アンリ・ド・バイエ・ラツール会長(1925—1942)の時代
カール&リーゼロッテ・ディーム資料館所長 オリンピック研究センター(ケルン、ドイツ) カール・レナーツ
2.バイエ-ラツール会長(1925‐1942)の時代
2.1. クーベルタン、オリンピックの舞台を去る 1925年のプラハIOCセッションで、IOC会長を29年つとめたクーベルタンは、それまで何度も言っ ていたように、次の会長に立候補しないという決意を貫いた。委員の何人か、なかでもスウェーデ ンのクラレンス・フォン・ローゼン、アメリカのチャールズ・シェリルが、熱心に立候補を求めたのだ が... 1924年のオリンピックを彼の故郷、活動の中心であったパリで開催するというIOCの決定、そして 次の年、若いチェコ政府の招待によってプラハで教育についてのオリンピックコングレスが開かれ るということは、─ここでは同時に技術的な面についてのコングレスが予定されていた― 教育全 体のなかに統合されたスポーツという彼の理想、そしてクーベルタンその人に対する敬意の証で あった。しかし世界のスポーツの現実、今やオリンピックの旗の下に集まり、それ故にIOCのもとに あるスポーツ界の大勢はクーベルタンが思い描いたような線に沿って発展してはいなかった。 第1次世界大戦のあと、彼の、女性のオリンピック参加そしてオリンピック冬季大会の導入につい ての立場はIOCメンバーの中で少数派になっていた。そして彼が1921年につくった執行委員会 (EC)は、会長としての彼が居心地悪く感じるほど重みを増していた。 クーベルタンが戦争に従事していた何年かの間、IOC会長代理を勤めた親しい友人、スイスの IOC委員、ゴードフレー・ド・ブロネーさえ、もはやすべての点で喜んでクーベルタンを支持すると いうわけではなくなっていた。これらの理由だけでも、クーベルタンの辞退を説明するのに十分で あろう。 しかし、常に自分自身をスポーツの役員であるよりは教育者であると考えていたクーベルタンに とってもっと重大であったのは、当然のことながら、重要性を増していくスポーツが教育的役割から 次第に離れていくこと、IOCとその会長が反対せざるをえなくなるような挑発を伴う発展であった。 「絶えず増大する技術的機能に捕らわれて、IOCは1897年と1913年のコングレスで決められた 教育的な任務を果たすことが出来なくなっている。」 クーベルタンは残された生涯、その精力をこの欠落を償うために捧げることになった。 1925年 11月15日の国際教育連盟設立に主役を演じ、一年後には国際スポーツ教育事務局を設置して、 指導者となった。 会長職とともにIOC委員も辞任したが、彼はその後も、個々の点では不満を抱きながらも自分の 生涯をかけた事業に対して忠実であった。オリンピック大会の名誉会長を引受け、筆をとり、講演 をし、喜んで助言をした。1927年春には、ギリシャ政府の招きでアテネに赴き、「古代ギリシャギム ナジウムの再建」について講演を行った。アテネからオリンピアに足を伸ばしたクーベルタンはオリ ンピック大会復興を記念するアルティス(聖域)の入口の柱の除幕式に出席した。彼が「世界の若 者に」と題するメッセージを発表したのはこの時である。クーベルタンはさまざまな理由から、その都度挨拶のメッセージは送ったものの、二度とオリンピ ック大会には出席しなかった。しかしオリンピズムについて多くの点で同じ考えを持つカール・ディ ームとの親しい関係を通して、クーベルタンは1936年ベルリン大会の芸術プログラムの準備には 深い関心を示していた。 二人はスイスで何回も会った。そしてクーベルタン男爵の大会開会式とベートーベンの第九シー フォニーを結び付けたいという希望は時間の不足のために叶えられなかったが、少なくとも最終楽 章の有名なシラーの「歓喜の歌」は、開会式の日の夜、「オリンピックの若者」と題した音楽劇の一 部として演奏された。 1937年7月29日、彼の最後の共感のメッセージがアジアで最初のオリンピック大会〈東京〉の組 織委員会に対して贈られた。男爵は、アジア全体がオリンピズムの理想に親しみ、ヘレニズムがア ジアの芸術文化と融合してより高い総合に至ることを求めていた。 クーベルタンが自分の仕事に背を向けることがなかったように、IOCもその長年の会長、今はオリ ンピック大会名誉会長を忘れることはなかった。 1936年2月の第35回セッションで、クーベルタンをノーベル平和賞に押すことが決議され、その 夏、49人のIOC委員が署名した手紙がオスロのノーベル賞委員会に送られた。 IOCはクーベルタンの物質的窮乏とも取り組んだ。彼の全財産はオリンピックムーブメントの事業 と教育、振興活動に使われてしまっていた。 後継者アンリ・ド・バイエ-ラツールは、1936年春、IOCの同僚にクーベルタンの経済的困難につ いて告げた。スイスNOCの事務総長でクーベルタンの友人、フランシス・メッセルリはすべての国 のNOCに対し、クーベルタンの五十年にわたる教育改革の業績を記念して彼に渡す基金を設立 するよう提案した。 いくつかのNOC、NOCやIFのメンバー、個人的友人、国内スポーツ連盟、政府、国家元首が寄 付し、「ピエール・ド・クーベルタン」基金は合計50,298.24 スイスフランに達した。しかしクーベルタ ンはもはやこの金を引き出す必要はなかった。彼の死後、この金は未亡人と病気の娘、ルネーに 引き継がれた。 生涯最後の日々、彼の第一の関心は、ローザンヌの「モンルポ」荘につくったオリンピック博物館 であった。そこに彼は小さなアパートを持っていた。 しかし1936年、老齢のためその仕事も諦めねばならなかった。そして一人ジュネーブに移った。 そこで彼は1937年9月2日、グランジュ公園を散歩中、ベンチに座ったまま死んだ。 その前年、ローザンヌ市はIOC執行委員会と話し合って、クーベルタンが収集品を残した博物館 の経営を引受け、1936年6月22日には男爵に名誉市民権を与えた。 男爵はその手稿の一部を、ディームが所長でドイツ帝国が経営しているベルリンの国際オリンピ ック学院に残していた。すでに1934年、彼はディームとこの学院設立を話し合っていた。しかしそ れは1938年3月まで実現しなかった。 現代のオリンピック大会の設立者として歴史に残るこの人物の遺体はローザンヌに葬られてい
る。しかしその心臓は、遺言に従って、オリンピアに最後の憩いの場を見つけた。 彼の心臓は、 ギリシャ皇太子、バイエ-ラツールIOC会長そして多くのIOC委員列席の下、1927年に除幕された 記念柱の下の骨壺に収められた。 2.2. バイエ-ラツール IOC委員の多くが留任を願ったにもかかわらず、クーベルタンが1925年に会長としてもう一期留 まることを拒否したために、IOCは1894年の委員会創設以来オリンピックムーブメントの推進力で あり、代表者であった人物の後継者を選ばなければならなくなった。 プラハの第24回IOCセッションの議案では選挙は1925年5月28日午後に予定されていた。 第一回投票では欠席者の郵便投票も集計されたが、多くのメンバーはクーベルタンが再び立候 補すると考えていたため、どの候補者も必要な過半数を得ることができなかった。40票の内、バイ エ-ラツールが17票、ド・ブロネーが6票、ジュスティニアン・ド・クラリーが4票、メルキオール・ポリニ ャックが1票、無効票1票であった。 第二回投票では出席者しか投票できなかったが、バイエ-ラツールが27票中19票を得た。こうし てバイエ-ラツールが第三代IOC会長に選ばれたのである。 第一回投票からこのベルギー人候補者がハッキリ優勢であったことから、プラハに出席したIOC 委員の中ではある種の合意があったと思われる。しかし何故最終的にバイエ-ラツールが選ばれた かについては想像できるだけである。 当然のことながら、1921年以来の執行委員会のメンバーがIOC内部ですでに重要な位置を占め ていたので、彼等が最も有力な候補であった。 