スポーツにおける身体
1)日下裕弘,!)四反田美幸,1)佐々木史子,1>福森龍也
1>
?城大学教育学部,〒310−8512茨城県水戸市文京2−1−1
1,緒言
現代文明は身体を疎外している。都市化による自然体感の減少,労働の間接化,擬 似的経験の産業的組織化,情報をも含めた「もの」の世界における奥行きのない表面 的な人工物化,そして人間関係の多数化,多様化,一時化,表面化は,「生きてはたら いている身体」をおきざりにしている。
昨今の「生きる力」「ゆとり」そして「こころ」の問題は,そうした近・現代が失い つつある人間性・身体の回復を求めて提起された教育的題題である。それらの課題の 解決のためには,まず体育学的論究が基底になければならぬと考えるし,とりわけ「身 体」の直接的経験である「スポーツにおける身体」の問題を十分に掘り下げることが 不可欠であろう。本研究は,私たちの身体知である「スポーツ」における「身体」の 構造を,主として市川浩の身体論に準拠して考察することを目的としている。
2,「スポーツの概念」:ゲーム事象としてのスポーツ
スポーツは,ゲーム事象(game occurrence)として定義できる。主としてアゴン(競 争)の原理によって支配されている,身体特性にかかわるプレイ共同体内の活動が,平 等の論理によって貫かれており,一定の時間的・空間的限界内で,外部の力を一切借
りずに,しかも活動の展開やその過程に生起する出来事を処理するための基準(ルー ル)によって制約されながら,相互に勝利を目指して展開しているとき,身体的技術 や戦略がプレーヤーによってそこに持ち込まれるようになる。このような事象が具体 的に展開されているとき,その事象の出現から消失までの全過程を,ここでは,「ゲー ム事象としてのスポーツ」と定義しよう。
3,市川浩の身体論のパースペクティブ
市川浩1 2によれば,人間は,自らの生命を生きるために,身体(こころとからだ)へ の環境の意味を受動的にとらえ,わが身を調節しつつその環境の意味を変えることに よって,指向のための条件をととのえ(一外部の系に受動的であることにによって,能 動的であることの基盤を用意し),環境に適用すると共に,自らにとって有意味な世界 との新しい交渉に意識的,能動的に指向するという,いわば間一世界的,間一主体的 存在であり,現実の未完成パズルを絶えず生成し続ける「断片的」統合体である。そ
こでは,科学的極限概念としての「精神」や「肉体」は,それぞれが独自に,どちら か一方のみの論理で自己を貫徹するということはあり得ない。むしろ,人間の行為は,
その本質において,行為のその瞬間においてそのつど形成される心身の錯綜した生け る構造,すなわち「身」(み)として統合的に遂行され,その「精神は身体」として,
その「肉体は精神」として複雑に絡み合いながら有意味に機能しつつ現象する。しか
も,一人の行為者としての人間は生後の様々な体験によってある程度習慣化された2っ
の「はたらきとしての構造」を持つ。ひとつは,意識的な潜在的統合である「志向的 構造」(=「図」)であり,もうひとつは,意識下の潜在的な「向性的構造」(慧「地」)
である。前者は,現実の行為として最終的にひとつに統合された行動現象であり,後 者は,その行動を潜在的に支え,規制し,方向づける前意識的な行動の統合可能性(=
生存可能性)である。とわけ後者は,「自然遊」の体育的意味にとってきわめて重要な 概念であり,市川はこれを「錯綜体」もしくは,ある程度習慣化まとまりを持つ断片
としての「ネピュラス・コンプレックス」(星雲状複合体)と呼ぶ。それは,一定の「ひ ろがり」と「量感」と「ヴェクトル」を持ち,あらゆる行動への「かまえ」として,現 実の有意味な世界や環境を意識下において分節的に素描する行動可能性,すなわち行 動の中間(緩衝)地帯であり,身体の「ゆとり」である。
4,スポーツにおける身体
1)スポーツ世界の構造:技術・戦術ルールに着目して
