四︑第五高等学校に関する調査書
平成二一年度︑第五高等学校の卒業生にアンケート﹁第五高等学
校に関する調査書﹂を送付し︑調査を行った︒本章では︑調査結果
から︑学徒出陣にかかわる情報を抽出して掲載した︒
調査の概要は以下のとおりである︒
㈠ 調査名称
戦中・戦後の第五高等学校に関する調査
㈡ 調査目的
昭和初期〜昭和二五年の五高について︑当時の学校内の様子︑
五高生の意識などの情報を収集して研究資料としてまとめ︑
旧制高等学校の研究に資することを目的とする︒
㈢ 調査方法
﹃五高同窓会会員名簿
百周年記念号﹄
﹃東京五高会名簿﹄な
どをもとにして卒業生へ調査書を郵送し︑返送された調査書
の内容をデータ化する︒
㈣ 調査の時期
発 送 平成二一年一〇月一〇日付
返送期限 平成二二年二月二八日
㈤ 調査対象
五高卒業生︵本報告書に関連する卒業生からの調査書回収状
況は表の通り︶ ㈥ 調査書配布・収集の方法配布 クロネコメール便
回収 料金受取人払郵便
㈦ 調査項目
1 経歴 五高入学前︑五高在学中︑五高卒業後
2︱1 五高での生活
① 勉学 ② 寮生活 ③ 龍南会
2︱2 戦時中の五高について
① 軍事教練 ② 査閲 ③ 査閲事件 ④ 勤労動員 ⑤ 五高の工場化 ⑥ 学徒出陣 ⑦ 一九四五年八月一五日の様子 ⑧ 戦争の情報
2︱3 戦争の体験
2︱4 五高に関する資料
3 証言・手記
以下︑得られた情報を︑壮行会︑入隊者消息︑手記の項目に分けて
掲載する︒なお︑文末の括弧内には卒業年・クラスを表記した︒
㈠ 昭和一八年壮行会
昭和一九年卒業︵以下卒業を略する︶
・昭和一八年一〇月頃︵昭和一九年文一︶
・昭和一八年秋︵一〇月ヵ︶講堂にて︑壮行歌の発表等が行われた︒
︵昭和一九年文一︶
・昭和一八年秋︑五高講堂にて︵昭和一九年文二︶
・昭和一八年クラス単位で県北の温泉地で出征者六〜八名ほどの壮 表6 ﹁第五高等学校に関する調査書﹂回収状況 昭和
19〜
23年度卒業生
卒業年クラス配 布小 計回 収小 計昭和一九年文一二一七三七一八
文二一八五文三一九三
文四一三三文二
理一一九一〇一三一三理二二一二
理三一九二理四一四一
理五一四一
理六一四四昭和二〇年文一二五九五三一六
文二二三六文三二二四
文四二五三理一二九一四二五三三
理二二二五理三二二二
理四三〇七理五一九七
理六一九七
理一昭和二二年文イ六四八二八
文ロ八一文二一六二
文三二一文四五
文一一二理一二四一九二七二九 理二二一三
理三一九一理四三三二
理五三二五理六二七四
理七一六二理八一九四
理一一昭和二三年文甲五一六六九九
文乙一五理一二四一六二四三三
理二一四四
理三一九五理四二〇一
理五二三四理六一〇三
理七二五二理八一七六
理九一〇四計八七九八七九一五九一五九
行会があった︒︵昭和一九年文二︶
・昭和一八年秋︑二名が召集され︑クラス全員で玉名温泉で壮行会
をした︒︵昭和一九年文二︶
・昭和一八年︑玉名の旅館でクラスの壮行会を開いた︒日時ははっ
きりしない︒︵昭和一九年文二︶
・昭和一八年に︑学徒出陣の歌というのが︑生徒の作詩作曲で出来︑
その発表会か壮行会だったのかも知れない︒︵昭和一九年文二︶
・昭和一八年︑クラス壮行会はあった︒︵昭和一九年文乙︶
・立願寺︵玉名︶で壮行会があった︒︵昭和一九年文四︶
・覚えて居ないが平静だったと思う︒︵昭和一九年理一︶
・日時︑場所の記憶なし︒しかし壮行歌がつくられ︑その作者は同
