尾形光琳『歌仙図画稿』と国宝『松浦屏風』
との共通性についての考察
Consideration about the commonality between“Matsura-byoubu”
(national treasure)and Korin Ogata's“Kasenzu-gakou”.
小 田 茂 一
ODA Shigekazu
キーワード:松浦屏風 尾形光琳 歌仙図画稿 中村内蔵助像
図1 歌仙図画稿
図2 百人一首画稿 はじめに 江戸文化と尾形光琳
めぐまれた京都の商家に生まれ、公家社会との交流もあった尾形光琳(1658~1716年 万 治元~享保元年)にとって、和歌の世界での歴史上の人物たちの代表作による「歌合わせ」と して描写された「歌仙図」に親しむことは、江戸時代の教養人としては自然の成りゆきであっ た。尾形光琳から、酒井抱一(1761~1829年 宝暦11~文政11年)、伊藤若冲(1716~1800年
正 徳6~寛 政12年)へ と、江 戸 期 に お い て裕福な境遇に置かれていた画人たちは、そ れぞれの「歌仙図」を遺している。
光琳の画稿類や文書の一部は、「小西家旧 蔵資料」として受け継がれてきたが、ここに は『歌仙図画稿』(重文 京都国立博物館蔵)
(図1)とともに、『百人一首画稿』(京都国 立博物館蔵)(図2)が遺されている。
江戸幕府の開設以来、身に付けるべき文化 的素養や教養として和歌に重きが置かれ、社 会の各階層に広まった。(*1そしてさまざまな かたちで、歌人やその歌を紹介した「歌仙図」
が描かれ、世に広められることとなった。そ して慶長年間以来、「三十六人歌集」の類が 歌人たちの容貌とともに歌合わせの形式で描 かれ、さらに寛文年間に向けては、木版の出 版物とされる機会も多くなった。
万葉集の時代、古今和歌集の時代といった各時期の選りすぐりの歌人たち、すなわち歌仙た ちの歌合わせの光景は、代表歌とともに「三十六歌仙図」などとして、鎌倉期以降しばしば描 出されてきた。これら「歌仙図」では、人物描写の特徴として、斜め奥になる方の眼差しがよ うやく画面に見えている角度を向いた容貌として表出されている。またこのような、左右に振 り分けられ定型化された顔貌表現は、歌仙たちが歌合わせをおこなっているときの状態とし て、すなわちふたり一組で互いが向き合った構図として、定着している。
図3 松浦屏風 印刷されて広まった歌仙図にはたとえば、肉筆浮
世絵の祖、菱川師宣(1618~94(元和4~元禄7)年)
による『百人一首像讃抄』などがみられた。1678(延 宝6)年頃である。描かれる歌人たちの多くは、こ こでも斜め前方を向いた姿である。双方が互いに斜 め前方へ向き合った「歌合わせ」形式で描出された 歌人たちの類型的な図像構成は、とりわけ親しみ深 いものであった。「三十六歌仙図」などに親しみ、模 写をしたりしていくなかで、尾形光琳の表現にも「歌 合わせ」形式の「歌仙図」は反映されていく。
こうして光琳は『歌仙図画稿』を手がけることとなったのであるが、国宝『松浦屏風』(図 3)にもまた、顔の向きや体勢など人物配置において「歌仙図」のスタイルが活用されている。
1.「小西家旧蔵資料」画稿の面立ちは『松浦屏風』へ
小袖を纏っている女たちの面立ちをどのように表現するか。『松浦屏風』の作者は、この作 品にふさわしい表情の描写を模索した。そして、美しさを求めて尾形光琳が探究した画稿類に 見られる人物の容貌ときわめて近似性が強い面立ちや視線による『松浦屏風』の人物群像が描 出されている。
