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17世紀レイデン毛織物工業とネーリング制(下)

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17世紀レイデン毛織物工業とネーリング制(下) 107

17世紀レイデン毛織物工業と

ネーリング制(下)

佐藤弘幸

5.「後期のネーリング」の成立

レイデン毛織物工業は周知のように,17世紀半ば頃を境にしてその内部構 成に一大転換をみている。いわゆるイギリス毛織物工業におけるウルンから ウステッドへのセクター転換とは全く逆のウステッドからウルンへの転換が これである。16世紀末から17世紀前半にかけてレイデン毛織物工業を主導し たのは,これまで見てきたように「初期のネーリング」4つであった。その なかでもサーイ織ネーリングがその中心的存在であった。この4つの「初用 のネーリング」はいずれも1620年代から30年代にかけて最盛期を迎え,以後 1650年代から70年代にかけて停滞の様相を次第に潰くしてゆく1)。とりわけ

フユステイン織,ラス織の2つのネーリングの落込みが著しい。

ところがこれに対して1630年代後半からラーケン織業が急成長をみせ,続 いて1650年代にはトルコ・グレイン織業とワルプ織業が大きくその産出量を 伸ばしてくる。その結果1638年にはラーケン織ネーリング,1652年にワルプ 織ネーリング,1654年にトルコ・グレイン織ネーリングが成立した。第2節 でもすでにふれたように,この3つのネーリングはいずれも既存のネーリン グからの分離独立という形で登場したことが一つの大きな特色である2)。す なわちラーケン織ネーリングとワルプ織ネーリングはバーイ織ネーリングか

ら,またトルコ・グレイン織ネーリングはサーイ織ネーリングからそれぞれ 別れてきたわけである。

ところでこの3つの「後期のネーリング」が「初期のネーリング」の漸次 的停滞をよそに,急速に拾離してきたのはいかなる事情にもとずくものであ ったのだろうか。実はこの点こそレイデン毛織物工業史における最大の謎の

(2)

lつであるのだが,現在のところやはりわれわれとしても,それをイギリス 毛織物工業との競合関係から説明している Ch.ウイルスンの卓見をみとめな

~ 3) 

いわけにはゆかないであろっ oさらにまた最近の研究によるならば,イギ リス毛織物工業がウノレンからウステッドへのセクタ一転換に伴い販路の主心 を北欧・中欧から南欧・地中海地方へ決定的に移し,その結果として北欧・

中欧市場に生じた間際を埋めるようにして進出したのが,オランダとりわけ レイデンの毛織物工業であったのである4) D このように考えるならば I 期のネーリング」の急速な発展はなによりもまずこうした国際的市場杭造の 変化を考慮に入れることなしには,理解することが不可能であろう。従来や やもすればレーデノレ (reeder)という資本家的大級元の出現の中に「後期の ネーリングJ,わけでもラーケン織ネーリングとグレイン紘ネーリングの発 展の原因を見出そうとしてきたわけではあるが,われわれの見ると乙ろでは,

その逆であるO 国際的市場椛造の変化に促迫されて大躍進をとげたのが「後 期のネーリング」就中ラーケン織ネーリングであり,その過程で姿をあらわ したのがレーデノレなのであるD そこでまずこのような視点から後期のネーリ ングの成立過程をたどってみたい。

いうまでもなく「後期のネーリング」の中で圧倒的地位を占めていたのが,

17世紀後半のレイデン毛織物工業をリードしてゆくことになったラーケン紘 ネーリングであるo このラーケン織は経糸・緯糸の双方に刷毛糸を使う純粋 のウノレン(紡毛)製品であり, 16世紀末になってはじめてレイデンに知られ るようになったO このラーケン織がパーイ紘ネーリングの中に包括されてい たという乙とは,それがフランドノレ起源のものであることを示しているが,