その中で最有力なのは執行委員会委員長、スイスのメンバー、ド・ブロネーであった。 彼はすでに暫定的にIOC会長職をつとめていた。しかし前に触れたように、彼とクーベルタンの 以前の素晴らしい関係は最近陰りをみせていた。だからド・ブロネーを選んでは男爵が気を悪くす るだろうという憚りがあったのだろう。 対照的に、新会長は前任者に対して常に忠実であった。バイエ-ラツールは執行委員会の副委 員長、IOCの序列では三番目の地位にあった。そして残る三人のメンバーに対して、彼らよりIOC 委員として少なくとも10年は先輩であるという利点があった。 前アントワープ県知事、フェルディナンド・ド・バイエ-ラツール伯爵とカロリーヌ・ドウルトレモン・ド・ ドュラ伯爵夫人の子供として、1876年3月1日に生まれた若いアンリ・ド・バイエ-ラツールは、将来 ベルギー国王アルベール一世(1875-1935) となる少年と一緒に育てられた。 ルーベン大学で学んだ後、彼はベルギー政府から託された沢山の外交的任務を帯びて長い旅 に出た。若いころから、彼は熱心で多才な騎手であり、ベルギージョッキークラブ会長になったが、 これは彼にとってはIOC会長と同じくらい重要な地位で、死ぬまで会長職に留まった。1903年、ア ンリ・ド・バイエ-ラツールはベルギー代表のIOC委員となった。 クーベルタンは「オリンピックレビュー」の中で彼についてこう言っている。 「同じことがベルギーの新メンバー、アンリ・ド・バイエ-ラツール伯爵についても言える。彼は秀れ たスポーツマンであり、その情熱と能力はオリンピック大会へのベルギーの参加が彼の祖国と国王
の名誉となることを保証するであろう。」 バイエ-ラツールのIOCへの選出には隠れた動機があった。彼がブリュッセルでのコングレスを開 催できると考えられたからである。このコングレスは前のベルギーのIOC委員、レイティアンがIOC を辞めたことで1903年から1905年に延期されていた。このコングレスにはベルギー国王、レオポル ド二世が後援を約束されていた。 実際、バイエ-ラツールはここでオリンピックに対する最初の業績を挙げる機会があった。それに 彼は上に述べたクーベルタンの期待を満たすことに非常に積極的であった。 彼はベルギーオ リンピック委員会の共同創立者であり、その第一の目的はベルギーチームのオリンピック大会への 常時参加を確実にすることであった。 それまで、ベルギー人選手が参加しなかったのは1900年のパリ大会だけであったが、バイエ-ラ ツールは1908年のロンドン大会、1912年のストックホルム大会のベルギー選手団団長をつとめて いた。 この年、ベルギーは首都ブリュッセルで1920年のオリンピック開催を提案した。しかし二年後、ア ントワープが代わって招致活動をすることになった。 この決定は大戦のためIOCによって1915年まで延期されたのだが、ベルギーのスポーツ界のリ ーダーたちはドイツによる本土占領中もクーベルタンと接触を続け、戦争が終わったら大会を開催 したいと言っていた。 1919年の第1次世界大戦後の第一回IOCセッションで、1920年大会はフレーミッシュの都市、ア ントワープに決定したのだが、市は部分的に戦災を被っており、わずか一年半の準備期間の短さ が懸念されていた。この決定は明らかにバイエ-ラツールの影響力によるものである。彼は組織委 員会会長になり、大会成功に重要な役割を果して、ドイツによってその中立を悪用された祖国に 大きな満足をもたらした。 1923年に彼はベルギーNOCの会長に選ばれ死ぬまでつとめた。 1925年にバイエ-ラツールが国際オリンピックムーブメントの最高の地位についたとき、彼はIOC における22年間と、執行委員会創立以来の4年間を振り返ることができた。 彼の前には直ちに担わなければならない最初の任期8年間があったが、そこには拡大するオリン ピックファミリーの内部問題があった。その構造は分裂を始める兆しを見せており、彼は先ずそれ と取り組まなければならなかった。 大会プログラムの作成、オリンピック大会で女子種目を実施することについての論争、そして何よ りもアマチュアの定義の問題、1920年代の議論の様子は今日となっては微笑を誘うものではある が、アマチュア問題はIOCと国際競技連盟、なかでもサッカー、テニス、スキー連盟との間の最も 激しい意見の相違を引き起こすものとなっていた。 クーベルタンはIOC内部で技術的問題があまりに重要になってきたことを嘆いていたので、後継 者はそれを仕事の中心にせざるを得なかった。 バイエ-ラツールは男爵と違って教育者でも哲学者でもなかった。クーベルタンなら大きな構想を
もってオリンピックムーブメントに新しい地平を開くことが出来たかもしれないが。また彼は、繰り返 し、繰り返し、自分の思想や理想を公衆に訴えたクーベルタンのような著述家でもなかった。 このベルギー人のスピーチは、IOCセッションや執行委員会や競技連盟の会議の開会に当たっ て行ったものが刊行されているだけである。そしてこれらのスピーチの中で彼は当面の問題、とく にアマチュア問題を繰り返し話している。このことに、託された遺産を忠実に守ろうとする彼の意図 が最もハッキリ表れている。 クーベルタンは日常的な次元を越えてさまざまな方向に新天地を開拓しようとしていたが、バイ エ-ラツールはオリンピック憲章を守ることに専心した。 男爵は労働者のスポーツという提唱に応えて、イデオロギー的な保留なしにソ連のスポーツに 非常な興味を示したが、IOCのヘッドである彼の後継者は「ボルシェビズム」の匂いのするものは 一切拒否した。 オリンピックの現状に固執するこのベルギー人IOC会長はしばしば硬直した姿勢をとって敗北を 喫した。例えばアムステルダム大会でのサッカーや女子の陸上競技は、1928年の彼の反対にもか かわらず導入された。しかし彼は投票による負けを彼の前任者と違って悪びれずに受け入れた。 また規則を守ることの厳格さはIOCでの彼のリーダーシップを特徴付けるもので、独裁的なクー ベルタンに比べてより協力的で寛容なものであった。そして彼が主催したすべての会議は、組織と 内容の両面で徹底した準備によって特徴付けられていた。 すべての点で、IOCは彼の最初の8年間の仕事の仕方に満足していたように思われる。というの は次の会長選挙が1933年ウィーンで行われたときに、バイエ-ラツールは彼自身が主張した秘密 投票で、全く問題なく更に8年の任期を再選されたからである。 もし彼が、それからの年月オリンピックムーブメントがスポーツに関係のない利害の大渦巻きに巻 き込まれることを少しでも勘づいていたら、会長職を引き受けたかどうか疑問に思われるかもしれ ない。この大嵐は今から見れば、それに先立つ論争がまるで児戯に等しく思われるほどのもので あった。 1936年のオリンピック大会は、1931年に、ベルリンに決まっていた。 そしてもしバイエ-ラツールの再選の年に、ドイツでナチスが権力を握ることがなければ、そのあと はいつものアマチュア資格やプログラムについての議論があるくらいのことであったろう。しかしナ チスの政権獲得は、初めて否定しがたい鋭さで大会への政治の影響の問題を突きつけずにはお かなかった。 この状況のなかで、IOCの多数が支持した伝統的な中立の立場が本当に可能であったかどうか 想像してみても無駄なことであろう。しかしバイエ-ラツールがいつもの頑固さで、オリンピック憲章 の遵守、なかでもナショナルチームの構成に当たってユダヤ人差別の禁止を主張したことは、少 なくとも彼の功績とすることができるだろう。 ドイツにおけるユダヤ人の状況を考えれば、これはたんなる上品な虚構に過ぎず、IOC会長はそ の実態を十分には知らなかったと考えられること、そしてヒトラーが結局はオリンピックを自分の勝 利のプロパガンダに代えてしまったこと、はまた別の話である。
