢, イギ リス を席巻 したイタリアオペ ラへの反発, トー リー党 と ウ イ ッ グ党 の 争 い に起 因 して い る (同,P.

94)。 イ タリアオペ ラへ の反撃 は文学界 か ら起 こ り,その代表であるアデ イソンは, イタリアオペ ラの侵略 に危機感 を募 らせ,意味のわか らないイ タリア語 で歌 う憲劣 さを批判 した。愛 国心 か ら パ ーセルを絶賛す る傾 向は, イタリアオペ ラの組 織,「ロイヤル ・アカデ ミー ・オブ ・ミュージック」

が設立 された1720年代 に高 ま り,アデ イソンは,

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34 今 井 民 子

オペ ラは 自国の音 楽 と言葉 で歌 われ るべ きで, ーセルの旋律 はイギ リスの言葉 に見事 に適合 し ているとした (同,P.95) パーセル 自身は,トー リー,ウイッグ両党の人々の支持 を受けていたが, 彼 らはいずれ も音楽 は高い倫理 と秩序 を目ざすべ

きもの と考 えていた (同,P.96) パーセル音楽 のユニークなジャンル としてキャッチがあるが, これは元来,16世紀後半 に居酒屋や家庭 で歌 われ, 芸術 的なマ ドリガルや カンツオネ ッタに対す る大 衆的なジャンルであったが,音楽のス タイルは学 識的な対位法の伝統 と密接 に関係 している(同, P.10 0)

古楽 と2人の音楽史家

古 楽 コ ンサ ー トの 第1回演 奏 会 は1776年 に始 まったが,奇 しくも同 じ年 に近代音楽史学の重要 な先駆 けをなすC.バーニーの 『音楽通史』 の第1 巻 と,∫.ホ‑キ ンズの 『音楽通史』全5巻が 出版

された。 これ らの2つの著作 は, イギ リスの古楽 復興運動の音楽思想 的背景 を明 らかにす る上で重 要である

ホ‑キ ンズは法律家 としての地歩 を順調 に固め る側 ら,1740年代 に古楽 アカデ ミー とマ ドリガル 協 会 に入会 し,ペ ブ シュの もとで音 楽 を学 び, W.ボ イス との知遇 を得 る ア ンセム を最上 の も の とす るホ‑キ ンズは,神への強烈 な信仰 を壊 く 国教会主義者で,信仰 を同 じくす るジ ョンソン博 士 の最初 の伝 記作家 で もあ った。(W.Weber,P.

209)。彼の音楽上の立場 は極 めて保守的で,先駆 者のベ ッ トフォー ドや タ ドウェイに賛 同 し,新 し いイ タリアのオペ ラは浪費の所産であ り,最 も不

自然 で憲劣 な娯楽 と非 難 した (.Hawkins,Vol.

,P.32‑33,Vol.,P.877他 )。 ホ ‑ キ ンズ はR.

ノース と同様 に,かつての多声音楽の調和 を破壊 す る名技性 を憂 え, とくに当代の高音域 の技巧の 追求 に言及 し,野蛮で装飾過剰の趣味 と酷評 した

(同,Vol.,P.36)0

彼 は新奇 さを攻撃 して, プロウやパーセル, コ レッリ, ジェ ミニア一二を古典の規範 として擁護 し, これ らは時代 の気 ま ぐれの洗礼の中で価値 を 保 って きた もの とす る (同,Vol.,P.35)。彼 は 器楽 曲に対 して,調和 のない騒音であ り,32分音 符の細かいパ ッセージを一気 に演奏す る手法 を悪 趣味 とす る 古典派の急速で心 をうきたたせ る旋 律 は,学識のない聴衆 にだけ鎮静剤 となるとし, 彼 は荘重でポ リフォニ ックなス タイルの古楽 に音

楽の規範 を求めた (W.Weber,P.211) 。

また彼 は,音楽 を単 なる気 ば らしや娯楽ではな く,道徳的で知的な楽 しみ と位置づ けたが, この 音 楽 観 は む しろ19世 紀 半 ば の もの に近 い (W.

Weber,P.211)音楽通史の序論 で ホ‑キ ン ズは,音楽 を理解す る能力 は天賦の もので, この 感覚が欠如 した大勢 の人々は音楽か ら満足 を得 ら れず,そのため彼 らは変化 を絶 え間な く求めて新 奇 さを愛好 し,音楽の趣味が崩壊す るのだ とい う (.Hawkins,Vol.Ⅰ,P.32) またヘ ンデルについ ては,思慮分別 あ る人々 と低俗 な人 々の2種類 の 聴衆 を相手 に作 品を書いた として同情す る (同, Vol.,P.34,Vol.,P.913)。結語 の部分で,ロン

ドンの商業主義 と政治の不安定に伴 う人々の趣味 の混迷 を憂 えるホ‑キ ンズは,今や人々の趣味は 数少 ない分別ある人々よ りも無知 な大衆の ものが 主 流 に な っ た と述 べ て い る (同,Vol.,P.

