"Helmbrecht"の作 者 の身 分 につ い て
(その‑ )
寺 田 龍 男
本 稿 目 次 0. 序
1. 研究史概観
1.1. F.Keinzの "PaterG畠.rtner"読 1.2. C.Schr6derの "Bru derWernher"読
1.3. K.Schiffmannの Kremsの ,G畠.rtner̀家出身者説
1̲.4.K.Stecheleの"WernheryonBurghausen"父子のどちらか説 1.5.F.Panzerらの ,Fahrender̀説
1.6. Ch.E.Goughの ,Franziskaner̀説 1.7.IB.F.Steinbrucknerらの騎士身分説
0.序
13世紀の中盤か ら後半 にかけてのある時点で成立 した とされ る 1)"Helmbrecht"
の作者 は ,一般 には写本A (有名 ないわゆ る "Ambraser Heldenbuch̀̀) の最 終行 に出 る名前 か ら,W ernher der Gartenaereとい う人 物 だ った ろ う と推 定 され て い る。2)実 際 ,今 日手 に入 る Ausgabe もす べ て その お もて表 紙 に W ernherderGartenaereとい う名を挙 げてお り,彼が この作品を な した ことは あたか も真実で あ るかの よ うな印象 を与 え る。 しか しこれ はそ う簡単 に割 り切 れ る問題で はない。 この物語 を今 日にまで伝 え るもうひ とつの写 本Bには ,局
* 本稿 は昭和60年度文部省在外奨学金給費学生 と して ドイツ連邦共和国 ミュ ン六 ン大 学 に学 ん だ 際 ,Herbert Kolb 教 授 の ゼ ミナ ー ル "Die Erzahlung von Helmbrecht"(1985/86年度 冬学期 )で同教授 の指導 を受 けた研究の成果 の一部 を ま とめた ものであ る。Kolb教授 は もとよ り,資料収集等 でお世話 にな った浜崎長 寿 ,吉 田敏 彦 ,大塚 譲 ,副 島博彦 ,橋 本聡 ,浜 田敏 道 の各 氏 ,そ して と りわ け Andre'a‑MariaFalgeにはあつ く御礼 を申 し上 げたいo
1)た とえば Brackertetal.1972,S.132f. 2)た とえば Ruh1974,S.XIIおよび ⅩⅤⅠⅠ.
〔127〕
知 の よ うに作者 (た りうる者 )の名前 が記 されて いないので あ る。
た しか に,1902年 に出 た Panzerの精 密 な研 究 以 来 ,3)写 本Aの テ クス ト の方 がBのそれ よ りもいわ ゆ る Originalに近 い とい う認 識 が 今 日まで 支配 的で あ′り,その意 味で は両写本で大幅 に異 な るテ クス ト末尾 の記述 に対す る信 頼の置 き方 に影響が出るの も一理あることで はあろ う。 けれ ど もこの箇所で は ,
テクス トの他の部分のよ うに物語の内的世界が描写 されて いるので はな く,‑
写本Aに関 して いえば‑ 作者 が 自 らを紹介す るとい う,いわば次元 の異 な っ た世界 が表 出 されて いるので あ る。 一貫 した筋 立 てを もつで あろ う内的世界 が 具現 され たそれぞれの物語 テ クス トを比較す る基準 を ,はた して この部分 にそ のままあてはめてよいだろうか。な るほど写本AとBのそれぞれ の Archetypus は ,直接 で あれ間接で あれ ,同 じもので あ ったろ うと今 日推 測 され て い る.一4)
また写本Aの筆者であ る HansRiedは その原 拠 に た い‑ ん忠 実 で あ った と 認 め られて い るか ら,5)筋 の進行す る部 分 につ いて は写本Aの テ クス トに従 う のが よいだろ う。 しか し 「思慮深 く」書写 した とされ るBの筆 者 が ,6)自 らの 原拠 にあ った (?) この名前 を落 と した ことにはそれ な りの理 由が あ ったか も しれ ない。 そ うい う姿勢 を もつ人物 だ ったか らこそ (写本Aの)1923行以降 に あたる部 分を (不純 とみ な して ?)全面 的 に変 え たか も しれ ないので あ る。実 際 Blosenは ,WernheTを この件 品 の詩 人 とみ なす こ とに は い くらか の 留 保 をつ けるべ きだ と考 えて い る。彼 によれ ば Wernherは ,写本 が書 かれ て は伝 え られ るとい う過程 が繰 り返 され る途 中で 「入 りこんだ」人物 だ ったか も
しれ ないか らで ある。 7)
そ こで 本 稿 お よ び 次 稿 で は ,"Helmbrecht" の 作 者 が Wernher der Gartenaereな る人物 で あ ったか ど うか はひ とまず お いて , この作者 が どの よ
∫
うな社会身分 に属 して いたか とい うよ り本質 的 な問題 を考 え る ことにす る。 こ 3)Panzer1902,S.88‑112.