ナチス政権はベルリン大会の準備の間、そして大会期間中は比較的抑制のきいた態度を示し た。しかしその直後から組織的にオリンピックムーブメントへの影響力を強めようとした。そしてそれ は全面的に失敗であったとは言えないのである。 例えば、ベルリンの国際オリンピック学院の設立、IOCオフィシャルブレッティンのカール・ディー ムのオリンピッシェルントシャウへの合体、「歓喜を通じての力」協会へのオリンピックカップの授 与、1936年大会のフィルムに関するレーニ・リーフェンシュタールへのオリンピックディプロマの贈 呈、ヴェルナー・クリンゲベルクのIOC事務総長就任等である。 IOCは、ベルリン大会の大成功によってIOC内の信望が極点に達していたレヴァルトが半分ユダ ヤ人であるために、ナチスの指示によって党員、ヴァルター・フォン・ライヘナウに道を譲って辞任 せざるを得なくなるのを座して見守るしかなかった。 レヴァルトの執行委員会の後継者は熱烈なナチであるカール・リッター・フォン・ハルトであった。 1939年に、1940年冬季大会がスキー競技とスキーインストラクターのアマチュア資格を巡る意見 不一致を理由にサンモリッツ開催を撤回された事実、そしてドイツ帝国のボヘミアとモラビア併合、 1938年のポグロムナイト(ユダヤ人虐殺)にも拘わらずガルミッシュパルテンキルヘンが再び開催 地に選ばれ、バイエ-ラツールがベルリン大会の前のようにはユダヤ人に対する差別反対の原則 を言わなかった事実は、いまや優先順位がどこにあるかを示すものであった。 どんな対価を払っても大会を開催することとスポーツのルールを守ることが第一の目的となり、普 遍的な人道的な原則の擁護の情熱は薄くなったと結論したくなる。 ヒトラーのポーランド侵攻やその結果のドイツに対する宣戦布告の後でさえ、最初はIOCがオリン ピック大会を中止することは問題にならなかった。 しかし戦争のヨーロッパ全土への拡大は、1940年大会開催についての議論に終止符を打った。 1939年11月22日、フォン・ハルトはバイエ-ラツールにドイツが冬季大会開催の任務を放棄すると 通告した。 バイエ-ラツールは以下のような言葉をもって答えた。 「第五回冬季大会に1936年大会よりも更に印象的な性格を与えるために貴下がしてこられた素 晴らしい仕事が今や無駄になったと考えるのは何と悲しいことでありましょう。」 1940年7月、ディームが帝国スポーツ総統ハンス・フォン・チャンマー・ウント・オステンの指示でド イツ占領下のブリュッセルにIOC会長を訪ねた。総統は「国際オリンピック委員会の組織改正」を バイエ-ラツールと交渉することについてヒトラーとフォン・ハルトの同意を得ていた。この時、バイ エ-ラツールはベルギージョッキークラブ会長としての資格でドイツ占領軍がすべてのサラブレッド を徴発したことに文句を言ったが、ディームの日記によれば「ドイツ人による乗っ取り」はほとんど彼 からの抵抗に会わなかった。そしてディームは次のように書くことができた。 「オリンピックの問題については、彼は私の草案に賛成し、素晴らしいと言った。彼はIOC委員に ついての文章に手を入れただけであった。彼の承認は今後の交渉にとって非常に有効であろ う。」
ナチスの第一の目的は、すでにレヴァルトの例で前もって行ったように、IOC内のドイツ人の地位 の獲得に影響を与えることであった。彼らは、今やNSDAP 、帝国体育国家社会主義同盟の傘下 にある外部から独立したドイツスポーツのシステムの中に、指名について彼らのコントロールの及 ばない国際機関の代表が入ることのないようにしようとした。 11月の半ば、フォン・チャンマー・ウント・オステン、フォン・ハルト、ディームの三人はIOC会長と 更に話し合うため、ブリュッセルを訪れた。 内容についての結論は二つのソースから引き出せる。ディームは日記に書いている。 「V.チャンマーはバイエ-ラツールに会長として残ってほしいと言った。IOC委員についての変更 はそれぞれの国の問題であり、自分はIOCが若返ってほしいと思っているのだと譲歩を示した。若 返りは何年かにわたって進行中であった。(もしV.チャンマーが55才で選ばれたら、彼は自分のこ とを若返りといったであろう)」。 フォン・チャンマー・ウント・オステンは、ディームとは違うトーンで、ドイツ外務大臣に対し、バイ エ-ラツールが改革に賛成したと報告している。 「独裁主義国家ドイツの希望が尊重されるという趣旨での改革についてである。即ち、第一に委 員会の急激な若返り、第二に独裁主義国家が提案した代表は委員となるべきこと。」 彼は続ける。 「私はバイエ-ラツールが会長としての資格でこの改革を行い、組織改革が実現するまで指導の 責任を負うよう求めた。」 確かに、IOC会長はナチスがIOCのコントロールを手に入れるための最も有効なテコであった。 しかしヒトラーのドイツが望む「改革」のための操り人形の役割を押しつけられねばならなかった のはショックである。とどのつまり、独裁主義国家は自分の代表をIOC委員に送り込み、その委員 が他の国の代表の承認について決定権を握ることになる。 一見したところ、会長がこの提案を即座に拒否しなかったのは残念に思えるかもしれない。しか し彼は少なくとも、ただひとつ憲章修正の承認権をもつIOCセッションを戦争終結まで招集しない という先見の明を持っていた。 もしナチスが勝っていたら、どの道、彼らの望みどおりになっていただろう。 バイエ-ラツールは1942年1月6日から7日にかけての夜に死んだ。 兄弟と共にテプリッツシェーナウの城(ボヘミア)に住んでいた夫人、ヒトラー、外務省、IOC委員 の多くはベルリンからの電報で知らされた。 ヒトラーは伯爵夫人に弔電を送り、葬儀に帰る彼女には兄弟の他、フォン・ハルト、ディームが付 き添った。ディームはベルリンで彼女と会った。 バイエ-ラツールの家での葬儀にはたった三人のIOC委員が立ち会った。フォン・ハルト、ベルギ ーのガストン・ド・トラノア、オランダのアルペルト・シュメルペニック・ファン・デル・オイエである。ファ ン・デル・オイエがIOCの花輪を捧げ、追悼の言葉を述べた。三人ともドイツの勢力圏から来たの であった。
ディームは公式には国際オリンピック学院を代表していたが、日記にベルギー国内オリンピック 委員会のメンバーとドイツ代表の追悼式典についての話し合いのムードを、次のように記してい る。「我々があまりに出すぎていて、一種の宣伝をしようとしている、という彼らの感情に我々は気 づいた。」 祖国が占領されてから、バイエ-ラツールはIOCメンバーの間の連絡を中立国スウェーデンのエド ストレーム副会長にほとんど任せていた。 このこと自体が、おそらくナチスに対する拒否の姿勢の表明とみてよいだろう。 エドストレームがいまや、正当にもIOCのリーダーシップを握ることになった。 2.3. IOCと執行委員会‐構造的枠組み 2.3.1. メンバーシップ 1894年のそもそもの始めからIOCは着実に拡大してきた。バイエ-ラツールが会長に選ばれたプ ラハセッションの終わりには委員は65人を数えた。 第2次世界大戦前までは委員の数は62人から70人の間を変動していたに過ぎなかった。 しかし1939年、戦争前の最後のロンドンセッションでは、やって来ることの予感のせい か、7人の追加メンバーを選んで73人とこれまでの最高になった。そのため1946年の戦後第一回 セッションまでにメンバーが22人減ったことも、そうでなければ受けたであろうほどの打撃にはなら なかった。 バイエ-ラツールの全任期を通じて、IOC委員のおよそ60パーセントはヨーロッパの国々でIOCを 代表する責任を負っており、国内オリンピック委員会のある国のほとんどが少なくとも一人のIOC委 員を送っていた。同じ原則がヨーロッパ以外の国にも適用された。 憲章によればIOCは自ら委員を選び、指名することになっており、その委員はそれぞれの国にお いてIOCを代表するとされている。そして委員は終身、完全に独立している。 各国にオリンピック委員会ができるに従って、スポーツへの一般の関心が増し、IOC内部の地位 によって影響力に差が出るようになると、人によってはIOC委員をIOC内部で外部の利益を代表す る者としか思わなくなった。 そうしたわけで、エドストレームは自分がIOCに入る前から、将来は新しい委員を承認する前にそ の国のNOCと相談すべきだと提案していた。IOCの独立性を重んじていたクーベルタンは勿論、 そのような相談をすることには批判的であった。バイエ-ラツールについて言えば、彼の融和を図る 態度からしてクーベルタンとは少し違っていたかもしれない。 実際には、新委員の選出は執行委員会によってIOCに提案される。そしてIOCは大抵事前に公 表されない指名について公開で投票した。 稀なケースでは郵便投票も行われたが、これには明確な定足数の規定がなかった。1926年、 二人の新メンバーが委員の三分の一以下しか参加しない郵便投票で承認された。このタイプの選 挙方法は1939年のロンドンで廃止された。
