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真宗研究48号 022千葉乗隆・平松令三・名畑 崇「記念講演 真宗連合学会の願いとその歩み」

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真宗連合学会の願、いとその歩み

龍谷大学名誉教授 専修寺宝物館主幹

メ弘、 -p 大谷大学名誉教授

山 宗 失礼いたします。真宗連合学会の理事を務 めております大谷大学の草野顕之でございます。本 日は記念講演の司会進行を、しばらくの問務めさせ ていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。 それでは、早速、﹁真宗連合学会の願いとその歩 草 野 真宗連合学会の願いとその歩み 司 1込 三三 大谷大学教授

み﹂というテ l マで、三人の先生方にお話を頂戴い たしたいと思います。今回記念講演のご講師を三人 の先生にお願いしておりますが、まず平松令三先生、 それから名畑崇先生、そして千葉乗隆先生、こうい う順番で三十分ずつお話いただきたいと思います。 五

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真宗連合学会の願いとその歩み 最初に平松令三先生について簡単にご紹介をさせ ていただきます。平松先生につきましては、もちろ ん真宗連合学会でことさらご紹介するまでもない先 生でございますが、簡単に略歴だけ紹介させていた だきます。平松先生は、大正八年に三重県津市でお 生まれになりまして、京都帝国大学の文学部史学科 をご卒業になりました。その後、同大学の国史研究 室で副手などをお務めになり、その後一時ご出身地 の郵便局長をお務めになられましてから、昭和五十 三年に龍谷大学文学部の教授として教鞭をとられて おります。真宗連合学会に関しましては、平松先生 はこの学会が発足した当初から評議員としてご活躍 になり、学会理事、さらには理事長にご就任になっ て本学会を主導されてきた先生であります。 先生の業績につきましては皆様ご承知の通りであ り、さらに紹介するまでもないとは思いますが、親 鷺聖人の真蹟をはじめ、高田派の真仏上人、あるい は顕智上人の真筆についての研究、また絵系図や光 明本尊等の研究等々、もう枚挙に暇がないほど真宗 』 /¥ 史に関しての業績を発.表されておられます。真宗連 合学会に関わるところで申しますと、法蔵館から ﹁親鷺聖人真蹟集成﹂という本が出されましたが、 この編集にも携わっておられます。それから﹃真宗 史料集成﹄、あるいは﹃真宗重宝緊英﹄など、真宗 史に関わるさまざまな刊行物の編集に携わっておら れます。単著としても、﹁親鷺真蹟の研究﹄を法蔵 館から、あるいは﹃真宗史論孜﹄を同朋舎出版から 刊行されておられます。真宗連合学会の誕生以来の 歴史を最もご存知の先生ということで、最初に平松 先生の方からお話を頂戴したいと思います。先生よ ろしくお願いいたします。 平松過分なご紹介で恐縮しておりますが、ただ いまご紹介いただきました平松でございます。この 真宗連合学会の創立総会といいますか、第一回の総 会が昭和二十九年十一月に三重県津市の高田派本山 専修寺で開催されました。私はたまたまその時にお 手伝いをさせていただいて以来、五十年ずっと関わ りを持たしていただいております。そういうことで

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私は、今回は難しい話ではなくて、その創立総会の 時の全くの思い出話を申し上げてみょうかと、その 程度で非常に気楽に考えております。ですから、内 容的には過去の思い出話というだけになるかもしれ ませんが、その点をご了承いただきたいと思います。 昭和二十九年の頃といいますと、実はその以前か ら高田派には高田学会という学会がありました。東 西両本願寺には、龍谷大学、大谷大学という立派な 大学がありますが、高田派にはその当時はまだ大学 はございませんでした。今、高田短期大学ができて おりますが、当時はまだございませんでした。ただ、 昭和七年から高田学会という会が作られておりまし て、﹃高田学報﹄という雑誌を発行してまいりまし た。その高田学会の活動内容は、高田専修寺に所蔵 される親鷺聖人の御真蹟をはじめとするいろいろ重 要な資料の研究、紹介が主たる目的でありました。 その高田学会がありましたことから、龍谷大学、大 谷大学の方々と一緒に連合学会を組むことになった わ け で ご ざ い ま す 。 真宗連合学会の願いとその歩み 昭和二十九年といいますと、その当時私はたまた ま高田学会の庶務担当ということで、事務局を預か らしていただいておりました。今私は八十三歳でご ざいますが、今から四十九年前というと、当時三十 四歳だったわけです。その当時の高田学会のリーダ ーというのは、生桑完明先生でした。||﹁生桑﹂ と書いて﹁イクワ﹂とお読みします。ーーーこの生桑 完明先生が中心になって高田学会が作られておりま し た 。 その生桑先生の所へ昭和二十九年の夏らしいんで すが、正確には解っておりませんが、龍谷大学から 佐藤哲英先生がいらっしゃいました。佐藤哲英先生 は、龍谷大学の仏教学の教授であられたのですが、 御自坊が三重県の北の方の員弁郡という所にある本 願寺派のお寺でございます。そういうふうなことか ら生桑先生とはもともとからお顔馴染みであったこ ともあったんでしょうが、生桑先生の所に来られた。 そして﹁やがて親鷺聖人の七百四の御遠忌が近づい それを機会に先ず龍谷大学と大谷大学、そ て き た 、 七

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真宗連合学会の願いとその歩み れにこの高田学会と三つの合同の研究会のようなも のを作ってはどうかと考えている。そしてできるな ら一年ごとに大会をやって、そこで御本山に伝えら れている親鷺聖人の御真筆などの宝物展観をするよ うにしたらどうかと思うが、どうだろうか﹂と、そ ういうお申し出が佐藤先生から生桑先生の所にあっ たようです。それで生桑先生が、﹁それは私だけの 一存で対処できる問題ではないから﹂ということで、 日を改めて、佐藤哲英先生と二人で高田派の御法主 様の御殿、私ども西御殿と言っておりましたが、そ のお住まいに伺われて、そこで佐藤先生から、こう いうことで会を作りたいと思うがいかがでしょうか と、ご意向をうけたまわりに行かれたようでありま す 。 私は実はその話を全然存じませんでした。本日こ こで総会の当時のことをお話しなければならないと いうことで、先般、川瀬和敬先生をお訪ねしました。 川瀬先生には、その当時生桑先生と並んで高田学会 を指導していただいておりました。川瀬先生は私よ }\ りも年齢的には九つ上で、この創立総会からの役員 の中でただ一人現在まだご健在、非常にお元気であ ります。先日、川瀬先生の所へ伺って、こんなこと でいいだろうかと確認に行ったわけですが、その時 にこのことを教えていただいたわけです。 佐藤・生桑両先生が、当時の高田派の御法主常磐 井尭棋狽下の所へ伺って、こういう学会を作りたい が、いかがなものかということを申し上げたら、狽 下が、﹁それはたいへんいいことだ、高田派として も積極的に協力しようではないか﹂というふうにお そういうことから、この っ し ゃ っ て い た だ い た と 。 真宗連合学会が出発したようです。 これは川瀬先生からこのたび教えていただいたこ とで、私はそういうような所までは存じておりませ んでした。それで私の当時の日記を見ましたところ、 昭和三十九年九月四日に高田学会の役員が集まって 打ち合わせ会を聞いていることが日記に出てまいり ました。その日記に﹁真宗三派合同研究大会打ち合 わせ﹂というふうに書いてありますので、その九月

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その名前も﹁真宗連合学会﹂という名 前ではなかったようであります。そしてそこでいろ 当 時 は ま だ 、 んな打ち合わせが行われまして、宝物展観をするこ とになったこと、それから前の晩から京都からいら っしゃる方を山内へお泊めすること、そういう宿泊 施設の問題などを打ち合わせをしたことが日記に書 か れ て お り ま し た 。 昭和二十九年といいますと戦後九年ですから、ま だ戦後の時代であります。当時宿泊施設はまだ十分 ではありませんでした。そこで、高田派の本山の中 にあります食堂

