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獲得したリベルタ ラマルケ (Libertad Lamarque) がラジオ ベルグラーノ (Radio Belgrano) に出演するための伴奏楽団に参加した 1939 年にバレラは最初の自前のオルケスタを組織し ラジオ ベルグラーノに出演した しかしレコード録音はしなかった 参考資料 [1] に

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1 <近頃、レコード・コンサートでは疎遠になったオルケスタ -2->

エクトル・バレラ・イ・ス・オルケスタ

齋藤 冨士郎 まえがき エクトル・バレラ楽団はかつては多くのタンゴ・ファンが愛聴した楽団であったが、最近ではレコー ド・コンサートのプログラムにも殆ど登場しなくなった。「最近はバレラを聴かなくなった」という声も ある。楽団の活動が衰えたわけではない。それどころか後の表に示すように録音活動は生涯にわたって 活発で、最後期にはむしろ増大しているくらいである。それでここでは、何故、近頃、エクトル・バレ ラ楽団がレコード・コンサートで疎遠になったのか、という疑問を背景にエクトル・バレラの生涯と音 楽活動を調べてみた。 エクトル・バレラの生涯 エクトル・バレラ(Héctor Varela)、本名サルスティア ーノ・パコ・バレラ(Salustiano Paco Varela)、は 1914 年1 月 29 日にブエノス・アイレス洲アベジャネダ (Avellaneda)市に生まれ、そこで子供時代と青年時代を 過ごし、公認会計士の国家資格を得るまでの中等教育も受 けた。しかし彼は非常に若い時から音楽の世界に入ったの で、公認会計士として働いたことはなかった。 バレラはバンドネオンに関しては殆ど独学であったが、 それにもかかわらず上達は早く、早々に大物たちに混じっ て演奏するようになった。音楽の初等教育は生地の老マエストロ から受けたが、更に完成を目指してバンドネオン奏者のエラディオ・ブランコ(Eladio Blanco)の門を たたいた。後の話になるが、バレラとブランコは共にフアン・ダリエンソ(Juan D’Arienzo)楽団のバ ンドネオン陣の一翼を担うことになる。 1929 年にバンドネオン奏者のサルバドール・グルピージョ(Salvador Grupillo)がカルロス・マル クッチ(Carlos Marcucci)楽団を退団して自分のオルケスタを組織した時に、彼はそのオルケスタの第 2 バンドネオン奏者にまだ 15 歳頃であったバレラを招いた。その後、バレラはアルベルト・ガンビーノ (Alberto Gambino)のオルケスタに移った。このオルケスタは “CHISPAZOS DE TRADICIÓN(伝 統のひらめき)”というタイトルの放送番組に出演するためのものであった。次いで、バレラは女性歌手 ティタ・メレロ(Tita Merello)のラジオ放送出演の際の伴奏楽団を務めた。

1934 年にバレラはフアン・ダリエンソ楽団に短期間参加し、翌 1935 年にラロ・スカリーセ(Lalo Scalise)、アメーリコ・カッジャーノ(Américo Caggiano)、アレハンドロ・ブラスコ(Alejandro Blasco)、 アニーバル・トロイロ(Aníbal Troilo)らと共にエンリケ・サントス・ディセポロ(Enrique Santos Discépolo)のオルケスタに加わった。このオルケスタはラジオ・ムニシパル(Radio Municipal)(市 立放送局)に出演するために編成された。このオルケスタはレコード録音はしたが、ディセポロが演奏 活動にそれほど熱心でなかったので、コロン劇場(Teatro Colón)でのカーニバルのバイレに出演した 後、これまた短期間で解散した。その後、バレラは、「ベソス・ブルーホス(Besos Brujos」で大成功を