フランドノレのどの都市から伝えられたのかははっきりしていない。 I初期の ネーリング」の lつで,短命 l乙終ったベレ・ラーケン織ネーリンクやがパーイ 織ネーリングに吸収合併されているところをみると5) 乙のベレ・ラーケン 織というのと何らかの関係がありそうであるが,両者の関係については具体 的にはよくわからないD いずれにしてもこのラーケン織は当初はパーイ織ネ ーリングの中にあって,産出呈もまだ限られた副次的部門にとどまっていた ことはたしかであるO

(3)

17佐紀レイデン毛投物工業とネーリング制(下〉 109  ところが1614年にいたり,突如ラーケン織業に1つの新局面がもたらされ ることになった。この年の11月に「レイデンのスタメット織とラーケン織を イギリス式に製造するための暫定規制」なるものがつくられているのであ6) 

る。市当局はこの「哲定規制」を制定することになった事情を次のようにの べている r……当市内においてラーケン織とスタメット織の製造業が再び 興されてよいはずであるo この製造業はかつてはきわめて隆盛をほこってい たが,最近では全く姿を消してしまった。もしこのラーケン織とスタメット 織の製造にあたって,製法・原料ともイギリス式のやり方をとるならば,現

予ら出会L全身に明るい希望が与えられ,きわめて有利になるであろうη (傍点は引用者)とO ここでわれわれがすぐ念頭にうかべるのは,同年7 にスタートしたイギリスの「オーノレダマン・コケイン計画」であるD 乙の

「計画」はいうまでもなく,イギリスが自国の未染色・未仕上げの毛織物の 輸出を禁止して,自国内に染色・仕上業を育成し,それまでイギリス産毛織 物の染色・仕上業を行なっていたオランダに大きな経済的打撃を与えようと するものであった8) O それ故,この「哲定規制」がこの時点で出されている ということは,あきらかlこ「コケイン計四」を芯識してのことであったo

「イギリス式のやり方Jr現下の情勢と貿易」という表現はとりもなおさず こうした事態をさしていると思われるD 同年10月オランダの連邦議会が「コ

。 .9) 

ケイン計回」への対抗上発布したブフッカート がイギリスからの染色・仕 上済毛織物の輸火を全面的に禁止した事態に対応する形で,この「暫定規 制」は出されたわけである。

ところで製法・原料とも「イギリス式のやり方」を採用するというのが具 体的にどのようなことをさすのかは不明であるが,ともかくこの「暫定規

¥

liJiJでは,今後ラーケン織やスタメット織を製造しようとする者は, g室経や 圧械といったごくわず、かの製造技術上の規jfi!Jをのぞいてはパーイ織ネーリン グやその他のネーリング規制から全面的に解放されることになったのであ 10)。こうした内容をもっ r!宙定規制」の制定が市当局のイニシアチヴに よるものか,ラーケン級生産者の要求にもとずくものかははっきりしないが,

ともかくラーケン松栄はここに飛躍のための一つの足掛りを得たのであるD

(4)

ただ1617年にいたり「コケイン計画」が最終的に失敗するという事態の急転 回もあって,ラーケン織業の急速な発展はさしあたりみられなかった。しか しながら以後徐々にではあるが,同工業にとって有利な情勢が展開していっ たことは確実であるO それは何よりも1620年代から30年代にかけてのf白紙水 平(風車)の相次ぐ新設に端的にあらわれている11)。 織 元 が 申 し 立 て た 苦 情によれば Iラーケン織栄が当地ではめざましく発展し,ゼイノレポーノレト

(市門)の外にある2基の縮紋風車では当地で多量につくられるラーケン織 を処理できず,そのためそのラーケン織を他の都市lこもっていって処理して いるので,長い間そ乙にとめおかれることになるO こうした事態はとりもな おさず他の都市の住民に便宜を与え,彼らをIlJけているにちがいなしI 112 いうことであった。これに対して市当局は1631年に 11年以内に市の周辺