4)Brackertetal.a.a.0.,S.123.
5)Panzera.a.0.,S.101. 6)ibd.,S.100.
7)Blosen1974,S.302.
"ilelmbrecht"の作者 の身分 について (その‑ )(寺 田 ) 729 の点 は実 は研究史の ス ター トとはぼ同時 に とりあげ られ ,今 日既 に100年 以 上
も論ぜ られて い くつかの有 力 な仮説 が あ る ものの ,いまだ に定説 はない といわ ざるを得ない状態なのである。だか ら今後 よほど決定 的 な資料 で も出ない限 り, た しか に Brackertらが述 べ たよ うに ,い くつ か あ る うちの どの テ ーゼ に最 も大 きな説得 力が あ るか とい う形 で しか議論 は進行 しな いで あ ろ う。8)しか し 最近 Kolbが作者 について新 しい見解 (法 律 関係 者説 ) を 出 した ため,9)今 後 また議論が活発 にな る ことが予想 され る。 そ こで まず本稿 で , これ まで に出 され た様 々なテーゼの い くつかを整理 して 紹 介 し,次稿 での本論展 開の土台 を なす よ う批判 ・検討 を加 えてゆ くことにす る。 それ らによ り,先 の名前 の問題 に も資す る ことが あ ろ う。 10)
1.研究史概観
I.I. FriedrichKeinzの"PaterGartner"読
これ まで に出 され た諸 々の見解 の うちで最初 の見 るべ き ものは,1865年 に Keinzが その校 訂 版 の解 説 で 示 した もので あ ろ う。 11)これ によ る と ,1125年
にSalzburgの大司教 Konrad一 世 が Bayernの Heュnrich derSchwarze
公 の 協 力 によ り Ranshofen (Inn川 流 域 で Salzach川 との 分 岐 点 近 く) にア ウグスチ ノ派の修道院を建立 した。(こ.れは1811年10月26日に廃 止 され る まで続 いた。) さ らに この土地 の古老の記憶や その親 たち の語 った と ころ によ る と,古 くか ら この修 道 院 で は paterた ち‑ 即 ち学 識 の あ った人 々‑
の うちの一人が庭 師 (Klosterg畠rtner)と して働 き続 け て いたo 彼 らは広 い 庭 の管理 だ けで な く,毎年 この修道 院 の全領 域 を まわ って農 民 た ち に果樹 栽 培等 を教 え る役割 も担 い,時 には笑 話 を語 る こ とさえ あ った とい う。 そ こで
8)Brackertetal.a.a・0・,S・130・
9)筆者 が参加 したゼ ミナールで彼 自身が述 べた もの。今の ところまだ文書 の形では発 表 されていないよ うであ る。
10)なお‥,derGartenaere" とい う添 え名の意味 につ いて も しば しば論 ぜ られ て い るが ,ここでは次章で何度かふれる以外 は特 に立 ち入 らない。 この添 え名 の 「解釈 」 については Piper(1889,S.399f.)等 に詳 しい解説が ある。
ll)Keinz1865,S.14r.
