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日本の韓国併合と米国   一九〇六~一九一〇年 ―

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七五日本の韓国併合と米国  一九〇六~一九一〇年(都法五十四-一) 〔特別寄稿〕

日本の韓国併合と米国   一九〇六~一九一〇年 ―

「統監政治」の開始・転換と米国の対応

長   田   彰   文

はじめに

日本は明治維新後、隣国である朝鮮への侵出を図り、日清戦争での勝利で朝鮮の宗主国である清国を破って、優

位を確立した。しかし、その後、帝政ロシアが朝鮮における優位を確立し、日本は、朝鮮(一八九七年一〇月一二

日に国号を「大韓帝国」と改称し、中国との冊封体制を自ら否定し、皇帝制をとった。以下、「韓国」と称する)

から後退を余儀なくされた。その後、ロシアの東アジアへのさらなる進出を抑えるべく、日本は一九〇二年一月、

英国と日英同盟を結んで、ロシアに対抗しようとした。また、ロシアの動きに危機感をいだいたのが、米国であり、

特に一九〇一年九月に副大統領から大統領に昇格したセオドア・ルーズベルト(TheodoreRoosevelt以下、TRと

略記)はまだ副大統領候補であった一九〇〇年、東アジアにおける勢力均衡の維持が米国にとってプラスになると

(2)

七六

いう思いから、「私は、日本が韓国を手にするのを見たい。日本は、ロシアへの牽制となろうし、それに値する。

しかし、中国分割がないことを望む」と語り、日本が韓国において支配的立場に立つことを願った。結局、日本が

望む「満韓交換論」を一九〇三年から始まった日露交渉においてロシアがのまなかったため、日本が一九〇四年二

月、満州(現在の中国東北部)および韓国において仕掛ける形で日露戦争が始まり、軍事的に韓国を占拠し、同月

の日韓議定書および八月の第一次日韓協約の締結によって韓国において政治的にも優位な立場にたったが、TRは

じめ米国政府要人たちは、そのことを是とした。しかし、特にTRは、日本が「勝過ぎ」によって東アジア国際政

治における勢力均衡を崩すこと、また日本が太平洋方面に南下して、特に米国の統治下にあったフィリピンに手を

伸ばすことを恐れ、日露対峙による両国の力の消耗を望むようになり、さらに韓国人は無力であり、自立・独立は

できないと低く評価したこともあり、日本をアジア大陸方面にひきつけるべく日本の韓国支配をいっそう望むよう

になった。そのような折、TR政権で陸軍長官であったタフト(WilliamH.Taft)が一九〇五年七月、アジア歴訪

の最初に来日したが、首相の桂太郎の求めに応じて会談し、日本はフィリピンに野心ももたず、米国の領有を望む、

米国は国是のため、日英同盟に正式には参加できないものの、極東平和のために日英と協調する、日清・日露戦争

のもととなった韓国が再びそうならないようにするため、日本が韓国において宗主権をたてることを米国は認める、

以上の三点で合意し、タフトからその旨、連絡をうけたTRも、全面的に同意すると回答した(「桂・タフト協定

(覚書)」)。八月の第二回日英同盟において日本の韓国における宗主権樹立について英国からも承認をうけた日本は

九月、ロシアとのあいだで講和条約を結び、韓国での指導・監理権をロシアに承認させたが、領土や賠償金は獲得

できなかった。そのため、日本は、韓国の保護国化を急ぎ、一一月一七日、第二次日韓協約を強引な手法をもって

調印し、韓国の外交権の日本への移行、韓国における統監府の設置などをもりこみ、韓国を保護国とした。そのよ

(3)

七七日本の韓国併合と米国  一九〇六~一九一〇年(都法五十四-一) うな状況と前後して、韓国政府、特に高宗は、一八八二年に欧米諸国中で最初に米国と調印した米朝修好通商条約の「周旋条項」に基づいて米国への援助を求め、のちに現在の大韓民国の初代大統領となる李承晩、自らの顧問で米国人のハルバート(HomerB.Hulbert)などを米国に送って訴えたが、TRや国務長官のルート(ElihuRoot)な ど米国政府首脳は、韓国の要請を聞き入れず、韓国からの公使館撤収を最初に表明し

た。

日本は韓国の保護国化後、韓国に統監府を設置し、初代統監に就いた伊藤博文のもとで「統監政治」を展開した。

一方、日米関係は日露戦争終結後、満州での日本の軍政継続問題、海軍問題、米国西海岸における日系人排斥問題

などで摩擦を見せるようになった。そのような状況のなかで、米国が日露戦争前後には承認した日本の韓国での立

場に何か変化があったのか、韓国における日本の「統監政治」をどのように認識したのかなどについては、米国側

の一次史料がこの時期に関して、そのほかの時期に関するものと違う形で収録されたこともあってか、先行研究に

おいては充分にふれられてこなかっ

た。そこで、本稿においては、その一次史料、また大統領や国務長官などの個

人文書などを用いて、日本が「統監政治」を始めた一九〇六年から韓国を併合する一九一〇年にかけて、米国がそ

の間の状況の推移をいかに認識し、それをうけていかなる外交政策を展開したのか、それが日米関係にどのような

影響を及ぼしたのかなどについて探り、そこにいかなる特徴や問題点があったのかなどを検討してみたい。

一   韓国における「統監政治」の開始・展開と米国

前述したように、米国は一九〇五年一一月の第二次日韓協約の締結による日本の韓国保護国化をうけて、駐韓公

使館の撤収を最初に表明し、翌一二月には撤収を行なった。しかし、それによって韓国から米国の外交使節がまっ

(4)

七八

たくいなくなったわけではなく、それまでもあった駐ソウル総領事館が、駐日公使館(そして、一九〇六年二月に

日米関係が公使級のものから大使級のものへと格上げされたことをうけて、大使館に昇格)を上にいただく形で、

韓国における情報収集活動、在韓米国人の保護・指導活動などを行なうにいたった(このことは、日本がのちに韓

国を併合して、日本内の一地域としての「朝鮮」を統治するようになって以降も同様であり、結局、一九四一年一

二月の日米開戦によって駐日大使館、駐ソウル総領事館が閉鎖・撤収するまで続くことになる)。

第二次日韓協約の締結をうけて、一九〇五年一二月には韓国統監府がソウルに設置され、翌一九〇六年三月には

統監府のトップである初代統監として第二次日韓協約の締結を韓国政府に迫った伊藤博文が赴任してきた。そして、

伊藤は、韓国の状況が日本に脅威とならないようにするという前提の下、韓国の「改革」に着手し、さまざまな措

置をとるにいたった。しかし、米国の外交文書においてそのことについて初めてふれたのは、駐ソウル総領事パド

ック(GordonPaddock)が一九〇六年七月、日本の「統監政治」への反対を促してきた閣僚たちと高宗とのあいだ

の通信を防ぐため、宮殿内には日本の警察が配置されていること、義兵による蜂起がみられるが、その対象は日本

人移住者による悪行および日本の韓国併合を促していた親日団体の一進会であること、その義兵を日本軍が鎮圧で

きるかどうかはまだ定かではないこと、伊藤と高宗のあいだで会談がもたれたが、伊藤は義兵を促しているとして

高宗を難詰したと伝えられており、ことの真偽は明らかではないが、いかにもありそうであることなどを駐日大使

のライト(LukeE.Wright)および国務次官補のベーコン(RobertBacon)に報告したのが最初である。そして、

それに呼応すべく、中国の牛荘駐在総領事であったサモンズ(ThomasSammons)は同年一二月、日本の韓国国内

政策、伊藤の韓国政策の概略、外国人宣教師の見解、在韓日本人の数、日本内の諸自由に対する伊藤の見解、日本

の余剰人口、韓国の産業、教育と衛生などの項目で日本の対韓政策の概要をベーコンに報告し

た。米国が、事態の

(5)

