『妖精の女王』における「正義」の概念(下)
小 紫 重 徳
(1985年9月28日受理)
Justice in 盛θFαθr θQueθπε(2)
Shigenori KoMuRAsAKI
(Recelved September 28,1985)
Abstract
In the Radigund episode, w血ich runs over the middle three cantos of the Legend of Justice, Spenser makes Britomart acquire the virtue of equity through her dreaming of the idol of Isis keeping a crocodile under her foot:The main point of the episode is that equity is a higher virtue ethico−politically,
though adversely politico−religiously. The concluding five cantos develop the idea of lustice in an abstruse manner,despitαof anlunfavorable reputation for the apparent sameness of the episodes which seems to pile up stereotyped conquests over unjust tyrants. Religion and piety, virtues worked out there simultaneously, are reinforced by conquering the idolatry of Souldan coupled with Adicia s injustice. The religious theme runs through the episodes fol.
Iowing it, especially of Belge and of Burbon and Flourdelis, while the virtue
of piety, though co皿cerr}ed with acts of religion, due obedience and reverence ゴ
toward昌God・fosters love of one s fatherland and respect to rightful au一 thority. These factors may demonstrate the awakening andgrowing of Protestant nationalis卑in Elizabethan England. The specific virtue embodied by Mercil.
la is mercy. Discriminated from pity, the virtue is exercised when a man suffers misfortunes which he does not deserve, and it is associated with
・ ,
vust ce i・th・t b・th are direct・d t・w・・d・an・ther pers・n. J・・tice,m・difi・d by
mercy and conducting religion and patriotism, culminates in the idea of peace Irena represents. Peace is the work of justice which directs religion and piety but only indirectly removing the obstacles to it. Peace is virtually caused bycharity.
V (承 前)
これまで考察の対象としてきたSir Sangliers, Pollente−Munera, Braggadocchioそして偽Flori一 mellの表象するところは,どちらかと言えば,概念的に明快な定義を許容する反正義の例であった。
そして,ArtegallとTalusによるそれらの反正義の克服の過程は,正義という「習態」と法という
「慣習」の公正さと規定性を顕示し,かつそのことが自然法則の有する自明の秩序正しさと自浄性 に立脚することを論証してきた。その意味で,以上の考察は,あまりに単純な二分法から生ずる誤 解を恐れずに言えば,アリストテレス的な,人間の倫理的自律性を楽観する倫理・政治的観点から
なされてきた,といえるのに対して,以下では,そうしたいわば自然学的正義観を前提としつつ,Radigund以降の各エピソードの寓意について,トマス的な,「注腸」(infusion)の概念までを視
野におく政治・宗教的視点から検討を試みることになる。「天秤の巨人」に対するArtegallの論駁やMarinellとFlorimellの結婚等においては,その程 度に差こそあれ,被造世界の位階性の現存,すなわち自然・宇宙における超時間的な秩序性の内在
が立証された。しかし,実はこうした自然的公正の存在証明自体,「自然」の自己完結性に根拠をと る議論をいずれは超出することは必定である。一例をあげれば,「天秤の巨人」のエピソードにおい て自然の善性の根拠としてArtegallによって引証される,創造主の「義き衡度」( goodly measure、V,ii,35),「天上的正義」( heauenly justice , V, ii,36)の概念が予示するように,「自然法」に関 する議論は,そこに因果性の考究が不可避である以上,究極的には神の「摂理」(providence)にま
で及ぶことは明らかだからである。だから,MarinellとFlorimellの祝婚のパジェントにおける自
然・宇宙の秩序的調和の顕現,あるいはAmidasとBracidas兄弟の争議に際して,その裁定の根拠として提示される,海という自然に不可視的に内在するダイナミズムの衡平の明証性にもかかわ
らず,Artegallが,自らの意志でRadigundに服従しておきながら,後にその屈辱を天の配剤の不
備に転嫁してはばからないことは(v,xi,41),いわば「自然的正義」の臨界を設定する意味を帯びていると考えられるのである。それゆえ,自然の現象的レヴェルでの公正さの検証は,自然の本質 的レヴェルでの公正さの覚知へと秩序づけられねばならず,従って我々もこれまで考察の対象とし
てきた,どちらかといえば外在的な自然的調和の観察から,自然がその「目的因」(final cause)と して神を指向するという事実の認識を踏まえた「公正」についての「目的論的な」(teleOlOgiCal)考 察へと視点を移さねばならない。女巨人族の女王RadigundへのArtegallの隷属は,一一般に考えられている程単純な「過失」では なし鯉少くとも,その「過失」は,Radigundの美貌に対する「正義」の情動の敗北であると同時
に,その「過失」に対する自らの責任の回避と天の配剤の不信にも認められるべきである裂5)っまり,Radigundへの屈従には弁解の余地なきものとしながらも,それは「天の仕業」であると言い逃れ るTerpineに対して,まだ破綻を知らない「正義」が,罪を犯してしまった者はその罪を天に帰す
るべきではないと説くのは当然としても,little had for his excuse to say,
But onely thus;Most haplesse well ye may Me iustly terme, that to this shame am brought,
And made the scorne of knighthod this same day.
But who can scape, what his owne fate hath wrought?
The worke of heauens will surpasseth humaine thought.
Right true:but faulty men vse oftentimes To attribute their folly vnto fate,
And lay on heauen the guilt of their owne crimes.(V, iv,27−28)
結果的には,ArtegallはTerpineの犯した過誤の轍を踏むのみならず,かつて自らがいましめた弁
明をくり返してはばからない。「 aut witnesse vnto me, ye heauens, that know How cleare I am from blame of this邸pbraide:
For ye into like thraldome me did throw,
And kept from complishing the faith, which I did owe.(V, xi,41)
「正義の騎士」には,「自然」の見かけの秩序性を観ることができても,その原因と意味の洞察にま
でにはまだ至っていないのである それまでArtegal1にとって自明であったはずの事実,つまり
「自然の法則」の公正さとして,あるいは自然界の合目的性の内に把握される「配剤」の実在の認 識は,かならずしもそれへの疑念を容れる余地のない程確固たるものではなかったのである。その
ごとは,「善」への獲得のはたらきかけを本質とする倫理徳である「正義」についていえば,その徳 の「作用因」(efficient cause)たる「意志」に対して原因として概念的に先行する「善」の本質洞
察が不充分であることを意味し,それは正義という徳性の十全な発効をさまたげることになる。
Applying with dexterity the Aristotelean doctrine of the fouτcauses, St.