「小西家旧蔵資料」に遺る尾形光琳の『百人一首画稿』でも、「読み札」に描かれる歴史上の 歌人たちの容貌の多くは、奥になっている方の目がようやく見えているアングルになるような 斜め方向の視座から表出されている。たとえば、天智天皇から藤原敏行朝臣に至る18人の歌 人たちの「読み札」をまとめて並置している画稿では、真横向きに描き出されている11番目 の僧正遍昭を除く人物の容貌は、すべてが斜め前方から見た姿として捉えられている。光琳は 伝統を踏まえながら、画稿を構想した。正面性の強い視座から容貌を描くことをほとんどおこ なっていない。光琳流のステレオタイプな容貌は、独自の美意識に基づいて、筋肉が内面に詰 まったハリと生命感のある顔つきとして確立されたといえよう。またこのことは、同じ「小西 家旧蔵資料」の『歌仙図画稿』で、左右に並べて描かれているふたつの在原業平像の容貌に見 られる変容に知ることができる。
向かって右側画稿の在原業平像で光琳は、俵屋宗達を彷彿させるような顔貌として、業平を
表している。
伊年印のある屏風、すなわち俵屋宗達工房作の六曲一隻の『扇面散図屏風』(岡田美術館蔵)
には、さまざまな図像の描かれた40枚あまりの扇面が貼りつけられている。これらの図像に は、あわせて6人の歌仙が、それぞれの扇面に描かれている。この『扇面散図屏風』の第4扇 に描かれている歌仙像は、「小西家旧蔵資料」に遺る尾形光琳の画稿『在原業平像』にきわめ て似通っている。鎌倉時代に描かれた『時代不同歌合絵』(伝藤原為家)の一組「在原業平・
後京極摂政前太政大臣」(図4)といった「歌合絵」の業平像などにも見られる矢立てを背に した典型的な出で立ちの姿である。
図4 光琳は、『時代不同歌合絵』や伊年印の扇面の
ような業平像をベースに、独自の表情描写と描 線を付与していると考える。「小西家旧蔵資料」
の画稿『在原業平像』を描いた時点での光琳は、
未だとりわけ宗達の影響を受けているというわ けではなかったと考えるが、この容貌には、江 戸初期の画家たちに共通した人物像への意識が 強く反映されている。光琳もまたこの画稿の向
かって右側業平像を、『時代不同歌合絵』などの歴史資料をもとに描写していると考えられる。
そして光琳は、おそらくそこからあらためて、『歌仙図画稿』左側に描かれる業平像を手が けたのではなかろうか。この顔貌は、『佐野渡図』などへとつながる光琳独自の面立ちとして 表出されている。
2.『松浦屏風』の群像表現に反映する「歌合絵」の構図
尾形光琳は、「歌合絵」の向き合った左右一組による構図から、『松浦屏風』に見られる1対 1で向き合って反復する女性像へと展開させることを発想したのではなかったか。そして何組 かのペアが、『松浦屏風』画面全体の流れを構成するように配置されていったものと考える。
さらに、このとき同時に、『燕子花図屏風』を描くのに用いたと考えられている型紙による繰 り返しと同じような手法が活用されていると推察している。型紙の表面と裏面を使い、すなわ ち左右を反転させることによって、左右対称的な向き合った人物像による反復群像を構成して いるのではなかろうか。
このようなデッサン上の探求の結果として、温厚さのなかに力強い生命感のみなぎる面差し が、光琳の描く容貌に共通する特色となった。そしてこのことは、『松浦屏風』に描き出され ている14人の女性たちを描く視座とボリューム感として表出されている。三十六歌仙の画稿 など、多くの人物の容貌を描き続けていくなかで、尾形光琳が到達し得たこのような典型表現 は、『松浦屏風』の女たちの容姿にも反映されているというべきであろう。
また、『松浦屏風』の下描きされた遊女それぞれの顔貌の、眉、目、鼻や口もとの位置と描
線が何度も修正され、この結果として、作品として見られるような描写になっていることが、
1994~5年におこなわれた『松浦屏風』修復時の、透過光による裏面からの撮影調査によっ て明らかになった。(*2この事実から、作者は細部も含めて丁寧に描き込んだ下絵を完成させ て、これをもとに忠実に本画に取り組んでいるのではなく、構図の下描きをおこなった画面に、