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﹁ジキドウ﹂と読みまして、報 恩講の時にお非時を差し上げる建物でありますが 1 1 、その大広間に布団をずらっと並べまして、そ こで皆さん小学生の修学旅行のような格好で、大先 生方もそこで泊まっていただくということにいたし ました。お布団が足りませんので、あちこちから借 り集めて、トラックがないので大八車で持ってこい ということで、借り集めたことを憶えております。 そしてその夜、全部の方でありませんが、お泊ま 真宗連合学会の願いとその歩み りになった方の中から、その主立った方々何人かだ ったと記憶しておりますが、宝物展観を予定してお りました賜春館という御殿へ、宝物を出してまいり まして、そこでケースに入れない状態で、直接に宝 物を幹部の先生方に見ていただきました。私どもで は、内々の拝観ということで、﹁内拝﹂と称してお りますが、内拝をしていただいたわけです。例えば ﹃三帖和讃﹄とか、﹃西方指南紗﹄とか、国宝指定 になっておりますが、それを頁をめくって見ていた だいた。そういえば、その国宝指定及び重要文化財 の指定が昭和二十七年に行われましたので、その二 年後でありました。そういう国宝、重文の指定が行 われたということも、御法主がこの際に一般に宝物 公開しようということを決断なさった、ちょうどい いタイミングだったのではないかと思います。その ように宝物展観の前夜に賜春館で内拝をしていただ い た わ け で す 。 この間も川瀬先生の所へ行ってちょっと話してい たら、﹁君は電気を配線するのに飛び回っていたな﹂ 九

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真宗連合学会の願いとその歩み と言われたのですが、考えてみるとその内拝が行わ れた御殿は、明治九年の建築で当時は電灯のない御 殿で、隣の建物から電線を引っ張ってきて、そこへ 百ワットの裸電球をいくつか並べて点けた憶えがあ それで飛び回っておったのだろうと思いま り ま す 。 す 。 内拝に参加された先生方には、博物館なんかでガ ラスケ l スの中に入っているような状態で見たので はなしに、生で直接に手にも触れて親鷺聖人の御真 筆類を見ていただきました。ここにその時の展観目 録を持ってまいりましたが、こういう簡単な目録に なっております。展示されましたのは、国宝になっ ております﹃三帖和讃﹂コ一冊、﹃西方指南紗﹂六冊、 それから親鷺聖人の自筆御消息といわれている十巻。 そのうち一巻はいわゆる﹁自然法爾の章﹂でありま して、これは顕智上人の写されたものですが、あと の九巻は聖人自筆ということになっておりました。 しかしそのうちの二通は実は親鷺聖人の自筆ではな くて、古写本なんですが、これを古写本ということ

にしたのはこの解説が初めてのことでした。この解 説は生桑先生の御執筆だったのですが、先生がこれ は聖人自筆ではなく古写本だと指摘して、この時の 展観目録に載せて以来、古写本ということになって お り ま す 。 そういう御真筆類と、その他に﹃唯信紗﹄と 信紗文意﹂、これも聖人の御真筆であります。それ らは全部、国宝あるいは重要文化財に指定されてい るものです。それ以外に存覚上人が写されました ﹁観阿弥陀経集註﹄。西本願寺で﹃観無量寿経阿弥 陀経集註﹂とおっしゃっておられる西本願寺所蔵の 国宝、御真筆でありますが、存覚上人によるそれの 完全な書写本が専修寺に一巻あります。題が﹃観阿 弥陀経﹂という題になっておりますが、それを新し く発見したものですから、生桑先生はそれを是非見 てもらいたいということでお出しになったようです。 それらを見てもらいました皆さん方、御真筆を直 接に触れて見せていただいたということで、たいへ ん感動なさったようであります。といいますのは、 唯

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翌朝、御堂でお朝事が勤まるので皆さんお朝事にご 参詣にいかれました、私もそこにまいりましたら、 大谷大学の藤島達朗先生が赤松俊秀先生とつれだっ て来られた。私は藤島先生とそれほどお付き合いは なかったのですが、赤松俊秀先生は私の思師であり まして、私は赤松俊秀の助手を五年ほど務めた人間 でありますので、先生たちのところへ行って、﹁昨 夜は眠れましたか﹂とお尋ねしたのです。そうしま したら、藤島先生が ﹁ い や l 、昨夜はみんな興奮し ちゃって眠られないんだよ﹂と言われるのですよね。 そして﹁遅くまでしゃべっていてね、特に赤松君が 議論をやりだしてねえ、家永三郎とか服部之総の論 文の批判をやりだした。それで宮崎円遵さんと三人 が中心になってワイワイ、ワイワイいって、夜明け までしゃべっちゃった。眠くって眠くって﹂とおっ しゃってみえました。私はそれをお聞きしまして、 宝物を見ていただいたことを非常に皆さん喜んでい ただけた、これはよかったなというふうにつくづく 思 い ま し た 。 そういうふうに皆さんに喜んでいただ 真宗連合学会の願いとその歩み けたんだと、思ったわけでございます。 そして展観の当日は、その宝物を今度はケ 1 ス に ちゃんと入れて展観したのですが、総会の方は大講 堂という建物の中で行われました。ちょうどこの会 場の四分の一ぐらいの講堂なんですが、畳敷きでは ありますけれども、その講堂が満員になりました。 ご出席の東西両本願寺からお越しいただいた先生方 については署名をしていただきました。署名簿が残 っているはずだと思って、実はこの間から必死に探 したのですが、どうも見つかりませんで、今日持っ てくることはできませんでしたが、それの控えがあ りまして、お名前は分かっているんです。例えば、 今、ちょっと私は字が読めないのでいかんのですが、 西本願寺からは禿氏祐祥先生とか、大江淳誠先生、 佐藤哲英先生、宮崎円遵先生、後はいろんな先生方。 それから大谷派からは安井麿度先生、稲葉秀賢先生、 先ほど言った藤島達朗先生とか、そういう先生方が 東西両本願寺から六十四名の参加がございました。 そこへ地元高田派の人たちが参加して、講堂は本当

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真宗連合学会の願いとその歩み に満員になりました。そこでこの創立総会が行われ て、そこでいろんな会の規約が決まりました。 その規約というのは実を言いますと、龍谷大学の 佐藤哲英先生があらかじめ作って、根回しをしてお かれたものであります。二年交替で事務局を申し送 る。それから理事は、とりあえず東西両本願寺と高 田派と三派で、各派から二名ずつ出すと。その二名 というのは、一人は教義、一人は歴史ということに 割り振って一一名ずつ出し、六人の理事で運営する。 その六人の理事の中の一人が理事長になるというこ とで、初代の理事長に龍谷大学の大江淳誠先生がな られた。そういうようなことを午前中の総会でやり ま し た 。 そして午後、研究発表がありました。一番最初に 高田派の御法主硯下が、﹁真宗教団と教学﹂という 題で直接にご講演をなさいました。その後、龍谷大 学から宮崎固遵先生、それから大谷大学からは稲葉 秀賢先生が、それぞれの立場でお話をなさって、そ れから最後に生桑完明先生が、出陳された宝物の解 説ということで解説をなさって終わりました。そ ういうことでこの総会、たいへん盛大に終わること ができました。皆さんに喜んでいただけで良かった なあと思ったことでございました。 それからもう一つ、参加していただいた方に記念 品を差し上げることにいたしました。第一回の記念 品をここにお持ちしました。︵持参品提示︶これが第 一回の大会参加者に対する記念品でございます。親 鷺聖人の真筆の﹁正像末法和讃﹄の中から一首を原 寸大に複製したものであります。今ならもう少し締 麗に写真も撮れたのでしょうけれども、これは実は、 私の友人の大型カメラで撮影してもらって、それを コロタイプにしたのです。これコロタイプなんです けれども、紙がよくありませんので、あまり写りが よくありません。それでも原寸大にして、こういう ふうに御真筆の複製が作られて、これが皆さんに渡 されたということで、たいへん喜んでいただいたの を 憶 え て お り ま す 。 それで、その勢いをそのままにして、第二回の大