Thomas insists that both intellect and will make a necessary causal contrir bution, and that neither is sufficient of itself to constitute a perfected act of free−choice. After all, an efficient cause(the will)can cause only in view of a final cause(the good). But only the practical intellect is able to ap一 prehend the good according to reason that moves the will as its final cause. Then, since the final cause is first in the order of causes, the intel一 lect must be said to be_even in ethics−simply superior to the will, and the
will superior only in a certain respect...;and this despite the fact that in the latter is found the very summit of libertyl 76)
そうしてみると,Radigundのエピソードにおいて露見する「正義の騎士」の洞察の不備が何に起
因するかが「正義」の完成の寓意の解釈の鍵となる。さて,ArtegallのRadigundに対する敗北と隷属の経緯は,「正義の物語」の中心的エピソード
として観た場合,「正義」の座折の主要因として,まず「意志」のはたらきに注目せねばならない
だろう。Artegallは,その神話的原型であるHerculesの轍を踏んで17)婚約者Britomartの存在に
もかかわらず,Radigundの色香に迷い,自らの意志で,つまり「屈服させられたのではなく,彼自身 の同意をもって彼女に身を委ね」( not ouercome,/But to her yeelded of his owp accord, V,v,17),「正義の鎧」を薄衣に替え,糸紡ぎにいそしむことに問題の一つの本質を観るべきである。「正義の
騎士」にとって,意志選択が正しくない以上 正義という倫理的徳性の作用因が正しく作用してい ないことになるからである。たとえば,Artegallは,女巨人族の営む共同体の支配的原理である情
動的女性原理を受容せねばならないのであるが,トマスの言うように,共同体の基礎構造である「家庭」において,既に男性原理の優越の必要性は自明である。
...she[a wife]is part of her husband, since she is cherished by him as his own body...She is gathered into a society, that of the social life of
78)
ma「「lage・
従って,女性原理による家庭支配は「家庭的公正」( domestic right )を欠ぎ1)正義に反すること になることは言うまでもない。
しかしながら,他方,Radigund自身の女性原理の優越を誇示しての行動様式も,それ自体反正
義の一つの類型と見倣さねばならない。そして彼女の情動に関して,20に迫る頻度で「傲慢」(pride)に言及されることからも明らかなように受o)彼女の表象する反正義は「傲慢」に淵源する。
その場合の「傲慢」は,「あらゆる罪の根源」( the beginning of all画n )81)として「普偏的な罪」
(・ageneral Sin・)82)たると同時に,さらに個別的な局面で正義に背反する罪であることがわかる。
トマスによれば,「傲慢」は,同等ではないものの不公正な平等化にほかならない。
_.since the equality of justice is a proportional one, unequals must be
maintained in inequality precisely to preserve the order of true justice..。. ,
The pride(s雌pθrb α)involved is first and foremost an excessive or inequi.
table equalization, or attempted equalization, of unequals−as when Lucifer or Adam desired to be as God, knowing good and evil§3)
「天秤の巨人」の誤謬に観たように,正義が宗とする「平等」は本来「比例配分的」(proportional)
なものであって字義通りの意味で,つまり「算術的」な意味では成立しない。ましてや,女性原理
が男性原理を越えて立つことは正義に背馳するのである。さて,上では「家庭」という共同体を例にとって「家庭的公正」に背馳する「意志」に「正義」
の作用の不完全性の原因を認めたのであるが,我々がRadigundのエピソードのより本質的な寓意
把握のためにその要件として読み取るべきは,「共通善の追求」に関しては家庭よりもさらに高次の組織単位である国家における「共通善」の正しい認識という問題である。一般に,家父長制文化圏にお いては,親への「孝」という人間に自然的な感情は,それ自体倫理的規範化してゆくのみならず,
やがて「父性」の比喩を媒介として,「祖国」(fatherland)への「忠誠」へ,さらに「父なる神」
への「畏怖」へと拡大敷術させられてゆくことは必然であるかもしれない。
Indebtedness to others arises in a variety of ways matching their own supe一 riority and the diverse benefits received from them. On both counts God
holds first place;he is both absolutely supreme and the first source of our existence and progress through life. Next, on the basis of birth and up一 bringing, parents and country are the closest sources of our existence and development;as a consequence everyone is indebted first of all under God to his parents and his fatherlandi摯)
ここにみるかぎり,そしてpiety(Ptetas)という語が上記三様の意味を語義として包摂するよう 匿
ノ,これら三概念はごく本質的なレヴェルで同質性を帯びているのである。それゆえに,少くとも
「家庭」と「国家」が,比喩的に,というよりはむしろ字義的に,置換可能なのは当然なのである。
そうしてみると,Radigundによる男権躁躍は,単なる家庭的現象であるにとどまらず,そこに国
家的な規模でも,何らかの事象をその寓意として孕んでいても不思議ではない。 ・
ArtegallをはじあとするGlorianaの「処女騎士団」の面々がRadigundから受ける屈辱的支配 が「正義の物語」の一つのクライマックスとして配置されていることには,およそ次のような理由が あるように思われる。つまり,当時アーマダ艦隊を撃退して(1588)国家としてのまとまりをみせ,
海外に飛躍しようとするイギリスに君臨していたエリザベス女王の国家統治権と海外政策の正当化を決
定的なものにするためには,エリザベスの姉メアリ女王を失政を契機としてあらたに議論を喚起した
とはいえ古くから慣習として定着をみていた女性君主による統治権否認の風潮をある程度緩和して おかねばならないという事情である。たとえば,その本来の意図が,カトリックを信奉する先のメ アリ女王と,当時のカトリック陣営の主導者であり後のスコットランド女王メアリ・ステユアート
(Mary Stuart)の母であるメアリ・オヴ・ギーズ(Mary of Guise)に対する非難・攻撃にあると はいえ,ノックス(John Knox)の7先εF rs BZαsεoノ んθTrωπLPε αgαεηsε んεMoπsεroωs Rθgεmθπε0/WOπ診飢は,カトリック,プロテスタントにかかわらず,いかなる女性統治者の存在 をも断固たる調子で否定している。
Wonder it is, the amongst so many pregnant wits as the Isle of Great Brit一 ain hath produced, so many godly and zealous preachers as England・did sometime nourish, and amongst so many learned and men of grave judg一 ment, as this day by Jezebel[Queen Mary]are exiled, none is found so stout of courage, so faithful to God, nor loving to their native country, that they dare admonish the inhabitants of that Isle how abominable before God is the empire or rule of a wicked woman, yea of a traitoress and bastard....