Keinzは , 彼 が "Helmbrecht" の 作 者 と 断 ず る Wernher の Beiname で あ る "derGartenaere" に注 目 し, この 人 物 が 作 品 の 冒頭 で 自 ら体 験 した 事 を語 る と述 べ て もい る と ころか ら,12)Wernherは これ らの Klosterg畠rtner の うちの一 人 だ った と考 えた ので あ る。
さ らに Keinzは 1887年 に 出 した そ の校 訂 第 二 版 で い くつ か の 新 た な 論 拠 を挙 げ た。13)それ によ る と, この作 品 が ま とめ られ たの は主 に農 民 教 化 と後 世 の ためで あ り,その効 果 的主 段 と して会話体 が用 い られ た。そ して こ う した 手 法 は ,Fahrender(遍 歴 芸 人 ) で な く民 衆 教 化 につ と め る Geistlicher
(聖 職 者 )にふ さわ しい。だか ら以 下 の例 も民 衆 に親 しい調 子 で語 りか け る聖 職 者 の 口か ら出 た と考 えて よ い と Keinzは い う。
ich bin vilgarerlazen/S6guoterhandelunge,/alsd畠 hatderjunge.(V.8401842.)
(私なぞ ,この若者が こうして もてなされたようないい目をみること はまった くありません。)14)
swieviュichγarenwadeleノ S6binic九 an deheinersteteノ damanmirtuoalsmanim tete.(V.8481850.)
(私がどんなにあちこち廻 っても,このように結構な もてな しにあず かれそうな所 はあ りますまい。)
(weereinherreinh6heraht,/nitderselbenrihte/ woldichhabenphlihte):(Ⅴ.864‑866.)
(もし私が高貴のお方であ ったとして も,このような料理な らば御馳 走 にあずか りたいと思 ったことで しょう)
12)hiewilichsagenwazmirgeschach/dazichnitminenougensach.(V.7f.) 以下引用例 はすべて Rullの校訂版 (1974)による。
13)Keinz1887,S.9113̲
14)以下訳文は浜崎長寿氏の翻訳 (1970)を引用 させていただいた。なお文意をわか り やす くす るため ,表現をわざと生硬 に改めたところがある。
"Helmbrecht"の作者の身分について (その‑)(寺田) 131 ich wildes nitwarheitjehen,/ daz ich biden selben
knaben/denw^lbenh合tunh6heerhaben.(V.208‑210.) (ほんとうのところ,この私なぞ,その若者 と並んだなら,女たちか らてんで見向きもされなかったことで しょう。)
diemateeinnunnegemeit./diuwasdurchirh6vescheit/az irzelleentrunnen./ezgeschachderselbennunnen/alsviュ manegernochgeschiht:(Ⅴ.109‑113.)
(その [帽子の]刺繍を したのは浮かれ ものの尼 さんで した。華やか な暮 らし‑の望みがたちきれず,彼女は僧房をとび出 したので した。
今でもよくある話ですが ,その尼 さん も御多聞にもれな●か ったわけで す。)
特 に最 後 の例 につ い て Keinzは ,Ranshofenの 修 道 院 が 当 初 男 女 と も に収 容 す る いわ ゆ る Doppelklosterだ った こ とか ら,15)風 紀 が 乱 れ た 可 能 性 な どを示唆 しつつ も,根 本 的 にはや は り社会道徳 の低 下 を厳 し く指弾す る聖 職 者 が農民 らに対す る教化 の ため に こ う した文 を あえて 口 に したのだ とい う見 解 を貫 いて い るので あ る。
さて以上 が Keinz説 の要 旨で あ るが ■, これ には疑 問 な点 が 多 い.彼 の 挙 げた "derGartenaere" とい う名称 の共 通 点 は別 に して ,農 民 た ちの 間 を ま わ って彼 らの生活 に通 じて いた とい くら強調 して も,だか らとい って彼 らを導 くため に この作 品 を な した ,つ ま り聴衆 に農民層 を想 定 した ことには い ささか 無 理 が あ る。.こう した類 の仮 定 を 「ま った くの 時代 錯 誤 」 とみ なす Ruhの 見解 は別 に して も,16)写本 に書 き残 され るよ うな作 品 は まず第一 に宮廷 人を その Publikum と した とい う前提 か ら出発 す べ きで あ ろ う。 当時 はまだ この よ うな
15)1296年になって修道女の数が6人に制限 され.1314年には修道女などの入所が禁 じ られた。(Keinz1887,S.12).
