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漱 石 俳 句 小 考
人文科学第一研究室 塚 本 勝i 義
は し が き
漱石の俳句で現存する最古の作は次の二句である。
帰ろふと泣かずに笑へ時鳥 聞かふとて誰も待たぬに時鳥
両句は明治二十二年五月十三日附正岡子規宛書簡の文末に見える。子規はこの年の五月 九日夜,突然喀血し,それが一週間ほどつづいた。気性のはげしい子規はこの衝激にもひ
{1)
るまず,時鳥の句を四五十も作り,〔子規〕と号するにいたった。上記の二句は,子規の 喀血について見舞の意をこめた作である。子規との交友はこの年一月頃始まったらしい。
当時は漱石も子規も第一高等中学校生徒であった。子規が俳句に専念し始めたのは明治二 十五年からであるが, この頃も病中一気に四五十句をまとめ上げるほど関心を持ってい た。こうした病友の動きに調子を合わせてやる気持で漱石の時鳥二句が書きつけられたも のと考えられる。
この二句以前にも作ったと想像されるが,残念ながらその作品が未だ発見されていな い。だから,現在のところでは漱石俳句の研究はこの二句から出発しなければならな
、、o
吾心点じ了りぬ正に秋 僧のくれし此饅頭の丸きかな 瓢箪は鳴るか鳴らぬか秋の風
(2>
これらが大正五年十一月十五日附富沢敬道宛書簡の中に見える句で,漱石最後の作品と なった。輝僧に与えた句であるために輝的色彩が特に濃厚に出ている。時鳥の句からこの 輝的句に到るまで二十九年を経過している。この二十九年間に漱石の句歴のすべてが合ま れているわけである。
(1)この時鳥の句は一句も現存していない。
② この書簡には五句書きつけてある。
句 風 の 展 開
句風の展開の跡をたどるにあたって,先ず制作句数を年代順に数えてみると,
明治22年 2句(32句)
23年 5句(55句)
24年 30句(233句)
25年 2句(1662句)
26年 0句(2701句)
27年 15旬(2025句)
28年 462旬(2892句)
29年 495句(3038句)
30年 266句(1477句)
31年 102句(1412句)
32年 329句(896句)
33年 15句(642句)
34年 19句(529句)
35年 10句(400旬)
36年 22句 37年 18句 38年 5句 39年 32句 40年 130句 41年 46句 42年 19句 43年 145句 44年 23句 大正元年 22句 2年 4句 3年 122句 4年 14句 5年 48句 年月不詳 3句
の通りである。なお括弧内の句数は子規の制作句数である。明治二十二年から二十七年
までに五十四句を残しているが,何れも即興的な作で,積極的意欲に燃えつつ制作した句
とはうけとれない。
塚 本:漱 石 俳 句 小 考 33 西行も笠ぬいで見る富士の山(23年)
は子規の〔西行の顔も見えけり富士の山〕に因った作であり,
烏帽子着て渡る禰宜あり春の川(27年)
は,蕪村の〔烏帽子着て誰やらわたる春の水〕の模倣作であることが明らかである。他 人の旬を前において,それらしき句をひねっていたというべき時期である。しかし,この 時期においても先人の句集に親しんでいたらしいことは,
昨日故人五百題と云ふ者を見て急に俳譜が作りたくなり十二三首を得たり。
ζ子規宛(24年τ月24日附)に書いていることによって知られる。上掲の書簡に接した 子規は,さっそく丈余にわたる俳道奨励の手紙を漱石に送った。これに対して漱石は,
一丈余の長文被下難有拝見小子俳道発心につき草々の御教訓情人の玉章よりも嬉しく 熟読仕候天票庸愚のそれがし物になるやらならぬやら覚束なき儀には存候得共性来か かる道は下手の横好とやらに候得ば向後騨尾に附して精々勉強可仕候問何卒御鞭縫被 下度候(24年8月3目附)
と書き,更に捜を悼む句十三,及びその他の句十七を書きつけて訂正指導を頼みこんで いる。もともと俳句は好きであり,その好きな俳句をやろうと発心し,親友子規の激励ま で受けたが,当時の漱石は句作に熱が出るまでには到らなかった。子規は既に二十五年か ら俳譜一一筋に進んでいたのであるけれども。
以上のような事情で制作に力を入れなかったから,
藪蔭に涼んで蚊にぞ喰はれける(24年)
馬の背で舟漕ぎ出すや春の旅(24年)
朝貌に好かれそうなる竹垣根(24年)
というような駄作もあるが,
雀来て障子にうごく花の影(24年)
秋さびて霜に落けり柿一つ(24年)
秋風と共に生へしか初白髪(24年)
何となう死に来た世の惜まるる(27年)
菜の花の中に小川のうねりかな(27年)
のような佳句の類に入れてよい作も見出せる。後年,小説の分野で鋭く発揮せられた写 生の才のひらめきが〔雀来て 〕の句に認められ,〔何となう一一〕の句には主観句に 特色を発揮する芽が認められるし,〔菜の花の一〕には大柄で線の太い明治俳旬の特質
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がはっきり出ている。媛を悼んだ句には真率の情が強く流れている。
