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平和教育のあり方についての一つの問題提起

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平和教育のあり方についての一つの問題提起

著者 竹内 啓

雑誌名 PRIME = プライム

号 18

ページ 53‑57

発行年 2003‑10

URL http://hdl.handle.net/10723/561

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1. 戦争はなくなるか

総合科目 「平和・人権・開発」 の講義後の小テ ストの答案を見て、 平和教育のあり方について一 つの問題点を感じた。

講義は 「戦争というものは近代世界における一 つの 制度 である」 ということを扱ったのであ るが、 テスト問題は 「21世紀の世界において戦争 はなくなると思うか」 というものであり、 もちろ ん答えはでもでもよいとした。 また事前に

「戦争がなくなるかどうかではなく、 戦争をなく さなければならない、 というような モラリスティッ なことは書いてほしくない」 と一言いってお いた。

答案を見て少々がっかりしたのは、 圧倒的多数 が 「戦争はなくならない。 なぜなら人種や宗教、

あるいは民族の対立はなくならないから」 という ものであったからである。 もちろん私は 「戦争は 21世紀中にはなくなるだろう」 などという楽観論 を期待したわけではない。 私自身の、 この問題に 対する正解という意味ではなく、 主観的な考えを 述べれば、 次のようになる。

21世紀にも、 もちろん政治的信条や宗教、 民 族、 人種あるいは経済的利益に基づく対立はな くならないし、 また民族主権国家という体制が なくならない以上、 それが国家間の対立、 紛争 になることもあるであろう。 しかしそれが直ち に 「制度」 としての戦争になるとは限らない。

核兵器やその他の強大な破壊力を持った兵器の 出現は、 それらの武器を持つこと、 使用するこ とに対する誘惑を強めると同時に、 無制限戦争 への恐怖を喚起し、 戦争を起さないこと、 戦争 が起ってもそれをできるだけ制限しようとする 努力を強化させるであろう。 全世界的な情報流 通の加速化は、 戦争の発生、 拡大を防ぐのに貢 献するであろう。

他方、 経済を中心とするグローバル化、 ある いはのような広域的政治体制の出現は、 社 会的利害関係の構造を複雑化し、 国際的な利害 対立が国家間対立に結晶化することを少なくす るであろう。 まだまだ微力であるとはいえ国連 を中心とする国際機関による紛争解決の努力も 行われている。

したがって21世紀には、 限定的な 「戦争」 や、

「戦争」 に至らないとしても単なる集団犯罪と はいえないような 「テロ」 や、 逆にそれに対す る 「警察行動」 のレベルを超えた 「武力行使」

が行われることはあると思われるが、 20世紀前 半に2度にわたって戦われた 「全体戦争」

は起らないであろう。 21世紀後半に超大国 間の全面戦争が結局起らなかったことを想起す れば、 21世紀に人類は全面戦争によって自滅し てしまうほど愚かではないと信ずるべきである。

21世紀には、 世界各国は紛争や対立によって 生ずる暴力の大きさや水準をできるだけ下げる

平和教育のあり方についての一つの問題提起

竹 内 啓

(国際平和研究所所員)

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ことに努力すべきである。 またそのような努力 の結果、 国家間の制度化された暴力行使として の戦争というものは、 21世紀中ではないとして も、 やがてなくなることが期待される。

2. 平和学の目的

私自身の 「答案」 に何点つけられるのかわから ないが、 私が主張したいのは次のような点である。

第一に 「戦争」 というのは国家間の暴力行使の 特殊な形態であって、 決して暴力行為一般やいわ ゆる紛争全般に解消するものではない。 平和論あ るいは平和主義の目的は 「戦争」 というものがな い状態を実現することであって、 少なくとも直接 的には紛争全般を解消することであるのではない。

逆に紛争全般をなくすることは、 学生達が感じ ているように不可能であろう。 それをあえて目標 とすることがより高い理想主義であると主張して も、 それが非現実的であることが明白である限り、

逆に 「紛争をなくすることが不可能である以上、

戦争はなくならない」 という悲観論を導いてしま う。

「平和」 とは消極的に戦争がないということを 意味するだけでなく、 一切の構造的暴力、 搾取、

抑圧等がない状態を意味するものでなければなら ないし、 平和学はそのような状態の実現を目標と するものでなければならないという考え方もある。

さらに進んで、 貧困、 差別、 社会的不平等などを 根絶しなければ、 真の意味の 「平和な社会」 は実 現されないので、 平和学はこのような問題も視野 にいれなければならないという主張もある。