スポーツという行為が成立するために必要な要素として「ルール」がある。ルール は,ゲームをプレイの世界(プレイ共同体)にとどめ,統一と秩序を保ち,方向づけ る諸規定である。これらの諸規定はプレーヤーを外側から規制し,彼らに特定の行動 様式を付与するはたらきがある。たとえばテニスの例を挙げると,ルールの構造から いって,ボールを一打で相手コートに返すために,ラケットやシューズを身体に組み 込み,手で握ったラケットを前方へ振り,ガットの部分ヘボールが当たるようにしな くてはならない。またこのとき,プレーヤーはコート,ラケット,ボール,ネットな どそれぞれの構造を認識していることを前提としている。つまり,ルールが身体運動 を制約し,身体の構造化に大きな影響を及ぼしているのである。
したがって,ルールがあることでそのスポーツ特有の「技術jができあがると考え られる。ドリブルという技術をとってみても,個々のルールの制約下でそれを行うと き,サッカーは手でボールを扱うことが禁じられているために「脚によるドリブル」が,
また,バスケットボールなどは脚で扱うことが禁じられているためF手によるドリブ ル」という技術が生じる。しかし同時に,プレーヤーはルールの許す範囲内でなら自 由に行動することが可能なため,プレーヤーは考えられ得る限りの選択肢を探し,結 果として,多彩なドリブルワークを生成させるのも事実である。つまり技術とは,ルー ルが下す定義の解釈を押し進めた上で考案・開発し,同時に洗練を加えていった結果 でき上がった客観的に外在する行動文化であって,ルールそれ自体が一人歩きの機能 を持ち,湧いて出てくるものではない。技術は,「いかにして勝つか」という試行錯誤 の中から人間が生み出したものである。
戦術についても同様のことがいえる。個々のチームカラーやプレーヤーのタイプと いったものが存在するのは,技術がプレーヤーである人間の側に関わっていることを 裏付けている。技術・戦略は,過去の経験,ゲームに関する知識パーソナリティー などにより,開発されたものであり,ルールの枠内における無限の創造なのである。そ して,こうした客観的,外在的文化としての技術が,人間によって内面化されたもの をそのプレーヤーの「技能」として定義できる。
時に,ルールがスキルを明記し規定していることがあるが,これは技能を指してい るのではなく,「かかる〈行為〉は競技で容認(あるいは禁止)されている」との宣言 をしているだけである。つまり,ルールは,ある逸脱した行為を容認,禁止するだけ であって,この行為規制を通して間接的な形でしか,技術や戦術とは関係し得ない。あ る戦術が容認しがたいものであった場合は,戦術自体でなくそれを成立せしめている
〈ある具体的な行為〉を規制するのである。たとえばオフサイドルールなどが挙げられる。
ではなぜ,ルールは技術・戦術を規制する必要がないのか。ルールが過度な介入を してしまった場合,スポーツはルーティン化し,変化のない定常的な行動だけが存在 することとなり,私たちを退屈させ,興味を失わせてしまう。ルールが枠組みでとど まる故に,技能は無限に発展し得るものになる。
次に,スポーツという世界を客観的に形成するルールの構造,およびそれを監視す る審判について,その特徴を明らかにしていきたい。守能3によれば,ルールにはその 特徴として,①〈私法的ルールの不在〉,②〈公法的ルールの配分的正義〉が挙げられ
る。まず,この特徴に基づいて,ルールとそれを執行・監視する審判について考察す
る。
私たちを取り巻いている法は,通常その内容により,公法と私法に分類される。こ の二つの法の性格上の違いについては,公法とは「垂直線的な生活」,つまり当事者間 が対等でない特殊な法律関係を律:することを目的とし,刑法や行政法に代表されるも のである。それに対し私法は「水平線的な生活」,つまり相互に対等・平等の立場にあ る私人同士が横の関係で繰り広げる生活を律し,民法に代表されるものである。私人 がするスポーツ活動を一国の法体系にたとえた場合,公権力としての行政主体は法に 基づく権力関係を特別に設定して,この活動の実際場面である競技における選手間の 利害関係処理に介入するということはしない。スポーツ活動それ自体は公権力があれ これ口を出すべき性格のものでなく,私人間の純粋で自由な活動として存在する。あ るいは,刑法第35条は,法令による行為および正当な業務による行為はこれを罰しな いと規定しており,ここでいう「正当な業務」にあたるものの一つがスポーツ活動で あり,たとえそこで一定の傷害行為の発生が見られたとしても,その行為は原則とし て違法性をもつものではないとされる。故にスポーツ・ルールには公法的な性格が認 められるというとき,そこで問題となる「公権力としての行政主体jはもちろん国家 ではなく,IO Cや各スポーツ連盟といった,スポーツ・ルールの実効性の確保にあた