IOC委員は終身制であったが、第2次世界大戦中のセッションの長い中止期間を除いて死ぬま でつとめることはごく稀であった。いろいろな理由での辞任が多かったが、会長の辞任要求が無 視された場合には、会費の未払いや無能力、不正行為等があったときに適用できる追放条項も 何度か使われた。そうした例の一つはアメリカのアーネスト・リー・ヤンケで、あまり活動的ではなか ったが1927年以来のメンバーであった。 彼はナチススドイツでのオリンピック大会をアメリカがボイコットするよう猛烈なキャンペーンを行っ た。そしてIOCが当時その利益となると考えていた考え方を攻撃した。IOCはドイツ政府の保証を 信用し、ベルリン大会に固執していたのである。 まだヒトラードイツの組織的な成功とドイツ選手の好成績が続いていたが、IOCはガルミッシュパ ルテンキルヘンのセッションとそれに続くベルリンのセッションでヤンケの行為について議論し、追 放を決めた。省みて、あまり気持ちのよい決定ではなかった。 当時のIOCとその会長(上参照)は盲目、或いは少なくとも近視ではなかったのかと問うてみたく なる。 1917年に滅びたロシア帝国のIOC委員でパリに亡命していた、ロシアのプリンス、レオン・ウール ソフは1933年の死まで委員であったが、オーストリアの委員テオドール・シュミットは1938年3月3日 のドイツのオーストリア併合宣言のあと直ちに、1938年4月号のIOCオフィシャルブレッティンからそ の名が削除された。シュミットは辞任しなかったが、ユダヤ人であるためアメリカに移住せざるを得 なかった。 イリ・グート-ヤルコフスキーについてはいくらかましであった。ドイツ軍が彼の祖国を占領し、ボヘ ミアとモヴィアに帝国保護領を設立したほとんど丁度一年後、彼の将来の地位の問題が起こっ た。1939年6月早々、ロンドンで開かれる第39回IOCセッションでは1940年冬季大会のガルミッシ ュパルテンキルヘン開催を議論することになっていたが、チェコの委員であるグート-ヤルコフスキ ーはプラハでロンドンへの旅行の許可を貰うことができず、バイエ-ラツールに抗議した。バイエ-ラ ツールとエドストレームの両人は彼がロンドンに来ることができるという電報を打った。おそらくドイ ツのIOC委員たちと合意ができたのであろう。 フォン・ライヘナウが述べているように、上からの指示によるものか、彼自身のイニシアチブよるも のかは分からないが、グート-ヤルコフスキーは委員に留まることができた。ドイツの委員にとって は、クーベルタンの古い戦友であり、45才からの委員で創立当時の委員の最後の一人の賛成を 得られずに、1940年大会開催を危うくするのはあまりに大きなリスクであった。つまりドイツの委員 たちにとっては、グートが旅行許可の再申請をするには遅すぎるというタイミングが最も望ましかっ たわけである。 IOCが引き込まれた危険な依存の渦巻きは1939年6月6日のIOCセッションの議事録に明らかで ある。これにはバイエ-ラツールと議事録署名人クリンゲベルクの署名があり、以下の文章を含んで いる。 「会長は、最近の中央ヨーロッパの変化に鑑み、イリ・グート-ヤルコフスキー博士の地位を明確 にすることが必要であった、と発言した... 保護領の設立とズデーテンランドの帝国併合 [ドイツ版: ズデーテンランドの帝国への回帰] にしたがってイリ・グート-ヤルコフスキー博士が以前の地位を 確保し、ボヘミアとモラビアの代表となるのは当然である。」
テキストは続く: 「会長はこの解決策がドイツ側の反対に一切あわなかったことを喜んだ。そしてこの話し合いの 成功に対してドイツの委員たちに感謝した。」 2.3.2. セッション 1936年を例外として、IOCは1926年から1939年まで年に一回会合した。1936年はヤンケ事件の ためにエキストラセッションをガルミッシュパルテンキルヘンで開いた。この時は66人の委員のうち 15人しか出席しなかった。 ロサンゼルス大会の際の1932年のセッション以外、すべての会議はヨーロッパで行われた。1938 年のカイロにしてもヨーロッパのすぐ近くである。 会議の場所は毎年決められていたが、後にはIOCセッションを開く利益が大きくなるに従って数 年前に決められるようになった。例えば、1925年のセッションはド・ペンハ・ガルシア伯爵の招待を 受け入れて翌年をリスボンに決め、1926年のセッションはアルベール・ゴウティエ・ヴィニャール伯 爵の招待で翌年をモナコとした。 1928年オリンピック大会のために会議場になったアムステルダムでは、第一回アフリカ大会が開 かれるアレキサンドリアが1929年の会場として合意された。 しかし長い準備にもかかわらず、この大会は植民地勢力イギリスとフランスの反対で中止され、セ ッションは急遽ローザンヌに変更された。 1930年にはベルリンでセッションが行われ、続いてしばらく最後となるオリンピックコングレスが開 かれた。そこではじめて、次のセッションの会場について投票が行われた。 候補地はバルセロナ、ベオグラード、ウィーンであった。 バルセロナが1931年、ウィーンが僅差で1933年となった。1932年のオリンピックイヤーはロサンゼ ルスである。バルセロナでは、IOCは1934年セッションを40周年公式祝賀と共にアテネで行うこと に決めた。 このセッションは5月の16日から19日まで続き、いろいろなイベントのプログラムが伴った。アヴェ ロフ記念堂とIOC初代会長ヴィケラスおよび1896年組織委員会メンバーの墓への献花に始まり、 アクロポリスでの式典、古代スタイルの競技会と続き、オリンピアでの祝典で最高潮に達した。 そこでバイエ-ラツールとオリンピア市長はクーベルタンを記念して1927年にギリシャオリンピック 委員会が建てた柱のところでスピーチを行った。ギリシャオリンピック委員会会長は市長にオリー ブの枝を贈り、1936年にオリンピック聖火を採火しリレーによってベルリンに運ぶ許可を求めた。こ れはカール・ディームのアイデアであった。 1935年のセッションは、ロサンゼルスでオスロが開催都市として選ばれた。 オスロではポーランドとエジプトのIOC委員の申し出で、1937年ワルシャワ、1938年カイロがそれ ぞれ会場と決まった。 ナイル河畔のセッションでは、ロンドンが1939年に決まり、すでに8年ウエイティングリストに載っ ていたベオグラードは1941年まで待つことになった。
