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『山椴魚』の指導 に向けて ‑ 作 品の分析
襲 噂
目次 :
1 『山椴魚』 をなぜ読 むのか
2
高等学校 国語教科書 の扱 いの検討3
『山淑 魚』 の構造4
『山淑 魚』 の作 品分析1 『山根 魚
』
をなぜ 読 むの か井伏鱒二 の作 品 には独特 なユーモアがある
。
そのユーモ アは 「笑 い と泣 き が 表 裏 に なって い」1)(松 本 鶴 雄) て,「切 々た る哀 傷,即 ち,人 生 詩 的 な ペ ー ソス」が,「微 笑 と共 に忍 び込 んで くる」2) (浅 見 淵)。 この井 伏 のユー モア は,処女作 『山椴 魚』 か ら,「存分 に発揮 され」,井伏 の作 品 は 「『山淑 魚』 の世界 を広 め,深 め る こ とで一貫 してい」 る3) (臼井吉見) と指摘 され ている。
『山根魚』 は
,1919
年頃,井伏鱒二が早稲 田大学 に在学 中,習作 の一 つ と して朗 読 会 に出 した もの で あ る。 1923
年7
月 『幽 閉』 と題 して 同人 雑 誌「世紀」 に発表
, 1929
年5
月 「内部 改正」4)を加 え, 『山淑 魚』 と改題 して雑 誌 「文芸都市」 に掲載 された。以後再 録 の際 や短編 集 に収 め られた時, ま1
)松本鶴雄 『井伏鱒二研究』 (明治書院,1 99 0
年),65
ページ。2)
浅見淵 「井伏鱒二」,小沼丹・他 『群像 日本の作家16
井伏鱒二』 (小学館,1 9 90
年),1 20‑1 21
ページ。3
)臼井吉見 『臼井吉見集』 (筑摩書房,1 985
年),21 2‑21 3
ページ。4
)模林藻二「山椴魚」,磯貝英夫編『井伏鱒二研究』(渓水社,1 984
年),1 35
ページ。118 人 文 研 究 第 9 2 輯
た何 回 も 「字句 の訂正」5),「加筆」6)な どが行 われ, さ らに
1985
年新潮社版『井伏鱒二 自選全集』刊行 の際,作品の終結部 が削除 された。
誇 り高 き山根魚 は,繁殖 しない徴 を 「愚か」だ と見下 げ,付和雷同の徒 の ような目高達 を 「不 自由千万」だ, と噸笑す る
。
彼 は どん どん発育 し,ひ と りで岩屋 を思 うままに占用す ることがで きるが,丸二年間の うかつ さによっ て,頭が肥大 し過 ぎて, これ までの棲家である岩屋か ら外へ出 る自由が剥奪 され る。 狼狽 し,悲 しんだ彼 は空 し くも神様 に救 いを求 め もす る。
ついには よか らぬ性質 をも帯 びて くる。岩屋 に紛れ込 んだ蛙 を一生閉 じ込 めてや ろう として しまう。 二匹の間 には二年間 も激 しい罵 りあいが続 くが,三年 目の夏 は,「お互 に黙 り込 み」,「自分 の歎息が相 手 に聞 こえないや うに注意」す る 静かな姿で,作品 は終わ っている。ドラマテ ィックな山場 もな ければ,複雑 なス トー リー もない。 しか し,た とえば 「寒 いほ ど独 りぼっちだ」 とい うような独 自の形容,如何 に も大袈裟 な言葉,山椴魚の不様 さを噸笑 してはいけない と呼び掛 けなが らも,却 って 山椴魚の苦境 をます ます際立たせ る描写。 これ らの表現 によって,作品 に涙
と笑 いを惨 ませ,新鮮 で不思議 な効果 を もた らし,読 み手の心 を打つ。 この ような
「
〔井伏 の〕作品で しか表現で きない文学 の面 白さ,醍醐珠,微妙 な 心のひだ とい うもの」7) (紅野敏郎) を,学習者 に触れてほ しい。2 高等 学校 国語教 科書 の扱 いの検 討
『山椴魚』 は,「典型 的 な寓意小説」8)と見 られ て もい る。寓話 と違 って, 寓意小説 は教訓的な内容 を,他 の物事 にか こつ けて表わす ものでな くて も, 他 の物事 によせて, ある意味 到大めかす役割 を持 っている。
5
)米 田清一 『井伏鱒二全集』第‑巻解題参照 (筑摩書房,196 4
年).6)米田清一,同上。
7
)紅野敏郎 「教材 としての井伏文学」, 『月刊国語教育』 (1 9 8 6
年5
月号),2 3
ペ ー ジ 。8)
『国語 Ⅰ教授資料』下 (光村 図書,19 8 5
年)0『 山板魚』の指導に向けて ‑ 作品の分析 119
す る と, この作品 はある社会状況 とそ こでの作者井伏 のあ り方 に対 す る訊 刺 と取 るか, あるいはその状況 の もとにおける井伏 の孤独 とおのれ を持す る 頑固 さへの,井伏 自身の苦笑 いを寓意 として持 ってい る, とい うことになろ う。動物 の世界 を借 りて,人 間社会 を措 くとい う手法か ら, この作品 を寓意 小説 として読 んで もさしつか えはない。 しか し寓意 はス トレー トに打 ち出さ れていない 。 必ず しも寓意 を強調 して読 む必要 はない と思 う。
1 99 4
年出版 の高等学校 国語 『新 国語二』 (第一学習社)の中 に, 『山椴魚』が採用 され, この作品 は,「象徴主義 の文学作 品」9)だ, と規定 されてい る
。
『山板魚』 は, 山椴 魚 とい う動物 に仮託 して人 間的 な ドラマが展開 されてい るため, この規定の方が よ り適切 だ と思 う。ただ し,文学作品 は概 してある 情緒,感情 を象徴 的,暗示的 に表現 しよう とす る ものだ。「象徴 主義 の文学 作品」 としての とらえかたが成 り立つか どうか は疑問だ。
当教科書教師用の 「指導 と研究
」
には,作者解説,指導のポイ ン ト,作品 鑑賞 な どについて述 べ てい る。
その中で,問題 とすべ き点 は次 の3
点 で ある
。
(1) 「作者」 を通 じて作品 を理解 しようとす る
「学習指導の要点」 として,次の ように書 いている。
素直 な読 み,素直 な共感 ‑ それが最 も必要 な ことであって, その結 果 としての個々の対象への遣 り方 を重視 してい きたい。数学 の ように一 つの答 えが出な くて もいいのである10)0
この認識 は作品 を読 む基本的 な立場 と態度 として評価 したい。 しか しここ で は, 「なぜ作者が象徴 とい う手法 を とったのか」, 「象徴的事項 が それ ぞれ 何 をどう示 そ うとしてt,)るのか」11), とい うことを指 して論 じて い る
。
かつ9)
『新国語二 指導 と研究』第9
分冊 (第一学習社,19 9 4
年四訂版),1
ページ。10)同上,1ページ。
ll)同上,1ページ。
1 20 人 文 研 究 第 9 2 輯