る団体ないしは集団を指すことになる。つまり法的には「水平線的な生活」の一部を なすスポーツ活動は,垂直影的な,縦の関係の でその 主的な運営がはかられると いうことになる。
次に第2の特徴としてスポーツ行為は,「スポーツの世界には公法的な性格のルール
しか存在しない」という観点から,公法領域の概念である配分的正義に従って処理が
なされるが,この正義は平均的正義ではない。たとえば,一見ルール違反をした者(チー
ムや組織も含めて)は,被害者に対し,もたらした損害を賠償するという利害の調整
から平均的正義ととらえがちである。しかし,平均的正義に則り私法関係を調整する
民事裁判は,第三者の私法人や公法人(たとえば検察官)でなく,利害の異なる当事
者の一方が訴訟行為に出て初めて成立するものであり,スポーツ・ルールは私人であ
る選手たちにこのような訴訟行為を一切認めることがない。なぜなら,これらの訴え
が絶えず審判のところに寄せられれば,ゲームはその都度中断を余儀なくされてしま
い,正常な運営が望めなくなってしまうからである。そしてそのような事態から,当
のスポーツの「面白さ」というものが破壊されてしまうのである。したがって,ある
行為がルール違反か否かを判断するのは第三者である審判の専権事項に属する。極論
をいえば,公権力たる審判が違反行為を違反行為と見なして笛を吹かない限り,「そこ
に違反行為はもともと何も存在しなかった」ということになる。この点から見て,ス
ポーツ・ルールは配分的性格を備えているといえる。反則があっても審判の笛が鳴る
まではイン・プレー(競技続行中)である,というルールを多くのスポーツがもって
いるのもこのためである。したがって,スポーツ競技では私法自治の概念は存在しな
い。スポーツ競技において,何を容認し何を罰するかは,すべて審判がこれを判断す
る。したがって,そこで意味を持つ正義は配分的正義のみということになる。ルール
の狙いとするところは,被害者に生じた損害を補填する民事的責任よりも,行為者に 対する応報であると共に,将来そのような害悪が発生するのを防ぐための刑事的責任 の性格が色濃いと考えられる。
また,ルールは四つの構成要素からなる。すなわち,①〈条理的行為規範〉,②〈刑 法的行為規範〉,③〈行政法的行為規範〉,④〈組織規範〉である。このうち,①②③ の各規範は,行為規範であると共に,裁判規範でもある。また,①をのぞけば,その り 他はすべて行政法的な性格をもつ規範であり,特に②は法学的な観点から,むしろ憎
む り り
政刑法的行為といえるだろう。また,④は行為規範でも裁判規範でもないところにそ の特徴を持つ。
〈条理的行為規範〉としては「スポーツマンシップ」などがそれにあたる。社会生活 の中で生じた係争を処理するにあたって,判断の拠り所とすべき具体的な規定が制定 法や判例法などにいずれにも見出せない場合,裁判官は通常条理を援用してその解決 にあたる。同様に,明文化された競技ルールに規定はなくとも,審判は条理に照らし て選手を処罰することができるし,さらには具体的なルール違反に対し,条理的解釈 に基づいて規定以上の重い罰を下すことができる。ルールブック中に言葉を用いて具 体的な形で盛り込むことは技術的にに難しいが,各選手がスポーツの場で遵守すべき ものと関係者が認めた暗黙裡の行為規範が条理的行為規範である。それにはたとえば スポーツマンシップやフェアプレーがあり,また敵者尊重の精神がある。もちろん,そ うした内容のことを明文的に示した規範文書も存在するが,選手の同一の行為は,そ の時の状況によってはフェアとアン・フェア,どちらにとらえられるか分からない。そ れ故「フェアプレーを」と協議ルールに謳って選手に要求してみたところで,ただそ れだけで具体的な行為の指示ができるというものではない。法的安定性の確保に直接 貢献することはないが,ルールの実質的な存在理由がないがしろにされないように,背 後から規制を加えるものが条理的行為規範なのである。