しかし私はこのような考え方には賛成できない。

このように何もかも一般化してしまえば、 平和学 の目標は 「すべての人々が幸福であるような社会 の実現」 ということに帰着してしまう。 もちろん このような目標それ自体に反対する必要はないが、

それは 「平和学」 という一つの学問分野の対象に はなりえない。 平和学の目標は、 幸せな社会の実

現を妨げている諸悪の根絶の一つであり、 しかも 大きな原因である 「戦争」 というものを特に研究 して、 それが起こることをどのようにして防ぐこ とができるかを明らかにすることであって、 すべ ての諸悪を一度に扱うことではないはずである。

平和学の目的は、 紛争が起っても、 それが戦争 にまで発展しないようにする方策を見出すこと、

あるいはそのための制度や社会的前提条件を明ら かにすることである。

そのために戦争研究は平和学の最も重要な課題 である。 過去においても社会的紛争や国家間の対 立が常に戦争にまで至ったわけではない。 また戦 乱が絶えなかった時代もあれば、 比較的長く平和 が続いた時代もある。 また戦争の形態もさまざま であり、 敵対者の一方が絶滅に至るような戦争も あれば、 ほとんど儀式的な戦いに終わってしまう 場合もある。 平和学の観点から第一にどうしてそ のような違いが生ずるのかを探求しなければなら ない。 その場合 「なぜ戦争が起ったか」 を明らか にすると同時に、 逆の場合には 「なぜ戦争に至ら なかったのか」 を解明する必要もある。 また 「な ぜ戦争が始まったか」 だけでなく 「どうして戦争 が終わったか」 も明らかにしなければならない。

このようなことを理解するためには、 戦闘 (ある いは合戦) の歴史に倭小化されない、 一つ の社会全体の行動としての戦争の歴史を知らなけ ればならない。

第二に戦争は暴力的衝突であるが、 しかしそこ にはルールや行動規範がないわけではない。 近代 以前の戦争においても、 特に一定の社会的枠組の 中で行われる戦争には、 ある程度のルールやモラ ルが存在したし、 それを破ることは少なくとも社 会的非難を招くこととなった。 国家間の 「戦争」

という制度を作った近代国際社会、 厳密にいえば 西欧社会が、 戦争のルールの確立に努めたことは 事実である。 それが戦時国際法というものである。

それが実際には守られなかったことも多く、 ある 平和教育のあり方についての一つの問題提起

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いはそもそもそれを守らせる強制力を誰が持ち得 るかというような問題はあるとしても、 とにかく そのような概念が存在しているということ自体、

それが全く無意味ではないことを表していると考 えるべきである。

19世紀から20世紀前半までは、 戦争に関しても 国際的ルールを確立しようとする努力は積み重ね られたが、 第2次世界大戦はそのようなルールの 多くを破壊してしまった。 特に事実上すべての参 戦国が、 非戦闘員の無差別な殺戮の禁止というルー ルを破ってしまったことは、 「総力戦」 の論理的 な帰結であったが、 大きな後退であった。

しかしそれにもかかわらず、 第三に 「戦争の中 では何でも許される」 となったわけではないとい うことを明確にする必要がある。 「戦争犯罪」 と いう概念は、 二つのレベルを含んでいる。

一つは 「正しい戦争」 と 「悪い戦争」 の区別で あり、 もう一つは 「戦争の正しいやり方」 と 「間 違ったやり方」 である。 この概念は第2次大戦後 の戦争裁判の中で、 戦争犯罪のA級とBC級の 区別として用いられたが、 それが敗戦国側にのみ 一方的に適用されたために、 かえって不信を生ず る原因ともなった。 しかし逆にだからこのような 概念が無意味になったということではないはずで ある。 東京裁判やニュールンベルグ裁判の誤りは、

それが敗戦国の指導者や軍人、 兵士を裁いた点に あるのではなく、 連合国の指導者や軍人を裁かな かったこと、 そのために実は敗戦国の行為に対し ても偏った取り上げ方がなされた点にある。 しか しそれで 「戦争犯罪」 という概念が無意味になっ たわけではない。

第四に、 「戦争」 と単なる 「犯罪」 の区別が重 要である。 「戦争のルール」 に従わない集団的暴 力行使、 すなわち国際的マフィアやテロリストグ ループの行為は 「犯罪」 であって一般には 「戦争」

とされない。 「戦争」 は原則として国家やそれに 準ずるもの (内戦の場合は反政府勢力) の行為と

して容認されるものであるが 「犯罪」 はそうでは ない。 「犯罪」 を取り締まる権力は法と秩序の名 の下に、 いわば正当性を独占することができるの である。

犯罪者と権力の間には、 敵対する交戦国の間に あるような対称性は存在しない。 それ故にまた少 なくとも近代国家においては、 権力側は犯罪者に 対して自ら法と正当な手続きに従って、 権力を行 使しなければならない。 そこには暴力の行使につ いて戦争の場合よりはるかに厳しい制限がある。