[To allow any woman to rule is]repugnant to nature, contumely to God...
and finally it i、 the subversi。n。f g。。d。,d,・,・f・ll・q・ity and j・・tice劉
ノックスによって,女性による統治の本質規定として打ち出される「自然への背反」は,スペンサー
の寓喩の一環としては,Radigundの巨躯として暗示されるところであり,また字義的には「賢明
なる自然が彼女たちを強くいましめていた慎み深いきずな」( the shamefast band,/With which wise Nature did them strongly bind , V, v,25)の廃棄と同義であると考えて良いであろう。要するに,ArtegallがRadigundに服従することは,「正義」を体現するべき者として,彼が自らの 本質である「力」(virtue)を「反自然的」な,つまり「善」たり得ず,まして「共通善」たり得な いものの追求のために濫用することを物語っている。「正義」は「意志」による選択の是否以前の問 題として,その対象を見誤ったのである。「正義」がRadigundの「法」( law ,V, iv,49;v,22,
41; doome , V,v,41)に資することは,上でノックスの言う「自然に背反し」,「神の冒漬」であ り,「正しい秩序と全ての衡平と正義の転覆」以外の何ものでもない。このように,「正義」自身,
女性原理に基づく「法」を受け容れてしまった以上,「正義の僕」であり,かつ「法の番人」である
TalusがArtegallから離反するのは当然である。
th heapes of those, which he did wound and slay,
Besides the rest dismayd, might not be nombred:
Yet all that while he would not once assay,
To reskew his owne Lord, but thought it just t obay.(V, v,19)
何故ならば,「正義」が「悪法」を是とするところには,「真の法」が守るべき「真の正義」はない からである。
VI
Radigundの束縛からArtegallを解放する役割をArtegallの許婚者に割振るという物語の趣向
は,一面では,ごく一般的な男女関係の一例として,ArtegallとBritomartが将来営むであろう 家庭においてあるべき秩序関係の確立のために,BritomartがRadigundの象徴する女性原理が自 らにも潜在することを認識し,それを克服する必要性のあることを明示している。たとえば,チー
ニィーの,そのBritomartの「自身に内なる力」( forces within herself )を「アマゾンによっ て表わされる方向を誤った欲望」( the misdirected lust represented by the Amazon )そして「濫用された女性の自由」( the usurped liberty of women )とする解釈には相当の説得力が認 められるだろう磐6)
しかし,「正義の物語」により本質的な寓意の脈絡をたどれば,GlorianaやMercillaと並んで Britomartがエリザベス女王の一つの側面を具現している以上,彼女とArtegallの関係の寓意と して,エリザベスの私的な結婚生活の理想にとどまらず,女王としてとるべき公的な立場にかかわ る理念を読み取らねばならない。言うまでもなく,女王という存在をめぐる議論は,必然的に前述 の「女性統治者問題」にかかわってくるのであるが,この問題に関してスペンサーは,基本的には
一mックスの考えを一般論として継承しながら,いくつかの条件を付しつつ,物語を,既に安定をみ ていた女王統治下の時勢に適合させるのである。具体的には,女性統治者問題に関してスペンサーが ノックスと異なる展開を示すのは,ノックスが自然の法と神の義に背馳するときめつけた,国家的
レヴェルにおける女性原理による支配の害悪を認めつつ,その害悪を実に女性自身の手によって取
り除く可能性,すなわち男性原理の復権を実現する可能性,を示唆する点においてである。しかし,その可能性はBritomartの「自己」の超克の上に成り立つことは前述の如くであるが,ここではさ らに,その「自己の超克」を可能ならしめるのは何であるかをつきとめねばならない。
ArtegallとBritomartの関係の一つの相として看過してはならないのは, f正義の物語」に関す る限り,それが「正義」に対する「衡平」の関係として設定されていることである。
Well therefore did the antique world inuent,
That Iustice was a God of soueraine grace,
And altars vnto him,舳and temples lent,
And heauenly honours in the highest place;
Calling him great O8ッrε8,0f the race._
His wife was 1おε8, whom they likewise made AGoddesse of great powre and souerainty,
And in her person cunningly did shade
That part of Iustice, which is Equity,(V, vii,2−3)
物語の筋からみて,BritomartがRadigundを討伐してArtegallとの関係を修復する直前にrIsis の宮」のエピソードが挿入されていることは,「正義」がその形成過程において,Isisの像の体視す る「衡平」を必要とするとスペンサーが考えていることを反映している。そしてその場合問題となるの は,「正義」と「衡平」の概念的上下関係である。というのは,Isisに仕える祭司によって正義神Osiris であることが解き明かされる「わに」(v,vii,22)と,それを足下に制するIsis像には,その状態
が無条件的に両者の本質的な関係を示しているのか,それとも何らかの条件下で成り立つ関係を表 わしているのか,必ずしも明らかになされていないからである。この点については,スペンサー研 究家たちの間で様々な議論をみてきているが,一方ではカーモード(Frank Kermode)のように,
イギリスの法制史上の事実として,16世紀におけるコモン・ローに対する大法官府や星室庁の「衡
平」と「良心」に基づく大権の超越の事実を指摘・強調し,That Elizabethan England was conscious of a double standard in law is sug一 gested by the contemporary debate on English equity....The prerogative courts, esp㏄ially those of Chancery and Star Chamber, represented the queen s justice independent of the common law courts. The Chancellor in Chancery was not bound by common law precedent but by equity and con.