マナー違反や道徳違反を諌めることにその存在理由をもつルールは,どの種目のス ポーツも備えているが,どのような行為がその種のルールの規制対象になるのかは,一 概にはいえない。言い換えれば,ルールが保護すべき個人的法益の中身は種目が異な れば自ずと違ってくるのであり,それ故〈刑法的行為規範〉は次のように定義するこ
とができるだろう。「刑法的行為規範とは,競技中,相手選手に具体的な損害を与え,
または与える恐れのある行為の実行を責任を担保にして禁止する規範である。ただし この場合,何をもって実害の発生があったかとみなすか,換言すれば,各競技者が受 認すべき被害の限度をどこに定めるかは,スポーツの種目によって同一でない。」した がって,問題のマナーは刑法にいう犯罪と違って,「規定をまつまでもなく,当然に侵 すべからざる」性格のものであるとは必ずしもいえなくなる。何がマナー違反である かは関係者の合意を待たなくてはならないからである。たとえば,同じタックルとい う行為においても,ラグビーで容認されていることをサッカーでよしとしないのは,「正 義と公正の観念」によるものでなく,サッカー関係者の頭の中にはサッカーという競 技の展開に関してあるイメージされた行動パターンが共通して存在するからである。つ
まり,そのイメージされたパターンとの対応関係において初めてラグビー型タ.ックル
は否認され,結果的にマナー違反になるわけである。したがって競技関係者がルール
に託してこのイメージされたパターンの再現性を保証するとき,そこには常に〈政策
的〉な意図がはたらいていることになるわけで,当該のスポーツにどうく面白さ〉を
保障するか,すなわち,政策的な配慮にこそほかならない。こうして加害行為を一切
容認しないスポーツもあれば,一定限度のそれを,むしろく面白さ〉を保障する不可
欠の要素とみなし,許容するスポーツもまたあるわけなのである。刑法的公規範は,競
技関係者のいわば〈政策的〉な意図に沿って定められるものであり,その意味からし
てこれは性格的には〈行政刑法的行為規範〉と呼べ,同時に行政法的行為規範の一部 をなすものである。
行政法は大まかにいって,行政刑法と秩序罰法とに分類される。過料と称される金 銭罰(いわゆる秩序罰)を規定した法規が秩序罰法であり,これに対応するスポーツ ルールが,ここで述べる〈行政法的行為規範〉である。個々の行政法は個々の行政法 の目的に即して制定されるものであって,したがってある行政法に違反して行為をと ったとしても,その行政上の目的を知らなければ,その行為のもつ「反社会性」につ いての認識は得られない。行為そのものが反社会性をもつわけではなく,違反行為が 行政の目的を侵害するだけだからである。例を挙げれば,バスケットボールにおける ヴァイオレーション関係のルール,野球におけるタッチ・アップ規定,オフサイドや サービス球の落下区域制限などである。これらのルールに代表される行政法的行為規 範の特徴は前述の車両交通規制と同様,それが規定する中身に関して,たとえば「科 学的法則や倫理規範などから類推することを一般に人に許さないルールである」とい
う点である。
ただスポーツ関係者は現行のとおりのルールを,それによって〈面白さ〉の保障が 可能だと判断して決めただけのことであって,将来,それらのルールが〈面白さ〉を 仮に保障しなくなる時が来るとすれば,それらは新たに内容を変更される運命にもと
もとある。
ここでいう組織規範は,裁判的性格を全くもたない。つまり,「この組織規範への選 手側の違反はあり得ない」ということである。コートやトラックやフィールドといっ