16)Ruba.a.0.,S.XIX.
文芸活動が貴族や高位聖職者 の社会 に属 していたか らであ る。17)た しか に文 芸 活動 それ 自体 は ,宮廷 だ けで な くた とえば 「路傍」で も行 わ れて お り,18)従 っ て農民等の下層階級が聞 き手 とな った ことは十分あ り得 るのだが ,異 な った聴 衆 を相手 にま った く同 じ文芸活動が行われて いた とは考 えに くい。 さ らに 「土 地 の古老 たちの記憶」 とい うの もた しか に重 要 な要 素 で はあ るが ,Keinzの 時代か らで さえ約600年 も遡 る ことにつ いて ,一体 どれだ けの真悪 性 が あ るだ ろ うか。文献で証明す るのは不可能 であろ う。 また先の 「自 ら体験 した ことを 語 る」 とい う表現 (いわゆ る Wahrheitsbeteuerung)紘 ,今 日で は真実 とい うよ りむ しろ宮廷文学 とい うジャンルに固有 の一種 の Formelと解 され て い る。19)
ところで Panzerはその校訂版 の解説 で ,作者 の身 分 に関 して 示唆 を与 え る諸 々の表現 は 「聖職者」 とい う可能性 をむ しろ否定す る ものだ とみな し,吹 のよ うな例 を挙 げる。 20)
ich gibeouch keinem pfaffen/ nihtwan sin barez reht.
(Ⅴ.780‑781.)
(たとえお坊 さまにでも,余計なはどこLはしてさしあげられない。)
これ は農民 の理想像 と して描 か れ て い る Helmbrecht(父 )の 口か ら出 て い るだけに,作者を聖職者 とは考 えず らい と Panzerは述 べ る。 また先 に挙 げ た112行 以 下,208行以 下 に続 いて ,
gesagt ich nie iht wares,/ doch sult ir mir gelouben/
dazm記.re Yon der houben,/ wie kleine man si zarte.
17)Wehrli1984,S.69f.および Bumke1986,S.638f. 18)Bumkea.a.0.,S.691.
19)たとえば浜崎 a.a.0.,S.158お よび Brackertetala.a.0.,S.
139.
20)Panzer1941,S.XIr.
"Helmbrecht"の作者の身分について (その‑)(寺 田) 733
(Ⅴ.1892‑1895.)
(これまで私が一度 も本当の事を言わなかったとしても,その帽子が 如何に小さく引きちぎられたか,そのことだけはどうか皆 さん信 じて いただきたいと思います。)
とい う作者 の言 明 ,そ して839行 以 下 と848行 以 下 に いた って は ,作 者 の素 姓 と して もはや聖職者 は考 え られず ,む しろ 遍 歴 芸 人 ・(Fahrender) だ った ろ うと Panzerは考 え るので あ る。で は ま った く同 じ文 につ い て ,Keinzと Panzerの見解 が この よ うに異 な るの は なぜ だ ろ うか . ひ とつ には ,Panzet が純粋 にテス ク トに書 かれ た ことだ けか ら判 断 しよ う として い るの に対 し, Keinzの 方 に は ̀Pater G盆rtnerと結 び つ け よ う とす る 明 らか な 先 入 観 が まず あ り, これが個 々の文 の解釈 にまで影響 を及 ぼ して いる といえ よ う。
今 日最 も多 くの 支持 を集 めて い る この Fahrender説 の 当 否 に つ い て は 後 に論 じる こ とにす るが ,実 際 , これ まで見 て き た Keinzの考 え方 に は , 現実 には文献 で証 明で きない ものを 自 らの想像 力 で補 お うと した り,あ る い は lokalpatriotischな声 に動 か され たふ しが あ り,実 証 的 とは とて もみ な し難 い と い わ ざ る を 得 な い の で あ る。そ の た め か , 当 初 は こ の "Pater G畠rtner"説 も多 くの支持 を得 たよ うで あ るが ,その後 は研究史 上 の (過去 に 消 え去 っ・た)‑仮説 と して短 く紹介 され る ことはあ って も,積極 的 に支持す る よ うな論考 はほ とん ど出て いな い。21)
:L2. CarlSchr6derの "BruderWernher"読
Keinzと同 じ1865年 ,Schr6derは そ の 論 文 の 中 で Keinz説 を否 定 し ,
"Helmbrecht" の 作 者 は オ ー ス トリア の 格 言 詩 人 Bruder Wernher と 同 一人物 で あろ うと述べ た。 22)
21)なお R・Schrbderが Keinz説 に近 い態度 を とってい る。(R̲Schr6der 1870,S.302).
