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アレン・セイの「旅」

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アレン・セイの「旅」I:

ステレオタイプとアイデンティティ

花 光 里 香

1. はじめに

「日本でまだ半ズボンをはいているのは、何歳くらい?」アメリカの小学校で質問され た。アレン・セイの絵本を読んで、日本のことを知ったという。When I was not yet old enough to wear long pants, Mama always worried that I might drown in a neighbor’s pond

(Say, 1991, p. 4). は、Tree of Cranesの冒頭部分である。素朴な質問とこの絵本が、アレン・

セイとの出会いとなった。

絵本は、子どもたちが未知の世界を知る窓となる。行ったことのない場所、会ったこと のない人、経験したことがないことを子どもたちは絵本を通して知り、異なるものへの想 像力を育む。アメリカの子どもたちに日本への窓を開いた絵本作家といえば、誰もがアレ ン・セイの名前を挙げ、その印象的な絵と卓越した技術を賞賛するだろう。1988年にイラ ストを担当したThe Boy of the Three-Year Napがボストングローブ・ホーンブック賞とコ ルデコット賞銀賞を受賞し、セイの絵は多くの人々の注目を浴びた。その後5冊目の作品 として発表したGrandfather’s Journeyが1994年のコルデコット賞金賞に輝き、セイはアメ リカで最も優れた絵本作家として認められる。表紙の絵に魅せられて、子どもに読み聞か せるつもりでGrandfather’s Journeyを手に取り、物語を読んで心を揺さぶられた大人がど れほどいたことだろう。

セイは横浜に生まれ、16歳まで日本で暮らした。幼い頃から絵の才能に長け、将来は漫 画家を目指す。しかし、さまざまな状況がそれを許さずセイの夢は遠のくが、生まれ持っ た芸術的感覚は自然と周囲に認められ、後に写真家として成功する。1968年と1971年に詩 集の写真を担当した後、1972年に初めての絵本となるDr. Smith’s Safariを出版する。その 後1988年にThe Boy of the Three-Year Napが発表されるまで、日本の物語を素材にした作 品、 イ ラ ス ト の み を 担 当 し た 作 品、 絵 の な い 自 伝 的 小 説 で あ るThe Ink-Keeper’s Apprentice、そして初めて水彩画でイラストを手がけたThe Bicycle Manの合計10冊を出版 する。その後セイは、ほぼ1年に1冊のペースで絵本を発表している。2011年に完成させ

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Drawing from Memoryは、The Ink-Keeper’s Apprenticeを下地にしたイラストと文章、そ して写真を巧みに組み合わせた作品であり、日本で過ごした少年時代から渡米するまでの 生活が生き生きと描かれている。

アメリカの児童文学や多文化教育の分野では、セイの作品への数々の書評や作家インタ ビューに加え、イラスト及び物語に関する研究がされてきた(Desai, 2004; Kokkola,

2011)。また、Grandfather’s Journeyは国語の教科書に掲載され、多文化教育の教材として

も使用されている(Houghton Mifflin, 2003)。

コルデコット賞を受賞した2作品と、The Bicycle Man(『じてんしゃのへいたいさん』)、

The Lost Lake(『はるかな湖』)、Kamishibai Man(『紙しばい屋さん』)が1998年から2007 年の間に日本語に翻訳されているが、The Bicycle Man以外どれも日本語版が出版されるま でに10年以上の月日が費やされ、未翻訳の作品は日本ではあまり知られていない。作品 やセイの人物が紹介されることはあっても(柴田・江森, 2007, 堀田, 2007, 清水, 2001)、特 に日本語へ翻訳されていない作品についての情報は少ない。日本におけるセイの研究は、

異文化理解に関わる絵本の例として言及されたもの(岩野, 1997)、児童文学及び多文化教 育の分野で重点的に扱われたもの(本多, 1998, 2002)、そして絵本学の視点から『紙しば い屋さん』における絵と文章の関係を詳細に分析したものがあるが(藤本, 2007)、継続的 なものではない。

アメリカで生まれ育った母親と、イギリス人夫婦の養子となり上海で育った韓国人の父 親の間に生まれ、16歳で渡米するまで日本で暮らしたセイの作品には、異なる文化で生き る人々の姿が美しい水彩画とともに鮮やかに描かれている。また、わずか12歳で一人暮 らしを始め、当時活躍していた漫画家野呂新平の弟子となり、技術を学ぶとともに野呂と 親子のような関係を築いたことも、セイの人生と作品に大きな影響を与えている。アメリ カに移住した母方の祖父、両親の育った環境、戦争や両親の離婚に伴う家族のかたち、そ してふたつの祖国の間で常に揺れる自分、その他セイが歩んできた人生は、作品にステレ オタイプやアイデンティティといった異文化を見つめる視点を強く反映し、読む者に「文 化とは何か」「自分とは何か」という深い問いを投げかける。本稿では、Dr. Smith’s Safari、The Boy of the Three-Year Nap、El Chino、そしてGrandfather’s Journeyの4作品に焦 点を当て、ステレオタイプとアイデンティティという観点から、作品に描かれる異文化間 での葛藤や自己発見の過程をセイの人生に関連づけて考察する。

2. Dr. Smith’s Safari

2.1 ステレオタイプとの闘い

セイの作品に描かれるさまざまなシーンには、ステレオタイプについて考えさせられる

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ものが多い1)。セイがどのようにステレオタイプを捉えていたかを知るには、初めて手が

けた絵本Dr. Smith’s Safariを紐解く必要がある。ここでは、幼いセイがステレオタイプを

どのように経験し、それが後の人生に与えた影響を交えながら、初の絵本に込めた思いを 考察する。

セイはステレオタイプに関し、美術史研究の開拓者岡倉天心のエピソードを紹介しなが ら、ステレオタイプは別のステレオタイプを生むと指摘するとともに、その弊害は早い時 期に始まると述べている。

In 1903 Kakuzo Okakura, the author of The Book of Tea, and a group of prominent Japanese artists, all garbed in ceremonial kimonos, were promenading in Boston when a curious native accosted them. “What sort of `nese are you people?” asked the young man. “Are you Chinese, or Japanese, or Javanese?” “We are Japanese gentlemen,” Okakura retorted. “But what kind of 'key are you? Are you a Yankee, or a donkey, or a monkey?”

