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大伴旅人の吉野賛歌
村山
出
暮春の月に吉野の離宮に幸す時に、中納言大伴卿、勅を奉りて作る歌一首井せて短歌未だ奏上を経ぬ歌
み青野の.芳野の宮は山からし貴‑あらし水からし活け‑あらし天地と長‑久し‑万代に
不レ改あらむ行幸の宮(3三7五)
反歌
昔見し象の小川を今見ればいよよ清け‑なりにけるかも(3三1六)
大伴旅人は筑紫赴任の後、神亀五年(七二八)以降はもっぱら短歌を作るが、それ以前に一首だけ長歌を残してい
る。旅人としては唯一の儀礼的な讃歌であった。
旅人の中納言時代に、天皇が暮春(三月)に青野離宮に行幸した年というと'聖武天皇の神亀元年(七二四)であ
る。﹃続日本紀﹄には、二月四日に即位したばかりの天皇が三月一日に吉野の宮に行幸Lt五日には平城宮に戻った
とある。
ところで問題は'題詞に「中納言」の旅人が「勅を奉りて」歌を作ったが'「未だ奏上を経ぬ歌」と注記している
ことである。これはどういう意味であろうか'またこのような題詞をもつ歌をどう理解したらよいのだろ‑か。
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二
題詞について考える前に'歌の表現を検討しておきたい。
儀礼的な吉野讃歌には規範的な先例として柿本人麻呂の青野讃歌がある。旅人の歌の表現もその系列に属すると
いえるだろうが'長歌の表現に「山水、天地'長久'万代、不レ改、行幸」など'漢語のままの表記が要所々々を
占めており、それがこの歌の特色になっている。この点については既に清水克彦氏が懐風藻詩や宣命の表現にもと(1)づ‑と指摘され、この歌の理解にあらたな糸口をつけられた。駿尾に付していささか私見をつけ加えたい。
旅人の讃歌の構成を見ると、川口常孝氏も推定されるように、笠金村の吉野讃歌を直接参考にしたのではないか(2)と思われる。金村の歌は、旅人の讃歌が作られる直前の養老七年に、元正天皇の吉野行幸にあたって作られた。こ
の頃既に皇太子首皇子への譲位は予定されており'金村の歌の表現にもそれへの配慮が見られることは清水氏が指(3)摘されてもいる。
中納言の旅人が'金村の吉野讃歌を全‑知らなかったとは考えられない。また即位直後の新天皇の吉野行幸にあ
たって讃歌を作ろうとした時、これを全‑度外視したとも考えられない。状況的な点ばか‑でなく旅人の歌の表
現を見ても'金村の吉野讃歌の表現を意識的に踏まえ、改変していることが認められるようである。金村の歌はつ
ぎの通りである(ただし戎本の反歌は省‑)0
養老七年発亥の夏の五月に'吉野の離宮に幸す時に、笠朝臣金村の作る歌1首井せて短歌A
B
滝の上の三船の山に瑞枚さし繁に生ひたる栂の木のいや継ぎ継ぎに万代にか‑し知らさむみ封易J叫山川を清みさやけみうべし神代ゆ定めけらしも(6九〇七)
大伴旅 人 の吉野讃歌 102(3)
反歌二首
年のはにか‑も見てしかみ吉野の活き河内のたぎつ白波(6九〇八)
山高み白木綿花に落ちたぎつ滝の河内は見れど飽かぬかも(6九〇九)
旅人の歌を金村の歌と対比させて見ると'つぎのようなことがわかる。
まず長歌の表現において'旅人の歌の前半「み吉野の吉野の宮は山からし貴‑あらし水からし活け‑
あらし」の表現は、金村の歌の傍線部Bの表現を踏まえて改変したと見られるのではないか。また、旅人の歌の後
半'特に「(天地と長‑久し‑)万代に不レ改あらむ(行幸の宮)」は'金村の歌の傍線部A「万代にか‑
し知らさむ(み吉野の秋津の宮は)」の表現を踏まえて改変したと見られるのではないか。つま‑、旅人の歌は、
