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南都炎上とその再建をめぐって

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This document is downloaded at: 2016-07-16T10:11:11Z Title 南都炎上とその再建をめぐって Author(s) 加須屋, 誠; 西谷地, 晴美; 森, 由紀恵 Citation 南都炎上とその再建をめぐって, pp.1-61 Issue Date 2005-11-30 Description URL http://hdl.handle.net/10935/229 Textversion publisher

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はドめに

本書 は2005年 1月21日に、奈 良女子大学文学部南棟 226教室で開かれ た 「南 都 の炎上 とその再興」 と題す るシ ンポジ ウムの記録 で あ る。奈 良は古代 日本 の 中心都 市で ある と同時 に、古都 として、その後 の 日本 の精神 的 中心で もあ り続 けてきた。20世紀 に入 ってか らも、和辻哲郎 の 『古寺巡礼』や亀井勝一郎 の 『大 和古寺風物誌』が、 「日本 的な るもの」探求 の手がか りとして多 くの読者 に親 し まれ て きた こ とをみれ ば、それ がわか る。 考 えてみれ ば、能楽 も茶道 も、奈 良 か らお きてい る。奈 良か らお きて、堺や京都 に、そ して全 国にひ ろがってい る。 では古都 として 日本 の精神 的 中心 にな るた めには、首都 としての繁栄 を失 っ た奈 良は、その後ひたす ら部びてい けば よかったのか。そんな こ とはなかった。 不断 に、かつ ての首都 としての趣 きを取 り戻すべ く、復 古 の営み を繰 り返 さな くてはな らなか った。今現在 、 日本 の国家 が、平城京 の朱雀 門や大極殿 の復元 に血道 をあげてい るよ うにであ る。 あ るいはまた、膨大 な費用 を投 じて、高松 塚や キ トラ古墳 の壁画 を、なん とかそのまま残 そ うとしてい るよ うにである。 そ してその復 古 の試 み の、歴 史上最 も大 きな試 みが、源頼朝や重源 に よる、 平重衡 に よって焼 き討 ち され 、一度 は灰 燈 に帰 した東大寺や興福 寺 の復興事業 だったので あ る。運慶や快慶 な ど、慶派 の仏 師 (奈 良仏 師)た ちの、縦横 の創 造力 の発揮 を可能 に した、あの南都復興事業だったのである。 では南都復興事業 はなぜ行 われ たのか。逆 に滅 亡寸前 の平氏 はなぜ南都焼 き 討 ち とい う挙 に出たのか。 それ を解 くのが本 シンポジ ウムの課題 で あ る。 そ し てそれ らの問い に答 えるこ とを通 して、古都 としての奈 良の、古代 以降のそれ ぞれ の時代 にお ける存在意義 を、一つ一つ 明 らか に してい く手 がか りを見つ け よ うとい うのである。 その意 味で本 シ ンポ ジ ウムが 「古都論」 とい う新 たな 「論」立 ち上 げの きっ か けになれ ば とも思 ってい る。古代史が、現代史家 まで含 めた多様 な歴 史家 の 共通 の関心事 にな るこ とを祈念 して、公刊す る。 奈 良女子大学21世紀COEプ ログラム 第 5グループ 「近代 日本の古代史像」代表 小路 田泰直

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匂 次

奈 良女子大学 21世紀 coEプ ログラム第 5グループ代表 小路 田泰直 はドぬ (こ

級.

加須屋 誠 「南都炎上 とその再建 一美術史学 の観 点か ら-bJ・・・・・・・・・・・・・・・-・・・- 1 西谷地晴美 「慮舎那仏 と仏教的世界観 一東大寺の創建 と再建 -」・・-・29 コメント 森 由紀恵 「南都 の復興 と神仏」

労 務

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卓 息女 手大骨 21世路 COEプログラム汲 与鼻 VoLZ 島部 真上t'その有史 をめぐって 小路 田 これか ら 「南都 の炎上 と再建」 とい うテーマで研 究会 を行 いたい と思 います。加須屋 さん、西谷地 さん、 コメンテー ターの森 さんの順番 で しゃべ っ ていただきます。 では加須屋 さんお願 い します。

南都 兵 上とその再建 一美術 史 骨の観

且から-は じめに- 「入れ子構造的」時の流れ -加須屋 誠 私 は前座 とい うことで、 メイ ン ・イベ ン トの前 に概括 的な話 を させ ていただ きたい と思 います。与 え られ たテーマ は 「南都炎上 とその再建」 とい うことで すので、私 の専門 とす る ところの美術史学の観 点か ら、 この問題 について少 し 考 えを述べ てい きたい と思います。以下、最後 までパ ワーポイ ン トを使 ってお 話 を進 めていきたい と思います。 どうぞ、 よろ しくお願 い します。 本題 に入 ります前 に、本 日の私 のお話 のベース となる考 えを短 く紹介 させ て いただきます。今 日のテーマであ る ところの治承 の乱か ら南都復興事業 は、 こ れ まで一般 に、古代 と中世 の劃期 とい うとらえ方がな されてきま した。 これ は 中学 ・高校 の歴 史教科書 にも説 かれ る ところです し、いま さら言 うまで もない、 日本史の常識 とい う範噂 に属す る事実 に違いあ りませ ん。 けれ ども、私 が注意 を呼び起 こ したいのは、その よ うに言 う場合 、おそ らく 暗黙 の前提 として、時間 とい うものは直線 的 に流れてい くとい うとらえ方 があ ることです。た とえて言 うな らば縦書 きの歴史年表 を上か ら下に眺めるよ うに、 まず古代 とい う時代 があ り、次 に中世 があ り、そ して近世、近代 が、そ して私 たちの生 きてい る現代 がある ・・・とい うふ うに時間は一直線 に流れ てい くと い う、そ ういった歴 史の認識 の仕方 とい うものが、ひ とまず前提 として認 め ら れているい るのではないか。 歴史学 に とって、それ は言 わず もがなの こ となのか も しれ ませ ん。少 な くと も私 の専門 とす る美術史学では、 こ うした考 え方 を基盤 に して これ までお よそ すべての議論 が展 開 され てきま した。 た とえば、 ある特定の作家 の作品を若 い 頃か ら晩年 まで順 に並べて考察す るこ と、制作年代未詳 の作 品群 を様式的観 点 か ら古い もの、新 しい もの、 よ り新 しい もの、 とい う具合 に時系列化 してみ る 試みな どが、 こ うした時間の捉 え方 に依拠 した美術史学の方法です。 しか し、時間 とは、それ ほ ど単純 で客観 的な観測 かで きるもので しょ うか。

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杏 息一女 3・大骨 21世免 COEプログラム汲 与鼻 VoLZ 南都 真上とその有史 をめぐ-て む しろ、現実の時間 とはそれ 自体、文字通 り捉 えどころのない ものではない と 私は思います。た とえば、二十代 の作家はその歳 に 自分の作 りたい もの、 自分 のできるベス トを尽 くして作品制作 をなすわけで、その時点でそれが若年期の 習作であるとは考 えてはいないで しょう。 そ う考 えるのは三十代、四十代 にな ってか ら、あるいは亡 くなったのちに後世の人々が 「未熟な作例だ」 と位置づ けることになる。 この意味で上か ら下- とい う 「直線的な」時の流れ とい う捉 え方はいわばあ くまで私たちの頭 の中で後知恵 として構築 されたもの、つま り イメージの問題であ り、実際的な、即物的な時間の経緯 とは別物であるはずで す。私たちの認識 の仕方 に依拠す ものだ と考 えるべ きで しょう。であるとす る な らば、その とらえ方 に別のイメージを与 えることもまた可能なのではないで しょうか。 ここでは、そ うした一つの可能性 として 「入れ龍構造的な」時の流れ とい う ものを考 えてみたい と思います。以下の話のベースになるのは、まず は じめに 古代があ り、続いて中世が到来 した とい う 「直線的な」時の流れではあ りませ ん。そ うではな くて、治承の乱 ・南都復興 とい う大事件 がいわば契機 とり、事 件後は じめて古代 と呼ばれ る時代が意識 され るよ うになった、つま り中世の到 来があって、そのなかに初 めて古代 とい う時代が構築 されたのだ、 と捉 え直 し てみ ると、果た して どうい うふ うに歴史が見 えて くるのか とい う問題であ りま す。 もとよ り、 とて も大 きなテーマですか ら、限 られた時間の中で、勉強不足の 私が十分な話ができるとは思えませんが、 これがひ とつの糸 口とな り美術史学 ひいては歴史学に従来 とは違 う別 の見方 を提供できれば、 と考 えます。 さまざ まなご批判 を賜 ることができれば幸いです。 それでは本題 に入 ります。 1 南都炎上 と再建事業 まずは話の出発点 としての南都炎上か ら。 レジュメ 【史料1】(図 ・資料 につ いては、後補資料編参照)にあげたのは、たい-ん よく知 られた九条兼実の 日 記 『玉葉』治承四年 (1180)十二月廿九 日の記事です。 この時京都 にいた兼実 は、伝聞 として、平重衡が興福寺 ・東大寺以下を焼 き尽 くした と聞いて驚博 し ます。 「七大寺巳下、悉 く灰煙 に変ず るの条、世の為、民の為、仏法王法、滅尽 し了んぬか、凡そ言語の及ぶ所 に非ず。」そ う記 した兼実は、この事件 に一つの 時代の終わ りを見て取 り、終末感 といったものを抱いていた ことが うかがえま す。兼実に とって、そ してあるいは私たちに して もそ うですが、 日々安穏 と暮 らしているときには 自分たちの生 きている時代が どうい うものなのかなかなか