彩色していくプロセスのなかで、各人に相応しい容貌を探り続けたことが推察できる。
『松浦屏風』の描き手は、画面全体への構想をもとに、各人物像の役割と意味づけをおこな い、しぐさを決め、美的バランスを意識しながら配置している。そしてこのとき、おのおのの 容貌に、丹念に繰り返して変更を加える一方で、手指などにはあまり描き直しを加えず、一本 の輪郭線により指先を描き出している。
すなわち『松浦屏風』の作者は、それぞれの人物像のしぐさや画面全体での位置関係をあら かじめ決めたうえで、直接大画面の制作に取りかかっているものの、この一方で、目鼻立ちに 何度も線を当てて丹念な修正を施している。このことは、作品に描かれている遊女たちには、
特定のモデルが存在していたことを想像させてくれる。そして、それぞれの遊女たちを特徴づ けている細部には、作者が自らのイメージを探っているようすをうかがい知ることができる。
『松浦屏風』の各人の面立ち、そして手指の描出など、画面細部の描写は、当時の著名な遊女、
しかも作者自身が見知っているを面差しを捉える眼、そして作者の内面から発せられた表現者 としてのオリジナリティが相まって表出されたものであることを示している。
3.『歌仙図』の伝統と顔向きの構成された光琳の群像
『歌仙図画稿』や『百人一首画稿』などを描くことを通じて群像表現における各人物の顔 の向きやしぐさによる伝統に裏づけられた画面構成法を獲得した尾形光琳が、『松浦屏風』を 描いたとすれば、この経験が美意識への大きな自信とよりどころとして、画面の描写に反映さ れているものと言えるのではなかろうか。作者は、このような検証を重ねた末に、確信を持っ て『松浦屏風』に見られるような独得の顔の向きやしぐさ、類型性の強い姿かたちを表出して いると考える。
尾形光琳が、作品に署名として「光琳」と記すようになったのは、『十二ヶ月歌意図屏風』に 見られるように、1692(元禄5)年以降とされている。この時期、名前を光琳と新たにする ことで、本格的に画家としてのスタートを切ろうとしたのである。このような経緯を示唆して くれる資料として、ちょうどこの時期に描かれたものと考えられる『歌仙図画稿』の在原業平 像の右上隅の余白部分には、何度も「光琳筆」の試し書きが遺されている。さまざまに字体を 変えたりする試みをおこなっていることからも、この「光琳筆」の字体は、1692年以降に描 かれた重要な作品のための練習と推察できる。そしてこの署名は、『歌仙図画稿』の、向かっ て右側の画稿業平像が描かれたのちに、ここに書き加えられたもののようにみえる。また、こ の筆跡は1704(宝永元)年に描かれた『中村内蔵助像』(大和文華館蔵)の落款文字と、筆遣 いなどと類似性がある。そして同時に、『燕子花図屏風』の落款ともきわめて近い筆遣いによ
る「光琳筆」と見ることができる。すなわち、「光琳筆」と記すためのこの練習は、作品『燕 子花図屏風』が描かれた時期におこなわれたと考えたい。すなわち筆跡は、1702年頃のもの である。
また『歌仙図画稿』に描かれている向かって左側の在原業平像や、その裏面の柿本人麻呂像、
また『秋好中宮侍女図』(個人蔵)の侍女像も、この『燕子花図屏風』に相前後して描かれた ものではなかろうか。そして同じ作者光琳によって、この延長線上で『松浦屏風』も手がけら れていると考えたい。