金村の歌の導入部と結句の表現を除‑中心的な部分を踏まえてその表現の位置を前後入れ換え'表現の力点の違い
に旅人としての意図を表そうとした、といえるように思う。
この長歌がただちに「み吉野の吉野の宮は」と歌い始めたことについて、伊藤博氏は'白鳳の世を開いた天武
天皇が、その昔吉野に寵もった折の嘆きの心情を仮託した童謡(日本書紀歌謡一二六)の冒頭の二句「み吉野の吉
野の鮎」を踏まえていると解され、旅人が白鳳の吉野を前提として、聖武天皇の吉野を讃美しようとした意図を読(4)み取っておられる。確かに考えられることで、そのような旅人の内的な契機が歌の冒頭の表現を決定づけたとい‑
ことはありうる。その意義を内包しつつ金村の表現構造を踏ま、え、旅人的な表現の展開を図ったと見ることができ
るであろう。
つぎに反歌の表現において、旅人が表現を川に絞っているのは'金村が長歌で「山川を清みさやけみ」と述べ
ながら、反歌では川についてだけ表現していることに示唆を受けているのではないか。金村はその先例を人麻呂の
吉野讃歌(1三六〜七)に仰いでいるだろう。
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では、旅人の表現内容は金村とどう違うのか。
金村の歌の傍線部Bの表現が、吉野の秋津の宮そのものの、また宮のある国土の神威を覚える高貴さにおいて讃
美するのに対して、旅人の長歌の前半「み吉野の吉野の宮は山からし貴‑あらし水からし清け‑あらし」
は、宮の存在する吉野の自然(山川)の清浄な崇高さによる賛美へと転換させている。このような表現が可能となっ
たのは'清水氏が指摘されたように、漢詩的な発想をとったことと無関係ではあるまい(懐風藻詩の訓みは小島憲之
人 文 研 究 第 82 輯
氏日本古典文学大系本による)0
吉野宮に遊ぶ中臣人足
惟山且惟水
能智亦能仁
万代無填所
一朝逢柘民
風波転入曲
魚鳥共成倫
此地即方丈
誰説桃源寅 惟れ山にして且惟れ水
能‑智にして亦能‑仁
万代攻無き所にして
1朝柘に逢ひし民あり
風波転曲に入り
魚鳥共に倫を成す
此れの地は即ち方丈
誰か説はむ桃源の案
駕に吉野宮に従ふ応詔大伴王
山幽仁趣遠山幽け‑して仁趣遠‑
川浄智懐深川浄け‑して智懐深し
欲訪神仙迩神仙の速を訪はま‑欲り
大伴旅人の吉野讃歌 100(5)
追従吉野薄追従す吉野の薄
吉野宮に底従す紀男人
鳳蓋停南岳
追尋智与仁
嚇谷将孫語
撃藤共許親
峰巌夏景変
泉石秋光新
此地仙霊宅
何須姑射倫 鳳蓋南岳に停まりたまひ
追ひ尋ぬ智と仁とを
谷に噺きて孫と語らひ
藤を撃ぢて許と親ぶ
峰巌夏景変はり
泉石秋光新し
此れの地は仙霊の宅
何ぞ須ゐむ姑射の倫
例にあげた﹃懐風藻﹄の吉野詩は'吉野の宮に「遊」と題する詩も「従駕」「屈従」と題する詩も、共通して吉野
を仙境と見'高徳の聖者が臨むにふさわしい仁山知水にめぐまれた超俗の聖地と賓えている。旅人の歌が「山」と「水」の対比的な表現によってその高貴で清澄な自然の聖性を表現するのは、吉野領詩の「山水」の対句によって表
現される思想を充分に考慮してのものであろう。自然に神性を感じて讃美する態度を脱Lt聖者の楽しむ山水に聖
者の仁知の崇高さを投影させて見る儒教的な詩的山水観に立ち、吉野の山水の「貴」「清」の讃美が、そこに臨む天
子の崇高至尊を讃えることになると考えて'唐風の新天子聖武の讃美にふさわしい表現を意図したのであろう。
旅人の長歌の後半「(天地と長‑久し‑)万代に不レ改あらむ(行幸の宮)」は、金村の歌の傍線部Aの表
現が養老七年における現天皇元正の治世を讃美Ltかつ次代の天皇にもそれが継続されることを期待する意味を表
しているのに対して、践詐直後の天皇聖武に期待をかけ、新天皇の統治が永久不変であるよ‑に期待する意味を表