The point of this story is that one stereotype fosters another. And the disease strikes early. (Say, 1991, December, p. 45)

セイのステレオタイプとの闘いが始まったのも早い時期で、絵を描くのが大好きだった 少年時代であった。セイは暇さえあれば絵を描いており、家の壁にまで描いて母親を驚か せ、父親を怒らせた(Say, 2011)。両親は長男が芸術家になるのを案じたのか、特に画家 に対するステレオタイプをセイに叩き込んだ。母親は、画家は「貧しく、だらしなく、そ して無責任」だと息子に言って聞かせた。さらに父親は、「物事の善し悪しもわからない 臆病者」「死んでからしか有名になれない」と続けた。幼いセイには、両親は金のことば かり考えて貧乏人を蔑む人間に映り、その価値観への徹底的な反抗が始まる。少年時代か ら半世紀を経ても、その価値観を覆そうとしているとセイは語っている(Say, 1991, December)。

ステレオタイプとの闘いは家庭で始まったが、韓国人の父親を持つセイの闘いは、戦後 家の外にも広がっていく。16歳で渡米してからは言うまでもなく、激戦の連続であった。

どこにいても、「ジャップ」、「オリエンタル」、「チャイナマン」2)というレッテルを貼ら

1) このステレオタイプとアイデンティティに関するテーマは、セイの作品の多くに共通して見られ るだけでなく、制作のきっかけにもなっている。2作目となる1974年に出版されたOnce Under the Cherry Blossom Treeは、疎開先で出会った意地悪な母のおじを主人公に(Say, 2011)、上方落語

『さくらんぼ』を下地にした物語である。昔も今もよく言われる「日本人にはユーモアのセンスがな い」というステレオタイプを壊すために、この作品に取り組むことにしたとセイは語っている

(Say, 1991, December)。

2) 「チャイナマン」とは、中国人だけではなく一般的なアジア系の人に対して使われる、差別的な意 味合いのある英語である。メッツのダン・ワーセン投手コーチが、松坂大輔投手の通訳を務める日 系アメリカ人男性に「チャイナマン」と呼びかけたことが、球団公式サイトでの謝罪に発展したこ とは記憶に新しい(Ackert, 2014)。

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れ、セイ自身を見てくれる人はいなかった。そんな自分を、セイは「歩くステレオタイ プ」(Say, 1991, December, p. 45)だったと語っている。闘い続けるセイが初めて絵本を 出版したのは、1972年のことである。当時セイは35歳、アメリカに暮らして20年が経と うとしていた。

2.2 物語

Dr. Smithは、新しい銃を持って初めての狩りに出かける。動物の足跡を追うが道に迷

い、夜になってしまう。村を見つけてある建物のドアを開けると、そこには人間と同じよ うに食器を使って食事をする動物たちがいた。動物たちと仲良くなったDr. Smithは、ワ ニやライオンから悩みを打ち明けられる。夜に窓から物が投げ込まれ、窓ガラスが割れ、

奇妙な叫び声がして眠れなくて困っているという。翌朝、Dr. Smithは動物たちと一緒に騒 音の原因を退治しにジャングルに入る。夜になって、いつものように何かが宙を舞い奇妙 な音が聞こえたとき、Dr. Smithは銃の引き金を引く。銃声の後に続く静寂の中で木々の後 ろから聞こえてきたのは、「ずるいよ!」「いじめだ!」「ひどいよ!」という声であった。

声の主である男の子たちは、日中は眠り夜にココナッツ投げをするCoconut Throwersだ という。彼らに銃口を向けたことを責められ、Dr. Smithは自分への怒りを込めて言う。

「動物でも人でも、何かに銃を向けるなんて、そんなのダメだ!」そしてDr. Smithは銃を 地面に投げ捨て、足が痛くなるまで踏みつけるのである。動物たちとCoconut Throwers

は、怒るDr. Smithを抱きしめて言う。「大丈夫、誰もけがしてないよ。」Dr. Smithは銃を

捨て、Coconut Throwersはもう迷惑をかけないと約束する。仲直りをしてみんなで家に帰

る頃には、夕食の時間になっていた。

2.3 ステレオタイプとアイデンティティ

この作品には、日本やアジアを連想させるものは何もない。20年に及ぶアメリカでの生 活の中でステレオタイプとの闘いに疲れ、日本人や日系人、アジア人という文化的な背景 を越えて、アーティストとして認められたいというセイの思いが伺える。

My reasoning was that I wanted to shine as a nondenominational artist and be recognized for my abilities, not for my cultural heritage.... I now know in hindsight that I was screaming a denial of that heritage because I was tired of being stereotyped. Why couldn’t anyone see my talent without my wearing a happi coat, the Japanese tradesman’s jacket? (Say, 1991, December, p. 45)

Dr. Smith’s Safariのテーマは、一見すると銃社会への反論にあるように思われる。しか

し、 こ の 物 語 で セ イ が 描 い た も の は 他 で も な い 人 間 の 無 知 で あ っ た(Say, 1991, December)。無知は、不確実な情報をもとに相手の存在を歪め、ステレオタイプの原因

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となる。セイは、動物からの情報だけで判断を下した人間がCoconut Throwersに向けた 銃口で、ステレオタイプの危険性を描いたのではないだろうか。図1(Say, 1972, p. 27)に 見られるように、Coconut Throwersは皆同じ背丈で同じ服装をしており、目も口も描か れていない。Dr. Smithをはじめ、動物たちはヒョウ、カバ、ライオン、コアラ、ワニと いう個々のアイデンティティを持っているが、Coconut Throwersにはそれがないのだ。

これこそ、セイを苦しめ続けたステレオタイプとアイデンティティの関係ではないだろう か。個人として存在しているのにもかかわらず、認められるときはいつもCoconut

Throwersの一員でしかない。「日本人・日系人のアレン・セイ」から解放されたいという

セイの叫びが、この作品を生んだに違いない。

またセイは、あえて登場人物をステレオタイプ化して描いている。Dr. Smithは、大き な鼻をした太り気味の中年男性で銃を抱えている。これは、セイが持つ白人男性へのステ レオタイプ化したイメージであった。いつもヤシの実をフットボールのように投げて遊ん でいる若者たちは、Coconut Throwers のモデルとなった。若きセイが孤独な日々を過ご した南カリフォルニアでの経験が、この作品の下地となっている(Say, 1991, December)。

さらにセイは、自分に視線を向けることを忘れない。ひとつのステレオタイプは別のステ 図 1 Dr. Smith’s Safari

Illustration & text © 1972 by Allen Say, published by Harper &

Row Publishers, U.S.A.

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レオタイプを生むとセイは述べているが(Say, 1991, December)、周囲からステレオタイ プ化され続け、アイデンティティを探求するあまり、自身が周囲に持つようになったステ レオタイプに気づいて愕然とする。

But for me there is a more disturbing reading here. Could it be that I was Dr. Smith ─ a fake Occidental, a caricature of an imposter ─ toting a big gun of aggression and yet trying to make peace with the mindlessly energetic youths and friendly animals who eat with knives and forks?