七九日本の韓国併合と米国  一九〇六~一九一〇年(都法五十四-一) 推移、「統監政治」の行方を注視していたことがうかがえる。

つづいて、一九〇六年一二月、ライトが一九〇六年一〇月一九日に日韓間で締結された森林経営に関する日韓共

同約款についてルートに報告した。英訳が添付されているこの約款は、全七条からなるが、中朝国境西側を流れる

鴨緑江および同じく東側を流れる豆満江地域の森林は日韓共同で開発する、そのための資金は一二〇万円として、

両政府がそれぞれ六〇万円ずつ拠出する、利益は拠出金に応じて分ける、約款履行のために新たな条項が必要と判

明した場合は両政府任命の代表によって協議される、開発のために会社の設立が必要と判明した場合は、両政府は

協調してそのような組織のための手段を決定するなどであり、日本側は伊藤、韓国側は参政大臣(首相)の朴斎純

ほか閣僚二人が調印したものである。ライトは、日本での英字紙『ジャパン・タイムス』や『ジャパン・デイリ

ー・ニュース』での記事の切抜きなどを同封しつつ、韓国の宮中と政府とを分離すること、「韓国経済協会」の設

立などのさまざまな改革が韓国において進行中であること、これらの措置は財政改革や公共事業のみならず生命・

財産のいっそうの安全のためであると見なされていることなどを記し

た。ライトは、ここで約款に対する評価を記

してはいないものの、少なくとも否定的評価はしていない。

そして、ライトは一九〇七年三月、形式的とはいえども外国同士であった日本と韓国間において関税同盟を結ぶ

ことが日本の議会において議論されていること、そのことに関して伊藤の意見を代表する形で時の西園寺公望内閣

の与党であった立憲政友会がそのような関税同盟には反対していること、したがって近い将来においては関税同盟

が効力を有するようにはならないことなどをルートに報告し

た。日本の衆議院においてそのような議論が出された

のは、日韓間での通商が進展している一方で両国間の関税システムの違いが共通の経済的利害の展開にとって非常

な障害となっているので、それを廃止することが望ましいと複数の衆議院議員が主張したためである

が、史料には

(6)

八〇

記されてはいないものの、米国としては、そのような関税同盟が成立することになれば米国が限られた額であると

はいえ韓国に輸出をする際に不利な立場に立たされることにつながりかねないという懸念があったものと考えられ

る。一方、日本側は、関税同盟を成立させることによって、通商面での進展のみならず政治面における両国の一体

化をも図るという狙いがあっ

た。伊藤がこれに反対した理由も記されてはいないが、これによって得られるプラス

よりも列国の猜疑心をまねくことにつながりかねないマイナスのほうが大きいと判断した上でのことであったとも

考えられる。結局、この関税同盟は、実現にはいたらなかった。

さて、一九〇六年以降に日米関係が摩擦の度を加えるにいたったことの一つに米国西海岸における日本人移民に

対する排斥問題があったが、TRは、当時の西海岸における中心地であり、かつ日本人移民がもっとも多く、それ

ゆえに排斥ももっとも激しかったサンフランシスコ市(以下、SFと略記)の当局者たちに対して日米関係のいっ

そうの悪化につながるということで事態を放置しないよう求めた一方、日本人移民の増加も望ましくはないという

ことで、両者のあいだで「落とし所」を模索していた。そのような状況の中、SFからさほど離れてはいない西海

岸随一の名門大学であるスタンフォード大学のジョーダン(DaviasJordan)が一九〇七年一月、排斥の直接的契機

となったSF市当局による日本人および韓国人学童を公立学校から東洋人学校へと転校させる措置をとったことに

関して、韓国人学童は中国人学童と同様、東洋人学校に隔離・転校させてもかまわない一方、日本人学童は、日米

関係を考慮するならばそうしてはならないとTRに進言し

た。ジョーダンの進言に対して、TRが回答した形跡は

ないが、日本人学童は結局、この年から翌年にかけて七度にわたって日米間で交わされた日米紳士協約によって日

本が米国への移民を「自主規制」することが決まったことをうけて、東洋人学校から公立学校への復学が認められ

た。日本および韓国とは遠く離れた米国本国における動きであったとはいえ、米国が日本(人)と韓国(人)とを

(7)

八一日本の韓国併合と米国  一九〇六~一九一〇年(都法五十四-一) 前者が有利、後者が不利になるように認識し、その認識に基づいた措置をとったことがうかがえる。

その後、一九〇六年まで駐日公使館で勤務し、その中で反日的感情をいだくにいたったのち、帰国して同年に第

三国務次官補に就いていたハンチントン・ウィルソン(HuntingtonWilson)は一九〇七年七月、米国への日本人移

民問題をめぐって日米関係が緊迫化する中で「日本政府は、米国への移民を続けるよりもむしろやらなければなら

ない多くのことがある韓国への日本人の移民を選ぶと思われる」とルートに進言してい

た。それに対して、TRや

ルートが回答した形跡はないが、反日的であったウィルソンでさえも、日本との衝突は少なくともこの時期におい

ては避けたかったこと、日本の向きを韓国に向けるのに何のためらいもなかったことがうかがえる。

さらに、米国海軍の少将マウイー(H.W.Mawuey)は一九〇七年七月、日米が開戦する場合、日本は台湾および 韓国の平穏、それらおよび満州における利害の増進に全精力を要することになるとTRに進言し (1

た。それに対して、

TRは、やはり回答しなかったが、米国側が日本の勢力がアジア大陸方面にひきつけられていること、それによっ

て米国の日本に対する軍事的対応がその分だけ緩和されていることなどを認識して、暗にそのことを歓迎している

ことがうかがえる。

伊藤による「統監政治」がいっそうの進展を見せていた一九〇七年になると、それに対する韓国人の反応が見ら

れるようになった。ライトは四月、伊藤が韓国を留守にしていたあいだに政治的興奮状態がソウルだけではなく韓

国全体において見られ、その中には韓国閣僚二人の暗殺を図ろうとしたものもあったこと、動きの中には日本への

負債一三〇〇万円の償還を目的とする団体を結成しようというものもあったこと、参政大臣が廃されて、内閣は統

監の下におかれることになるなどの噂が流布していること、伊藤の帰還はソウルでの興奮状態を鎮めるのに役立っ

たものの、内陸部においては鎮まるどころかむしろ拡大し、より激しくなっていること、韓国事情に明るい何人か

(8)