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獲得したリベルタ・ラマルケ(Libertad Lamarque)がラジオ・ベルグラーノ(Radio Belgrano)に出 演するための伴奏楽団に参加した。 1939 年にバレラは最初の自前のオルケスタを組織し、ラジオ・ベルグラーノに出演した。しかしレコ ード録音はしなかった。参考資料[1]によれば、このオルケスタは当時の踊り手たちに好まれたダリエン ソ・スタイルで演奏していたという。 1939 年末、カーニバルを前にしてダリエンソ楽団からダリエンソを除くメンバー全員が退団するとい う事件が起きた。困り果てたダリエンソはバレラに楽団丸ごとダリエンソ楽団に参加することを要請し、 バレラもこれを受けた。ダリエンソにとってバレラを競争相手にす ることは得策でなかったと思われる。この新編成のダリエンソ楽団 にはバイオリン奏者としてカジェタノ・プグリシ(Cayetano Puglisi) が、ピアニストにはフルビオ・サラマンカ(Fulvio Salamanca)が いた。この後、1950 年 5 月までの 10 年間、タンゴ黄金時代の全期 間、バレラはダリエンソ楽団の第1 バンドネオン奏者であり、編曲 者でもあり、サラマンカと共にバレラ=サラマンカ時代を現出した。 この時代、ダリエンソ楽団はラジオ・エル・ムンド(Radio El Mundo) やキャバレー「チャンテクレール(Chantecler)」、その他クラブの バイレなどに出演し、多数のレコード録音をし、夏のウルグアイで はホテル・カシノ・カラスコ(Hotel Casino Carrasco)を満員にし た。1941 年にはバレラはダリエンソ楽団と共に映画“YO QUIERO SER BATACLANA”に出演した。 高山正彦氏はダリエンソ楽団のバンドネオン陣について「専門家の間では「片手弾き」という酷評が 与えられている」ということをその著書「タンゴ」(新興楽譜出版社 1954 年)の中で紹介している。 この「酷評」がどのような資料に基づいているのかは明らかではないが、それがバレラ時代のダリエン ソ楽団を指すのであれが、それはダリエンソにとって、そして勿論バレラにとって、心外かつ迷惑な話 であることは間違いない。バレラ時代のダリエンソ楽団を指してこのような「酷評」が実際にあったと するならば、それは若く、やっと名前が知られてきたバレラがいきなりダリエンソ楽団の第1 バンドネ オン奏者の座についたことへの妬み心がそう言わせたと考えるのが至当であろう。 1950 年、ダリエンソ楽団が絶頂にあった時期に、バレラは再び独立して自己の楽団を組織した。人々 は伝統的ダリエンソ・スタイルの新楽団の誕生を期待したが、バレラはその期待を裏切って全く個性的 なリズムとサウンドで多くの人々を驚かせた。バレラ楽団は出発時から圧倒的な成功を収めた。バレラ 楽団はラジオ・ベルグラーノのゴールデン・タイムに出演し、ダリエンソ楽団が長年君臨してきたキャ バレー「チャンテクレール」とも契約した。チャンテクレールでの長い活動の後に、バレラは「マラブ ー(Marabú)」と、その後は踊れるコンフィテリーアの「ミ・クルブ(Mi Club)」と契約し、活動を続 けた。この頃、バレラ楽団はブラジルのリオ・デ・ジャネイロその他の都市を公演し、“MI CORAZÓN ES VIOLÍN(わが心はバイオリン)”、“HISTORIA DE UN AMOR(ある恋の物語)”、“RISQUE”な どタンゴのリズムに変えられたブラジルの曲を持ち帰った。 同じく1950 年にバレラは PAMPA レーベルに録音を開始した。蟹江丈夫氏によればバレラの PAMPA 録音のレコードが日本に入るようになったのは1953 年後半からであるというが、蟹江氏はそれに先立 つ1951 年の春にブエノス・アイレスからの短波放送でバレラの“A la gran muñeca”を聴いたことが あるという。もっともその時はバレラの名前を知らなかったのと、アナウンサーの言うことがよく聴き 1936 年のエクトル・バレラ(画像出処:

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取れなかったので、バレラをトロイロと思い込んでしまったそうである。(参考資料[5])

この時代のバレラ楽団には

ピアニストしてウルグアイ人のセーサル・サニョリ(César Zagnoli)が、

バンドネオン奏者にはバレラに加えてアントニオ・マルチェーセ(Antonio Marchese)とアルベルト・ サン・ミゲル(Alberto San Miguel)が、