(Say, 1991, December, p. 45)

絵本の中では、誰も傷つかない。悪いのは、Dr. Smithではなく銃である。そろって川 まで歩いて行き、Dr. Smithが川に銃を投げ捨て、もう二度と銃には触れないと誓う。人 は、他の価値観を知る機会がなければ、自分の価値観で世の中を見る。それはステレオタ イプにつながり、差別や偏見の原因になる。しかし、責められるべきものは人ではなく、

ステレオタイプを生み出す無知である。そして、ステレオタイプはステレオタイプ化され る側にもステレオタイプを生み、負の連鎖を引き起こす。セイは、顔のないCoconut

Throwersを通して自分自身を描いただけでなく、銃を地面に投げ捨て踏みつけたDr.

Smithにも自らの姿を重ねたのかもしれない。

3. The Boy of the Three-Year Nap

3.1 「日系人アーティスト」への依頼

セイは、初の絵本を出版した後、イラストの担当に加えて絵本や小説を発表した。しか し、写真家として活躍していたセイは、幼い頃からの漫画家への夢をどこかに抱きながら も、イラストの仕事を本格的にするには至らなかった。ここでは、絵本の仕事に専念する きっかけとなったThe Boy of the Three-Year Napが、セイにどのような変化をもたらした のかを考察する。

ある時期から「日系人のイラストレーター、アレン・セイ」に次から次へと舞い込む仕 事の依頼に、セイは懐疑的になっていた。1作品を除く全てが、日本人以外によって書か れた日本についての物語だったからである。セイは、依頼のほとんどを断った。出版社 は、日本人もしくは日系人が描く絵によって、作品に「本物の印」(Say, 1991, December, p. 46)を得るのが目的で、純粋にアーティストとしての自分を求めているわけではない と思ったからだ。

1984年にセイは、アメリカ人男性と日本人女性を主人公にしたHow My Parents Learned

to Eatのイラストを担当している。しかし、完成後の仕上がりに満足できず、もう絵本の

仕事はしないと決意したという(Roser & Yokota, 2007)。商業写真家として成功していた

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セイは、生活のためにイラストを描く必要はなく、納得できない仕事はしたくなかったの だ。そのことが、次の作品へのしばらくの空白につながる。しかし、周囲はセイを放って おかなかった。絵本を数多く出版するホートン・ミフリン社の敏腕編集者ウォルター・ロ レインは、The Boy of the Three-Year Napのイラストをセイに描いて欲しいと熱心に説得し た。この作品は、日本の民話『三年寝太郎』を下地にダイアン・スナイダーが書いた物語 であった。

3.2 物語

その昔、長良川の岸辺に貧しい母と息子が暮らしていた。母は着物を縫って懸命に生計 を立てていたが、息子は放っておけば3年でも寝ているような怠け者だったので、「三年 寝太郎」と呼ばれていた。成長した太郎は、隣に引っ越して来た裕福な商人の暮らしをの ぞいては羨ましく思っていた。月日とともにさらに怠惰になっていく太郎に母は働くよう に言うが、太郎は仕事をする代わりにあることを思いつき、母に黒い着物と網代笠を用意 するように頼む。翌朝、僧侶にでもなるのかと思いきや、墨を塗って恐ろしい顔つきにな った太郎は、誰にも言うなと母に言い残して家を飛び出す。散歩に出かけた隣の商人を神 社で待ち伏せていた太郎は、賽銭を出そうとした商人の前に鬼のような形相で現れた。驚 く商人に太郎は氏神を装い、娘を「隣に住む好青年」と結婚させるように迫り、もしでき ないなら娘を壷に変えてしまうと脅す。翌朝、商人は太郎の家にやって来て、氏神のこと を太郎の母に話す。母は、あばら屋に住むばかりか働こうとしない太郎が相手では、お嬢 様は幸せになれないと言う。その言葉にうなずいた商人は、太郎の家を増築し、太郎に店 の経営を任せることにした。働かなければならなくなり、想定外の展開に慌てる太郎を見 て母はほくそ笑む。こうして、太郎は商人の娘と結婚し、「氏神」は満足したのか二度と 姿を現さなかった。太郎は幸せな家庭を築き、仕事に励み、「三年寝太郎」と呼ばれたの は遠い昔のこととなった。

3.3 最後の絵本

The Boy of the Three-Year Napの原稿がロレインから送られてきたとき、セイは乗り気で

はなかった。よく知っている日本の昔話にイラストを描くのは、あまりおもしろい仕事と は思えなかったとセイは述べているが、この仕事も「日系人のイラストレーター、アレ ン・セイ」に来た依頼だということが頭をかすめたのだろう。依頼を断ろうと思ったもう ひとつの理由は、セイには物語を成功させる自信がなかった。できる限り本当の日本を描 きたいと思う反面、その「日本らしさ」でアメリカ人の読者を遠ざけたくなかったのであ る(Marcus, 1991)。

ロレインの説得に負け、絵本の仕事は辞めよう、これが最後の一冊だと思って依頼を引

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き受けたセイに(Say, 1994)、ロレインは「この本の仕事を楽しんでほしい。」と言う

(Marcus, 1991)。そして、思いもよらず、ロレインの願いが叶うことになる。

3.4 「アーティスト」の誕生

作業を進めるうちに、セイは不思議な感覚に陥っていった。野呂新平の仕事場へ通っ た、セイの人生で最も幸せだった日々がよみがえったのである。50歳にして、セイはこれ こそが自分の最もやりたいことだったのだと気づく(Marcus, 1991)。

描く喜びをかみしめながらも「日本らしさ」の表現について悩んだセイは、最も幸せな 記憶の中で野呂の手法を思い出す。野呂は、漫画の中で登場人物を歴史的な背景で描いて いた。セイは師に導かれるように、さまざまな時代や漫画の手法を巧みに組み合わせ、ス ナイダーの物語にふさわしい「本物の日本」を描いたのである。伝統的かつ新鮮な背景と 登場人物のコミカルで豊かな表情は、どの時代のどの国の人も物語の中に引き込む魅力で あふれていた。

夢中で描き進める中、セイは資料収集に時間をかけた。日本の版画を研究し、伝統的な 絵柄や色から場面に合うものを選び出し、細部に至るまで妥協を許さなかった。緻密な作 業を進めるうちに、予想もしなかったことが起こる。いつの間にかセイは、子ども時代、

そしてさらに昔にタイムスリップしていた。それは、特に志賀直哉の文学作品を通して、

ずっと思い描いていた日本の美しい時代である。セイは、そのすばらしさに驚嘆する。お そらくセイは、このときほど自分の中に日本を感じ、そのことに前向きな感情を持ったこ とはなかったのではないだろうか。セイが言う “a kind of spiritual reconciliation” (Say, 1991, December, p. 46)とは、時間と空間を越えた「調和」であるとともに、セイが日本を受け 入れた、もしくは日本がセイを受け入れたとも言うべき、両者の「和解」であったと思え てならない。