た場の設定,あるいは競技時間の管理などは,ルールを承認した関係者団体を代表す る権力体としての連盟(またはその被委任者である審判団)が当該ルールに従って一 方的にする条件設定行為もしくは管理行為であり,これに対して競技者は原則的に何 らの関与もしない以上,それへの違反もあり得ない。この種のルールは,その適用に あたっては審判といえども主観的な裁量や恣意をそこに介入させ得ない。そして次の ような定義を下すことができるだろう。「組織規範とは,勝敗や優劣を決定する上で直 接必要とされる競技条件の設定の仕方,および一定自体の出来に続く事後措置の取り 方に関し,一定の定義を下すルールのことをいう。ゲームに決着をつける上で不可欠
となるこの規範は,まさにそのこと故に,審判を含めた関係者の主観や裁量を超えた ところで,いわば自動的もしくは機械的にその適用がなされる。」
このように,ルールは,技術の大まかな志向枠組を設定し,プレーヤーは,審判の 法的な監視のもとにおけるその枠組の中でのみ自らの技能・戦略を最大限に発揮し得
るのである。
2)スポーツにおける身体
主体としての身体はその周りに身体的空間を張り巡らす。それが一旦コート,ある いはフィールドやトラックに入った途端,意味を持った空間として,身体にその意味 を投げかけてくる。固定化された空間は時にはポジションと呼ばれることもあるだろ う。そして2人以上の対集団ともなれば,自己の身体空間以外にも,味方としての他者 や敵としての他者の身体的空間をも把握しなければならない。この場面においてはめ まぐるしいく脱中心化〉〈再中心化〉が行われている。前述したように,ルールはその 機能としてプレー可能な領域等を規定する。したがってその規定如何によって身体を
その規定に従って構造化したり,知覚の幅を広げなくてはならない。また,身体は空 間だけでなく,歩数の制限やセット数によって時間的制限も受けている。スポーツは 人や無生物間の競争であるが,施設・設備は身体にとって二次的な自然の世界であり,
ルールによって様々にその時空性を変えるため,身体自身もそれと適合し,克服する
ための変化をせまられる。そしてルールが変化すれば,技能を内包する身体や戦術も
変化せざるをえなくなるため,身体の構造も変化してくることになる。
このように,ルールは身体の構造化に影響を与えているが,「私」の身体に限らず,
他者にも同様の影響を与えている。そのために,「私」の身体は「他者」と置き換えて その運動や知覚内容をも予測することが可能になる。ルールがあるため,主体が取る べき行為は自ずと限定され,プレイの選択肢として主体に与えられる。
市川は身体の可能的な統合を〈錯綜体〉という形であらわした。この身体は生きて はたらいている「現実的統合体としての身体」を離れてあるものでも,それに尽きる
ものでもなく,現実化されていない潜在的な統合可能性を含んでいる。一つの現実化 した統合の背後には無数の可能的・潜在的な統合が地平として拡がっている。市川は,
それを日本語の「身」という言葉がよく表現していると述べている。この「身」は実 に多義的な意味を持っており,肉体としての意味は勿論のこと,体の在り方や社会的 生活存在としての意味をも内包している。r栄養が身につく」というのは生理的身体だ が,教養や技術が「身につく」というと,これは文化的身体をあらわしている。スポー ツにおいて技術が身につくと言うことは,行動様式の外在的文化としての技術が身体 に内面化・構造化され技能となることを意味する。技能は通常は身体の潜在的・可能 的構造として意識化に沈んでいるが,【動作】5を行うときには現実的統合体の〈図〉と
してその〈地平〉から浮かび上がってくる。私はその中の一つを〈いま・ここ〉で数 多の技能の中から選択し,現実化して【動作】として遂行するのである。
この鋤作】を支えているのが,下位【動作】である。この下位K動作】は顕在的 な統合として,現実の【動作1にはあらわれてはこないが,その系列として潜在的に 身体に内在している。下位【動作】を解体,再構造化することで,新たなK動作】が 生じ,他のものは統合可能性として意識化に沈むのである。つまりスポーツにおける 身体は統合可能性としての技術をその身体のうちに備えているのである。