300)レーデ~ (約1.13km)以内に1tまないしはそれ以上の縮紙風車を建てよう とする者は……l基につき600グノレデン市から援助をうけるべし13)Jという 決定を行ない,焔紋風車の建設に財政的援助を与えた。 1635年から1657年ま での23年間に31人がこうして援助をうけている14) 。しかもその大部分がラ ーケン織のための縮減風車であった。また牛や馬によって動かす新しい縮紋 水車の発明もこの時期のことであり,これによって無風時の縮紋風車の逆転 不能による作業の中断を防ぐことができるようになった15)口 さ ら に ま た ラ ーケン織仕上工が仕上工ギ、jレドの規制の枠をこえて,仕上職人の雇用数をふ やすように要請してきたのもやはりこの時期である16)口そ して1633年 に は 今度はラーケン織染色工の不足という事態lこまで立至っている17)

こうして「コケイン計画」を契機にして飛躍の足掛りを得たラーケン総業 1620年代初頭のイギリス旧毛織物工業の大不況とその後の慢性的不況と いう事態の中で着実な歩みをはじめてゆく。そこに聞けた経済的可能性がい かに大きいものであったかは,ホントスホーテから1625年に移住してきたラ ーケン織元(JanFrancois)の経営拡大の記録がこれを如実に物語ってい 18)(5表)。彼は1603年にフランドノレのホントスホーテに生まれ, 1625  年にレイデンにゃうてきて, 1628年11月から毛織物業をはじめている。みら れるように彼は,ラーケン織業に聞かれた有利な情勢の中でかなり急速に経

(5)

17世紀レイデン毛織物工業とネーリング制(下〉 111  営 を 拡 大 し て い る こ と が わ か る $ 05 ラーケン織元の資本の推移 一介の移住者にしてこれだけ急速 (単位:グルデン) に経営の拡大を実現しえたという │年次 グノレデン│年次 グノレデン ことはおどろくべきことといわね

ばならない。

こうしたラーケン織業の急成長 の陰にはまた無秩序や不正の横行 も懸念されたのであろう。 1634 にいたり市当局は「当市内のラー ケ ン 織 の 新 製 造 業 は 日 増 し に 成 長,発展しているが,製品に対す る適切な規制と監督が行なわれて いないため,そ乙で働く労働者や 織元が私利私欲を追求して数多く の不Eや悪事を聞き,そのため当 市のラーケン織の名声を損ね,ひ いてはラーケン織業の衰退をもた

1632  1633  1634  1635  1636  1637  1638  1639  1640  1641  1642  1643  1644 

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13766  13642  14085  14744  11613  11837  12821  12220  12033  12342  12342  12550  12470  12554  12311  12147  9817  9846 

らしかねなし)19)Jとして, ラーケ (L. T. N., 1.  I, o.  459.)  ン紙業の規制にのり出す乙とになり,ラーケン松栄の親方や市長などから椛 成される委員会をっくり,ネーリング規制の作製を命じた。しかしながらそ うした規Hi!Jに反対する有力な織元の抵抗に会って,ネーリングの成立は1638 年まで待たねばならなかったが,われわれはこうした市当局の態度の中にネ

ーリング制がその出発点においていかなる立図をもつものであったのかを明 瞭に読みとることができるように思う。

次いで1652年に成立したワルフ。織ネーリングもパーイ紋ネーリングからの 分離独立であるが,乙のネーリングに合まれていたワノレフ。級,ティーレンテ イン倣 (tierenteinen) ,ブノレラーケン倣 (voerlakens)などはいずれも16 世紀の半ばまでレイデンやその周辺の民村でつくられていた粗11・の毛織物と 同じかまたは同系統の毛織物であるo したがってこのワノレフ。織ネーリングの

(6)