And a wonderful thing happened. I was transported back to my childhood and beyond, to a particular period in Japanese history I had long romanticized through literature ─ particularly through the works of Shiga Naoya ─ and a kind of spiritual reconciliation took place. What a heritage! (Say, 1991, December, p. 46)

仕事中の不思議な感覚は続く。図2(Snyder, 1988, p. 9)では、引っ越して来た裕福な隣 人の様子をうらやましそうに太郎がのぞいているが、セイは家を隔てる池に泳ぐ鯉を懸命 に描いていたという。そのときは思いもしなかったが、後になってセイは、太郎は自分自 身だったということに気づく。

Dr. Smith’s Safariの登場人物に自分を重ねたように、The Boy of the Three-Year Napでセ イは太郎に自分自身を見たのである。当時写真家として成功していたセイの暮らしは太郎

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とは異なるが、「よりよい居場所を求めていた」(Marcus, 1991, p. 300)という点では同じ であった。太郎を描いているうちにセイは太郎になり、物語の中で自由自在に動き出し た。この作品が持つ躍動感は、イラストの卓越した技術に加え、太郎の姿を借りたセイに よって生み出されたといえよう。

The Boy of the Three-Year Napは1988年にボストングローブ・ホーンブック賞とアメリ カ図書館協会賞を受賞、1989年にはコルデコット賞銀賞にも輝き、セイの「描きたい」と いう思いを後押しする。「アーティスト」というセイのアイデンティティの前にいつもつ いてまわった「日本人の・日系人の」という言葉と、それに伴うステレオタイプ化された イメージが消えたわけではない。しかし、セイはもう迷わなかったに違いない。物語が日 本に関係のあるものであったとしても、なかったとしても、描きたいと思えば描く。セイ は日本の伝統美術と文学に再会することで、ステレオタイプから解放され、描きたいもの を描く自由と、才能を思う存分発揮する機会を得たのではないだろうか。数々の賞は、自 らを解放し「アーティスト」となったセイに自然についてきたのだろう。絵本の仕事はこ れが最後だと決めて引き受けたThe Boy of the Three-Year Napは、セイに絵本作家になる 決意をさせる作品となった。

4. El Chino

4.1 運命の出会い

セイの作品を全て読み終えて、最も心を揺さぶられたのは、名作Grandfather’s Journey 図 2 The Boy of the Three-Year Nap

Illustration © 1988 by Allen Say, text by Dianne Snyder, published by Houghton Mifflin Company, U.S.A.

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ではなくEl Chinoであった。祖父と自身を描き、セイをアメリカで最も優れた絵本作家に した作品よりも、その3年前に出版された実在の人物ビリー・ウォンの物語に、セイの姿 を見たのである。ここでは、Grandfather’s Journeyの完成を予測させるような作品El Chino に描かれた、セイの自己発見の過程をたどる。

セイがこの作品を手がけるきっかけを得たのは、除隊後ドイツから帰国した1960年代 半ばに遡る。日曜日に新聞を読んでいると、ある写真がセイをとらえた。その写真の人物 が、スペインで活躍した中国人の闘牛士、ビリー・ウォンである。当時、アジア系アメリ カ人の子どもにとって将来の選択肢は限られており、両親が経営する店を継ぐ者が多かっ た。そのような状況で、ビリーはどうやって夢を叶えたのか。セイもまた、アジア人とし てアメリカに暮らし、文化的ルーツにとらわれずにアーティストとして生きていく夢を抱 く若者であった。セイは、ビリーの記事が忘れられなかった。

それから20年以上の月日が過ぎ、セイは小学生の娘を育てる父親になっていた。ある 日セイは、娘のPTAの集まりに参加した際、ジェイン・ウォンという女性に会った。ウ ォンという姓を持ちながらアジア人ではないその女性と、お互いの出身の話になった。す ると、ジェインの夫はビリー・ウォンの弟であることが判明したのだ。セイは驚嘆した。

新聞で見た、あの中国人の闘牛士の家族がここにいる。セイは、ビリーの物語を描きたい という強い思いに駆られ、その場でジェインにそう伝えた。残念ながら、ビリーは36歳 のときに交通事故で他界していたが、ジェインの夫であるアート他、ビリーのきょうだい に話を聞くことができた。そして、ビリーの生涯を絵本にする承諾を得たのである。セイ は、この運命的な出会いに胸が高鳴った。1年近くを費やしてイラストを完成させたセイ は、1990年にEl Chinoを発表する。

4.2 物語

ビリーの両親は、中国広東省から6人の子どもを連れてアリゾナ州に移住した。父親は

「アメリカでは、何でもなりたいものになれるんだ。」と子どもたちに言う。子どもたちに はそれぞれ将来の夢があり、両親が営む店を継ごうとする者はひとりもいなかった。ビリ ーの夢は、バスケットボールの選手になることであった。しかし、「中国人のスポーツ選 手なんて聞いたことがある?」ときょうだいに笑われる。しかし、ビリーが10歳のとき に父が他界し、家族で店を切り盛りすることになる。ビリーは高校で真剣にバスケットボ ールに打ち込んだが、大学進学後続けることはなかった。身長が低過ぎたのである。ビリ ーは夢をあきらめ、技師として職を得る。そして初めての休暇で訪れたスペインで闘牛に 魅せられ、家に帰らず闘牛士を目指したのだった。「スペイン人だけが、本当の闘牛士に なれるんだよ。」という宿の女主人の声は、彼には届かなかった。ビリーは学校に通い、

闘牛の腕を磨く。しかし、中国人であるビリーには、闘牛の舞台に出る道は開けなかっ

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た。悩むビリーは、父親がいたらどう言っただろうかと思いを馳せる。そして、はっとす るのである。「スペイン人の闘牛士? ぼくは中国人なのに!」ビリーは街を駆け回り、

中国の衣装を手に入れる。それを身につけたビリーは「本当の」中国人のようで、鏡に映 る姿を見て初めて自分に出会ったような気がした。そして、不思議な力がビリーを満た し、望むことは何でもできるように思えた。衣装を着たまま街に出ると、行き交う人々が ビリーに目をとめた。「El Chino!(中国人だ!)」そしてビリーは、中国の衣装を身につけ 初めて闘牛の舞台に立つ。観客の大歓声の中、輝かしい成功を収めたビリーは、闘牛士と して認められたのである。興奮した群衆は、スペインの伝統衣装をまとったビリーを肩に 乗せ、練り歩きながら口々に叫ぶ。“Olé! El Chino, olé!”

