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「立秋後題」考−秦州時代の杜甫序説
著者 冨山 敦史
雑誌名 奈良教育大学国文 : 研究と教育
巻 13
ページ 95‑102
発行年 1990‑03‑24
URL http://hdl.handle.net/10105/10593
﹁ 立 秋 後 題 ﹂ 考 1 秦 州 時 代 の 杜 甫 序 説
冨
︑山敦史
乾元二年(七五九)秋︑杜甫は華州司功参軍事の職を棄て秦州にω旅立った︒平生より﹁致君発舜上︑再使風俗淳﹂という儒家的モラ
ルに基づいて︑理想の政治の実現を求めてきた杜甫にとって︑棄官
は彼の人生に於ける大きな転換を意味する︒この棄官に関わる詩句
を含む﹁立秋後題﹂は︑杜甫に於ける棄官の問題を考える上で極め
て重要な作品であるといえよう︒
立秋後題
日月不相饒
節序隔昨夜
玄蝉無停號
秋燕已如客
平生猫往願 ゆる日月相饒さず
節序昨夜隔たる
さけ玄蝉號ぶこと停むる無きも
秋燕已に客の如し・
平生猫往の願 燗帳年半百
罷官亦形役
何事拘形役 凋帳として年百に半ばす
罷官亦た人に由る
何事ぞ形役に拘せられむ
ωさて︑この詩に於ける棄官の解釈については︑鈴木虎雄氏︑鈴木㈹修次氏が指摘するように︑他人のために官職を罷めさせられたとい
う︑棄官を受動的なものとしてみるのが大勢であった︒しかしなが
ら︑棄官後の杜甫の詩や足跡を注意してみると︑そこには自ら官職
を拡って田園に帰った陶淵明の詩文の影響が窺え︑のみならず生き
方にも陶淵明的なものが感じられる︒もし杜甫が棄官にあたって陶
淵明の影響を強く受けていたとすれば︑ここには従来の解釈とはま
た違った意味での棄官の可能性を考える必要があるのではないだろ
うか︒従ってこのことを明確にすることは︑爾後の杜甫の生き方を
考える上で非常に重要な意味をもってくる︒
本稿では︑その生涯にわたる流寓の出発点となった﹁立秋後題﹂
を再検討することによって︑杜甫に於ける棄官の意味を明らかにし︑
爾後の杜甫の生き方について考える足掛りとしたい︒
二
ωはじめに宋代以降の杜詩の注釈書では﹁立秋後題﹂がどのように
解釈されてきたのかを棄官に関わる問題を中心としてみていきたい︒
以下主なものを時代別に示してみる︒但し︑先代の注釈をそのまま
踏まえるなど︑重複するものについてはその都度割愛した︒
︹宋代︺
ω﹃王状元集百家注編年杜少陵詩史﹄王十朋輯
珠日︑帰去來︑既自以心爲形役︑異燗帳而濁悲︑准南王荘子略
要日︑江海之士︑山谷之人︑輕天下細萬物而濁往︑司馬彪注日︑
猫往自然不復顧也︑陶淵明︑誰謂形蹟拘也
②﹃九家集註杜詩﹄郭知達編註
③﹃分門集註杜工部詩﹄閾名註
以上二書ともωとほぼ同様である︒
ω﹃杜工部草堂詩箋﹄察夢弼箋・魯岩編次
日月遍遭節叙更変︑老之將至︑而平昔隠居之願︑未獲酬素志︑
而年已半百 ︑豊不慨恨也哉︑錐然棄官亦由乎人︑何必拘於形 役而爲形盤之慮耶︑昔陶潜棄彰澤令︑賦帰去來僻云︑既自以心︑
爲形役︑異慨帳而濁悲︑悟已往之不諌︑知來者之可追︑亦是意
也︹明代)
⑤﹃讃杜詩愚得﹄㎜卑復撰
奈何平生隙居凋善之志︑不遂而年幾半百︑爲可恨爾今也︑罷官
亦由宕人︑何事此心反爲形所役耶
⑥﹃刻杜少陵先生詩分類集註﹄郡寳註
公有棄官隠去之心︑(中略)︑己之志欲休官︑此心欲往久未能
申︑傭念此身又驚半百︑官之欲罷由己而不由人︑何事拘於形役
而不瓢然以長往耶
m﹃杜詩論文﹄呉見思撰・洛眉評註
平生帰隠之願︑半百不遂而空爲慨恨乎︑夫罷官長往︑亦由人耳︑
何事拘干形役︑而不去耶︑公此時去官之志決