各種毛織物は厳密にはフランドノレ起源の新程の毛織物とはいえないようであ D この程の毛織物製造が 17世紀半ばになって,どのような事情から仲長し,

lつの独立したネーリングを形成するまでになったのかははっきりしないが,

ともかく 1660年代にかけて急成長をみている。しかしその繁栄の期間は短く,

1674年にはフュステイン織ネーリングを吸収合併したにもかかわらず,以後 17世紀の末にかけてあまりふるわなかったようである(第 3表参n瓦)0 ただ このネーリングのみは18世紀の前半から中葉にかけて, レイデンの他の全て のネーリングの没落をよそに,再び勢力をもりかえして, 1660年代の産出量 の水準を突破していることは注目に値するO しかしそれがし可かなる理由にも とづくものかは不明であるo

続いて1654年に成立したトノレコ・グレイン織ネーリングはネーリングとし ては最後に成立したものであるが,このネーリングに属する製品は山羊の毛 やラクダの毛を原料にも~うもので, mediocedas , nompareylles, machayers 

(モヘア), saeyette greynen (通称レイデン・トノレコ織)などがその主な ものである。乙れらはサーイ織ネーリングに含まれていたグログレイン織や,

1606年に独立のネーリングとしては廃止されてしまったカンジャント織とは 原料・製法とも同じ系統に属する製品であり,したがってこのトルコ・グレ イン織ネーリングの成立は一部はサーイ織ネーリンクゃからの分離独立,また 一部はカンジャント織ネーリングの復活とみなすことができるD その成立の 契機については必ずしもはっきりしているとはいいがたいが, 1630年代にな ってアンゴラ糸を原料として伎うようになってから急速に発展したといわれ ている20)。したがってこのネーリングもまた産出量の増大とともに独立し たということができるo1630年には早くも, 17世紀のレイデン毛織物工業を 主導する大織元(レーデル)がこの部門に20人以上も姿をみせ,その中には かの有名なピーテノレ・ド・ラ・クーノレも顔を出していた21) O ネ ー リ ン グ 成 立時の1654年までは産出量がどの程度であったのかは不明であるが, 1640 代にかなりの発展がみられたことはたしかである。グレイン織の仕上工程の 中でもっとも重要なつや出しのためのつや出し風車の新設の勤きが活発にな っているのも40年代から50年代にかけてである22)。そして 165310月 に 市

(7)

17世紀レイデン毛椴物工業とネーリング制(下) 113  当局は4人のグレイン織レーデノレに命じて「当市のグレイン紋製造における 不正やごまかしを防ぎ,あわせてこの製造業を当市のために育成してゆく乙 とに関する規制草案を検討」させることになった23) 。こうして翌1654年 に グレイン織ネーリングが成立した白乙のネーリングは原料を遠隔地に仰がね ばならないという不安定要因をかかえながらも,他の国がとれと競合的な 製品をつくりえなかったという事情もあって24) , 17世 紀 後 半 に は ラ ー ケ ン 織業と並んでかなりの繁栄を維持している。

「後期のネーリング」の成立過程はおよそ以上のようなものであるが,ポ スチュムスが17世紀後半のレイデン毛織物工業の最盛期とよんでいる1667 の各ネーリングの地位は大休次のようになっていた(第6表)0 みられるよ うに産出呈,織機数においてはグレイン織ネーリングがずばぬけているo ーイ織は産出呈においてはラーケン織をはるかに引き抜いているが,産出額 においてはラーケン織の%以下にすぎなし125〉 。 か つ て 市 の 「 第 一 の 産 業 (hoofdnering) Jとよばれていたサーイ紋ネーリングは紋段数においても最 盛期の%以下になっており後退が若しいD 乙こにわれわれは「初期のネーリ

ング」に代わって「後期のネーリング」がレイデン毛織物工業に支配的地位 を占めるにいたっていることを確認することができるO

;

rS6 1667年 の 各 ネ ー リ ン グ

ネーリング │ 紋 元 数 │ 紋 機 数

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反)