て早稲 田時代 の井伏 と, その師,片上伸教授 との 「確執 の不幸」 に焦点 を当 て, 「山根魚 は片上伸 の象徴 で あ り,蛙 が井伏 自身 の象徴」12)で あ り, 『山椴 魚』 は 「師片上伸への井伏 の一 つの鎮魂」13)と説明 してい る
。
けれ ども 『山淑魚』 を, 山椴 魚の ような閉 じ込 め られた人 間 を措 く作 品 と して,読 んで もさしつか えが ない。 また, その頃 にお ける作者 の体験,及 び 作 品の時代背景 を辿 りなが ら「山淑魚」は井伏 自身 だ と,次の ように も読 める。
絵 を措 くのが好 きな井伏 はた また ま文学 の世界 に入 った。作 品 を一 つ一 つ 措 いてい る内に,文学 の道 で成長 して きた。 しか し当時 日本 は激変 の時代 に 置 かれ,文学界 はやがて左傾化 し, まわ りの仲間達が ほ とん どそれ に合流 し て しまった。
ひ とりだ け取 り残 された井伏 の孤絶感 が まさに山根魚の心境 その ものであ ろう。孤独 か ら脱 出 しよう ともが いて も,流れ に左右 され る ことほ どいや な ことはない と思 う氏 の信念 は,すで に氏 の体 を束縛 す る岩屋 の ように,氏 を 自由に身動 きさせ ないのだ。 『山淑 魚』 は当時 の社会状 況 にお け る井伏 自身 の投影 ともい えよう
。
だが作 品 を, その まま作者 をお しはか る材料 の ように読 んで しまって は, 作 品本来 の よ り豊 かで,深 い意味 が損 なわれ る気が す る。 『山轍 魚』 の象徴 性 は現実 の物事や事項 な どにあ るので はない。 なに も個別 的,具体 的 な もの
に限定す る必要 はないのだ。
( 2 )
テーマ を中心 にして読 む当教科書で は,作 品の終結部 が削除 された 『井伏鱒二 自選全集』版 で はな く,削除 され る前 の筑摩書房版全集 の本文 をテキス トに してい る。 その理 由 について,「従来 流布 していた」14)とい う事 実 よ り,テーマ読 み に導 くの に都
1 2 )
『新国語二 指導 と研究』第9
分冊 (第‑学習社,1 9 9 4
年四訂版),2 0
ページ01 3 )
同上,2 1
ページ。1 4 )
同上,2 6
ページ。『山根魚』の指導に向けて‑ 作品の分析
1 21
合が よいための選択 で はないか,と察 す る。次 に述 べ られて い るか らであ る。山被 魚 と蛙 の対立 か ら和解 に至 る部分 には, テーマや表現 の上 か らみ て も重要 な意味が含 まれてお り,教材 として も有意義 で ある と判 断す る か らで ある15)。
「重要 な意味」 も 「有意義」 も修身的 な役割 を意識 してい るので はないか。
テーマ とす る 「和解」 として読 まれ るか どうか も一 つ の疑 問 だ。主題 が
4 4
文字 で まとめ られ てい る。
長 い間の運命 的不幸 の悲 しみ,嘆 き,屈託 の種 々相 と, それがやむな くもた らす一種 の罪 の様相1
6 ) 0
「的確無比」 の構成,「鎮刻 の表現」, 「底知 れ ぬ奥深 さ」 を持 ち,「昭和 文 学 にそれ ほ ど類 はない はずで あ る」17)と評 しなが らも, この ように ま とめて
しまって は,作 品の魅力 は感 じられな くなって しまう。
また,主題 の とらえかた も一面的だ。 山槻魚 の悲 しみ も悩 み もただ岩屋 に 何年間 ぼんや りしていた結果 による ものだ。時代 の流れ とい うような運命 と 無 縁 の世 界 にい る
。
「悲 しみ,嘆 き,屈 託」 とい う言葉 は抽 象 的 で, 「種 々 相」 といわれて も中身が ないた め,貧弱 になって しまう。蛙 を閉 じ込 めて も 腹一杯 な らない し,狭 い岩屋 か ら出 られ ない。心 な らず も蛙 を死 に追 いや っ たが,道徳 に反 した行為 を犯 した罪 とは違 う。 「やむな くもた らす一種 の罪」とい うの は見 当違 いだ と思 う。
『山淑 魚』 の指導 について は,数年前, 日本文部省教科調査 官主催 の座 談 会 で取 り上 げ られた ことがある
。
この作 品 を学 んだ生徒 の感想 の報告 による と,「どこかひ ょうきんな感 じがす る」 とい う生徒 もいれ ば, 「い じめ」 とつ ぶや く生徒 もい るそ うだ。全体 として井伏 わ作 品 について, 「まった く分 か らない とい う生徒 と, なん とな くほのか に感 じる とい う生徒 と,かな り受 け1 5 )
『新国語二 指導 と研究』第9
分冊 (第一学習社,1 9 9 4
年四訂版),2 6
ページ。1 6)
同上,7
ページ。1 7 )
同上,1 0
ページ。122 人 文 研 究 第 9 2 輯
とめ方が違 ってい る
」18
), とい うこ とが分 か った。 これ に対 して,紅 野敏郎 が井伏文学 の特徴 か ら次 の ように この問題点 を指摘 した。打 て ば響 くような シャープな形 で 自分 の心 をつかみ とるようには書か れてない,人生 どう生 きるか とい う問題, あるい は青春 とい うような問 題一 つ に しまして も,明確 なテーマ設定19)
が されていな く, また 「露骨 やセ ンチメ ンタルな ところを排除 してい く」 と い う 「今 の生徒 は非常 に受 けに くい要素
」20)
が あ る。
明確 なテーマが な く, 抑制 されて, いたず らに感情 を浪費 しない井伏文学 の特徴 は,同時 に生徒 の 難解 に繋が ってい る。私 は生徒 の 「かな り
」
「違 ってい る」
「受 け とめ方」 は, ある面か ら井伏文 学 の膨 らみ を示 してい る と考 える。
山根 魚 は蛙 を苛 めて,絶望 に陥れた ように書 かれ てい る. それ は作 品 の中でただ一 つの場 面設定 で あ るに過 ぎない が,「い じめ」 として読 んで も可笑 し くはない と思 う。井伏文学 に はその よ
うな大 きさ も持 ってい る。
しか しそ こに扱 ってい る問題 は 「孤独」や 「寂 しい」 ことであって も,作 品 自身 は決 して暗 い もので はない。 これ らの一見皮相 な読 みか ら出発 しなが ら, た とえば 『山淑魚』 の世界 を, いか に して もっ との どやかな形 で成立 さ せ うるか は,重要 な問題 で ある。 テーマ に こだわ ることな く, そ こに流れて い る情緒的,雰囲気的な もの をほのぼので あ りなが ら,可笑 し くかつ お もし ろい とい うような新鮮 なイメー ジ として学習者 に感 じさせ,理解 させ る授業 がで きれ ば,学習者 の読 みが楽 し くな って くるだ ろ う。
