ドイツ民主共和国のドイツ文学記念館
高 木 文 夫
は じめ に
ドイツ民主共和国(Deutsche Demokratische Republik以下DDR)の各
地には,詩人や作家の生家や旧居,その他ゆかりの建物を利用した文学記念館
や文学博物館軸が数多くあります。それも詩人や作家がほんの僅かな期間滞在
したことを記念する小さなものから,研究員や多数の職員を擁する研究機 関を兼ね備えたものまで,さまざまなものがあります。もちろん,展示品 のある文学記念館だけが,詩人や作家の作品に関わりを持っているわけではあ りません。しかし,ドイツのどんな小さな町や村の−・隅にもある小さなプルンネ ンや,街角に立つ彫像,彼らが夜な夜な出没したカフェや酒場,彼らの好んだ散 歩道,果ては埋葬された墓などをひとつひとつ取り上げてゆけば,大変な労力 を要します。ゲーテやシラーなどはひとりだけで200ページを越す本になって しまうはどです。したがって,ここでほ「文学記念館」とか「文学博物館」の 名称を持つものや,それに匹敵するものに限定して,しかもいわゆる「ドイツ 文学」に関わるものだけを簡単に紹介してみようと思います。 以下の叙述は筆者の能力不足により,各文学記念館の紹介記事の羅列のよう に思われるかも知れませんが,ひとつだけ大枠として頭に入れて置いていただ きたいことがあります。それは以下に紹介する各文学記念館が必ずしもそれぞ れが勝手に,別個に運営されているわけではないということです。各記念館に 独自の由来と伝統があってそれに基づいて運営されていても,全体を結び合わ 幽「文学記念館」と「文学博物館」はそれぞれく1iterarischeGedenkst邑tte〉, 〈Literaturmuseum〉の訳語である。高 木 文 夫 66 せ関連づける大枠の方針があるということです。かつてのソ連占領地域,現在 のDDRは1945年以降,それまでのドイツの歴史が残した,文学を含む文化遺 産の保存や修復,国民全体への普及を新しい国造りの重要な−・環とみなしてき ました。そのことばDDRの憲法や指導政党ドイツ社会主義統一・党(SED) の綱領にも明確にうたわれています。それが単なる文言に終わっていないこと は,例えば,ワイマールの「ドイツ古典文学研究所兼記念館(Nationale
Forschung・S−und Gedenkstatten der klassischen deutschen Liter・atur 以
下NFG)」が発行している「年間プログラム」をめくってみれば一月瞭然で す。そこにはドイツ古典主義文学に関わるものを中心にした,実に多くの. 催し物が,児童向けから成人向け,専門家向けに至るまで,開かれること が記されています。その中でも,歴史のある「木曜講演会」は特に有名です。 催し物の参加恵もかなりあるようです。NFGはこの他にも多くの文学記念館の 保存や運営,各種出版物の刊行も行なっています。そして,重要な詩人や作家 の生誕・没後の節目を記念する多彩な行事,1949年のゲ・−テ生誕200年祝典や 1955年のシラー没後150年記念行事を皮切りにし,最近ではゲ、−テの没後150 年(1982年)とシラ・−の生誕225年(1984年)を記念する,1980年から1984年 に至る長期の−・連の行事が行なわれています。その力の入れ具合は,日本にも 聞こえてきた1983年のルター生誕500年を思い起こして預ければおわかりだと 思います。「ドイツ古典主義」の場合,単に詩人・作家の記念すべ卓年に当た るから,これだけの記念行事を催したというわけではありません。戦後ドイツ の非ナチ化政策に関連して,ゲ、−テ・シラーに代表されるドイツ古典主義文学 の持つヒューマニズムが重視され,学校教育や社会教育の場でも取り上げられ, −・般への普及が熱心に行なわれたということも背景にあります。もちろん,こ れにはドイツ文学研究の第一・線の成果が反映されていることは言うまでもありま せん。DDRでのドイツ古典文学の受容が「古典主義」に限定されているので はないことも言うまでもありません。戦後40年を迎え,建国後36年が過ぎたD D只の歩みの中で国力の充実,社会の発展そして文学研究の進展とともに,ド イツ古典文学の受け取り方もゆっくりと変化し発展しています。その歴史の申 で最近の最も大きなできどとは70年代初頭を飾った「古典主義論争」でしょう。