期の文科︑木庭立夫君である︒木庭君は私が九州大学に移って短
歌会に出席したときに会った︒同君は文学部学生だったが︑間も
なく亡くなったのは残念である︒︵亡くなったのをひとづてで聞
いた︒︶︵昭和一九年理六︶
・昭和一八年文科出陣者のみ壮行会︑一〇月玉名温泉の旅館に一泊
︵昭和一九年︶
昭和二〇年
・昭和一八年一〇月︑習学寮食堂︵昭和二〇年文二︶
・昭和一八年︑寮の食堂︵昭和二〇年文三︶
・昭和一八年一〇月一三日︑寮の食事時に食堂で︑出陣する松永︑
小池︑橋本等全部で五名を雛壇にすえて︑校長・寮監も出席︵昭 和二〇年文三︶・体育館か講堂か︑定かには憶えていない︒︵昭和二〇年文三︶
・昭和一八年の秋頃︑習学寮食堂︵昭和二〇年文三︶
・寮では︑三人の壮行会が一〇月八日に行われたと記憶している友
人がいます︒︵昭和二〇年文四︶
・昭和一八年︑習学寮食堂︵昭和二〇年理一︶
・昭和一八年一一月一五日︑加田騎道部主将出征︵昭和二〇年理三︶
・昭和一八年一一月七日︑藪そばにて加田主将送別コンパがあった︒
︵昭和二〇年理三︶
・寮の食堂で壮行会あり︒︵昭和二〇年理五︶
・昭和一八年一〇月︑習学寮にて︵昭和二〇年理五︶
・昭和一八年一〇月一三日︵﹃続習学寮史﹄による︒︶食堂にて壮行
会︑惣代加田勉さんほか七名とあるが︑人数は確と覚えていない︒
添野校長ほか竹原教授たちから壮行の辞があった︒その夜は裸に
なってストームが続いたことを思い出す︒︵昭和二〇年理六︶
・加田勉先輩の壮行会が明午橋際の食堂であった︒︵昭和二〇年理六
・日時不明︒五高寮の食堂で式と全員会食の上︑武夫原ダンスで壮
大に送別した︒︵昭和二〇年理六︶
・文科には召集される人があり︑数人でその人を囲んで武夫原を踊
って送った︒︵昭和二〇年理六︶
・昭和一八年一〇月校内大講堂︑出陣学徒惣代の言葉は感動的であ
った︒︵昭和二〇年理六︶
・第一回学徒出陣の後︑各グループ別の壮行会が行われたと聞いて
いる︒︵昭和二〇年理六︶
昭和二二年
・昭和一八年一一月︑五高食堂で︵昭和二二年文二︶
・大連一中の先輩森興彦さんを熊本駅で送り出した︒︵昭和二二年
文二︶
・三浪の同級生が召集され︑食堂で全寮生参加の送別会があった︒
︵昭和二二年文三︶
・昭和一八年一〇月一三日︑講堂︵昭和二二年文︶
・昭和一八年一〇月一三日だった由︑上級生より聞く︒︵昭和二二
年理二︶
・先輩方︵昭和一七〜一九卒業︶で文科系の人達が学徒出陣した︒
︵昭和二二年理六︶
㈡ その後の壮行会
昭和一九年
・菊池スミさん宅で総務部の合宿があり︑一同集まって小母さんの
料理を食べて壮行会をやった︒︵昭和一九年文一︶
・出身中学校ごとに行っているはず︒くわしくは覚えず︒︵昭和一
九年文一︶
・令状が来た者がいるたびに︵昭和一九年文二︶
・加藤寿三郎︑西川源吾氏と私は︑学徒出陣を前にして度々一緒に 旅をした︒︵昭和一九年文四︶
昭和二〇年
・ありました︑小生達はその後は五高の寮にいなかったのでわから
ない︒︵昭和二〇年文一︶
・私の赤紙は昭和一九年九月二〇日頃︒長崎の寮を一人トランクを
かかえて坂を下る︒︵昭和二〇年文二︶
・その後はなかったと思う︒︵昭和二〇年文二︶
・動員先︵三菱造船所︶から︑正月休みで郷里︵若松︶へ帰郷した
時に入隊の令状が来た︒︵昭和二〇年文四︶
・度々あったと思うが確とは覚えない︒とにかく食堂で武夫原歌を
何度も踊ったのはそういう送別の宴のあとであろうか︒︵昭和二