(3) ユーモア を見逃 す
表現 について,比癒,文語的 な表現,翻訳文体, 山淑魚の心理状態 を展開
1 8 )
「教材 としての井伏文学」 (『月刊国語教育』,1 9 8 6
年5
月号),2 0
ページ。1 9 )
同上,2 3
ページ。2 0 )
同上,3 1
ページ。『 山被 魚』 の指導 に向 けて ‑ 作品の分析 1 23
す る 「漸層法」21)を取 り上 げてい る。 ユーモ ア につ いて,「コロ ツプの栓」
とい う語句 を説明 した時だけ触れている
。
それだ けでは不十分 である0
『山板魚』 は岩屋 に閉 じ込 め られた不気味 な山樵魚 の悲劇 を,比倫 な どに よってユーモラスに表現 した り,山淑魚 自身 に評論家的な口振 りで語 らせた りしなが ら, その底 にペー ソスがたた えられ,の どかで,拝情的な雰囲気が 流れてい る
。
これ らの表現手法 によって,作品全体 の豊かな世界 をもた らし た とい え る。
『山根 魚』
を読 む際,翻訳文 体 な どに 目をつ け る と同時 に, ペー ソスを交 えたユーモアの表現効果 を見逃 してはいけない。 それ らの表現 効果 を十分 に味わ って, はじめて作 品全体 の 「的確無比」 な構成 をよ り正確に理解で きる と思 う。
た とえば,山轍魚の苦境 について,語 り手 は次の ように読 み手 に呼び掛 け てい る
。
諸君 は,発狂 した山椴魚 を見た ことはないであ らうが, この山淑魚 に 幾 らかその傾向がなかった とは誰がいへ よう。 諸君 は, この山椴魚 を噸 笑 してはいけない。すでに彼が飽 きるほ ど暗黒 の浴槽 につか りす ぎて, 最早が まんがな らないでゐるのを,諒解 してや らなければな らない。い かなる疲療病者 も, 自分 の幽閉 されてゐる部屋か ら解放 して もらいたい と絶 えず願 ってゐるで はないか。最 も人間嫌 いな囚人 さへ も, これ と同 じことを欲 してゐるで はないか。
「指導 と研究」 によれ ば,次のように分析 している。
この部分 は,語 り手 としての作者が顔 を出 している ところで, (中略) 作者が山轍魚 に対 して深 い同情 を示す内容で,文章構成 の上か らいえば 小説 に変化 をつ ける効果がある22)0
語 り手 と作者 を どう見分 けるのか。 こうした語 り手か ら作者への変容 を確 認す ることは,文章構成上の効果 を理解す るのに何 の意味 を持つのか。 はた
21)
『新国語二 指導 と研究』第9
分冊 (第‑学習社,1 994
年四訂版),2
ページ。22)
同上,1 5
ページ。1 24 人 文 研 究 第 92 輯
して 「山淑 魚 に対 して深 い同情 を示す内容」 になってい るのか。 いずれ も疑 問で ある。
語 り手 としての作者 な どは文学作 品 に存在 しない。作者 を持 ち出す ことは 作 品 その もの を読 む ことには必要 が ない と思 う。 なお, この部分 を語 り手 の 同情 として読 む と, ユーモア は感 じられ な くな る。語 り手 は一見 山板魚 を庇 うように呼 び掛 けてい るが,一連 の極端 な比喰か ら,読 み手 には 「馬鹿 なや つだな
」
と聞 こえる。
語 り手 こそ山椴 魚 を 「噸笑」 してい るのだ。 それ を感 じ とる と,読 み手 は思わず吹 き出す。吹 き出す とともに 「しようのないやつ だ なあ」 と読 み手 の方か ら山椴 魚への同情 を生 む。
戸坂潤 の述べてい る 「笑 いの論理 的構造」 を現 してい る。 語 り手 は山淑魚 を庇 うように描写 してい るが,実 の ところは山板 魚 を皮 肉 ってい る。 「肯定 の側 に立 つ ような外見」, いわ ば 「褒 め るの はクサすた め」 のアイ ロニーで ある。文章構成上 の効果 にな る と, 山椴魚 を 「クサす」 ことが読 み手 の同情 を買 うことにな る
。
「否定 の側 に立 つ よ うに見せ か け」 て,肯定 す るまで に はいか ないが,「な ごや か な雰 囲気」23)を もた らして い る。
ユーモ ア の手 法 で ある。読 み手 は山椴魚 の間抜 けさを笑 いなが ら,辛 い境遇 を悲 しんでい る 山根 魚 に優 しい眼差 しも注 ぐ。ここで,先行 の研究 な どを参考 にしなが ら,私 の作 品分析 を し, その作 品 分析 に もとづいて指導案 を構成 した い。
3
『山根 魚 』 の構 造『山根 魚』 は,主人公 山椴 魚が 自分 自身 の うかつ さか ら,狭 い岩屋 に閉 じ 込 め られて しまった ことへの苦 しみ,悩 み,辛 さ, その ことが どうい う心理 や行為 となってあ らわれ る ‑ か を描写 してい る
。
作 品の冒頭 か ら山椴 魚 は岩屋 か ら抜 け出せ ない孤独 な身 となってい る
。
に23)
戸坂潤 『戸坂潤全集』第四巻 (勤草書房,1 98 2
年),75
ページ。『 山根魚』の指導 に向けて ‑ 作品の分析 1 25
もかかわ らず, 「い よい よ出 られ ない といふ な らば,俺 に も相 当 な考 へが あ るんだ」 と強が る
。
山椴 魚 は 「相 当な考へ」 を実行 す るには,「い よい よ出 られない」 とい う実態 を十分認識す る過程 が必要 と設定 され る。
山椴魚 は岩屋か ら外 の光景 を眺 め ることを楽 しんでいた。やがて小蝦 を通 して, 自分 の状 況 を思 い知 り,岩屋 か ら出 よ う と行 動 を起 こすが,無駄 で あった。途方 に暮 れた山淑魚 は 「寒 いほ ど独 りぽっちだ /」 とすす り泣 き, つい蛙 を 「一生涯」狭 い岩屋 に 「閉 ぢ込 めてや る /」行動 に踏 み切 るO
だが,蛙 を自分 と同 じような窮境 に陥れ るこ とによって, 山淑魚 自身 の悲 哀が柔 ら ぐどころか, 「自分 の歎息が相手 に聞 こえないや うに注意 し
」
な け れ ばな らない, とい うます ます窮屈 な空間 に狭 め られて しまう。 山椴魚 は絶 望 の淵 に徹底 的 に沈 み,最後 まで 「独 りぼっち」で あ り,「悲 しか った」。作 品全体 は一行 あ きによって,
7