そしてこの身体の構造をメルロ躍ポンティは〈身体図式〉という概念で説明してい る。現象学の創始者フッサールは,外界の事物に向かう意識の志向作用の底に身体の 運動感覚(kinesthesisキネステーシス)が潜在していることに着目した。普通,自我 意識というときは志向,意思,感情,想像力といった,いわば狭い意味の心のはたら
きだけを取り扱う傾向がある。しかしそのはたらきの背景には,外界に向かう身体の 運動感覚が見出される。メルロ ==ポンティは,フッサールの考え方を受け継いで,生 きた身体に備わる「身体図式sch6ma corporel」というものを考えた。彼の言う身体 図式はさしあたり,外界感覚一運動回路の全体を支えている一種の生体自動制御装置 ともいえるものである。彼の身体観には,生きている身体には客観的身体のシステム とは異なった「見えないシステム」が存在するという考え方がある。
彼は感覚神経と運動神経によって構成される求心的一遠心的システムを「感覚一運 動回路」と呼び,湯浅6はこれを身体組織を構成する第一の情報回路とみなした。この 回路は身体と外界を結びつけるものである。それは外界の事物からくる刺激を脳へ送
り,また逆に,末端の運動器官である四肢に命令を送る。この回路は生理学的に明ら かであるので「生理学的身体」「客観的身体」などと呼ばれている。彼はここで,「客 観的身体」のシステムを活性化する身体の「運動図式」あるいは「身体図式」と呼ぶ
ものを想定している。一般的に言うと,これは,身体の諸能力(特に運動能力)の習 慣づけのメカニズムであり,このメカニズムは,外界にかかわる行動の場面での手足 の運動感覚を意識にもたらす作用をしている。メルロ=ポンティは,先に着目したフ
ッサー や令7b Q.「身体囲求。稔。 yρchema」の考えをもとに,「身体図式」のシス テムは外界の事物を志向する潜在的作用を内蔵していると考え,これを「生ける身体」
とか「習慣的身体」と名付けた。
彼がいうところでは,身体図式を内蔵したこの「生ける身体図式jのシステムは,第
一の外界感覚一運動回路を「行動」(運動)に向けて方向づけ,準備させるというはた らきをしている。つまり,それは,技術を覚えたときに,「身体がおぼえている」とい うときの「からだ」であり,意識の判断を待つことなしに生理的身体を外界の状況に 適応させるようにあらかじめ先導する役割を果たしている。すなわち,生理学によっ て認識される「客観的身体」のシステムの底には,「生ける身体」とも呼ぶべき「習慣 的身体」のシステムが潜在しているわけである。このシステムは外界に向かって一種 の潜在的志向作用(実存的志向弓)の束を投射している。そして解剖学的に見る限り,
む む ゆ む ゆ り
このシステムは,外からの感覚によっては意識することのできない見えざる回路であ り,また,心理的に見ても普通の状態では,意識が感知することのできない無意識下 の潜在的回路である。ただし,スポーツにおいて必要な学習的記憶(習慣的記憶)は,
そのほとんどが比較的浅い無意識の層に位置しているため,いつでも取り出せるよう になっている。
身体は,上述のような自己と外界の問に,潜在的な関係構造をあらかじめ形成して いる「身体図式」なるものを内蔵しているため,意識の判断を待たずに生理学的な「客 観的身体」をスポーツの場面における状況に適応させることが可能なのである。
3)事例:ハンドボールにおける身体
主体として生きてはたらいている身体は,必ずしも皮膚の表面で終わっている解剖 学的な身体ではない。はっきりとした限界を持たず,むしろその限界が絶えず広がっ たり縮まったりしているような身体である。ハンドボールには「間合い」というもの がある。実際に接触を持たずとも相手を自分の身体に取り込んだような感覚を引き起 こしたり,味方の守備範囲が分かったりする。なぜなら身体が体表を越えて拡張し,他 者を身体感覚としてとらえられるからに他ならない。これは他者との関係で生まれて
くる一種の間一主体的な身体であり,対他的な身体空間である。ハンドボールではこ の間合いは大変重要である。自分の身体の一定の拡がりを,自分が獲得した守備範囲 や攻撃範囲だとすると,この範囲内にいかに相手を入れないかに「勝ち負け」が関わ ってくる。いわば,間合いとは,攻撃や守備の射程距離,射程内空間ともいえるだろ う。時にはわざと相手の間合いの中に入っていくように見せかけて,注意を向けさせ,