I

il¥初(グノレデン〉

サ ー イ ね 200  550  27000  729000  フユステイン紋 25  62  3300  36300 

f ー イ ? 技 70  128  11200  492800  ラ ー ケ ン 紋 80  500  16350  2616000  ワ ノ レ プ 枇 50  180  10675  202825  グ レ イ ン i 150  1400  5 1000  3825000  (N. W. Posthumus, Geschiedenis, d1.  m, blz.  939, Tabcl 113より作成〉

1)JiIj山 出3B{ 2)  nIn ¥l~'S i'¥iJ85TI参照。

(8)

3)  Ch. Wilson, Cloth Production  and International  Competition  in  the  Seventeenth Century, Econ.H.R., (2)  xm/2. 

4)  W. E.  Minchinton, The Growth of  English  Overseas Trade in  the  17th and 18th centuries, Introduction, .20;  R. Davis, English Over‑

seas  Trade, 15001700, pp. 24, 39.船山栄一,前掲古,第1平78頁。拙稿

「オランダ共和国の成立と毛織物工業の展開JW社会経済史学~ m36治第4号.

37

5)  前出,第2節参照。

6)Provisionelekeur ofte ordonnalltie  op het reeden ende wercken van  de stametten ende Leytsche laeckenen op d'Engelsche manier. (1614  年11月28日) , L. T. N., dl.  N, No. 230. 

7)  ibid., S1. 

8)  rコケイン計画jについては,拙稿「オランダ共和国における毛織物の染色・仕 上業の没落一一「コケイン計画」との関連で一一JWー抗論叢』第676号を参 照されたい。

9)  Groot Placaet~Boecken , dl.  1, blz.  11703. 

10)  L. T. N., dl.  N, No. 230, S26.と乙ろでこの「哲定規制」の述べると乙 ろによると,こうしたパーイ織ネーリング規制からの解放の狙いは,パーイ織業 にたずさわっている者は杭毛をしたり,杭毛済羊毛をもつことが禁止されている ので,それを自由にする乙とによって,ラーケン織業やスタメット織への新規参 入を促進しようとする乙とにあった(ibid.sl)。しかしラーケン織は純粋のウ ノレン系機物であり,杭毛を必要としないはずであるから,この杭毛lと関する規定 が実際何を意味しているのか不明である。おそらく乙れは同ーネーリング内での 二種類以上の毛織物製造の兼業をみとめるというような意味であろう。ただし16 世紀半ばまでの旧ラーケン織の場合には杭毛が伎われていた。なおスタメット織

については,それがどのような毛織物であったのか,現在までのと乙ろ全く不明 である。ポスチュムスはフィレンツエでは stamettiなる織物があるので,それ

と同じようなものであろうとみている。 N. W. iPosthumus, Geschiedenis,  dl.  II, blz.  106. 

11)  L. T. N., dl.  N, No. 240 (1620)No. 244 (1621) No. 250 (1624) No. 259 (1633) No. 260 (1634) No. 2950635) No. 3020641年)

(9)

17世紀レイデン毛織物工業とネーリング制(下〉 115  12)  ibid., No. 250, ~ 2. 

13)  ibid., No. 254. 

14)  L. T. N., d1.  V INo. 460. 

15)  L. T. N., d1.  IV, No. 250 (1624年). 

16)  具体的には次節を参照されたい。

17)  L. T. N., d1.  IV, No. 258. 

18)  L. T. N., d1.  VL No. 459.ポスチュムスは史料集の中ではこの織元をラー ケン誠元といい,彼の著書ではサーイ織元としている。史料を見たかぎりにおい ては,どちらともきめ兼ねるが,一応これを史料集に従いラーケン織元と解して おく。

19)  L. T. N., d1. No. 280. 

20)  N. W. Posthumus, Geschiedenis, d1.  m, blz.  926.  21)  L. T. N., d1.  IV, No. 223. 