ほとんど全ての会議がヨーロッパで行われたのはIOC委員の構成を見れば不思議ではない。そ の上、「海の向こう」のメンバーの三分の一弱が実際はヨーロッパに住んでいたのだから尚更であ る。そしてヨーロッパで行われるセッションもしばしば旅行は長く困難であった。そしてリスボンやオ スロのような大陸の端のほうで行われるセッションは中央の会場で行われるセッションより出席者が 少なかった。 インドや極東、南アフリカ、アメリカのIOC委員にとって、何日も、時には何週間もかかる海の旅は 大変な経済的負担であった。そうしたわけで、そうした地域に住んでいる委員はセッションに出席 することが少なかった。そして複数の委員のいる国では交代で出席した。そして数年後、彼らは重 荷を誰かに引き継ぐためにIOC委員を辞任することが多かった。バイエ-ラツール会長の時代に開 かれた15のセッションで平均すると42.7パーセントの出席率であった。最高の出席率と最低の出 席率が両方とも1936年に記録された。 ガルミッシュパルテンキルヘンでは77パーセントが欠席した。反対にベルリンでは委員の72パー セントが出席した。 ヨーロッパ人の出席率は勿論非常に高かったが、職業上の義務に縛られていない人ばかりでは なかった。何人かは祖国で政治家、軍人、財界人として重要な位置を占めており、毎年長く国を あけることは不可能であった。例えば、スイスのIOC委員、ギサン将軍は、サンモリッツ冬季大会を 決める投票が議題に上っていたにもかかわらず、1939年のロンドンセッションに出席できなかっ た。さらに、IOC委員の年齢を考えれば、セッションに多くの欠席者があった最大の理由は年齢で あったと言ってよいであろう。 2.3.3. 執行委員会 IOCの一部として、その性格上オリンピックムーブメントのリーダーシップを担う存在として、執行 委員会(EC) [英語では1955年以来理事会と呼ばれている] はクーベルタンの発案で1921年につ くられた。クーベルタンの提案理由は、南アメリカに旅行を計画しており、長い間IOCの管理運営 が出来なくなるだろうというものであった。 彼の考えでは新しい機関は臨時的なものであった。クーベルタンが予見せず、勿論望みもしな かったことだが、後から考えると少しも不思議でないのは、彼が最後に作り出したものは、IOC内部 の新しい権力中枢に発展していったことである。 会議の準備と事後処理は、執行委員会にIOCの仕事に対する大きな影響力を与えた。 委員となったゴードフレー・ド・ブロネー、ジグフリード・エドストレーム、イリ・グート-ヤルコフスキ ー、メルキオール・ド・ポリニャック、アンリ・ド・バイエ-ラツール等五人はすべてIOCの積極的な活 動家であり、引退するまで30年以上IOC委員であった。 彼らの秀れた能力を考えれば、ECが 単に技術的な下準備をするだけでなくIOC全体の代わりに重大な決定をするようになったのは少 しも不思議ではない。 当然のことながら、クーベルタンはすぐにこの成り行きに苛立った。ECは彼自身の権威に衝突し たし、本当はECがいつの間にか先細りになって消えていくのを望んでいたふしがあるからである。 私的な面でも彼の発案は不幸な結果になった。というのはIOC会長としてのクーベルタンとEC委
員長ド・ブロネーの意見の相違は、この二人の間の一時は大変親密であった友情を傷付けたから である。 ローザンヌセッションの議事録にあるように、クーベルタンが自分をECの委員に入れなかった事 実は、この新しい機関の可能性を過小評価した印であるとともに、ECの権利義務をIOC全体のな かで規定しなかったのは彼の手抜かりであった。 この仕事はEC自身に残された。1921年11月、パリで開かれた第一回会議は規定に関する審議 から始まった。そして一年一回会合すること、IOC会長関連の財政問題に取り組むこと、憲章の規 則の適用を強化すること、とくに大会組織委員会に関して強化することを決議した。バイエ-ラツー ルが副委員長になり、ポリニャックがセクレタリーになった。 ポリニャックの住まいのあるパリがECの所在地として選ばれた。しかしわずか一年後、スイスに住 んでいる委員長ド・ブロネーの動議で、ECはローザンヌに移された。 何人かの委員は、移転がIOC会長との間に摩擦を生むのではないかと心配したが、クーベルタ ン自身が移転に何の異議も唱えなかったので安心した。 最初の四年間は執行委員会にとって試験期間であったと見なすこともできよう。その間にECは 可能性や限界を試し、一方では会長との付き合い方、一方ではIOCそのものとの付き合い方を試 すことができた。1925年にIOC自身が正確な役割分担の問題に取組み、将来IOC会長がEC委員 長も兼任すべきことを決めた。この規則はクーベルタンの後継者、バイエ-ラツールが会長になっ て実現した。彼はEC委員長もド・ブロネーから引き継いだ。ド・ブロネーはIOC副会長の座だけ維 持した。その結果、ECは事実上IOC理事会の様な存在になった。プラハで採択された憲章改訂 版では、さらにECはそのメンバーの中からIOC副会長を選ぶことも規定された。副会長は会長が 出席出来ないとき、辞任したとき、死亡したとき会長に代わる。これは理事会に対する重大な付託 である。 ECの責任事項の拡大から、最初のECが有効で有能であったことを証明したことが分かる。財政 運営に加えて、IOCセッションの議題の作成、規則の執行、また新しいIOC委員の提案、オリンピ ック大会に対する影響力の行使、国際競技連盟との協力もその権限に加わった。その結果、IOC 全体では柔軟に対応できない仕事が会長一人の肩だけにかかることはなくなった。この展開を疑 いもなくバイエ-ラツールは歓迎した。彼は一人で決断することは好きでなかった。 それまで期限のなかったECメンバーの任期も1925年に決められた。任期は4年と決まった。この システムでの最初の選挙は1927年モナコのセッションで行われた。 モナコではそれまで6人であったECメンバーの数が新たな憲章改正で7人に増えた。 それで執行委員会は従来のメンバーを外すことなくドイツ人、テオドール・レヴァルトを委員に選 ぶことができた。レヴァルトを加えた「設立メンバー」、バイエ-ラツール、ド・ブロネー、ド・ポリニャッ ク、エドストレームが第二代執行委員会に1927年から1931年まで留まった。これに、逆上って1924 年にグート-ヤルコフスキーの辞任にともなって選ばれたイギリス人、レジナルド・ケンティッシュと、 クーベルタンが辞めたあと1926年IOC委員になったアメリカ人、チャールズ・シェリルも含まれた。 バルセロナの第30回セッションで同じ人達が再選されたが、イギリス人委員ケンティッシュは同国 人クラレンス・アバデア卿に交代した。 次回のEC選挙でもまた一人だけが交代した。チャールズ・シェリルが辞任し、イタリア人、アルベ
ルト・ボナコサ伯爵が選ばれた。 1937年のド・ブロネーのアルジェリアでの死と、同じ年ナチスによってIOC辞任を強要されたレヴ ァルトの退任をうけてワルシャワセッションでの選挙となり、アメリカ人、アベリー・ブランデージとドイ ツ人、カール・リヒター・フォン・ハルトがECのメンバーになった。 1939年のロンドンにおける通常選挙では、ECはワルシャワでの構成と同じになった。 しかしそれに続く戦争の間は会合が開かれることはなく、バイエ-ラツールは必要に応じてメンバ ーと通信によって相談した。例えば、メンバーは戦争中大会を中立国から引き上げることが出来る かどうか、もし大会が開かれた場合、交戦国は参加が認められるかどうかについて意見を求められ た。しかしバイエ-ラツールは1940年にセッションを、こともあろうにベルリンで開催せよとのブランデ ージとエドストレームの要求には同意しなかった。 IOC自体が保持した責任はオリンピック憲章に係わる決定、オリンピックムーブメントの基本法、 オリンピック開催都市の決定であった。といって公式な規定上の権限が何時も文字通りに尊重さ れたわけではなかった。 例えば、オリンピックコングレスの決定は、コングレスには勿論規則上多くのIOC委員、国際競技 連盟代表からなる評議員が執行委員会とともに出席していたわけではあるが、IOC自体の追認な しで施行された。 