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金 島女 手大骨 21世免 COEプログラム汲 与鼻 VoL,2 南都真上とその有史をめぐ-て 意識 できませ ん。 しか し、なにか大 きな事件 が起 きた とき一一た とえば、9.ll のテ ロな ど--、時代 のシフ トがチェンジす ることを否応 な く感 じないではい られませ ん。 この意味で、平安貴族 の一員であった兼実 に私たちは同調す るこ とができます。一つの時代 に終止符が打たれた、 しか し、そ こか らなにが始 ま ろ うとしていたのか ・・・それはまだ この時点の兼実には皆 目わか りは しませ ん。言 うまで もな く、歴史学が呼ぶ ところの古代/ 中世 とい う時代名称 は兼実 の知 る ところではあ り得 ませ ん。その不穏 な、不安 に満 ちた、 とらえ どころの ない気分 について も、私たちにはある程度 同調可能ではないで しょうか。 パ ワー ・ポイ ン トで掲示、してい るのは、 この焼打 ち事件以前の東大寺の大仏 を今 に伝 えるイメージ群。一つは大仏蓮弁の線刻画像 (図1)。 も う一つは信貴 山縁起絵巻 「尼公の巻」に描かれ るところの大仏殿 (図2)。 さらに、やや時代 の下がった絵 画遺 品です が東大寺大仏縁起絵巻 に描 かれ た大仏焼失場 面です (図3)。 こ うして灰 になって しまった東大寺で したが、その直後か らその再建 は着手 されます。 この事業の遂行 に際 して、俊乗坊重源 とい うお坊 さんが非常に重要 な役割 を果た した ことはよく知 られてい ることであ りま しょう。 重源 に関 しては、既 にま ざまな研究書の刊行や、最近では彼 に焦点 を据 えた 展覧会 な どが開かれた りして、数多 くの知見が得 られています。そ ういった先 学のお仕事 を拝見 して私が感 じることは、重源 とい う人 は極 めて大 きな振幅の ある二つの極 を行 った り来た りす る、そ ういった在 り方 を した人ではないか と い うふ うに思います。 た とえば華厳宗の総本 山である ところの東大寺の再建 と、その一方で個人的 な熱烈な阿弥陀信仰 の持 ち主であった こ と、そ ういった信仰面での両極。若い ころ醍醐寺 に入 って山中で修行 した とい う経緯 と、海 を越 えて三回 も中国に渡 った と自称す る、そ ういった経歴上で振幅。 あるいは南都復興事業 に関 して古 典古代 の復興 と当時新 しく入 ってきたニュー ウエーブの宋風の採用 とい うこと。 さらに後 白河院 ・九条兼実それか ら新興勢力であるところの源頼朝 といった特 定の大 きな権力 と付 き合いなが ら、その一方で勧進 とい うかたちで数多 くの民 衆 とも接す るとい うや り方。 中央 にいなが らに して地方 に別所 を築 き、そのネ ッ トワー クを 自由に行 き来す る戦略。 なによ りも非常に強い 聖性 を帯びてい る か と思 うと、お金 の問題や人事の問題や極 めて現実的なマネ ジメン トの才にも 長 けてい るとい う、そのキャラクタ一 ・・・言 うな らば、凡人 な ら到底到達不 能の両極 を どち らも兼ね備 えていたか らこそ、南都復興 とい う偉業 を達成す る ことができた と言 うべ きか。 あるいは逆 に、時代がそ ういった重源 の個性 とい うのを育んだ と言 うべ きか。 ともか くも、重源 とい う人 はそ ういった特異で特 殊 なポジシ ョンに位置す る人物である と呼べ ると思います。 けれ ども、 もちろ

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番 長女 手大骨 21世免 COEプログラム汲 与鼻 VoL2 あ朴 東 上とその舟丈 をめぐって んこ うした位置づけはあ くまで歴史 とい うメジャーを当てた上で得 られた知見 であ り、重源本人の預か り知 るところではあ りません。 この重源 のもと、 よく知 られています よ うに、美術史の分野では運慶 と快慶 とい うひ ときわ有名 な仏師たちが活動、活躍の場 を持 った ことが注 目されてい ます。 ご覧に入れているのは、運慶 ・快慶の代表作 と一般 に考 え られてい る東 大寺南大門の仁王像 (図4. 5)です。 かつて美術史学では、 この仁王像 に関 して、 どち らを運慶が造 り、 どち らを 快慶が造った とい うよ うなことが盛んに議論 されてきたのですが、近年

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年 代の修理の際に、それぞれか ら銘文が見つか りま して、阿形像 には運慶 と快慶 とい う名前が、畔形像 には湛慶 と定覚が大仏師 として名前 を連ねていることが 判明 しま した。つま り、銘文に重 きを置 くのであれば、 この仁王像 を運慶 ・快 慶の代表作 とす るのはい ささか事実誤認ではないか と疑われ もします。 また、ついでなが らこの仁王像の一般的な認識 について一言述べてお くな ら、 小学校の歴史教育か ら大学セ ンター試験に至 るまで、鎌倉時代 -質実剛健 -南 大門の仁王像 とい う見方が、一連の中世文化の理解 として公式化 されています。 ただ、そ ういった高校 までの教科書の図版 を見 ると、た とえば平安時代の仏像 では定朝作の平等院阿弥陀如来像 を挙げ、鎌倉時代ではこの仁王像 を挙げ、そ れぞれ優雅である、質実剛健であるといったキャッチ フ レーズが与 えられてい る。 もし仮 に同 じ如来像、同 じ天部像 を挙げてイメージの比較 をなすのである な らばまだ しも、 しか し、歴史の コンテキス トよ りも宗教的なイ コノグラフィ ーの次元で違 うものを図版 として掲げ、その違いをもって時代の気風 を物語 る といの うは、い ささか議論 としては乱暴で合理性 に欠 くのではないか、 と私に は感 じられてな りません。 このよ うに南大門の仁王像 は さまざま問題含みの作例ですが、 しか し、有名 な仏像であることは間違いないので、まずはこれ をた よ りに、重源 の采配 によ る南都復興事業の在 り方 を少 し考 えてみたい と思います。運慶 ・快慶作 と言わ れてきた この仁王像 が安置 されている南大門は非常に大きな建物で、 とくにそ の構造上、化粧屋根裏 を張 らず に、材 をそのまま じかに見せて、ある種力強 さ を感 じる建築 とになっている点で、小野の浄土寺の浄土堂 と似ています。 この 二棟の建築はいずれ も重源が関与 して建て られた ものであ ります (図 6. 7. 8)。 私は建築史学について必ず しもよく知 らない、 この分野に暗いので是非 ご専 門の方 に教 えていただきたい ところですが、 こ うした建築のルーツ として、た とえば中国の福建省 にある華林寺大殿 (図9)な どと似 ているとい うことがあ るよ うに、図版 を見 る限 りでは思えます。 おそ らく、こ うした建築様式は中国か ら学んだ ものであ り、南大門には重源