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会は翌年の五月、龍谷大学でやっていただきました が、その時の記念品が、国宝になっております西本 願寺の﹁阿弥陀経集註﹄の巻頭部分でございます。 これが第二同大会の際に西本願寺で出していただい た記念品でございます︵持参品提示︶ O それから第三 回大会では、これが大谷大学で作っていただいたも のです︵持参品提示︶。大谷派の御本山にに所蔵され る六字名号でありますが、これも原寸大であります。 こういうふうにして記念品を作って皆さんに交付す るというのもこの学会の特徴の一つでございました。 そして第一回と第二回の大会の研究発表と合わせ て、﹁真宗研究﹂の第一輯ができたわけです。これ がそれですが、それ以来、スタイルをこのまま今に 伝えられておるわけでございます。 当時の第一回の創立大会は、そんなことでたいへ ん盛大に行われました。そのおかげで、ずっと今ま で五十回の今日の大会を迎えることが出来たという ことは、その第一回からたまたまお世話をさせてい ただきました私としてはたいへんうれしく思ってい 真宗連合学会の願いとその歩み るところでございます。そんなことで、私のお話を 終わらせていただきます。 草野平松先生、どうもありがとうございました。 平松先生には、お聞きの通り、この真宗連合学会が 発足しました当初、第一回大会が専修寺で聞かれま した、その発足前夜と申しましょうか、そういうと ころから大会当日の雰囲気、その熱気に満ちた様子 などをご紹介いただきました。どうもありがとうご ざ い ま し た 。 それでは、引き続き第二番目の講演といたしまし て大谷大学名誉教授の名畑崇先生からお話を頂戴い たしたいと思います。名畑崇先生について簡、単にご 紹介させていただきます。名畑崇先生は、昭和八年 のお生まれでありまして、大谷大学文学部から大谷 大学大学院を終えられまして、その後大谷大学で教 鞭をお執りになりました。ご業績はもちろん言うま でもありませんが、広く日本仏教史の研究を手がけ ておいでになりまして、特に真宗史に限ってみまし でも、例えばこの真宗連合学会の大会でご報告なさ

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真宗連合学会の願いとその歩み いました、親鷺聖人の六角夢想の偶の拠り処となっ た﹁覚禅紗﹄という本を紹介された論文などは非常 に著名なものでございますし、またその他にも﹁御 伝妙﹂の古写本を紹介されたご論文、あるいは本願 寺の霊場説といったようなことを提起された論文 等々、さまざまな面から研究を行っておられます。 単著といたしましては、﹃本願寺の歴史﹄というご 著書を昭和六十二年に法蔵館から出版されておりま す。真宗連合学会との直接的な関係といたしまして は、昭和六十二年に評議員におなりいただいており まして、翌昭和六十三一年に理事にご就任いただき、 平成十一年までの問、理事としてこの会の運営に当 たっていただきました。先ほどお話をお聞きしまし たら、名畑先生はこの真宗連合学会が始まりました 当初、まだ大学の学生さんでいらっしゃったという ことでございます。そのあたりのところからお話を いただければと思います。名畑先生どうぞよろしく お 願 い し ま す 。 名 畑 座ったままで失礼いたします。このたびは 四 真宗連合学会の五十回大会ということだそうでござ いまして、この記念講演、本日の催しに際しまして、 私にお話をするようにと事務局から四月一日でござ いましたか、急速お話がございまして、 お引き受け をさせていただいたわけでございます。 まあいろい ろ諸般の事情ということがあるようでございますけ れども、お許しいただいて、私の方からお話をさせ て い た だ き ま す 。 今日ここの席には千葉乗隆先生、平松令三先生が お出ましでございまして、私は両先生と比べますと 八年、十年も年下でございます。業績につきましで も、真宗連合学会との関わりも浅いものでありまし て、こういう席でお話させていただくような立場の 者ではございません。先輩の代役は務まりませんが、 少しばかり話をさせていただきたいと思います。 本日の講演の内容につきまして、予め事務局の方 からご連絡をいただいておりまして、真宗連合学会 の発足当初の願いとか、その歩みの中でのエピソー ドとか、後学の者への希望とか、それから私自身と

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の連合学会の関わりをということでありました。 あそのようなことに直接お応えできないかもしれま せんが、今、司会の草野先生からいただきましたよ うに、真宗連合学会第一回大会は昭和二十九年︵一 九五四︶、十一月十四日、高田山の専修寺で聞かれ ました。当時私は二十一歳の学生でありまして、諸 先生や先輩方と一緒に京都から列車で参加をいたし ました。高田山の伝来の秘宝が公開される、親鷺聖 人の真蹟のご聖教やお手紙が公開されるということ で、当日京都駅に集まった先輩や先生方の聞には、 こうなんと言いますか、一行が列車に乗り込んでか らも、なんかこう気分が高まって興奮していたよう に 記 憶 し て お り ま す 。 その頃の私は、まだ親鷺聖人のことも、それから 親鷺聖人の御聖教のことも、真宗史に関しましでも 良くは知らない者でありましたけれども、先ほど平 松先生のお話にありましたように、あの会場におき まして御真蹟の御聖教とかお手紙というものを、非 常に目近いところで、陳列ケ l スのない状態で、生 真宗連合学会の願いとその歩み ま 桑完明先生のお話を聞きながら、親鷺聖人独特の非 常に力強い筆致というんですか、筆遣いといいます か、そういうものに強いインパクトを受けた憶えが あります。今から思いますと、それが私と親鷺聖人 との出遇い始めであったのかなあ、と思っておりま す 。 それと、高田山に参りまして感じましたことは、 親鷺聖人のお弟子さん達が伝えられ作られた宗門と いうものに直接触れる思いがいたしまして、そこに 宗派を超えて敬いと、親しみというもの、そういう 融和感というものを感じた気がいたします。 その時に、平松先生や千葉先生は、だいたい二十 代の終わりから三十代の初めにかかっていらっしゃ るわけでありまして、その道の研究者としてお仕事 をなさっておりまして、真宗連合学会の開催につい てもお世話をいただいておったわけであります。先 程話がありましたが、最初に理事長になられたのは 大江淳誠先生。それから評議員の方が十五名です。 その内いまご存命の先生は、平松先生と、川瀬和敬 五