動きだそうとしたスキに相手を交わし,自分に有利な状況を作るのがフェイントの技 術である。そこでは,相手の行動を潜在的に察知し,相手の身体の拡張を読み取るこ
とが重要になる。
また,味方にパスを出すのも身体の拡張であり,共同的な間合いである。ハンドボー ルには,日常では使わないような,特有の「手」の使用のみ有効なパスとシュートが あり,団体競技であるこの種目では,こういつた共同作業を通して,ゲームを展開し ていく。この「共同の間合い」はお互いの身体が重なり合った場合に生まれる。有効 な歩数に規定があるため,パスを通して他者の身体へ自分の身体の拡張を到達させる のである。敵対的・共同的な間合いのどちらの場合も,身体の内部知覚を外界の空間 にかかわらせていき,その内部知覚が相手の身体をとらえることによって自分の射程 に取り込むのである。この空間内では意識による判断を待つことなしに瞬間的,自動 的に行動が起こせる。
しかし,相手も同時に同じことを試みているので,敵対する間合いの時はどちらが
いち早く身体の拡張を他者に到達させるかに有利・不利がかかってくる。それを決定
するのは練習や才能によって獲得された身体の拡張や,コンディション,および拡張
するのに有効かつ合理的な状況である。過度の緊張や自信の喪失といったネガティブ
な情動やストレス,我を忘れるような怒りは,内分泌系等を通して筋肉の硬直や判断
力の低下を招き,身体の拡張を制限する。また,身体の運動機能は視覚をはじめ,多
くのものが前方を志向しているため,身体のパースペクティブも同様に前方へ拡張し
やすいという傾向をもつ。
ハンドボールは,これらの拡張された身体同士のぶつかり合いの競技といえる。個 人技術にはじまり,組織的な戦術へ向上するように,最終的には2チームの共同的な拡 張された身体同士の競争がチームのレヴェルや勝敗を決めるのである。そしてこの競 技特有の上半身の使い方があるために,意識はそこに集中し,身体も微調整される。し
かし,無意識で下半身を有効に使うためには,そのレヴェルに到達するまで下半身に
「習慣化された身体」としての動きを学習・記憶させなければならない。それらが豪快 なシュートや,正確なパスワークを支えているのである。つまり,一見重要視されそ うな上半身特有の使い方をする競技でありながら,習慣化され,無意識化にある下半 身がそれを支えているというのがハンドボールの基本的な特徴であるといえる。
5,まとめにかえて:「競争する身体」の可能性と限界
かくして,スポーツの身体論的意義は「競争する身体」の可能性と限界を明らかに することであるといってもよいだろう。
スポーツは,それが身体技能の卓越性を求めての意識的・能動的な並行的努力であ る点において,プレーヤーの様々な自己実現の可能性を持っている。それは,状況へ の適合と克服を含む目的合理的な自己主張であり,そこに,究極的な自らの身体「美」
と理(ことわり)への「調和・ハーモニー」をみることができる。これが,スポーツ がもっている最大の身体的可能性といってよい。
しかしながら,スポーツはあくまで意識的な自己主張であり,例えば,意識的な努 力を通じて無意識をコントU・一一ルし,自らを「無くしてゆく」禅の修業とは異なって いる。スポーツはむしろその反対の方向を志向するものであるといってよいだろう。こ こに,湯浅的な意味での「垂直的」身体的開発におけるスポーツの一つの限界がある。
さらに,スポーツが能動的な自己主張であるという点において,相手を「受容」す ること,ありのままの他者を自己に貫徹せしめて「受け入れること」,甘んじて「忍従 すること」,相手を「支援」することに欠ける。人間の身体は,能動性や攻撃性のみの 能力を持つものではない。身体の可能性にはもう一方の半分があるはずである。それ は,「受容する身体」である。スポーツは,この受容する身体の能力を欠落している点 において決定的なひとつの限界を持つといってよいだろう。
文献,