22)C.Schr6der1865,S.4551464.
彼 は まず "Helmbrecht"が叙事詩 と して は唯 ひ とつ農 村 を舞 台 に した作 品 で あ る ことに注 目 した。 さ らに これが好 んで衣服 の描写 を行 って い る こと,23) 本文217行以下 で特 に名を挙 げて い る こ とか ら,24)この作 品 の作 者 は ,同 じ く 農民 を主題 の中 に と り入れ た作品をつ くった とされ る叙情詩 人 Neidhartvon ReuentalLと何 らかのかかわ りが あ ったろ うと推定 して い る。 そ して 「農 村」
をテーマ と した文芸 が最 も厚 遇 され たの が Wienで あ り ,Neidhartが そ こ で重要 な役割 を果 して い る こと,そ して作品 を貫 く根本思想 に共通点が あ る こ とか ら "Helmbrecht" の 作 者 を ,や は り Wien で 活 躍 し た こ と の あ る BruderWernherだ った と考 えて いるので あ る。 またその際 "Wernher" とい
う名が有 力 な根拠 にな る と して もいる。
また身分 につ いて は,Bru‑derとい う表現 はあ って もこれ は聖 職 者 を意 味 す る訳 で はな く,いわゆ る Manesse写 本 の 肖象 の紋 章 か ら推 して貴 族 の 出で あ ろ う と Schr6derは述 べ る 。 た だ "Helmbrecht" の 本 文848行 以 下 (作 者 が主人公 の受 けた厚遇 を羨 む くだ り) と,衣裳 や食 事 につ いて蓮 べ る部 分の 調子 に注 目 し,貧 しい放浪生活 を送 る境遇 だ った と推定 して いる。 25)
しか しこの Schr6der説 も後 に Panzerの 強 力 な反 論 を浴 びて今 日に至 っ て い る。26)Panzerは三 つの点 で Schr6derに反駁 した。
第一 に "Wernher" とい う共通点 は単 な る共通点 で あ ってそれ以上 の何 物 で もない。第 二 に両者 の思想 に類以点 はあ るが , これ らは二人 だ けの共通点 とい うよ りはむ しろ彼 らの時代が生 んだ もので あ って ,彼 らだ けに限定す る ことは で きないと した。 さらに この点 を補 い ,BruderWernherは真面 目で常 に説 教 を して叱 るよ うな 口調 が あ るの に対 し,WernherderGartenaereの方 は 23)た とえば V.14‑20,26‑103,178‑216,271‑277等多数 。なお NeidhartYon
Reuentalに関 しては詩節85,38か ら86,30を参照 されたい。
24) 「ニー ト‑ ル ト殿,このひとには天賦の才がありましたが,これがもし生きておら れたな らば,私がこんなお話をするよりずっとたくみに歌 って聞かせ られたことで
しょうに。」"Helmbrecht"Ⅴ.217‑220.なお原文省略。
25)なお Bumkeは,彼を聖職者ではあるまいとしなが らも,貴族 の可能性 について はなん らふれていない。(Bumke1976,S.19)
26)Panzera.a.0∴ S.xf.