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真宗連合学会の願いとその歩み 先生のお二人でございまして、お若い時から評議員 になって学会活動に参加されておるということにな るわけであります。大谷派からの評議員には稲葉秀 賢、藤島達朗、赤松俊秀、それから三品彰英の諸先 生、それから私の父親である名畑臆順が、加えさせ てもらっておりました。この大谷派の先生方は皆お 亡くなりになってから長い歳月が過ぎております。 その大谷派の四人の評議員の方の中でも、真宗連合 学会に大きな期待を寄せ、それからお仕事としても、 真宗連合学会とたいへん深い関わりをもっておられ たと思われるのが、赤松俊秀先生であったかと思い ます。私、近頃、赤松俊秀先生のお仕事を通して読 ませていただくような機会があったものですから、 またそういうことを一段と感じたわけでありますけ れども、そいうようなことで、この席では、赤松俊 秀先生の特に真宗史研究に関わるお仕事を巡って真 宗連ム口学会の動きというものをたどらしてもらおう かなあと思って私は参っております。 さきほど赤松先生は、平松先生の恩師というお話 ーム ノ、 がございましたから、私が申し上げることをお許し いただきたいと思いますけれども、赤松俊秀先生は 明治四十年の四月二十八日に北海道旭川の真宗大谷 派願船寺にお生まれになりました。先生は京都大学 の国史学の方で教授をなさっておりましたけれども、 大谷大学の方にも非常勤講師として、私が学生の頃 からご出向いただいておりました。古文書学に基づ いた実証史学、それから中世の社会経済史、及び鎌 倉仏教の研究で知られる先生であります。それから また京都府の社寺に伝わる古記録、古文書も調査さ れ、国の文化財保護委員会にも入っておられました。 昭和五十四年一月二十四日、七十一一歳でお亡くなり になっておられるわけでして、お亡くなりになって もう二十五年になるわけです。 赤松先生の真宗史、真宗に関する論文は、昭和八 年||私の生まれた年でありますけれども||九月 に﹁覚信尼について﹂という論文を﹁史林﹄に発表 しておられます。この論文は赤松先生のお若い頃の お仕事を代表するお仕事だろうと思われます。大正

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十年に西本願寺から﹃恵信尼文書﹄が発見されまし た。その頃はちょうど、そのことと、西本願寺に伝 わっております親鷺聖人の自筆の御消息のうち、 ﹁ わ う ご ぜ ん ﹂ 、 ﹁ い ま ご せ ん の は は ﹂ へ 宛 て た も の 、 ﹁常陸の人々の御中﹂に宛てられたものの研究が進 められておったわけであります。赤松先生はそうい ったお手紙やら、﹃恵信尼文書﹄を詳しく検討なさ い ま し て 、 ﹁ わ う ご ぜ ん ﹂ 、 ﹁ い ま ご ぜ ん の は は ﹂ は 、 覚信尼であるというふうに断定をなさいまして、従 来言われていた、﹁いまごぜんのはは﹂というのは 親鷺聖人の内室、後から迎えた奥様だという説を否 定なさいました。それから、西本願寺に伝わる親鷺 聖人のお手紙のうち、十一月十一、十二日付けの御 消息は親鷺聖人の遺言状に当たるものであるとせら れ た わ け で す 。 それからその頃、本願寺の史料に関してはずいぶ ん疑いが持たれておりましたけれども、赤松先生は ﹃親鷺伝絵﹄、﹃本願寺留守職相伝系図﹄等の史料は 大筋においていささかも作為、作り事がないものだ 真宗連合学会の願いとその歩み ということで、自分が明らかにしたところによると、 歴史上に存在した親鷺聖人というのは、伝承や信仰 あるいは法語の中に生きて伝わり、歴史の中で尊敬 され、敬われてきた親鷺聖人の尊いお姿と少しも異 なることがないということをいっておられます。そ ういうお言葉と研究を見ますと、赤松先生がお若い 頃から親鷺聖人に深い敬慕の気持ちと、それからそ れに基づく真宗史研究というものに注意を注いでお られたということが分かってくるわけであります。 その赤松先生の、﹁いまごぜんのはは﹂覚信尼説 に対しまして、宮崎園遵先生が問題があるというこ とで、﹁いまごぜんのはは﹂というのは宮崎説に依 りますというと、親鷺聖人の侍女、親鷺聖人に仕え た女性であるという説を出されました。それに対し て、龍谷大学の小笠原宣秀先生が、赤松先生にそれ に対する反論があるだろうということで、論文を書 きなさいということで、﹁龍谷学報﹄に赤松先生が に 就 い て ﹂ 掲載されたのが﹁﹁いまこせんのはよ という論文であります。 七

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真宗連合学会の願いとその歩み 西本願寺に伝わっております聖人の自筆状に見え ます所の﹁いまごぜんのはは﹂が親鷺聖人とどうい う関係のある人なのか。このことが当時最大の関心 になっていたわけであります。赤松先生は当時問題 になっております親鷺聖人の自筆のお手紙の写真を 手に入れたと。実物をなかなか見ることが出来ない ということであったけれども、たまたまご縁があっ て親鷺聖人のお手紙の写真を子に入れることによっ て、原本の形態を知ることが出来たと。写真によっ てお手紙を解読したところ、今までの手紙の読まれ 方が間違っていたことを指摘なさいまして、まあこ の親鷺聖人のお手紙は筆遣いから見て、親鷺聖人が お亡くなりになる日から遡ること十六、七日前と。 弘長二年の十一月の十一、二日のものだろうという ところまで特定をされたわけです。赤松先生は、原 本を忠実に研究した者にとっては一点の疑念も差し 挟む余地がないほど明瞭な事実だといって、この親 鷺聖人のお手紙の遺言説というものに確信をもって おられます。そしてまたおっしゃるのには、これま }\ での多くの人はこの基礎的な研究を怠ったために、 最も重要な事実を見落としてきたことは遺憾に堪え ない。資料そのものの研績が歴史家にとって第一の 要のあることを痛感するとし、私共が行住座臥に仰 ぎ敬ってやまない宗祖親鷺聖人の遺言状を目の当た りに拝することができるようになったのは、なんた る喜びであろうという一言葉でもってこの論文を閉じ ておられます。そこには、古文書学、古文書を通し て歴史事実に直に参入するという赤松先生のお立場、 生の資料を直接手にとって見ることによって、ある いは、それが出来なければ、発達した写真撮影の技 術、あるいは写真印刷によるコロタイプによる検証 が切望されていたということが伺われます。 それが昭和十年でございますが、それよりおよそ 二十年後のことになりますけれども、昭和二十九年 に真宗連合学会が発足するわけであります。その昭 和二十九年、真宗連合学会が発足する年の三月でご ざいますけれども、東本願寺所蔵の﹁坂東本教行信 証﹄の修理が始まっておりまして、赤松先生はその

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監督の任に当たられまして、同じ二十九年の八月十 八日から九月二十三日まで三十六日間、連日﹁坂東 本﹂の調査をなさっておられます。その場合に、西 本願寺と専修寺に伝わっております親鷺聖人自筆と 伝えられる﹃教行信証﹄や聖典、書状を比較検討し たいと。そのためには、なるべくその原本を見たい ということが赤松先生の願いであったようでありま す。そういう赤松先生の要望と申しますか、願いと 申しますか、それがようやく叶うような環境が熟し てきたのが真宗連合学会が発足するということであ っ た わ け で あ り ま す 。 要するに、宗派を越えた総合研究ということでご ざいますが、先ほどの平松先生のお話にもございま した、高田山の当時の御門主常磐井亮棋狽下の御講 演によりますと、教団が教団内で閉鎖的に﹁護持﹂ されてきたことも反省されなければならない、と言 われ、﹁特に歴史的研究に最も大事な史料を各教団 に分散して伝えておるが、これを活かすことができ なかったことは誠に惜しまれることだ﹂と述べてご 真宗連合学会の願いとその歩み ざいますし、それから﹁歴史的な事実を一層明確に 把握して、真宗の真理内容、また人生における価値 を明らかにし、過去の事実の解釈評価に終わること なくして、未来に対する理念としての意義、新しい 力を作る﹂ともおっしゃっています。そのような気 運というものが、この時期に高まって第一回真宗連 合学会が実現したわけであります。 赤松俊秀先生が第一回大会の催される年の九月に ﹁坂東本﹂を調査なさいました結果は、論文として ﹁教行信証坂東本について﹂という題で雑誌の﹃史 林﹄に昭和三十一年十一月に発表されました。さら にその詳細は同じ年の九月に大谷派宗務所から発行 された﹁影印坂東本教行信証﹄の解説である﹁教行 信証の成立とその改訂について﹂に述べてあります。 ここには藤田海龍とか小川貫一先生、そういう方の 先行研究というものをきちっと踏まえた上で、﹁坂 東本﹂を直接手に触れて赤松先生が丹念にお調べに なった新しい発見の事柄であるとか、詳しく述べら れています。赤松先生の﹁坂東本﹂の調査を踏まえ 九