バイオリン奏者にはウーゴ・バラリス(Hugo Baralis)(どこにも出て来る人だ)と後年セステート・ マジョールで活躍するマリオ・アブラモビッチ(Mario Abramovich)がいた。

歌手はアルマンド・ラボルデ(Armando Laborde)とロドルフォ・レシカ(Rodolfo Lesica)であっ た。ラボルデが退団した後にはアルヘンティーノ・レデスマ(Argentino Ledesma)が参加した。「レ シカ‐レデスマ」の看板を掲げたバレラ楽団はレコード売り上げも最高となった。

バレラ楽団はリバー・プレート(River Plate)(「ラ・プラタ河」?)、ボカ・フニオル(Boca Junior)、 ウラカン(Huracán)といった多くのクラブのカーニバルのバイレで不可欠であった。またラジオ・ベ ルグラーノが毎土曜日に中継放送するダンス音楽の時間にも不可欠であった。そして、アルフレド・デ・ アンジェリス楽団を有名にしたラジオ・エル・ムンド(Radio El Mundo)の“EL GLOSTORA TANGO CLUB”にも出演した。

1960 年代、アルゼンチンのタンゴ界は「ビートルズ」を筆頭とする外来音楽の侵入によって打撃を受 けた。アルゼンチン・タンゴ勢はエクトル・バレラやアニーバル・トロイロのオルケスタと共にフリオ・ ソーサ(Julio Sosa)、ロベルト・ゴジェネチェ(Roberto Goyeneche)、スシー・レイバ(Susy Leiva) らの優れた歌手陣をもってこれに対抗した。バレラはテレビ番組“Grandes Valores del Tango

(タンゴの偉大な資産)”に出演することで活路を見出した。フリオ・ソーサとスシー・レイバはそれぞ れ1964 年と 1966 年に世を去ったが、ロサンナ・ファラスカ(Rossana Falasca)(残念ながら彼女も 1983 年に早世した)、ギジェルモ・フェルナーンデス(Guillermo Fernández)、マリーア・ガライ(María Garay)、マリーア・ホセ・メンターナ(María José Mentana)のような有望新人歌手が後を継いだ。 エクトル・バレラは1960 年代の危機を乗り切った。

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1970 年代に入るとタンゴは息を吹き返した。バレラは多くの放送番組に出演した。それらは  LS10 の“La Tangueria del Plata”

 オスカル・デル・プリオレ(Oscar del Priore)制作の市立放送局の番組  ラジオ・スプレンディの“Tango y Box”

 ホルヘ・セラーノ(Jorge Serrano)による“SERANITO”

 ロベルト・ゴンサーレス・リベロ(Roberto González Rivero)が出演する“La Danza de la Fortuna”  その他、ラジオ・コロニア(Radio Colonia)やラジオ・プロビンシア(Radio Provincia)のタン

ゴ番組など、 であった。テレビでもいくつかの番組が始まった。バレラ楽団はそれらの中心にあった。 1970 年代半ばにチャンネル 7 で新しい番組“AMIGOTANGO” が始まり、バレラ楽団はそこにも繰り返し参加した。これと並行し てバレラ楽団は「ミ・クルブ」でのバイレも疎かにしなかった。 1971 年にエクトル・バレラはオルケスタを率いて日本公演を果た した。残念ながら筆者はこの公演を観ていないが、石川浩司氏が参 考資料[6]に簡にして要を得た短評を寄せている。それによると来日 メンバー(全員ではない)は

ピアノ:フアン・カルロス・オーワル*)(Juan Carlos Howard)