つの形式段落 か ら構成 されてい る。最初 の形式段落 で はすで に山椴魚の悲 しみに至 る状態 を指 し示 し,山淑 魚 と語 り 手 とい う二 つの視点 を同時 に提供 してい る。 山板魚 の悲惨 な状況 とそれ に対 す る内面的 な変化 の進行 に即 して,7つの形式段落 を独立 させ なが ら, それ を重 ね る ことに よって, 山椴 魚の状況 を突 き詰 めて,彼 の悲 しみを深 めていくとい う構造 だ。 この
7
つの形式段落 を7
つの場面 として考 える。
『山槻 魚』 の この構造 に もとづ いて,主 なプロ ッ トを次 の ように示 して置 こう
。 (
) 内 は場面 によって本文 を区切 った もので ある。
場面
1
山梯魚 の悲 しむ状況 ‑ その状況 に対 す る山椴魚 の自信 (冒頭 か ら 「‑‑ うまい考 へがある道理 はなか ったのである。」
まで。) 場面2
岩屋 の内外 の状況 ‑ 山椴魚の思 い上が り (「岩屋 の天上 には,」
か ら 「山淑 魚 は今 に も目が くらみさ うだ と咳 いた。」 まで0) 場面
3
小虫削こ出会 う‑ 自分 自身 の苦境 が思 い知 らされ る(
「或 る夜,」
か ら 「全 く蝦 くらゐ濁 った水 のなかで よ く笑 ふ生物 はゐないので ある。」 まで。)
場面
4
神様 にすが る ‑ 「寒 いほ ど独 りぽっち」 とすす り泣 く(
「山椴魚 は再 び こころみた。」 か ら 「‑‑・聞 きのが Lは しなか ったで あ ら126 人 文 研 究 第 9 2 輯
う。」 まで。)
場面
5
蛙 を閉 じ込 める‑ 悪党 にな りさが る(
「悲款 に くれ てゐ る もの を,」
か ら 「・‑‑主張 し通 してゐたわ けである。」 まで。)場面
6
両者が いがみ合 う‑ 弱 みが相手 に見抜 かれて しまう(
「一年 の 月 日が過 ぎた。」か ら 「お前 こそ, そ こか ら降 りて来 い」 まで。) 場面 7 蛙 と対立す るまま最期 を待 つ主人公 の絶望(
「更 に一年 の月 日が過 ぎた。」か ら最終行 まで。)
4
『山根 魚 』 の作 品分析前節で示 した 『山椴魚』の構造 を踏 まえて, 『山根魚』の作品分析 を行 う。
場面 1
「山椴魚 は悲 しんだ。」
これ は 『山椴魚』 の書 き出 しである。短 い二文節か らなるセ ンテ ンスで書 き出 し,ただちに改行 してい る。 しか も 「悲 しんでいる」 とい う描写ではな
く,「悲 しんだ」 とい う感覚表現で山根魚の感情 を強調す る。
普通,物語の始 ま りは, まず大 まかな時点 と場所 と登場人物 の設定がなさ れ,描写 は作品 の冒頭 か ら始 まらない。 ここで はそれ らをすべて抜 きに し て,い きな り登場人物 の心理状況 の叙述 に入 る。柳 田国男 のい うように,
「単 に或 る出来事 の叙述 を,寧 ろ幾分 か平板 に,素朴 にや っての ける」24)辛 法で,作品の不思議 な世界 を作 り出す。 それ に動物 の山椴魚 と人 間的な感情 を表す動詞 の 「悲 しんだ」 と取 り合わせ る と,読 み手 は, これか ら悲劇が語 られ る とい うよ り,滑稽 で奇妙 な感 じをす る
。
山淑魚が悲劇 の主人公 にふ さ わ しいイメージを持たないのに, 「悲 しんだ」 と続 くか らだ。なぜわざわ ざ山椴魚 を主人公 にす るのか。種々様々 な動物 の中か ら,外で
24)
柳田国男 『柳田国男集』(日本現代文学全集36
,講談社,1 978
年),10
ページ.『 山椴魚』の指導 に向 けて ‑ 作品の分析 127
もな く山轍 魚 に選定 した の は,頭 が大 き く,動 きが敏 捷 で ない その特徴 か ら,頭 ばか りを使 ってあれ これ と 「思 ひぞ屈」す る ものの積極 的 には動 こう としない絶望的な人間像 をイメー ジさせ る ことがで きるか らであろう
0
山板魚 は頭がす っか り大 き くな り, うっか りしてい る うちに岩屋か ら出 ら れな くな る。無理 を して出てい こう と試 み る と, 「頭 は出入 口を塞 ぐコロ ツ プの栓 とな るにす ぎな くて, それ はまる二年 の間 に彼 の体 が発育 した証拠 に
こそはなったが,彼 を狼狽 させ且 つ悲 しませ るには十分 で あった」。
自然 な成長が,思 い もか けな く自分 を こんなひ どい 目にあわせて しまう
。
「発育盛 り」や 「発育 の よい子」 な どとい うように,「発育」 とい うことは, よ く望 ましい ことを示す。 ここで はその望 ましい 「発育」 の結果 として,絶 望的 な事態 を招 いた滑稽 さを表す ことがで きた。
「何 た る失策 で あ る ことか ノ」 山根 魚 は初 めて 自 ら顔 を出す。頭 が 出入 口 につ っかか った 「狼狽
」
「且 つ悲 しむ」 山板 魚 の独特 なポーズ に, いか に も イ ンテ リ,教養 の高 い人 た ちが使 う格式 ぼったせ りふで さ らに修飾 す る。
山椴 魚 は, 「い よい よ出 られ ない といふ な らば,俺 に も相 当 な考 へが あ る んだ」 とたか を括 る
。
「い よい よ‑・‑ な らば」 とい う仮 定 の表現 には, 山椴 魚の まだ極 限 に至 らない状況認識 の甘 え, 自分 の 「失策」 を認 めはす るが, 解決す る力が ある と信 じ込 む愚か さを表 す。そ こで,語 り手 は間 を置 かず,「しか し,彼 には何一 つ として うまい考 へ が あ る道理 はなか ったのであ る。」 とあっさ り, かつ完全 に彼 の解 決能力 を 打 ち消 して しまう
。
語 り手 は山椴 魚 の哀 れ な苦境 を,読 み手 に説 明 しなが ら, 山淑魚の状況認識 の甘 さ, 自分 自身 に対 す る思 い上 が りを容赦 な く指摘 す るのである。 山梯 魚の現実 の断面 を語 り手 として鮮 やか に切取 り,浮かび 上 が らせ る。 これ によって, 山淑魚 の悲劇性 を告 げる と同時 に,語 り手 の冷 静で客観的 な立場 もはっ き りと示 す ことがで きた。場面
2
山淑魚 は目高達 の泳 ざぶ りを じっ と見 ていた。多 くの 目高達 は, 「藻 の茎
1 28 人 文 研 究 第 9 2 輯
の間 を泳 ぎぬ ける ことを好 んだ らし く」, 「群 をつ くって,互 に流れ に押 し流 され まい と努力 し」,‑ ぴ きだ けが大勢 の仲 間 か ら 「自由 に遁走 して行 くこ
とは甚 だ困難 で ある」 ようだ。
この段落 は様 々 な表現 で 目高達 の泳 ざぶ りを描 いてい る。一 匹が誤 って違 う方向 によろめ くと,他 の もの はいっせ いに誤 った ものの方 に付 いてい く。