⑧﹃讃書堂註解﹄張潜評註
世之難退者︑多以不自由借口︑得此語正之︑感流光易逝︑而決
干帰隠
⑨﹃杜詩閾﹄慮元昌註
我平生之願︑不過濁往︑肯至遅暮︑反不自如︑今日罷官而去︑
亦由人耳︑誰可羅魔我者︑使心爲形役也︑我決計棄官 ︑秋燕
句︑公自言︑我出華州如燕偶巣︑今已僻去︑誰爲我主人者︑故
日已如客
⑩﹃杜詩箋﹄湯啓柞撰
箋日︑(中略)︑爲羅薄宙︑致負平生形役拘人︑不勝個帳然︑
凡仕否権不在人︑果欲抽箸浩然寛往
さて︑以上の諸説をみてみると︑その殆どが詩に書かれたことを
そのまま踏まえて解釈をしていることがわかるが︑第七句﹁罷官亦
由人﹂については︑次の二通りの解釈が示されている︒
①罷官は他人に由るもの傾⑤㎝⑨
②罷官は自らの意志に由るもの⑥⑧鋤
①説はさておき︑②説を詳しくみてみると︑㈲では︑﹁久しく隠
去の心はあったが︑実行できずにいた︒しかし今︑半百になった自
分に驚き決心した︒官職を罷めようとするのは自らに由るもので︑
他人に由るものではない﹂と︑棄官が自らの意志であるとしている︒
㈲では︑﹁世の難退者は︑多く自分ではその理由を言わず︑他人の
口を借りて言う﹂とし︑本当は自らが隠居を決しながらも自分では
そうと言わず他人に由るものとしている︒㎝では︑﹁薄官に羅せら
れ︑平生から人に拘束されてきたことにたえられず︑罷官を決した﹂
としている︒三説ともその理由は異なるが︑棄官を決するにあたっ
て自らの意志が最終的に働いたことを指摘している︒
諸家の説は以上の通りであるが︑ここで明らかにせねばならない
のは︑棄官が杜甫にとってどのような意味をもつのか︑すなわち︑ 他人による﹁受動的なもの﹂なのか︑自らによる﹁能動的なもの﹂
なのかという問題である︒このことは爾後の杜甫の生き方を考える
上で重要な意味をもつ︒官職を罷めるということは職を失うことで
ある︒妻子春属を抱える杜甫にとって当然問題となるのは棄官後の
生活のことである︒職が無ければ収入はない︒収入が無ければ食べ励ていけない︒まして今や餓謹であ習︒問題はそう簡単には解決しな
いはずである︒一体杜甫は︑この﹁立秋後題﹂作成に際し︑何を考
えていたのだろうか︒
三
先に示したω〜⑩の説のうち︑㎝⑨を除くすべてが︑この﹁立秋㈲後題﹂と陶淵明の詩文との関連性を指摘している︒まず﹁帰去來﹂
の冒頭部には
むむむむ帰去來分︑田園將蕪胡不帰︑既自以心爲形役︑異個帳而猫悲︑
悟已往之不諌︑知來者之可追︑實迷途其未遠︑覧今是而昨非
(傍点筆者以下同じ)
のように︑﹁形役﹂﹁慨帳﹂など︑詩語・意味ともに共通性︑関連
性がみられる︒また﹁始作鎭軍参軍纒曲阿作﹂の終結部にも︑
むむむむむ眞想初在襟眞想初めより襟に在り 97
むむむむ誰謂形 拘誰か謂はむ形 に拘らむとは
柳且愚化遷柳且化遷に愚かせ
終反班生盧終には班生の盧に反るとせむ
のように︑意味の関連性が認められる︒これらはいずれも杜甫が愛
読していた﹃文選﹄(﹁帰去來﹂巻四十五.﹁始作鎭軍参軍纒曲阿
作﹂巻二十六)に収められているので︑彼がこれらの詩文を念頭に
おいて﹁立秋後題﹂を作ったことは疑いないといえよう︒また諸家
の註にはみえないが︑他の陶淵明の詩文中にも﹁立秋後題﹂と共通
性︑関連性が認められるものがある︒﹁帰去來今僻﹂序には︑
何則質性自然︑非矯属所得︑飢凍雛切︑違己交病︑嘗從人事︑
むむむむ皆口腹自役︑於是恨然慷慨︑深娩平生之志
と︑﹁乙巳歳三月爲建威参軍使都経鏡渓﹂には︑
伊余何爲者伊れ余何爲る者ぞ
勉働從菰役勉働藪の役に從ふ
一形似有制一形制せらるる有るに似たるも
