NDC 930.28
チューダー王朝に活きる「個性の王妃」
E.W. Ives;Anne Bolaynを読む
植 見 学
(昭和63年8月31日受付)
1979年,イギリスの旅で The Garden of England と呼ばれるKent州の美しい草原を越え,亭々と雀える樹林の かなたに静かにたたずむHever城を訪れた。この城は13世紀後半に建てられ,城主はEdward I(1272−1307)の治世下,
州長官であったノルマン系のWilliam de Hev6rであった。その後15世紀後半ロンドン市長にもなったAnneの曽祖父 Sir Geoffrey Bullenが買いとったという。
薄倖のElizabeth Iの母Anneがこの城の中でその少女時代をいかに送ったか,またその城門でHenry㎜を燃える 思いで迎え,またどんな気持で何回も見送ったかという想像が私の胸をかきたて,またはね橋によってのみ近づける 濠をまわりにかこませたこの古いmanor houseに停むと彼女がいかに生き,いかなる女性であったかという思いが筆 者に執ようにつきまとって離れなかった。だから1986年,E. W Ivesの、4朋6 Bo勿%伝が上梓されたのを知り,かき 立てられる気持で手にしたのは勿論である。
著者Eric William IvesはBirmingham大学のイギリス史のレクチャラー。その入が実に古文書などを含め百冊余,
貴重にして膨大な資料を駆使して査察を行い,Henry珊の第二番目の王妃Anne Boleynに照射をあてたのがこの『伝 記』である。
ま.ずはじめに著者はこの本の「序言」においてAnne Boleyn(1501−7?一1536)の物語は,歴史小説,セミ・フィク ションは勿論のこと,伝記,ドラマ,オペラ,映画,テレビの材料になっており,その上,今更何故屋上屋を架すよ うな仕事をなすのかと自らに問いかけることからはじめる。それに対しては著者は二つの理由を挙げている。一つに は百年前の1884年にはPaul Friedmannの権威ある伝記には利用されていない「新しい資料」が入手できる状態になっ たこと。第二には16世紀初期のイングランド事情の理解が根本的に変り,新しい見方がとられるようになったことを 挙げている。著者はAnne BoleynをHen ry皿(1491−1547)とイギリス宗教改革という主筋に対する附随物,つまり,
脇筋的存在どころではなくて,実に彼女自身の運命を切り拓いた「女支配者」として再評価しているのである。著者 は特別にこの点を強調してその実像に迫り,解明しようとしている。
この本では兎にも角にも彼女の生いたち,及び教育を特に入念にさぐり,そこに彼女のパワーと成功の神秘の深奥 を探ろうとした。彼女を王室史の中核にゆるぎなく据えて,そこでの彼女の役割を正当に評価し,そうするこ.とによっ て従来の男性優i位(例えばM.L. Bruceなどの)の解釈の軌道を修正する立場をとっている。最後に著者はこの本は 果して学問的でありゃ(scholarly?)という質問に対して,学問的であると思うが, Anneの物語が大体ミーハー的に 粉飾されて(Coloured)いるので,無味乾燥な歴史的分析では語り得ないと述べている。だからかえってそのことが 読物としての興味を与えているともいえるのである。それではこの小論では,このE,W. Ivesの浩1翰な本を叙述の各 項目に従って.その概要を述べることにしたい。
一廷臣の息女
Anne Boleynは名門の廷臣家に生れた。父Thomas Boleyn(1477−1539)(子爵)は駐仏使節やスペイン大使 であった。俗説にあるように中流以下のロンドンの商人の 生れではない。母Elizabeth Boleynの兄はイングランド 最古の公爵のNorfolk家の出であって財務長官をも努め た。父は語学が極めて達者であり,外交手腕でも相当な者 で辣腕を揮った。Henry珊自らThomas Boleynに匹敵
するような巧みな外交家は類をみないと賞賛する底の人物 であった。母Elizabeth Boleynも宮廷に出仕して, Hen−
ry皿の王妃Katherine of Aragon(1485−1536)の女官であ るという具合にHenry欄とは極めて深い関係にあった。
このようにAnneが生れながらにして宮廷とのかかわりが ただならぬ出自であったことは彼女の人生を考える上でい くら強調しても強調しすぎることはない。このような両親
から生れた子供で,成人になったのはAnneと兄の Georgeと姉のMaryのみであった。
津山高専紀要第26号(1988)
Anneの誕生の年に関しては従来から意見が二つに別れ ていたが,現代でも1501年ごろ説と1507年前後説(M.L.
Bruceは後者の説)があるが著者は実際は1501年頃が正し いと判定している。死後出版された美術史家Hugh Paget の調査によればAnneがヨーロッパ大陸のオーストリアに 向って出発したのは12歳か13歳であったことを示してい る。このような理由から1527年に発展したHenry㎜と王.
妃KatherineとAnneの三角関係はHenry 36歳,.Kather−
ine 42歳, Anne 26歳の時であった。さらに後年1536年に
起ったHenry皿とAnneと次の王妃になる筈のJane Seymourとの間の三角関係の際にはAnneは35歳,
ヒSeymour(1509?一一37)27歳であった。 Henry田が若い女 性好みだという通説は明らかに情報不充分の結果であると 著者は断定している。ここで著者は「Henry珊と六人の 女たち」というような浮名を後世に遺した好色の国王のエ
ピソードを次のように語っている。
「AnneはHenry皿とAnneの母親との問の子である という噂があるが,それはHenry皿の最初の妾Eliz−
abeth BlountとAnneの母Elizabeth Boleynを混同して おるものであり,もしAnneがHenry皿と彼女の母の子 であれば,1501年にはHenry皿は10歳の少年だったのだ からありえない話だ。」と反論している。
さて,Anneは1513年に,彼女の生涯に決定的な影響を 与える旅となるヨーロッパ大陸に出かけることになる。
ヨーロッパでの教育
Anneの目的地Mechelenはブラッセルから14マイル北 北東の町であった。そこにはハプスブルグ王国の宮廷が あった。そして13歳の甥Charles of Burgundyの摂政とし てIow countries(北海沿岸地帯,現在のオランダ,ベル ギー,ルクセンブルグ地方)を支配していたオーストリア のMargaret大公撫付の女官(a maid of honour)になる。
父Thomas Boleynは娘Anneの可能性を認め,当時ヨー ロッパ最高の宮廷で訓練を受けさせることで彼女を様々な チャンスに向けることを願ったからである。父T.Boleyn が1512年に外交官としてオーストリアに滞在中,摂政 Margretの覚えがよく,Anneを彼女の18人の女官(filles d honneur)の一人に加えることができたのである。この 大公妃のもとには,かってHenry珊の第一王妃となる Katherine of Aragonがいた。大公妃の義妹であった Katherineはそこでフランス語を教えられたことがある。
このような理由で,T. BoleynはAnneが大陸最高の宮廷 の礼儀作法を身につけ,フランス語をも使用できるように なれば,将来王妃Katherineの側に侍り,王妃の助けがで きるだろうとねがっていた。Anneはこの宮廷で北ヨー ロッパの宮廷社会の教養とよきフランス語を充分に身につ
けることになる。当時フランス語は,そこでは「必要欠く べからざる言葉」(language rigeur)であった。さらに宮 廷女性にとって大切な素養はダンスであった。だから Anneにとってもダンスは義務でさえあった。宮廷の男性