22)  ibid., No.  159; L. T. N., d1.  V, No. 1679.  23)  L. T. N., d1.  V, No. 177, noot (1). 

24)  N. W. Posthumus, Geschiedenis, d1.  J[  blz.  959; Ch. Wi1son, op.  ci  . p. 217. 

25)  産出額の基礎となっている各毛織物のl反の価格はこの当時は大体次の辺りであ る。サーイ紙 (27f.),フュステイン倣 (11f.) .1'ーイ紋 (44f.),ラーケン;改 (l60f.  ) ワノレブ。椴(19f.),グレイン織 (75f.)。いずれもN.W. Posthumus,  Geschiedenis, dl.  m, blz.  941, Tabel 114より計算。いずれも17世紀の前 半にくらべてかなり値下りしている。

6.  I後 期 の ネ ー リ ン グ 」 に お け る 経 営 形 態 と レーデノレの出現

ところで17世紀半ば以降のレイデン毛織物工業を際立たせているものは何 といってもレーデノレ(reeder)とよばれる大級元=商人的大企業家の出現であ り,彼らによる大規校な毛織物工業の経営であるO しかもこのレーデ、ルが出 現したのは主に「後期のネーリング」のうちのグレイン織ネーリングとラーケ ン織ネーリングの2つであり,仙にはほとんどみられないといってよい。この

(10)

ことは前節でもふれたように,国際的市場構造の変化に伴いレイデンのラー ケン織業とグレイン織業に大きな経済的可能性が開かれたこととは無関係で はなし1。そうした有利な情勢に対応してゆく過程で出てきたのがレーデノレで あり,またレーデノレにしてはじめてそうした可能性をフルに利用することが できたのである。いずれにしても17世紀後半のレイデン毛織物工業はレーデ ノレの圧倒的な主導のもとに展開したということができるD

レーデノレという言葉はもともとは毛織物の生産者というような一般的な言 葉であって,織元とほぼ同義であった。したがってレーデノレと称する者は16 世紀末のフランドノレ移民の中にすでにあらわれているO おそらくは比較的経

1)

営規模の大きい織元をそのように称したのであろっ O しかし17世紀半ば頃 にグレイン織業とラーケン織栄に姿をあらわしたレーデノレはそれまでに類を みない巨大織元であり,企業家的要素と商人的要素をあわせもつ当時として はきわめて特異な存在であった。したがってレーデルはしばし大商人と同義 語であり,そのように呼ばれているO また彼らの経営の主心が仕上工程にお かれていたことから,仕上業者と呼ばれることもあるO 当n守レーデノレと呼ば れていた者が何人くらいいたのか正確な数字はつかめないが,史料で検出で きるかぎりではラーケン織レーデノレが約42人幻,グレイン紙レーデ、ノレが約140 3)確認できる。数の上からいえばグレイン織レーデノレの方が多いが,経営 規校ではラーケン織レーデノレの方が大きかったようである。とりわけラーケ ン織業ではわずわ10人たらずの大レーデノレが大きな勢力をふるっていたよう であるD その中でもAdriaen Hennebo, Jacques  Hennebo父子, Adriaen  le  Plaなどがきわだっていた。

レーデノレはもちろんある日突然に出現したものでもないし,はじめから商 人的大企業家として外国や他の都市から移住してきたものでもない。彼らは もとはといえばレイデンの織元や仕上工あるいは商人であり,彼らの前lこ開 けた経済的チャンスを確実にわがものとして急速に経済的に上昇し,巨大化 した述中なのであるO もとよりその過程は決して平坦なものではなく,レー デノレに上昇するためにはいくつかの障害をのり越えねばならなかったD 彼ら が大規模化すればするほどそれに対する抵抗もまた大きく,その過程で生じ

(11)

17世紀レイデン毛織物工業とネーリング制(下) 117  た摩擦や礼子葉も大きくならざるをえなかった。ここではわれわれはレーデノレ がどのようにして自己を確立していったのか,その過程を主にラーケン織業 を中心 lこしてみてゆくことにしたいD というのはラーケン織業においては,