science....The positive function of the Court was to remedy injustices that had no remedy in common law§7)
スペンサーが称揚するのは,実は「正義」に「優る部分」である「衡平」だとする見解がある。
_What he then celebrates is not Justice but Equity− that part of Iustice,
which is Equity ;and in the end he wiU show it to be the better part声)
それに対して,ノーンバーグやフレッチャーは,「衡平」の「正義」に対する補正的機能に限ってそ の優位を認め,「衡平」は飽くまで「正義の部分」というスペンサー自身の言表を重視する。
The dominion of equity especially will concern us here, for justice is served only if this dominion qualifies and rationalizes the others. Equitz in fact,
is the art or second natur♂of justice, which corr㏄ts and justifies all the preestablished social orders that make up a kind of first natureβ9)
これらの一見互いに組酷するかにみえる両見解は,カーモードの,「部分」が「全体」に優るという
主張は論外としても,実は見かけ程考え方において隔っているわけではない。議論の支葉末節を捨 象すれば,問題は「正義」の意味する範囲にある。トマスによれば,まず第一に,衡平は「最も広
義での正義の部分」( apart of justice taken in the widest sense )である含o)たとえば,原罪以前の状態では,神命を人間理性によって会得し,その内容を人間の言語を用いて立法化する必要は なく,そこでは衡平の介在なしに原正義を享受することが可能であった。しかし,神のことばが直 ● レ人間に許されなくなった原罪以後,衡平は神の意志の「解釈」として介在し,しかもそれは「正
● ● ● ● ● ■
̀のある形態,つまり法の字句を遵守する法的正義よりも優る。」( εSわθεεθr痂αηSO隅θ∫omLS O∫
ルsε oθ,i.e. a Iegal justice that observes the letter of the law. )91)要するに,「正義」の意味領域
に自然法や永遠法(eternal law)あるいは神法(divine law)を含めるか,それとも実定法と人定
法に限って認めるかによって,衡平が正義に包摂されるか,あるいはそれを超出するかがおのずと
決定されるのである。従ってIsisのエピソードから読み取ることができることは, Isisは「衡平」を,そして彼女が足下に鎮めている「わに」は「法的正義」を体現しているということである。
「わに1の体現する法的正義は,Isisの治めるところを襲う嵐と劫火を鎮ある力と「衡平」それ
自体をも飲み込む程の暴力的な力を兼ね備えている92)And gaping greedy wide, did streight deuoure Both flames and tempest:with which growen great,
And swolne with pride of his owne peerelesse powre,
He gan to threaten her likewise to eat;
But that the Goddesse with her rod him backe did beat.(V, vii,15)
法の遵守を強制する法的正義の規範法則性は,社会的諸関係を秩序づける反面,時にはキケロ(Ci一 cero)の「最高の正義は最高の不正義」(summum jus, summa injuria)という逆説的箴言が洞察 しているように曾3)衡平というそれ自体の規範・規準すらも左右してはばからない危険性をも孕むの
である。前述のような「良心」としての衡平論が持ち出されるのはまさにこの危険の可能性を視野
に入れる時にほかならないのであるが,その「危険性」とは,具体的には,法が「一般的」すぎる
ために個別的事例に際して「不備な」点である。...while the equitable is just, and is superior to one sort of justice, it is
not superior to absolute justice,1)ut only to the error due to its absolute statement. This is the essential nature of the equitable:it is a rectification of law where law is defective because of its generality3Dそうしてみると,スペンサーがrlsisの宮」のエピソードに託した意図の一半は,「天秤の巨人」や Pollente−Munera父娘にみせた,徴罰主義に基づく苛烈とも思える正義観がキケロ流の逆説的正義 観に乗ぜられるのを未然に防ぐことにあったという推論が成り立つかもしれない。そしてその危惧
は,こめ物語の巻末のEnuy(妬み)とDetraction(中傷)の出現によって現実のものとなるのであるが。
ここで,上述のような正義と衡平の関係,つまり衡平は,自然本性的に正しいものに照らして法
的に正しいことを判定するという意味でρ5)法的正義の規準である,という関係を前提として,さらに法というものはすべての個別的事例について規定することができないがゆえに,衡平は,特例に 際して正義と公益に反する法の適用を差し控えることをも意味するに至ることになる。
_.in these and similar cases to follow the word of law would be an evil;
good to follow what the meaning of justice and the public good demand,
letting the letter of the law be set asideドEpieikeia−we call it equity−is addressed to this end and so clearly is a virtue.96)
しかしこのような衡平による裁量権は,「統治者の裁定なしには」( without d㏄ision ofthe rulerカ)
何人にも権限として認められないことを忘れてはならない97)
このような観点に立てば,法的正義は,統治者の正しい認識判断を必須条件とすることは自明で
あろう。そして統治者は,自ら「知慮」による判断の結果に市民を従わせねばならない含8)つまり統 治者は市民を従わせる意志をもって,9①市民は自由意志による服従をもって,共に「意志的に」共通 善を欲求せねばならないのである聖)正義は,こうした衡平をその主要な部分とする以上,それ自体,その主体の認識的・倫理的自律性を前提とすることになる。
そこで,我々がIsisと「わに」との関係の寓意の一つとして検証するべきは, Britomartの表象 するエリザベス女王とその将来の夫君となるべき臣下の立つべき関係について為政者として有すべ き認識的・倫理的自律性の理念である。すなわち,それは,君主と臣下の関係は,前者による後者 の統治と後者による前者への奉仕と敬愛を本質とせねばならないという論理である。
that same Crocodile doth represent
The righteous Knight, that is thy faithfull louer,
I」ike to Os:ソr s in all iust endeuer.
For that same Crocodile Osッrεs is,
That vnder 1台εs feete doth sleepe for euer:
To shew that clemence oft in things amis,
Restraines those sterne behests, and cruell doomes of his.
That Knight shall all the troublous stormes asswage,
And raging flames, that many foes shall reare,
To hinder thee from the iust heritage
Of thy sires Crowne, and from thy countrey deare.(V, vii,22−3)
しかし,統治する者は,臣下の身を挺しての忠誠を受容するだけでなく,それに対して慈愛をもっ て応えねばならない。とりわけ女性君主の臣下への返礼は,宮廷恋愛の伝統を引合いに出すまでも なく,臣下の求愛の受諾という表現形式をとることはあながち不自然ではない。
Then shalt thou take him to thy loued dere,
And ioyne in equall portion of thy realme.