バンドネオン:エクトル・バレラ ドミンゴ・スカポラ**)(Domingo Scapola) サルバドール・カスコーネ(Salvador Cascone) バイオリン :マリオ・アブラモビッチ(Mario Abramovich) カルロス・アルナイス(Carlos Arnaiz) ベース :ドミンゴ・ドナルーマ(Domingo Donaluma) 帯同歌手はアルベルト・マリーノ(Alberto Marino)であった。 石川氏によれば、初演(1971 年 4 月 26 日)は失望のステージで あったが2 回目(4 月 29 日)では見違えるような迫力をもって聴衆に迫った、とある。フアン・カルロ ス・オーワルは古典色たっぷりのピアノを、ドミンゴ・スカポラは異色のバンドネオン・バリアシオン を聴かせてくれた。アルベルト・マリーノもかつてのようなつやのある声ではなくなったとはいえ、堂々 たる歌い振りであった。バレラのバンドネオンは想像通り少々機械的で長く続けて聴くのはつらい思い であったが、ダリエンソ譲りの歯切れの良いところはさすがであったと、石川氏は記している。

1980 年代に入り、バレラ楽団は夏季にはマル・デル・プラタの“CARPA AZUL Y BLANCA”に常 時出演した。また1980 年代を通してバレラ楽団は 11 チャンネルの番組“TANGO Y GOLES” に出演 した。 1970 年代以降、厳しい経済的環境にも拘らずエクトル・バレラはフル編成のオルケスタでの活動を維 持してきた。このことはそれだけの人気を常に維持してきたことに他ならない。 エクトル・バレラは1987 年 1 月 30 日に世を去った、享年、73 歳と 1 日であった。 *) 石川氏を含む当時の日本のタンゴファンの間ではHoward を「オワール」とするカナ表記が一般的であ ったが、高場将美氏(私信)によれば当人たちは「オーワル」または「ホーワル」と言っていたそうである。 それでここでは「オーワル」とした。「ハワード」ではないようだ。 **) 1961 年来日のフランシスコ・カナロ楽団のメンバーでもあった。 エクトル・バレラ来日記念盤(サイン入 り) CBS/SONY SONX 70192。21/6/71 の 日付は読み取れるが、人名は読み取れな い。マリーノか?録音年不詳。 Columbia 第 1 期か?

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5 エクトル・バレラの録音活動 バレラの録音活動の期間は1950 年から 1975 年までの 25 年間にわたっているが、その間にレコード 会社をいくつも替わっている。また歌手もいろいろと入れ替わっている。Lefcovich のディスコグラフ ィに従ってそれをまとめると 1950 年 12 月~1954 年 4 月 PAMPA 期 録音数 50 曲 歌手:アルマンド・ラボルデ(Armando Labordde) ロドルフォ・レシカ(Rodolfo Lesica) 1954 年 10 月~1961 年 8 月 COLUMBIA 第 1 期 録音数 123 曲 歌手:アルマンド・ラボルデ、ロドルフォ・レシカ アルヘンティーノ・レデスマ(Argentino Ledesma)

エクトル・マウレ(Héctor Maure)、ラウール・ラビエ(Raúl Lavie) エルネスト・エレラ(Ernesto Herrera) フォンタン・レジェス(Fontan Reyes) カルロス・ジャネル(Carlos Yanel) ホルヘ・ローランド(Jorge Roalndo) 1962 年~1963 年 MUSIC HALL 期 録音数 18 曲 歌手:アルマンド・ラボルデ、ホルヘ・ローランド エルネスト・エレラ、ルイス・コレア(Luis Correa) マリオ・デ・ラ・クルス(Mario De La Cruz) 1964 年 3 月~1971 年 4 月 ODEON 期 録音数 91 曲 歌手:エルネスト・エレラ、マリオ・デ・ラ・クルス ホルヘ・ローランド、クラウディオ・ベルジェ(Claudio Bergé) カルロス・ノゲス(Carlos Nogues) マルセロ・ペニャ(Marcelo Peña) 1972 年 EMBASSY 期 録音数 12 曲 歌手:カルロス・ノゲス、ホルヘ・ローランド 1973 年~1974 年 MICROFON 期 録音数 66 曲 歌手:アルヘンティーノ・レデスマ、ロドルフォ・レシカ ラウール・ラビエ、クラウディオ・ベルジェ ホルヘ・ファルコーン(Jorge Falcón) フェルナンド・ソレル(Fernando Soler)