「光琳筆」という落款文字の試し書きがある同じ紙面には、輪郭線と目鼻口のみの小さな女 性像のデッサンが描き添えられている。この容貌は、『松浦屏風』の右隻8扇、座ってカルタ に興じる遊女の容貌にきわめて近い。『歌仙図画稿』として描かれたこれらのデッサンや、そ こに足されている「光琳筆」の試し書きは、『燕子花図屏風』の完成時点あるいはこの前後と 考えている。そして、輪郭線と目鼻口のみの『歌仙図画稿』の顔面デッサンは、『松浦屏風』を 描くに当たって、『歌仙図画稿』に描いてある容貌を参照しながら、このすぐ隣に遊女の顔貌 として試描したものであったのではなかろうか。『歌仙図画稿』に見られるこれらのデッサン はいずれも、こののちに描かれる光琳の作品へと取り込まれていくこととなった。たとえば、
『歌仙図画稿』の左側に描かれた在原業平像は、光琳の特質を強く示す容貌として、『佐野渡図』
へと結実していく。
4.『歌仙図画稿』の『松浦屏風』への具体的反映
「歌仙図」と「歌合絵」は江戸期においても、伝統のモチーフとして受け継がれている。尾 形光琳もまた、左右にわかれて歌合わせに臨んでいる歌仙たちの姿を思いながら描くこと、あ るいは画稿としてデッサンすることを通じて、新たな作品である群像の美人図表現『松浦屏風』
の構図を構想したのではなかろうか。
すなわち、光琳は『百人一首画稿』や『歌仙図画稿』などとして、歌仙たちを繰り返し描出 するなかから、斜め方向を向いた一人ひとりの容姿を一双の大画面に描く『松浦屏風』へと着 想したのではなかろうか。『松浦屏風』は、平安時代に藤原公任(966~1041年)により始め られたと伝えられる「三十六人撰」の伝統的な歌仙たちの顔貌を意識しながら、江戸時代の京 都で描かれたと考える。(*3
伝統の描写法を究めようと、尾形光琳は『百人一首画稿』や『歌仙図画稿』という習作に取 り組んでいる。ここに見られる光琳の筆遣いや描写法の特徴を『松浦屏風』と照合すれば、こ の作品もまた光琳の手によるのではないかと想像させてくれるに十分な近似点を見いだすこと ができる。
『松浦屏風』では、右隻に7人の遊女とひとりの禿(かむろ)、そして左隻には7人の遊女と ふたりの禿、ひとりの遣手(やりて)、合わせて18人の女性像が描かれている。そしていずれ の姿も、左右方向へ眼差しを向けこれに伴うしぐさをおこなっている。そして、描かれている
女性たちは、互いに目線を交わすように斜め前方を見つめ、相互の関係性を構築している。こ のように、『松浦屏風』は群像の単位を構成する手法と、顔貌を表出するという面からこれを 実現していくという点において、『歌仙図画稿』をベースに着想され描出されたと考えたい。
そして同時に、画面に配された人物のしぐさもいくつかのパターンへと集約され、これらを左 右反転させることや別の意味づけを付与することで、反復性を伴った画面構成として人物同士 の高い連関性を表出している。
また光琳は、『百人一首画稿』においても、類型性の高い斜めへの眼差しにより、大半の歌 人像を描き出している。『松浦屏風』に特徴的なこのような画面構成へのプロセスとして光琳 は、類型性が見られる百人の歌人たちそれぞれの伝統的描写法を踏まえながら『百人一首画稿』
を仕上げている。たとえば、『百人一首画稿』での、左方向への目線の歌人像と右方向への目 線の歌人像を、ひとつの物語を構成する一対の構図として統合し、独自のスタイルへと展開し た。そしてこのような画面構想法は、光琳の生涯にわたっての手法となっていく。左と右の一 対を向き合わせるという描き方は、同時にまた、このあとにおこなった俵屋宗達の「風神雷神 図屏風」を模写し、もう一枚の『風神雷神図』を描きだすことを経て、「紅白梅図屏風」の独 創的世界へと昇華されていくこととなる。
画面に描出されている人物や草花のあいだの空間、たゆたうような空気の層を生み出す光琳 独自のいわゆる「間」のある空間構成を成り立たせているのは、描写される事物の連関性、と りわけ眼差しとしぐさによってもたらされている動勢とその方向性なのではなかろうか。