細眉を落す間もなく此世をぱ
仮位牌焚く線香に黒む迄 通夜僧の経の絶間やきりぎりす 鏡台の主の行衛や塵埃
当時,相当に人間嫌いになっていた漱石ではあったけれども,捜だけは心から敬慕して いた。 〔わが一族を賞揚するは何となく大人気なき儀には候得共彼程の人物は男にも中々 得易からず況て婦人中には恐らく有之間じくと存居候そは夫に対する妻として完全無歓と 申す義には無之候へ共社会の一分子たる人間としてはまことに敬服すぺき婦人に候ひし先 づ節操の毅然たるは申すに不及性情の公平正直なる胸懐の酒々落々として細事に頓着せざ る杯生れながらにして悟道の老僧の如き見識を有したるかと怪まれ候位〕(24年8月3日 附,子規宛書簡の一節)とまで称えずにはおられなかった漱石の真情の強さが,自らこれ
らの句を成したのであろう。
(1)兄直矩の妻で,つわりのために死去した。漱石と同年であった。尚,妻としては完全でなか ったかも知れぬが,人間としては勝れていたという批判は,漱石の人間観の幅の広さを知るに 足る注目すぺき言葉である。
明治二十八年四月,漱石は大学卒業後奉職していた東京高等師範学校の方を辞職して,
四国松山の愛媛尋常中学校に赴任した。最初に登校した日,図書室から借り出したのは陶 渕明詩集二冊であった。漱石の頭の方向を知るに足る事実であろう。五月二十六日附子規 宛書簡の中に〔小子近頃俳門に入らんと存候御閑暇の節は御高示を仰ぎ度候〕と記してい る。田舎住いのつれづれからであろうか,再び俳句に食指を動かし始めた。併し,いよい よ本腰入れて作り出したのは八月からである。日清戦役に従軍して病を重くした子規が,
ようやくにして健康を取り戻し,故郷松山を訪れたのが八月二十五日で,二十七日に漱石 の寓にやって来て泊り込んだ。そうして俳人たちを集めて,毎日句作に熱中した。そのた めに漱石も自然にその仲間入りをしてしまった。 この間の事情を次のように回想してい
る。
なんでも僕が松山に居た時分,子規は支那から帰って来て僕のところへ遣って来た。
自分のうちへ行くのかと思ったら,自分のうちへも行かず親族のうちへも行かず,此 処に居るのだといふ。僕が承知もしないうちに,当人一人で極めて居る。御承知の通 り僕は上野の裏座敷を借りて居たので,二階と下,合せて四間あった。上野の人が頻 りに止める。正岡さんは肺病ださうだから伝染するといけない,およしなさいと頻り にいふ。僕も多少気味が悪かった。けれども断わらんでもいいと,かまはずに置く。
僕は二階に居る。 大将は下に居る。 其うち松山中の俳句を遣る門下生が集まって来
る。僕が学校から帰って見ると,毎日のやうに多勢来て居る。僕は本を読む事もどう
塚 本:漱 石 俳 句 小 考 35 することも出来ん。尤も当時はあまり本を読む方でも無かったが,兎に角自分の時間
といふものが無いのだから,止むを得ず俳句を作った。〔正岡子規・談話筆記〕
明らかに子規の影響で作り始めたのである。子規は十月十九日に松山を出発して帰京し た。すると漱石は,すぐそのあとから続々と子規に句稿を送り,十二月末までに約二百四 十句を見せている。翌二十九年四月,松山中学を辞し,熊本の第五高等学校に転じた。六 月には中根鏡子と結婚して新居を構えた。かくの如く彼の境遇は相当に動いたけれども作 句熱はいささかも衰えず,二十九年中の作ま実に四百九十五句に達し,彼の生涯における 最高の制作振りを示している。子規の作句もこの年が最高であった。両雄の俳句熱最高潮 の時期が期せずして一致しているのは面白い。これから三十二年まで多くの作を見たが,
三十三年のロンドン留学を境として作句は激減する。
漱石は明治二十八年始めて俳旬を作る。始めて作る時より既に意匠に於て句法に於て 特色を見はせり。其意匠極めて斬新なる者,奇想天外より来りし者多し。
と評し,その例として,
永き日や輩陀を講ずる博士あり 此土手で追ひ剥がれしか初桜 蘭の香や聖教帖を習はんか 累々と徳孤ならずの蜜柑かな
等を挙げ,〔漱石亦滑稽思想を有す〕と評して,
出代の花と答へて厳なり 南瓜と名にうたはれて歪みけり 長けれど何の糸瓜とさがりけり
等をその例句となし, 〔又漱石の句法に特色あり,或は漢語を用ゐ或は俗語を用ゐ或は 奇なる言ひまはしを為す。〕と言うて,
冴え返る頃をお厭ひなさるべし 明月や丸きは僧の影法師
作らねど菊咲きにけり折りにけり 鶏頭や代官殿に御意得たし
等を挙げ,更に〔然れども漱石亦一方に偏する者に非ず。滑楷を以て唯一の趣向と為し 奇警人を驚かすを以て高しとするが如き者と日を同じうして語るべきにあらず。其句雄健 なるものは何処迄も雄健に,真面目なるものは何処迄も真面目なり。〕と論じ,
短夜の芭蕉は伸びてしまひけり
酒なくて詩なくて月の静かさよ 生垣の上より語る小春かな 反橋の小さく見ゆる芙蓉かな ひやひやと雲が来るなり温泉の二階 枕辺や星別れんとする農
等の句をその例として掲げている。子規は二十七年頃から写生風の句を作り始め・二十 九年頃から彼の関心は芭蕉から蕪村へと移りかけていた。上掲の批判は,そうした子規の 立場から発せられている。ところが,子規の主張する写生と漱石の行う写生とにはズレが あり,その上漱石は主観表現を得意としていたので,両者の意見は必ずしも一教はしな かったらしい。