当時個別の研究領域の枠を飛び越えて,ゲルマニストのみならずロマニストや
アンダリストをも巻きこんだこの大論争はその後のDDRにおける古典文
学受容に−・大転換をもたらし,現在でもその余感がくすぶっています。70年代 初頭というのはDDRが国際的な承認を受仇 今日の発展の基礎をさらに固め た時期に当たって−います。この頃から文学記念館の活動も質量とも豊かになっ て釆ました。そして,この情勢下でもっとも特徴的なことはドイツ・ロマン派,特に初期ロマン派の扱われ方でしょう。従来,社会主義DDRでは初期ロマ
ン派は保守反動の権化のように思われている,と見られてきたからです。ドイ ツ初期ロマン派の拠点はベルリンやイエナでした。現在のDDRには古典主義 にとってだけでなく,初期ロマン派に.とってもゆかりの深い土地や建物が多い ということで,近年,初期ロマン派関係の研究,遺産保護も充実してきました。 下で紹介するイエナの「ドイツ初期ロマン派記念館」はそのあたりの事情を端 的に示すものですが,それに,日本の高校生程度を対象にした「ドイツ古典文 学叢書(BDK)」に最近初期ロマン派の主だった詩人・作家たちの著作集が 加えられたことも付け加えておさましょう。DDRのゲルマニテイクでの研究 の重点の置き方や,DDR建設との関わりから,文学記念館もドイツ古典主義 文学に比重がかかりすぎている,と思われるかも知れませんが,今述べた初期ロマン派のことの他,今年(1985年)の3月27日に「DDR二十世紀ドイツ芸
術・文学国立研究所兼記念館(Nationale Forschungs−undGedenksほtten
der DDR fiir deutsche Kunst und Literaur des20.Jahrhunderts)」がド イツ芸術アカデミーによって設立されたので,これからは他の時代の文学記念 館も充実してゆくものと思われます。
筆者は1981年夏と1985年夏の2回,DDRに滞在する機会を得た折,多数の
文学記念館を見学し,特に1985年には招待先の厚意により,いくつかの文学 記念館では職員の方々とも親しく話すことができ,この国の文学記念館につい ていろいろと知識を得ることができました。これらのことはここで詳しく述べ ることはできませんが,見学できたものを中心に,DDRの文学記念館・文学 博物館の概要を紹介しようと思います。そのもとになる資料は見学時に入手し たものの他,帰国後洋書店を通じて入手したものやSEDの中央機関紙「ノイエス・高 木 文 夫 68 ドイツチュラント(Neues Deutschland).」の記事などですが,新聞記事はと もかく,他の資料はリーフレットから数10ペーージのもの,100ページを越える ものもあって,その全容はここではとても伝えることができません。さらに,具 体的には名をあげませんが実際に見学せずに資料にのみよった紹介があること は誠に心苦しいのですがご容赦下さい。また,とり上げる詩人・作家について もすべてに精通しているわけではありませんから,専門的に扱っている方から す−れば,奇妙な記述があるのではないかとも思いますが,敢えて独断と偏見 を恐れず,以下に紹介してみようと思います。末尾に掲げる参考文献ももっと 詳細にお知りになりたい方のために,筆者の目にふれた主なものをあげておき ました。なお,各文学記念館の末尾にドイツ語で記載している事項はその文学 記念館の所在地(街名・番地)と開館時問です。