所詮動物 の可愛 らしい動 きだ けなのだが,人 間社会 にある付和雷 同のや り方 で はないか と思われて,笑 いを誘 う。
山淑魚 の性格 はいた ってのんび りと観察 してい るように描 かれてい る。彼 は自分 の認識 の足 りない ところを棚 に上 げて,他人 をか らか う こ とに よっ て, 自分が優越者 た るこ とを宣言 しようとす る。 しか し一体 だれが不 自由な のか。だれが劣等者 の立場 にい るのか。洞窟か ら出 られ ない ことを知 ってい る読 み手 こそ,優越感 を持 って山板魚 を, 山淑魚の愚か な見 当違 い を笑 う。
山椴 魚 は一片 の 白い花弁が だんだん渦 の真 ん中に吸 い込 まれ てい くの を見 た。 「山根 魚 は今 に も目が くらみ さうだ と咳 いた。」語 り手 は,行 を改 めて, 山根魚 の独 り言 を聞 き逃 さず に読 み手 に伝 える
。
語 り手 は山根 魚のすべて を 知 り尽 くしてい るようだ。 山椴 魚 は どんな世界 にい るか,語 り手 は山淑 魚の 目を通 してつぶ さに描写 す る。 これ を読 む ことによって,読 み手 は山槻 魚の 状況, それ らに対 す る山根 魚の感情 な どを目に見 えるほ ど くっ き り受 け取 ることがで きる。
この くだ りは物語 のス トー リー とは一見離れてい るようだが,紅野敏郎 が 指摘 してい るように, 山根 魚 の 「狼狽」すべ き境 遇 と対 照 されて,「あ る幽 閉 された状況 とい うものが和 ら
」25
)げ られてい る。
狭 い岩屋 に閉 じ込 め られ てい るが,一旦広 い外 の世界 に目を向 ける と,初 めてある新鮮 で,明 るい世 界 が見 えるのだ。 自然 の風景,小動物 たちの活動 に対 す る山根 魚 の感覚 はま た如何 に も知的 な ものだ と感 じられ る。25)紅野敏郎「教材 としての井伏文学」,『月刊国語教育』(1986年 5月号),28ペー
ジ 。
『山根魚』の指導に向けて ‑ 作品の分析
1 29
しか し, た とえ新 しい世界 を発見 した として も,所詮 は害 の中だ。 山轍魚 は岩屋 の中 にこの ままじっ としているほか はない。
場面
3
そ こへ,或 る夜突然‑ぴ きの小蝦が岩屋 の中に入 って きた。孤独 な山轍魚 には,小蝦 の到来 は刺激であって, この最初 の侵入者 を大事 にしたい ものが あった。 自分 の 「横 っ腹 で何 をしてゐ るのか」 を知 りた くて も, 「体 を動 か せば, この小動物 は驚 いて逃 げ去 って しま」 う恐れがあるので,ふ りむいて み ることを 「我慢 した
」。
「だが, このみ もちの虫 け ら同然 のや つ は」, 自分 の横 っ腹 に 「卵 を生 みつ け」,「さもなけれ ば,何 か一生懸命 に物思ひに耽 っ てゐたのであ らう。」 と思 う と, 山椴魚 はじっ としてい られな くなる。「さもなけれ ば」 は本来AかBか を,平面上 の選択 として結 びつ ける言葉 だ。 しか しここで は,
A
は 「卵 を産 みつ けて」 い る蝦 の客観的な状況だが, Bは 「何か一生懸命 に物思 ひに耽 って」 いる とい うのは山淑魚が考 えた蝦 の イメー ジだ。 「さもなけれ ば」 は平面上 の対等 な表現 をつな ぐ言葉 になって いない。またAは 「卵 を生 みつけ」 る生物 的な存在 の蝦だが,Bは 「何か一生懸命 に物思ひに耽」 る人間 にた とえられてい る とも考 えられ る
。
蝦 の習性 と人間 の特性 とを同 じ性質 の もの として結び付 けることで,蝦 もなん とな く人間め いて見 えて き,作品 その ものの立体的 な面 白さが出て くる。「くった くした り物 思 ひ に耽 った りす るや つ は,莫 迦 だ よ」 と山被 魚 は
「得意 げに」 な り,「どうして も岩屋」か ら脱 出 しよう と 「決心 した」。 自分 はそんな 「莫迦」で はない ことを証明すべ く,行動 を起 こしたのだ ろう
。
山 敬魚 は突然水 の中で運動 し出 したため,水が濁 ったO不意 をつかれて小蝦 は 「狼狽」 して しまう
。
しか しす ぐあ とによ りうろた えた山轍魚が見 えて くる. 「岩石」や 「梶棒 の一端」 と思 われていた山轍魚 が,突然 「コロツプの栓 となった り抜 けた り」す る よ うにな る。
それ を見 て,小蝦 は堪 え切 れず 「ひ どく失笑 して しまった。」130 人 文 研 究 第 9 2 輯
山淑魚 は真剣 に出 よう と四苦八苦 しているのに,他者か ら見れば意味 を成 さない。 この間の落差 によって,叙情性 を生 み,ユーモア を帯 びて くる
。
ま た前句 の小蝦 の描写か らす ぐ 「蝦」 とい う一般的な概念 にな り,抽象の レベ ル を上 げている ところも面 白い。山淑魚 自身が,「み もちの虫 け ら同然 の」小蝦 の笑 いの対象 とされて しま う場面 を通 して,山轍魚の値打 ちを何 らかの意味で下 げ られ る効果 になる。
笑われた山椴魚 は,面子が潰 され, 自分 自身 の価値 の下落 になる
。
一方,笑 われ るものは一種 の失敗者 であることを物語 るが, または精神 的な刺激, あ るいは損害 を受 ける被害者で もあるため,読 み手 の笑 いを誘 うと同時 に,同 情 も呼び起 こす。場面
4
山椴魚 は何度 も岩屋か ら抜 け出そ うと試 みたが,無駄であった。 もはや苦 境 か ら永遠 に脱 出で きない ことを悟 った山板魚 は, ようや く現実 の厳 しさを 直視す ることがで きた。彼 は涙 を流 して,神様 に助 けを願 う
。
「ああ神様 / あなた はなさけない ことをな さい ます。た った二年 間 ほ ど私が うっか りしてゐたのに, その罰 として,一生涯 この害 に私 を閉 ぢ こめて しまふ とは横暴 であ ります。私 は今 に も気が狂 ひ さうです
」
山椴魚 は 「涙がながれ」 るわ けがない。水 の中にながれて も分 か らない。
ナ ンセ ンスだ。 しか し,山轍魚が真剣 に悩 んでいる と書かれ ると,笑 い とと もに同情 を誘 い,神様 に泣 きすが る山椴魚の無 自覚 さ,可愛 らしさ も感 じさ せ られ る。
山椴魚 は 「どうして私だ けが こんなにや くざな身の上でなけれ ばな らない のです?」と神様 に心中の不満 を訴 える。尊大ぶ った山椴魚 は初 めて自分 を 他 の動物 と並んで考 えるようにな り, そ こか ら自分だ けの悲惨 な状況 に気が 付 か ざるを得 な くなる。 「だ け」 とい う言葉 の限定 によって,後 に彼 が蛙 を 自分 と同 じ状態 に置 く動機 と結 び付 け,「相 当な考へ」 を実行 す る過程 を予 告す る。