規則制定の必要が何よりも強く感じられたのは、女子競技のオリンピックプログラムの増加、冬季 大会の導入、アマチュア基準の確立についてであった。アマチュア問題はとくに、バイエ-ラツール の会長時代を通じて、IOCと多くの国際競技連盟との間の定期的な紛争の種であった。こうした紛 争が特定のオリンピック大会を背景に起きると、大会組織委員会もまたIOCに対抗する当事者グ ループの一員に加わった。 2.4. 女性の登場 2.4.1. 最初の女性陸上競技連盟 第1次世界大戦以前は、クーベルタンが乗り気でなかったため、女性はオリンピック大会の二三 の競技に参加できただけであった。1900年のパリ、1904年のセントルイスでは、世界博覧会主催 者の大会プログラムに対する大きな影響力のおかげで、女性がゴルフ、テニス、アーチェリーに参 加することができた。1908年にはアイススケートが加わった。 しかし本格的な拡充は、イギリスとスウェーデンのIOC委員の積極的な働きかけによって、1912 年のストックホルム大会に女性の水泳競技参加が認められるまで可能にはならなかった。 第1次世界大戦の直前から、とくに直後、女性の法的、社会的、政治的役割は、とりわけアメリ カとヨーロッパで変わりはじめた。戦時中に彼女たちが得た自信と、ほとんどすべての職業につく ことができるようになって獲得した大きな影響力、そして彼女たちの選挙権と被選挙権がスポーツ に影響を与えた。 女性はオリンピック大会への全面参加を要求しはじめた。1920年のアントワープ大会に対するこ の要求がIOCの抵抗、とくにクーベルタンの抵抗によって挫折すると、女性たちはスポーツにおけ
る男女同権を実現するために別の道を探り、オリンピックの主要競技、陸上競技を始めた。クーベ ルタンはことあるごとに女性の競技と女性自身による競技連盟の全面廃止を呼びかけていたので ある。 女性の陸上競技の最初の芽は、第1次世界大戦前と大戦中にヨーロッパ、とくにオーストリアとフ ランスで萌え出た。フランスには女性スポーツクラブが設立された。 1917年、このクラブは第一回フランス女性陸上選手権大会を開催し、他の国がすぐこれに習っ た。女性スポーツの統合組織、フランス女性スポーツ協会連合(FSFSF) が同じ年の12月に設立さ れた。フランス陸上連盟も女性に注意を向けはじめたが、当然のことながら数年間にわたって二 つの組織の間の軋轢が続いた。 1921年3月にモンテカルロで数日間続く国際女性スポーツ祭が催され、主としてトラックとフィー ルド競技、そしてダンスとゲームが行われ、フランス、イギリス、イタリア、スイスのチームが参加し た。 このイベントは新聞によって女性オリンピックとして広く伝えられた。この催しは次の年もその次の 年も行われた。この第一回競技会の成功は国際陸上競技の発展に大きな衝撃を与えた。帰国 後、イギリスの参加者はロンドンオリンピアード陸上クラブを設立した。 10月30日にはパリで、国際女性陸上競技会がフランスとイギリスの間で行われた。 その翌日、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、チェコスロバキアの代表が国際女性スポーツ連 盟(FSFI)を結成した。定款と規約の草案が作られ、FSFSFの前事務総長、1920年以来会長であっ たアリス・ミリアが国際連盟の会長になった。 一年後、1922年8月20日、FSFIはパリで国際陸上競技会を開催し、5カ国から65人の選手が参 加、2000人の観客の前で11競技に18の世界記録を出した。 この競技会は第一回女性オリンピック大会と呼ばれた。開会式はオリンピックの式次第に則って 各国の行進で始まり、アリス・ミリアは次の言葉を述べた「私は第一回世界女性オリンピック大会の 開会を宣言する」。 この大会の成功は女性の陸上競技の発展をさらに促した。FSFIはこの女性オリンピック大会を 四年ごとに開催し、会期も数日間に伸ばすことを決定した。 IOCはこの展開を見逃すわけにはいかなかった。IOCはこれを「悪用と行き過ぎ」と呼んだ。そし て1923年、国際陸上競技連盟、IAAFにこの問題に取り組むようよう要求した。 1AAFもこの件 を憂慮し1924年7月のパリでの連盟コングレスで定款のなかに女性の陸上競技について責任をも つことを書き入れた。しかし依然として、オリンピック大会の陸上競技には女性の参加は許さるべき でない、という見解を取っていた。 アリス・ミリアのFSFI承認を求める1921年の要求を拒否していた国際陸上競技連盟は、女性連 盟と接触する詳細な任務を帯びた委員会を指名した。FSFIはIAAFのこの決定をにべもなく拒否 した。 二年以上に及ぶ交渉の結果、妥協が成立した。曰く、FSFIは女性陸上競技の連盟として独立を 維持する、しかしIAAFのルールと規則に従う。国際競技会の開催を続けるが「オリンピック」という 言葉は使わない。そしてついに、五つの女子陸上競技種目(100 メートル、800 メートル、4 X 100
メートルリレー、走り高跳び、円盤投げ) をオリンピックプログラムに加えることがIOCに提案される ことになった。 常に自らの領域の外で「オリンピック」という言葉が使われるのを防ぐよう努めてきたIOCにとっ て、第二の点がとくに重要であった。そのためアリス・ミリアは1926年3月8日のEC会議に招かれ た。そこで彼女は再び女性の大会でその言葉を使わないよう求められた。女性に対する干渉が成 功したのに次いで、学生についてもこれは1927年に成功した。 「学生オリンピック大会」は「国際 大学大会」と改名された。 しかし労働者の大会については、IOCは強い抵抗に会った。「労働者オリンピック」は6年おきに 1925年、1931年、1937年と行われた。 IAAFがIOCに提案することに同意した女性陸上競技についての動議は、もとIAAF会長、 IOC 副会長、シーグフリード・エドストレームによって1926年5月のリスボンセッションで提案された。議 事録には以下のようにある。 「エドストレーム氏の提案により、国際オリンピック委員会は大会の限られた数の陸上競技に女 性の出場を許すことを決定した。」 ハーグの第8回IAAFコングレスには、エドストレームだけでなく、IOC会長バイエ-ラツール、二人 のECメンバー、レジナルド・ケンティッシュ、テオドール・レヴァルトも出席していたが、交渉を担当 した委員会の結論は再び激しい論議の的となった。 とくにフィンランドの代表、有名なコーチ、ラウリ・ピカラはオリンピックへの女性の参加に猛烈に 反対した。一方ドイツのベルグマン夫妻は同じような激しさでそれと反対の意見を擁護した。 結局、IAAFは、12票対5票でスウェーデンのボー・エケルンドの提案した次のような妥協案を採 択した。「女性の競技は1928年のオリンピック大会のプログラムに試験的に含まれる。」 第2回女性世界大会の機会に、1926年ヨテボリで開かれたFSFIの第4回コングレスは交渉の結 果に満足しなかった。アリス・ミリアはイベントの名を変える必要を説明し、わずか5つの競技だが オリンピック大会のプログラムに含まれたことは女性陸上競技にとってささやかな成功であると述べ た。しかしドイツの加盟が認められてFSFIの副会長になった医者のヴァルター・ベルグマンは、そ んな惨めなことならオリンピック大会に参加を拒否すべきであるとまで言った。 FSFIは結局、オリンピック大会に参加するかどうかは会員である個々の組織に任せることにし た。その結果、女性世界大会でいつも国別ランキングの一位であったイギリスの女性はアムステル ダムオリンピック大会に出場しなかった。 コングレスは「女性スポーツのためのオリンピック委員会」の委員に12人を指名した。これは1928 年のアムステルダム大会に女性種目を登場さすことを審議するためのものであった。第2回の女性 世界大会そのものは、彼女たちなりのオリンピック式典を行い、8カ国参加、12種目が行われ、5つ の世界新記録をだし、三日間の競技に17,000人の観客を集め大成功であった。