"Helmbrecht"の作者 の身分 につ いて (その‑ )(寺 田) 735 冷めたところがあるほか笑 って見下 した り切 って満足す るよ うな姿勢 がみ亘 る ,
と して いる. この よ うな内的 な畢離 点 を指 摘 した あ と ,Panzerは Schrbder 説 を決定的 に論破 した とされ るきわめて実証 的 な論拠 を最後 に挙 げた 0
Panzerは Bruder Wernherの 作 品 と "Helmbrecht" に 現 わ れ た 脚 韻 の特徴 を詳細 に調 べ ,両者 の用 いた方言 と韻 のふみ方 に数 多 くの相違点が あ る
ことを明 らか に した。 た とえば
BruderWernher "Helmbrecht"
(Ⅴ.1547f.)
(Ⅴ.1047f.)
(Ⅴ.1021f.)
(Ⅴ.507f.)
とい う例 が示す よ うに,両者 で母音 の質 が異 なるケースが あ る。 ま た Bruder Wernherで は sagen,klagen等 の 動 詞 で ‑aget形 ば か りが 出 るの に 対
し,"Helmbrecht" で は更 に ‑eit形 もあ る。 こ う した ,両 者 の母 音 の と り 方 の違 いや ,同 じ単語で も語形 に双方共 か たよ りが あ るよ うな例 は他 に も数多 く報 告 され て い る。27)さ らに最 近 の研 究 成 果 を援 用 す れ ば , この Schr6der 説 を否 定 す るため に も うひ とつ 重 要 な 論 拠 を 挙 げ られ る。 まず Schr6der は Helmbrecht(父 )の 口を通 して特 に次 の よ うな思 想 が くみ とれ る , と し て い る。
1. 自 らの身分 を越 え ることで神の定 めた秩序 に逆 らうの は よ くな い。
27)・ただ し Panzerはオ リジナルか ら (おそ ら く複数 の )写 本 をへ て校 訂 版 に至 るま での プ ロセスになん らふれて いない。従 って ここで挙 げ られ た用例 が.一一・一一召ruder Wernherも含めて‑ オ リジナルの語形 を忠実 に再 現 した ものか ど うか はおお いに 疑 問 で あ る と しな け れ ば な らない。 (Vgl.Brackertetal.a.a.0.,S.
122f.).̲
2. 農民 は宮廷 人の一員 た る に はふ さわ し くな い。
3. しか し徳 が備 わ らな けれ ば金持 ちや貴 族 も無 に等 しい。
4. む しろ徳 こそが人間の価 値 を はか る唯 一 の基 準 。
そ して彼 は , これ らが Bruder Wernherの根 本 思 想 に一 致 す る とみ る。 28)
しか しこれ らの うち 3.紘 ,そ の好 例 と して "Helmbrecht" の487‑508行 及 び913‑1039行 が最 近 よ く引用 され て い る宮 廷批 判 及 び社 会 批 判 (Hof‑und Gesellschaftskritik) の 思 想 に は か な ら な い。29ISchr6der は B.ruder Wernherの作品 につ いて も "Helmbrecht"の 「批判 」 によ く似 た箇 所 を指摘 してお り, これ 自体 はおお いに注 目すべ きであ るが ,‑これ らの作品がつ くられ た当時は聖職者文学か ら宮廷叙事詩や格言詩 ,さらには英雄叙事 詩 にまで 「批判 」 の文句 が入 りうる時代 だ ったのであ る。特 に Bumkeは ,過 ぎ去 った時代 を 賛 美 す る ことが現 実 社 会 を批判 す る効 果 的 な手段 とな った と し,例 と して HartmannYonAueの ,,Iwein"(Ⅴ.48‑52),Waltheryon derVogelweide
(23.32f.)を 挙 げ て い るが ,30) "Dietrichs Flucht" (V.54‑56)も これ に該 当 しよ う. この点 は先の Panzerの批 判 に も重 な るの で あ るが ,単 な る 類似点 だ けで二人の人物 を同一視す るの はや は りい ささか性急す ぎ るといえよ
う 。
この よ うな理 由 によ り,Schr6der説 も先 の Keinz説 と同 様 今 日で は も はや受 け入れ られ て いない。31)
1.3. KonradSchiffmannの Kremsの .GartTler'家出身者説
Schiffmannは ,この 作 品 が つ くられ た のが 今 日の (低 オ ース トリアの ) Kronland と断 じた あ と ,Donau川 流 域 の Kremsに Gartenaere と い
28)C.Schr6dera.a.0.,S.461f.