4.3 「魔法の衣装」と「光の衣装」

ビリーの父親が子どもたちに語ったアメリカンドリームは嘘ではないが、Hsu(1995)は

“Beyond simply surviving or understanding the expectations of being Chinese-American, Billy must become a Chinese-American something”(p. 243). と指摘する。中国系アメリカ 人の選手、中国系アメリカ人の技師、そして中国系アメリカ人の闘牛士など、何をしてい ても、ビリーには常に「中国系アメリカ人の」という言葉がついてまわった。そしてそれ は、まさにセイが「日系人のイラストレーター、アレン・セイ」として経験したことでも あった。

闘牛士になりたいと願ったビリーが目指したのは、「スペイン人の闘牛士」であった。

父親は、アメリカではなりたいものに何にでもなれると言ったが、考えてみればここはア リゾナではない。ビリーははっとし、中国人ボン・ウェイ・ウォンとしてのアイデンティ ティに気づくのである。今の自分を越えて前に進みたいときには、人は本当の自分自身に ならなければならない(Vandergrift, 1990)。スペインで「スペイン人の闘牛士」になるこ とばかりを考えるうちに、忘れかけていた中国人としてのアイデンティティは、伝統衣装 を通してビリーに不思議な力を与えたのである。

ビリーの自己発見の過程を、セイはイラストの中で巧みに表現している。闘牛の訓練を 積み頭角を現したビリーだが、その才能を認めながらも「スペイン人ではない」と周囲は 冷たかった。

“He is a good athlete,” I heard one student say about me. “And he has courage and grace,” said another. “But he cannot be a matador. He is not Spanish” (Say, 1990, p. 19)

家族の援助を得ながら2年が過ぎたが、闘牛士としての仕事は見つからない。“Everywhere I went, though, the ranchers took one look at me and shook their heads”(Say, 1990, p. 20). ス

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図 4  El Chino 2

Illustration & text © 1990 by Allen Say, published by Houghton Mifflin Company, U.S.A.

図 3  El Chino 1

Illustration & text © 1990 by Allen Say, published by Houghton Mifflin Company, U.S.A.

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ペイン人には見えないビリーの外見に原因があるのは、明らかだった。ビリーは闘牛士に なることをあきらめ、家に帰ろうかと思い始める。図3(Say, 1990, p. 21)に見られるよう に、スペインの地にひとりたたずむビリーには、目が描かれていない3)。これは、Dr.

Smith’s Safariに登場するCoconut Throwersと同じく、アイデンティティがないことを表

現しているに違いない。ビリーは、「アメリカでは、何でもなりたいものになれるんだ。」

と言った父親を思い出すうちに、はっとする。

I’d tell him this wasn’t Arizona, U.S.A. So I couldn’t be a Spanish matador.

But uno momento, Señor. A Spanish Matador? What had I been thinking all this time?

I’m Chinese! (Say, 1990, p. 20)

図4(Say, 1990, p. 21)に見られるように、次の絵では、ビリーは中国の衣装を身につけ て立っている。中国人としてのアイデンティティに目覚めたビリーのまっすぐな視線は、

望めば何でもできる自信にあふれていた。街に出て注目され、そのまま闘牛の舞台へと進 み喝采を浴びる。翌朝、闘牛士のマネージャーが仕事の依頼を持ってビリーを訪れた。も ちろん、ビリーは即答する。するとマネージャーは、“Bueno. But you cannot fight in your

図 5  El Chino 3

Illustration & text © 1990 by Allen Say, published by Houghton Mifflin Company, U.S.A.

3) 2014年7月10日にアレン・セイ氏の自宅で行われたインタビューで、セイは、目を描かなかった

意図がビリーのアイデンティティの描写にあることに触れている。

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strange costume”(Say, 1990, p. 29).とビリーに中国の衣装を脱ぐように言う。そして、闘 牛士の証である「光の衣装」4)(Say, 1990, p. 29)をビリーにあつらえたのだった。「魔法の 衣装」(Say, 1990, p. 22)から「光の衣装」に着替えて微笑むビリーは、図5(Say, 1990, p.

31)に見られるように、自信に加えて威厳も携え、神々しいまでの表情をたたえている。

「光の衣装」は、まさに闘牛士としてのアイデンティティの象徴であった。

4.4 ステレオタイプとアイデンティティ

ビリーは中国の伝統衣装を身につけ、不思議な力を与えられて夢を叶える。セイは、

The Boy of the Three-Year Napの依頼を受け伝統的な日本を描くことで、同じような力を得

Grandfather’s Journeyを完成させたのではないだろうか。ふたつの作品に与えられた

数々の賞は、スペインの人々がビリーに惜しみなく送った喝采のようだ。ビリーが中国人 としてのアイデンティティに目覚めて「闘牛士」になったように、セイは自分の中にある 日本人としてのアイデンティティを確認することで、「アーティスト」になったのだと思 えてならない。

ビリーもセイも夢を叶えたが、セイは現実を見ることを忘れなかった。セイはサットン の言葉を借り、ビリーが中国の衣装を身につけたままであったら、彼の成功は続かなかっ たと指摘する。ビリーは、中国人ゆえに成功し、中国人にもかかわらず成功したのだ。ま た、中国人に対するステレオタイプを脱ぎ捨てて初めて、ビリーは真の闘牛士になったの だと述べている。民族衣装はアイデンティティの一部でしかないが、ビリーに「チャイナ マン」のままでいてほしいと思う人もいるだろうし、弁髪を結っていたら喜んだだろうに と、セイは辛辣に語る。

Roger Sutton of The Bulletin of the Center for Children’s Books observed that “some readers might wish to see Billy triumph in his Chinese costume, but that would limit his success to that of a curiosity. Billy triumphs alongside his heritage, both because of and despite it.”

He emerges victorious only after he discards the cardboard image of his Chineseness and becomes a full-fledged matador. Assimilation of the minority into the mainstream is the promise of America that Billy’s father had inculcated into his children. Ethnic identity is more than costumes. But there are still those who would prefer that Billy remain a Chinaman. They would have been charmed had Billy worn his hair in a queue. (Say, 1991, December, p. 46).