ディエゴ・ソリス(Diego Solis)、ティタ・メレロ(Tita Merello) ビクトル・ダニエル(Víctor Daniel)

1975 年 COLUMBIA 第 2 期 録音数 20 曲

歌手:フェルナンド・ソレル、ビクトル・ダニエル カルロス・ダミアン(Carlos Damian) ウーゴ・カラスコ(Hugo Carasco)

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6 となる。なお、MICROFON 期以降については Lefcovich のディスコグラフィと参考資料[1]及び[4]とで は記載事項にかなりの相違がみられ、わからないことが多い。参 考資料[4]では COLUMBIA 第 2 期に相当する記載はなく 1975 年 ~1981 年まで MICROFON とあるが、これには再発売ものも含 まれており、また録音年ではなく発売年に基づいたデータのよう である。参考資料[1]及び[4]では 1982 年と 1986 年に C.B.S. COLUMBIA で LP をそれぞれ 1 枚出したと記載されている。歌 手はフェルナンド・ソレル、ビクトル・ダニエル、ウーゴ・カラ スコであった。右に示したのはバレラの最後の録音となるLP CBS 80.545(1986 年)の画像で、ここでの演奏は相変わらず華 麗であるがバレラの特徴はかなり薄れてくる。やはり「バレラ、 老いたり」という感は否めない。 一応、Lefcovich のディスコグラフィのデータに 1982 年と 1986 年のデータのみを加えたものに話を限 って作成したのが下に示したバレラの録音履歴のグラフである、總録音数は400 曲である。1950 年か ら1975 年迄については年平均で約 15 曲録音している計算になる。内訳としてはタンゴ系が圧倒的に多 く、非タンゴ系の曲数は10%弱である。器楽演奏の割合は 41%であり、歌入りが多いアルゼンチンの楽 団の中では多い方である。COLUMBIA 第 1 期までは SP 録音で、MUSIC HALL 期から LP 録音であ る。 0 5 10 15 20 25 30 35 40 45 19 50 19 51 19 52 19 53 19 54 19 55 19 56 19 57 19 58 19 59 19 60 19 61 19 62 19 63 19 64 19 65 19 66 19 67 19 68 19 69 19 70 19 71 19 72 19 73 19 74 19 75 19 76 19 77 19 78 19 79 19 80 19 81 19 82 19 83 19 84 19 85 19 86 録 音 数 西暦年 非タンゴ系 タンゴ系 PAMPA期 COLUMBIA第1期 MUSIC HALL期 ODEON期 EMBASSY期 MICROFON期 COLUMBIA第2期 C.B.S.期 Héctor Varelaの録音履歴 (Lefcovichのディスコグラフィ、参考資料[1]、[4]による) CBS 80.545 バレラ最後の録音