にとって狩猟や馬上槍試合(tournament)が宮廷人とし ての成功への必須条件であったように,ダンスは女性に とって中核的教養(core)なのであった。当時文化的片田 舎(cultural colony)であったイングランドから出て来た Anneは目くらめくような大陸一特にフランダース辺り の の文化的雰囲気の中で,ダンスの他にも絵画,彩飾,
造本,音楽などに関心を示していった。自ら楽譜を作り,
リュート (lute)をも弾いた。そうこうしているうちに Anneは将来の夫君となるHenry皿をこの宮廷で初めて 目にしたらしい。時の摂政MargaretとTl Boleynの外交 交渉の末,成立した対向協同攻勢を推進させるために Henry咀自身,ドーバー海峡を渡って乗り込んで来てい たのである。しかしオーストリア宮廷でのAnneの生活は 突如として終ることになる。Henry皿の突然の外交政策 変更のためであったω。そのために差し廻しの警護の下 でAnneをイギリスに送り返して欲しいというT. Boleyn から摂政宛の手紙に端を発したのである。Henry湘は妹 のMary(1496−1533)とオーストリアの皇太子Charlesと の婚約を取り止め,52才の老いた(decrepit)フランス王 ルイ12世との結婚を成立させたのである②。この花嫁 Maryにはフランス語の話せる付添えが必要であった。こ の要求を満足させるのは誰あろうAnne以外にはいなかっ たのである。T. BoleynはAnneを摂政Margaretから連 れ戻すことについて.「私はHenry mの要求を拒むことが できなかったし,また拒む方法もわからなかった。」とそ の手紙にしたためている。だがこのMaryは1514年11月.に 王妃になって以来夫君Louis 12世とは僅か82日間共に暮 しただけである。1515年1月1日Maryは寡婦となったの である。結局Anneは故郷イギリスにも, Mechelenの Margaretの所にも帰らなくて, Francis I世の妃Claude
(Louis 12世の長女)のもとにとどまった。 Anneのフラ ンス語の能力が買われ,Claude妃の義母にあたるMary やイギリスからの貴顯高官の通訳としての役目を果したか らである。
フランス王妃に仕えることはオーストリアの摂政のもと に仕えるのと著しい相違はなかった。ここでもAnneは洗 練された雰囲気に浸り続け,音楽に興味をよせ,リュート を弾き,ダンスに夢中にな.つた。この頃フランスの年金受 給者となっていたLeonardo da(1452−1519)Vinciが Amboise郊外に住んでいた。 Armeは彼に面会したと思わ
れるが,Anneにとってそのことがどのような意味をもっ たかはわからないと著者はこのエピソードについて語って
チューダー王朝に活きる「個性の王妃」E.W. Ives;Anne Bolaynを読む 植 月
いる。
しかし,Anneは1521年の終り頃,突然帰国する。表向 きの理由はHenry皿と神聖ローマ皇帝Charles 5世との 和解のしるしのためということになってはいるが(3)実は プリン家の財産相続に絡まるものであったと著者は言う。
Anneの祖父Thomas Butler(Ormond伯)が90歳代で亡 くなるとアイルランドにある土地の相続問題が生じた。法 定相続人の権利が不在伯爵の代理人であったPiers Butler
という男に脅かされそうになった。この男はアイルランド で最も強力な貴族達の支援をうけていた。このような状況 の中で,Anneの伯父Surrey伯(Thomas Howard)は Thomas Wolsey(1472−3?一1530)(イギリス国王の「大 番頭」格である枢機卿)に対してPiers Butlerの息子 James ButlerとAnneを結婚させ,両者の調停を計るよ う提案した。もしこの調停案が実現していたならばAnne はアイルランドの地主の妻として生涯を全うしえたかも知 れない。結局妥協案が成立した。1528年1月のことであっ た。それによれば,係争中の土地はごく安い(very moderate)賃貸料で,しかも長期間のリースでButler家
に貸すことで結着がついたのである。
Anneの容姿
Anneの反対派は王妃にふさわしくない大きな腫れ物が 首にあって,それを隠すために高いひだ襟のビロードの外 套を着ているとか,カトリック教支持者のNicholas San−
derのいうように,黄疸に罹ったような浅黒い顔色で,一 本の出っ歯が上顎に突き出て,.右手には指が六本目ある,
モンスタ
まるで怪物のようだと酷評する者もいた。George Wyatt は一本の指に爪が二重にでているが大抵はもう一本の指で ホクロ隠せれる程度であったと述べている。顔には黒子があった。
逆にLancelot de Carles(フランス皇太子医療福祉係)は 優雅な容姿の美人であると言い,1528年8月パリーで Anneと知り合ったというヴェニス人もとても美人だった と語っている。またAnneの気に入りの聖職者の一人 John Barlowは非常に優雅で,しとやかで,まあまあの
.(reasQnably)美人だが, Henry㎜の元情婦Elizabeth Blountの方が美しいとしている。ヴェニスの外交官 Francesco SanutoによればAnneは世界の最高の美人に は入らないと言い,背丈は中位で,浅黒い顔色,長い首,
大きな口,張っていない胸,黒くてきれいな眼の持主だっ たと言っている。ShakespeareはHenry皿という芝居で
「これほど美しい手にふれたことはかってなかった。あ・
美よ,私はいままでおまえを知らなかったのだ」とHenry 皿に言わせている(4)。Lancelot de CarlesはAnneの眼 が印象的だったのか次のような詩を作っているほどであ
る(5)。
いつもとても魅力的な眼
かの女は効果的にその使い方を知っていた。
時には眼を休ませ,
また時にはその眼は言葉となって,心のひそか な誓いを伝える。
まことにそれは
多くの人を従わせるような魅力となる。
以上の評言を綜合すると,Anneは人を感動させずにお かない程の魅力は示さず,当時の宮廷画家Hans Holbein the Younger(1497−1543)作と言われる絵のように人並み のうりざね顔であるが,素晴らしい黒髪と立派な眼が当時 の人々に与えたAnneの印象であったという。著者はこの ような目鼻立ち以外にAnneの魅力を探ろうとする。
Anneを際立たせるものは,洗練,優雅,独立心,大陸 の経験と教育を挙げ,上手な服装の着こなし,フランス式 作法を身につけたAnneほどの上品さ(polish)を持ち合 わせるイギリス女性はいないと言っている。Anneはいわ ゆる美人という点では多くの者に劣るが,行動,作法,装 い,言葉の点では誰よりもすぐれ,宮廷人の「モデルであ り,鏡であった。」このようにして She took the English court by storm (6)と書いているように, Anneのイギリス ばなれした外国このみのpolishについて著者は強調する。
Anneについての資料
Anneはイギリス王妃の中で最も論議をよんだ女性であ るが,彼女に対する賛否両論が対立していた。カトリック 派はAnneを彼らの苦難の原因と考えていた。 Thomas More(1477−8?一1535>は「教皇を中心にしたキリスト教
を護ることこそ,自分の使命だと考え(7)」,Katherineの 離婚の件も教皇がそれを許せばそれを是認したであろう。
Moreの改革は教会という体制内部での教会の改善であっ た。M. Luther(1483−1546)やW. Tyndale(1492−4?