八二

の米国人と個人的に話したが、反日感情は時代の進展をよく把握できず、独立の希望をもつように韓国人に促して

いる少ない数ではない在韓宣教師たちによるものであると思わざるをえないこと、「統監政治」に対する知的な批

評を得たいという統監府の願いが誠実なものであることを示すため、伊藤はイェール大学教授で、韓国問題におい

て日本寄りの立場をかねてから鮮明にしていたラッド(GeorgeT.Ladd)を韓国に招いて、在韓宣教師やそれ以外

の外国人居住者と完全かつ率直な意見表明を行なうつもりであることなどを、いくつかの英字紙の切抜きを添えて

ルートに報告し ((

た。また、ライトはこの報告をしたのと同じ日、韓国における日本の事業が増大していること、そ

れにともなって在韓日本人の数も増大していることなども別途、ルートに報告し (1

た。それをうけて、伊藤は一九〇

七年四月一七日、ソウルにおいて演説を行ない、日本は現在の地位を軍事力のみならず日本の行動は利己的な動機

のみによるものではないと世界が認識していることにも負っていること、日本は韓国の独立、満州における門戸開

放・機会均等という原則のために戦ってきたこと、日本は韓国と相対する際、自らの利益のみならず韓国人および

ほかの諸外国の利益とも相談するという責任を負っていること、韓国人に対する自分の義務をいかにすれば最善に

果たせるかについてよく訓練された観察者による忌憚のなく独立した見解を表明してくれることを歓迎し、そのた

めにラッドを招いたことなどを語り、同席したラッドは、倫理的立場から経済的・政治的諸問題を見る必要性を強

調し、ライトは、その旨をルートに報告し (1

た。韓国の情勢が決して平穏ではないこと、その一方で経済的には日本

の韓国への浸透があることを米国側が認識して、政治的・経済的にいかに対応すればいいのかに腐心していたこと

がうかがえる。また、伊藤およびラッドの言がどれだけ現実に即したものであったのか、韓国人が伊藤の姿勢およ

び実際の政策をどのように認識し、それを伊藤などがどのように認識していたのかなどについては、記述がないし、

そもそも疑問点がある内容ではあるが、少なくとも伊藤やラッドが主観的には韓国のためにも倫理的な立場から

(9)

八三日本の韓国併合と米国  一九〇六~一九一〇年(都法五十四-一) 「統監政治」を行なおうとしていたこと、そのことについて米国側は把握する一方で少なくとも異議は唱えなかっ

たことがうかがえる。

韓国の朴斎純内閣は朴斎純参政大臣が一九〇七年五月二〇日、辞表を提出して、ほかの閣僚たちもそれに続いた

ため、総辞職した。後継の内閣組閣が焦点となったが、ライトは、二二日に宮殿に参内し、朴斎純の後継者として

前内閣の学部(日本の文部省に相当)大臣であった李完用を起用すること、新内閣の閣僚の選出は新参政大臣の手

に完全に委ねるべきであることを高宗に促したこと、李完用は一九〇五年の第二次日韓協約に当時の閣僚の中で賛

成した五人の大臣(大韓民国では現在、彼らのことを「乙巳五賊」と呼んでいる)の中の筆頭的存在であり、協約

の主要なスポンサーであると見なされていること、李完用は親日的であれば経験・能力を欠いた人物であっても自

分の閣僚に登用していること、新内閣の選定において伊藤が決定的発言力を有しており、伊藤の政策は、事情が許

す限り早く日本の計画を韓国において実行することであることなどをルートに報告し (1

た。

状況の展開を客観的に記している一方、李完用の経歴や人物像、伊藤の強い姿勢などをも記すことによって、暗

に批判的姿勢をみせているようでもある。ライトによるそのようなニュアンスの表示は同じ五月、統監府とその下

部局および韓国政府のさまざまな諮問機関が統監に一九〇六年中に送った報告を凝縮・要約した上で統監府が一九

〇七年一月に発行した『AdministrativeReformsinKorea』という英文の小冊子をルート宛てに送付した報告からも

うかがえ (1

る。この小冊子の内容は、一言でいえば、日本が韓国において「統監政治」を展開して以来、韓国の状況

はあらゆる面において改善しつつあること、それでも課題はまだまだのこっていることというものであったが、そ

のような内容の小冊子を本国にそのまま送付することによって、それだけでは語られてはいない実態があるという

ことをにおわせているようにもみえる。

(10)

八四

ライトが韓国の新内閣組閣において伊藤が強い影響力を有したと報告したことは前述したが、そのライトは一九

〇七年六月、李完用新内閣が伊藤統監の影響力にもかかわらず宮中において非常な反対に遭っていることを、その

ことに関する英字紙のいくつかの切抜きとともにルートに報告した。事態がこのまま進めば、李完用内閣の行方に

も大きく影響したと思われるが、内閣を結果的に救ったのが、いわゆる「ハーグ密使事件」であった。高宗は、国

運の傾きを挽回しようと、一九〇七年六月からオランダ・ハーグにおいて開催予定の第二回万国平和会議に三人の

特使を派遣して、三人は、第二次日韓協約の不当性と無効、日本の「統監政治」の終了などを会議において訴えた

ものの、日本代表が、第二次日韓協約にともなう韓国の外交権の日本への移転によって韓国の使節には訴える資格

がないとして、会議においてもそれが容れられたため、韓国の使節の訴えは退けられた。ハーグでの事態の展開は

韓国にも知らされたが、伊藤は、高宗が背後にいたことは明らかであるとして、高宗に退位するよう圧力をかけ、

李完用内閣も、高宗に退位をせまった。その結果、高宗は七月、退位を余儀なくされ、後継の皇帝としては高宗と

閔妃とのあいだの子である純宗が就いた。ライトは、高宗が退位を迫られていること、皇太子が後継となりそうで

あることなどを本国に報告し (1

た。なお、ハーグ密使事件に関しては、TRが一九〇七年七月、「……もし韓国の使

節団が当地に来るなら、私は、われわれはその使節団に会うのを積極的に断るべきであると思う……」という内容

の書簡をルートに送付したが、それは、明らかにハーグ密使事件を意識し、米国が韓国問題に関わりたくはないと

いう意思を表示したものであっ (1

た。一方、ハンチントン・ウィルソンは同月、「……高宗の退位に関連して、私は、

米国は日本の韓国吸収政策においてあまりに肯定的な黙認は控えるべきであり、そうすることによって米国がなす

べき譲歩の価値を高めることにつながる……」という書簡をルートに送付した。「日本の韓国吸収政策」を阻止す

ることまではできなくとも、単なる黙認はせずに、その中で最大限の米国の利益につなげていこうという意志の表

(11)