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真宗連合学会の願いとその歩み た詳しい内容を、その影印本を手にして先生のご指 摘なさることを理解する作業だけでも、なかなか容 易ならぬことだと思っております。 そこで、その赤松先生がこれまでの真宗史研究に ついて言い及んでおられますことでありますけれど も、大正三年に山田文昭氏が﹁坂東本﹂を聖人自筆 の草稿本として、これをだいたい認められたと。次 いで辻善之助氏が本願寺派本願寺、専修寺、大谷派 本願寺の親鷺聖人の真蹟を調査して大正九年に﹁親 鷺聖人筆跡之研究﹂を著したわけであります。これ は信用に値する真蹟から親鷺聖人の独自の筆致を抽 出し、写真によってそれを明らかにした。そしてそ れをもとに真蹟かどうかを吟味したもので、いわゆ る客観的な手法に基づくものであったと。それによ って、当時親鷺聖人の存在さえも疑うような考え方 もあったんですけれども、聖人の存在が確証される ほどであったと。これは赤松先生の言葉であります けれども、まあその上で辻善之助はさらに進んで、 東西両本願寺と専修寺に向かって、所蔵する聖人真

蹟の﹃教行信証﹄を公刊して専門家の研究に便宜を あたえるように要望したということであります。 ところで赤松先生は、真宗連合学会発足の翌年の 第二回大会、昭和三十年の五月二十二日に龍谷大学 で、﹁初期真宗教団の社会的基盤について﹂という 研究発表をなさり、その論文が同じ題で﹃真宗研 究﹄第一輯に掲載されました。この論文は先生が昭 和二十五年に﹃史学雑誌﹄に掲載された赤松先生の 論文﹁親鷺の消息について﹂に対する服部之総氏の 批判に答えるという内容、それを受けて﹁初期真宗 教団の社会的基盤について﹂ということで論文をお 書きになったわけであります。有名な論文でありま すけれども、親鷺聖人が七月九日付で性信坊に宛て られた御消息の﹁朝家の御ため国民のために、念仏 もうされそうろう﹂、それから聖人の九月二日付の 念仏の人々の中に宛てられた御消息﹁領家・地頭・ 名主の御はからいどものそうろうらんこと、よくよ くようあるべきことなり﹂というこれらの消息につ いての服部之総氏の解釈に対する赤松先生の疑問点、

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批判というものから筆を起こされまして、そして初 期真宗教団の社会的基盤の論議にまで及んでおりま す。服部之総氏は親鷺聖人の信者層が下人、新百姓 であるということを唱えられました。それに対して、 家永三郎氏が当時初期教団の基盤、だいたい﹁真宗 初期教団の基盤﹂という言葉は家永三郎氏あたりか ら出始めたと思われますけれども、家永氏は教団の 基盤は武士にあったということを唱えられたわけで あります。けれどもその中で赤松先生は、初期教団 の中に商人とか、猟師がいたのではないか、﹁屠枯 の下類﹂というような聖人のお言葉もあるわけであ りますけれども、この論文の終わりで、﹁親鷺の教 団の社会的基盤を無造作に農村に求める傾向に対し て考え直しをお願いしたい、真宗の社会性について 別の観点を与えられることになるだろう﹂というふ うに赤松先生が結んでおられます。それはまた、真 宗連合学会に対しても、歴史学の立場から真宗の思 想を社会史、経済史の場に広げて考えていくように という要望であったと思います。もっともその服部 真宗連合学会の願いとその歩み 之総氏の歴史学の理念というものと、赤松俊秀先生 の歴史学の理念というのは、それぞれのその思想性 なり、独自のものがあるわけであります。 それから赤松先生はその論文の後は、ご研究に ﹁獅子身中の虫﹂、﹁本願監滅のともがら﹂等、親鷺 聖人が戒めた人は誰か、あるいは﹁諸仏等同﹂とい うことを説かれるようになるけれども、その時期と 背景など、それまでどちらかというと、古文書学と か歴史の生の史料について非常に厳密に歴史にアプ ローチしていこうという赤松先生の方向から、今日 でいう思想史の領域に踏み込んで発言をしていかれ るようになります。それは元から言えば服部之総氏 の﹁いわゆる護国思想について﹂というような論文 を巡る論争から展開されていったものであると言え る と 思 い ま す 。 それと合わせまして、赤松先生の独自な領域と見 られるのは、親鷺像について、いわゆる真宗に伝わ る絵巻物だとか、それから﹃西方指南秒﹄とかそう いうものについてのことでありますけれども、親管一

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真宗連合学会の願いとその歩み 像について、西本願寺本の﹃親鷺伝絵﹄や専修寺本 ﹃親鷺伝絵﹄など、親鷺聖人の伝絵諸本についてで ありますけれども、これらの赤松先生のご研究も本 願寺派本願寺や専修寺の理解と協力の中で進められ ていったわけであります。とりわけ昭和三十年十月 にお書きになった﹁西本願寺本親鷺伝絵について L は、赤松先生が発表されたこの年の五月二十一日、 二十二日に龍谷大学で聞かれた真宗連合学会第三回 大会で、西本願寺本の﹁善信上人絵﹂が展観された わけであります。この時は真宗連合学会の役員の 方々が前もって直接手にとって調べることを許され たと書いてあります。そこで赤松先生が確かめられ たことが論拠になって、この﹁西本願寺本親鷺聖人 伝絵について﹂という論文が書かれております。ま た赤松先生は、昭和三十七年十二月、京都女子大か ら出ております﹁史窓﹂という雑誌の論文に﹁専修 寺本親鷺伝絵について﹂というものを書かれており ます。これは昭和三十六年に大谷大学で開催された 真宗連合学会第八回大会で、東西両本願寺と専修寺 に伝わる親鷺伝絵三本が一室で並べて展観されまし たわけであります。そのことを画期的な催しであっ たということで、その折りに赤松先生はこの両本願 寺、専修寺に伝わる親鷺伝絵は三本とも覚如上人の 自筆であることを確信を得たとされております。こ の専修寺本の調査については、平松先生のたいへん な協力を得たと書いておられます。 こういった赤松先生のお仕事というものを辿って まいりますと、赤松先生のお仕事を進めた背景と申 しますか、それを促していったものとして、真宗連 合学会の発足があり、そしてまた赤松先生の思いが 真宗連合学会の上に実現していった。そして原本の 公開、公刊ということが次々とされるようになった わけであります。なお赤松先生のお仕事は、親鷺の 史伝に関する研究としては、﹁親鷺の出家につい て ﹂ 、 ﹁ 親 鷺 の 妻 帯 に つ い て ﹂ 、 ﹁ 越 後 関 東 時 代 の 親 鷺 について﹂等、これらは吉川弘文館から昭和三十六 年に出された人物叢書﹃親鷺﹄にまとめて述べられ て お り ま す 。