小生の写実に拙なるは入門の日の浅きによるは無論なれど天性の然らしむる所も可有 之と存候
という書簡〔28年11月14日附,子規宛〕の中の一節がこれを証する。併しながら上掲の 子規の批判は,そうしたズレに拘泥することなく,よく漱石俳句の句風を捉えた批判であ ると考えられる。
自ら写生に拙なるは,というているが,写生句にも佳句が少くない。
白露や芙蓉したたる音すなり(28年)
鳩の糞春の夕の絵馬白し(29年)
駄馬つづく阿蘇街道の若葉かな(29年)
据風呂の中はしたなや柿の花(29年)
切口の白き芭蕉に氷りつく(31年)
乾鮭のからついている柱かな(31年)
遣羽子や君稚児髭の黒眼勝(32年)
等がその例である。〔切口の一〕などは漱石文学全体にも通ずる個性のはっきりにじ み出ている句で,その感触は〔行人〕あたりのそれとぴったりしている。併し,心情を率 直に表現した主観句の方に漱石の漱石らしい特色がより多く出ている事実を否定すること はできない。
いたつらに菊咲きつらん故郷は(28年)
此夕野分に向いてわかれけり(28年)
永き日や欠伸うつして別れ行く(29年)
衣更へて京より嫁を貰ひけり(29年)
枕辺や星別れんとする農(29年)
塚 本:漱 石俳 句 小 考 37 人に死し鶴に生れて冴え返る(30年)
董程な小さき人に生れたし(30年)
仏性は白き桔梗にこそあらめ(30年)
安々と海鼠の如き子を生めり(32年)
(3)
等は主観句の代表作といえよう。尚,この時期には,滑稽句というよりは,ふざけ気味 の多い句のあることも注目される。たとえば,
猫も聞け杓子も是へ時鳥(28年)
花芒小便すれば馬逸す(28年)
去ればにや男心と秋の空(28年)
女郎共推参なるぞ梅の花(28年)
あんかうや孕み女の釣るし斬り(28年)
氷る戸を得たりや応と明け放し(29年)
短夜を君と寝ようか二千石とらうか(29年)
某は案山子にて候雀どの(30年)
の如き句である。この種の旬は三十二年以後には,ほんの一二句ぐらい見出せるだけで ある。ふざけて作ったのではなくて,いらいらしている気持を,こんな形で吐き出したの かも知れぬ。この推定があたっているとするなら,後年書いた〔吾輩は猫である〕の発想 と全く同一線上に在る句といえる。然りとすれば滑稽旬でもなければ,ふざけた旬でもな くして,正に悲劇的俳旬であるともいえよう。
蕪村の影響が顕著に認められるのもこの時期における大きな特色の一っである。蕪村に 歴史句の多い事実は周知の通りだが,漱石もかなりに歴史句を作っている。
菊の香や晋の高士は酒が好き(28年)
紅葉をば禁裏へ参る琵琶法師(28年)
時鳥弓杖ついて源三位(28年)
西行の白状したる寒さ哉(28年)
絶頂に敵の城あり玉霰(29年)
源蔵の徳利をかくす吹雪哉(29年)
門柳五本並んで枝垂れけり(乙9年)
西の対へ渡らせ給ふ葵かな(29年)
星飛ぶや枯野に動く椎の影(29年)
寒山か拾得か蜂に整されしは(30年)
枚をふくむ三百人や秋の霜(31年)
老聰のうとき耳ほる火燵かな(32年)
狙裸其角並んで住めり梅の花(32年)
喪を秘して軍を返すや星月夜(32年) ・ かくの如き歴史句を漱石は晩年に到るまで作っている。
白牡丹李白が顔に崩れけり(大正4年)
桃に琴弾くは心越輝師哉(大正5年)
などがその作例である。併しながら最も多く作ったのは三十二年までである。
漢文句調の句も少くないが,これを蕪村の影響のみと断ずるのは無理であろう。芭蕉に も〔髭風ヲ吹テ暮秋嘆ズルハ誰ガ子ゾ〕の如き漢文句調の旬が多くあり,特に延宝末年か ら天和初年へかけての句中に数多く見出せる。漱石は芭蕉の句にも親しんでいたから,こ ちらの影響をも無視することができない。又,幼時から接していた支那文学の感化にも因 るところがないとはいわれまい。
(1)明治29年の俳句界(改造社版子規全集第四巻所収)
② これは子規のひとりぎめである。
{3)小宮豊隆氏は,滑稽句の生まれた根拠に就いて〔滑稽を旨とした句が相当に多い。然もこの 事は,漱石の態度が純粋に客観的である事に堪へない事を,半面から証明する。滑稽には批評 がある。また滑稽には表象の突飛な聯結がある。従って滑稽では,客観の上に主観が君臨す る。仮令滑稽を形成する要素は客観の世界であっても,それらの要素に滑稽の光をかけるもの は,主観の世界に外ならないのである。〕と解釈している。(夏目漱石282頁)
明治三十三年九月八日,漱石はドイツ船プロイセン号に乗ってロンドン留学の旅に出発
した。
秋風の一人をふくや海の上 雲の峰風なき海を渡りけり 赤き日の海に落込む暑かな
〔秋風や一〕は出発直前(9月6日)に寺田寅彦に贈った句である。旅の想像句であ るが,自然で落着いている佳句である。
三十四年には十九句ものしている。
吾妹子を夢みる春の夜となりぬ
この句には〔もう英国も厭になり候〕という前書がある。漱石は英国に反機しながらロ ンドンで暮した。永井荷風がパリに陶酔していたのとは逆である。〔僕の趣味は頗る東洋 的発句的〕とロンドンの真中でうそぶいていたのが漱石であった。だから,