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番 長女 子大骨 21せ き乙COEプログラム汲 与鼻 VoLZ 南都 真上とその再建をめぐ-て とい う人の知識 と思惑が深 く絡んでい るので しょう。そ して (当初 は別の とこ ろに安置 されていま したが、現在 は仁王像 と背 中合わせ で)南大門に配置 され ている獅子像が、 これ も日本風のいわゆる狛犬 とは全然違 うダイナ ミックな造 形 を持 っていることに気づ きます。 これ は宋人六郎 とい う人が造った とい うこ とが分かっていますので、中国文化、スタイルの影響 とい うことにな ります。 つま り、 この南大門全体は、そ ういった宋風文化の受容 とい う文脈 で とらえる べきものか と考えられ るわけです。 そ う思って見た とき、 この仁王像 にそっ くりな図像 を含んだ版画遺品が現存 しています。それ は、京都 ・嵯峨野の清涼寺の釈迦如来像内に納 め られていた 釈迦霊鷲 山説法図のなかの仁王像です (図10)。 南大門の仁王像 は、恐 らくはこ ういった中国伝来の、宋代の図像 を基 に して造 られた ものに違いあ りません。 つま り、この仏像は 日本国内での様式変遷 一一優雅な平安貴族文化

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質実剛健 な鎌倉武家文化 一一 とい う直線的な歴史理解 では くくり得ない作例 と結論 され るのです。 仁王像 についてはこの ぐらいに して、それではあ らめて運慶 ・快慶 について 考 えていきたい と思います。 まずは快慶か ら議論 を進 めていきたい と思います。快慶制作の仏像は 日本各 地 に数十体現存 しています。快慶は 日本 中世の仏師の中ではひ ときわ遺品の多 い作家です。鎌倉時代以降すでに失われた作品も多数 あるで しょうか ら、快慶 は生涯 にわた り極 めて多数 の仏像 を作 った と考 えられ る。それが可能であった のは、た とえば西洋の レンブラン トがそ うであったよ うに、快慶 もまた 自ら工 房 を率いて、いわば択慶ブラン ドの よ うなかたちで 自身が直接最初か ら最後ま で手 を下 さず とも弟子 を組織 して仏像制作ができたか らではないか と考 え られ ます。快慶 は、次 に述べ る運慶の統括す る慶派の一員 として活動 しなが ら、ま た 自ら工房 を組織 し仏像の受注生産 をこな していた。 工房制作 と云 うことを考慮す るな ら、個々の仏像 に関 して快慶本人が どの ぐ らい手 を下 したか問題ですが、それは ともか くとして、快慶の銘文 を具備 した 仏像 にはある一貫 した様式の共通性が認 め られます。それは概 して質実剛健 と い う言葉 に当てはまるものではな くて、む しろ優雅 とい うか、洗練 とい うか、 知的 とい うか、 ともか くそ ういった言葉が当てはまる表現になっています。 快慶の中で特色 ある作品を二点ほ ど取 り上げて、 この ことを検証 してみま し ょう。まず一つ (先程 も建築 をご覧に入れま した)兵庫県 ・小野の浄土寺浄土 堂本尊、阿弥陀三尊像 (図11)。 とても大きな立像で、快慶の遺品の中でもひ と きわ印象的な遺品です。本像の特異な表現は平安時代 には前例 を見ない もので す。む しろ、た とえば京都 ・の知恩院所蔵の阿弥陀浄土図 (図 12)な どと手の 印相 の組み方や、立ち上がった姿な ど、共通 した特色 を持 っている。 これは中

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番 長女 手大骨 21世免 COEプログラム汲 与各 VoL.2 南都 真上とその有史 をめぐ-て 国 ・宋代の仏画です。快慶は、 この ときもおそ らく重源 か ら知識 を授かること によ り、宋風の造形 を知 る機会 を得、 こ うした作例 を造 ることができた もの と 思われます。 次に京都 ・舞鶴 にある金剛院が所蔵す る執金剛神像 (図13)。 執金剛神 はそ う めったやた らに造 られ る尊格でない珍 しい仏像ですが、 この快慶作の金剛院金 剛神像は、私たちのよく知 るところの東大寺法華堂の天平時代 の遺品である執 金剛神像 (図 14) と非常によく似ています。院派や 円派ではな く、慶派 -奈良 仏師 として活動 した快慶 にとって、奈良の仏像 はよく見知った ものであったに 違いあ りません。法華堂の執金剛神像 は今で も秘仏であ ります が、それ を実見 す る機会があったので しょう。重源 の監修の もと快慶は東大寺での仕事 を運慶 以上に盛んにや っていますか ら、 これ を造 った ときもまたそ うした機会 を与 え られた可能性 は非常に高かった と考 えられ るのです。 このよ うに快慶は、入宋三度の経験を有す る重源か ら得 られた新たな情報 と、 奈良で育ち奈 良で仕事 をす る奈 良仏師 として伝統的な経験 と、そ ういった二つ のベースの うえで造像活動 を行 った。大局的には、そ うとらえて誤 りないか と 思います。快慶は 自らの作風 に関 して、その基盤 となる要素 をかな り明確 に 自 覚 していた。だか らこそ、工房 を組織 し弟子達を意のままにコン トロール して 仏像 を大量生産す るす ることができた のです。 それでは続いて、運慶について考えてみることに しま しょう。 運慶は、快慶 に比べ るとはるかに遺品が少 ない作家です。確実な遺品は十に 満たない数 か と思います。その中で も彼が一番若い ころに制作 したのが奈 良 ・ 円成寺の大 日如来像 (図 15)です。運慶 とい う人は、我が国の仏師の中では孤 高の天才のよ うな言われ方 をす ることが多い。 しか し、 この最初期 の遺品につ いていえば、本像 には運慶の署名 が残 っているのですが、そ こ彼 はで 自分のこ とを 「大仏師康慶の直弟子の運慶」であるとい うふ うに署名 してい る。孤高の 天才であるよ りは、師匠であ り父親であった康慶の名前 をまず冠 して 自分の署 名 を残 しているとい うことは、運慶の 自意識 を考える上で興味深い点です。 康 尚 ・定朝 といった仏師の始祖 か ら始まる系図をみていきます と、平安後期 とい う時代 には円派 ・院派 とな らんで慶派 と呼ばれ る一派が徐 々に形成 されて い く過程が読み取れます。慶派は本来であれば、康朝の次の成朝 とい う人物が その正統な継承者だった と思われます。彼 の時代 に南都炎上その再建事業が始 ま りま した。 しか し、恐 らく成朝はこの間に急死 して しまった。急 に若 くして 亡 くなって しまったため、同年代 の康慶のほ うに脈流が移 っていきま した。そ こで康慶が、慶派 を率いる仏師 として南都再建の仕事に携わっていく 。 運慶は、 この康慶の直弟子であ りかつ血 を分 けた親子の関係であった ことか ら、 自らの 出 自を強 く意識 していたので しょう。

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番 長女 手大 学21世 i乙COEプログラム汲 与 阜 Vou 南都 真上とその有史 をめぐ-て 続いて、そ ういったかたちで慶派 を率いることになった運慶が、南都復興に あたって どうい うよ うな心情であったのか、 どういった覚悟 を していたのか、 そのことを教 えて くれ る興味深い史料 を紹介 します。それは京都 の金戒光明寺 蔵本 と個人蔵本 として現存す る法華経八巻で運慶が写経 を した ものです。いわ ゆる運慶願経 (図 16)と呼ばれ る本遺品は、その奥書によ ります と、そ もそ も は南都焼 き打ち以前にこの写経 を予定 していたが、なかなか進 まなかった。 し か し、寿永二年

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年 ある女性 の檀越 (だんおっ)のおかげで急 にできる よ うになった とい う旨が記 されています。特 に興味深いのは、お経の本体では な く、お経 を巻いてある軸木です。 ここには治承四年

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東大寺が焼失 し た際、その後 に燃 え残 った木の残木 を使 って軸木 としたことが記 されています。 南都焼失か ら三年後 とい う時点で、運慶が過去の大事件 を振 り返 り、そ こか ら の復興 を願 っていた ことが うかがえます。実際、 この復興事業の中で慶派はた くさんの仕事を引き受 けてい くわけですか ら、慶派 を率いる頭領 としての運慶 の、新時代 にのぞむ心構 えみたいなものが この運慶願経 の中には込 め られてる と解釈す ることができるのです。つま り、 この時代 に生 を受 けた運慶は、焼 け 残 った軸木 に象徴 され る過去の南都 を仏師 として 自らの手で再建す るとい う、 明確な意識 をもっていたことが窺 えるのです。 それでは、運慶 はこの復興事業 において実際にいかなる仕事 をな したのか。 今度は彼 は晩年の代表作 ・興福寺北円堂安置の諸尊について考えてみま しょう。 北円堂はそもそ も天平時代、藤原不比等の追善のために建て られたお堂であ り、 それ ゆえ言 うまで もな く、藤原氏 に とっては重要なお堂です。一連の南都復興 事業のなかで もかな りあ とのほ うになって、運慶はこのお堂の仏像再建 に着手 しま した。 ここには無著像 (図