犯罪者は 「法を破る」 ものと定義されるとすれば、

それを抑圧する側は 「法を守る」 ことが前提とさ れているのである。

3. 戦争行為の基準

平和学の講義の中ではこのような問題を戦争の 実態とともにとり上げるべきである。 観念的理想 主義の下に 「すべての戦争は悪だ」 「すべての戦 争行為は犯罪だ」 と主張し、 「戦争の悲惨さ」 の みを強調することは、 逆に 「この世に争いがなく ならない以上、 戦争は必ず起るし、 戦争になれば どんな行為も許される」 というシニシズムに流さ れる危険性があると思う。

この問題は現在の状況の下で大きな意味を持っ ている。 一つは現在のアメリカのブッシュ政権の 行動の批判である。 アメリカ政府が昨年8月に発 表した文書は極めて危険なものであることを指摘 する必要がある。 「アメリカに対する脅威が存在 する場合には先制攻撃が必要であり、 その際核兵 器を含むあらゆる兵器の使用が認められる」 とい うのは、 実はこれまでの 「戦争のルール」 の根本 的な改変を含んでいる。 それをブッシュは 「新し い戦争」 と呼び、 日本の一部の学者はそれを 「9 11以後、 世界は新しい戦争の時代に入った」 など と無責任に歓迎しているが、 そこに含まれている 意味は重大である。 もしここで 「アルカイダ」 な どの 「テロリスト」 はすべての国際法規を無視し

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ているのだから 「それに対抗するためには国際法 などはかまっていられない」 というのであれば、

それは犯罪者に対抗するためには法を破ってもよ いということであり、 無法者に対抗する無法者の 論理にすぎない。 それは逆に 「テロリストに対抗 する」 勢力を道徳的にテロリストと同じレベルに 落とすことになることと強調しなければならない。

次に核兵器や生物化学兵器、 あるいは大量破壊 兵器の禁止あるいは拡散防止の問題である。 もし すべての戦争が一様に悪であり、 そのための手段 がすべて 「人殺しの凶器」 であるとするならば、

通常兵器と核兵器、 あるいは 「少量破壊兵器」 と

「大量破壊兵器」 の区別は無意味なはずである。

そうすると 「すべての兵器の全面禁止」 だけが目 標とならなければならないということになるであ ろう。 しかしそのことが少なくとも当面は全く非 現実的であるとすれば、 戦争の被害をより少なく し、 戦争の手段をできる限り邪悪でないようにす るために、 核兵器や生物化学兵器を制限し禁止す る努力をすることが重要である。

この点からは、 ブッシュや特にブレアがイラク に戦争を仕掛ける名目として 「大量破壊兵器の破 棄」 を強調したことは重要である。 それは 「大量 破壊兵器の開発」 が国際的に容認されない行為で あるという原則を作り出すことになるからである。

だからその発見の見込みが少なくなったように見 える現在になって 「それはたいしたことではない」

といって済ますことのできる問題ではないことを 明確にしなければならない。

また別の方向からの 「非人道的」 な兵器として

「対人地雷」 が禁止の方向に進みつつあるのは望 ましいことである。 また核拡散防止条約について も、 核保有国と非保有国との間の不平等性あるい は 「非対称性」 の問題を含んでいるとはいえ、 同 時にその非対称が核保有国に核兵器を先制攻撃に 利用しないという義務を課していると考えられる 限り、 一つの前進であると評価することができる。

もう一つ重要なまた困難な問題は 「戦争は絶対 悪か」 ということである。 平和を消極的に戦争が ない状態と定義すれば、 平和の中にも良い平和と 悪い平和とがあることになる。 そこであえて問え ば 「戦争より悪い平和もあるのではないか」 とい う疑問が生まれ、 もしそうであれば 「悪い平和を 破るための戦争は正しい」 ということになるので はなかろうか。 もし 「いかなる戦争もどんな平和 より悪い」 といえば、 植民地解放戦争も、 或いは 侵略された側の自衛戦争も悪いことになる。 支配 されている側、 或いは侵略された側が抵抗をやめ れば 「平和」 は回復されることにはなるから、 戦 争が続くのは支配されている人々や侵略を受けた 国が抵抗を続けるからだという論理も成り立つ。