レーデノレの出現過程が比較的よくわかるのに対してグレイン織業については 史料の関係からそれがほとんどわからないからであるD ここではまたレーデ ノレの出現にあたってきわめて重要な役割を演じたと思われるレイデン市当局 の姿勢にも注目し,それが次節で検討する「後期のネーリング」の規制内容 にどのように反映されてゆくことになるかという長についてもあわせて注目 しておきたい。

17世紀初頭のラーケン級業には大体40人ぐらいの松元がいたと推定されて いる到。かの1602年の級機数調査ではラーケン紋段は70台記録されている5)

これがラーケン織ネーリングの成立する1638年頃にはどのように変化してい るかといえば,松元が250人近くに,織機が約400台に増えているからG) の間にかなりの発展があったことがうかがえるわけである。そこでまずこの 当時ラーケン総決ではどのような経営形態が一般的にみられたのかを見てお かねばならない。 I初期のネーリング」のJ見合と同様にここでもわれわれは レーデノレ出現以前の織元の経営形態を確実に推定しうる史料にめぐまれてい ない。したがってレーデノレ出現役の若干の史料からの推定で i~I'J足しなけばな らない。レーデノレの出現役でも一般の級元の経営形態に閃しては大きな変化 がなかったようであるから,乙れらの史料からでもおおよその見辺しはねる ことができるo

まず最初はl人のラーケン枝元 (Huybertde Vivien)1652年に毛織物 業関係の資産を売却した際の記録である7)。乙の織元がいかなる理由からこ れらを売却することになったのかは全く知る乙とはできないが,ともかくそ れまではこれらの道具一式と原料を使ってラーケン紋製造をやっていたこと だけは確かであるo 乙の紋元の経営内容は大休次の通りであるD

(12)

(単位はクツレデンf.一一スタイプェノレ st.)

織 機 l 油入れ l 羊毛少々 織糸

屑羊毛の入った箆 ボビンの入った箆 紡 車 (wielen) 2

ボビンl!i (babijnwielen) 2佃

除節台 (noppersmet een banck)  1 除節兵 5

11Ie毛具 (kam)1個別

J 2

vlaeck (打毛具?) 1 can (権?)1個 筏っきシャフト l組

st.  36  22  15 

10 

18  10  14 

14  17 

この織元は織機l台をもって織布業を中心にごく小規校の経営を行なって いた小織元であったように思われるD 小織元というよりはむしろ級布工とい うべきかもしれない。この資産内容からするならば大規模な問屋制を展開し ていたようにも思われない。紡糸工程については若干の問屋制支配があった かもしれない。この織元は織布後,除節をしてから,縮紋工,染色工,仕上 工にそれぞれ加工を依頼するか,あるいは半製品のままで商人や仕上工など に売ったのであろうO このような経営形態をとる織元は当時としては平均的 な織元であったようであるO

もう 1つの史料は2人のラーケン織レーデノレがl人のラーケン織元にラー

9)

ケン織業関係の道具一式を賃貸した際の記録である 口てれは次のようなも のからなっていた。

(13)

17世紀レイデン毛識物工業とネーリング制(下〉 119 

織機 4 紡車 l

混毛台 4 整経具 7

鉄ストープ(付属品とも) 2 整経枠 1 除節台(付属品とも) 1 糊付け枠 l個

(bancken) 2 以上いずれも新品

これらを譲り受けた者はおそらくはラーケン織元としてある程度のまとま りをもった経営を維持することができたのであろうと思われるO したがって ここにあげられている各道具の数は紡車をのぞけば怒意的なものではなく,