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・世親像 (図

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とい う、たい-んよく知 ら れた仏像が安置 されています。現在東京 を皮切 りに興福寺国宝展 とい う大掛か りな展覧会が 日本巡回中ですが、そのカタログ表紙やポスターは実は天平時代 の仏像ではな く、この無著 ・世親像 を取 り上げています。 そのよ うに人気 のある像ですが、では、 この仏像 を美術史上 どう位置付 ける かは、なかなか難 しい問題で長年 さまざまな議論がな されています。そ こに運 慶の天才をみ る説、あるいは中国宋代の写実主義の影響 をみ る説、または天平 彫刻 の伝統 をよみ とる説、な どです。 ここでは、 とりあえず次のよ うな像 と並 べてみ ることに します。唐招提寺の鑑真像 (図

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)

、法隆寺の行信像 (図

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、 興福寺の十大弟子像 (図

23、

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いずれ も

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世紀です。 ご覧のよ うに、これ ら の遺品には共通 して、仏様 をある種、概念的な仏ではな く、人間を個性 を映 し 出す もの として、 しか も生身の人間以上に調和の取れた身体 をもって造 るとい うことが、十分達成 されていることが窺 えます。天平時代 とは、いわゆる古典

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呑 最女 手大骨 21せ免 COEプログラム汲 与鼻 Vou 南都 真 上とその有史 をめぐ-て (クラシ ック)様式が達成 された時代で した。そ して運慶は、無著像 ・世親像 をそ ういった伝統の うえで造ったのではないか。 さらに運慶 とほぼ同時代 に活躍 した定慶 とい う慶派の仏師は興福寺に維摩居 士像 (図 25) を遺 していますが。 これ もまたご覧のよ うに法華寺に伝来す る 8 世紀の維摩像 .(図 26) と相同であ り、運慶一人に限 らず慶派は伝統的造形 を学 んでいたことが窺 えるのです。 さて、話 を運慶の造形 にもどします。無著像 ・世親像 ほ どにはあま り一般 に は注 目されていませんが、決 して忘れてな らないのは北 円堂の ご本尊は弥勘如 来像 (図 27、28) です。 とい うのも、仏師の心情か らすれば、脇侍 の無著 ・世 親 よ りは当然 ご本尊のほ うに強い思い入れがあった と思われ るわけで、運慶の 作風 を考 えるためには、 こち らについて も他作品 と比較 してきちん と考 えてみ る必要があると思います。 まずは

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世紀初頭 に作 られた運慶の弥勘如来像 と前時代

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世紀半ばに定朝 が制作 した平等院鳳風堂の阿弥陀如来像 (図 29) とを並べてみます。す ると、 同 じ如来像です けれ ども、その違いの大 きさに驚 きます。すなわち、定朝の阿 弥陀如来がほぼ真 ん丸な顔 を してい るのに対 して、運慶の弥勘如来は面長な輪 郭 をもった顔 であること、定朝の阿弥陀如来はなで肩です らっ とLL、前後-の突出も少 ない非常にス リムな体 を しているのに対 し、運慶の弥勘像 は怒 り肩 で、腹部、腹の突出な どが明確 に表現 されていることがあげ られます。 続いて、今度は興福寺に伝来す る薬師如来像 (図 30)。造 られたのは平等院の 阿弥陀如来像 と同 じく

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世紀 に遡 る古い像です。 しか し、こち らは上記 した顔 立ち ・身体性その他 さま ざまな点で運慶 の弥勘如来像 とよく似 てい るのが見て とれ るか と思います。 あ らためて三体の顔貌部 をア ップでご覧入れます (図

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。定朝の阿 弥陀像は 目は起 きてい るのか眠っているのか分か らない、ふわっ と半眼の 目で どち らか とい うと垂れ 目に表現 されています。一方、興福寺の薬師像 と運慶の 弥勘像は、つ り上が り気味の 目で じっ と前方 を見つめた よ うなまな ざしを持 っ ています。頬 について も、阿弥陀像 はふわっ と丸が見えてい るのに対 して、薬 師像 と弥勘像 は奥歯 をぎゅっ とかみ締 めたよ うな引き締 まった顔 になっている。 運慶の弥勘如来像 には京都 を中心に活動 した定朝の伝統ではな く、興福寺の薬 師像の伝統つま り奈 良 とい う地域 に育まれた造形 との親近性が看取 され るので はないで しょうか。 本 日は時間の関係上、紹介 を省 かせていただきますが、奈 良の長岳寺に伝来 す る

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世紀半ばに制作 された阿弥陀如来像は興福寺薬師像 をさらに進化 させた よ うな仏像です。本像 は玉眼を用いた最古に位置す る像で技法的にも次代の慶 派の彫刻 に連なるものであることは、多 くの仏像研究者の指摘す るところです。

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呑 息女 3・大 学21せき乙COEプt)グラム汲 与鼻 VoL.2 本串 真 上 とその鼻史 をめぐって つま り運慶お よび慶派の仏師は奈 良 とい う地域の仏像の伝統 をよく理解 し、そ れ を継承 した もの と考えられ る。 ところで、 ここで一つ注意 を したいのは、運慶は伝統 を継承 した と言いま し たけれ ども、奈 良の地方様式 とい うものは、それ 自体があ らか じめア ・プ リオ リに古典 としての権威 を持 っていたわけではあ り得ない とい うことです。 これ も多 くの仏像研究者が指摘す るところですが、平安時代後期、権威 をもってい たのは言 うまで もな く定朝様です。南都復興事業 において慶派は院派 ・円派の 仏師 と並んで仕事 を していますか ら当然、慶派 といえども定朝様 を熟知 してい たはずです。一方、奈 良の仏像 について見て も、そ こには素朴 なものや洗練 さ れたものな どさま ざまな様式が混在 してい る。 さらにまた、すでに南大門仁王 像や快慶 について述べた よ うに復興事業 に際 しては重源 を経 由 して宋風彫刻 に ついての情報 もすでに慶派の耳に届いていたはずです。その意味では、奈良の 古い仏像が、あ らか じめ一つの確 固た るスタイル を持っていて、運慶はそれ を オー トマチ ックに、上か ら下に水が流れ るかの如 く継承 した とい うわけではあ りえない。それ ゆえ、興福寺薬師像や長岳寺阿弥陀像 と運慶作の弥勘像 との様 式上の親近性 とい うものは、運慶の強い 自意識 と戦略によるもの、つま り、水 の流れの如 く自然なものではな く、それ とは逆の方向で とらえるべき問題 では ないか と私は考 えたいわけです。 それ は どうい うことか とい うと、まず最初 にあったのは南都炎上 とい う事件 と続 く南都復興 とい う事業。 こ ういった奈 良を舞台 とした一連の出来事 を通 じ て、運慶は奈良 とい う土地で造像活動 をす る自らのポジシ ョンを強 く意識 した。 そ して彼 を頭領 とす る慶派-門は、円派 ・院派な ど京都 の定朝様 を規範 とす る 仏師たち と対抗す るかたちで、奈 良の地方様式 を前面に打ち出す とい うことを 意識的、戦略的に採用 したに違いない。そ うしたス トラテ-ジがあって初 めて、 定朝の規範 に対す る一つの別 の規範 として、奈良の地方様式は認 め られ るよ う になった。つま り重要なことは、南都再建事業における古典古代の復興 とい う 事象は、実は権威 ある古典古代の創 出 とい うことを意味す るのではないか。言 い換 えるな らば、実体 しての古代 -西暦で云 うところの