渋柿やにくき庄屋の門構
茶の花や智識と見えて眉深し
塚 本:漱 石 俳 句 小 考 39 茶の花や読みさしてある樗伽経
の如き句を作っている。西洋を深く知れば知るほど東洋をはっきり自覚せずにはおられ なかったのが漱石であった。人を知ることによって自己を確認する人間であった。
三十五年には十句生み出した。
三階に独り寝に行く寒かな なつかしの紙衣もあらず行李の底 花売に寒し真珠の耳飾
等はロンドン生活風景の句。頭の調子が悪くなり,友人を心配させたのはこの頃で,岡 倉由三郎は文部省に漱石に精神異常の徴候ありと電報を打ったほどであった。
漱石を俳句にひき入れた子規は,九月十九日に永眠した。子規の言陵聞いて作ったのが 次の五句である。
筒袖や秋の枢にしたがはず 手向くべき線香もなくて暮の秋 霧黄なる市に動くや影法師
きりぎりす昔を忍び帰るべし 招かざる薄に帰り来る人ぞ
(1)
〔霧黄なる一〕について大野林火は〔霧黄なる市の「黄」は霧の深いロンドンの憂欝 を端的に示す表現だが,それはまた漱石の憂愁だ。その霧の中をさまようごとく動くこの 影法師は,あたかも黄泉の国をさまよう人影に似ている。漱石はそこに子規の悌を忍んで いる。「動くや」には凝視がある。〕と解している。たしかにこの句には憂愁にとざされ た漱石の切実な凝視がある。これまでの句にはこの凝視が少かった。手際よい写生,奔放 な心情表白,切れ味のいい皮肉,見事な造型はあったが,じっとして食い入る凝視が不足 していた。ロンドンの宿舎における哀愁は,漱石にかかる凝視の句を作らせた。これは漱 石俳句の一展開というぺきであろう。
子規の死は漱石俳句にひとつの前進を促したけれども,しかしながら作句欲を減退させ た事実をも見逃し得ない。十二月五日,ロンドンを出発し,翌三十六年一月に帰朝してか らの作句数は,四十年の百三十句,四十三年の百四十五句,大正三年の百二十二句を山と して,他の年の制作はすぺて五十句以下となっている。小宮豊隆氏は,俳句に盛り切れぬ 世界を持つようになったから,と説明しているが,それだけが減退の理由でもあるまい。
それだけの原因だとしたら,〔明暗〕を書きながら四十八句も作るはずがない。漱石には
奨められればやってみる,という性格があったのである。英文学にはいったのは米山保
三郎の助言に依り,小説を書き始めたのは高浜虚子の要求に原因する。だから子規が生き
ていたなら,やはりもっと活発に作りつづけていたであろう。
子規の永眠は,積極的に作る意力を低下させたけれども,かれこれと無理な注文をつけ る人間がおらなくなったので,却って,のんびりと思うがままに作れるようになった一面 もある。真情を率直に表現した句に秀作の多いのはそのためであろう。
愚かければ独りすずしくおはします 無人島の天子とならば涼しかろ 能もなき教師とならんあら涼し 楽昼寝われは物草太郎なり 一大事も糸瓜も糞もあらばこそ 等は三十六年の句,
本来はちるべき芥子にまがきせり は三十九年作,
生残る吾恥かしや髪の霜 梢寒の鏡もなくに櫛る 生ぎ返るわれ嬉しさよ菊の秋 生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉 古里に帰るは嬉し菊の頃 静なる病に秋の空晴れたり 大切に秋を守れと去りにけり 肌寒をかこつも君の情かな 骨の上に春滴るや粥の味 朝寒も夜寒も人の情かな 肩に来て人懐しや赤蜻蛉 有る程の菊拗げ入れよ棺の中 腸に春滴るや粥の味
等が四十三年の句である。
留学前の句には技巧の跡が目立つが,帰朝後の句はさらりとした相を持つようになっ た。作ろうとして力んで作った句でなくて,自ら生まれ句たであるからであろう。又,留 学前の句には一種のあくどさが漂うていたが,帰朝後の作は,それが浄化されて,静説澄 明な句が現われて来た。こうした傾向にも句風の伸展成長が認められよう。
打つ畠に小鳥の影の屡々す(40年)
別るるや夢一筋の天の川(43年)
塚 本:漱 石 俳 句 小 考 41
まことに静かであり,澄んでおり,又自然な表現である。かかる句風の樹立は決して作 (2)句技巧に依ってのみ期待されるものではない。もちろんレトリックを離れた作句は考えら
れないが,そのレトリックは勝れた句を生む一要素であって,全部の要素ではない。句を 生む根底である俳人の〔人間〕そのものの成長こそ重大な要素である。この間の事情を説 明しているのが次の批判であろう。
だんだんと漱石の俳句は,漱石の精神風景を物語るようになり,精神が自然の景物の 騎につつまれてゆくようなナイーヴなものとなったのである。(伊藤整・近代文学鑑 賞講座・第五巻・224−5頁)
ところで,俳句と関連の深い漢詩の分野を眺めてみると,留学前の漢詩には,或は人生 無解決の歎きを,或は自然愛と人間執着との対立を,或は自然の美しさを,かなり大きな
ゼスチュアで詠じている。己の愚の自覚や,陶淵明・寒山への魅力なども詠じているが,
どちらかといえば知識的な発想で,切実な実感に欠ける憾みがある。ところが留学後の作 を見ると,