5.「百人一首」に題材を採る雛形帖と光琳風の生成
元禄期前後になると、誂える小袖の図柄を決めるための顧客への見本、カタログとして、「雛 形帖」を盛んに活用するようになっている。雛形帖にまでも、『新編百人一首抄雛形』(1692
(元禄5)年)(*4のような、「百人一首」に題材を採ったデザイン集がいくつもみられるように なっていく。尾形光琳が「百人一首」の歌人像を習作したのは、こうした時期のことであった。
尾形光琳が在原業平を描いた「小西家旧蔵資料」の、右側の業平画稿の脇には、いくつもの
「光琳筆」の試し書きが見られる。そして、光琳が作品に「光琳筆」と「筆」の文字を含めて 記しているのは、いずれも17世紀末に描かれた数点かの作品に限られる。1701年になると、
法橋に叙せられたことで、たとえば『秋好中宮図』に見られるように「法橋光琳」と記してい る。また、業平像画稿紙面の「光琳筆」と同じように「筆」の終筆を撥ねているのは、『十二 ヶ月歌意図屏風』の作品群にとどまる。そして季節の植物を各月ごとに描いた『十二ヶ月歌意 図屏風』は、公家たちが光琳の描いた12枚の彩色画面に賛を加えた六曲一双の屏風である。
この12扇の画面うち、11扇に「光琳筆」の落款が入っているが、これらは「筆」の文字の 終筆を撥ねている試し書きでの特徴的な筆遣いにきわめて類似している。
いっときにいくつもの落款を記すに当たって光琳は、字体を確認するかのように、在原業平 を描いた画稿脇に繰り返し試し書きをおこなったのではなかろうか。この『十二ヶ月歌意図屏
風』は、光琳の作品としての最初期のものとされている。
そしてこの「小西家旧蔵資料」のふたつの業平画稿のうち右側の方のデッサンには、「光琳 筆」の試し書きとの紙面上での重なりが一部に見られる。右側の方の在原業平像画稿は、落款 の試し書きよりさらに早い時期に、たとえば『時代不同歌合絵』の一組「在原業平・後京極摂 政前太政大臣」といった「歌合絵」の業平像をお手本として模写することで描いたものではな かろうか。
『中村内蔵助像』(1704年)の落款になるとすでに、光琳の字体は、業平像画稿での試し書 き「光琳筆」からは変化している。しかし、『燕子花図屏風』の右左両隻に記されている落款 では、いまだ試し書きに近い筆遣いが用いられている。
このことから、在原業平像画稿に重ね書きされている「光琳筆」の字体は、17世紀末から1703 年にかけての、『燕子花図屏風』が描かれた時期の筆遣いとみることができる。
また、『十二ヶ月歌意図屏風』と「光琳筆」の試し書きの関連性から、「小西家旧蔵資料」の 業平像の画稿は、この作品の制作に相前後して描かれたものとみなすことが妥当ではと考え る。そして、「小西家旧蔵資料」に描かれている在原業平像の左側の方の画稿や、この裏面の 女性像画稿などの特徴ある容貌は、さらに5年以上の歳月をかけて、光琳風の面立ちを洗練さ せた表現である『中村内蔵助像』(1704年)へと至るのであった。
そして光琳が法橋に叙せられて間もない時期に『燕子花図屏風』が描かれたということを前 提にすれば、『松浦屏風』は1703年前後の作品と推定できるのではなかろうか。
「小西家旧蔵資料」の『百人一首画稿』に遺されている歌人たちの容貌には、光琳の筆遣いの 特徴が表出されている。そしてこのような容貌描写への修練を通して『松浦屏風』の遊女たち の面立ちは完成されたと言えよう。
また光琳風文様は、1712(正徳2)年の『新版風流雛形集成』あたりから相次いで雛形帖 に登場し始める。(*5そして、光琳没後の享保期になると、『光林雛形 わかみどり』(1727(享 保12)年 松坂屋京都染織参考館蔵)や『当世光林 新雛形名取川』(1734(享保19)年 松 坂屋京都染織参考館蔵)など、「光琳風」の図柄が雛形帖に編纂されていくこととなる。この ことは、光琳自身が生存時に小袖の文様に大きな関心を持ち、「雛形」にも携わっていた可能 性を示唆している。