『山撒魚』 の指導 に向 けて ‑ 作品の分析 131
神様 に助 けを求 めて も, 甲斐 が なか った。他 の生物 の生 き生 き とした姿, 蛙 の水面か ら水底 まで, また水底 か ら水面 までの 「勢 ひ」 よい泳 ざぶ りを見 て, 山椒魚 は素直 に感動 し, 自分 の惨 めさ も見 えて きた ようだ。 しか し, そ の まま認 めた くない彼 なので, その屈 託 を追 い払 うよ うに 目をつぶ ってみ た。 目を開 けないの は山淑魚 に とって珍 しい ことだ。彼 は自分 の ことを 「誓 へ ばブ リキの切屑」だ と思い,無性 に悲 しか った。
誰 しも自分 自身 をあ ま り愚か な言葉 で撃 へてみ ることは好 まないで あ ろう。 ただ不幸 にその心 をか きむ しられ る者 のみが, 自分 自身 はブ リキ の切屑 だな どと考へてみ る。 た しか に彼等 は深 くふ ところ手 をして物 思 ひに耽 った り,手 ににじんだ汗 をチ ョッキの胴 で拭 った りして,彼等 ほ
ど各々好 みの ままの恰好 を しが ちな もの はないのである
。
語 り手 は山根 魚の悲劇 的な状況 を描写す るのだが,一方 もって まわ ったお おげさで,独断的 な言葉 や実証 したが る口調 とわ け知 り顔 で語 り, しか もこ れ は如何 に も分 か りに くい くだ りである。
「各 々好 みの ままの恰好 を しが ちな
」
「彼等」 は,一体 「不幸 にその心 をか きむ しられ る者」 を指 すのか, それ とも 「ブ リキの切屑」 を指すのか,暖味 であ る。恐 ら く後者 だ ろ う。
「た しか に」
は絶対 で はないが,多分 とい う意 味 として,前 の文 を受 けて, それな りに具体 的 な証拠 を挙 げて説明す る。 こ うして 「ブ リキの切 層」 とまった く同 じ様子 で はないか と心得 る と,読 み手 は思わず笑 って しまう。
「ブ リキの切層」 な どは,到底思 いつかないた とえ,奇想天外 な表現 だが, 中身 は痛 ましい。 なぜ その考 えを持 ち, それぞれ の恰好 で耐 えてい るのか。
山板魚 の状 況 は 「い っそ う重々 し く,普遍 的 な もの にみ えて くる
」 2 6 )
。普通 の言葉 で気がつか ない ような新 しい見方 を示 して くれ る適切 な隠境で ある。山根 魚 にはただ 目を開いた り,閉 じた りす る自由 しか残 されていない。彼
2 6 )
ウイリアム ・エ ンプソン 『唆味の七つの型』 (岩崎宗治訳,研究社,1 9 8 5
年),3 1 9
ペ ージ。132 人 文 研 究 第 9 2 輯
は目を閉 じる と, 「合点 のゆかない」 「巨大 な暗や み」 に溺 れそ うになる と感 じ,彼 は もはや悲 しみの どん底 に落 ち込 んで しまう
。
語 り手 は 「‑‑‑牢獄 の 見張人 といヘ ビも, よほ ど気難 しい時でな くて は,終身懲役 の囚人 が徒 らに 歎息 を もらしたか らといって叱 りつ けは しない。」
と再 び読 み手 に山板 魚 に 対 す る理解 を求 める。
しか し, 目を閉 じる と, 「合点 の ゆか ない ことが生 じ」 る とい う 「常識 に 没頭 す る」 山椴 魚 の ことを 「軽 蔑 しないでいただ きた い」, と丁寧 に願 う言 表 は同情 してい るようだが, 目をつぶ る と,何 も見 えないので はないか, と 山轍 魚 を馬鹿 にす る響 きも伝 わ って くる。す る と逆 に一層 の滑稽 さを誘 う。
語 り手 は辛 い,悲 しい思 い をす る山根 魚 を軽蔑 しないで といいなが ら, 山椴 魚 をす っか り見 くびってい る。
語 り手 は超人的 な存在 だ。 岩屋 の中,水 の中,小蝦 の動 きか ら, 山淑魚 の 心理状 態か ら, 自由自在 に どこか らで も, どんな ことで も事態 を見通 す。身 を寄せ るほ ど山淑 魚の心境 を告 白 した り, 山淑魚の苦 しみ,悩 み,悶 えを訴 えた り,熱 っぽ く読 み手 に山淑魚 に対 す る理解 を求 める。
語 り手 は一定 の尿巨離か ら山椴魚 の苦境 を眺 めて語 るが,時折 山椴 魚 のす ぐ 近 くに耳 を傾 けて語 ってい る。皮 肉で噸笑 的な語 り手 の ことば と,皮 肉 どこ ろで はない山破 魚 の途 方 もない嘆 きが 同時 に交錯 してい る。語 り手 は第 三 者, 山椴 魚 と違 う別 の立場 か ら,彼 の 「悪覚」 にな る まで の経緯 を示 す の だ。
語 り手 が顔 を出せ ば,視点 は山根 魚 だ けに据 え られな くな り, もう一 つの 視点 を読 み手 に与 えることがで きる
。
この二重視点 の交差転換 によって,読 み手 は山板魚 に密着 して同情 した りす る とともに,時々語 り手 になって, 山 根魚 を客観 的 に眺 める こともで きるので ある。
読 み手 を作 品の世界 の中にす っぽ りと取 り込 んで しまう狙 い とも思われ る が,一方作 品 に多重性 を持 たせ,奥行 きのある世界 を見せ る効果 に もな る。
滑稽感 のあ るグロテス クな山根 魚の悲劇 的状況 について,大 まじめにあ らゆ る証 明 を並べて, まった く極端 な比噛,想像 も付 かない様 々 な評論家的 な言
『 山徴 魚』 の指導 に向けて ‑ 作 品の分析 133
葉 で断定すれ ばす るほ ど,読 み手 は, 山淑 魚の悲劇 を ま ともに受 け止 めて, 涙 を もらす気 にはな らないが,思わず苦笑 いをさせ られ る。
「ああ,寒 いほ ど独 りぽっちだ ノ」 と山椴魚 は孤独 の悲鳴 をあげて しまう。 山椴 魚の感傷 的な独 自だが, またハ ム レッ トの ようななかなか酒落 たセ リフ に も聞 こえ,哲学者 の深 い感懐 とも思われ,読 み手 の笑 いを誘 う
。
すす り泣 きまで を洩 らした山根 魚 は絶望 の淵 に落 ち, もはや孤独 でい ることには耐 え られな くな る。場面
5
悲軟 に くれてゐる もの を, いつ まで もその状態 に置 い とくの は, よし わ るLで ある。 山椴 魚 はよ くない性質 を帯 びて来 た らしか った。
ここで は,直 接 「悪 い」,「悪 い性 質」 と決 めつ けず に, 「よ しわ る し」,