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世紀以前はそれ 自体 は確かに歴史上に実在 した時間帯であることは言 うまでもないけれ ども、イメ ージ としての古代 -古典 としての権威 と規範性 とい うものは、中世 とい う時代 が到来す ることによって、この時新たに構築 された もの とい うふ うに考 えてみ たい と私は思 うわけです。 最後 に、一言。仏像 について一つの権威 を創 出す る、伝統 といった ものを創 出す るとい う作為が、それでは具体的に どうい う経路の中か ら生まれてきたの か といえば、それ は古い仏像 を修理す る とい う仏師の 日常の在 り方 といった も のを考 えてい く必要があると思います。

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番 長女 手大 学21せきこCOEプログラム汲 与鼻 VoLZ あ神 泉上とその有史をめぐって 実際、記録上、運慶は、例 えば東寺の講堂の諸尊であるとか、多 くの仏像 を 直 した ことが確かめ られます。 ここに今 ご覧 に入れてい る運慶の後継者 による 秋篠寺の焚天像 (図 34)伎芸天像 (図 35)ですが、その実際のあ りかたが認 め られます。すなわち、 この仏像、実は頭 の部分だけが天平時代の作品で、体の 部分は鎌倉時代 に作 り直 したものです。それが破綻な くま とめ られている。つ ま り体 を造った鎌倉時代の仏師は、上の頭 に見合 うかたちで体 を造 ってい くと い う作為 を通 じて、古典的なるものを自分の中に技 として身に着 ける機会 を得 たのではないで しょうか。 また、そ ういった古い仏像 とい うものが、良きもの、権威 のあるもの とい う よ うな受容 の され方 を し、それが認知 されてい くとなるな らば当然、古い仏像 の価値 を高 く評価 し、それ をそのまま持 ってきて しま うとい うこともあるわけ です。その実例は現在、興福寺の所蔵す る旧山田寺仏頭 (図 36、37)です。 山 田寺はもともとは飛鳥のお寺です。治承 の乱で奈良が灰煙 に期 した後、興福寺 の東金堂は しば し本尊不在の状態が続 きま した。その時に、興福寺の僧兵たち が飛鳥まで行 って この仏像 を強奪 してきて しまった。丈六の金銅 の仏像ですか らものす ごく重かった と思 うのですが、それ を担いで持 ってきて しまった、そ の ことの心理的な背景は、恐 らくはそ ういったある種の権威 ある仏像 を本尊 と したい とい う、当時の価値観が働いていた考 えるべきか と思います。 結諭 しま しょう。 古代はあ らか じめ、ア ・プ リオ リに実体 として権威 を有 していたわけではな く、い うな らば境界線 が引かれたのちに、それは中世 との関係 の うちに人々の 意識の狙上 に上が ります。その境界線 に当た るのが、南都炎上 とその復興 とい う一連の事件です。南都復興事業 において造像 された、あるいは修理 され、ま たあるいは強奪 された仏像 は、ま さしくそ うした古典古代のイメージを具現化 した ものにほかな りません。 この意味で古代 は中世のなかに 「入れ龍構造的」 に構築 されたもの と考えることでできるのではないで しょうか。 さて、ここまでが本 日の話 しの前半部、仏像 に関 して述べてきた第 1部です。 ちょっと一息入れま しょう。

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復興事業後の南都 それでは第 2部、後半です。 南都復興 とい うことが今 日の話のテーマです けれ ども、 ここか らは少 し視野 を広げて 「南都復興後の南都」、この問題 について以下、簡潔 に触れていきたい と思います。 まず は一旦お話 を整理す るために、 ざっ と時代の流れ を確認す る ことにいた しま しょう。

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る 息女 3-大骨 21せ き乙COEプログラム汲 与阜 VoLZ あ神 真上とその再建をめぐ-て

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8

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(治承

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年 の焼 き打 ち後、 どの よ うなかたちで復興事業が進 んでいっ たのか。事業 は早 くも

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200

年代初頭 の時点で一応完了 します。さきほ ど最後 に 見ま した北 円堂の弥勘像 の造像 に運慶が着手 したのが

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208(

承元

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)

年 あるいは 現在興福寺の国宝館 に安置 されてい る千手観音像 が完成 したのが

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寛喜

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)

年頃 と推定 されています ので、最大限広 く取 って も

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世紀第

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四半世紀 までに は再建事業 は完 了 していた とい うふ うに とらえるのが正確 か と思います。 そ こ で考 えてみ るに、復興事業の最 中 とい うのは一一た とえて言 うな らば

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世紀 に お ける戦後の復興時期みたいなもので一一、さま ざまなかたちでアクテ ィブに、 文化的にも経済的にも活気 があ り、人の流れ も活発 であったに違いあ りませ ん。 しか し、ある程度そ ういった事業が完成 して しま うと-1例 えば

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年以降、 あるいはバ ブル がは じけて今 に至 るまでの時代みたいな もので 一一お金 の面で も、あるいは精神 的な意 味で も、何 か中心 を喪失 した よ うな時代 が復興後 の南 都 に訪れた。その よ うに類推す ることができると思われ ます。 そ うした時代 を背景 として、

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文暦

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)

年、慶恩 とい うお坊 さんが夢 を見 る のです。 どうい う夢 か とい うと、行基が 「私 の墓 を掘れ、俺 の墓 を掘 り起 こせ」 と語 った とい う夢告 を慶恩 は受 け取 ります。夢告通 り-、慶恩がお墓 の場所 を掘 ってみ る と、かつて行基 を埋葬 した骨っ ぽが出てきた とい う大事件 が起 こった のです。その場所 は生駒市の竹林寺 とい う場所です (図

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また、掘 り出 され た骨っ ぽはその後埋葬 された とい うのです が、またのちに掘 り出 され る機会 が あったので しょう、現在 は断片化 されて、奈 良国立博物館 に保管 されています。 それが、 この行基墓誌 の断片 (図

3

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です。 私 は ここで、行基 とい う古代 に実在 したお坊 さんが、南都復興以降の南都 に おいて文字通 り掘 り起 こされ て、高僧 -行基 とい うイ メー ジが構築 され、それ が人々に浸透 していった過程 に注 目してみたい と思います。 そ もそ も行基 が何者 であるか とい うこ とについては説 明す るまで もない と思 います。『続 日本紀』 中で、最初 の うちは小僧行基 として、世間をたぶ らかす と い うよ うな ことを言 われ ていたのが、入寂後 においては行基菩薩 と言 われ敬意 を表 され るまでにな る。 ドラマチ ックに地位 が、評価 が変 わってい く古代史の 重要 な人物 です。平安 時代 で も決 して完全 に忘れ去 られ て しまったわけではな く、行基 については さま ざまな関心が持 たれ、例 えば

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年 には 『行基年譜』 といった よ うな、行基 の一生 を年譜書 き した文献 も著わ され ます。 この 『行基年譜』 中には、た とえば行基 は六十 四歳で大阪 ・狭 山池 のほ と り に狭 山池院 とい うお寺 を建 てた とい うことが記 され てい る。 そ して近年 、平成 5年 に狭 山池 の改修 を行 った ところが、本 日冒頭 に紹介 した南都復興 の立役者 である俊乗房重源 が、狭 山池 の復興 を行 った際に 「行基 のあ とを倣 う。行基 の 足跡 を踏 まえるかたちで 自分 は狭 山池 を直す のだ」 とい うよ うな こ とを述べた

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金 島女 子大骨 21せ i乙COEプログラム汲 与鼻 VoL.2 あ都 真上とその再建 をめぐ-て てい る碑文が発見 されたのです。 これ は一体、何 を意味すのか ? つ ま り、 こ うい うことではないか。南都復興 をは じめ 日本各地で さま ざまな 事業 を興 した重源 に とってみれ ば、 自分 の遠 い先人 として行基 とい う人物 が具 体的に 自己のセル フ ・イ メージを重ね合 わせ る理想像イ メー ジ としてあった。 古代 の、生 まれ たままの現実の行基 は 『続 日本紀』卒年記事以降、平安時代 を 通 じて さま ざま伝説化 されてい きま した。 それが重源 に至 った とき、言 ってみ れ ば重源 自身 のア イデ ンテ ィテ ィ- 自己表象 を得 るための存在 として発見 され 、 自分 のルー ツ とい うふ うに見な され る。 そ ういった歴史 を踏 まえなが ら、南都 復興後 の南都 においては、行基 のお墓 が発掘 され て、重源一人 のみ な らず、多 くの人々が行基 に注 目す る機会 を得 た とい うわけです。 そ う考 える と、慶恩が 得 た夢告 とい うのは神秘的あるいは偶然 の産物 ではな く、再建後 の南都 に精神 的拠 り所 、心的な 中心性 を与 えるために、政治的 に仕組 まれ た ものの よ うに思 えてきます。 実際、 この発掘直後の