The Boy of the Three-Year Napを出版後、成功していた写真の仕事をきっぱり辞め、絵本

作家として生きていく決意をしたセイは、1988年にA River Dream、1989年にThe Lost

4) 「光の衣装」とは、闘牛士がまとう“traje de luces”と呼ばれる衣装であり、原文では“suit of lights

(Say, 1990, p. 29)となっている。美しい装飾がされながらも、激しい動きに耐える機能性を備えて おり、命をかけて儀式に挑む闘牛士の神聖な装束である。

(15)

Lakeを発表する。その2作は日本とは関係のない物語で、カリフォルニアに住むアジア系 アメリカ人の少年を主人公にした作品であった。あのThe Boy of the Three-Year Napを描 いた「日本人・日系人のアレン・セイ」の絵本であるにもかかわらず、登場人物以外日本 とは無関係な内容に、期待はずれだと思った読者もいた。アジア人の主人公を「オリエン タル」と呼び(Say, 1991, December, p. 46)、セイに不快感を与えた書評もあった。

しかし、セイは怯まなかった。ビリーが中国人に対するステレオタイプを脱ぎ捨て真の 闘牛士になったように、セイもまた、自分につきまとう日本人に対するステレオタイプを 捨て去り「アーティスト」となったのである。1991年に発表したTree of Cranesの舞台は 日本であり、それに安心した読者もいただろうが、セイにはどうでもよいことであったに 違いない。描きたいと思ったものを描く。セイにとっては、ただそれだけのことであった。

“The book closest to my heart is El Chino” (Say, 1991, December, p. 46). と言う程、El

Chinoはセイにとって特別な作品である。セイの自宅には、バスケットボールをするビリ

ーの絵が飾られていた。20年以上の月日を経て再会した人物の生涯を描くというだけでも 奇跡的な話であるが、ビリーに共感した理由をセイは次のように述べている。

That he strove to break out of his cultural mold, or bondage, if you like, and succeeded in a spectacular way. I became him in the process of doing the work. In fact, I departed quite a bit from the dummy I showed the family. It’s not about the family anymore; it’s about him and about me, both of us looking for a better place. (Marcus, 1991, pp. 301-302)

ステレオタイプという言葉こそ使ってはいないが、 文化的な「型」もしくは「束縛」を打 破して輝かしい成功を収めたビリーに、セイは自分の姿を重ねている。作品に取り組むう ちに、セイはビリーになっていった。El Chinoは、「よりよい居場所」を求めた2人の物語 となった。

5. Grandfather’s Journey

5.1 普遍的なテーマ

Grandfather’s Journeyは、セイがアメリカで最も優れた絵本作家として認められた作品

であり、アメリカと日本で最も版を重ねている。セイは、日本語版出版に寄せたあとがき で、個人的な物語として描いたこの絵本が、これほど多くの人々の共感を呼んだことへの 驚きを語っている(セイ, 2006)。セイの祖父はアメリカに渡った後、日本が忘れられずに 家族を連れて帰国するが、戦争の勃発により再渡米の夢を果たせず亡くなった。16歳で渡 米して以来アメリカで暮らすセイが常に感じる、「日本にいればアメリカを思い、アメリ カにいれば日本を思う」という気持ちは、祖父にとっても逃れられない感情だったに違い

(16)

ない。アメリカと日本、祖父と自分、そして家族をつなぐこの個人的な物語は、多文化社 会アメリカの普遍的なテーマを映し出し、アイデンティティと向き合う多くの人々の心を 揺さぶった。ここでは、Grandfather’s Journeyに取り組むことによってセイが手にしたアイ デンティティについて、「所属」、「居場所」という観点から考察する。

5.2 物語

おじいさんは若い頃、世界を見る旅に出た。初めて洋服を着て蒸気船に乗り、アメリカ の地を踏む。汽車や船、そして自分の足で自然や街を見てまわり、さまざまな人々に出会 った。おじいさんは、訪ねた場所の中でカリフォルニアがいちばん気に入った。日本に帰 国して幼なじみと結婚し、ふたりでアメリカに戻る。サンフランシスコに落ち着き女の子 が生まれたが、娘が成長するにつれて日本のことを思い出すようになり、家族3人で帰国 する。故郷の山や川は変わらずそこにあり、おじいさんは友人と楽しく語り合った。しか し、娘は日本の村になじめず、都会へと去っていく。そして結婚し、ぼくが生まれた。小 さい頃、おじいさんの家で、カリフォルニアの話を聞くのが好きだった。おじいさんは、

カリフォルニアが忘れられず旅の予定を立てるが、戦争が始まる。最後に会ったとき、お じいさんはカリフォルニアをもう一度見たいと言っていたが、その願いは叶わなかった。

大きくなって僕もカリフォルニアに行き、気に入って住み続け、そこで娘が生まれた。で も、子どもの頃に遊んだ山や川、そして友だちに会いたくなって、ときどき故郷に戻る。

不思議なことに、いっぽうに戻ると、もういっぽうが恋しくなるのだ。

5.3 祖父を通して描いた自分

Grandfather’s Journeyはそのタイトルが示すように祖父の物語だが、セイは祖父の姿を

借りた「自分の物語」だとはっきりと述べている(Say, 1991, December, p. 46)。作品の 中には、祖父と現在のセイの姿が重なって見える絵や、ふたりがつながり、さらにひとつ になる絵が見られる。

図6に見られるように、サンフランシスコに暮らす祖父が、鳥かごに囲まれた部屋で窓

の外をじっと見つめる絵がある(Say, 1993, p. 18)。カーデガンにネクタイ姿の祖父はア メリカの生活にすっかり馴染んでいるように見えるが、ふるさと日本の山並みと川の流れ が忘れられないのだ。その姿は、当時のセイのポートレートのように見える(Rochman,

1993)。その絵の7枚後には、図7にあるように、日本に帰国した祖父が、簾のかかる縁側

でひとりたたたずんでいる(Say, 1993, p. 25)。浴衣を着た祖父は鳥かごを見つめながら、

忘れられないカリフォルニアの山並みと川の流れに思いを馳せる。その姿もまた、あれか

ら20年を経た現在のセイに重なって見える。ふたつの絵の中の鳥かごは、自分の「居場

所」へと自由に羽ばたけない祖父の気持ちを描いているようにも思われる。

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図 6 Grandfather’s Journey 1

Illustration & text © 1993 by Allen Say, published by Houghton Mifflin Company, U.S.A.

図 7 Grandfather’s Journey 2

Illustration & text © 1993 by Allen Say, published by Houghton Mifflin Company, U.S.A.

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図 8 Grandfather’s Journey 3

Illustration & text © 1993 by Allen Say, published by Houghton Mifflin Company, U.S.A.

図 9 Grandfather’s Journey 4

Illustration & text © 1993 by Allen Say, published by Houghton Mifflin Company, U.S.A.

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図 10 Grandfather’s Journey 5

Illustration & text © 1993 by Allen Say, published by Houghton Mifflin Company, U.S.A.

図 11 Grandfather’s Journey 6

Illustration & text © 1993 by Allen Say, published by Houghton Mifflin Company, U.S.A.