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7 エクトル・バレラ楽団の演奏スタイル 一般的に、バレラ楽団の演奏スタイルは力強く、前へ前へと畳み掛けるようなスタカートとバレラ自 身の華麗なバンドネオン・バリアシオンが特徴である。またPAMPA 期では曲の頭にかなり長い前奏が 付くことが多い。これを嫌う人もいるようだ。コロンビア第1 期以降ではこうした前奏は少なくなった が、その代わりに演奏全体が次第に華麗になる傾向はあるようだ。それはともあれ、エクトル・バレラ は全活動期間を通じて演奏スタイルが大きくは変わらなかった人である。又、特に器楽演奏の場合には 日本のタンゴ・ファンが「古典の名曲」と位置付ける曲目を多数取り上げているのが特徴と言える。た だ、後年になると現代の作品も多く取り上げるようになってくる。一方で、いわゆる「泣き節」、「泣か せる演奏」は少ない。1973~74 年の録音では歌手にホルヘ・ファルコーンを起用しているが、ファル コーンは典型的な「泣き節」歌手であるから、バレラとは余り合わなかったのではないだろうか。 歌 手についてはPAMPA 期ではアルマンド・ラボルデとロドルフォ・レシカが二枚看板であるが、その後 はいろいろな歌手が入れ代わり、立ち代わり登場する。それでもアルマンド・ラボルデとロドルフォ・ レシカ、それにアルヘンティーノ・レデスマが看板歌手であったように見えるが、それも一時期で全体 的には歌手は固定しなかったと見てよい。こういうことは楽団経営の観点からは余り得策ではなかった のではなかろうか。 我が国で最も愛聴されているバレラ楽団の演奏時期はPAMPA 期のものである。これは最初に日本に 紹介されたバレラ楽団のPAMPA 録音が当時の日本のタンゴ・ファンにとって非常に新鮮な印象を与え たことにもよるのではなかろうか。後期の演奏では1964 年 ODEON 録音の“Repetido(繰り返し)” の人気が高いが、これは日本だけのことであるという(西村秀人(談)、@横浜ポルテニヤ音楽同好会例 会No.352(2015 年 9 月 20 日))。 作曲家としてのエクトル・バレラ エクトル・バレラは末尾の表に示したように調べ得た範囲でも80 曲近い作品があり、更に死の直前 まで作曲をしていたというから總作品数はもっと多いはずである。作曲家としては多作家の部類に入る だろう。ただ、多くは歌曲で、現地ではヒットとなったものもいくつかあるが、日本ではほとんど聴か れていない。表中の“Bien Pulenta”、“Chichipia”、“Don Alfonso”、“Lilián”、“Mirame En La Cara”、 “Sali De Perdedor”、“Si Supiera Que La Extraño”、“Te Espero En Rodríguez Peña”、“Tres Horas” を含む20 作品はバレラがダリエンソ楽団に在籍中に書かれたもので、ダリエンソはバレラのためにそ れら20 作品をすべて録音した。 日本で良く聴かれているものは器楽曲の“Don Orlando”と“Repetido”、それに歌曲の“Lilián”位 ではないだろうか。“Café Tortoni”は共作者のエラディア・ブラスケスの作品としての方が有名である。 多作家ではあるけれども名作を多数残しているとは言い難い。 エクトル・バレラ夫人のエルマ・スアーレス(Erma Suárez)も作曲の才能があり、いくつか作品を 残している。“Canzoneta”(作詞: Enrique Lary)は最も有名である。更に子息のエクトル・バレラ 2 世にもいくつかの作品があり、バレラ楽団による録音もある。バレラ一家は作曲家一家でもあった。 あとがき

エクトル・バレラの演奏の何と言っても「わかり易い」ことである。ダンスに最適の演奏であるとも 言える。しかし「わかり易い」ということは両刃の剣でもある。「わかり易い」ということは記憶に残り 易いことでもある。だから「タンゴを聴いて楽しむ人」にとっては「聴き飽きる」という側面も否定で

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8 きない。それとどちらかというと「明るい」演奏スタイルが「泣き節好み」、「センチメンタル好み」の 日本のタンゴ・ファンの嗜好に次第に合わなくなってきたのかも知れない。このあたりのことが最近、 バレラが聴かれなくなってきたことの理由ではあるまいか。 とは言え、バレラの演奏を改めて聴き直してみると、まことに素晴らしい演奏であることを再認識さ せられる。最近の若い人々をもっとタンゴに惹きつけるためにも、「わかり易い」エクトル・バレラを皆 で聴き直すのも一案ではなかろうか。 参考資料

[1] Colección “Los Grandes del Tango”, Año1 –No.21, 1991 [2] Horacio Ferrer, “ El Libro del Tango” Tomo II, 1980

[3] http://www.todotango.com/english/artists/biography/719/Hecto-Varela/

[4] 大岩祥浩、「アルゼンチン・タンゴ アーティストとそのレコード」(改訂版)、((株)ミュージック・ マガジン 1999 年)

[5] Tango Argentino (ポルテニヤ音楽同好会機関誌)No.140 ENERO/FEBRERO (1971) [6] Tango Argentino (ポルテニヤ音楽同好会機関誌)No.142 MAYO/JUNIO (1971)

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(次頁へ続く)