風流人未死 病裡領清閑 日日山中事 朝々見碧山
m
仰臥人如唖 黙然見大空 大空雲不動 終日杏相同
日似三春永 心随野水空 淋頭花一片 閑落小眠中
の如き,清閑に生きる心境を淡々と詠ずるに到った。正に句境と詩境は完全に相通じて いる。漱石における英文学研究が知識人漱石を育成する上に大きな力を与えていることは 周知の通りであるが,その知識を支える人間漱石そのものの育成にはあまり効果がなかっ たといえる。なんとなれば,人間漱石は,どこまでも東洋人として生長をつづけているか わである。句風詩風の展開が明らかにこれを証している。
(1)明治書院刊・俳句講座・第六巻・66頁
② 吉村冬彦が熊本五高在学中,二年生の学年試験が終って,漱石を訪ねた折,「俳句とは一体 どんなものですか」と質問したら,「俳旬とはレトリックの煎じ詰めたものである。」「扇の 要のやうな集中点を指摘し,描写して, これから放散する連想の世界を暗示するものであ
る。」「花が散って雪のやうだと云ったやうな常套な描写を月並といふ。」「秋風や白木の弓
につる張らんと云ったような句は佳い句である。」「いくらやっても俳旬の出来ない人もある
し,始めからうまい人もある。」など答えたという。漱石も自覚的にレトリックに苦心してい
たことがわかる。(改造社版・俳句講座・第八巻所収・夏目先生の追憶)
漱石は青年時代から騨に関心を持っていた。明治二十七年の暮から翌年一月にかけて,
鎌倉の帰源院で宗演和尚に参した経験を持つ。後年, 〔門〕を書いたとき,この経験を素 ・ 材として使っている。〔行人〕の中にも輝を問題にした有名な描写がある。しかし・これ
までの漱石における禅は,宗教としての騨というよりも教養としての輝の色彩が強かっ た。ところが晩年に到ると,ようやくにして輝味が漱石の内部に生きて来た。はっきり漢 詩の方にも現われて来たが,俳句の方にもそれが芽を出して来た。
内陣に仏の光る寒哉(大正3年)
落椿重なり合ひて浬藥哉(3年)
椋椙竹や月に背いて影二本(5年)
吾心点じ了りぬ正に秋(5年)
まきを割るかはた祖を割るか秋の空(5年)
饅頭に礼拝すれば晴れて秋(5年)
僧のくれし此饅頭の丸きかな(5年)
瓢箪は鳴るか鳴らぬか秋の風(5年)
煮て食ふかはた焼いてくふか春の魚(5年)
等がその例である。青年期の教養は永い間漱石の体内で温められていた。それが晩年に 到って,ようやく消化されて来たといえるだろう。
要するに漱石の俳風は,華やかでにぎやかな俳風から,清閑で自然な俳風に移り,晩年 に輝的な句風に達したといえるだろう。そうして,その展開は,漢詩の展開とも軌を一に
して、・るのである。
俳 句 の 特 質
漱石の俳句を展闘的に概観したので,既にその特質にも触れているが,ここでは,全作 品を対象として,前節で言い洩らした問題点について考察を加えてみたい。
漱石ぐらい自己の独自性を大切にした人間は極めて稀である。しかしながら,いかに独 自性を主張してみたところで,伝統と完全に絶縁した活動は期待されぬ。だから独立人漱 石にも先人の句に基づく作が勘くない。次に示すのはその句例で,括弧内の句は,漱石に 影響を与えていると推定される先人の句である。
烏帽子着て渡る禰宜あり春の川(鳥帽子着て誰やらわたる春の水・蕪村)
初冬や竹伐る山の銘の音
塚 本:漱 石 俳 句 小 考 43
(寺深く竹伐る音や夕時雨・召波)
秋の蝉死度もなき声音哉
(やがて死ぬけしきも見えず蝉の声・芭蕉)
絶頂に敵の城あり玉霰
(絶頂の城たのもしき若葉かな・蕪村)
烏飛んで夕日に動く冬木かな
(枯枝に烏のとまりけり秋の暮・芭蕉)
雑子の声大竹原を鳴り渡る
(子規大竹藪をもる月夜・芭蕉)
菜の花の中に糞ひる飛脚哉
(大徳の糞ひりおはす枯野かな・蕪村)
鶯をまた聞きまする昼餉哉
(うぐひすや家内揃ふて飯時分・蕪村)
奈古寺や七重山吹八重桜 奈良七重菜の花つ軍き吾形咲く
(奈良七重七堂伽藍八重桜・芭蕉)
居士一驚を喫し得たり江南の梅一時に開く
(月光西にわたれば花影東に歩むかな・蕪村)
夏痩せて日に焦けて雲水の果はいかに
(猿を聞人捨子に秋の風いかに・芭蕉)
古白とは秋につけたる名なるべし
(かさねとは八重撫子の名なるぺし・芭蕉)
凪や海に夕日を吹き落す
(五刀雨の空吹き落せ大井川・芭蕉)
吾栽し竹に時雨を聴く夜哉
(芭蕉野分して盟に雨をきく夜哉・芭蕉)
六波羅へ召されて寒き火桶哉
(鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉・蕪村)
ふるひ寄せて白魚崩れん許りなり
(白魚をふひる寄せたる四つ手かな・其角)
大轟や霞の中を行く車
(指南車を胡地に引去ル霞哉・蕪村)
小雀の餌や食ふ黄なる口あけて
(うぐひすの暗やちいさき口明けて・蕪村)
御曹子女に化けて朧月
(公達に狐ばけたり宵の春・蕪村)
ひいと鳴いて岩を下るや鹿の尻
(ひいと哺尻声悲しよるの鹿・芭蕉)
秋の江に打ち込む杭の響かな
(朝霧や杭打音丁々たり・蕪村)
風流の昔恋しき紙衣かな
(風流の昔恋しや田植笠・芭蕉)
呑口に乙鳥の糞も酒屋哉
(鶯の餅に糞する縁の先・芭蕉)