一1536)のように体制そのものを破壊し,変革する気はな かった。このようなMoreの態度はLutherの思想に同調 するAnneと必然的に衝突することになる。. Moreの女婿 W.RoperはAnneのMoreに対する個人的敵意に唆せら れたHenry欄がMoreを殺害した事件を聖書の「ヘロデ ヤの娘,サロメが甘えとひまつぶしにヨハネの首をほしい とヘロデにいった」という故事に馨えているぐらいである。
それ故,カトリック派にとってはAnne及びAnne一派の 者達の刑死はMore殺害に対する血の代償であった。反対 に殉教史学者であるJohn Foxeを先頭に新教派はAnne の徳行と宗教的かかわりを辮諭している。Anneの最も強 力な辮護論者であるG.WyattもAnneを神の選民,英雄 的精神,王侯にふさわしい妃などと賛美の声を惜しまない。
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このように両派の殿嘘吐財の相中半する人物の正当な評価 は極めて困難である。しかしこのような相異なる主張も価 値のないものではないと著者は言い,その理由として一つ にはそれらはAnneの物語の個人的,心理的資料となり,
二つにはAnneに関する情報は多くないので現在あるもの を無視出来ないとつけ加えている。その他の資料として次 のようなものを列挙している。金銭によるもの。凡そ.当時 の一般の女性同様にAnneの20歳台の日常生活については ほとんど不明。ただし,例外として1529年から1532年まで の期間はHenry皿のAnneのための個人支出に関する公 的記録によって解明できる。裁判によるもの。Anneの告 訴,裁判,共犯者の資料は「極秘文書」として残存してい る。しかしこの種のものは供述者が自分に有利なような供 述であることを心しておくことが大事であると警告してい る。書簡によるもの。書簡類も資料として不足している。
うつし
外交上重要なもの以外は送られた手紙の写は保管されて いないので,受けとった側に残っている場合しか利用でき ない。Henry皿からAnne宛の恋文17通が残っているが,
10通はフランス語,7通は英語であった。宮廷内での手紙 のやりとりも少しはあるが,重要な要件は禍根を残すこと を恐れて口頭で行なわれたという条件を忘れてはいけな い。文献によるもの。George Cavandishの詩作品, Ed−
ward HallのThe Union of the Two Noble and lllustre Famelies of York and Lancaster,またLancelot de Carles のthe Histoire de Anne Bolebln Jadis Ropηe d Ang・leterre,な
どの資料としての長所短所を挙げている。
外国使節によるもの。チューダー朝では,丁度第2次世 界大戦中の軍部の報道の如くに,国民に知ってもらいたい ニュースのみを知らしめるのが安全で都合がよいと当事者 は確信していたので,ロンドン在住の外国使節の報告の方 がイギリスの国情を知るのにはもっとも適切な方法である という。彼らが本国政府に送る書簡はイギリスの重要な事 件に対する外部からの記録となった。ただし,半年毎に任 務交替では大使としての勤務には支障.はきたさないもの・
情報収集者としては価値が半減する。只一人例外として大 使を辞任するまで15年間ほとんどHenry田の生涯の終り まで飯盛した男がいる。神聖ローマ・ドイツ皇帝の大使 Eustace Chapuysである。
Chapuysは神聖ローマ・ドイツ皇帝Charles Vに年間 30〜40通の報告書を送るのみならず,配下の役人どもにも 手紙を送るという有能で熱心な大使であった。「大使とし ての成功の秘訣は?」と問われて,「フランス語を話せ。
駐在国の貴顯高官に好まれる人間になれ。情報と接触は自 ら先方からやって来るであろう。」と彼は答えている。彼 自身誠にその言葉通りの人間で,ヒューマニストであり,
D.Erasmus(1466?一1536)の友人でもあった。彼は愛想
のよい(aman of address),話相手とするに値する人物で,
どこでも寛大に取扱われた。イギリスと神聖ローマ帝国の 緊張の時期でもこの男,Henry皿にさえ,個人として歓 迎されつづけて来た。Henry珊もこの抜け目のない,聡明
コズモポリタン
で,皮肉屋の国際人との関係をたのしんだのである。
Chapuysの家はHenry皿の批判者達のさながら告白聴聞 室とも言える程に千客万来,様々の人物がやって来て語り 合い,彼は一種のスパイ役でもあった。そのためCha−
puysは随分深くイギリス政界を謝絶しえたのである。こ のためChapuysの外交報告書はAnne存命中のイギリス 政界や宮廷事情の理解には最も重要な資料になる。しかし,
長期間に亘る滞英にも拘らず,彼はハプスブルグ側の立場 から,つまり,Anneを妾(concubine)として記録し続け,
完全にイギリスの国情を理解し損つたと著者はきびしく批 判している。
最後に著者は歴史は単なる資料の集成ではないが,資料 は歴史の限界を決定するということを歴史伝記家は銘記し ておかねばならないと述べ,Anneの場合には真の伝記の 必須条件となる内面的なものの証拠資料(inner
documentation)の不足していることに歯ぎしりしている。
情欲と宮廷愛
大陸から突然の帰国後,AnneはKatherineの女官と なった。その頃出合ったのがノーサンバーランド伯爵の相 続人であるHenry Percyという青年であった。著者はG.
Cavendish(1500?一61?)の『トマス・ウルジーの生と死』
という伝記を援用して次の様に述べている。
H.PercyはAnneがKatherineの女官であった頃,
Wolsey家で養育されていた。彼はWolseyのお伴をして 宮廷に上った時,女官達と戯れるようになり,ついに Anneと懇ろになって二人の秘かな恋はやがて結婚へと発 展して行くように思われていた。ところが,Henry堀も Anneのすぐれた立居振舞が他の女官達のものより特に目
を引いたため,Anneに心血かれ,枢機卿Wolseyに
AnneとH. Percyの結婚を中止させよと命じたのである。
世故にたけたWolseyはH. Percyに以後Anneに会うこ とを禁じた。さらに,二人の仲を決定的に裂くためにH.