29)た とえ ば Bumke1986,S.26f.および583‑594.
30)Bumkea.a.0.,S.26rf.
31)なお Piper(a・a・0・,S・401)が この Schr6der説 に近 い立場 を とって い る。 Rub a・a.0.,S.XVIIf.お よ び Brackert et al. a. a.0., S.130を参照 されたい。
"Helmbrecht"の作者の身分について (その‑)(寺 田) 137 う名の人物 の記録があることか ら,これ と "Helmbrecht" の写本Aの末尾 の Gartenaereが結 びつ くという説 を1917年 に発表 した。 32)
彼 に よ る と一,あ る古 文 書 に 出 る Kremsの Eberhard der Gartn占r と い う人物が,1293年12月15日付 けで上 オース トリアのBaumgarten司教 区 に 自 分の家 とぶ ど う畑 を遺贈 した。 ま た この家系 には,1459年 に Kremsの人 々 が皇帝 に従 うよ うにな った時頭 目だ った Gartnerとい う人物 も属 して いた と推 定 して い る。33)そ の た め Wernher der Gartenaere も Krems の Gartenaere家 に属 して いた可能性が高 いが ,その名が記録文書 に載 って いな いの は ,彼 が Fahrenderとな って 出 て い った か らだ ろ う と Schiffmann は結論づ けているのである。
しか しこの仮説 も,その後 は1940年 に Schiffmann自身 が別 の論稿 で 自 ら の見解 に再 びふれ た以外 は特 に 乙れを支持す る意見が出 され 七 いな い034)逆 に Steinbrucknerや Brackert らに説 得 力 の な さを 指 摘 され て お り,35)特 に 有 力 な証拠 が発見 され な い限 り今後 も取 り上 げ られ る ことはな い と思 わ れ
る。
I.4. KarlStecheleの "Wernher von Burgh ausen" 父 子 の ど ち らか 説
Stecheleは ,先 の Keinz 説 の 項 で 挙 げ た Ranshofen の 修 道 院 に 残 って い る記 録 文書 に数 回 出 る Wernher Yon Burghausen とい う人 物 を
"Helmbrecht"の作者 とみ なす 見解 を1922年 に発 表 した。36)これ によ る とま ず1210年 に この人物がある件 の証人 と して古文書 に登場す る。続 いて1212年の
3月 には この人物 の息子 (父 親 と同名 )が Ludwig公 とと もに Frankfurt 32)Schiffmann1917,S.13f.
33)さらに Schiffmannは "Helmbrecht"本文中に現われる人物 と同 じ名をもつ者 も記録に残るとしているが (ibd.,S.14),こ こでは立ち入らない。
34)Schiffmann1940.S.43.
35I) steinbruckner 1968, S.378f.,Brackertetraユ. a. a.0.,S.130お よび Ruha.a.0.,S. XVIII.
36)Stechele1922,S.348f.