裏山に蜜柑みのるや長者振
(三椀の雑煮かゆるや長者ぶり・蕪村)
時鳥廊半ばに出兼ねたり
(時鳥顔の出されぬ格子かな・野坂)
風に聞けいつれが先に散る木の葉
(裏を見せ表を見せて散る木の葉・良寛)
かかる模倣句は全期を通じて指摘することができるけれども,特に多く発見されるのは 明治二十九年の作中からである。即ち句作数の最も多い年に,模倣句もまた多かった。狙 いや技巧を体得する意図の下に,先人の句を土台にして積極的に作ってみたのであるかも 知れぬ。とにかくこの事実に依って,漱石も先人の作品を踏まえて伸び上がろうとしてい たことだけは明らかである。それから,蕪村と芭蕉の句を多く材料としている傾向も見逃
し得ない。両先人の影響を受けている客観的な証拠と認められるからである。
真夜中は淋しかろうにお月様 明月や拙者も無事で此通り 蝉よ秋ぢや鳴かうが鳴くまいが
これ昇よと云はぬ許りに月が出る
いずれも明治三十年作だが,一見して判る通り,この四句の発想は,あまりにも一茶的 である。一茶に代って作った句だとも皮肉れよう。ここに一茶の影響も認められよう。
長けれど何の糸瓜とさがりけり
は,〔世の中を何のへちまと思へどもぶらりとしてはくらされもせず〕という狂歌をも
塚 本:漱石俳 句小 考 45 とにしている。多角的表現を求めるところから,狂歌にまで手をのばしたのであろう。
周知の如く模倣句は子規にもあれば芭蕉にもある。小説の世界にもある。芥川竜之介の
〔蜘蛛の糸〕などはその最なる好例といえる。問題は,単なる模倣の領域にとどまってい るか,それとも原作以上の境地を拓いているかにある。もしも原作以上の作晶となってい るならば,形式は模倣であるとしても,本質的には既に独自の存在を主張し得る作品とな っている。だから〔蜘蛛の糸〕などはドストエフスキイ〔カラマゾフの兄弟の第七篇第三
・一 {の葱の醗案である〕の名を除外して,高く評価されている。だから問題は模倣とい う過程ではなくして,でき上がった作品の価値如何である。ここで漱石の模倣句を眺める
と,
ふるひ寄せて白魚崩れん許りなり
は漱石の代表句といわれている。其角の〔白魚をふるひ寄せたる四つ手かな〕とは,く らべものにならぬ新鮮な感じと,しみじみした愛情が出ている。正に原作を凌駕する佳句 で,芭蕉の〔明ぼのやしら魚しろきこと一寸〕と優に拮抗し得る。
秋の江に打ち込む杭の響かな
にしても〔朝霧や杭打音丁々たり〕より劣る句柄ではない。迫力という点から見れば,
漢文句調をとっているので蕪村の句の方が上であろうが,蕪村の句にない自然の明かるさ が快く表現されている。原作以下の句ではない。しかしながら,すぺての模倣句が原作以 上にできているとはいえぬ。たとえば,
菜の花の中に糞ひる飛脚哉 などは,どんな好意を以てしても,
大徳の糞ひりおはす枯野かな
には到底及ばぬ。蕪村の句においては,対照も自然であるし,浮かび上がるをかしみに も糞を克服した品の良さがある。漱石の句にはわざとらしさが目立ち,句品も決して上と はいえぬ。かくの如く,時に原作より劣る句もないではないが,原作を超えた句も存在す
るのであるから,伝統を踏まえた上での漱石の独自性を十分に認めることができる。
蕪村の句を多く模倣していることに依って蕪村の影響を強く受けていることが客観的に 判るといったが,先にも言及した通り歴史句の数多い事実もまた蕪村の影響を示している
と考えられる。
漱石の歴史句は約百二十ほどある。多く作ったのは,二十八年の十九句,二十九年の四 十句,三十年の十七句,三十二年の十六句,である。即ち作句数の多い年ほど歴史句も多 いという傾向を示している。
〆
弁慶に五条の月の寒さ哉(28年)
時鳥弓杖ついて源三位(28年)
土佐坊の生檎られけり冬の月(28年)
幼帝の御運も今や冬の月(28年)
御車を返させ玉ふ桜かな(29年)
配所には干網多し春の月(29年)
御簾揺れて蝶御覧ずらん入の影(29年)
鶏頭や代官殿に御意得たし(29年)
よき敵ぞ梅の指物するは誰(30年)
春の夜を兼好縞衣に恨みあり(30年)
枚をふくむ三百人や秋の霜(31年)
老贈のうとき耳ほる火燵かな(32年)
山賊の顔のみ明かき梢火かな(35年)
春風や惟然が耳に馬の鈴(39年)
俊寛と共に吹かるる千鳥かな(42年)
門鎖ざす王維の庵や尽くる春(大正3年)
白牡丹李白が顔に崩れけり(4年)
桃に琴弾くは心越輝師哉(5年)
これらが漱石の歴史句の例である。すべて想像に依って作られた句であることはいうま ・ でもあるまい。蕪村の歴史句もまた想像の所産であった。想像に依る作品という点では両 者は完全に一致している。次に考えなければならないのは,その表現意図である。蕪村の 場合は,古典的情趣を表現するところに狙いがあった。いわゆる離俗の実現にあった。こ れに対して漱石の意図は,自己の心に結晶した感じを歴史的事象をかりて表現しようとす るところに狙いがあった。蕪村の意図が占典趣味に限定されているに比して・漱石の意図 は,それが人間に実在する心情であるなら,なんでもよろしかった。ここに蕪村の歴史句 と漱石のそれとの相違がある。この相違の根源は,蕪村が古典趣味者であり,漱石がヒュ 一マニストであったところに由来する。おそらく漱石は蕪村の歴史句に接して,過去の事 象を使っても現在の心情を表現し得るだろうという見通しをつけて,大いに歴史句を作っ たのであろう。