And afterwards a sonne to him shalt beare,
That Hon−like shall his powre extreame.
So blesse thee God, and giue thee ioyance of thy dreame.(V, vii,23)
以上を踏まえれば,BritomartによるArtegallのRadigundからの救出の寓意は,女性君主に
対して滅私的服従に徹する臣下の忠誠は君主の愛情をもって応えられるべきことを内容としている ことがわかる。男女両性原理の転倒の上に成立する国家的レヴェルにおける主従関係の矛盾は,日
常生活レヴェルの男女関係として解消されるのである。she[Britomart]there as Princess rained,
And changing all that forme of common wea王e,
The liberty of wσmen did repeale,
Which they had long vsurpt;and them restoring To mens subiection,did true Iustice deale:(V, vii,42)
さらに,Britomart自身についていえば,巨人女族の女王の象徴する,あらゆる徳の障碍として
の「傲慢」を自らのものとして打ち砕くことによって,「謙譲」(humility)の徳を獲得し,自らの倫理的自律性を確立する。このことは,Britomartの表象する「衡平」がゆるぎないものとなり,
Artegallの「正義」の完成の条件は充足したことを意味する。いわばBritomartが,かつでRadi一 gundに隷属していた騎士たちにArtegallへの忠誠を誓わせることは,まさにその「正義」が回復
したことの寓喩的説明にほかならない。
For all those Knights, which long in captiue shade
Had shrowded bene, she[Britomart]did from thraldome free;
And magistrates of all that city ma冠e,
And gaue to them great liuing and large fee:
And that they should for euer faithfull bee,
Made them sweare fealty to Ar εgαZZ.
Who when him selfe now well recur d did see,
He purposd to proceed, what so、be fall,
Vppon his first aduenture, which him forth did call,(V, vii,43)
いわば,Britomartによって確立された衡平はArtegallの「正義iに接合されたのであり,そこで
正義は倫理徳としては一応の完成をみたといえよう・。、 Vll
「正義の物語」が一般にこうむっている不評については序章で紹介したとおりであるが,オコン ネルの場合は,とりわけこの巻の欠陥を第8篇以降の内容上・構成上の不備に帰している。つまり,
彼によれば,そこでは各エピソードはその基本的同一性のゆえに「正義の理念」の十全の仕上げに
資しておらず,実在の「圧政者たち」についての単なる歴史的記述に終始しているという碧1)しかしながら,この種の非難は,その理解が「歴史性」という仮象の内奥に脈絡を持つ隠微な寓意の層ま で堀り下げられていないことを暴露するのみである。というのは,第5巻の最後の5篇においてこ そ,正義は徳としてあらたな局面において展開をみせているからである。そしてそのあらたな局面 とは,ArtegallがBritomartに再会し,彼女の「衡平」を体得したことによって拓かれるのであり,
その具体的効果はAdicia(凌δ κ!α)という「不正義」に助長されるSouldanの「圧制」・「暴政」
の克服として結実する。
Souldan・Adicia討伐の寓意は,一見したところでは単純にして平板であることは確かである。
To all which cruell tyranny they say,
He is prouokt, and stird vp day and night By his bad wife. that hight Ad dα,
Who counsels him through confidence of might,
To breake all bonds of law, and rules of right,
For she her selfe professeth mortal foe To Iustice, and against her still doth fight,
Working to all, that loue her, deadly woe,
And making all her Knights and people to doe so.(V, viii,20)
そして,既にみたように,衡平を形質として獲得し,倫理的自律性を確立した「正義」にとって,
法的正義を逸脱し,「不正義」に淫する「圧制」は,それ自体もはやさほど難敵ではないはずである。
にもかかわらず,圧政者Souldanは「正義の騎士」の征伐するところとはならず,その任はr妖精
の女王』の主人公Arthurに割り振られる。その理由は,おそらく,Souldanの反正義性が「宗教」
という徳性にかかわり,その徳自体,正義という,より包括的な徳に包摂されることは確かだとして む92)究極的には,「宗教」が正義という一倫理徳を概念的に越えた「信仰」(faith)という対神徳
にかかわらざるを得ないからであろう。多分,そのことがSouldan−Adiciaのエピソードにあって Artegallの役割が副次的で, Arthurの勝利の確認とSouldanの異教的ないしは異端的弊害が払拭
された後の事態の正常化に限られていることの理由である。Then caused he[Artegall]the gates be opened wyde,
And there the Prince, as victour of that day,
With tryumph entertayn s and glorifyde,
Presenting him with all the rich array,
And roiall pompe, which there long hidden lay,
Purchast through lawlesse powre and tortious wrong
Of that proud Souldan, whom he earst did slay.(V, viii,51)
さて,「正義の物語」に含まれる宗教的寓意の解釈については,まだ充分議論の深まりをみていな
いようであるが,Samientを追跡するSouldanの二人の部下が「異教徒」( Paynims V,vii,11)
であることや, Souldan が sultan の転託ともとれることは,イベリア半島のイスラム化の歴 史とスペインとローマ・カトリック教会の親近性の事実を観念的に結合し,その結果,ローマ教会
の「異教(端)性」をこのエピソードの主要な寓意として浮上させるだろう。たとえば,ノーンバーグはSouldanの行動様式に当時のカトリック同盟諸国の宗主国スペインのプロテスタント諸国に対 する諸々の干渉をはっきりと寓意として読み取っている。
...in the civic context of Book V, the defended body becomes various territorial and political integrities, but more especially Protestant England
in opposition to the alliance of Spain and Rome. In the historical allegory the Soldan s chariot represents the Armada;thus the victorious prince must be the maritime Arthur....103)
このように,「宗教的正義」に議論が及ぶ時,正義という徳性は,倫理的四徳目相互間の孤立系内で,
いわば倫理的自律性を究極の目的として完成すると考えることは困難となり,そこには「信仰」が 目的因的に関与することを認めざるを得なくなるのである。そうしてみると,この局面でArtegall は,「正義」として「一つの」完成段階にあるといえ,Souldanの「反正義」に関与することはでき ても,それを独力で克服することは不可能である。それは,第2巻の「節度の物語」で,その巻の 主人公Guyonではなく,Arthurが七大罪を体現するMalegerを撃退するのと同じ理由で, Arthur
に委ねられねばならないのである。チーニィも気付いているように,ここに至って,スペンサーの
提示しようとする正義の概念は,人間本性をも含めた「自然」を超出するかにみえるのである。
Certainly it給not sufficient to say that the natural virture of Justice一 or of Temperance−has now reached its limits, and that Grace, through the agency of Arthur, must appear on the scene. The action of Book V remains within the order of Nature:its purpiew remains the world of political ac一 tivity. But Spenser s presentation of Justice has progressed far beyond the period of Artegall s education in the forests, where he had practiced on the wild幡t、・With w,。ngfull p。w,e。PP・essi・g・thers・f th・i・ki・d.・1°4)
このような,Artegal1にとってArthurの介入そのものを「恩寵」とする解釈や,ノーンバーグの,
Arthur自身にとって,その盾が「神の摂理の介入」( an intervention of divine providenoe )で あるとする解釈は}05)人間という自然的存在に対して神による「注賜」(infusion)の可能性を強調
しているのである。 .