〇年理六︶
・学徒動員先︵三菱重工業長崎造船所︶から東部第六部隊に直接入
隊したため︑壮行会なし︒︵昭和二〇年文四︶
昭和二二年
・ありました︒昭和一八年一二月上熊本駅前︵昭和二二年文二︶
㈢ 入隊者消息
昭和一九年
・熊本駅頭に見送ったことは覚えているが︑在学中に消息が知れた
かどうかは不確実︵昭和一九年文一︶
・詳細は不明だが︑赤煉瓦本館の陳列室にありました︒︵昭和一九
年文二︶
・ときどきは伝わった︒︵昭和一九年文二︶
・余りなかったが︑加田君から一度クラスに手紙があった︒︵昭和
一九年文二︶
・戦死した人の中には消息不明のままの人もいると思う︒︵昭和一
九年文四︶
昭和二〇年
・一部伝わりましたが︑大半は不明です︒︵昭和二〇年文一︶
・別に消息はなかった︒出陣した人からの連絡はなかった︒︵昭和
二〇年文二︶
・松永︑小池君は同級で時々クラスに情報が入った︒終戦後無事復
学した︒︵昭和二〇年文三︶
・加田先輩がフィリピンで戦死された由︑戦後に聞く︒昭和二〇年
六月一九日戦死︵フィリピンのマニラとパギオ間︶︵昭和二〇年
理三︶
・ほとんどは戦後に消息を知った︒軍の報道規制が厳重で個人的情
報は家族にも伝えられた筈もなかった︒︵昭和二〇年理三︶
・加田先輩の戦死の知らせはあったので騎道部代表は墓参した︒︵昭
和二〇年理三︶
・伝わったと思う︒︵昭和二〇年理三︶ ・昭和一八年に学徒出陣した文乙の橋本君が見習士官になっていて︑
一九年の末頃入隊した同じ文乙の松尾君ら新兵の教育係となり︑
手加減しなかったと︑戦後松尾君がボヤイタことがあります︒︵昭
和二〇年文四︶
・昭和一九年三月︑三重県久居の部隊に加田先輩に面接にいく︒︵昭
和二〇年理三︶
・同級の斉藤君の長兄がやはり五高出身でシベリアに抑留され︑現
地ロシアで五高会を結成したときのエピソードを聞いたし︑当人
の投稿されたものも読んだ︒軍隊内に大学同窓会はなくても︑五
高会はひそかに結成されることが多かったと聞いている︒欧米に
赴いた人達も同様の傾向があったらしい︒他の高校よりずっと連
帯感情が強かったのだろう︒︵昭和二〇年理六︶
昭和二二年
・不知︵満州や太平洋上で行方不明との噂は耳にしたが⁝︶︑その
後の消息は耳に入らない︒みぞくかばねや草むして︑のたれ死に
したか︒満州でたまたま先輩五高生に出会ったが︑消息今は不明︒
︵昭和二二年文二︶
・小生の兄︵昭和一七年九月五高卒︑病死︶︑九州大学在学中学徒
出陣︒スマトラ島︵戦地にゆく途中︑敵に撃沈され一昼夜泳いだ
由︶で英国軍に降伏︒戦後復員︑復学︑久留米予備士官学校︑復
員時中尉︵昭和二二年理六︶
昭和二三年
・五高同窓会報で知るのみ︒︵昭和二三年理九︶
㈣ 手記
昭和一九年
① 海軍経理学校 第五四警護隊︵択捉島︶
海軍経理学校在学中︑昭和二〇年三月東京大空襲で近所の宅の
破壊消防をやった︒翌日はまだ焼夷弾で焼かれた木材の流れてい
る隅田川でボートレースの競技会をやった︒
食事の量が少なくやたらと腹が減り︑休憩時間は食い物の話ば
かりであった︒正月の飾りもちが誰かによってとられ︑大問題と
なったが犯人不明であった︒
任地は北千島択捉島︑タラバガニや鯨が主食糧であった︒北カ
ムチャッカにソ連が進出し︑八月一四日残存部隊を引率して択捉
島を引き揚げた︒八月一五日に根室に着き︑主計長より敗戦を聞
いた︒一日遅れたらソ連へ連れてゆかれたかもしれぬ︒択捉島単