ここで俳句だけに限定せず,漱石の文学活動の全領域を視野に収めて,彼の創作態度を
考えておく必要がある。漱石は,田山花袋が〔三四郎〕を批評したのに対し,〔田山花袋
君に答ふ〕と題する小論を国民新聞(明治41年11月7日)に掲げたが,その文中で,端的
塚 本:漱 石俳 句 小 考 47 に自己の創作態度を表明している。
愚見によると,独歩君の作物は「巡査」を除くの外悉く持へものである。 (中略)花 袋君の「蒲団」も持へものである。(中略)持へものを苦にせらる〜よりも,活きて 居るとしか思へぬ人間や,自然としか思へぬ脚色を持へる方を苦心したら,どうだら う。椿らへた人間が活きているとしか思へなくって,持らへた脚色が自然としか思へ ぬならば,持らへた作者は一種のクリエーターである。持らへた事を誇りと心得る方 が当然である。
即ち,小説は持えるぺきであり,持らえた作物が自然であり,活きていれば,それであ っばれな作品といえる,という考え方である。されば,この小論の文末で,はっきり〔小 生は小説を作る男である〕と断言している。この創作態度は小説にのみ適用されたのでは なかった。漢詩もこの態度で作ったし,南画もやはりこの態度で描いた。
夜色幽扉外 辞僧出竹林 浮雲回首尽 明月自天心
これも作った詩である。写した詩ではない。南画に就いても,一生かかって一枚でもい いから頭の下るような画を描きたい,といっている。俳句もまたこの創作態度でものした であろうことは疑う余地がない。
いうまでもなく歴史的事象は一応のまとまりを得てわれわれの心に宿っている。だから 句を作る材料としては,比較的まとめ易い対象となる。表現しようとする心情にふさわし い構成を与えれば句としてまとまる。漱石が歴史句を多くまとめた事情はこの辺に在ると 考えられる。蕪村の歴史句に刺戟されて,自己の創作態度を生かす領域を発見したところ に歴史句が作られたともいえるだろう。
漱石に滑稽味のある句の多いことも諸家の指摘する通りである。
出代や花と答へて肢なり 達磨忌や達磨に似たる顔は誰
どっしりと腰を据ゑたる南瓜かな
(i)
叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな
某は案山子にて候雀どの
萄蕩に梅を踏み込む男かな
妹が文候二十続きけり
喰積やこ㌧を先途と悪太郎
安々と海鼠の如き子を生めり
滑稽味のある句の例である。 〔叩かれて一〕や〔安々と一〕には自然に盛り上がる
〔をかしみ〕がある。その〔をかしみ〕は奇抜な観察や巧みな技巧に因るものではない。
事実を事実のままに自然に句としたにしか過ぎない。言葉のあやに誘起される〔をかしみ
〕ではない。対象そのものが本来から含有している〔をかしみ〕である。その〔をかしみ
〕を漱石が発見して句にしたわけである。即ち漱石の鋭い観察力の生み出した句といえ よう。滑稽文学の尤なるものである。〔達磨忌や一〕〔どっしりと一〕などもこの傾 向の句である。
しかし,〔出代や一〕は〔花〕という名と〔破〕という体の矛盾を指摘して,そこに
〔をかしみ〕を浮き上がらせようと考えているらしいが,成功していない。みがき不十分 のために,そうした意図が簡単に見破れる。〔妹が文一〕は川柳的で,下品である。〔
をかしみ〕もなければ批評もなく,勿論〔憤り〕もない。感受されるのは粗野な嘲笑的態 度のみである。漱石には,この種の句が相当に存する。江戸っ子的性格の,どうかと思わ れる…面の露出と推定される。
猫も聞け杓子も是へ1時鳥 花芒小便すれば馬逸す 待て座頭風呂敷かさん霰ふる ゑいやっと蝿叩きけり書生部屋 秋の蝿握って而して放したり
なある程是は大きな浬繋像 蟷螂の何を以てか立腹す 炭団いけて雪隠詰の工夫哉
これらも,その嫌味たっぷりの句である。まともな文学とはいえないであろう。しかし
ながら,
一大事も糸瓜も糞もあらばこそ 刺さずんば已まずと誓ふ秋の蚊や 達磨傲然として風に囎く鳳巾 蟷螂のさりとては又推参な
等の句には漱石の憤りが脈打っている。特に〔一大事一〕あたりには,やがて不動の 自我に成長して行く青年漱石の,どうにもならぬ生きることへの怒りが,じかに感受させ られる。〔をかしみ〕は形であっぐ,本質は悲痛の二字を以て説明すぺきである。〔吾輩
@ く2)
ヘ猫である〕の〔をかしみ〕と共通している。小宮豊隆氏は,〔殊に漱石は,何かしら自
分の腹の中にたまってゐるものを,がっと吐き出してしまふのでなければ,落つく事が出
塚 本:漱石 俳 句 小 考 49 来ない気がしてゐたに違ひないのだから,久し振りに漢詩を取り上げて見た漱石が,それ によって創作の歓びを味ふとともに,もっと簡単に,もっと自由に,もっと直接に,自分 自身を表現する事の出来さうな器として,俳句を少し作って見たい気になったのは,当然 の経過であると言って可いかも知れない。〕の如く漱石が作句し始めた事情を説明してい