ここで改めて正義の本質が何であるかを確認しておくとすれば,それは「人が他に負うている恩
義に対して十二分に報いることにある」( consists in fully rendering to another the debt owedhim )轡)してみれば,人類がその存在を神に負うている以上,人間の報い返すべき相手は,たとえ
その報恩が決して「十二分に」とはいかないにしても,神が最初にして最大であり,この神と人と の間の貸し借りの均衡が正義の概念に包含されることは必然であろう。そして,それが「敬神」・
「畏怖」(piety)の徳なのである。従ってその徳の外的な表明である「宗教」は「正義の潜在的な
部分である,何故ならば……それは人間が神と呼ぶ,より上位の存在に奉仕と儀式を捧げること 8
だからである。」( religion is a potential part of justice, because...: εco船 s 8ぬrθηdθr ㎎・
8θrひ Cθαηdcεrθ襯0厩αZrε εSωsomε8μρθr orわθ η8暁α ㎜επCαZZd び 麗!)107)こうしてみる
と,次に引くさりげない一節が,スペンサーの,正義という徳の成就には「宗教」という徳が不可
欠である,という重要な主張を伝達していることがわかるだろう。[Souldan]neither hath religion nor fay,
But makes his God of his vngodly pelfe,
And Idols serues;so let his Idols serue the elfe.(V, viii,19)
ただし,注意すべきは,・スペンサーが無雑作に並記する「宗教」( religion )と「信仰」( fay )
は明確に弁別されねばならないという点である。端的にいえば,両概念は神に対して立つ関係にお いて異なるのである。つまり,正義という倫理徳を構成する「宗教」という徳性は,神を「目的」
とはしても,その「対象」とすることはしないのに対して,対神徳に数えられる「信仰」は,神と
いう「究極目的」を「対象」とする。いわば,「宗教」は「信仰」の一つの表現手段にすぎない。...God is related to the virtue of religion not as its object or matter but as its end. Consequently, religion is not one of the theological virtues,
whose object is the last end, but one of the moral virtues, whose objects are the means to the last end∫08)
112 茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)35号(1986)
@ 旧
以上の考察から,Adiciaの「不正義」に追従するSouldanの「暴政」と「反宗教1という,若
干性質の異なる二つの反正義的要素は「正義の物語」の樟尾を飾る二つのエピソードの主題として
もさらに詳細な分析を待つのであるが,それらの反正義,とりわけ「反宗教」の概念的ふくらみに
対処するためには,まずMercillaの存在を正義の完成の一一つの有力な基準として把握しておかねば ならない。ArtegallとArthurがMercillaの宮廷へ向かう途上でGuyle(策略)とも称されるMalengin(好 策)を退けねばならないことは(V,ix),BritomartがrIsisの宮」への途上でDolon(策謀)
一語源的にはラテン語のdoZαsつまりguileの屈折形で,その本質は文字通り「欺購と策略に満ちて
いる」( full of fraud and guile , V, vi,33)のである一の館を避けて通ることができなかったことと,寓意の上ではほぼ同義であろう。このことは,当然ながら,Isisの象徴する衡平にしても,
Mercillaの象徴する「慈悲」にしても,悪用されるおそれが多分にあり,その取り扱いには充分配
慮されねばならないことを表している。Mercillaの体現するところが「慈悲」であることは,以下のいくつかの考察の結果として導かれ るだろう。Mercillaについては,まず最初に,彼女が「謙譲」と「平和」に基づく「調和的正義」
( harmonical justice )を象徴するとするダンシースの説があるま09)第二には,オコンネルのよ うに,「法と調和した衡平」( equity in accord with law )をMercillaの本質とし,その行動様 式は「正義と慈悲の調和」( areconciliation of Justice and Mercy )を表象しているとする解 釈がある11°)そしてさらに,チーニィは,、r正義と,それに対立する慈悲という理念を均衡させる」
( balances justice against the opposing ideal of mercy )「節度」を真のMercillaの姿だと考 えているll1)各論共に考察の経緯と結果においてそれぞれの誤解に基づく欠陥を孕んではいるがi12)
いずれも「慈悲」を中心的概念としてあげているのは妥当なところであろう。このMercillaの表わ す慈悲という徳性についてはその詳細を後に譲るとして,ここでは,その徳がDice(正義),Eu一 nomie(衡平),Eirene(平和)といった「正義の物語」中の主要概念を従えていることから(V,
ix,32),それが概念的にかなり大きなものとして構想されていることを指摘するにとどめておきたい。
Mercillaの宮廷に仕える多くの擬人的存在のうち, Souldan, Geryoneo, BurbonそしてGran一
tortoの各エピソードを一貫する二つのモティーフに連なるという意味で看過してはならないのは
Reuerence(敬度)とReligion(宗教)の存在であろう(V,ix,32,44)。「宗教」が「敬神」(piety)の外部的要素として正義というより包括的な徳に帰属することは先に述べたが,ここでは,「敬度」
が「宗教」,権威に対する「敬意」,そして子の親に対する「孝」(piety)を包摂するところから,
Obedience originates in reverence, which is intent upon offering homage and honour to a superior....Accordingly, as prompted by reverence for those in authority obedience is included under respect;by reverence towards par一 ents, under piety;and towards God, under religion!13)
その徳が,前述のようにやはり「宗教」,「祖国愛」,「孝」を包摂する広義の piety と結果的に
はほとんど重なり合うことを付け加えておかねばならない。MercillaのDuessa裁判が歴史的内包
としてメアリ・ステユアートの断罪を素材としていることからも,このエピソードの寓意的主題が
ローマ教会の異端性の暴露とスペインの外圧に対する国家主義の宣場であることは明らかであり,
したがって,「宗教」と「祖国愛」ないしは祖国の象徴としての国王を頂点とする「権威」への「服
属」といった概念が以下の各エピソードの展開の軸となるのである。
「正義」に包摂される「宗教」にかかわる寓意は「偶像崇拝」という行為を基軸の一つとして展 開させられている。Souldanのエピソードでは,直接的にはただ一度前掲の「漬神的な金を神とし,