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図8の表紙にも使われている船上に立つ祖父の絵は(Say, 1993, p. 5)、図9に示したカ リフォルニアの地を踏むセイの絵(Say, 1993, p. 30)と対比をなす。祖父の背景には荒波 が描かれ、これから待ち受けている困難を暗示しているようである。対照的に、セイの背 後にカリフォルニアの青い空が広がり、祖父が経験した葛藤はないかのように見える。し かし、2人の衣服はどこかサイズが合わないように見え、異文化に踏み込んだ胸の高鳴り と不安、そして自分の「居場所」を探し続ける「旅」を象徴しているようだ。

また、図11に見られる最後の1枚として再び登場する祖父のポートレートは(Say,

1993, p. 32)、セイの姿にも見える。これは、図10で示された最初のページにある絵(Say,

1993, p. 4)の一部である。セイは、最後の1枚がどのように描かれたかを次のように語っ

ている。

For the last illustration of the book ─ the one of the framed photograph ─ I had initially planned to show the grandfather as an old man, but that seemed too logical and ordinary. One day I was lying on my studio floor, doing yoga and waiting for inspiration, when I saw pinned on the wall the original rough sketch of the first picture ─ the one of the young man in a kimono. The face is loosely modeled after me as a boy, and staring at it made the little hairs on the back of my neck rise. How right it seemed to end the story with the same image that begins the book! My grandfather's story merging with mine, one journey linking with another to form a circle. The endless circle. (Say, 1995, pp. 31-32)

セイは、写真家としてのキャリアが長いせいか、作品によっては資料として写真を用い ることが多いと聞いている。しかし、Grandfather’s Journeyの制作中に写真を使用したのは 自分の絵のみで、他の登場人物は想像して描いたという。最後は年老いた祖父のポートレ ートで終わらせるつもりだったが、少年時代の自分の顔をベースにした最初のページのラ フスケッチを見ているうちに、同じ絵で物語を締めくくることを思いつく。セイにとっ て、それ以上の終わり方はないように思えた。それはまさに、祖父と自分の物語がひとつ になった瞬間だった。

5.4 「所属」と「居場所」

セイから手渡されたGrandfather’s Journeyの書評には、“A Restless Journey”というタイト ルがついていた。自らも移民である評者は、ユダヤ系アメリカ人の評論家Irving Howeの

“eager restlessness” という言葉を借りて、セイの「旅」を語っている(Rochman, 1993, p.

1974)。「旅」は、セイの生き方そのもののように見える。セイの人生は、ひとつの場所に とどまることはない。幼い頃から各地を転々とした「旅」の始まりはセイが望んだもので はなかったが、常に動き続けることで、セイは異なる視点で世界を見る力を養った。

(21)

Charters(2002)は、セイの作品に見られる居場所のない不安定な感情を認めながらも、

それは日系アメリカ人としてのアイデンティティへの苦悩というより穏やかで冷静な状況 だとしている。人生の変化の流れを「ありのまま」に受け入れる姿勢で進み、セイはふた つの文化にしっかりと根を下ろしながらも、心は自由にその間を行き来していると捉えて いる。

If a sense of rootlessness permeates Say’s books, it is a gently melancholic, philosophic condition rather than a desperate angst about his Japanese-American identity. In his images and text, Say communicates a Buddhist calm: a “letting go” acceptance of life’s flow of changes and complexities expressed through the confident celebration of his own unique history. With his feet in two cultures, Say stays firmly anchored, yet spiritually free to move wherever he chooses. (Charters, 2002, p. 255)

岩野(1997)もまた、ふたつの文化への思いは同じであっても、どちらの文化にも所属 できなかった祖父とセイは異なると指摘している。

成長した孫は、祖父と同様に一つの祖国にいる時はもう一方を思うと言った具合に、二つの祖 国の間で揺れ動く。しかし、どちらに所属すべきかを問い続けた祖父に対し、孫は「二文化 人」に成長した自己への誇りを込めて、この絵本を発表するに至っている。(岩野, 1997, p. 55)

しかし、セイがこの作品に込めた思いは、祖父にとって叶わなかったふたつの文化への 所属意識を、世代を越えて孫が手にした誇りなのだろうか。Grandfather’s Journeyの最後の 2ページをどう読むかによって、解釈は異なると思われる。

And when I was nearly grown, I left home and went to see California for myself.

After a time, I came to love the land my grandfather had loved, and I stayed on and until I had a daughter of my own.

But I also miss the mountains and rivers of my childhood. I miss my old friends. So I return now and then, when I can not still the longing in my heart.

The funny thing is, the moment I am in one country, I am homesick for the other.

I think I know my grandfather now.

I miss him very much. (Say, 1993, p. 31)

そしてぼくがおじいさんとおなじ若者になったとき、カリフォルニアにいくことにした。

しばらくして、ぼくもおじいさんのカリフォルニアが好きになった。そして月日をかさね、ぼ くにも娘がうまれた。

故郷の山や川が恋しくなる。幼ともだちにあいたいとおもう。

たまらなくなって、ぼくは故郷にもどる。

不思議なことに、いっぽうにもどると、もういっぽうが恋しい。

(22)

いまぼくは、おじいさんのことがわかってきたようだ。

もういちど、おじいさんに会いたい。(セイ, 2006)5)

「いまぼくは、おじいさんのことがわかってきたようだ。」と語るセイは、年月を経てふ たつの文化に同じくらい根を下ろすことができたわけではなく、それができなかった祖父 の気持ちがわかったのではないだろうか。16歳で渡米し日本よりアメリカで過ごした時間 の方が長くなっても、アメリカ市民として暮らしていても、忘れられない日本への思いが ある。たまらなくなって日本に戻れば、今度はアメリカに帰りたくなる。50歳半ばを過 ぎ、おそらくセイはこの思いが永遠に続くこと確信し、その思いとともに生きていく覚悟 を決めたのではないだろうか。その決断こそが、セイにGrandfather’s Journeyを完成させ たと思えてならない。

セイはインタビューの際に6)、“I’m probably one of the most unanchored and nervous per-

sons.”と、縛られない自由より居場所のない不安定な気持ちを語った。ある文化に馴染ん

で暮らしていても、もうひとつの文化に対する恋しい思い、居場所を求める気持ち、それ に伴う不安や寂しさは永遠に続くのだろうか。作品の最後の場面を見ながらセイに聞いた。

“Is the cost of assimilation7) into a second culture a constant longing, a restlessness, a displacement, and a loneliness?”

“The answer is yes.”