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している。
この「天地と長‑久し‑万代に不レ改あらむ」の表現には、懐風藻詩の釈道慈の作「唐に在りて本国の皇
太子に奉る」との類想性も認められる。
人 文 研 究 第 82 輯
三宝持聖徳
百霊扶仙寿
寿共日月長
徳与天地久 三宝聖徳を持ち
百霊仙寿を扶‑
寿は日月の共長‑
徳は対地習d
道慈は'﹃懐風藻﹄の伝によれば、文武天皇の大宝二年(七〇二)に第七次通庸留学僧として渡唐し、十六年後の
養老二年(七一八)に帰国したとあるから、「本国の皇太子」とは聖武天皇である。大国の唐土にあって、先進的な
文化・学術を学ぶなかで抱いた故国繁栄への思いが、皇太子の徳の深厚と寿の長久の念願に込められている。文武
天皇の没後、元明・元正両女帝の十七年にわたる中継ぎを経て、待望の男性天皇が登場した時点における旅人の期
待と願望は'道慈がその皇太子時代によせた念願に通ずるものであったろう。詩人旅人がこの詩を知っていてもお
かし‑はないし、仮にそうでなかったとしても'共通の念願が類似の詩的表現をとったと考えることもできる。
その上で'清水氏が旅人の長歌の表現に、聖武天皇即位の宣命との関係を指摘されたことは'やはり重要な意味(1)をもつ。
Ⅲ
是は関‑も威き近江大津宮に御字LL大倭根子天皇(天智天皇)の、天地と共に長‑日月と共に遠‑改るまLUき(与二天地1共長、与11日月1共遠、不レ改)常の典と立て賜ひ敷き賜へる法を'受け賜り坐して・・・‑ま
た、天地と共に長‑逮‑改るましじき(天地之共'長遠不レ改)常の典と立て賜へる食国の法も、傾‑事無‑
動‑事無‑渡り去かむとなも念ほし行き‑と詔りたまふ命を衆聞きたまへと量る。‑‑
大伴旅 人の吉野讃歌 98(7)
(元明天皇即位の宣命、慶雲四年七月十七日)
倒挫けま‑も畏き淡海大津宮に御宇LL倭根子天皇(天智天皇)の、万世に改るましじき(万世爾不レ改)常の
典と立て賜ひ敷き賜へる法の随に、後遂には我子(聖武天皇)に、さだかに、む‑さかに、過つ事無‑授け賜へ
と、負せ賜ひ詔り賜ひしに‑‑(聖武天皇即位の宣命、神亀元年二月四日)
右の傍線部によってわかるように、﹃続日本紀﹄所収の即位の宣命で、旅人の歌の表現と関連性が見られるのは、
元明・聖武の宣命である。旅人は元明即位の宣命をも参考としつつ'聖武即位の宣命の表現を歌に取り込んだので
あろう。
旅人の歌の性格を確かめるのに'金村の歌の表現にあって、旅人の歌では省かれている部分も見ておかねばなる
まい。金村の長歌冒頭の「滝の上の三船の山に瑞枝さし繁に生ひたる栂の木のいや継ぎ継ぎに(万代に
か‑し知らさむ)」という表現は'常緑樹の栂をとりあげて(人麻呂の近江荒都歌︹1二九︺に前例がある)自然讃
美による土地ぼめの発想に立ち、三船山に生命力にみちて茂りたつ栂にかけて、天皇が相継ぎ世を治めることを予
祝する意図がある。また秋津の宮の神々しさ、それを臣下が讃仰する理由に山川の清澄さをあげ'それを根拠に宮
の由来を神代(人麻呂が「神の御代かも」︹1三八︺と表現した意味においてであろう)に求めている。金村の表現
はなお人麻呂の発想の余響を受けていると言うべきであろう。
ところが旅人の歌はこうした表現を欠き、すぐに主題に入る。現在の吉野の宮が山川の清澄さによって神聖であ
ると讃美し、そのゆえに新天皇による統治は未来永劫に不変であろうと予祝することに力点をかけ'主題の吉野の
宮に回帰してい‑。旅人の歌の意図は'吉野の宮の主となった新天皇がひたすら「天地と長‑久し‑万代に」
かけて「不レ改らず」あることを予祝奉讃することにある。そこに旅人の新天皇にかける期待の大きさが表明され
ている。