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赤松先生のお仕事を拝見いたしますと、問題点と いうものを適確に鋭くえぐり出して、そして問題点、 論点を明確にし、論義し、歴史の事実を明らかにす るというものです。この姿勢から先生の内側にあっ た親鷺聖人と真宗に対する篤い敬いと親愛の気持ち というものが窺われるように思います。今日は赤松 先生を通してお話させていただいたわけであります けれども、それぞれ先生方にそれぞれご縁のある先 生方があると思いますが、私自身にとりまして、真 宗連合学会の五十年間とは、御恩のある先生の恩を 忘れた五十年であった。忘恩の五十年だと、自分自 身のことを顧みまして、たいへん申し訳なく思って おります。時聞を過ぎましたがこれで終わらせてい た だ き ま す 。 草野どうも名畑先生ありがとうございました。 京都大学の先生で、特に親鷺伝の研究で著名な赤松 俊秀先生も、真宗連合学会発足当初、評議員をお務 めになっておられたわけでございますが、その赤松 俊秀先生の研究の進展というものと、それから親鷺 真宗連合学会の願いとその歩み 聖人の真蹟や、あるいは絵伝などの実物が間近に見 られるという研究環境が、この真宗連合学会を通し て行われ、そしてそれが赤松先生の親鷺伝の研究業 績と深く結びつきながら展開したんだというたいへ ん興味深いお話をただいま名畑先生から拝聴したわ けであります。どうも本当にありがとうございまし た 。 それでは、最後にお話を頂戴いたします千葉乗隆 先生について簡単にご紹介申し上げます。千葉先生 も真宗連合学会とは深いご縁のある方でありますが、 先生は大正十年に徳島県でお生まれになりました。 そしてその後、龍谷大学の予科、そして文学部、そ して研究科とお進みになりました後、龍谷大学で長 く教鞭をお執りになられた先生であります。そのご 業績はこれまたご紹介するまでもないとは思います が、﹃真宗史料集成﹄や﹁真宗重宝緊英﹄といった ような真宗史に関わる歴史資料、あるいは絵画資料 等の編纂物に対する監修編集。それから特に千葉先 生のご専門は、やはり近世の部分にあると思います

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真宗連合学会の願いとその歩み が、近世、近代までの真宗教団の教団史的な研究、 こういうものに携わって来られた先生であります。 千葉先生のご業績は、昨年一昨年と連続して法蔵館 から刊行されました﹁千葉乗隆著作集﹂全五巻に余 すところなく展開されているわりです。もちろん千 葉先生はさまざまな研究をなさっておられるわけで すが、私個人の事を申し上げて恐縮なのですが、私 も教団史、制度史といったことにたいへん関心を持 っておりましたので、先生がずいぶん前に書かれま した﹃真宗教団の組織と制度﹂というご本が、とり わけ私にとっては印象深いものであります。 千葉先生は真宗連合学会との関わりも深いものが ありまして、昭和四十六年に評議員にご就任いただ き、翌四十七年には理事にご就任いただきましたが、 理事長を昭和五十三年から五十五年と、それから昭 和五十八年から五十九年と、二回にわたってやって おられます。初期の頃は何名かおられるのですが、 近年になってからは二回理事長をお務めいただいた 例は他にないようでございます。そういうことから 四 しましでも、真宗連合学会の維持、運営ということ に多大のご尽力をいただいた先生であります。それ では千葉先生の方からお話を賜りたいと思います。 よろしくお願いいたします。 千葉座ったままで失礼いたします。私がお話申 し上げようと思っておりますのは、真宗連合学会は 今後いかにあるべきかということにつきまして、少 し感想めいたことでありますがお話を申し上げたい と思います。真宗連合学会の目的は、浄土真宗の教 えと歴史をお互いに協力しながら研究を進めていく ことですが、それと同時に、この現代社会に浄土真 宗の教えを定着させていく方策を模索するというこ とも真宗連合学会が追求すべきたいへん大切な課題 ではなかろうかと思います。 ご承知のように、現代社会は科学技術が非常に発 達した時代です。すこしお話が横にそれますが、ち ょうど十四、五年前のことです。この現代の科学技 術の発展に対応しまして、龍谷大学で理工学部を設 置をすることになりました。そして文部省に理工学

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部の設置願いを提出をしました。文部省では願書を 受け取りまして、大学設置審議会で、理工関係の著 名な先生方が数名委員になりまして審査をするわけ です。その審査の席に呼ばれまして、龍谷大学はな ぜ理工学部を設置をするのかという理由を聞かれま した。その時に、ある一委員の先生から、仏教系の 大学になぜ理工学部が必要なのかと、そういったご 質問がございました。それで、近年の科学技術のも たらす弊害を仏教精神によって阻止したいという願 いがあるのだということを申しますと、ある委員の 先生が、千葉学長は科学技術を悪者扱いにするのか と、こういった質問がありました。私は科学技術そ のものには、善とか悪はないと考えていますが、そ れを扱いますところの科学者、技術者、そうした 方々の中に善悪がありまして、科学技術を悪用する 方々によって、原爆とか水爆とか、さらには大量破 壊兵器と、そういったものが生まれたという現実が あるわけですから、そういった科学技術者が、科学 技術を悪用しないように仏教精神によって歯止めを 真宗連合学会の願いとその歩み かけたいのだと、こういったことを申しました。 このような科学技術ないしは物質文明がもたらし ますところの弊害につきまして、すでに今から百十 二年前にフランスのパリにおきまして指摘した人が います。それは、鯖江の誠照寺派の小泉了諦という 人と、福井市の悌光寺派の仏照寺の住職の善連法彦 という人です。この二人の真宗の僧は、一八九一年 ︵明治二十四︶にフランスのパリのギメ美術館にお きまして親鷺聖人の報恩講を催しました。これはお そらくヨーロッパで報恩講が催された最初であると 考えられておりますが、その報思講の席で読みまし た表白文が残っておりまして、これは現在パリのギ メ美術館に所蔵されております。その中で、善連法 彦がつぎのようなことを言っています。﹁有形の文 明のみ独り進歩するの暁には、たちまちこの世は修 羅の競走となり、地獄の苦患を生ずべし﹂と。つま り心を忘れ、物質文明だけが先行する時には、この 世の中はたちまちに地獄の様相を呈するのだと、そ ういった発言をしているのです。しかもこのギメの 五

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真宗連合学会の願いとその歩み 美術館の報思講には、 クレマンソ!という有名な政治家、 フランスのカルメ大統領とか、 さらにドガとい う画家とか、バルトロメといいます彫刻家など、約 四百人のフランスの政界、財界あるいは文化人が出 席をしている中で、堂々と物質文明だけが先行した ならばこの世の中は地獄の苦しみに陥るのだという ことを明言をしています。 ちょうどこの一一人の僧がフランスに渡りました時 のヨーロッパの状況は、産業革命後、百年ほど経っ ていました。産業革命におきましてヨーロッパの手 工業が機械制大工業に切り替わって、物質が大量生 産されるようになり、また汽車が走り出す、さらに は衛生面でも改善が進みまして、そして人口の都市 集中が始まる。パリとかロンドンは、花の都パリ、 花の都ロンドンということで、大繁栄をしていまし た。ちょうどその花の都パリに行きまして、物質文 明の極度に発達した状況を見た彼ら二人が、今申し ましたように物質文明がもたらす弊害の面、心の面 をなおざりにしては、やがてこの世は地獄の様相を 一 」 ノ、 呈するのだという発言をしているわけです。 この一一人のお坊さんがパリに行きますにつきまし ては、たいへん数奇な運命といいますか、原因がご ざいまして、彼ら二人は同じ福井県の人ですが、示 し合わせてパリへ行ったわけではないわけです。た またま明治の末頃に日本で原始仏教を研究しようと いう雰囲気が高まってまいりまして、そこで、悌光 寺派の善連法彦と、誠照寺派の小泉了諦、二人別々 に南方仏教の研究に出かけます。そしてタイからイ ンドを経由しまして、セイロン島、現在のスリラン カの仏教大学で勉強しておりまして、たまたま二人 が偶然に出遇ったということなのです。ちょうどそ の 折 、 セイロンのコロンボ港に二隻の日本の軍艦が 入ってきました。これは比叡と金剛という軍艦です が、日本の明治天皇にトルコから表敬訪問に参りま したエルト・グロ!ル号という軍艦が、トルコに帰 る途中、和歌山県の沖合で遭難して沈没し、その生 存者を、その日本の二隻の軍艦に乗せましてトルコ へ送り帰します途中、たまたまコロンボ港に立ち寄