冠湾の中に司令部があり︒連合艦隊ハワイ攻撃の時全船隊が終結
した場所である︒︵昭和一九年文一︶
② 土浦海軍航空隊︑館山砲術学校
土浦海軍航空隊では偵察士官として学科︑実技訓練を受けた︒
飛行機がなくなってからは陸戦の初歩的訓練︒戦後︑佐世保鎮守 府付となり︑予科練生を率いて︑治安維持活動を約二カ月行った︒︵昭和一九年文一︶③ 大湊海軍特別陸戦隊︵下北半島︶
海軍飛行科予備学生︵志願︶として大学入学︵昭和一九年一〇
月三日︶直前︵一〇月一日︶土浦航空隊に入隊︒約半年の訓練後
滋賀航空隊で任官︵少尉︶︒館山砲術学校で陸戦の特訓を受け︑
本土決戦に備えて︑青森県下北半島の山中で先任小隊長として幕
営生活中終戦を迎えた︒︵昭和一九年文二︶
④ 熊本予備士官学校︑鉾兵団四二三六一部隊
学校生徒︑見習士官︑小隊長︵ポツダム少尉︶︵昭和一九年文三︶
⑤ 大竹海兵団︑三重航空隊︑徳島航空隊
海軍大竹海兵団から三重航空隊へ︑そこから徳島航空隊へ さ
らに昭和一九年の末ごろ厚木基地へ転々とした︒
海兵団では二等水兵として基礎訓練︵カッターを漕いだり︑銃
製造︑その他︶一九年の二月ごろ適性検査があり︑航空と海上に
分けられ︑私は航空関係へ︒三重航空隊で基礎訓練ののち徳島航
空隊へ配属︒偵察機用品として訓練ののち︑厚木基地にあった第
二相模野航空隊へ配属になり︑分隊士としての勤務︒飛行機の整
備の教育にかかわりましたが︑なんだか飼い殺しのようでした︒
終戦まで厚木基地の片隅で遊んでいたようなものでした︒︵昭和
一九年文三︶
昭和二〇年
⑥ 仙台砲連隊
武器不足︑わらじあみ︑鉄砲なし︑剣なし︑ザコ寝︑ムシロの
上に寝る︒︵昭和二〇年文一︶
⑦ 平壌秋乙教育隊
軍隊に一九歳未満で入れられ︑上等兵等から日夜殴られ︑空腹
に苦しみ︑こてんぱんにやられました︒
捕虜になってから︑朋輩の小学校しか出ていないのや︑中学︑
専門学校出などに比べて高校はいかに甘やかされ︑甘ったれてい
たか︑平和な逃げ場所だったかに気付きました︒五高は良かった
と一概に言えないと私は思います︒︵昭和二〇年文二︶
⑧ 陸軍習志野学校︑久留米予備士官学校
最初は特別甲種幹部候補生で伍長で入隊︒普通の部隊ではなく︑
陸軍習志野学校の一部に特別甲種幹部候補生の部隊が編成されて
いたため︑普通の軍隊の経験なし︒他の予備士官学校︵例えば久
留米など︶にも特別甲種幹部候補生の部隊があった︒
昭和二〇年三月に久留米予備士官学校に転属となる︵わが中隊
全員︶が︑米軍の本土上陸作戦に備えるため︑久留米の学校には
入らず福岡県八女郡の川崎村の小学校に駐屯して︑臨戦態勢で訓 練を受けた︒六月に軍曹に昇進し︑八月末で仮卒業になるとの噂があったが︑終戦となった︒最後は仮に見習士官に昇進したが︑実際は軍曹の候補生のままであった︒ 九月になって部隊は解散︑除隊となる︒中途半端な高校生であり︑中途半端な兵隊であり︑中途半端な帝国大学生であった︒︵昭
和二〇年文三︶
⑨ 旧満州国平場鎮の大阪二三聯隊
昭和一九年一一月から昭和二〇年三月まで︵一一月頃から渡満
したと思う︶旧満州国平場鎮に駐屯し︑初年兵軍事教育を受ける︒
冬期の事でもあり︑午前中は舎内教育︑午後は野外教練が原則で
あった︒対外温度が〇度より下になると舎内教練となった︒昭和
二〇年三月半ば︑宮崎県小林町︵現小林市︶に移駐し︑八月一五
日終戦となる︒九月︑軍は解散され各人がそれぞれ故郷などへ帰