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嘉禎

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)

年 、行基 の舎利容器 は京都 で民衆 に公 開 され ま した。 さらに

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(

弘長

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)

年 には東大寺聖守は大仏殿 にておおがか りな 行基舎利供養 を催 しています。 こ うした機会 のある毎 に、人 々は行基 に対す る イ メー ジをふ くらま していった もの と想像 され ます。現在 、唐招提寺 に所蔵 さ れてい る ところの行基菩薩像 (図40)。この肖像作品は、もともとは竹林寺に置 かれ ていた もの と考 え られています。 また堺市博物館 はま さしくこの彫刻 を写 した とおぼ しき絵画遺 品 (図 41)を所蔵 しています。 さらに兵庫県の鶴林寺像 (図 42)をは じめ としてか中世後期か ら近世 の遺 品は 日本各地 に現存 していま す。 こ うした造形遺 品は、人 々の抱いた行基イ メー ジの具現化 にほかな りませ ん。 ここで重要 なのは、 こ うしたイ メー ジ化 された行基 の身体 は天平時代 に生 き た行基本人 とは必ず しも重 な り合 うものではない、とい うことです。これ らは、 いずれ も中世期 に再生 され た行基 のイ メー ジです。行基本人 ではあ りませ ん。 そのイ メー ジは中世期 の特定の宗派や信仰 に由来す るもので もな く、かな り緩 や かな枠組 み によって全体が くくられ るものに違 いあ りませ ん。その枠組み と は、古代 とい う時間軸 と奈 良 とい う空間軸 に よって構築 され うる権威 と行 った らよいで しょ うか。そ して面 白いのは、そ ういった行基 のイ メー ジは現代 にお いて さえも私たちの心の うちに保 たれてい るよ うです。奈 良女子大 にか よ う私 たちにお馴染みの近鉄奈 良駅前の噴水 に立つ行基像 (図43)、この行基像 は仏教 の宗派信仰 を超 えて、奈 良 とい う歴史風 土のいわば守護神 的な意味合いが込 め られ た もの といえま しょ う。 それ は天平次第 の行基本人 のあず か り知 らぬイ メ ー ジカ ニ権威付 けであ り、む しろそのルー ツは行基墓 を発掘 した中世、南都復

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各 島女 手大骨 21せき乙COEプログラム汲 与鼻 VoL.2 あ都 真 上 とその有史 をめぐ-て 興後の南都 の人々の想像力 に起源 をもつ ものではないか、 と私 は考 えます。 再び話 を中世 にもどしま しょ う。 イ メー ジ化 され た行基 は、たんにそわ 「身体」 を再生す るだけではな くて、 行基 の一生 といった 「物語」まで創造す るに至 ります。行基生誕 の地 と伝承 さ れ る大阪堺 市の家原寺 は中世初期 に西大寺叡尊が再興 した ことが知 られ ていま すが、 ここの所蔵す る

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世紀初頭 の行基菩薩行状絵伝(図

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は大変興 味深 い作品です。 まず は中幅の下方 をみてみ ま しょ う。 ここには行基誕生の場面が描 かれ てい ます。行基 は生 まれた時、普通の人間 とは異 な り心太 (ところてん)みたいで あった。 ゆえに一度 は親 に捨て られ木 の上 に掛 けて らていいた とい う伝説 があ るのです が、その場面が ここには措 かれ ています。 この話 の発端 か らすでに明 らかな よ うに、行基菩薩行上絵伝 には、 (生身 の行基 自身 に関わる)事実 と事実 でない こと (フィクシ ョン) とが区別 な く取 り込まれています。 続いて、右幅の大仏の開眼供養 の場 (図48)。生身 の行基 は実際には開眼供養 の前 に亡 くなっていて この場面 には立 ち会 っていないのですが、フィクシ ョン としての行基、彼 の創 作 され た 「生涯」 にあっては、あたか も行基 が開眼供養 をプ ロデ ュース したかたちになっています。 ここが本絵伝 のクライマ ックス ・ シー ンです。 加 えて、 こ うした生涯 に先立つ虚構 の物語 として更 に驚 くべ きは、本絵伝 で は行基 の祖先 は中国古代 の劉邦 -前漢期 の初代皇帝 である ところの漢 の高祖 だ として、劉邦の伝記 に一幅が さかれ てい ることです。今 ご覧 に入れ てい る場面 は、その劉邦が項羽 の首 を取 って、その首 を眺めてい る とい う場面 (図47)。徳 の高い、偉 いお坊 さんである行基 の祖先 が宿敵の首刈 りを した とい うのが、当 時の人 々に とって ど うい うふ うなかた ちで論理的 に結び付いていたのか、私 に は今 の ところよく分か らないのです が、少 な くともそ ういった行基 の生涯 が 自 由 自在 に現実 を離れ て生み 出 され てい く、作 られ てい くとい うのを ここに見て とれ るのは、繰 り返 しますがたい-ん面 白い ことではないで しょ うか。 現実の古代 か ら空想 上の古代 、イ メー ジ としての古代-。 こ うした傾 向は行 基 についてだけみ られ るものではあ りませ ん。む しろ、現実 に生 きた人 間をた よ りとして、そ こか ら古代イ メー ジを広 げてい くとい うことは、 中世 にお ける 古代 の構築の手法 として、 さま ざま試み られています。 言 ってみ るな らば、古代人 の 「キャラクター化」現象。た とえば、いま ご覧 に入れてい る四聖御影 (図 49)と呼ばれ てい る絵画遺 品な ど、そ うした中世人 の心性 を物語 る典型的遺 品です。画面 中央 にい るのが聖武天皇 (図50)。これ は 聖武天皇の 肖像画 であ りなが ら、また上の讃文 を読む と、観音菩薩 が この地上 に現れた ものだ と記 されています。東大寺大仏の開眼供養 を行 った菩提俸那 (図

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呑 最女 子大骨 Zl世 ie.COEプログラム汲 与鼻 Vo1,2 あ神 泉 上 とその身丈 をめぐって 51)、 こち らは普賢菩薩である。 良弁 (図 52)は弥勘菩薩の生まれ変わ りであ る。そ して、先 にも数 々の肖像遺品等 を紹介 した行基 は本 図にも登場 (図 53) し、彼 は文殊菩薩の生まれ変わ りであるとされています。 この絵画 は四聖講 と呼ばれ る、聖武天皇五百回忌 を契機 に始 まった東大寺の 儀礼 の場 に耽 られ た絵 です。 この儀礼 の場 に参列 した中世 の人 々は、いわば古 代 の著名人た ち と席 を同 じくし、かつ また仏 の世界、 さま ざまな菩薩たち とも まみ えるこ とがで きる。 云 うな らば、 中世 と古代 と仏 の世界 といった ものが、 それぞれ重層化 した よ うなかたちでイ メー ジが青 くまれ ていた もの と想像 され るのです。 中世 の人 々に とって、時間的に進か遠 い時代 に活躍 した古代人 は、 宗教的な聖性 を帯びた者 たちで もあった。 そ うした古代-の憧れ と幻想 が生ま れていたのです。 人物イ メー ジのキャラクター化 ばか りではあ りませ ん。 「場所 の記憶」 といっ た側 面 もまた、 中世 の中にお ける古代 、入れ龍構造的な神話 の創 出 とい う点で は見逃せ ないテーマです。た とえば二月堂蔓茶羅縁起 (図54)、東大寺縁起 (図 55)、別本の東大寺縁起 (図 56)あるいは東大大仏縁起絵巻 (図 57、58)な ど な ど。 こ うした中世 の絵画遺 品において繰 り返 し繰 り返 し、天平時代 の大仏 開 眼供養やお水取 り創始 の場面は絵 に描 かれ継 がれてい きます。 その繰 り返 しの 視覚的作用 によ り、中世 の人々のイ メー ジの中では 目の前 にある現実の中世の 東大寺が、幻想 の古代 とい う権威 を担 った寺院である とい う重層的な意味が構 築 され てい く。 そ うい った ことが現存す る絵画遺 品 よ りうかが えるか と思いま す。 再び家原寺所蔵 の、行基菩薩行状絵伝 の東大寺 ・大仏開眼供養 の場面 (図59) について、それ をもっ と近寄って細 かい部分 を検討 していきます と、た とえば 幕 を上 げて儀式 に関係 ない庶民の人が参列の場 をのぞいてい る ところが描 かれ ていた り、門前の所 では甲宙を着 けた武士 と束帯 を着 けた貴族 が相対 してい る ところが描 かれていた りとい う具合 に、天平的な風景であるよ りはむ しろ中世 的な世界がそ こには展 開 されてい ることに気がつ きます(図60.61)。 つま り、そ れ は 752(天平勝宝 4)年 の大仏開眼供養 の場 よ りも、1185(文治 1)年 の再建大仏 開眼供養 の場での儀式の場 を記憶 してい るよ うな絵 になっています。 これ を、ただたんに絵描 きが時代考証ができてな くて無意識 の うちに中世の 風景 に入 って しまった と考 えるのは適切 ではあ りませ ん。む しろ、古代 的な大 仏がで きあがった聖武天皇 による大仏 開眼の場 と、重源 らによる大仏再建供養 の場 のイ メージ とが、 ここでは重層 的に とらえ られ てい る。 ここに示 されてい るのはま さしく、まず は じめに古代 とい う時代 があ り、それが終わって次 に中 世 とい う時代 が始 まった とい うよ うな直線 的な時間の捉 え方では把握不可能 な 重層 的な時間の捉 え方。つ ま り、それ を指 して、私 は 「入れ寵構造的な」歴 史