八五日本の韓国併合と米国  一九〇六~一九一〇年(都法五十四-一) 示であっ (1

た。

ハーグ密使事件、高宗の退位、純宗の新皇帝への即位という「追い風」の状況をうけて、日本を代表して伊藤は

一九〇七年七月二四日、李完用内閣とのあいだで第三次日韓協約に調印した。韓国の内政権の日本への移行、韓国

軍の解散という内容であり、韓国の独立は、ここに完全に形骸化するにいたった。そして、ライトが協約の概略、

いっそうの軍隊が韓国に送付されたことを記すとともに協約の文案の送付を望むか否かを尋ねる電文をルートに送

付したのに対して、ルートに代わってそれを見た第二国務次官補のアディ(AlveyA.Adee)は、駐米日本大使館 から送付をうけるので、送付の必要なしとライトに回答し (1

た。

そのような状況において、韓国において事業上も個人的にも関わりがあり、最近になって韓国から戻ってきた米

国人ビジネスマンのロビンズ(HalletR.Robbins)が一九〇七年八月、韓国(人)に対する日本(人)の「踏みつ

け方」はこの上なく残虐なものであり、そのことは、韓国における米国の利益をも損なっているという状況である

こと、何らかの形で米国が韓国問題に介入して、以上のような状況をくいとめるべきであることなどを訴える書簡

をTRに送付した。それに対して、TRに代わって回答したアディは、ロビンズの手紙は国務省に回付されたこと、

しかるべき注意がはらわれることなどと回答し 11

た。日本の韓国保護国化を承認した米国政府、とりわけTRには日

本の対韓政策自体に異議を唱えるような形で韓国問題に介入するつもりがなかったのは明白であった一方、米国人

からの訴えをまったく無視することもできなかったということもあり、いわば「先送り」という形による事実上の

拒否回答であった。

以上のような状況の展開の中、伊藤は一九〇七年八月、日本に一時帰国するが、駐日代理大使のドッジ(H.

PercivalDodge)は、ライトに代わってハーグ密使事件による韓国問題における「危機」を高宗の退位、純宗の即位、

(12)

八六

第三次日韓協約の調印という形で収拾した伊藤の手腕に対して日本では熱狂的に歓迎していること、伊藤はなおも

意欲・熱意をもって韓国統治における改革を行なおうとしていることなどをそのことに対する多くの英字紙の記事

の切抜きとともに本国に報告し 1(

た。一方で、この年に駐ソウル米国総領事に転じていたサモンズは同月、ソウル西

方の江華島で拘束されていた韓国人政治犯七人が日本によって殺害されたこと、韓国における状況が不安定なもの

となっていることなどを本国に報告し 11

た。このように、「安定」と「不安定」という二つの相反する状況が同時並

行して展開しているということを米国側はむしろよく認識していた。

ドッジは伊藤の一時帰国の際、伊藤と会談したが、伊藤は、第三次日韓協約によって自分には人事・法律などに

おいて全権が与えられたこと、韓国の発展のためには多額ではなくとも資金が必要であり、韓国皇室からある程度

をもってくる必要があること、前皇帝(高宗)は陰謀家である一方、現皇帝(純宗)は意志薄弱であること、二人

は現在、同じ宮殿で住んでいるが、いずれべつべつに住まわせるよう考えていること、日韓間の関税同盟に関して

外国の商人からは懸念をもって見られているが、韓国には歳入減となる一方で日本にも大した恩恵とはならないた

め、反対であること、韓国はとても貧しい国であり、開発が必要であること、外国人すべてが韓国には豊富な鉱山

地帯があると考えていることは驚きであり、自分はそのことを信じないこと、在韓米国人宣教師全体は尊重するも

のの、中にはあるべき姿ではない者たちもおり、彼らは一つの場所に非常に長く住んでいるために視野がたいへん

狭くなっており、彼らの周りの人たちの利益と考えるものしか見えず、韓国人全体の利益は見えていないことを語

ったことを、伊藤の一時帰国について報道した英字紙の記事、サモンズが盗賊による二人の米国人の暗殺企図や米

国人の財産侵害がいずれもソウルにおいてあったり、非常な無法状態が現在、韓国の特に非都市部において蔓延し

ていると報告していること、自分としては日本当局が無法や暴力から米国人やその財産を保護すべくすべてのこと

(13)

八七日本の韓国併合と米国  一九〇六~一九一〇年(都法五十四-一) を行なうと信じていることなどとあわせて本国に報告し 11

た。日本というか、伊藤に対する期待と不安が交錯した感

情がうかがえる。

同時期である一九〇七年九月、ソウルのサモンズは、サンフランシスコにおいて「韓国保護会(TheKoreanPro-

tectionSociety)」という団体が韓国人が韓国において日本および李完用内閣に対して蜂起することを促す回報を発

行して、その回報が韓国に入っていること、日本当局はその阻止に全力を挙げていること、米国系の「東洋合同鉱

業会社」が経営・採掘権を手にしていた平安北道の雲山金鉱の支配人が金鉱での日本人従業員を殺害するという計

画が発覚したため、彼らの保護を求めているが、駐ソウル米国総領事館にはこの件についてやりとりがなく、日本

当局も雲山金鉱での事態を差し迫って危険なものとは見ていないことなどを、回報の英訳文と合わせて、東京のド

ッジに報告し 11

た。高宗の退位、純宗の即位、第三次日韓協約の調印などによって韓国における日本の「統監政治」

がいっそう強固なものとなったと見えた一方、韓国人の反発、それを背景とした蜂起の動きなどがいっそう激化し

つつあったこと、そのことを米国側が十分に認識していたことなどがうかがえる。サモンズはその後、韓国におけ

る不穏な状況をうけて韓国駐箚軍司令官でこの時期には統監代理も務めていた長谷川好道が事態の収拾のため、

「韓国人に対する布告」を出したこと、その一方で第三次日韓協約による韓国軍の解散をうけて韓国軍人が合流す

ることでいっそうの激しさを加えていた義兵闘争に従事する韓国人が駐ソウル米国総領事館など列国総領事館に日

本(人)の韓国(人)に対する扱いがこの上なくひどいものであり、韓国(人)は踏みつけにされていること、そ

のため自分たちは立ち上がるほかはないこと、正義のために抗日蜂起をする自分たちの大義を理解してほしいこと

などを訴える声明文を受け取ったことを、布告および声明文の英訳文を添えて、東京のドッジに報告し 11

た。日本側

による対策にもかかわらず、韓国での事態が落ち着いていないことを認識していた。その後も、韓国において蜂起

(14)