PercyはShrewsbury伯George Talbotの娘と結婚させら れてしまう。この理由でAnneはWolseyに執念深い憎悪 を抱くに至る。一方Mary Talbotとの結婚は破綻し, H.
percyは身を持ちくずして1537年6月, Henry珊の修道 院解消令に反対し,彼の兄弟達が活躍した暴動the Pil−
grimage of Grace(恩寵の巡礼)が起った時はH. Percy はすでに亡くなっていた。
Anneの次の相手はチューダー朝最初の詩人Thomas Wyatt(1503?一42)であった。 Wyattの父とAnneの父は
チューダー王朝に活きる「個性の王妃」E.WIves;且η麗BoZ解を読む 植 月
同じ宮廷仲間で,Anneがケント州のHever城にいた頃,
Wyattはすぐ近くに住んでいた。 M. L. BruceがWyatt を the epitome of the Renaissance ideal of the a11−round
man ⑧と卜えているように,体格,容貌知性,明確な 個性,..自発性,ユーモアが見事に結合し,輝かしい将来の 約束された男であった。彼は「ケンブリッジを卒業後コバ ム卿トマス・ブルックの娘エリザベスと結婚する。翌年 1521年(Anneがフランスから帰国した年)に男子が生れ,
トマスと名づけられた。…子供が生れた翌年か翌々年には,
トマス・ワイヤットはヘンリーの宮廷に仕えて,少しづっ 官職も与えられるようになっていた(9)。」丁度この頃 AnneとWyattは親密になったのである。 Wyattは彼の詩 の中で二人置関係を歌っているが,その詩の言葉通りに解 釈すれば,Wyattは深刻に恋をしたが,彼女と深い関係に ならないように努力しなければならなかった。だが今は恋 心もさめ,哀れにも自分がどんなに愚かであったことかと いう内容のものである。しかし,文字通りに解すべきかど うかは問題であると著者は言う。何故ならば玉ねぎの皮が,
一皮むけばさらに一皮出てくるように,Wyattは宮廷愛の 複雑で,不可解な慣習に従って詩を書いているからだと著 者は慎重な態度をとっている。詩は丁度わが平安朝の和歌 のように,宮廷人の嗜みの一つであり,宮廷愛の人為的
(artificiaDなゲームであった。ところが宮廷愛にもとづ いている恋愛詩が真底の感情から生れた真実の愛に変化を することがないとも言いえない。それゆえ,「常套の逆手 をとって,つまり,それが本音でないことを言い逃れる道 もつけた上で,本音を吐いていたように思われる⑳)」ふ しがあるが,400年経た後,現代の歴史家が如何にしてそ の真実を知ることが出来ようかと著者は嘆息する。
Wyattは既婚の身であったので, Wyattの留守中の妻の 姦通のために別居していたとは言え,宮廷愛におけるいわ ゆる mistress としての立場以外のいかなる立場も Anneに申し出る境遇ではなかったとか, Wyattの方でま すます真剣であったがAnneの方ではほとんど宮廷の慣習 にすぎない態度でお互いに戯れに恋をしたという見方をす る者もいた。
最後にHenry珊との関係はどうなのだろうか。
AnneとHenry皿との関係はKatherine離婚運動を無 視しては語れない。Katherineは結婚後20週間して亡く なった兄Arthur(Henry Wの長男)の嫁,つまり義姉で あった。そして,1509年Henry皿18歳の時,父Henry粗 の死によって即位。その年Katherineと結婚したのである。
Katherineは24歳であった。二人の間には男子を含めて6 人の子供が生れたが,娘のMaryだけを残して全て死んだ のである。当時は女子は王位継承者として考えられなかっ たので,いわば子なし(childless)の状態であった。男子
の王位継承者がいないことは重大問題であった。さらに一 種の強迫観念がHenry皿の頭を去らなかった。それは旧 約聖書レビ記20章20節にある「兄弟の妻と結婚するのはみ だらなことだ。兄弟のものを奪うからだ。そんなことをし たら子供は生れない。」という言葉であった。このタブー を逃れるための手段として教皇による「結婚の特免状」ま で下付させて結婚していたものの現実に子供が生れないと なると,また生れても死んでしまうとHenry皿にはこの 聖書の言葉が重くのし掛かったのである。このような理由 からHenry郡はWolseyや法律顧問団と協議して1527年
5月,Katherineとの離婚の方法を初めてそしてひそかに 講じたのである。彼は外交政略にもよらず,他の権力(droit of seigneur)に左右されることなく自ら選んだ女性を王 妃にしょうとしたのである。
ところがKatherineには多くの支持者がいた。一般国民 の人気は別にしても(11>,多くの有力な宮廷人や貴族達は 彼女に大きな愛情を抱いていた。さらに甥にあたる Charles Vの勢力が強く,そのためにローマ教皇の権力 が弱められ,国際情勢からみても離婚には不利な状況で あった。また政界には派閥があった。今日の政党のように 政策問題を提供するのではなく,個人が政策を包摂してい たのである。そこで国王の離婚問題が国内では国家と教会,
国際的にはV一マとイギリスの緊張を惹起することにな る。【日教派はKatherineを支持し,新教派(Anneの支持 者)は,ローマへの反抗心を強めて,教会に対する国王の 優位を受け入れようとした。そのL各個人の思惑打算(12)
が加わり,友人,家族,地域,育ちなどが絡まって複雑極 まり,Anneとの結婚にこぎつくまでには困難をきたした のである。
AnneとWolseyの没落
1527年には早くもWolseyは離婚についての生ぬるい態 度をHenry皿に答められている。 AnneもWolseyは離 婚問題を進めるのではなくむしろ挫折させようとしている のだと決心するに至った。「ウルジーは,ヘンリーの離婚 それ自体に反対していたわけではなかった。「ローマ教皇を 動かして,正式にこの離婚を成立させようと考えていた。
ただし,つぎの王妃として考えていたのは,アン・プリン ではなく,フランス王の義妹であった。国際関係における 勢力のバランスを重視したウルジーは,時の神聖ローマ皇 帝カルロスの叔母を離婚する以上,フランス王と縁戚にな ることで,このバランスの喪失を取り戻そうと考えてい
た(ユ3)Q」
しかし,Henry糊は右腕と頼むWolseyを手放したく なかったが,Anne派はWolsey落し入れの工作を行なつ かね
ていた。それに対してWQlseyは金でRochford子爵(Anne
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の父)やHenry田の歓心を買おうとしたが,一Anneを敵 に廻した今,Henry皿を独占することはできない状態で あった。WolseyはHenry珊の気持を誤算し,カンブレー
.の和議(別称貴婦人和議1529年8月3日),の処理をも誤っ て,Henry皿の信頼を失っていた。彼は1529年10月9日 王室裁判所で王権蔑視罪(教皇尊信罪praemunire,この 場合は教皇使節の職務を受諾することによってイギリス国 内に不法な外国の権威を導入した違叛)で告訴されて失脚。
かくしてAnneは勝利をおさめたのである。
行き詰り 1529−32年
Boleyn家に対するHenry皿の引き立て(favour)は Wolsey失脚内数週間には公けに始められた。反Wolsey 派が抜擢され,昇進していった。Katherineはまだ王妃と して宮廷で暮していたが,「ロンドンっ子達からの王妃の 理想と敬愛され品位と微笑と敬神と美徳をそなえた(14)」
Katherineによって度重なるつれなさや無視に対して責め られれば,Henry皿の方が立腹して出て行く場面もあっ
た。
Anneとの結婚の動因は自分の感情と欲望を満足させる のみではなくて自らの王権を主張するためでもあった。長 期間の離婚訴訟の挫折からHenry皿は国王の権限に対す る教皇の権力範囲(王にできることとできないこと)に対
して疑念をはさむようになった。Henry V皿のこのような 疑念を思想的に裏付をしたのは国外追放中のW.Tyndale のThe Obedience of the Christian Man and HOtV Christian Rulers()ught to Govern(1528年出版)であった。これは.