曲名 曲種 共作者

1 A Don Antonio tango A. Nery 2 A Don Héctor María T. Rossi 3 Abran Cancha tango J. Nery 4 Al Final De Un Cuento Silvio Soldán 5 Amanecer Porteño T. Rossi 6 Amigos De La Noche tango T.Rossi 7 Así Bailaban Mis Abuelos Silvio Soldán 8 Aznar, Pimienta Y Sal A. Aznar

9 Bandara Baja milonga J. D'Arienso, C. Waiss 10 Bien Pulenta tango J. D'Arienso, C. Waiss 11 Bienvenido A Buenos Aires H. Cives

12 Cantar, Reír, Bailar Silvio Soldán

13 Carton Junano tango J. D'Arienso, C. Waiss 14 Chichipia tango J. D'Arienso, C. Waiss 15 Cielo Y Luna vals T. Rossi

16 Con Ganas De Vivir A. Aznar

17 Contrapinta T. Rossi

18 Cruz Maidana tango J. D'Arienso, C. Waiss 19 Dame Un Beso Mi Amor Silvio Soldán

20 Desubicado A. Aznar

21 Doblan Las Campanas R. Lambertucci 22 Don Alfonso tango E.Blanco 23 Don Orlando tango A. Nery

24 El Naranjerito milonga I. Nery, H.Expósito

25 El 58 tango A. Nery

26 El Raje milonga J. D'Arienzo, C. Waiss 27 En La Costanera H. Cives

28 Gaucha vals C. Waiss

29 Guerrera tango J. Nery

30 Haceme Cu Cu La Casa

31 Jesus Negro Iturrraspe

32 La Macumba milonga A. Nery 33 La Matraca milonga J. I. Nery 34 La Misma Mentira tango A. Aznar 35 Las Calles De Mi Ciudad Silvio Soldán

36 Lenguas De Fuego tango J. D'Arienso, C. Waiss

37 Lilián tango L. Caruso

38 Lo Mismo Que Ayer vals J. D'Arienzo 39 Los Diablos Rojos tango A. Nery 40 Matinée De Tango tango A. Nery

Héctor Varelaの作品

(所蔵レコード/CD及び

Los Grandes Del Tango Año1-No.21 HÉCTOR VARELA

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曲名 曲種 共作者

41 Mi Fama De Burrero H. Cives 42 Mirame El La Cara tango L. Castineira

43 Mistica tango T. Rossi

44 Murio El Malevo tango C.Waiss

45 No Mientas tango A. M. Lattero, H. Marco 46 Noches De Brasil E. Lari

47 Noches De Mi Club T. Rossi 48 Oiga, Mozo tango J. I. De Nery 49 Pajaros En La Noche T. Rossi

50 Primer Beso H. Cives

51 Que Poca Cosa Fue Tu Amor C. Waiss 52 Que Sigan Charlando tango C. Waiss 53 Que Tarde Que Has Venido C. Waiss 54 Quien Me Robo tu Corazón Irma Lacroix

55 Quien Te Quiere Como Yo milonga S. Alonso, R. Gramajo 56 Repetido tango A. Nery

57 Sali De Perdedor milonga I. Nery

58 Santa Milonguita tango J. D'Arienzo, C. Waiss 59 Si Supiera Que la Extraño tango C. Waiss

60 Tal Para Cual tango C. Waiss 61 Tangos Y Toros T. Rossi 62 Te Espero En Rodríguez Peña tango C. Waiss

63 Te Tuve Que Perder T. Rossi, C. Waiss 64 Tres Horas tango I. Nery

65 Tristeza Surena T. Rossi 66 Un Rincón De La Boca H. Cives 67 Un Tango Para Jorge tango T. Rossi

68 Ven A Bailar H. Cives

69 Viejo Tortoni tango E. Blázquez 70 Volver A Buenos Aires H. Cives 71 Y A Dondé Llegaras A. Aznar 72 Y El Viejo No Esta Silvio Soldán 73 Y Entonces Lloraras tango C. Waiss 74 Y No Me Dejes Corazón tango C. Waiss 75 Y No Me Digas No tango C. Waiss 76 Y Porqué Te Quiero Tanto tango C. Waiss 77 Yo Te Canto Buenos Arires tango C. Waiss

参照

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