八八

などが続いていること、それに対して日本側が収拾・鎮圧にやっきとなっていることなどを知らせる報告が続くこ

とにな 11

る。

そのような事態を収拾する目的もあってか、日本政府は一九〇七年一〇月、皇太子(のちの大正天皇)および随

行団(前首相の桂太郎、この時は海軍軍令部部長であった東郷平八郎など)が韓国を訪問することを決定したが、

これは、伊藤が一時帰国した際に明治天皇に強く勧めたことであった。そして、一行は一〇月一六日、仁川港に着

いた後、ソウル入りして、純宗や皇太子の英親王・李垠との会見、李完用政権との接触などをして、日韓の皇室の

「親善」を図り、四日間の滞在を終えて、韓国から離れた。サモンズはその模様を本国に報告しているが、訪問は

九月に公爵に昇進したばかりの伊藤の計画を強化することにつながるであろうこと、一行への歓迎は非常なもので

あり、日韓両皇室の交歓も行なわれたものの、それは「ポーズ」ともいえるものであり、高宗はすべての行事に姿

を見せず、目立ったこと、韓国側の出迎えは親日派および事情をよく知らない学童の動員によるものであること、

一行は到着時と同じ仁川港から韓国を離れたが、表面上は「親善」が交わされた一方でその背後ではさまざまな問

題点を内包していた訪問であったことを示唆する内容となってい 11

た。

その伊藤は一九〇七年一〇月、記者会見およびサモンズとの会見において、日本は韓国の併合も韓国という国籍

の破壊も望んではいないこと、しかし日本の政策を受け容れることのみが韓国が満足すべき隣国たりうることにつ

ながること、義兵の活動には非常な不満をもっていること、自分の政策は国の違いを平和裏に調整するもの、つま

り同じアジア人として兄弟のごとく助けるものであることなどを語っ 11

た。伊藤が主観的にはそのように考えていた

一方で、彼による諸政策が韓国人に受け容れられないのは韓国人のせいであると決めつけ、自分には瑕疵はまった

くないと考えていたことがうかがえる。そのようなこともあってか、伊藤は、韓国から身をひくことを考えている

(15)

八九日本の韓国併合と米国  一九〇六~一九一〇年(都法五十四-一) こと、自分の後任には桂がいいと考えていることなどを語り、サモンズは、そのことを本国に報告してい 11

る。

ところで、タフトが同じ一九〇七年一〇月一日、特使として日本を訪問し、西園寺公望首相はじめ日本政府首脳

などと会談し、二年前の桂との会談でのフィリピン問題での合意について再確認がなされた一方、韓国問題が話し

合われた形跡はなかっ 11

た。その際、監理教司教のハリス(M.C.Harris)は、韓国における日本の仕事が文明および

まともな政府のためのものであり、土地の剥奪および朝鮮王朝の破壊の二つが韓国人を物理的抵抗へと追いやって

いるものの、伊藤の政策は双方の維持を充分に考慮したものであること、伊藤の政策に対する批判は韓国政府の悪

習の中において肥えた者の敵意ないし理解不足からくるものであることなどを語り、一九〇四年の第二次日韓協約

によって日本政府が推薦して韓国政府の外交顧問に就いていた米国人スティーブンス(DurhamW.Stevens)もハ

リスの言を確認したのち、日米戦争などはありえず、両国間において外交交渉によって解決できない違いはないと

タフト宛てのメッセージを伝えたこと、外相の林董が日本政府内の多くが日本の韓国併合を求めているものの、伊

藤は併合には反対であると語ったことなどをTRおよびルートに報告し 1(

た。

ソウルのサモンズは、ソウルにおける治安がよくないので、公的なカードがソウルの警察隊に公布され、盗賊の

探査・逮捕のために外国人に対してそれが提示されるので注意を払うようソウル在住米国人に訓示した回報を出し、

そのことを本国に報告し 11

た。前述の皇太子一行の韓国訪問などにもかかわらず、事態が落ち着いていないことがう

かがえる。

一九〇七年一一月になると、純宗の居住地が昌徳宮に移動すること、合わせて李垠が一二月一五日に「留学」と

いう名目で日本に渡り、伊藤が李垠について行くことなどが決まった。そして、実際には李垠と伊藤は予定よりも

一〇日も早い一二月五日、韓国を発ったが、この「留学」によって、李垠に対する「日本人化」が日本において行

(16)

九〇

なわれることになり、李垠は、のちの一九六三年に大韓民国に永住帰国することになるまで五〇年以上ものあいだ、

日本で暮らすことにな 11

る。

二   「統監政治」の動揺と米国

やがて一九〇八年になったが、サモンズは、新聞において韓国の司法の再編成およびそれにともなって日本はす

でに回復していた一方で韓国においてはまだのこっていた治外法権(領事裁判権)を列国の同意とともに撤廃しよ

うとしていると報道されたことを報告し 11

た。治外法権の撤廃は、米国とすると直接的に利害関係にふれることであ

った。この年には、韓国における土地開発、韓国への日本からに移民奨励などの目的で東洋拓殖株式会社(以下、東拓

と略記)が設立される方向に向かうが、一九〇七年七月に駐日米大使に就いたオブライエン(ThomasJ.O

’Brien

は三月、東拓の設立、東拓が桂主導で組織・運営されようとしていること、桂は、日韓両国人の平和的な同化は日

本による措置だけではなくお互いの友好的な交際および相互利益からくる両国人の融合もなければならないとオブ

ライエンに語ったこと、日本から韓国への移民はそれほど歓迎されてはいない米国やほかの国ぐにへの移民問題を

緩和すると桂が語ったことなどを、全四九条からなる東洋拓殖会社法の英訳文などとともに本国に報告し 11

た。やは

り米国からすると重視すべき問題ではあった。

そして、一九〇八年四月になると、サモンズは、統監府によって外国資本による新聞に対して規制をかけようと

いう新法が成立すること、それは韓国における英国系の反日的新聞を狙い撃ちにしたものであり、それがほかの外

(17)

九一日本の韓国併合と米国  一九〇六~一九一〇年(都法五十四-一) 国資本による新聞にも及んでいること、それでもその新聞の英国人発行者は反日的論調を変えるつもりはなく、駐ソウル英国総領事も苦慮していること、一方で韓国にあった日本語新聞の中にはもともとであった反米的論調をいっそう強くしているものがあり、それが一般における反米デモにもつながっていること、そのような新聞には日本当局が介入して、発行中止となったものの、すぐに復刊にいたったこと、そのことと同時に米国系のソウル電車会社が運賃の改定をしようとしたものの、韓国政府の反対に遭ったこと、韓国における米国人企業家の代表的存在であったコルブラン(H.Collbran)がそれまでは自社の広告を反日・親韓的な新聞『KoreaDailyNews』紙にのみ出 していたが、それを変えて統監府の「準機関紙」とも言われた『SeoulPress』紙にも出すようになったこと、自分

が以上のような事態の進展の中で促した原則は暴力や平和の撹乱という結果となりうる日本語新聞の発行は規制の

下におかれるべきであるとしたこと、統監府も平和の撹乱を防止するのみならず米国系の米国・韓国電気会社の資

産および従業員を保護するため適切な措置をとると約束したことなどを、大部となるさまざまな添付資料を添えて

本国に報告し 11

た。日本が韓国に対していっそう強く出てきているという事態をうけて、韓国における米国出先機関

および米国人企業家がいわば「たじろぎ」を見せている様子が如実にうかがえる。

この時期、韓国本国においては日本の圧力から免れるのはむずかしいということで、韓国の外に出て、抗日活動

を展開する韓国人がいた。その中にハワイもふくめた在米韓国人がいたが、特にハワイには日本人のみならず韓国

人も多くいたため、彼らは、活発に活動した。ルートは、そのような状況をうけ、韓国人の陰謀家たちがハワイに

おいて活動中であり、彼らに対する注意深い監視を続けるよう要請したり、ルートの要請をうけた司法長官のボナ

パルト(CharlesJ.Bonaparte)が要請したのをうけてハワイ地区司法担当官のブレッコンズ(RobertW.Breckons)