2.4.2. オリンピック大会における女性の陸上競技 1928年のアムステルダムオリンピック大会で女性は4つの競技に参加した。 陸上のほか、体操の団体がプログラムに加えられた。フェンシングは1924年からプログラムにあ った。これは各国の大学のフェンシング愛好者の影響力のお陰である。 1912年大会に導入された水泳競技は競技リストを完成した。 なお、女性はフィギュアスケーティングでは大会に参加していた(1908年以来)。 しかしテニスは男女とも競技連盟とIOCのアマチュア問題を巡る衝突のために落とされた。女性 の競技種目の数は、テニスの3種目が除外されたために11から14に増えただけであり、参加国の 数も20から24になっただけであったが、女性選手の絶対数と全選手の中に占める割合は1924年 に比べて倍増した(136人から 290人に、4.4%から9.6%に) 。 この数字は18の国からの101人の女子陸上競技選手、5カ国からの60人の女子体操選手を含ん でいる。 ロサンゼルス大会が近づくにつれ、女性の種目についての「綱引き」が再び始まった。 アムステ ルダム大会の間に、いまや会員として23の連盟を持つFSFIはコングレスを開いた。これにはIAAF 会長、エドストレームも出席し、オリンピックにおける「陸上競技のすべてのプログラムへの女性参 加」を要求する会議のアイデアと支持した。 そこで開かれたIAAFのコングレスでも、アリス・ミリアは彼女の連盟の要求を提出した。何回も投 票が行われ、女性の陸上競技を受け入れることは16対6で原則的に承認されたが、すべてのプロ グラムという要求は拒否された(13対9) 。 個々の投票では、100メーター、4 X 100メーターリレー、80メーターハードル、走り高飛び、円盤 投げ、槍投げが1932年大会に承認されたが、200メーター、800メーター、砲丸投げ、走り幅跳び は拒否された。 IAAFのためらいが続いたのは、とくに女子800メーターの除外は、疑いもなくアムステルダム大 会の経験の影響である。一人の日本選手と二人のカナダ選手が草の上に倒れ込んだが、これは 明らかに全身疲労のためというよりは落胆のためであった。 この種のことは男子でも珍しいことではない。しかしこの事件は役員、医者、ジャーナリストの間に 強い批判を巻き起こし、女子陸上種目の廃止の要求にまで高まった。 しかしわずか二日後、同じカナダの女子選手が 4 X 100メーターリレーで大幅に世界記録を破 ることが出来た事実はまったく見過ごされた。 1929年4月のローザンヌにおける第28回IOCセッションは再び女性の参加問題に取り組んだ。こ のセッションでは1930年に予定されたベルリンでのコングレスの準備が行われた。 北欧の国々と フィンランドのオリンピック委員会は女子種目の全面的廃止を要求した。エドストレームの動議で、 問題は執行委員会の議論に任された。 7月にヴィッテルで行われたECの会議では、提案されたオリンピックプログラム見直しについて女 子の種目を体操、水泳、フェンシング、テニスに限るよう勧告された。バイエ-ラツールは「陸上」は 将来認めるようにしたいと考えた。
1930年5月末にベルリンで開かれたIOCコングレスで、会長はECの提案を新しいプログラムにつ いて作業していた委員会に付託した。長い議論が続いたが、体操、水泳、テニス、アイススケート はほとんど全会一致 (26対1)、陸上は (17対9)、フェンシングは (19対8)のそれぞれ圧倒的多数 で承認された。 しかしメッセルリの提案、ヨット競技に女性を参加させる件は大差で否決された。 実際にはそれまでも沢山の女性がヨットに乗っていて、成功も収めていた。例えば、アントワープ 大会でイギリスのドロシー・ウィニフレッド・ライト夫人が、アムステルダム大会ではヴィルジニア・ヘリ オ夫人が夫のヨットのクルーをつとめ両方とも金メダルを得ていた。1930年の禁止にもかかわら ず、1936年のベルリン大会には三人の女性がヨットに参加したがIOCは異議をとなえなかった。多 分、基本的には今日でも同じだが、スキッパーの名前だけが問題だったからであろう。 コングレスの全体セッションで、委員会の勧告案にもかかわらず体操、水泳、テニス、アイススケ ートに女性参加を限定する案が再び提案された。しかしこれは全会一致で否決された。上に述べ た6つの競技のリストを最終的なものとし、それ以上拡大しないとする動議もまた否決された。これ でIOCは、最終的にこの件についてフリーハンドを得た。 1930年9月6日から7日にかけて、第3回世界女性大会がプラハで開かれ、17の国の選手が12種 目の陸上競技、バスケットボール、ハンドボール、ハゼナ〈一種のハンドボール〉のチームゲームに 参加した。オリンピックの開会式によく似た式典に続いて行われた試合には55,000人の観客が集 まった。初参加のドイツチームは国別ランキングであっさりと一位になった。 1931年のバルセロナのセッションで、女性参加についてのコングレスの漠然とした結論に照らし てバイエ-ラツールが主導したさらに長い議論の末、IOCは個別投票の結果ロサンゼルス大会に 関しては、小委員会がすでに決めたリストを承認した。例外はテニスで、国際ローンテニス連盟の アマチュア問題についてのIOCと異なる態度のために保留された。 経済危機とヨーロッパ人にとっての長い困難な旅のために、アメリカの西海岸の大会に参加した 女性の数は1928年にエントリーした数の半分以下であった。しかし女性の参加率は9.6パーセント から9パーセントにわずか減っただけであった。何故なら男子も同じ困難を経験していたからであ る。 体操の試合はなかったが、女性の陸上競技プログラムは1928年にIAAFで承認された6種目で 構成されていた。それでもなお、大会の際に開催されたIAAFコングレスで、フランシス・メッセルリ が代表するFSFIは、1936年大会を目指して再び女性の全プログラム参加を要求した。そして受け 入れられなければ完全撤退すると脅しをかけた。 かつて一度IAAFはこの極端な提案を拒否していたが、今度は女性連盟が1932年9月の第7回 ウィーンコングレスでの立場を再確認する番であった。 1936年についてFSFIは12の陸上競技種目を要求した。 2.4.3. FSFIの終わり しかしFSFIの星は光が衰えつつあった。第4回世界女性大会は再び参加国数で記録を更新し
たが、観客の関心は前回以来衰えていた。大会のすぐ後開かれた第8回FSFIコングレスはドイツ の最高幹部会メンバー、ハインリッヒ・フォス以下の提案を支持した。「世界女性大会の全プログラ ムをオリンピックプログラムの中に統合すべきである。そうすれば、世界女性大会は自然に必要な くなるであろう。」 予想されたように、もしIAAFとIOCがこの提案を拒否していたら、FSFIは女性のためのオリンピッ ク大会をもう一度、今度は全てのスポーツを含む本当に完全なプログラムで開催する可能性を検 討していたであろう。 しかし結局、25周年記念の IOCアテネセッションは再度の投票で僅差ながら女性の陸上競技 の維持をきめた。ところが同時に、FSFIはIAAFの強力な挑戦に直面した。IAAFは自ら両方の性 に責任を持つべきものと考えたのである。 1934年8月のコングレスでIAAFはそのメンバーである連盟にFSFIを脱退するよう勧告する可能 性について討論した。各連盟にとって二つの国際連盟の会員であることは組織的経済的に重荷 となっていたのである。この問題は激しい議論の末、もう一度持ち越された。 しかしFSFI自身が 提案した世界女性大会の終結がFSFIの権威の危機をさらに高めたことは明らかである。 