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番 息女 手大 学2Tせ き乙COEプログラム汲 与鼻 VoLZ 南都 真 上 とその有史 をめぐって の とらえ方 と呼ぶわけです けれ ど、そ ういったものを本図に感 じることができ るのではないで しょうか。 この中世再建時の開眼供養 の法会 については、最後 にも う一度注 目し見 るこ とに します。 おわ りに文治元年の再建大仏開眼供養 -以上、現存す る仏像や絵画遺品を紹介 しつつ、 さま ざまなことを述べて参 り ま した。本 日の話 を締 め くくるにあた りま して、結語 に代 えて最後 に注 目して おきたいのが、

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1

85

(

文治

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)

年 にな された再建 された大仏の開眼供養です。これ については 『玉葉』ほか記録が比較的 よく残 っていま して儀式の子細 を確かめ ることができます。 【史料

2

】引用文献によ ります と、

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1

85(

文治

1

)

年の段階で大仏はその姿はで きあがっていたのですが、表面の鍍金 (ときん)は顔 に しか塗 られていなかっ た とのこと。 つま り、・まだ完全 な完成 は見ていない段階での開眼供養 であった よ うです。そ うい うわけで、兼実 も 『玉葉』 中で 「中間の開眼」 とか 「面相 は 昔 よりも少 し劣っているのではないか」 とか、い くつか不満 を述べています。 また、当初予定 されていた儀式次第では、仏師が文字通 り開眼の所作 一一大 仏 に 目を入れ るとい うこと一一を行 うはずだった。 ところが当 日、 この儀礼 に 参加 した後 白河法皇が 自ら筆 を取って大仏 に 目を入れたのだそ うです。 これに 対 して九条兼実は 「後 白河法王は仏師なのか」 とい う具合 に、最大限の皮 肉を 込めて 日記の中に記 しています。 ちなみ に、正倉院には進か天平時代 に、菩提 倦那が手 を取って大仏の開眼を行 った筆(図 62.63)が残 っています。 この筆の 末端の部分 を見ます と、そ こには 「文治元年法王が これ を用いた」 とい う書 き 込みがあ りま して、 これ によって後 白河が天平の筆 を使 って描いた ことが、モ ノを通 じても確認できて面 白いです。 本 日の最初 に引用 した 【史料 1】『玉葉』中の記事のなかで、兼実は南都炎上 をこの世の終わ りのごとく位置づ けていま した。その、同 じ兼実が後 白河 の大 仏開眼の所為 を非難 してい る点が、興味深 く思われます。 なぜ な ら、古代 を模 倣 したパ フォーマ ンスを演 じることで、その権威 をたてに して 自らの権威づ け る後 白河の戦略が兼実 には到底理解 できなかった ことが、その記述の在 り方 に 窺 えるか らです。古代 は演技 あるいは絵画や彫刻 といった仮象のなかでのみ権 威 として機能す る。 そのことに気づいていなかった兼実 こそは、言葉 の正 しい 意味で、古代 (を実際に生きた)人であった と呼んで間違いない と思われます。 それに対 して、後 白河院あるいは重源、そ して さらに運慶 ・快慶 といった人々

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番 息女 SL大骨 21せ i乙COEプログラム汲 与暴 VoLZ 南都 長 上とその再建 をめぐって は 自ら生きる中世 とい う時代 との関係性 のなかで戦略的に古代 を組み立て、そ れ を利用できた。その意味では逆説的なが ら、彼 らこそは古代 (を創造 した) 人 と呼ぶにふ さわ しいのか もしれません。予定 していた時間が参 りま した。以 上をもって私の拙い話は終わ らせたい と思います。

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卓 息女 3・大骨 21世i乙COE7't)グラム汲 与舌 VoLZ 南都 東上とその舟丈 をめぐって ︻史 料 2 ︼ 「廿 八 日 こ の 日 、 東 大 寺 金 銅 慮 舎 那 仏 開 眼 供 養 な り 。 朝 よ り 雨 あ り 。 午 の 後 大 雨 、 若 し 法 会 の 威 儀 を 妨 ぐ る か 。 尤 も 遺 恨 、 か く の 如 き 半 作 の 供 養 ' 中 間 の 開 眼 、 大 仏 の 照 見 、 本 願 の 叡 念 に 叶 は ざ る か 。 但 し 開 眼 の 儀 了 り こ の 雨 あ り 。 還 り て 又 効 験 と 謂 う べ き か 。 今 日 の 雨 、 両 般 の 疑 ひ 相 兼 ぬ る も の な り 。 」 「廿 九 日 天 晴 . 旦 よ り 碁 に 至 る ま で 、 上 下 舗 素 多 く 以 て 帰 洛 す 。 羊 の 刻 、 八 条 院 還 御 、 日 没 法 皇 還 御 、 昨 日 両 法 会 中 間 と 云 々 。 子 細 尋 ね こ れ を 記 す べ し 。 且 つ 帰 洛 の 輩 に 問 ふ 。 各 答 え て 云 は く 、 法 皇 自 ら 筆 を 取 り 仏 眼 を 入 れ 、 定 遍 僧 正 (本 寺 の 別 当 )神 呪 を 満 つ と 云 々 。 天 平 勝 宝 の 例 の 如 く ば 、 波 羅 門 僧 正 自 ら 仏 の 御 眼 を 入 れ 奉 る 。 又 真 言 を 謂 す 。 今 度 左 府 (藤 原 経 宗 ) 造 る 所 の 式 に 云 は く 、 仏 師 御 眼 を 入 る と 云 々 。 然 ら ば 即 ち 法 皇 仏 師 た る か 。 (後 略 )」 「 三 十 日 一 昨 日 、 開 眼 供 養 の 儀 、 雅 頼 朝 臣 の 許 に 間 ひ 遣 は す 所 、 返 札 か く の 如 し 。 (前 略 ) -・昔 よ り 御 面 相 は 、 一 定 劣 ら し め 給 ふ 様 見 給 へ 候 ひ き 。 御 面 許 り 金 色 に 候 ふ な り 。 未 だ 他 所 の 磨 堂 に 及 ば ず 候 ふ = ∴ 後 略 )」 「 (前 略 ) -・善 の 綱 と て 、 糸 数 丈 候 ひ き 。 諸 人 念 珠 を 結 び つ け 、 若 し は 神 掌 等 を 懸 け 、 雑 人 腰 刀 を 以 て 舞 台 上 に 投 げ 入 れ 、 上 人 の 弟 子 等 、 出 で 来 た り て こ れ を 取 り 集 め 候 ひ き 。 凡 そ 事 の 儀 式 公 事 に あ ら ず 、 又 無 縁 の 事 に あ ら ず 、 丈 家 の 作 法 、 只 菓 子 を 交 ふ 如 く 候 か 。 」 ﹃ 玉 葉 ﹄文 治 元 年 (1 1 8 5 )九 月 条 宮内庁正倉院事務所写真掲載許可済