が当地の韓国人団体とつながりがある米国人牧師と接触したり、前述のように親日反韓的論調を展開したハリスが

(18)

九二

ホノルル入りしたので注意したこと、何人かの韓国人を「要視察」の下においたり、韓国人による集会も監視した

りという措置をとっていることなどをボナパルトに回答し、それをうけたボナパルトがルートにその旨をしらせた

りし 11

た。韓国人が日本人に対して何かことを起こすことで米国がそれに巻き込まれることに対する懸念がきわめて

大きかったことがうかがえる。

一九〇八年になっても韓国人による抗日活動が止まない中、サモンズは六月、家族などとソウル北方にある北岳

山に登山に出掛けた帰りに数人からなる韓国人の武装反乱者と出くわしたが、日本人がいないとわかると武器を下

ろし、エスコートしてくれたこと、自分をはじめとする在韓外交団は反乱者たちに同情的な韓国人たちはソウルに

ある英米の領事館を焼打ちにすることを決めたと忠告されたが、そのような試みは米国総領事館に関してはなされ

なかったこと、多くの韓国人は、過去において米国人によって表明された友好にもかかわらず米国が韓国の苦境に

対して同情を表わしていないと信じていること、それでも秩序は維持され、外国人に対する不法な行為は過去にお

いてと同様、現在においても素早く除去されると自分は信じていること、日本占領軍は反乱者壊滅のための計画を

完了し、多くの者たちが殺害されていること、韓国人が同胞の韓国人を親日団体の一進会会員であるということで

約一〇〇〇人も殺害したりしており、一進会も復讐のため、政治的影響力を行使して無辜の同胞に危害を加えてい

ることなどを報告し 11

た。自分たちが巻き込まれないことを第一としていること、韓国に対する同情心はなくはない

ものの、それほどのものではなかったことがうかがえる。

ソウル近郊の北岳山に反乱軍がいることを承知しながらも充分に鎮圧できないでいたり、地方においては義兵闘

争が激化していてもやはり鎮圧しきれないという状況の中、日本当局、中でも義兵鎮圧の最前線に立っていた軍の

苛立ちは強まっていき。それは、彼らの行動にも現れるようになっていた。サモンズは一九〇八年七月、反乱鎮圧

(19)

九三日本の韓国併合と米国  一九〇六~一九一〇年(都法五十四-一) という指示のもとで韓国駐屯の日本軍は増強されたが、その結果として多くの反乱者の殺害、その指導者の捕縛が報告されていること、しかしそれでも反乱者の中で明確な指導がないため、反乱の鎮圧には結びついていないこと、新しい武器・弾薬が反乱軍によって韓国に搬入されているが、反乱軍は日本軍に対処できる準備はできていないこと、韓国人のキリスト教改宗者は反日であるが、ある日本兵の一団が最近、義州において米国長老教宣教師によって設立された学校を破壊したため、韓国人キリスト教徒の反日感情はいっそう強くなっており、一方でそのことが韓国駐屯日本軍をして反日韓国人キリスト教改宗者の考えは宣教師の見解・指針を代表していると憤らせていること、学校襲撃の件については伊藤や統監府当局がすぐにこうした性質の軍の態度は容認されないと自分に語ったこと、この件は結局、軍側が負わせた損害すべてを弁償することで解決したこと、平壌においても軍が米国人宣教師が運営する教会の敷地に入ろうとしたものの、韓国人管理人が拒否したため、その管理人を殴り、管理人は血を出して倒されつつも逃げたので、怒った兵士が管理人を追ってさらに殴ったため、床に「小さな池」ができるくらい血が流れたこと、宣教師の妻が憲兵を呼んで、憲兵が事情聴取をしたため、殴打した兵士は逃げたこと、この件に関して伊藤と統監府当局は断固たる態度をもってその兵士には速やかかつ適当な処罰が下されると自分に保証し、

伊藤はさらにすぐさま日本占領軍司令官のところに赴き、軍の態度は変えられるべきと指示したこと、『NewYork

Herald』紙の極東特派員オール(J.K.Ohl)がこの件を自紙に報道したため、ダメージを負った統監府はその新聞

を反日とみなしたこと、この件が契機となってことを起こした五二連隊全体の再教育につながったことなどを報告

11

た。伊藤にしても統監府当局にしても、軍、特に末端の兵士を掌握しきれていなかったこと、末端の兵士の苛立

ちがそれだけ大きくなっていたことがうかがえる。

韓国問題において日米関係が若干ながらも揺れる中、伊藤は日本において内閣が第一次西園寺内閣から第二次桂

(20)

九四

内閣へと代わった当日の一九〇八年七月一四日、内閣の交代は日本の韓国政策に何の影響もないこと、韓国政策は

天皇を前にした御前会議において熟慮の結果として決定されるので、天皇によって任命されたいかなる政府も保護

政策に背馳することはできず、日本は韓国人自身によって強いられることがない限り、保護政策から決して離れず、

現時点において韓国に関する日本の政策を修正する必要性を喚起するような事態にはなっていないと言うことがで

きてうれしいことなどを語り、サモンズは同日、そのことを報告し 11

た。日本の政策は不変であり、韓国併合は考え

ていないという伊藤の発言であるが、前述の発言を裏返すと、「韓国人自身によって強いられることがあるならば、

日本は保護政策から離れる」ということにもつながり、伊藤がこの時点において動揺をみせていることがうかがえ

る。この時期、国運を挽回しようという韓国人自身の活動として、義兵闘争のほかに、韓国人自身の実力を養成しよ

うという「愛国啓蒙運動」があったが、その一環として外国、特に日本から韓国が借りている借金である国債を韓

国人自らの手で資金を集めて返すことによって身軽になり、ひいては外国からの影響力を少しでも減らして韓国の

独自性をその分だけ回復しようという狙いをもった「国債報償運動」があった。これに関して、サモンズは一九〇

八年七月、この運動が展開しているが、前述の米国・韓国電気会社ややはり前述のコルブランが共同経営している

コルブラン・ボストウィック社(CollbranandBostwickCo.)も自分が問い合わせたところ、双方とも資金的に関わ

っていないと回答したが、後者経営の銀行には運動による資金が預金されていること、運動に関わっているのは前

述の英国人ジャーナリストで反日の論調を自身が編集している『大韓毎日申報』において展開しているベセル(Er-

nestT.Bethell)および韓国人で彼に協力している梁起鐸であるが、この時点で裁判にかけられているベセルの裁

判費用に運動からの資金が使われている模様であること、英国外務省の指示をうけて駐ソウル英国総領事館も事態

(21)

九五日本の韓国併合と米国  一九〇六~一九一〇年(都法五十四-一) を注視していること、コルブラン・ボストウィック社は私的な銀行取引きの情報を開示することは自分たちの事業を損なうので、裁判所の命令によるものでなければそうするつもりはないという立場をとっていること、米国人がそのような命令を正当化する手続きに巻き込まれるのでなければ自分はそのような命令を出すつもりはないこと、