919)。

ーニーはホ‑キ ンズ よ りも出身階層が高 く, 国際的感覚 ももちあわせていた 彼の 『音楽通史 第1巻 の予約購読者 の リス トには,多 くの高位高 官の人々が名 を連ね,彼の豊かな人脈 を物語 って いる。(W.Weber,P.214)。リス トには,ボイス, ヘイズな ど古楽関係者 も含 まれるが,大部分 は古 学 と無 関係 な人々である点が注 目される

バーニーは,第3巻は じめの 『音楽批評論』 で, 音楽 を聴 くものは皆, 自分の感情 に任せて知識や 経験,批評家の判断がな くて も,音楽の好 き嫌い が判断で きるとしなが らも,結局,音楽 には様 々 なジャンルやス タイルがあるので,その価値 を判 断で きる ものは少 ない とす る (C.Burney,Vol., P.7,8) また, 『音楽批評論』 の最後で も,単純 であ りふれた音楽 を好む ものは, アジアの昔楽 し かわか らず,洗練 された音楽は技術や手法のすぼ らしさを解す る ものに しかわか らない とし,聴衆 の階層化 に言及す る (同,Vol.,P.ll)。またホ‑

キ ンズ と同様 に,彼 は音楽の文学 と異 なる固有の 領域 を強調 し,独 自の言語 と表現,想像力 を有す る第3の模 倣芸術 と してい る (同,Vol.Ⅰ,P.18, Vol.,P.555)。ホ‑キ ンズは社会的,政治的危 機感か ら,学識ある音楽家 を頼 りに規範の確立 を 目ざしたが,バーニーはホ‑キ ンズ よ りも厳格で はな く,一般の人々 と音楽の専 門家が ともに趣味 の秩 序 を形成す る とい う積極 的で柔軟 な考 えを もってお り,実際,1784年ヘ ンデルの記念 コンサー トの際 も,彼 は記録者 として時代 の様 々な趣味の

(7)

調整 に努 めた (W.Weber,P.218)

ーニーは,1740年代,最初の ロ ン ドン滞在 で 古楽 アカデ ミーの活動 にふれた と思 われ る 当時 アカデ ミーはすでに最盛期 を過 ぎ,ペ ブシュ も老 齢 に達 していたが,彼 はペ ブシュの16世紀音楽 だ け を偏愛す る好古家 的術学趣 味 に驚 いている(同, Vol.,P.989) バーニーの よって立つ基盤 は, 古楽の狭 い世界 ではな く,近年,人 々の音楽生活 の 中で発 展 した多 様 な音 楽 世界 で あ る 彼 は ア ヴイソ ンと同様 に,一般の人 々の趣味 と同時 に, 音楽の善 し悪 しを判 断す る知識 の重視 を掲 げ, ま た,イギ リスの音楽 について も,ギボ ンズか らパー セルに至 る時代 の教会音楽 を除 くと,17世紀 以来 の音楽 は無意味で退屈 と評価 は低 い (W.Weber, p.219) バ ー ニーが古 楽 を嫌 悪 す るの は,多声 の教会音楽 に対す る反発か らであ り,彼 は対位法 は教会音楽だけに用 いるべ Lとしたが,パ レス ト リーナ とア レグ リの作 品は編纂 出版 してい る

バ ーニ ーが大 い に評価 した の は, メ タス ター ジ ョの台本 に よるハ ツセやペ ル ゴ レー ジらの18 紀 のナポ リ派 オペ ラであったが,彼 はイ タリアを 旅行 した友人たちか ら情報 を得 てオペ ラの虜 とな る に及 んで,若 い 頃か らのヘ ンデ ルや ジ ェ ミニ ア一二, コレッリ‑ の崇拝 を失 った とい う (同, P.220) バ ー ニー は進歩 主義 者 であ ったが, オ ペ ラは1730年か ら60年 に最盛期 を迎 えそれ以降は 衰退 した とし, また, ヨメ ッリや グル ックの新 し い改革 オペ ラはあ ま り評価せず,オペ ラ・ブ ッフ ア もセ リア よ りはるか に劣 る もの とした。また,バー ニーのヘ ンデルに対す る評価 は,彼 の最大の成功 作 をオ ラ トリオで は な く,初 期 の オペ ラ とカ ン

ター タとす る,R.プライスの 『ヘ ンデル批評(.

マナ リングの 『ヘ ンデル伝』 に含 まれ る) に類似 している (同,P.221)

ホ‑キ ンズが 自身,古楽 団体 の一員 として熱心 な古楽の擁護者であったのに対 し,バーニーは, 古楽 よ りも世俗 の国際的な レパー トリー として新 しいイ タリアオペ ラを擁護 した とい う立場 の違 い はあるが,彼 らは ともに価値 の混乱 した当時の音 楽情況の中での人 々の趣 味の多様化か ら古典 的規 範 の確立 を試みたのである

参考文献

C.Avison,AnEssayonMusicalExpression,

Holborn,1753,rep.,ed.byP.Doubois,Ashgate, England,U.S.A.,2004

C.Burney,A GeneralHistoryofMusic,vol.i, 1776,vol.ii,1782,rep.,ed.byF.Mercer,2vols., London,1935,NewYork,1957

.Hawkins,A GeneralHistoryoftheScience andPracticeofMusic,London,1776,rep.,1853/ R1963,DoverPublicationlnc.,New York

W.Weber,TheRiseofMusicalClassicsinEigh‑

teenth‑CenturyEngland,oxford,1992

今井民子,∫.ゲイの 《乞色 オペ ラ》 について,弘 前大学教育学部紀要,第81,P.55‑63,1999 今井民子,∫.ホ‑キ ンズ とC.バーニーに よる2 の音楽通史の比較研 究,弘前大学教育学部紀要88 ,P.34‑40,2004

(2005.7.29受理)

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