IOCへの手紙でアリス・ミリアは、以前の立場とは正反対の立場に立って、すべての女性種目を オリンピックから除き、FSFI自身が四年に一度女性オリンピックを開催するという提案を行った。 1935年はじめのオスロにおける第33回セッションで、IOCはこの手紙を実際には検討したが、「ミ リア夫人の提案は関係国際連盟間の合意ができるまで審議するわけにはいかない」と結論した。 1934年のIOCの決定に基づいて1936年のガルミッシュパルテンキルヘンの冬季大会プログラム に第二の女性競技としてアルペンスキーが含まれたのに続いて、夏の大会の際にベルリンでFSFI とIAAFの両方がコングレスを開催した。 ベルリン大会には26カ国から328人という記録的な女子選手が参加した(しかし参加率はアムス テルダムとロサンゼルスの数字を下回り、8.1パーセントであった)。 両連盟の間の緊張にもかかわらず、大会を前に交渉が行われ、交渉委員会は三点の合意に達 した。 1)世界記録の公認 2)1940年大会での完全な女性プログラムの実施 3)1938年ウィーンにおける世界女性大会 しかしIAAFは総会で2)と3)を拒否し、IAAFが女性陸上競技の唯一の統括団体であることを宣 言、その論理的帰結としてFSFIの解散を要求した。IAAF自身は、ライバルであるFSFIへの手紙で 述べているように、陸上競技プログラムの「拡充を達成するために全力を尽くす」であろう。しかしこ れは「国際オリンピック委員会との合意によってのみ可能となる」。彼らは次のIOCセッションを待た なければならなかった。 FSFIは公式に解散したようには見えなかったが、1936年以降何の活動も行わなかった。 第5回 世界女性大会は行われず。その代わりに予定されていた会場、ウィーンで、第1回ヨーロッパ女子 陸上選手権がIAAF主催で開催された。
1938年3月、カイロのIOCセッションで、委員は「国内アマチュア陸上連盟女子部門」からの一通 の手紙を受け取った。手紙はオリンピック大会からすべての女子種目を除くように求めていた。ア リス・ミリアが三年前に同じ提案をしたときと同じように、IOCはこれが国際競技連盟の問題であると の立場をとった。 同じ会議で、IAAFの提案に従い、男子1万メートル競歩の他に、女子の200メートル、走り幅跳 び、砲丸投げの三種目がプログラムに追加された。しかしこの決定は1948年のロンドン大会まで 実施されなかった。 カイロセッションは、東京大会では1936年ベルリン大会で実施された女子体操団体を除くことを 決めた。日本の辞退によって開催都市となった1940年ヘルシンキ大会の組織委員会は、女子体 操種目全体をやめる口実としてこの決定を使った。 この問題の真の理由は、興味深いことに、フィンランド女子体操連盟の態度にあった。フィンラン ド女子体操連盟はスウェーデン体操の伝統に従って、「この種の試合」を拒否していたのである。 2.5. アマチュア問題 2.5.1. 憲章上のアマチュア 女性の競技については、IOCはスポーツをする女性のためにオリンピックプログラムの拡張によ って、多くのIOC委員が属している社会で起こっている発展にペースを合わせる、あるいは追いつ こうとしたのであるが、アマチュア問題については歴史的な方向を頑なに守ろうとした。 とくにバイエ-ラツールはその職にあった16年間、彼の理解した限りにおいてクーベルタンの遺産 を守るために全力を尽くした。彼は国際競技連盟との深刻な衝突もものともしなかったが、そのた めに1928年のオリンピックプログラムから射撃が、1932年にはサッカーが、1928年以後 (1984年ま で) テニスが消えた。 1936年には問題は冬季大会に広がり、多くのスキーヤーがFISのアマチュアであっても IOCの アマチュアではないため、その年の大会に参加できなかった。 二つの組織はその後も争いを続け、もし1940年の冬季大会が開催されたら、プログラムにスキー 競技のない、ノルディックもアルペンもない大会になるところであった。 アマチュア問題は、IOCの歴史と解きがたく絡み合っている。1894年のパリでの設立コングレス でも、オリンピック大会の復興そのものよりもアマチュアについての考え方のほうが大きな意味を持 っていた。 クーベルタンの目的はアマチュア資格を管理する規則を使って国際試合を可能にし、実施する ことであった。だから彼にとっては個々の国際連盟の内部で誰がアマチュアとして競技できるかハ ッキリしていれば、それで十分であったし、会長職にある間そういう態度を通した。 クーベルタンの任期が終わりに近づくにしたがって、高度のスポーツとオリンピックに対する世間 の関心の高まりからこの問題はよりデリケートなものになってきた。しかし彼は、すべてのスポーツ に適用できる、関係者すべてが賛成する公式を見つけられる可能性については懐疑的なままで あった。
1925年のプラハオリンピックコングレスでは、国際競技連盟が少なくともその制限内でオリンピッ ク大会に選手を参加させることのできる枠組みをアマチュア規則に盛り込もうという試みがなされ た。 プラハで開かれた技術コングレスでは、アマチュア問題と、すべての参加者がアマチュア規則 に基づいて誓わなければならないオリンピック宣誓は、議題の冒頭の1と2にあり、この議題に関す る議論は会議の大半を占めた。 IOCは「アマチュア憲章」の草案をつくり、それに基づいて問題となったケースを判定する機関を 「審査委員会」とすることを考えた。しかし自分のアマチュア規則に干渉されることを嫌った国際競 技連盟はそのような上部機関が作られることに激しく反対したので、オリッピックコングレスは結 局、とりあえずはそれぞれのアマチュアの定義に関してIFの権威を認めることに合意した。さらに、 以下の排除規定が採択され、すべての者を拘束することになった。 「以下の者はオリンピック大会に参加することはできない。」 1. 自分の競技或いは他の競技でプロである者、或いは承知の上でプロであった者。 2. 給与の損失に対し賠償または補償を受けた者。 アマチュアの原則はオリンピックムーブメントの中心思想として、いわば独立した存在であった。 第2項とそれが引き起こした紛争は、19世紀にアマチュアの原則が生まれたときの第一の目的が 階級的な障壁を設けることであったことを非常にハッキリ示すことになった。スポーツをするに十分 な資産のないものはスポーツをすべきでない、或いは少なくともアマチュアの資格を得て貴族の仲 間入りをする必要はないというわけである。 この二つの規則の上に、コングレスは国際競技連盟に対し、トレーナー、演技をして人に見せる 体操家、スポーツインストラクター、スポーツ教師、コーチはその活動によって金銭を得ているなら ば選手或いは審判としてオリンピックに参加できないという制限を守るよう勧告した。試合への長 い、疲れる旅もまた避けるべきである。選手はオリンピック大会参加以外には一年に20日以上旅し てはならない。 コングレスに先立つIOCプラハセッションは、すべてのオリンピック参加者は以下の厳粛な宣誓 にサインしなければならないと決議した。 「以下に署名した私は、名誉にかけて、私がアマチュアリズムのオリンピック規則に従ったアマチ ュアであることを宣誓します。」 しかしIOCにとって選手の名誉にかけた言葉だけでは不十分に思えたので、プラハでの結論に 基づく規則で偽証を防ぐための更に厳しい宣誓が制度化された。 選手がオリンピック大会にエントリーするときには、各国競技連盟が当該国際競技連盟の規則に 従ってその選手がアマチュアであることを証明する義務を負うことになった。 国際競技連盟の規則が大会参加資格の基礎となった。この証明書はNOCの副署がなければな らない。またNOCは選手が国内競技連盟のアマチュア規則にも適合していることを確認しなけれ ばならない。国際競技連盟がない場合は大会組織委員会がその役割を果たす。