自分は統監府当局者に適当な援助を喜んですると保証したこと、しかし事態はいっそう容易ならぬ方向へと進んで

おり、統監府当局者は運動による資金は反乱のための武器・弾薬の購入に使われている恐れがあるとしている一方

で、コルブランは自分の銀行が資金の流れを監視したが、資金は、そのような目的には使われていない模様であり、

より意義深い慈善・教育に利用されようとしていること、国債報償運動は愛国主義的衝動からきているものである

が、ますます増大する借金のためにその目的に適わないようになってきていること、米国人の利害が広範に及んで

いる一方で、現存の諸状況を念頭におくと、当局の政策に反対するという目的で募集された資金への投資に参加す

るのは避けるのが賢明であると自分は感じることなどを駐日大使館に報告し、それをうけた駐日大使館側も米国人

が運動への資金拠出に関わるのは賢明ではないとサモンズに指示したことを本国に報告し 1(

た。経済上の利害関係は

もちろん放置はできないものの、それ以上に日韓間の政治的紛糾に巻き込まれて、韓国人の抗日的活動に加担する

ことは何としても避けたいという意志がうかがえる。

その翌月である一九〇八年八月、サモンズは、統監府の「機関紙」と目された英字紙『ソウル・プレス』紙が領

事裁判権がおそらく一九一〇年に撤廃されると主張し、それは統監府当局を代弁していると思うこと、それでも在

韓外国人は日本がそうしようとしていることに信頼がおけないでおり、自分も韓国での領事裁判権撤廃は米国の利

害が被害を被らないことが単なる保障ではなく明確に立証されない限り、なされるべきではないと考えることなど

を本国に報告した。それをうけて、国務省は、現時点においては米国政府は治外法権という特権の廃止は熟慮して

(22)

九六 はいないと回答し 11

た。米国の利害に直接関わることには敏感であったことがうかがえる。

前述の国債報償運動をめぐる動きもこの時期、みられたが、サモンズは一九〇八年八月、ベセル、梁基鐸、駐ソ

ウル英国総領事館、コルブラン・ボストウィック社が前述したような動きをそれぞれみせていること、自分として

は米国の利害、米国人の身辺および財産などがこれらの動きによって少しでも累を及ぼされることがないように細

心の注意を払っていることなどを本国に二度にわたって報告し 11

た。

一九〇八年一〇月になると、前述の東拓の発足に向けての動きがいっそう具体化したが、駐日米代理大使のジェ

イは、第二次桂内閣の発足後に桂が積極的姿勢を見せていること、東拓の株式の保有は日本人と韓国人に限られる

方向であること、それでも韓国人側は日本の動機に対して疑念をぬぐえないでいること、伊藤は会社の目的は韓国

人から土地を盗取するためではなく、韓国の資源開発において日本人と協力させるためであるが、東拓の究極的成

功は間違いないものの、摩擦は避けられないであろうと語ったことなどを、添付書類とともに本国のルートに報告

11

た。東拓に関して、米国が事実上の「締出し」に遭いつつあることへの懸念がうかがえる。

そのような中、カンザス州ウィチタの長老教教会の牧師ウォラル(JohnG.Worrall)は同じ一〇月、TRが韓国

におけるフリーハンドを日本に認めたが、韓国の自立を保証する条約を米国とのあいだで結んでいたのに、米国側

が一瞬で反故にしてしまったこと、閔妃(明成皇后)は愛国者で自分の国が奴隷化するのに同意しなかったという

理由で日本人によって殺害されたことなどを列挙して、韓国での事態を傍観するのではなく善処することを求める

書簡をTRに送付し 11

た。米国政府、特にTRの韓国政策を批判的に見ていた米国人が米国本国においてもいたこと

がうかがえる。ウォラルはその後、一九〇九年一月にも重複する内容の書簡をハンチントン・ウィルソンに送付し、

それに対してハンチントン・ウィルソンに代わって主席事務官カー(WilburJ.Carr)は、国務省は与えるに足る情

(23)

九七日本の韓国併合と米国  一九〇六~一九一〇年(都法五十四-一) 報はすでにウォラルが得ていると思うこと、ほかの列国とのきわめて微妙な関係をもっている問題であるので、ウォラルのような民間人と協議するのは不可能であることなどをウォラルに伝え 11

た。複雑な韓国問題になるべく巻き

込まれたくはないという米国政府の思いがうかがえる。

そして、サモンズは、同じ一〇月、日本海軍が朝鮮半島南部の鎮海において活動を活発にしていること、海軍基

地がそこに建てられようとしていること、そこはかつて、ロシアがほしがっていたこと、日本は韓国において鉄道

網建設に着手しているが、それは軍事的目的のためでもあることなどを本国に報告し 11

た。日本の韓国における軍事

的強化に対して無関心ではいられなかったことがうかがえる。

義兵闘争はこの時期においても続いていたが、サモンズは一一月、統監府当局が仁川港において中国人所有の数

百の船舶を捕獲したが、統監府によればそれらは韓国人の義兵のためのものであったこと、彼らの中の指導者は中

国における革命派と合流する予定であり、中国に向けてすでに去っていることなどを報告し 11

た。中朝の反体制派の

合流が東アジア情勢にいかなる影響を及ぼすかを注視していることがうかがえる。そして、一二月になると、YM

CA(キリスト教青年会)のビルが竣工され、その開館セレモニーに韓国政府の閣僚や官僚のみならず伊藤もやっ

て来て、YMCAの仕事ぶりを絶賛したこと、伊藤は日中のYMCA代表者たちのための晩さん会をもったが、自

分は韓国の向上のため、力を尽くしていること、自分はキリスト教を支持するが、日本の政治家にも同様であるこ

とを促していることなどを語ったことなどを報告し 11

た。

一九〇九年になると、まずは前述のような経緯を経て結局は一九〇八年一二月に正式に設立された東拓について、

オブライエンは一月、八四条からなる東拓の会社規程の英文訳、初代総裁に就いた宇佐川一正をはじめとする主要

人事などを報道した日本の新聞の英文訳や英字新聞の切抜きなどを添えて本国に知らせ 11

た。

(24)