「よ くない性質」, また 「来 た らしか った」 と書かれてい る
。
語 り手 によるあ か らさまな罵倒 とは異 な り,余裕 を持 っている表現 だ。 山被 魚 は愚かであ る が,根 は悪 くはなか った。 しか しやむ を得 ない原因で悪 くなった。 ここの表 現 を裏返 せ ば, いっそ う救 いの ない状 況 に進 んで い る こ とが強調 され て いる。
なお ここはナ ンセ ンス に も思 える。理性 的な判 断力 とか道徳 の束縛 とか, ここには もはや ない。 それ らの ものか ら解放 されて しまう
。
「相手 の動物 を, 自分 と同 じ状 態 に置 くこ とがで きるのが痛快 で あったのだ。」 と書 いてい る ように, 山椴 魚 は, ここか らある快感 を覚 えた。子供 の 目茶苦茶 な世界,哩 屈 も意味 も欠如 した世界 の中 に飛 び込 んだ ような 「痛快」 だ った ろう。読 み 手 もその ような解放感 に よって笑 うのであろう。悲 しみ に暮 れた山轍 魚 は,心 の不平 と怒 りを無 事 の蛙 にぶつ け, 「一生涯 ここに閉 じ込 めてや る ノ」 とうっぷ んを晴 らした。 この呪 いは, 山根 魚のす べての悲 しみ,悔 しさな どを凝縮 してい る。 「悪党 の呪 ひ言葉 は或 る期 間だ けで も効験が ある」 ように, 自分 よ りもっ と惨 めなやつが い る と,救 われ る 気がす る
。
しか しそれ は惨 めな苦境 を徹底 的 に変 える ことはで きず,苦 しみ1 34
人 文 研 究 第9 2 輯
の中で の束 の間 の快感 に似 た もので あ り, 「悪党」 の行為 には一種 のペ ー ソ スが含 まれて くる
。
「お前 は莫迦 だ
」
「お前 は莫迦 だ」両者 はまった く同 じ言葉 を繰 り返 すが, 中身 は違 う。
蛙 は安全 な場 所 にい る。 出 て行 くか行 くまいか, 自分 で決 め る。 山淑 魚 に見 張 られ て い る以 上,蛙 は出 て い く筈 はな いの に,「出 て来 い /」 と山淑魚 は怒鳴 る。 だか ら, そんな山椴魚 は 「莫迦 だ」 とい うのだ。蛙 の 自然 に したが う姿勢 だ。
山椴 魚 は蛙 を追 い詰 めて食 う目的 に達成 で きず, 「よろ しい, いつ まで も 勝手 に しろ」 とやむ を得ず相手 を閉 じ込 める ことにす る
。
相手 を食 う山淑魚の本来 の姿 で はな く, 「お前 は莫迦 だ」 と蛙 を罵 り返 して も, 中身 のない強 が りに過 ぎない と読 み手 の笑 い を誘 う
。
悲 しみか ら相変わ らず脱 出で きない 山椴魚の状況 はいっそ う鮮明 に浮 かんで くる。
場面
6
‑年 がた った。「初夏 の水 や温度 は,岩 屋 の囚人達 を して鉱物 か ら生物 に 蘇 らせた
。」
「水 や温度」, 「鉱物 か ら生物」へ な どの表現 は,一見客観 的,料 学的な叙述 になる。
この ような厳密 そ うな書 き方 は,物語 その もののナ ンセンスの設定 と対比 す る ことに よって,一種 のユーモアを もた らす。
冬 眠か ら目が覚 め る と,両者 の 口論 が再 び始 まる。 「お前 こそ頭 がつかへ て, そ こか ら出て行 けないだ らう?」蛙 はず ば りと山根 魚の痛 い ところをつ く。前 回 は食 われ ないための保身的な立場 だ ったが,今度 はその相手 を押 し 攻 め る ことので きる攻撃 的 な立場 に一転 す る。「お前 だ って, そ こか ら出て は来 れ まい」。 山淑 魚 は精一杯立 ち向か うが, どこか 「すで に相手 に」致命 的 な弱 み を 「見 ぬかれて しまっ」 た ものの悲壮感 が聞 こえないわ けにはいか ない。
一年た って も,両者 は対立 の ままで ある
。
『 山板魚』の指導 に向けて ‑ 作品の分析 135
場面 7
『井伏鱒二 自選全集』 にお ける 『山椴 魚』 の終結段落 は次 の ように書 か れ てい る
。
更 に一 年 の月 日が過 ぎた。二個 の鉱物 は,再 び二個 の生物 に変 化 し た。 けれ ど彼等 は今年の夏 はお互 い に黙 り込 んで, そ してお互 いに自分 の歎息が相手 に聞 こえないや うに注意 してゐたので ある
。
場面 7は この二行 半 によって, 山淑 魚 と蛙 の最後 の状態 を示 し,物語 の幕 を閉 じる
。
「二個 の生物」
は何故 「お互 に黙 り込 んで」 い るのか。何故 「お 互 に自分 の歎息が相手 に聞 こえないや うに注意 して」 い るのか。 これ は相手 を無視す るた めなのか, あるい は相手 に対 す る配慮 なのか, あるい は相手 か ら侮辱 されないた めに意地 を張 るのか, そのいずれかの判 断 は読 み手 に任 さ れてい るようであ る。なお, このラス トシー ンは, これ まで はさ らに十数行 が あった。 それが以 下 の ように続 いてい る
。
ところが 山椴 魚 よ りも先 に,岩 の くぼみの相手 は,不注意 に も深 い歎 息 を もらして しまった。 それ は 「ああああ」 とい う最 も小 さな風 の音 で あった。去年 と同 じ く, しき りに杉苔 の花粉 の散 る光景が彼 の歎息 をそ そのか したので ある。
山樵 魚が これ を聞 きのがす道理 はなか った。彼 は上 のほ うを見上 げ, かつ友情 を瞳 に込 めてたずねた。
「お前 は, さっ き大 きな息 を した ろ う ?」
相手 は自分 を鞭捷 して答 えた。
「それが どうした ?」
「そんな返事 をす るな。 もう, そ こか ら降 りて来 て もよろ しい。」
「空腹 で動 けない。」
「それで は, もうだめな よ うか ?」
相手 は答 えた。
「もうだめな ようだ。」
136 人 文 研 究 第 92 輯
よほ どしば ら くしてか ら山淑魚 はたずねた。
「お前 は今 どうい うことを考 えているようなのだ ろ うか ?」
相手 はきわ めて遠慮 が ちに答 えた。
「今 で もべつ にお前の ことをお こってはいないんだ
。」2 7)
この部分が あった場合 となか った場合 とによって, イメー ジが違 うだ けで はな く, あった場合 で も,読 み手 の予想 の仕方 によって,意味が大 き く変わ
り,解釈が分 かれて くる。
激 しい争 いか ら静か な 「歎息」 になるの は, 自分 の置 かれてい る状況 に絶 望 を示 す。 に もかかわ らず, 「歎息が相手 に聞 こえないや うに注意 してゐ」