素襟不可易素襟易う可からず
とあり︑これらはいずれも第五句から第八句との関連性が考えられ
る︒また︑﹁遊斜川﹂の序には︑
悲日月之遂往︑悼吾年之不留
とあり︑﹁榮木﹂の序には︑
日月推遷︑已復九夏 とあり︑﹁雑詩十二首﹂其二には︑
日月榔人去日月人を郷て去り
有志不獲駒志有るも騎するを獲ず
とあり︑第一句︑第二句との関連性が考えられる︒第三句︑第四句
との関連性も次の如く考えられる︒
哀蝉無留響哀蝉響きを留むる無く
叢雁鳴雲香叢雁雲香に鳴く
(﹁巳酉歳九月九日﹂)
さらに︑詩全体の構成に於いても類似しているものがある︒
日月不肯遅
.四時相催迫
寒風彿枯條
落葉掩長阻
弱質與運積
玄蟹早已白
素標挿人頭
前途漸就窄
家爲逆旅舎
我如當去客
去去欲何之
南山有奮宅 日月肯て遅からず
四時相催迫す
寒風枯條を彿ひ
落葉長阻を掩う
弱質運と積れ
玄警は早や已に白し
素標人頭に挿さば
前途漸く窄に就かむ
家は逆旅の舎爲り
我は當に去るべき客の如し
去き去きて何くにか之かむと欲す
南山に菌宅有り 98
(﹁雑詩十二首﹂其七)
さて︑ここで問題となるのは︑杜甫がこれらの詩文を本当に踏ま
えることができたか否かということである︒これらの詩文は諸説が
引く﹁帰去來﹂や﹁始作鎭軍参軍纒由阿作﹂とは違って﹃文選﹄に
は収められていない︒それならば︑杜甫が陶淵明の別集をみた可能
性はないのだろうか︒﹃唐書﹄﹁藝文志﹂によれば︑﹁陶潜集二十㊥巻又集五巻﹂とある︒このことから︑杜甫が以前宮中に勤めていた㈹ときに︑日頃﹃文選﹄で慣れ親しんだ陶淵明の別集を手にしたとい
う可能性が考えられる︒また︑これを裏付けるものとして︑棄官後
につくられた﹁遣興五首﹂其三の中で︑
陶潜避俗翁
未必能達道
むむむむむ観其著詩集
むむむむむ頗亦恨枯槁
達生豊是足
黙識蓋不早
むむむむむ有子賢與愚
何其掛懐抱
と︑第三句には陶潜の詩集をみたことを述べ
には収めない﹁飲酒二十首﹂其十一の
生亦た枯槁す﹂の句が踏まえられている︒ 陶潜は俗を避くるの翁なるも
未だ必ずしも道に達せず
其の詩集に著すを観るに
頗る亦た枯槁なることを恨めり
達生豊に是れ足らむや
黙識蓋し早からず
子有り賢と愚と
何ぞ其れ懐抱に掛けむ
︑第四句には﹃文選﹄
﹁身後の名を留むと錐も︑一
またこれも﹃文選﹄には 収めない﹁責子﹂や﹁命子﹂についても第七句で言及している︒さら
むむに﹁船人近相報︑但恐失桃花﹂(﹁秦州雑詩二十首﹂其十三)︑
むむ ﹁如行武陵暮︑欲問桃花宿﹂(﹁赤谷西崎入家﹂)のように﹁桃花
源記井序﹂を踏まえたものなど︑﹃文選﹄以外からもこのように陶
淵明に関する知識を得ていたことは確実である︒
以上のことから︑杜甫が﹁立秋後題﹂を作成するにあたって︑陶
淵明の詩文を念頭に置いていたことは明らかになった︒そして︑棄
官という問題に直面した杜甫の脳裏に陶淵明的な生き方︑すなわち
隠者としての生き方が浮んだことはごく自然なことだったと思われ
る︒おそらく官吏としての彼の心を強くとらえたのは︑﹃宋書﹄働﹁隠逸傅﹂等にみられる次のエピソードであっただろう︒
郡遣督郵至縣吏白︑鷹束帯見之︑潜歎日︑我不能爲五斗米折腰
向郷里小人︑即日解印綬去職︑賦帰去來
この﹁五斗米の爲に小人に腰を折らず﹂という考え方について︑
杜甫はすでに天寳十四載(七五五)の﹁官定後戯贈﹂の中で︑
不作河西尉河西の尉と作らざるは
凄涼爲折腰凄涼腰を折るが爲なり
と︑うたっており︑また乾元二年(七五九)棄官後の作とされる
﹁有懐台州鄭十八司戸﹂にも︑
鳩杖近青抱鳩杖青抱に近づく
非供折腰具腰を折るの具に供するに非ず