Anneが紹介したものである(15)。それは支配者は神のみ に責任があり,支配者に対する臣下の従順は神によって要 求されており,聖職者と信徒,教会と世俗の差はなく,す べては王の支配下にあるという内容のものであった。
AnneはTyndaleの思想に導かれて教皇の司法や行政の専 制を否定し,神によって与えられた君主の地位と権力を取 り戻すことで教会を改革し,聖書の真の純粋さの復活を意 図したのである。Henry皿は This book is for me and all kings tQ read. だと言ったほどである。 Boleyn家が Tyndaleの本によつで,つまり,一つの思想(an idea)
によってHenry皿を動かしたという点はクリスチャン・
ヒューマニズムのintellectual movementだということが 著者の立場であろう。
さて,Anne派はイギリスのエリート達に離婚の請願書 を作らせたが,ほとんどの成人貴族はこれに同意した。さ らに6人のカトリック司教を除き,22名の大修道院長,聖 俗闘わず国王所属の上級官吏ことごとく賛成したものの,
Katherine派に都合のよい発言をしたり,伝統の防衛を盾 にして反論する者が出てくる始末で,離婚問題を挾んで旧
教派,新教派の混戦状態となった。AnneはHenry皿の 大好きな弓術を積極的に行なった。 aself−made woman のAnneの魅力は挑戦する魅力だった。いかなる.ことが あったもHenry㎜を手に入れる決意をして,何回死の苦
しみにあっても私の愛は変らないと言っている。Kathe−
rineの娘Maryのことで争った時でも, Anneの取った強 慢な言葉や威張った態度はHenry珊に「Katherineはこ れまで彼にそのような荒々しい言葉を吐いたことがない。」
と言わせたほどの気性の烈しい女性でもあった。
転機 1532−1533年
枢密院の顧問官Thomas Cromwell(ユ485?一ユ540)は離 婚がイギリス教会で承認され,教皇の対抗策を無視する立 法を草案した。そして聖職者達がそれに反対の徴候を示し た時,イギリス教会の権力を奪う法案(1532年)を作った のである。Thomas More(1477一・8?一1535)は聖職禄法案
(イギリスからの聖職禄打切りによって財政的に教皇に圧 力をかける法案)を成立させないように上院のカトリック 派議員を動員して国王側に反対したために国王の立腹を買 うことになった。T. Cromwellは対外的にはフランスと相 互援助条約(lnutual−aid treaty)を結び, Charles Vを牽 制し,ローマに対して強硬な態度をとって,Anneを王妃 にする布石を着々とすすめて行った。
さて,このような国内,外の状況の中でHenry皿は AnneをPembroke侯に叙し,宝冠を授けて将来の王妃と してのステイタスをつけさせていった。さらにヨーロッパ 大陸で彼女の存在を認めさせるためにドーヴァー海嫉を渡 り,カレーの町でFrancis l世と会見を行うことになる。
AnneとHenry盟の歓迎を祝う3,000発の銃声が響きわ たった。歓迎の部屋には薄絹や銀のカーテンがかかり,そ れには宝玉や真珠がちりばめられ,7つの棚には金の皿が 陳列してあった。フランス風とイギリス風の料理が交互に 170種類も準備された絢燗華美の大宴会であった。カレー 行きの年(1532)12月のはじめか中頃Anneは身ごもり,
翌年1月25日頃二人はひそかにwedding。一方Katherine は王妃の称号と王妃としての生活を英国皇太子妃未亡人
(princess do−w ager of Wales)の地位にまで格下げされて いた。Anneは翌年4月の復活祭には公式に王妃としてミ サに参加(16)。娘(後のElizabeth I世)が生れたのはそ の年の9月7日午後3時であったという。Henry珊は男 子出生の場合は名前をどの.ようにつけようかと楽しみなが
ら,男子出生の記念として馬上槍試合を計画するという気 の入れようであった。しかし一人を除いて医者や占星家達 はすべて男子出産を予言していたのでHenry田もAnne も共に非常に失望したのである。
チューダー王朝に活きる「個性の王妃」E.WIves;Anne Bole ynを読む 植 月
戴冠式と洗礼
Anneの王妃戴冠の儀は1533年6月1日聖霊降臨節
(Whitsunday)に取り行なわれた。戴冠の盛儀は5月29日 から始められ4日間に亘る盛大なもので,1509年のHenry 則の戴冠式にも劣らぬものであった。まず,一日目はグ リニッヂ宮殿からロンドン塔までテムズ川を船で渡り,二 日目はロンドン塔で宮廷儀式,三日目はウェストミンス ター寺院まで目抜き通りの市中行進が行なわれ,最終日は ウェストミンスター寺院での戴冠式とウェストミンスター ホールでの大晩餐会で幕を閉じたのである。4日目の午前 8時過ぎから夕刻6時までの様々な行事は妊娠5ヶ月の Anneにとっては大変な重荷となった,しかし6年の長い 年月の後,やっと王妃の座を手中に納めたAnnとの喜びは その苦痛を忘れさせるものであったろう。第一日目には,
水上ページェントも行われた。50隻に及ぶ同業組合員の平 底船がロンドン橋少し下流のビリングスゲイトからグリ ニッジに王妃を迎えに出発。満艦飾で旗や吹き流しを夏の 風になびかせ,金箔が陽光にきらめき,鈴が鳴り響いた。
ロンドン市長,市参事会員,市会議員の乗り込んだ船には Henry閥とAnneの紋章入りの幟が立てられ,金色や銀 色の布で被ってあった。120艘ばかりの大型船,200艘に及 ぶ小型船にはあらゆる種類の楽人,紙入が乗り奏楽。大砲 さえも乗せてあった。テムズの流れは船で見えなくなるほ ど埋めつくされていた。海洋航海船は船の進行の邪魔にな らないように命じられていたが,Anneの船が通過する際 には祝砲を撃ち,盛儀を祝った6
一日おいた5月31日のウェストミンスター寺院までの行 列は上天気に恵まれた。行列の道筋の片側には職人同業組 合員や商人が,もう一方の側には一般市民が観覧席まで設 けた。押し寄せた市民を阻止するため前面に並んだ警官が 垣を造って警戒していた。まず12名のフランス大使関係者 が先駆を切り,18名の新しくつくられたバースの勲爵士,
国王の顧問官達,聖職者達,貴族諸候,大法官,ロンドン 市長と続いていた。Anneは行列の中ほどにフランス風の 衣装に身を固め,螢に乗っていた。沿道に並んだ市民は沈 黙したま・であった。拍手をする者,帽子をとる者,王妃 萬歳と叫んで,脆く者もいなかったという。この結婚に対 しては宮廷にも市民にも複雑な気持を抱いている者が多 かった。彼らは憎しみを持ってAnneを眺めていた(17)。
このような市民の態度についてロンドン市長は人々の心ま では命令することはできないと言ったという。ヴェニスの 大使も大変な華麗さと大観衆を強調したり,秩序正しさと 静粛さについては語っているが,熱烈な歓迎振りについて 述べていないことから判断して,ロンドン市民は歓迎とか 敵意を示したというより,もの珍しさから参加したと結論