るが,腹の中にたまっているものを,がっと吐き出した,という説明が見事にあてはまる のは,この句あたりであろう。
要するに漱石の滑稽句は,鋭い観察によって生まれた句,慰み的気分でしゃべり立てる ように作った句,生の憤りを〔吾輩は猫である〕的に表現した句の三に分けられる。而し て,一と三とに秀作の多くが含まれていることはいうまでもあるまい。
〔1)大野洒竹の句に〔巌ごんと編蟷三つ撞き出しつ〕がある。着想に類似がある。制作年時不詳 なので,〔叩かれ一〕との先後を定め難いが,関係がありそうに思われる。
(2)夏目漱石・277頁
尚,漱石俳句の特質を考究するにあたっては,真率な主観旬と弾的な句とをとり上げね ばならないのであるが,〔旬風の展開〕の項で,それらに言及してきたので,ここでは再 説しないこととする。
漱石文学における俳句
漱石の文学活動は東洋文学系の領域と西洋文学系の領域とに分れる。漢詩・俳旬が前者 で,小説・批評・英文学研究が後者に属する。随筆は両系にまたがる性格を持つ。漱石は
明治三十七年十二月から小説創作のペンをとり,この小説創作が生涯における中心的な仕 事となった。併し,最も早く始めた漢詩と俳句は,中心的活動とはならなかったとしても 又・ときどき切れた年があったとしても,全文学活動の根強い底流として大正五年に到る
まで絶えず作りつづけられて来た。
それでは漱石は,漢詩と並んで作りつづけられた俳句を,どのように考えていたのであ ろうか。周知の如く〔草枕〕においては,西洋文学をけなして東洋文学を強調し,俳句の 価値をも再確認させようとしている。西洋文学をけなしたのは東洋文学再確認のための一
侵)
つの技巧であって,決してそれの否定ではなかった。だから,〔草枕〕発表の直後,鈴木
三重吉に〔俳句趣昧は此閑文字の中に遣遥して喜んで居る。然し大なる世の中はか㌧る小
天地に課ころんで居る様では到底動かせない。〕〔かの俳旬連虚子でも四方太でも此点に
於ては丸で別世界の人間である。あんなの許りが文学者ではつまらない。〕〔僕は一面に
於て俳譜的文学に出入すると同時に一面に於て死ぬか生きるか,命のやりとりをする様な
維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい。〕と言っている。俳句の価値は肯定 するが,それに身を任せてはおられない,という考えである。
発句ナンカ下火極マルマルデ作ル気ニナラン然シ退窟凌ギニ時々ヤル得意ノ余二出ル ノデハナイー時ノ欝散ト云フ資格サ
これは明治三十六年七月三日,菅虎雄に与えた手紙の中の一節である。俳句を軽蔑しな がら,それから離れ得ない気持が読みとれる。こんなに俳句をさげすみながら,三年後に は〔草枕〕を一気に書き上げたのであるから漱石もなかなか複雑な人間である。とにかく 漱石は身を任せ得る文学とは考えられないにしても,その存在価値を肯定し,而もこれか
ら離脱し得なかったのである。
漱石にとって俳句は宿命的文学であった。それなら,いかなる俳句をよしとしたか。明 治二十九年頃,了規,虚子たちは好んで十七字定型を無視した句を作った。この傾向を眺 めた漱石は下記の如き書簡を子規に送っている。
虚子の俳論を読み候内容と外容の議論「論事矩」を応用したる所面白く御座候或点に 於て内容を充すと同時に外容を縮めざる事を力むぺきは誰も同感ならんと存候然し夫 が為め好んで詩形の外に逸出せば遂に俳句なきに至らんか況んや外容内容共に依然た るの時に於て猶好んで字句を膨張せ球不必要の勢力を使用するに過ぎざらん虚子好ん で長句を用ふ是既に十七字の詩塁を離れんとするなり全く離るトは可なり虚子今日の 挙動は半身を塁外に排して敵を摩くが如し矢石の標ならずんば幸なり敢て貴意を問 ふ。 (明治29年11月15日附)
俳句を俳句とするためには,どこまでも十七字定型を守るぺきである,という意見であ
(5>
る。されば,碧梧桐の行き方にも尾いて行かず,小生の俳句は十八世紀の俳句だ,などと うそぶきながら最後まで定型句で押し通したのであった。
次に俳句と他の文学との関係について一一言したい・俳句と漢詩とは共通的な面が勘くな い。〔蝸牛や五月を膨る蕗の茎〕と相似た詩に,
緑雲高幾尺 葉々畳清蔭 雨過更成趣 蝸牛捗翠答
がある。特に晩年に到ると,静誼な観照を,輝味豊かな心境を,或は俳句とし,或は漢 詩として,気持の赴くままに表現している,といっても過言ではない。俳句と小説との相 関も浅くない。俳句的境地を見事に小説化した作が〔一夜〕である。夏の夜,或る家に,
二人の男と一人の女が会して,とりとめのない話をすることを,淡々と,それでいて余韻
を十分に持たせて見事に表現し尽くしている。俳句を引き伸ばしたような作品だが,引き
伸ばしたからといって, だらしなく伸びてはいない。固からずに締った作品となってい
塚 本:漱 石 俳 句 小 考 51 一
る。〔大きな俳句〕とでも言いたい小説である。〔莚露行〕も俳句的発想で書いた美しい
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