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養 魚女 子大骨 21せ き乙COEプログラム汲 与阜 VoL2 南都長上とその最速をめぐ-て

度 合 卵 仏 と仏教 綿 世 界 観 一 東大 寺 の創 建 と蕗建 一

西谷地晴美 は じめに 僕 も30分 ぐらいで終われ る と思います。題名 は 「鷹舎那仏 と仏教的世界観 」 とい うふ うに しま した。 「東大寺の創建 と再建」 とい う副題 も付 けています が、 まだ途 中の経過報告の よ うな内容 にな ります。 前 の研 究会 の時 に、上古 と中古 の話 で時間認識論 をや りま したので、今 回は 空 間認識論 みたい なかたちでや ってみ よ うと思 って作業 を しま した。今 回僕 が 報告す る内容 は、僕 に とっては全 く初 めての作業です。皆 さん よくご存 じの話 がた くさん出て くる と思いますが、考 えた ことをお話 ししたい と思います。 741 (天平 13)年、国分寺建立の詔 743 (天平 15)年、慮舎那仏造立の詔 752 (天平勝宝4)年、東大寺大仏開眼供養 1180 (治承4)年、平重衡 、南都焼 き討 ち 1185 (文治元)年、東大寺大仏 開眼供養 1195 (建久6)年、東大寺大仏殿供養 この辺 の年表 の知識 も、僕 はきちん と覚 えてい るわけではないので、それ を 簡単に書いてお きま した。報告全体の 目的ですが、東大寺の慮舎那仏 を巡 って、 古代 と中世 の仏教 的世界観 が変 わってい るのではないか とい う感 じが しま した ので、その調査 を報告 の 目的に したい と思います。 1 南都焼 き討ちとその評価 一平家物語 と玉葉 -1章のテーマは 「南都焼 き討 ち とその評価」です。 ここでは平家物語 を主 に 史料 として用いま した。平家物語 とい うのは ご存 じの よ うに さま ざまな系統 の 本 が出てお りま して、 どれ が一番 古いかについては国文学研究者 が作業 を進 め ています が、結論 としてはまだ よ く分か っていませ ん。以前 は延慶本 が一番 古 いのではないか と言 われ ていたのです が、最近 の研 究では必ず しもそ うとも言 い切れ ない とい うことの よ うです。

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黍 息女 手大骨 21せ絶 COEプログラム汲 与鼻 VoLZ 南都 長 上とその鼻丈 をめぐって いずれ に しても、鎌倉時代後半 ぐらいの段階では延慶本 はできあがっていま す し、高校 の古文教科書で よく見かける流布本 は、内容 か ら考 えればも うち ょ っ とあ とにできてきた ものではないか とい うふ うに思われます。今回は延慶本 と流布本 を主な史料 として、まず南都焼 き討 ちが中世では一般的に どうい うふ うに理解 されてい るのか とい う視点で記事 を拾ってみま した。 (1) 三井寺焼 き討ち ところで平家物語では、南都焼 き討 ちの前 に、実は三井寺の焼 き討 ちの記事 とい うのもきちん と一節 を取って語 られています。例 えば、延慶本 のほ うです と 「平家三井寺 ヲ焼払事」 とい うかたちで記事が節 として立っています し、流 布本のほ うでも 「三井寺炎上の事」 とい うかたちで節が立っています。 延慶本平家物語 (北原保雄 ・小川栄一編、勉誠社、1990年、か ら引用) 「平家三井寺 ヲ焼払事」 a「仏像二千余鉢、顕密両宗 ノ章疏、大師ノ渡シ給-ル唐本一切経七千余巻、 忽二灰塵 トナ リヌ。 又焼死所 ノ雑人、既 二千人二及 トゾ聞- シ。凡顕密 須奥二滅テ、伽藍実二跡ナシ。 三宝ノ道場モナケ レバ、振鈴 ノ音モ不聞。 一花 ノ仏前モナケ レバ、閑伽 ノ声モ絶 タ リ。宿老有智 ノ明匠モ、修学 ヲ 怠 タ リ。受法相承 ノ弟子モ、経教二別 レタ リ。」 b 「数百歳之智水、此 ノ時二永 ク渇 キ、大小乗之法輪、此 ノ時二忽二止ヌ。 仏法之結句、人法之最後ナ リ。遠近皆傷喋、況ヤ於寺門之住侶乎。老少 挙テ憂悲ス、況ヤ於有情之諸人乎。」 まず、延慶本 のほ うでは、三井寺 を攻撃 した人物 は平重衡であ り、その伽藍 焼失記事があって、それ に対す る平家物語 としての論評がな されます。 これは 史料で aとして挙 げた評論で、そのあ とで三井寺の由緒 の記事 とそれが焼 けた とい うことで、更に評論の bが加 わるとい うかたちで、延慶本では語 られてい ます。 三井寺焼 き討 ちの評論 aの部分 には、仏像二千余体が焼 けた、あるいは、唐 本 の一切経 7千余巻が灰 になった とい うよ うな話や、焼死者 が出てい る話等々 が載 っています。それか ら、 bの所では、三井寺の焼失 と称 され る事態 に対 し て 「大小乗之法輪、此 ノ時二忽二止ヌ、仏法之結句、人法之最後ナ リ」 とい う 評価 をしています。 流布本平家物語 (佐藤謙三校註、角川文庫、1959年、か ら引用)

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杏 息女 SL大骨 21世i乙COEプログラム汲 与鼻VoLZ 南都 真 上 とその再建 をめぐ-て 「三井寺炎上の事」 C 「すべて堂舎塔廟 六百三十七字 、大津 の在家一千八百五十三字 、並びに智 詮 の渡 し給- る一切経七千余巻 、仏像二千余鉢 、忽 に煙 とな るこそ悲 し けれ。諸天五妙 の楽 しみ も、 この時長 く尽 き、龍神 三熱 の苦 しみ も、い よい よ盛 なる らん とぞ見 え し。」 d 「か ゝるめでた き聖跡 なれ ども、今 は何 な らず。顕密須奥 に亡びて、伽藍 さらに跡 もな し。三密道場 も無 けれ ば、鈴 の声 も聞 えず。一夏 の花 も無 けれ ば、闘伽 の音 もせ ぎ りけ り。宿老碩徳 の名 師は、行学 に怠 り、受法 相承 の弟子 は、又経教 に別れんだ り。」 一方、 も うち ょっ とあ とにで きた と思われ る流布本 です が、三井寺炎上 につ いて延慶本 のほ うは治承4年 の 11月の所 に載せ てい るのですが、流布本のほ うは5月の記事 として登場 していた とい うふ うに記憶 しています。 だか ら、三 井寺攻撃 については、平家物語 がで きあがった段階か ら、その時期 が ど うも錯 綜 していた とい うのが分か ります。 しか も流布本 のほ うでは、平知盛 が攻撃 を した とい うことになっています。 伽藍焼失記事 の評論 Cと三井寺の 由緒記事 と評論dの所 は大体延慶本 と同 じよ うなかたちになってい るわけです が、 とにか く流布本 に関 しては、三井寺-の 攻撃 の主体 と攻撃 の時期 が現実の事実 とも大 き く異 な ります ので、 これ はち ょ っ と後世 の ものかな とい う感 じが します。 玉葉 (九条兼実の 日記) 治承4年 11月 23日条 「伝 聞、山与三井寺有闘静 、・依其事延暦寺可焼 固城寺云々。」 治承4年 12月 12日条 「伝 聞、昨 日官兵等寄三井寺 (山堂衆 目一昨 日引寵也)、及夜漏合戦、堂衆 勢少 引退、向江州方了、官兵等焼払三井寺近辺 、並寺 中房舎少 々、不及 堂舎云々、官兵方七十余人蒙疲云々、」 治承 ・寿永 の内乱 にお ける三井寺の焼 き討 ちについての評価 が、現在 どうな ってい るのかについては、最後 まで研究史 をきちん と当たれ なかったのですが、 玉葉 では治承4年 の 12月の所で、三井寺の焼失 とまではいかない けれ ども房 舎 を少 々焼 いた とい うよ うな記事が載 っています。現実 問題 として、南都焼 き 討 ちの前 に三井寺が何 らかの被害 に遭 ってい るのは確 実ですが、玉葉 の記事 は これ だ け しかあ りませ んので、実際 にはあま り被害がなかった と考 えたほ うが いいのだろ うと思います。

参照

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