偶像どもに仕える」云々の言及をみるのみであるが,Geryoneoの場合は,その偶像は,人間の血肉 のいけにえを要求し(V,x,8,28),Belge(ネーデルランド)の17人の息子たち(ネーデルラン
ド17州)のうち12人までを喰い尽くしてしまったという点で(V,x,7,8),その反正義的害悪はより現実的であるといえる。この人身御供の寓喩は,単にスペインのネーデルランドにおける領土支 配の不当性にとどまらず,それに伴う宗教上の,たとえば改宗の強制や弾圧といった恐怖をも趣旨
L
ニするのであるが,このことは,宗教と.いうものが内包する公的性質の観察からくるものだろう。
たとえば,トマスの「本質的な偶像崇拝は,内的な不信仰を意味し,かつ誤った公的な崇拝をもき
たさせる」( True idolatry presupposes internal infidelity and adds public worship which is misplaced )114)という洞察にみるとおりである。そしてスペンサーの,偶像崇拝に耽溺するGeryoneoの行状についての次のような直戴な説明も,上のトマスの言と並置すればその意味がより明確化す
るだろう。So now he[Geryoneo]hath new lawes and orders new
And forced it, the honour that is dew To God, to doe vnto his Idole most vntrew.
To him he hath, before this Castle greene,
Built a faire Chappell, and an Altar framed Of costly Iuory, full rich beseene,
On which that cUrsed Idole farre proclamed,
He hath set vp, and him his God hath named,(V, x,27−8)
さらに,我々はこのような偶像崇拝という反宗教的な行為のうちに,たとえばメアリ・ステユアー トが死に臨んで十字架上のキリスト像を掌中にし続けることに固執した,という逸話を重ね合わせ
ることができるかもしれないし,The Earl of Kent said to her: Madame, I am grieved on your account to hear of this superstition from you and to see that which is in your hand : She said it was seemly that she should hold the figure of Christ in her hand thereby to think of Him. Thereupon he answered that she must have Christ in her heart, and further said that though she made demur in pay.
ing heed to the mercies vouchsafed to her by God All−Highest, they would
nevertheless plead for her with God Almighty, that he would forgive her sins and reoeive her into His Kingdom. Thereto the Queen made reply:
Pray, then will I also pray. ... All those standing round repeated the Prayer. But as long as it lasted the Queen was praying in Latin and fairly
audibly, h・ldi。g the cru・ifi・i・her hand 15)
あるいは,我々は,第1巻以来一貫してその娼婦性を強調されてきたDuessaを,ペトラルカ
(Francesco R Petrach)やダンテが「バビロンの娼婦」,「偶像崇拝と邪淫の母」と呼ぶ教皇制ロ 一マ教会と同一視することもできるかもしれない。
In the D4θηcθ(1567)of his APoZo劇ノbr ゐε(】ゐωrcんo∫Eη8・Zαηd he[Flacius Illyricus]urges his readers tb see what Dantes, Petrarcha, Boccace, Man一 tuan, Valla ,and others have said about the Pope, even though they were his own dearlings , that is, Catholic鼠 Franciscus Petrarcha calleth Rome the whore of Babylon, the mother of all idolatry and fornicatioバHe re一 peats this on another page and attributes the same expression to Dante:
Dantes, an Italian poet, by express words calleth Rome the Whore of
B。byl・n1116)
いずれにせよ,「正義の物語」における「宗教」という要素の重要さは,スペンサーの視点が,「英
国の宗教改革は何ら新しい所産ではなくて,それまで常に存在していた純粋なカトリック(普遍)
教会を顕現させたものである」( the English reform is no new development but represents a pure Catholic church which had always existed )117)というフォックス(John Foxe)の視点と
基本的に同一であり,かつスペンサーの構想する国家主義の構築に国家宗教の存在が不可欠である
ことを表明しているように思われる。
「正義の物語」の構想に際してスペンサーの示す国家主義的傾向は,ある程度Kingdomes care
(国事監督),Authority(権威),law of Nations(国法)等の寓意的存在がMercillaの宮廷に ひしめいていることからも推し測ることができるだろうが,何よりもまず,その法廷でくり返し暴
露され告発されるDuessaの「大逆罪」( treason , V, ix,40,42,47,48)の背徳性の強調がメアリ・ステユアート事件を教訓として国家的統一を訴えるスペンサーの意図するところの所在を明ら
かにしている。VIII
BelgeのGeryoneoの圧政からの解放の経緯は国家とその統治者との関係にかかわる論理を寓意
主題としている。そこで,まず指摘しておかねばならないのは,前述のようにBelgeをネーデルラ
ンドの国土・国家であると考える場合,彼女が寡婦であるという物語上の設定は(V,x,6)中世以
来の興味深い比喩を想起させるという事実である。すなわち,それは国王を国家の花嫁に見立てる それ自体いささか寓意的な奇想である。そして,国家君主がたまたま女性である場合には,性的関 係の一致をみて,より一層この比喩は説得力を得るのであるが,我々の現下の主題に直接関連する
好適例として,エリザベス女王の議会に対する答弁を引いてみよう。Yea, to satisfie you, I have already joyned my self in Marriage to an Hus.