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ったわけです。そうしますと、明治のことでござい ますから、めったに日本の船なんか入ってこないわ けですが、ところが日本の軍艦が二隻もコロンボ港 に入港したというので、二人の坊さんは軍艦に行き まして御法話をしました。その御法話が乗組員にた いへん喜ばれまして、艦長が是非トルコまで一緒に 乗船し、時々御法話をしてほしいというのでトルコ まで行きました。トルコに着きますと、ここまで来 たのだから、パリとロンドンを見ょうということで、 パリに行き、次いでロンドンを訪問したわけです。 たまたまパリにエミ l ル・ギメという人がいまし て、この人が東洋美術館を聞いていました。このエ ミ l ル・ギメという人は、明治の初め、ちょうど廃 仏製釈で日本の仏教が壊滅的な状況に陥った時に来 日しまして、日本の仏像とか経巻とか、さまざまな 仏教関係の美術品を買い込みまして、そしてフラン スへ持って帰り、東洋美術館を開くわけです。しか もギメが日本に来ました時に、京都の西本願寺の飛 雲閣におきまして、当時著名な学者である大谷派の 真宗連合学会の願いとその歩み 渥美契縁と西本願寺の島地黙雷、赤松連城の三人と 対談をしています。その対談の記録は、現在﹃開封 客記﹄と申します本となって残っておりますが、キ リスト教と仏教を比較しまして、たいへん細かな議 論が展開されておるわけです。つまり東西両派学者 とギメとが対談をしまして、ギメは日本仏教の代表 的な宗派は浄土真宗であり、その浄土真宗の最大の 行事は親管聖人の命日法要の報思講であると、そう いう認識を持ってフランスに帰りまして美術館を開 館したわけであります。そこでたまたま先刻申しま すように、二人の日本のお坊さんがパリにやって来 たというので、それでは報思講を催してもらおうと いうことで、日本から親鷺聖人の御木像| 1 実は御 木像を拝見しましたが、どうも親鷺聖人の木像では なくて、別のお坊さんのようですが、美術館では親 鷺聖人の御木像と申しております l i l 、阿弥陀様の 木像、さらには四幅の御絵伝等をかけまして、先刻 申しますようにフランスの政、財界の人たちを招待 して盛大な報思講の法会を執り行ったのでした。そ 七

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真宗連合学会の願いとその歩み の表白文の中で、先刻も申しますように、心をなお ざりにして物質文明だけが先行する時にはこの世は たちまちに修羅、地獄の有様を呈するようなことに なる。だからどうか皆様方は仏教の心を体得をして くださいといった趣旨の表白文を読み上げています。 ところが現代社会におきましでも、科学技術が盛 んに進展をいたしますが、その物質文明、科学技術 の発展に精神面において立ち後れているということ が言えるのではなかろうかと思います。その立ち後 れております空間を埋めるのは浄土真宗、特に真宗 連合学会の方々によりまして、現代社会におきまし ていかに親鷺聖人のみ教えを伝えていくかというこ とを、今後の課題として取り組んでいただきたいと 思 い ま す 。 大乗仏教では、基本的に﹁一切衆生悉有仏性﹂と いうことを申します。世界のあらゆる生きとし生け るものはみな仏になる性質をもっている。動植物は みな共に平等であるということを﹁一切衆生悉有仏 性﹂という言葉でもって表現をいたしております。 }\ 親鷺聖人はさらにそれを一歩進めまして、﹃歎異抄﹄ の中で﹁一切の有情はみなもって世々生々の父母兄 弟なり﹂と、地球上のあらゆる生物はみんな父母兄 弟で血が繋がっておるのであると申しておられます。 今年の二月八日の朝日新聞の夕刊に、生命科学の 立場からあらゆる地球上の生物の遺伝子の分析を行 った記事を掲載しました。これはかなり広いぺ l ジ にわたって解説が施されておりますが、遺伝子を解 析しながら動物の命がどのような形で進化をしてき たのかという研究の現状を報告をした内容の記事で す。これを細かく申し上げますとたいへん時間を取 りますので、簡単に申しますと、その中で遺伝子研 究と進化論というふうなものを図解して、生物が分 岐をしていった状況を事細かく説明しています。こ の地球上に発生をいたしました﹁いのち﹂は、だい たい三十億年前に分岐、別れ始めると、こういうこ とです。そして十四億年前に動物と植物に分かれ、 八億三千万年前に動物の中から今度は昆虫が分かれ ていくということです。さらに四億五千万年前には

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動物の中から魚類、お魚が分かれます。三億一千万 年前には鳥、鳥類が分かれる。そして三百五十万年 前にチンパンジーと人類が分かれる。このように生 物が分岐をいたしました年代を記しますと同時に、 それぞれの生物の遺伝子につきましでも細かな研究 結果の報告がなされています。 この記事を見ますと、親鷺聖人の﹁一切の有情は みなもって世々生々の父母兄弟﹂、世界中の生きと し生けるもの、動植物は、みんな兄弟なんだと、こ ういう考え方は、現代の遺伝子科学、進化論の到達 点と一致するわけです。そういうことで、あらゆる 生きとし生けるものはみんな兄弟なんだという立場 に立ちまして、そういう広い視野から、あらゆる事 柄に対応してまいりますことが、基本的に大切なの ではなかろうかと思うのであります。 もう少し申し上げたい点もございますけれども、 一応与えられた時間になりましたので、今後私達真 宗連合学会の会員は一致団結して、単に教学とか歴 史の微細な研究にとどまるだけでなく、もちろんそ 真宗連合学会の願いとその歩み れは大切でございますが、それと同時に巨視的な、 大きな立場に立ちまして、親鷺聖人のおっしゃいま すように、全世界の動植物はみんな兄弟なんだとい うふうな立場に立って、現代社会の特に物質科学の 弊害を何とか除去して努力する必要があるのではな いかということを申し上げたいと思うのであります。 時間になりますのでこれで終わらしていただきます。 草野どうもありがとうございました。最後に千 葉先生からは、この真宗連合学会に今後望む事柄と して非常にグローバルな視点から、あるいはこの科 学技術、物質文明というものと、仏教、宗教、ある いは真宗というものがはたすべき役割、そういう立 場からご提言を頂戴いたしたことです。どうも三人 の先生方ありがとうございました。 ここで十分ほどお休みを 頂戴させていただきまして、その後三人の先生方に 少し鼎談を賜りたいと思っております。 それではご案内の通り、 ︵ 休 憩 草 野 ここからは三人の先生で少しお話しいただ 九

