日本の近代製糸業とキリスト教精神
22
0
0
全文
(2)
(3)
。日本では,江戸時代を通して手挽きが一般的な製糸技術であった。18世紀末 に上州・奥州で座繰器械が発明されていたが,それが広く普及したのは横浜開港後であ る3)
1880年代に入ると,フランスの不況によってヨーロッパ市場が縮小し,欧州向け生糸 輸出は停滞した。一方,1870年代にはアメリカで,ヨーロッパから移住したイギリス 系やフランス系の熟練労働者による絹織物業が発展し,大衆向けの消費需要を対象とし た市場が拡大した。やがて日本はアメリカ向けの中下等糸4)
(6)
。明治12年(1879 年),精糸社に糸を持ち込む組(自家製糸による生産単位)が碓氷郡各地に設立されて 13組となり,安中市原に碓氷座繰精糸社の本社がおかれた。碓氷社は,明治30年代に なると,碓氷郡を越えて県外に組織を広げるようになった13)
(1885年)に星野光多から洗礼を受けた木桧仙太郎は,明治32年(1899年)に三国製糸 社を設立し,碓氷社三国組となった。また,吾妻の原町では, 吾妻精糸社長の山口六平 らにより吾妻教会が創設された15)
(9)
(10)
(11)
。郡是 において労働と 「修道教育」は一つの事業の表裏とされた。「表から見れば工場,裏か ら見れば学校」において工女を厳しく仕付けることによって「郡是人」が養成されたの である30)
。山形県の製糸 業史をまとめた森は,フランス向けの極上糸の生産のために, 女工の長期雇用と熟練を 土台とした経営と労務管理がなされ,さらにそれが購繭事情を介して特約養蚕農民との 関係に及んでゆくことにより,いわゆる女工哀史とは別の「もう一つの製糸業史」が形 成されていたことを論じている33)
(13)
「報徳とは人間の小徳をもって天の大徳に応えること,至誠はすべての基礎であり,こ れなしに事業の永続なく,職工と勤労をともにし,分度は倹約であり,推護は株主への 配当,従業員への賞与や教育,社会還元などを指す」として,報徳主義の実践を説い た37)
。享保期以後,盛んに 作られるようになった商家の家訓は,勤勉,倹約,孝行といった生活規範の遵守をイエ の没落を防ぐという経営の問題と結びつける思想に基づくものであった42)
(16)
(17)
(18)
「家庭」イデオロギーは,人々の「国民」として社会に編入していく役割を担ったとい われる55)
(20)
(21)
(22)
関連したドキュメント
はさゑ,ぞうきん,へら たちばさみ もめん糸 ぬい針,まち針,糸まき,安全か
このうち糸球体上皮細胞は高度に分化した終末 分化細胞であり,糸球体基底膜を外側から覆い かぶさるように存在する.
本実験には,すべて10週齢のWistar系雄性ラ ット(三共ラボラトリ)を用いた.絶食ラットは
19 世紀前半に進んだウクライナの民族アイデン ティティの形成過程を、 1830 年代から 1840
EUで非原産材料の糸から製織した綿製織物(第 52.08 項)を使用し、英国で生産した 男子用シャツ(第 62.05
手話の世界 手話のイメージ、必要性などを始めに学生に質問した。
彼らの九十パーセントが日本で生まれ育った二世三世であるということである︒このように長期間にわたって外国に
[r]