人物・風俗画家としての視点から尾形光琳の作品を探っていくことで、これまで見落とされ ていた作品を明らかにし得るものと考えている。光琳の絵画は、のちの世の画家や工芸家たち に、造形の基準としての「琳派模様」を示し、これが継承されることを通じて大きな影響をも たらしてきた。そして、多様性ある作品のうち、とりわけ水流や草木、花鳥描写に着目させ、
図案としての価値をもたらすという傾向を生んだ。このように、世の人々が模様としての造形 性を通して光琳の世界にアプローチしていくという経緯は、光琳が描く肖像作品への関心を薄 めていく要因となったのではと推測する。
6.『松浦屏風』と転換期の光琳作品『中村内蔵助像』との共通性
『松浦屏風』に描かれる人物像には、身のこなしやしぐさに伴う小袖模様のゆがみが描き出 されていない。しかし、平面性が強く静的なこの表現法には、内にこめられる力が感じ取れる。
そして、『松浦屏風』の遊女たちの着衣の描写法は、制作年の確かな尾形光琳の作品『中村内 蔵助像』(1704(宝永元)年 大和文華館蔵)に見られる表現手法と共通している。
双方の作品ともに、着物の表面に生じる皺は、線によって図柄の上に描き加えられている。
そして皺を描出することによって、着衣の文様そのものが崩れるということなく、高い正面性 を保ったまま表現されている。こうした類似性により、『松浦屏風』の遊女たちの着衣の身ご ろ、そして袖の形状は、心血を注いで光琳が畏友・中村内蔵助を描いた作品『中村内蔵助像』
で表現している衣裳の袖のかたちなどにきわめて共通性が高い。
また内蔵助の表情、とりわけひたいなどの雰囲気、鼻筋の描線、口もと、さらには、からだ 全体から受ける雰囲気や微妙な動態感は、『松浦屏風』遊女たちの描写と近似点が多いものと なっている。そしてさらに、手の甲から反り返る指先に至る表現、バランスがとれて無駄のな い量感の面立ち、着衣の輪郭線もまた、『松浦屏風』の遊女たちに施されている描写上の特徴 と酷似している。
『中村内蔵助像』と『松浦屏風』というふたつの作品に描かれている人物像には、男性なの か女性なのかという大きな違い、そして、実在の人物を描いているのか、あるいはファッショ ン性を意識しながら華やかな小袖を纏う遊女を描いているのかといった差異がみられるもの の、両者の表現内容における共通点の大きさには注目すべきものがある。そして2枚の細部に おけるこのような類似点には、制作者の美意識を表現に結びつけることへのこだわりが反映さ れている。このふたつの作品が、今日ともに大和文華館に収蔵されていることも、単なる偶然 ではなく、強い近似性に対する収集者の強烈な嗜好性を感じ取ることができる。
光琳作とされる作品に、手足の先端が描かれていることは比較的少ないのであるが、たとえ ば「澗声」の丸印が押されている二曲一隻の作品『太公望図屏風』(重文 京都国立博物館蔵)
での、頬に指先を当てている太公望の小さめの手のひらの雰囲気には、『松浦屏風』に見られ る華奢な指先との共通性がみられる。また『太公望図屏風』には、『燕子花図屏風』や『秋好 中宮図』に近い筆遣いでの落款が記されていることから、この作品も18世紀に入ってそれほ ど年月を経ない時期に描かれた作品ということが推察できよう。
7.ひとつの画面に2重の視座を描出する『松浦屏風』
『松浦屏風』には、ひとつの画面のなかの視点の多重性がみられる。20世紀絵画のような、