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真宗連合学会の願いとその歩み くというような形で進めて行きたいと思います。 平松先生からはこの真宗連合学会発足当初の非常 に熱気溢れる雰囲気をお話しいただきましたし、ま た名畑先生からは、赤松俊秀先生という真宗史研究 者の研究の深まりと、それからこの真宗連合学会の 歩みというようなものが、深く結びつきながら展開 したのであるというお話を頂戴しました。また千葉 先生からは将来に向かって真宗連合学会が担ってい くべき課題についてご提言を頂戴いたしました。 どういうお話を後半お聞きしたいかということで 私自身考えておりましたが、一つはまだ平松先生に 十分お話いただいていないことがあるように思いま す。特に発足当初は高田派と本願寺派と大谷派と、 この三者で始まったということはお開きしたわけで すが、現在のごとく十派連合という形で展開するよ うになったそのあたりの経緯ということについてま だ十分お聞きしておりませんので、そのあたりから 平松先生にもう少し補足をいただければなあと思つ いかがでしょうか。 ております。 四 0 私、この二、三年来目を困じまして、 を書いてきたのですけれど、メモが見えないもので すから、とばしてしまったことがたくさんありまし 平松 メ モ て、その一つが今草野先生からおっしゃっていただ きましたことです。初めは東西本願寺と高田の三派 で始まったものが、後に悌光寺派、興正派、木辺派、 出雲路派、誠照寺派、三門徒派、山元派の真宗十派 でということになっていった経緯ということです。 私は前に申しましたように、走り使いをしていた だけで、詳しいことはよく存じません。それは先に 言いましたように、龍谷大学の佐藤哲英先生、この 方がこの学会の本当の仕掛け人でありまして、その 先生が飛び回って全部まとめていただいたようです。 確か第五回大会が併光寺さんではなかったかと思い ます。第一回を高田でやりまして、第二回を龍谷大 学。第三回が大谷大学でやって、第四回をまた高田 へ戻ってきてやりまして、第五回が併光寺さんだっ た か と 。 草 野 そうでございます。

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そうですね。第五回大会を伸光寺さんでや ったわけですが、それはそれの前の大会で三派だけ ではなしに、各派に呼びかけようということになっ て始まった。だから第五回から始まったと思います。 草野ありがとうございます。それからもう一つ、 これは最初に平松先生がお話になりましたように、 各派ご本山がご所蔵になっております真蹟やら古典 やら古文書やらを拝見させていただくというような ことが真宗連合学会の一つの大きい目玉だったわけ ですが、各派本山の宝物を拝見させていただいた後、 今大会も明日行うわけですけれども、真宗連合学会 の一つの特徴といたしまして、聖跡巡拝ということ 平松 を行うようにだんだんなっていったようでございま す。それで過去の記録を見ておりますと、第十回ぐ らいから始まっているようなんですが、 このあたり のいきさつは平松先生、千葉先生、何かご存知ない でしょうか。聖跡巡拝がこう始まって行く頃の事情 そ う い う こ と で す が : : : 。 と か 、 平松 一番はじめ京都で親鷺聖人の聖跡を回った 真宗連合学会の願いとその歩み の が 最 初 で 、 る ん だ と 。 それで名前が ﹁聖跡巡拝﹂となってい 草野﹁真宗研究﹄の葉報を調べてみましたら、 第十回大会が興正寺様で行われました時に、青蓮院 とか、吉水とか、大谷廟堂の跡地等を見学会に行っ たのがどうも一番最初ではないかというようなこと な ん で す 、 そこらあたりのことを何か憶えておられ ま す で し ょ う か 。 そうですね、青蓮院とかあの辺を、それか ら安養寺とか、それからお茶毘所の跡とかを回らし ていただきまして、それの解説に当たられたのが、 宮崎園遵先生と、それから赤松俊秀先生でした。こ とに青蓮院は、赤松先生があの当時、青蓮院の調査 をずっとおやりになっておられたので、たいへん詳 しく、また説明がたいへんすばらしかったのを私も 憶えています。その翌年に越前武生の出雲路派の御 本山事摂寺さんに行くことになった時に、これは越 前の方からのご要望もあって、出雲路派さんだけで はなしに、誠照寺さん、あるいは山元派、それから 平 松 四

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真宗連合学会の願いとその歩み 三門徒派の御本山も皆回るべきだということで、そ れと吉崎を含めて回ったように思います。それが聖 跡巡拝の始まりだったように思います。︵この発言に つ い て 、 末 尾 に 訂 正 補 記 ① ︶ それからもう一つ各派にご協力をいただくように なった中で、特別な因縁がありますのが、木辺派の 御門主様で、お亡くなりになった翌年、一周忌でし たか、その記念に多額のご寄付をこの真宗連合学会 にいただきまして、その利息で木辺御門主奨学賞と いう賞を出すようになったことがあります。当時は 利息が年六分でしたか、今はずいぶんひどいもんで すが、当時は年利六パーセントあったものですから、 それで前年の発表者の中で優秀な発表について賞を 出すことにして、それを木辺御門主奨学賞と名付け て、その選考を理事会で毎年ゃった憶えがあります。 草野それについて前もって調べておったのです が、昭和四十四年に催されました第十六回大会、こ れは専修寺様ですが、この時の大会の葉報の中に、 木辺派の御門主奨学賞の設立というようなことが書 四 いてありまして、前門様のご寄付から木辺賞が出来 たということが書いてあります。この木辺賞につき ましては現在もなお続いております。 それで木辺御門主賞の方に話がいったんですが、 もう少しお伺いしたかったのは、平松先生、特に聖 跡巡拝にこう各地を回るようになりましてから、特 に先生の御記憶に残っている良い会だったなあとい うような、何かそういう印象的な聖跡巡拝というの はございますでしょうか。 平松特にと言われるとちょっとすぐには思い浮 かびませんが、聖跡巡拝、今青蓮院の時の話が出ま したが、青蓮院で赤松先生がおやりになった。それ から藤島達朗先生がその時もおやりになったのでは なかったですかね。それがたいへん感動的な良いも の だ っ た と 。 さきほどこの真宗連合学会の最大の仕掛け人は佐 藤哲英先生だと申し上げたのですが、実はここまで 持って行くについて、もう一つ忘れてはならないの が龍谷大学の宮崎固遵先生、それから大谷大学の藤

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島達朗先生、それから先ほど名畑崇先生もお話にな った赤松俊秀先生、この三先生がたいへん緊密に連 絡を取り合ってこられた。これがこの学会をまとめ てこられた大きな原因だと思います。この三先生は ほとんど同い年なんですよね。この間も念のた調べ てみましたが、宮崎園遵先生は明治三十九年の十月 生まれですし、藤島先生は翌四十年の一月生まれ。 赤松俊秀先生はその同じ四十年の四月生まれ。私は 実は大正八年生まれなんですが、未年なのです。赤 松先生も未年で、一回り上なんです。そういうこと もあって、特に赤松先生にかわいがってもらったの ですけれども、この三先生はほとんど同い年だとい うので、皆お互いに君呼ばわりで、宮崎君、あるい は赤松君、藤島君と、お互いに非常に仲の良いとこ ろがあって、この学会もそういうことが刺激になっ て発展したんだというふうに今感じております。 草野私が聖跡巡拝で非常に憶えておりますのは、 あれは確か東京の築地別院で大会が行われました時 に、真仏の報恩塔でありますとかを回った時なので 真宗連合学会の願いとその歩み す。あの時は平松先生に確かご解説をいただいてた のではないかと思うのですが・ 平松あれは千葉先生が理事長の時でした。 千葉あのときは平松先生が巡拝のプランを作り 説明してくださいました。 草野私、平松先生の非常に懇切な説明を印象深 く憶えております。あの時は性信の像でありますと か、それから室の八嶋でありますとか、ああいう所 をご案内いただいたことを非常に印象深く今でも憶 えておるのですが。 そういう関東の聖跡巡拝で一番感動的だっ その前々回、あの浅草の報思寺さんを会場 にしてやった大会がありまして、その翌日に観光パ スで一泊で二十四輩を回ったことがありました。そ の時にあの先般亡くなられました西本願寺の前御門 主様がご参加になられて、たいへん喜んでいただい た。我々も実にうれしくてお供して回ったことがあ りました。その後の関東の聖跡巡拝が、今草野先生 からお話があった室の八嶋とか佐貫であったかと思 平 松 た の は 、 四

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