私は抽象的一般的には戦争は絶対悪であるとはい えないと思う。 結果として戦争によって 「悪い体 制」 が打倒されることはある。 しかしだからといっ て 「正義の戦争」 を簡単に認めてしまえば、 ブッ シュがフセインを打倒したのも 「正しい戦争」 で あったということになるかもしれない。 「悪い体 制」 を妥当するにしても戦争はできる限り避けね ばならないということを強調する必要がある。

4. 「日本の戦争責任」

更にここで 「日本の戦争責任」 およびそれにつ いての 「歴史認識」 の問題がある。 「戦争責任」

については、 日本が 「戦争をしたこと」 自体が悪 とされるのでなく、 「悪い戦争」 をしたこと、 す なわちその目的が 「邪悪」 であったことを問われ ているのであり、 そのことを理解することが 「正 しい歴史認識」 というものである。 少なくともそ れがアジアの国々から提起されている 「歴史認識」

の意味であり、 すべての 「戦争は悪だ」 という総 体的平和主義の立場から日本の戦争について 「批 判」 或いは 「反省」 したのでは、 その特に 「邪悪」

な点が消えてしまう。 それでは 「被害を受けた国々 やその国の人々」 を納得させることはできない。

平和教育のあり方についての一つの問題提起

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とすれば過去にさかのぼって 「正しい戦争」 と

「悪い戦争」 はどこで区別されるかをきちんと考 えなければならない。 「すべての戦争は一様に悪 だ」 という大まかな考え方では、 民族独立戦争を 含めてすべての戦争にかかわった人々は 「戦争責 任」 があることになってしまう。 ベトナム戦争が あれだけ長引き、 また多くの犠牲者を出した原因 の一つは、 ベトナムの指導者が強い 「戦闘意志」

を持ち続けたためであることは確かである。 しか しながらベトナム戦争について、 ベトナムの指導 者の側にも 「戦争責任」 があるといえるだろうか。

またここで 「悪い戦争」 と 「悪い戦争行為」 す なわち 「悪い目的」 と 「悪い手段」 とを区別する ことも重要である。 この二つはしばしば結びつく とはいえ、 本来別の次元に属する。 原則的に 「正 しい」 側が 「邪悪な手段」 を用いることもしばし ばあり、 原子爆弾による一般市民の大量殺害はそ の最たるものである。 あるいは 「民族解放戦争」

を戦う側が行う、 市民を対象とした 「無差別テロ」

もそれであろう。 これらのことは戦争の勝敗やそ こで実現された目的という結果が手段を正当化す るものでないことを意味している。 「南京虐殺事 件」 などは 「邪悪な戦争目的」 とは別のレベルで の 「悪い戦争行為」 として理解されなければなら ない。

もう一つの重要なポイントは、 戦争は 「自然に 起る」 ものではなく、 誰かが 「起す」 ものである ということである。

すでに存在している紛争や対立を戦争という形 にするのは、 誰かの 「決定」 であり 「決断」 であ る。 またそれぞれを決定するのは 「国家」 や 「国

民」 などという抽象的な存在ではなく、 君主、 政 治指導者、 軍人などの具体的な 「人間」 なのであ る。 もちろんそのような決定を下した人は、 その 引き起す結果について正しい予測をしていなかっ た、 あるいは誤った判断をしていたことも少なく ない。 したがってそのような人々が 「始めた」 戦 争が予想外の結果になってしまうことはよくある ことである。 また 「組織」 や 「自国」 の論理によっ て、 たとえトップにいても、 個人としては指導者 が自分の意志を通すことができない場合もある。

しかしかしだからといって 「戦争」 は予期せぬ時 に起る 「天災」 ではなく、 人々の行動の結果とし て生ずるものである。 だからこそそこに 「戦争責 任」 の問題が生ずるのであり、 また戦争を防止す ることも考えられるのである。 だから 「日本の戦 争責任」 を抽象的に論ずるのではなく、 誰がどう いうことについてどういう意味で責任があるのか を具体的に考えなければならない。

平和学は 「誰が、 どのような場合に、 どのよう にして戦争を引き起こすのか」 ということを確認 しなければならない。 またそのことを学生に理解 させることが、 「どうしても戦争はなくならない」

という悲観論に陥ることを防ぐために必要である と思う。

平和学の講義は 「平和の大切さ、 戦争の悲惨さ」

を説くだけでなく、 「平和への希望と平和を守る 手段」 を現実的かつ具体的に示すものでなければ ならない。 それは起こりえる国際的紛争をいかに して 「戦争」 にまで至らないで解決するかの道を 探ることであり、 そのことは決して容易なことで はないことを明確にしなければならないと感じた 次第である。

参照

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