輻輳する視座が取り入れられている。たとえば、同じ高さの目線から水平方向に広がる統一感 ある視点によって18人の女性像や遠景の双六盤が描かれているのに対して、画面手前の遊女 たちの足下に置かれている硯箱や煙草盆は俯瞰により上から見たように捉えられている。また 画面上部に折り畳まれている打掛は、衣紋掛けに懸けられたように正面から捉えられて描かれ
ている。『松浦屏風』の一双の画面では、このように一つの方向からの見え方にとどまらない 描写がおこなわれ、このことで、画面には張り詰めたような活気と凝縮された無駄のない空間 イメージがもたらされている。
描こうとする事物を、水平方向からと垂直方向からの90度異なっている視座で捉え、この ふたつの見え方によって、それぞれの対象物のかたちを画面に表出している『松浦屏風』の空 間構成法は、『中村内蔵助像』にも共通してみられる。
図5
『中村内蔵助像』では、内蔵助の前に一 本の扇子が置かれている。この扇子の描き 方は、『松浦屏風』の右隻3扇の手紙をした ためている遊女の横にある硯箱の描かれ方
や、右隻2扇の禿の前の懐紙に広げられた刻み煙草が入った盆の描かれ方にきわめて類似して いる。(図5)すなわち、硯も懐紙もともに、『中村内蔵助像』での内蔵助の膝先に置かれてい る扇子(図6)と同じように、その使い手の目線による見え方に則って表出されたと言える。
図6 すなわち『中村内蔵助像』の、俯瞰による扇子への眼差しと同様
の視線が、『松浦屏風』にも登場しているのである。返信としての文 を認めようとする遊女にとっての硯箱と同じように、扇は中村内蔵 助を表象するうえで、きわめて重要な事物、いわばアトリビュート としての働きを担っている。また、『松浦屏風』の女性たちの手前に は、硯や広げられた懐紙とともに、煙草の種火入れが描かれている。
しかしこれだけは、斜め横からの視座により捉えられている。
一枚の画面にみられるこのような視座の多重性は、西洋絵画では19
世紀末から20世紀にかけて、たとえばピカソのキュビスムなどにおける表現スタイルとして 普遍性を獲得している。『松浦屏風』や『中村内蔵助像』での、近景と遠景でのこのような視 座の二重性は、たとえばポール・セザンヌ(1839~1906年)の静物画『キッチンテーブル』(1888
~90年)といった作品で表出された多重視点による捉え方と高い類似性がある。『松浦屏風』
や『中村内蔵助像』の描き手は、セザンヌに2世紀も先駆けて、作者と描出対象との関係性を 踏まえた独自の空間構成プランに基づいて、一枚の画面のなかでのそれぞれの事物のかたちを 構築していると言えよう。
8.妍を競う光琳と『松浦屏風』
京都東山の円山公園界隈で、豪商など名だたる人々による会合が開かれた。中村内蔵助は、
妻女とともに参加することとなった。会合は、参加する妻室たちの「衣裳競べ」という側面も 持っていた。
内蔵助は、妻がどのような身仕度をしてこの場に臨むべきかを光琳に相談したとされる。こ の結果、中村内蔵助の妻は、高級な黒の羽二重を纏い、ごくシンプルに白と黒のいでたちで登
場したという。この東山での「衣裳競べ」のようすは、18世紀後半にまとめられた「翁草」に、
「黒羽二重の両面に、下には雲の如くなる白無垢を、幾重も重ね着し」と記されている。(*6 周りの女性たちの、妍を競うように華やかな色彩の小袖の氾濫のなかでの中村内蔵助の妻が 纏う黒と白の引き締まったシンプルさは、逆に大きなインパクトをもたらすこととなったので ある。これと併せて光琳は、内蔵助の妻の侍女には豪華な小袖を着させることで、黒羽二重の 光沢や品のよさを一層引き立てる演出をおこなっている。この「衣装競べ」のようすは、今も 京都三大祭りのひとつ「時代祭」で、時代風俗行列に取り込まれることで伝承されている。