づけるのが安全であろうと著者は述べている。催事の最後 を飾る6月1日の宴会はこれまで見られなかったほどのも のであった。広いホールに長いテーブルが右側に2列,左 側に2列並べられた。上座から英国特別5港(Cinque PQrts)の有力者,大法官鹿の廉員,次に貴族,聖職者,
さらに下って,裁判官と国王顧問官,王妃のために特に各 貴族の夫人,侍女などが席についた。トランペットが吹か れ,吟遊詩人の歌声の流れる中を,第一コースの料理で24 品,第2コースで28品,第3コースで30品が,王妃と主教 に出されたのである。市長達は二つのコース合せて32品の 料理に大満悦であった。閉会の儀式が終るまでほとんど9 時間にも及ぶものであった。
さて,前述のように9月7日に誕生の子供はHenry皿 の母親に因んでElizabethと命名。9月10日には壮大な洗 礼式が準備され,ロンドン市内には祝いの大かがり火がた かれ,酒類も無料でサービスされたほどである。ところで 女子の誕生は宮廷にも,国外にもいる敵から圧力を受ける ことは確かであった。
王室の結婚
Anneの最も大切な役目は男子出生のことだった。一人 の男子を持つことが必要な全てであった。Anneは3回妊 娠したが2回は流産であった。1533年10月下旬には,
Henry柵は女官達に向って, Anneを失う位なら乞食に なってもよい程に彼女を愛していると鉄面皮にも言ってい る。だが,1533年の流産後は,Anneζの不和の徴侯が表 れている。Anneに子供を生む望みがないとなると, Anne のいとこのMargaret Shelton(ElizabethとMaryの女家 庭教師の娘)という美人の女官との愛のよりを戻している。
しかし,これはJ.Seymourに対するAnneの牽制とも,
或は,Norfolk卿の画策とも言われているが,この女性は 舞台から急に姿を消す。そして,前王妃Katherineやその 娘Maryに対する残酷ともいえるAnneの態度のために,
一般国民やエリート達の間には反Anneの気分が醸成され ていた。Anneを「不妊症で,老けて意地悪の婆(baggage)」
と非難したり,その姿にHenry欄はひどい生活をさせら れていると嘲笑し,Anneをぎょろ目の売春婦(goggle−
eyed whore)と悪口を言う者もいた。 MaryもAnneめ非 道い仕打ちを王の売春婦(King s whore(18))と軽蔑して いる。
ロチェスターの司教John Fisher(1459−1535)やT.
Moreの反逆罪刑死(ロンドン橋に晒し首。国王が教会の 首長であることを認めるようにとの要求の拒否罪)といっ
たHenryの残虐さを助長したのはAnneであり,最近の 国王の政策増税,教会への介入もAnneの干渉だとして 嫌悪を抱いたのである。さらに当時のFrancis Iと
津山高専紀要第26号(1988)
Charles Vは冷戦状態であったが,彼らはHenry皿と教 皇との喧嘩を漁夫の利の材料にしょうと狙っていた。
Henry皿もFrancis Iを よき兄弟 と信頼していたもの の互いに自己の利益権益を探っていた。そのためにフラ ンスに対して疑心暗鬼になっていたイギリス人に,フラン スとの関係を象徴しているAnneは疑いの眼で見られるこ とになったのである。Anneを残酷で現実主義者
(pragmatist)であるHenry皿のスケープゴートにされた
と見なす者もいる(19)。
王妃Anne 影響・権力・威厳
Anneは孤立していなかった。彼女を王妃の座につけた 人々がいた。国務大臣である父Wiltshire伯, Henry珊の
秘書官T.Cromwell,大法官Thomas Audley
(1488−1544),カンタベリー寺院の大僧正のTho皿as Cranmer(1489−1559)などがAnne派の支配体制の中枢部 を形成していた。AnneはT. Cromwellを忠実な家来と見 なし,事実T.Cromwe11が彼女の戴冠への成功に導いた ので.ある。王妃となったAnneは宮中王妃係の主だった者 を集め彼等の勤務について説教をしていると王妃付牧師 William Latimerは語っている。その説教の中で彼女の第 一の要求は名誉を重んじ,公平にして,正義を行ない,金 額に見合うに価することを行なうことという厳しいもので あった。また下級の係員には「恥ずべき場所」に行っては いけないこと,礼儀正しく振舞うことを要求してる。
さて,Anneの生活の一端を述べよう。1536年5月,
Anneが借金していた業者には,呉服商,服地商,服地製 造業者,刺繍職人,裁縫師,絹製造業者,綿布製造業者,
ピン製造業者,製蹄師,箱製造業者,金細工師,皮革商な どの他に10種類余の職人が出入していた。
Anneと娘Elizabethの服代が1536年の1月末から4月 末までに月づき40ポンド,大体同じ期間の服飾小物類の請 求額は68ポンド4シリング1ペンス半という記録がのこっ ている。王女にふさわしくするために,Elizabethの服や,
装飾,調度品も馬鹿にならなかった(20)。Nicholas Sander によればAnneは衣服の型を少しずつ変え,流行を意識し たエリザベス一世の2,000着の衣裳に匹敵する程であ6た。
Anne Boleyn 芸術・イメージ・趣味 Anneの王妃としてのイメージ・アップのためにいろい ろな工矢がこらされた。例えば,最初のイギリス喜劇作家 として有名なNicholas Uda11(1505−56)とそ皮の友人でイ ギリス最初の考古学者のJohn Leland(1506−52)は王妃の イメージをクラシシズムに合わせようとした。つまり,サ タンの時代の復帰と永遠の春の出発としてAnne王妃出現 を讃えさせている。さらに聖母マリアの生母St. Anneに
なぞらえて神性を与えようとした。またセント・ポール寺 院の境内の入口にも古典に関連した画像を掲げ,℃ome,
my love, thou shalt be crowned とラテン語で書かれたプ
ラカードをその手に持たせたり,ラテン語で Queen
Anne, when thou shalt bear a new son of the King s blood, there shall be a golden world unto thy people と 書かれた羊皮紙が貼りつけたりなどしてあった。このよう にして聖母メアリの息子(イエス・キリスト)とAnneの 待ち望まれている息子(実現しなかったが)の宗教的共存 が強調されたのである。成婚記念としての the most hap−
pゾと刻まれた肖像画入りのメダルはこの種のものでイギ リス最:古のものであった。