band, namely, the Kingdom of E㎎・」απd. And behold(said she, which I mar一 vell ye have forgotten,)the pledge of this my Wedlock and Marriage with my Ki・gd・m・・(A・d therewith・h・d・ew th・Ri・g f・・m her Fi。ger, and、h,w。d it, wherewhich at her Coronation she had in a set form of words solemnly
gi・・n her self i・晦rri・g・t・.her Ki・gd・m.)118)
この常套的比喩を意識すれば,Belgeが寡婦であるということは,ネーデルランドという国が正当 な統治者を欠いている一ただし,この場合,理解のしかたによっては,花嫁・花婿の関係が逆転す
るかもしれないが一つまり圧政者Geryoneoたるカール5世はBelgeたるネーデルランドの夫,つまり国王とはいえない,あるいはBelge・が夫であるネーデルランドをGeryoneoに奪われてしまっ
ているのだという解釈を許すだろう。上述の奇想は・さらに後続のBurbonとFlourdelisの,一一旦Grantortoのために破綻をきたしなが
らも,一応は修復をみるきわどい関係の寓意にも受け継がれている。Flourdelisは Fleur−de−lisに由来し,元来フランス王家の紋章であるところから,ここではフランスという国家を表象し,ま
たBurbonはいうまでもなくブルボン(Bourbon)王家のアンリ4世に相違ない。そして,Burbon が以前「神聖の騎士」Red Cross Knightに叙位される際に拝領した盾(V, xi,53)を,自分の許 を去ったFlourdelisを取り戻すために, Grantortoの手配の群集に手離してしまうことは(V, xi,46),ナヴァールのアンリが当初信奉していたプロテスタンティズムからカトリシズムに改宗する
ことによってフランスの王位についたことの歴史的経緯の寓喩となっているのである。そうしてみると・Belgeのエピソードにしても, BurbonとFlourdelisのそれにしても,当時の イギリスが,それをとりまく大陸諸国の動向が必ずしも有利に展開しない状況下で,自らの国家主
義的アイデンティティを確立することを切望するスペンサーの心情を鮮やかに映しているといえよう。以上のように,第8篇以降の「正義の物語」は,敬度という概念を基軸として,正義という倫理
的かつ社会的徳目の主要構成要素としての「宗教」と,国家主義という形をとって現れる「祖国愛」の両概念の展開の場となっている。しかし,それら両概念を包摂した「正義」は,自己完結的な閉 鎖系をなすにとどまることなく,そこで到達される倫理的・社会的自律性の上に立って,MerciUa
の具現する「慈悲」という概念の本質である「愛他性」を通じて,「愛徳」というすべての徳の源泉 の開放系の座標上に位置せねばならない。MercillaによるDuessa審理のエピソードが示すように,「正義」と「慈悲」は,共に愛徳に包摂
され,かつ相互に密接な関係を有して両機能領域は重複し合っている。Friendship and charity are concerned with the goodness of what is given,
justice with the fact that it is owin&Mercy, however, looks to the reliev一 119)
奄獅〟@of wretchedness or want.
上にみる限り,正義と慈悲とは,共に何かを他に与えるという行為であることに変りはないが,前 者が義務として,後者は苦境にある者へ,という条件的差異を認めねばならないことはいうまでも ない。とはいえ,慈悲は,単に苦境にある者に対して無条件的に向けられるべきものではなく,そ
れが徳として存立するのは,「不運がそれに価しない人をさいなむ時」( when misfortune afflicts aman who has not deserved it )でありi20)また,「それが,貧者への供与という性質のものであれ,悔俊している者の赦免という性質のものであれ,正義というものが保証されるように発
動される限りにおいて」( only if it is exercised in such a way that justice is safeguarded,whether it be a matter of giving to the poor, or of pardoning someone who is penitent ) なのである乙21)それは,Mercillaの足許の錆びついた剣が( her sword... whose long rest rusted the bright steely brand , V, ix,30)彼女の「慈悲」という本質を表示している一方で122)
舌を柱に釘づけにして衆目に曝すという,Malfontに対するMercillaの科刑が(V, ix,26),国 家秩序の護持という,正義の遵守のための断固たる措置の必要性を際だたせていることによっても 示されているのである。また,Duessaに対する審問で, Regard of womanhead(女性であること
の配慮」,Nobilitie of birth(高貴の家柄),Grief(嘆き)そしてそれへのPittie(憐欄)等の 配慮すべき要件(V,ix,45)にもかかわらず, Kingdomes care(国事),Autholity(権威),1aw of Nations(国法)そしてReligion(宗教)を司管するJustioe(正義)が(V, ix,43−4)優 勢のうちに勝訴するのは当然であろう。ノーンバーグ等の指摘しているように,「憐欄」は「慈悲」
とは俊別されねばならないのである。
。..
鰍浮唐狽奄モ?@may be tempered with mercy, when a sufficiently established sovereignty exist翫Mercy, however, is to be carefully distinguished from pity, which is no mercy to justice;pity can become a kind of capitulation,
or partiality to injusticei23)
● ● ●
こうして憐閥とは明確に区別された上で慈悲と正義とは双方から接近し合う。すなわち,「真の正
● ■ ● ● ● o o ● ■ ● ● ● ● ● .
義は罪人に対して・・…・侮蔑的ではなく,同情的である」(聾麗ノωsε cθεsηo d 8dαε》ωム_
towards sinners,わω compα88 oηαεθ)一方で 24)慈悲はもとより他人に向けられた同情を本質と
する。
Strictly speaking, mercy, being compassion for the misery of another, is directed towards another person, and not to oneself, unless, like Aristotle,
we are speaking analogically, as when we talk of justice between the dif一
ferent p。,t、。f。h。man b・i・g 25)
ここで,両概念は,相互接近の結果,「愛他性」あるいは隣人愛の精神で強く結びつくことがわかる。