織元経営にとって経験上乙れだけの道具が1ユニットとして必要とされてい たのであろう。これでみると織元の自家作業場では織布工程が中心にすえら れていたようであり,それと並んで織布に付随する糊付け,整経が行なわれ ていた。ほかには準備工程の一部として混毛,織布後の除節が行なわれてい 。 織機4台に対して紡車が1佃しかないところをみると,紡糸工程は問屋 制に依拠するととになっていたのであろう。そしてこの織元は織布と結わえま でを終九た半製品をレーデルにひきわたすことになっていたものと考えられ

このように見てくると,当時のラーケン織元は自家作業場で主に織布工程 とそれに付随する一部の工程(塗油,整経,糊付け)および除節を行なって いたようであり,刷毛, *jj糸の両工程は問屋制支配l乙依拠していたようであ 10)。織布後の縮減,染色,仕上げの諸工程はそれぞれ独立の業者に加工 を依願するか,商人や仕上工などに半製品のまま売って,それを腕入した者 が自分で加工するか,他l乙加工を依頼していた。これをすでに第3節でのべ た「初期のネーリング」における経営形態と比較してみると,そこには一つ の相違点がみとめられる。1"初期のネーリング」の場合,松元の自家作業坊 には主として仕上工程と一部の準備工程がみられたのに対して11) 乙のラー ケン織の場合には仕上工程が自家作業場では全く見あたらず,織布がその中 心になっていることであるO もちろんラーケン総菜の織元の自家作業場では 織布工程が中心といっても大規校な級機の集杭がみられたわけではなく,乙 の点でもレイデン特有の深刻な住宅不足が一つのネックになっていたことに

(14)

変りはない。

このようにラーケン織元の自家作業場ーに仕上工程がみあたらないというこ とは単なる lつの偶然ではなく,それはまたラーケン織栄の lつの特殊な手 情を反映するものであったのである。技術的にみて,ウステッド系の毛織物 からなる「初期のネーリング」の場合,仕上工程はあまり主~でなかったの に対して,純ウノレン製品たるラーケン織のi;L}合,製品の普し思しをきめるも のは仕上工程であり,そこでの付加価値はかなり大きかったのである。した がって普通の織元にとっては仕上工程を熟練した専門の仕上工にどうしても 依存しなければならなかった。しかもなおいっそう織元にとって都合の思い ことは,旧ラーケン松栄がほぼ限減した中にあって,中世以来のその仕上工 のみが依然としてギルド (ambacht)を形成して自らの独立を守っていたの であるO したがって彼らだけはネーリング制の外に立っていたわけである。

16世紀末にフラシドノレから新毛織物工業が伝えられた際に,これら旧ラー ケン織の仕上工は150人ほどいたが12) ,当初彼らが新毛織物工業とどのよう な関係をもっていたのかはよくわからない。 1583年と1596年の仕上工のギノレ

ド特許状はこの点について何ものべていない。しかし1646年のギノレド特許状 では彼らの取扱う毛織物の桓矧やその加工内容が第 1条ではっきりときめら れている13)。それによると彼らはラーケン織の起毛・Y1J毛・friseren,プレ ッツ織,カノレサーイ織,スタメット織の仕上げ,パーイ紘の friserenを担 当することになっているO おそらくこの間に旧ラーケン織の仕上工がフラン ドノレ伝来の新毛織物にいかにかかわるかが決定されたのであろうO ここで取 扱いが決められた毛織物はいずれもラーケン織ネーリングの成立以前にあっ てはパーイ級ネーリングに包括されていた毛織物であるから,彼らはまず最 初はパーイ織ネーリングと関係をもったことは確かであり,ラーケン織ネー リング成立後はそれとの関係が緊密になった口また技術的にみても旧ラーケ ン織の仕上工は旧式の仕上技術を温存しているいわゆる乾式仕上工(droog scheerders)であったのに対して,フランドノレ伝来の新ラーケン織の仕上工 は新しい湿式の仕上技術を使う仕上工(lakenbereiders)であった。両者が 関係、をもっ場合には当然そこに摩擦が予怨されるのであるが,それを釆り越

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