また,Anneは大陸のフランダースから呼び寄せた金細 工師に金の汁器類を作らせたり,絵画ではH.Holbein the Youngerのパトロンとなったりした。さらに大陸から Hornebolteという画家一家を連れてきて肖像画など数多 くの絵画を描かせている。Anneは祈祷書など聖書の写本 の彩飾に凝ったために写本彩飾が盛んに行なわれたり,フ ランス滞在中に覚えた楽器を彼女自身演奏するのみでなく て宮廷内に音楽を普及させ,若い頃知るようになった
コ ラルコスタイル
合唱形式を奨励したりした。建築の面でもHampton Court, York Place(後のWhite Hall)を獲得し,1531年 にはSt. James Palaceを初めとして,労働者の強制徴募,
蝋燭をつけての夜間工事を行ない,全天候下で仕事のでき る布の覆いを利用して猛烈な早さで宮殿を建築していった 場合もある。グリニッジ宮殿の謁見室や寝室の天井の白い 格子の目板には金箔モールや花や葉の芽の模様が飾られ,
暖炉の前にセビリア製のタイル,アルコーブには黄や緑の フランダース製のタイルが敷かれるなど贅を尽くしたので あった。骨董趣味も相当あって彼女の部屋には古い家具や 調度品がしつらえられていた。著者は結論としてAnneを
ささやかでもイギリス16世紀の文化史の一頁に加えなけれ ばならないと結んでいる。
Anne Boleynと宗教改革の到来
1528年には早くもAnneは聖職者の任命に影響を与え,
.Wolseyに対して聖職者任命の指令を変更させたりしてい る。彼女の気に入りの聖職者の報酬を確保したりして宗教 改革促進に利用しようとした。さらに,Boleyn家はヨr ロッパ大陸の宗教改革者達と密接な関係を持っていた。大 陸にいて,後にTCromwellの代理役を務めたThomas TeeboldはWiltshire伯やT. Cranmerの支援を得て,ド
イツやフランスの改革者と連絡をとりつつあった。後年ス コットランドの宗教改革者Alexander AlesはElizabeth
Iに「真の宗教改革はあなたの母から始まり,あなたの母 で終った。」とまで言っているほどにAnneは宗教改革者
チューダー王朝に活きる「個性の王妃」E,WIves;Anne Bolepmを読む 植 月
の一人でもあったのである。1535年の夏に始まった修道院 に対する新しい命令を課した背後にAnneがいたことは間 違いない。この命令の一つに聖遺物(relics),すなわち偽
りの奇蹟の展示を禁止するものがあったという。もちろん 修道院廃止の最高指揮をとったのはWolseyであったが,
T.Cromwellが1535年に宗教代官になった。この職は修道 院廃止を実施する実務者の職であった。元来宗教改革歯並 は修道院の改造を考えていたのであって解体までは考えて いなかったという。Anneにしてもウスターの司教Hugh Latimerに修道院は解体するのではなくて,よりょく利用 するようということを国王Henry珊の御前での説教で示 すように指示しているのである。
Anneに宗教的影響を与えたのは王妃付牧師達,特にケ ンブリッヂ出身の有望な若手の改革派の学者達であった。
しかし,Anneが支援する改革者が一致団結していたわけ でなく,意見を異にするものも多くいた。
ところでAnneの宗教についての考え方を述べておかね ばならない。
Anneの信念は聖書こそが大切なものだということで あった。彼女の改革にレッテルを貼るとすれば福音主義
(evangelical)と言えようと著者は言う。AnneはHenry 珊と食事中もよく聖書について議論した。(今日では余り 行なわれないが,16世紀の)福音主義信奉の女性にはよく
見かけられた行為であった。Henry棚の最後の王妃
Katherine Parr(1512−3?一・1548)もこの 趣味 をHenry 珊に奨めている。そういう理由でAnneは聖書の普及に 一役買うことになる。Anneの寝室には聖書を読みたい人 のために聖書台のしに英語版聖書を備えていたという。厳 密に言えばCoverdale Bible(最初の印刷本完訳英語聖書)
はチューリッヒで1535年までは出版されていなかったのだ から,このことはAnneの晩年数ヶ月のことであったに相 違ない。多分Anneは若い頃フランスにいた時,フランス 語の聖書になじんでいて,.英語版の聖書が禁止されている
問フランス版を使用していたのであろう。Anneが生涯聖 書に優位を与えていたことはとりもなおさず彼女のキリス
ト教ヒューマニズムが確立されていたことを示すものであ ると著者は高く評価している(21)。このヒューマニズムこ そ「中世以来続いてきているキリスト教の持つ古びて辿れ た要素に対する鋭い批判となって,古い社会を揺がさずに はいなかった。なかでも烈しく教会の腐敗と堕落を攻撃し たのはエラスムスである(22)」がそのErasmusをAnneは 知っていた。Anneのキリスト教ヒューマニズムの具体例 として二つだけ取り上げておこう。一つは貧者に対する対 応であった。Henry冊とAnneの巡幸の際に宿泊地ごと に貧困者には衣類が下賜された。女官達自身の手で相当の 時間数をかけて縫い上げていたものである。その衣類に一
人当り1シリングを添え,また妊婦にはシーッニ枚と2シ リングを下賜したのである。1535年8月の巡幸では,ある 農家で家畜の大部分が死んだことが耳に入ると20ポンドも の見舞金を送ったこともある。乳牛1頭が10シリン.グで買 えた時代では大変気前のよい金額であった(23)。また1536 年には緊急貧困対策法案を通過させている。もう一つの例
としてAnneは教育と奨学にも積極的であった。大陸にい る留学生を支援したり,毎年オックスフォードやケンブ リッジ大学に各80ポンドの助成金を与えたり,また貧困な 学者の援助を行なった。さらに,永続的に両大学から新聖 職税,十分の一霞,聖職特別税の免除を行うようにHenry 皿に仲裁している。Anneの任命したストーク聖堂参事会 教会の牧師Matthew Parkerの改革に関心を示してもい る。この改革案には定期的説教を行うこと,週4日間英語 とラテン語での聖書講義者の任命,教師の給与改善,授業 料無料のみならず有料の生徒のための施設,6年間のケン ブリッジ大学奨学金貸与の特典のある8人乃至10人の聖歌 隊奨学資金資格者などの事項が含まれていたのである。
挑戦 1535一一1536年
Anneの恥辱と死に至る事件の話はいわゆる「悲劇」の 1年前から始める必要があると著者は言う。Henry皿は 1535年9月Wolf Ha11(J. Seymourの父John Sey皿our
やかた
卿の館〉に訪れる以前にJ.Seyrnourを知っていた。彼 女はKatherine of Aragonの女官であったがその後Anne の側近となっていたのでHenry皿の眼に止っていた筈で ある。J. Seymourに対するHenry皿の関心はやっと 1536年1月に真剣になった。Tarbesの主教で,当時の駐 仏大使は1535年10月Francis lに向けて, Henry皿の Anneへの気持はじわじわと冷たく(cooling)になって いる。それは新しい恋の相手(amours)が出来たからで あると伝えている。