にいた ことがわか って いる。 さ らに1215年の記録 には父子が と もに現 われ , こ の名前 は1220年 頃 の もの に もま た記 され て い る とい う。 つ ま り Stecheleに とって は , この父子 の名前 と ここで問題 とす る作品 の最末行 に出 る名前 の共通 点 で ある ,Wernher̀が ,まず第一 の根拠 とな って いるので あ る。
第二の根拠 の手がか りと して,Stecheleは さ らに次の文 を引 く。
liebersunmin,nutrinc/denallerbestenursprinc/der 色z erden iegef16Z・/ ich weiz niht brupnen sin gen6Z・/ wanzeWanchasender:/dentreitetunsnaniemenher.̀
(Ⅴ.893‑898)
(まあお前 ,大地か らわいて出た中ではとびきり一番の,この泉の水 でも飲んでおいて くれ。ヴァンクフ‑センの泉よりはかに,これと比 べ られるような泉をわ しは知 らないが,あれを今ここへ誰かがもって 乗 もすまいしな」)
Stecheleは , この Helmbrechtshof(?)の近 くの 泉 とは Reuterbr血 nlein の ことだ と断 じた うえで , この土地 の出身で ない者 が ど う して上 の二 つの泉 を 知 り うるか , とい う疑 問 を呈 して い る。 なぜ な ら この Burghausen近 郊 の weilhartの森 の 向 こ う (こ こ に Helmbrechtsh6feが あ る と Stecheleは いう)にはまともな道が通 じていないか らで あ る。 さ らに も し作者が fahrender
ヽl
Sangerだ ったな らこんな人里離 れ た森 の奥 に足 を踏 み入れ る こ とは なか った ろ う し,ま た そ う した境 遇 な らば Lyrikerだ った筈 だ と して , この作 者は や は り地元 出身で騎士身分だ った と Stecheleは述 べて いるので あ る。
彼 の大胆 な推測 は さ らに続 き, この "Helmbrecht" の 文体 の辛 殊 さはノ 作 者 が厳格 な Heinrich十三世 とその敬 虞 な妻 Elisabethの宮 廷 に仕 え て い た か らで あ り,derGartenaereとい う緯 名 も,騎士生活 を引退 した後 に入 った Ranshofenの修道院で熱心 に庭 の手 入れを した ことに よ り,ひ ょっ とす る と 院長 らが冗談 ま じりでつ けた ものを本人 も喜 んで作 品 に書 き こんだのだろ うと
"Helmbrecht"の作者の身分について (その‑)(寺 田) 739 して い る。 (他 に もい くつ か の細 か い点 を Stecheleは挙 げて い るが こ こで は省 略す る)
果 して彼 の仮 説 は 真 で あ り う るか 。 ま ず 彼 の 挙 げ た 古 記 録 で あ るが , ,wernher̀とい う名前以外 に ,二人の騎士 (の どち らか ) と この 作 品 を積極 的 に結 びつ ける ものが あ るか と問われれ ば否 と答 え る以外 あ るまい。Wernher YonBurghausen父子が これ らの古文書 に登場す る1210‑20年 とい うデータ自 体 は , この作 品の成立年代 に関す る最近 の研究 と照 らし合 わせてみて も,必 ず
しもま った く不 自然 とい う もの で は な い。37)しか しそれ 以外 の Stecheleの 論拠 は ,彼 自身が Ranshofen周 辺 の土 地 事情 に い くら精 通 して い る と主 張 して も,38)いわば独断のか たま りで あ り,Spekulation と して はお も しろ くて も文献 で証明す る ことはほ とん ど期待 で きな いよ うな点 ばか りが挙 げ られ て い る。 その た め 今 日で は Steinbrucknerが や や 好 意 的 に紹 介 して い る程 度 で,39)他 昼 もうま った く無 視 して い る に等 しい。
1.5. FriedrichPan2:erらの ′Fahrender'説
今までのところ最 も有力 とみなされている 「作者 (‑WernherderGartenaere)
‑Fahrender」説 は ,ま ず Panzerが そ の Ausgabeで 詳 し く展 開 した と い って よいで あろ う。40)
既 に 見 て き た よ う に Panzer は Schr6der と Keinz の , 特 定 の 人 物 と結 びつ けよ う とす る仮 説 を いず れ も根 拠 薄 弱 と して 否 定 した。41)だ が
37)た とえば Brackertetal.(a.a.0.,S.132f.)はその成 立 を1237‑90年 代め間とみている。
38)SteGhelea.a.0.,S.349.
39)Steinbrucknera.a.0.,S.378.
40)初版は1902年刊行であるが,ここでは1941年の尭 5版をもとに論を進める。(Pan岩er 1941,S.X‑ⅩⅤ)なお この説 の ア プ ローチの し方 が 本章 第 3項 で扱 った Schiffmannのテーゼ (これも一応 Fahrenderとしている)のそれ とまった く 異なるため,項 目を分けたのである。
41)Panzerは R・M・Meyerが たてた 「聖職者説」(Meyer1908,S・428f・) も否定的 に紹 介 して いる.(Panzer a.a.0.,S.XII)実 際 Meyer説 は根拠がきわめてあいまいなので,詳細はここでも取 り上げない。