セイは静かに短く答えて、次の質問に移った。セイにとっては聞き飽きた質問だったの かもしれないが、他の質問への詳細な答えとは対照的なその口調に、セイがGrandfather’s

Journeyに込めた思いを知った。

5.5 「カルチュラル・ハイブリッド」

セイはGrandfather’s Journeyの制作中に、40年近くアメリカに暮らしながらも、アメリ

カでの生活がしっくりくるようになったのはおそらくここ10年だと語っている(Say, 1991, December)。この頃からセイは、インタビューで“cultural hybrid”という言葉を口に するようになった。ハイブリッドとは、混淆性のことであり8)、セイは自分の中にふたつ

5) 『おじいさんの旅』にはページ番号の記載がない。

6) 2014年7月10日にアレン・セイ氏の自宅で行われたインタビューを指す。

7) 異文化コミュニケーション研究において、特に移民の異文化への適応(adaptation)及び変容

(acculturation)には、本来持つ文化的アイデンティティの維持に価値を置く場合と、新しい文化で の人間関係の維持を大切にする場合があるとされる(Berry, Kim, & Boski, 1987)。前者は同化

(assimilation)と呼ばれ、本来の文化を捨てて異文化に適応する意味合いが強い。一方、後者は統 合(integration)と呼ばれ、自分の文化を維持しながら異文化に適応していくかたちを指す

(Martin & Nakayama, 2010)。セイには、日本の文化的アイデンティティや日本人との交流に否定的 な態度は見られないが、過去のインタビューや記事の中で“assimilation”という言葉を適応や変容の 意味で一貫して使っているため、敢えて同じ言葉を質問に使用した。

(23)

の文化が存在し、対話と対立を繰り返す異なる世界観があることを意味していると思われ る。その16年後に、セイは“cultural hybrid”としての自分を次のように語っている。

I can go to Japan and slip right into their culture and blend in, then come back to the United States and do the same. But it seems to me that to have an intimate knowledge of a culture is to be an outsider to it. A city person who has never been outside of it doesn’t know what it looks like until he goes away and views it from a distance. That’s what journey is about, and journeying makes foreigners of us. I have an intimate knowledge of two cultures and yet I am an outsider to both of them. I am a cultural hybrid. (Roser & Yokota, 2007, pp. 11-12)

セイは、日本に行けばあっと言う間に日本文化と調和し、アメリカに帰れば瞬時にアメ リカ文化に入ることができると述べており、Charters(2002)や岩野(1997)が指摘する ように、ふたつの文化にしっかりと根を下ろしたバイカルチュラルのように聞こえる。し かし、その後の発言から、セイが自らを“cultural hybrid”と呼ぶ理由は「所属しているこ と」ではなく、むしろ「所属していないこと」にあると思われる。ある文化を深く知るに は、「よそ者」にならなければならない。その文化の中にいては、当たり前に思われるこ とばかりで、気づかないことが多いのである。距離を置いて、異なる視点で見なければ、

文化を深く知ることはできない。セイは、人を異邦人にし、自分の文化を異なる視点で見 ることができる旅の大切さを説きながら、ふたつの文化をよく知る自分はどちらの文化で も「よそ者」だと言う。まさに、どちらの文化にも根を下ろさず、一方に住みながらもう 一方を思い続けるディアスポラ9)の言葉である。

In the work in progress, Grandfather’s Journey, I am exploring the ambivalences and ambiguities, and the revelations, of being a cultural hybrid. In it, I use my grandfather as my mask, but it is my story, how I came to terms with my adopted country. It is my way of saying this is where I belong.

(Say, 1991, December, p. 46)

セイはGrandfather’s Journeyは自分の物語だと述べ、両方の文化を理解しながらどちら

にも所属せず、かつ両方に所属するという、ハイブリッドなアイデンティティを描こうと した。「これが自分の所属を語る自分なりのやり方」であるとセイは語っているが、この

8) Grossberg(1996)は混淆性を、Bhabha(1994)のいう中間にある「第3の場所」を見つけた状態、

境界線上にあってどちらでもなくどちらでもある状態、常に移動を迫られ自分の場所をつくり出せ ない状態の3つに分類している。

9) ディアスポラとは本来、戦争や迫害など歴史的な事情で移住を強いられた人々を指したが、現在 ではより広い意味で異郷に暮らす人々に使われている。異郷に暮らしながらそこに根を下ろさず、

帰ることができない故郷を思いながら、両方の時間と空間を生きていることが特徴的である

(Clifford, 1997)。「ある場所に住みながら、他の場所を思い出し、(帰りたいと)願う」(p. 255)、そ れはまさに、セイが祖父と共有する感情である。

(24)

「所属」はふたつの文化への立ち位置であるとともに、祖父、母、自分、そして娘へと続 く家族へのつながりともとれる。アメリカと日本というふたつの文化の間で揺れる前に、

家族の中で「居場所」を失ったセイは、文化と家族における自らの「所属」を「アーティ スト」というアイデンティティをもって表現したのである。

6. おわりに

初めての絵本Dr. Smith’s Safariでステレオタイプとの葛藤を描き、The Boy of the Three-

Year Napで日本を捉え直したセイは、「アーティスト」としてのアイデンティティを手に

した。そして、El Chinoで文化・民族的アイデンティティの意味を問い、Grandfather’s

Journeyで自分の「所属」と「居場所」を確認した。

「自分とは何か」を問うセイの作品は、誰かの物語でありながらも、常に自分の物語で あり、そのことが物語に普遍性を生む。詳細なインタビューによってセイの魅力を伝えて いる清水(2001)が述べているように、「セイは誰のためでもなく、自分のために描く。

だからこそ、子どもでも大人でも、またどこの国の人であっても、読む者がそれぞれの立 場で自分自身の物語を読み取ることができる」(p. 80)のだろう。

セイは、読者を想定して絵本を描くことはないという(Brown, 2002)。インタビューの 際にも10)、子どもに向けて描いたことはないと語った。創作への動機について、“I like to paint people that are believable and with individuality. In painting I only have one criterion for a book of art. It’s a simple one. Is it ALIVE? ” とセイは強調した。セイにとって常に大 切な問いは、“Is it alive?”なのだ。生き生きとした物語かどうか、その物語に命を吹き込め るかどうか、そして、自分がその中で動き出せるかどうかが、セイが創作の際に最も大切 にしていることなのある。作品が生まれるときの不思議な感覚を、セイは、“mysterious

synergy”と呼んで微笑んだ。

さまざまな事情で幼い頃から39回の引越しを経験した後(Margolis, 2011)、セイは 1999年に現在の家に移り住んだ。自然光がたっぷりと差し込む2階のアトリエを、セイは とても気に入っている。今日もセイは、光あふれる自宅のアトリエで絵筆を握る。一筆一 筆が、登場人物に、物語そのものに命を与える。そして、セイの「旅」は続く。

謝辞

本研究にあたり、2014710日にアレン・セイ氏の自宅にてインタビューを行った。長時間にわたる インタビューに加え、貴重な資料を快く提供してくださったアレン・セイ氏に、心より感謝申し上げる。

10) 2014年7月10日にアレン・セイ氏の自宅で行われたインタビューを指す。

(25)

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参照

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