さて,著者はAnneとJ. Seymourを次の様に比較して いる。Anneの黒髪に対してJ. Seymourの金髪, Anneの いらいらさせるよ.うな(abra忌ive)な態度に対して物腰の やさしい(gentle)な態度,当意即妙の婦人に対しておよ そ機転というものがない婦人,自立の女(self−made woman)に対して控え目な女(self−effacing),誰にも左 右されない人間(no man s creature)に対して,人の言う 通りになる人間(willing tool)と二人のコントラストを 明確に描いている。
1536年1月7日にはKatherineが癌のために遂にthe Fens(沼沢地)の端にあるKimbolton城で世を去った。
彼女は Katherine, Queen。{England としっかりと書き 記して死んでいったという。さらに同じ月24日にはHenry 皿がグリニッジでの馬上槍試合場で落馬,2時間ほど意
津山高専紀要第26号(1988)
識不明であった。このような事態の中で29日Anneは流産 したが,不運にも男子であったのである。これが悲劇の転 回点となった。流産の理由はNorfolk伯によれば, Henry 皿の事故の知らせでAnneが驚いたためとなっているが,
真の理由は彼女に出産能力がないか,J. Seymourに向け られたHenry田の愛によって自分もKatherineのような 運命を辿る恐怖,不安のためかどちらかであろうと著者は 言う。この流産のため王位継承問題は娘のElizabethの義 姉(Katherineの娘)にあたるMaryに有利になり, Eli−
zabethは推定相続人ではなくなった。恐らくKatherine 派の巻き返しが強くなったためであろう。J. Seymourも Anneの結婚は不法だったと強調している。
しかし,Anneは彼女の支持者達と共に易易とJ.
Seymourに城を明け渡すことはなかった。ところが,最 も強力な後ろ楯であり見方であったT.Cromwellが敵方 になってしまったのである。これまでと打って変って Maryに対する礼儀正しく,恭しいT. CrQmwellの態度,
また国際関係での彼とChapuysとの交渉(それは彼女を 裏切り,彼女の地位に異論をはさむことになる)はAnne
を不愉快に,かつ不安にさせるものであった。しかし,マ キャベリズムに忠実なT.Cromwellにとっては個人は犠 牲に供されなければならなかった。T. Cromwe11は遂に Anne排除を計画した。1536年復活祭の終り頃, Anneに.
対するクーデターを策謀した時,T. Cromwellは彼の生涯 で最大の挑戦に直面したのである。
クーデター,1536,4月r5月
このクーデターは約1ヶ月と1日で終ったイギリス史上 最も奇怪にして恥ずべき悲劇であったと著者は書いてい る。多数の者がAnneとの姦通罪で逮捕されたのである。
例えばその中にはMark Smeton(フランダース地方の出 身とも言われる二十歳を少し出たばかりの青年で,小型 ハープシコードの演奏家。不覚にも身分の低いこの若者に は宮廷愛と真実の恋愛の区別が出来なかった。),Henry Norris(Henry皿のもとで養育され, Henry㎜の最も親 しい友でもあり,宮内次官補であった。),Francis Bryan
(Anneの従兄で宮廷私室付従僕), Francis Weston(元 Henry咀の近習であった宮廷人), Richard Page(宮廷 私室の従僕でAnneのお気に入り), Rochford子爵(Anne の兄),William Brereton(宮廷私室侍従), Sir Thomas Wyatt(詩人にしてAnneの恋人であった。)のような面々 がいた。BreretonはT. Cro皿wellとの口論の末,不届者
としてBoleyn派への警めとして処刑されたのであってま さに大魚と共に網にかかった雑魚であった。Anneの罪状 は反逆者,姦通,近親相姦という誠に恥辱にみちたもので あった。反逆罪とはフランスに伝わった噂によれば,
Henry皿を毒殺し,その後H. Norrisと結婚し,王座に つくというものであった。この事件では証人喚間もなく,.
T.WyattとR. Pageを除いて全員ロンドン塔0刑場の露 と消えたのである。
裁 半一﹂
聖餐式において聖餅を受ける前後でAnneはHenry皿 に対して不実であったことはないと誓い,法務長官(T.
Cromwellに支持された)の前でも,神かけて自分が無罪 であると主張している。この事件を急速に収束するために 直に事実調査が行なわれ,陪.示現が任命されたがT.
Cromwellが既に手を廻し,逮捕者達には不利なもので あった。訴状には次のようなものがあった。Anneとの姦 通は言うまでもなく,Anneが女官や従僕と彼女の寝室で 踊りをしたというものから,兄Rochford子爵と衆人監視 の中で deep kissing をしたとか怪しまれる程長い間二人 だけでAnneの寝室にいたというものであった。また Henry皿を嘲笑したとか,彼の書いた詩を軽蔑したとか いっ左ものであった。Chapuysもこの裁判が証拠に依ら ず,また証人もなく,有効な自白もない,心病に基づいて 有罪になったと結論づけている。Henry皿自ら,事件後 十年経た頃,T. Cranmerにひとたびロンドン塔に入れら れ虚偽の証拠に服するならば,なすべき術はないと語打て いる。事実Anneに反感を抱いていたとされるロンドン市 民にとってもこの裁判は彼らの正義感を踏みにじるが如き
ものであった(24)。
終 末
断頭台は黒い布で被れ,前列の人々のみが見えるように 3フィートか4フィートの高さにしつらえられた。それを 多勢のものが取り囲んだ。ロンドン市長も市参事会員も国 王の裁定がいかに行なわれるかを見に来た。しかし,外国 人は列席しなかった。最初のイギリス王妃の死を見ようと イギリス人が男女を問わず集った。Anneの顔見知りがい た。大法官Thomas Audleyがいた。 Anneが13歳の頃,
Henry珊の妹Maryの侍女として渡仏以来の附合いで あったSuffolk卿Charles Brandonもいた。 Anneの御陰 で権力の座につき,今は手中にした権力の座の保持のため にAnneを殺害しなければならなくなったT. Cromwell がいた。ロンドン塔警護局長William Kinstonに護衛され,
4人の附添の貴婦人が従った。Anneは毛皮の裏地のグレ イのダマスク織の服の上に,イギリス風三角島民のついた 白テンの袖なし外套を羽織っていた。Anneは静かに断頭 台の段を登りつめ,並居る人々に予定の最:後の演説を行な
うため断頭台の端まで歩み寄った。簡潔な演説であった。
著者はAnneを身分の低い女官から王妃の座につき,イ