宅した︒小生は大阪の自宅に帰った後︑栄養失調症のため休養︒
昭和二一年四月東京に移り︑大学に通学することとなった︒︵昭
和二〇年文三︶
⑩ 北支那︑満州︑シベリア
昭和一八年四月 五高入学 昭和一九年一二月 学徒動員先︵三菱重工業長崎造船所︶から東
部第六部隊に直接入隊︑以後敗戦まで北支那︑満州で従軍
︵昭和二〇年三月 五高卒業︑昭和二〇年四月 東北大学入学︶
昭和二〇年八月 ソビエトに抑留 昭和二三年秋 復員︑東北大学に復学︵昭和二〇年文四︶
⑪ 北支山西省娘子関駐屯独立中隊
昭和二〇年の三月二日現役召集されましたが︑野戦補充員とい
うことで四月一〇日には︑北支山西省の娘子関にある独立中隊に
配属されました︒ワザと幹部候補生試験に落ちた人達が多く︑内
務班で一番偉いS兵長と隣のE上等兵は大分経専の出身でした︒
学生が多く︑幹部候補生受験用の歩兵操典などを持ちこむ中で︑
僕一人が岩波文庫の﹃古事記﹄一冊だけを持ちこんで︑変った兵
隊という印象を与えたようです︒僕が驚いたのが五高が日本一の
悪い学校であるという陸軍省の通達がその中隊にも届いていたこ
とです︒ ところで︑入隊早々に始まった点呼前の新兵教育の第一日目︑
内務班長の伍長が﹁中隊訓を言え﹂と言ったら︑誰も答えずに一
二︑三番目僕まで廻ってきました︒先刻靴磨きに藤田という新兵
と行く途中︑白墨で黒板に何か書いてあったのを読んでいたから︑
それを答えたら︑当たっていました︒翌晩は何を聞かれたか覚え
ていませんでした︒偶々知っていることだから︑僕が答えたら︑
控えていたS兵長以下の古兵がホッとしたのを感じました︒古兵
たちが教えることになっているため︑誰も答えないと後で古兵た
ちが叱られるのだと察知しました︒班長が去った後で︑S兵長が︑
﹁流石に天下の五高は違うな﹂と言って︑五高の名を挙げた形に なりましたが︑実はオチがあります︒その後で︑S兵長が﹁実は
俺の嫁さんの兄貴も五高だ﹂と言いました︒なお︑三日目からの
班長の質問は︑僕の知らないことばかりだったが︑僕が答えると
後へ廻せないので︑僕を飛び越えて指名するようになりました︒
︵昭和二〇年文四︶
⑫ 久留米歩兵四八連隊鶴丸中隊︒
島原半島西岸橘湾警備︵米軍の本土上陸に備えて︶
通称﹁穴掘り部隊﹂︒米軍の艦砲射撃を避けるために大きなト
ンネルを掘った︒敵の上陸はなかったが︑八月九日の長崎への原
爆投下の翌日︑私は指揮班にいたので︑救援隊を先導して爆心地
に入り︑数日間︑死体の片づけなどの作業をして︑原隊に帰る︒
第二次被爆者である︒
数日後︑確か八月一四日の夜と思うが︑敵の上陸艦隊見ゆ﹂と
の報で︑山にこもる︒︵誤報︶
終戦の詔勅は山の中の一軒家のラジオで聞く︒ガアガアと雑音
ばかりで︑聞き取りにくい︒中隊長は﹁必勝の信念を持って最後
まで戦い抜けと仰せられた︒﹂と解説した︒山を降りたのは八月
一七日︒私の終戦は八月一七日である︒久留米の原隊に帰り復員
事務を担当︒私の復員は一〇月になってからであった︒ポツダム
上等兵︒︵中学は四修︑五高は教練検定不合格で幹部候補生の受
験資格なし︶︵昭和二〇年文四︶
昭和二二年
⑬ 静岡県浜松 陸軍高射砲兵学校 敵艦載機の空襲に応戦した︒前からの敵機には額を︑後方から
の戦闘機には後頭部を撃たれるとの想いで鉄帽をアミダにしたり
マブカにしたりして身構えた︒思えばナンセンス︒
命長らえたのは神と親の加護あったのみとの思いを今も⁝︒︵昭
和二二年文二︶