九八

同じ一月には、日本が韓国を保護国化したのにともなって、韓国における法制度を日本式に変えるべく、一九〇

六年七月に日本から韓国に派遣され、韓国政府法律最高顧問に就いて法典の編纂に関わっていた梅謙次郎(東京帝

国大学教授や法政大学総長などを歴任)が在日英字紙であった『JapanMail』との会見において、韓国の人びとは

日本が進めてきた司法改革を公平無私なものとなったとして歓迎していること、列国が朝鮮においてもつ治外法権

について日本が列国にその撤廃を依頼すれば、列国もそれを無視して治外法権をそのまま享受し続けることはでき

ないであろうが、列国の既得権益にふれることにもなるので、何らかの「対価」が必要であり、韓国が法的自治を

回復するのは約三~四年後になろうこと、法典の編纂に関してはおそらく一九一〇年の半ばまでに編纂者の手から

離れることになろうことなどを語り、会見を載せた同紙の記事を添えて、オブライエンは、本国に報告し 1(

た。

サモンズは同じ一月、皇帝の純宗が伊藤にともなわれて韓国南部の主要都市を行幸すべく、特別列車に乗って約

一週間、ソウルを留守にすること、韓国の歴史において前例のないこの行幸に対して純宗が日本へと連れて行かれ

るのではという懸念を表する韓国人もいること、行幸の目的は民衆を慰撫して政府をより安定したものとすること、

義兵やそのほかの悪人を抑えること、伊藤の名前を純宗と列挙させることによって伊藤に有利な印象を与えること

などであること、大部分は統監である伊藤の個性を反映している「統監政治」に関して、伊藤を純宗の名ばかりの

「摂政」と認める傾向がいっそうはっきりとしてきているというのが自分の意見であることなどを添付資料ととも

に本国に報告し 11

た。伊藤の「統監政治」の行き詰まりが米国側の目にもはっきりとするという状況であったことが

うかがえる。

そして、サモンズはやはり同じ一月、統監府当局が『ReformandProgressinKorea』という英文報告書を出した

こと、その報告書は総一四〇頁にも及ぶもので、行政、司法、防衛、財政、通貨、金融、通商、通信、公共事業、

(25)

九九日本の韓国併合と米国  一九〇六~一九一〇年(都法五十四-一) 農業および工業、衛生、教育と朝鮮におけるあらゆる分野において「統監政治」の開始以降、それまでと比べて状況は著しく改善していること、しかしいっそうの改善の余地がまだのこっており、引続き「統監政治」を続けなければならないと主張していること、報告書の目的は列国に日本が韓国において行なっていることを示し、「統監政

治」は関係国の利益にもかなっており、領事裁判権を終了させ、日本の財政政策を強化する条約へと改正するにあ

たって列国の承認・信任・同意を得るためであること、しかし領事裁判権、韓国における日本の基準、門戸開放政

策、韓国における資本のいっそうの必要性という面において、日本の主張をそのまま是とはできない部分が報告書

の記述の中でそれぞれあることなどを、報告書そのものを添えながら、本国に報告し 11

た。

その後も、サモンズは、日本の海軍・沿岸警備活動について、前述の伊藤が随行した純宗の行幸の際に鎮海での

新海軍基地を視察したこと、日本はその基地を入手しようとしていること、寒い時期にわざわざ前例を破って純宗

が行幸に出たのは日本の位置について注意を向けさせ、合わせて中国の政治家たちに極東アジア諸国間の堅い友情

の可能性を示すことなどであるこ 11

と、韓国における新しい司法権を管轄する諸法律が制定されたこ 11

と、在韓米国人

宣教師に対して、統監府当局は日本の旗の使用やミッション学校に登録制を導入することなど、圧力ともいえるこ

とを迫っており、本国にも善処を求めたいこ 11

と、韓国において政治的アジテーションが起こっているが、YMCA

がそれにいやおうなしに巻き込まれており、事態を注視しているこ 11

となどを次々と本国に報告し、事態は実は米国

にとって決して安穏ではないことを示唆したのである。

(26)

一〇〇

三   「統監政治」の転換と米国

桂首相、小村寿太郎外相、山県、そして伊藤が一九〇九年三月、山県有朋の別荘「無隣庵」において会談して、

伊藤も三人が求める韓国併合に反対しない旨を伝えた。伊藤は、個人的には韓国のためを思って「統監政治」を展

開したものの、韓国人の反応は親日派をのぞくと日本への協力は消極的・否定的な姿勢で臨み、「統監政治」から

離れるべく愛国啓蒙運動や実力行使を伴う義兵闘争というものであった。そのため、そのような状況に対して嫌気

がさした伊藤は、「統監政治」および韓国そのものからの「離脱」を望むようになっていた。そして、伊藤の方針

転換および無隣庵会談における合意をうけて、日本政府は同年春には韓国併合の方針を決定し 11

た。一方、米国にお

いては、TRが一九〇九年三月、大統領を退任し、後任には前年一一月の大統領選挙で当選したタフトが就き、国

務長官にはノックス(PhilanderC.Knox)が就任した。そのような状況をうけて、日本政府は、国務省、駐日米大

使館などに同年七月一二日に締結された韓国における司法・監獄の管轄権に関する日韓条約(管轄権が日本側に移

行)の締結、韓国における中国人の居住権などに関して、米国側に通告した。しかし、外交に関するいちばんの責

任者であるノックスは、いずれにも回答しなかっ 11

た。

そのような中、サモンズは五月以降、日本の韓国併合が言われるようになる中で、統監府は日本の韓国併合を否

定しているが、事態の展開は韓国併合反対派よりも賛成派に有利に展開していること、まだ止まない義兵闘争が日

本の韓国併合推進の大きな理由となっているが、義兵闘争は実際には組織・力ともに欠いていること、日本が韓国

を併合しても現状では得られるものはほとんどなく一方で費用は膨大なものとなることを報告し 11

た。

(27)

一〇一日本の韓国併合と米国  一九〇六~一九一〇年(都法五十四-一) そして、そのような状況の中で、すでに五月中に伊藤の韓国統監辞任、後任への副統監・曾禰荒助の昇格が決まり、正式には六月一四日に行なわれた。そのことに関して、米国側は、伊藤の辞任は韓国問題におけるに日本政府との方針の違いからのものでもあること、後任の曾禰は伊藤にはとうてい匹敵しえないことなどを、やはりそのように報じている日本の新聞の英文訳などを添えて本国に報告し 1(

た。

その後、七月一二日には、ソウルにおいて曾禰と李完用首相とのあいだで「司法・監獄事務を日本政府に委托の

件に関する覚書」が交わされ、韓国の独立がまた一歩、失われたが、日本政府は、「統監政治」を行なった結果と

して、この措置をとるほかはなかったこと、これによって影響をうけるのは韓国人だけであり、外国人は影響をう

けない旨を米国側に伝え 11

た。

統監が伊藤から曾禰に代わって完全には落ち着かないという状況の中、サモンズは、辞任後もなおもソウルに残

っていた伊藤が七月五日に行なった演説において、自分を訪ねてきた純宗が日韓両国の利害は同じであり、自分の

願いはこのことを極東全体に広げることであると語ったこと、伊藤の主要目標は極東を一つの家族として統一する

ことであること、日本の満州政策の本質的特徴は韓国政策の拡張として受け取られるであろうこと、純宗の見解は

実際にはそのように受け取られてはいないが、韓国の親日内閣が日本の極東政策に貢献することなどを報告し 11

た。

タフト政権になって、満州問題をめぐって日米関係が摩擦を加えるが、米国側に韓国問題の延長に満州問題がある

という認識が出ているのがうかがえる。

このことを裏付けるかのように、伊藤は韓国を去る直前、中国が反乱の波をうけて混乱状態にあること、中国の

態度は現在、極度に非合理的であり、袁世凱のような人物が望まれること、米国が通商上の発展を南北アメリカ大

陸に限定し、中国は日本に任せるようならば、その結果は満足すべきものとなろうことなどをサモンズに語り、日

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