このエピソードには、尾形光琳のスタイリストとして、また同時にプロデューサーとしての 才覚が、余すところなく発揮されている。色鮮やかで豪華な小袖を纏い妍を競っても、所詮は 際限がないということを光琳は伝えようとしたのではなかろうか。そして新興成金とは次元の 異なる美意識を可視化しようという判断に至る背景には、『松浦屏風』という華やかな小袖群 像を描いていた経験値も、大きく係わっているのではなかろうか。
光琳は『松浦屏風』を構想することを通して、競うかのように華麗なる流行ファッションを 纏うことへのはかなさ、華美を極めようとすることの限界を感じ取っていたのではなかろう か。すなわち、誰もが華麗さを競えば競うほど、互いが打ち消し合い、周りの風景に埋もれて しまうことを認識していたのである。尾形光琳の美意識は、『松浦屏風』の構想を通してさら に研ぎ澄まされ、逆転の発想に基づいて中村内蔵助へのこうした提案も生まれたと考える。
光琳の時代、江戸時代中期にさしかかる頃、文化面での京の繁栄はひとつの高みにあったと 想像する。そしてとりわけ人工美、創作美の世界では、今日につながる独自性、いわば「人体 の人工化」を育んでいた。(*7このような時代背景のなかで、とりわけその洗練された美意識を 象徴する存在が尾形光琳であった。
『松浦屏風』が制作されるにあたっても、その作者は、「人体の人工化」を強く意識したと考 える。作品の登場人物に現実のモデルが実在するかどうかに係わらず、描出されたのは理念型 としてのマネキンのように整った顔立ち、姿かたちであり、当時流行のファッションの粋であっ た。画面上に作者は、そのような元禄期の京の人工美の粋をファッションショーのように余す ことなく並べ立ててみせている。『松浦屏風』の画面は、「ピグマリオン美学」のルーツとなっ た。当時の人体美を、小袖を纏った人形のような姿かたちによって置き換え、美の典型として 見せたのが『松浦屏風』という類例のみられないスタイルによる表現となったのである。
その後近代に至って、マネキン製造は京都ならではの一大産業となっている。このことも、
こうした伝統と無関係ではない。これは文字通り、洗練度を極めた文化の延長線上に花開いた ものなのである。江戸初期の京都人の美意識をリードした大店呉服商「雁金屋」の3代目尾形 光琳は、『松浦屏風』を構想することによって、このような京都の粋を継承し、表象化させる こととなった。このことは、むろん偶然ではない。
注
1:1615(慶長20)年に公布された「禁中并(並びに)公家諸法度」の冒頭で、必須の教養 として和歌を奨励している。『禁中并公家諸法度』では、「1天子諸芸能之事、第一御学問 也、不学則不明古道、而能政致太平者未有之也、貞観政要明文也、寛平遺誡雖不窮経史、
可誦習群書治要云々、和歌自光孝天皇未絶、雖為綺語、我国習俗也、不可棄置云々、所載 禁秘抄、御習学専要候之事」と、特に和歌を取りあげ、その歴史を学ぶことを促している。
2:『松浦屏風修理報告特輯』「大和文華112号」(2005年3月) 関地久治
3:藤原公任により始められたと伝えられる「三十六人撰」は、36人それぞれの歌人名を特 定した初期の「歌仙図」であるとされている。(『三十六歌仙繪』森暢「新修日本絵巻物全 集19」1979 角川書店)
4:図録・小袖 江戸オートクチュール 2008 日本経済新聞社 p.232 旧松坂屋京都染織 参考館蔵
5:杉本欣久 京の町絵師・尾形光琳の意匠性と光琳文様-江戸時代の京都にみる淡雅の系 譜- 紀要『古文化研究』第7号 2008 黒川庫文化研究所
6:京都町奉行与力の神沢貞幹により記述された「翁草」(1772 明和9年)神沢貞幹論述 池辺義象校訂 五車楼書店 明治38~39年刊)の「内蔵介の世盛り」の項に記述がみら れる。
7:鷲田清一は、京文化の独自性を「人体の人工化」や「ピグマリオン美学」として捉えてい る。『京都の平熱』2013 講談社 p.95