なけれ ばな らないほ ど,両者 は相変 わ らず対立 してい る。 それなのに,蛙 は 不覚 に も 「歎 息」 を 「もらして しまった」。 それ を聞 いた 山淑 魚 は,「お前
は, さっき大 きな息 を した ろ う ?」 と確 か め,「もう, そ こか ら降 りて来 て もよろしい」 と悪業 の終結 を告 げる。
山板魚の 「友情 を瞳 に込 めて」 とい う描写 に注 目すれ ば,二年 もともに こ の狭 め られた空間 を過 ごして きた相手 に, ほのぼの とした理解 の息づかいが 流れ始 めた と言 えよう
。
しか し蛙 はすで にそ こか ら出て くる力が ない。両者 の間 はしば ら く声が なか った。再 び この静か さを破 ったの は, 山椴 魚の言葉 で ある。「お前 は今 どうい うことを考 えてい るようなのだ ろうか ?」
相手 はきわ めて遠慮が ちに答 えた。
「今 で もべつ にお前 の ことをお こって はいないんだ。」
山板魚 は死 に瀕す る蛙 の心 の動 きが気 にかか る。 同 じ苦で生 きてい る仲 間 に対 す る思 いや りの表現が見 られ る
。
で は このや りとりには山椴魚の心理 は どうなっていたのだ ろう。仲間 同士 の感情 が芽生 えるが, どうして蛙が死 に まで追 い込 まれたか, と原因 を追究す る と,わが身 の責任が問われて くる。
2 7 )
井伏鱒二 『山椴魚 ・遥拝隊長』 (岩波書店,1 9 8 0
年),1 4 ‑1 5
ページ。『 山根魚』 の指導 に向 けて ‑ 作 品の分析 1 37
に もかかわ らず, で きた ら憎 まれ ないで ほ しい。 自分 の こ とを許 して ほ し い。 「お前 は今 川‑ よ うなのだ ろ うか ?」 と言 ったの は,蛙 は自分 を責 めて い るのか どうか をさ ぐる と同時 に,俺 の こと憎 んでい るね。俺 は悪 か った。
許 して くれ, と期待 す る
。
山板魚 は蛙 の答 えをは らは らして待 っていただ ろう 。
ところが蛙 は 「今 で もべつ にお前 の ことをお こって はいないんだ。」 と答 えた。蛙 の 「きわ めて遠慮 が ち」 な答 え方 は, 山淑魚 に対 す る気づかいに見 られ る。 その読 み を踏 まえて答 えの内容 を考 えれ ば, 山椴魚の問 いに障 され た意味 を,蛙 は十分読 み とって,正確 に答 えた と理解 で きよう。
こうして両者 の間 に, 山椴 魚の 自責 と蛙 の思 いや りによって,静かな愛が 生 まれ,安 らぎの一 時 を迎 え,恨 んだ り,抗争 した りす ることを経 てか ら, どうに もな らない現状 を ともに受 け入 れ るた め,結 ばれた両者 の痛 ましいい たわ りを示す和解 の結末 として読 み取 る ことがで きる
。
一 方, 「お前 は, さっき大 きな息 を した ろ う ?」 と待 ち に待 った相 手 の不 覚 に対 して, 山椴 魚 は一種 の勝利感 を もって尋 ねた とも考 え られ よう。「そ れが どうした ?」 とい う反 間 も蛙 の精一杯 の抵抗 を示 す。 「そんな返事 をす るな。 もう, そ こか ら降 りて来 て もよろ しい。」 まるで敗 者 に対 す る勝者 の 恩恵 の ような ものだ。
蛙 は 「空腹 で動 けない。」 と山板魚 の恩 を買お うとしない。「それで は, も うだ めな よ うか ?」 との山根 魚 の問 い に,蛙 は 「もうだ め な よ うだ」 と答 え, 自分 の事態 を きちん と認識 してい る。 山槻 魚 は自分 の行動が結局蛙 を死 に陥れ るに過 ぎない もので ある とい うことに, なん とな く気付 き始 めていた ところだ った ので あ る
。
蛙 に恨 まれ てい るか もしれ ない と思 った。 山淑 魚 は, 「お前 は今 どうい うこ とを考 えてい るようなのだ ろ うか ?」 と蛙 の心 中 を探 ろう とした。反省 も和解 も直接 に示 されないせ りふだが, もし蛙 は責 め て くれた ら,「す まなか った」 とい うつ も りが あ るか もしれ ないニ ュア ンス を漂わせ ている とも思 う。
「今 で もべつ にお前 の ことをお こってはいないんだ。」 と言 った ように,蛙
1 38 人 文 研 究 第 9 2 輯
は自分 を閉 じ込 める とい うことで しか,悲 しみを紛 らわす ことがで きなかっ た山椴 魚が その無意 味 さに気付 いて い なか った愚 か さを見抜 いて いた。だ が, 自分 の本 当の気持 ちを山根 魚 に言 お うとしない。言 った ら山根魚 を軽蔑 す ることにな る。 山板魚 を軽蔑 して も自分 を解放 す るこ とがで きず, 山椴魚 にい まさ ら謝 って もらって も, 自分 の事態 はよ くな るわ けはない。蛙 は山淑 魚 をず っ と無視 していた。
山椴 魚 に とって は,謝れ ば, それ によって,心 の一 つの解放,救 いを味わ うことがで きる。 いわ ば自分 の謝 った ことによって,相手 は許 して くれ る と 思 ったか もしれ ない。 しか し,蛙 は山板魚 を許 さないで死 んで い く。 残 って い るの は山椒魚だ。蛙 に対 す る自責 の念 は段々深 まってい くしかない。限 ら れ た空 間 の中で, 自分 の した こ との恐 ろ しさ,辛 さをひ と りで味 わ ってい
く。 山板魚の完全 な絶望へ と落 ちてい くことを匂わす結末 であ る28)0
山淑魚 の言葉 は 「どうい うこと‑‑」 と問い掛 けるかた ちで切 り出すが,
「なのだ ろ うか」 に よって, 内容 か ら自問 の形式 にな る。 この暖味 で食 い違 う表現 は, 山淑魚 の苦悩 を控 え目に伝 える とともに,おか しさを持 たせ る
。
蛙 の答 えは健気 そ うなだ けに,何 とも哀れ に聞 こえる
。
素朴 さ と暢気 さ とマ ジメさ と無邪気 さを醸 し出す一方,両者 の涙 も十分感 じられ るや りとりで あ る。 「登場者 の心 を簡単 に作者 が説 明せず, しか も描 写 に迫力 を もたせ るの に非常 に役立 つ」29) (林 四郎)対話 の型 で あ る
。
対 立 の ままにせ よ,一 時 の 「和 解」 にせ よ,両者 の悲惨 な状 況 には変 わ りはな い。 当事者 たちが真剣 である ことと, それ によって際立 た され るこの絶望的 な状況 は,一方で作 品 に滑稽 を もた らしてい る。
ところが, この十数行 を削除す る と, イメー ジは どう異 なって くるだ ろう か。