また⇒印は他の町にも同じ詩 人・作家関係の文学記念館があるので参照するようにとの指示です。また,添 えてある写真はすべて筆者が撮影したものです。 さて,このような文学記念館・文学博物館を紹介する方法として,詩人・作 家別,都市別,あるいは時代別を加味するなど色々なやり方があるのですが, ここでは実際に現地に行くことを念頭に入れて,県別,都市別にしてみようと 思います。 最後に,ニ度のDDR滞在の機会を筆者に与えて,その他にも色々な便宜を はかって頂いた,ワイマル友の会,日本DDR友好協会連絡会議,パノラマD DR祉,その他関係の方々にこの場を借りてお礼を申し上げます。
ドイツ民主共和国地図(○印は県庁所在地) ・・ ∫・ ・・ ;r一
∴ い・ノ
\. ヽ. ヽ DDRでは行政単位として県郡制が敷かれ,県庁所在地名がそのまま県名になってい る(地図参照)。また,各県の冒頭にある地図は,B.WuRLITZER の≪Museen, Galerien,Sammlungen,Gedenkst邑tten≫より採ったものである。高 木 文 夫 70 ベルリン(Berlin.DDRの首都.いわゆる「東ベルリン」ト 周知の通りベルリンは現在東西に分けられている。本来ならもともとひとつ の都市の半分しか紹介しないのは片手落ちと言えるが,ここではあくまでもD DRの文学記念館ということで勘弁願いたい。 ベルリンが文学の舞台に登場するのは,この町の新しさもあって,それはど 昔にさかのぽれるわけではないが,まず18世紀末から19世紀初めにかけて,ロ マン派の拠点のひとつだったことを・挙げておこう。他にこの時期にべルリンに 住み,あるいは訪れた電要な詩人・作家として,クライスト,E。T。A。ホフマン, ハイネなどがあり,ゲ・−・テやシラー,レッシングもここを訪れたり,住んだり している。ベルリンが世界的な大都会となるのは第2帝政期である。作家フォ ンタ・−ネがベルリンに住み活躍した時代である。帝政の崩壊後のワイマール期 の今世紀20年代,30年代は様々な文化の華が咲き誇った時代である。ナチスの 時代を経て,戦後廃墟のベルリンへ,亡命していたブレヒトやヨハネス・R・ ベッヒャ1−などワイマール時代から活躍していた左翼系の詩人・作家たちが連 合軍の占領するベルリンへ戻ってくる。
〔≪Ber・1in。HauptstadtderDDR.WegWeiserdurchdieMussen≫より〕
ブレヒト・ハウス(Brecht−Haus) ベルリン中心部にあるSバーンのフリードリヒシュトラーセ(FriedrichstraL3e娼尺 から路面電車またはバスに乗って北へ少しゆくと,劇作家・詩人ベルトルト・プレヒ ド(1898−1956)が妻の俳優へレーネ・ヴァイゲル(1900−1971)とともにドイツ帰 国後の1953年からその最晩年を過ごした住居がある。この建物は1978年ブレヒト の生誕80年を記念し,ブレヒト夫妻が住んでいた当時のままに改装された。住居 は書式㌫ 寝室,台所などから成り,ブレヒトは二階に住み,ブレヒトの死後ヴ アイゲルは階下に住んだが,その当時の状態のままに復元され,公開されている。 中でもブレヒトが仕事に使用した書籍を収めた書斎や書庫は特に興味深い。ブ レヒト・ハウスの続きにはブレヒト・ヴァイゲル・アルヒーフとブレヒト・セ ンタ・−があり,研究・資料収集・公開活動・出版物の刊行を行なっている。ま たブレヒト関係を主とする書店とレストランも併設されている。ブレヒト・ノ、 ウスに隣接するドー一口テーア市営基地にブレヒト夫妻の基がある。その他にも この基地には哲学者ヘーゲル,フィヒテ,詩人ヨハネス・R・ベッヒャー,作 曲家ハンス・アイスラー,作家のハインリヒ・マンやアンナ・ゼーガースらの 塞がある。またフリードリヒシュトラーセからブレヒト・ハウスへ至る道筋の シュプレー河畔にあるベルリナー・アンサンプルはブレヒトの戦後の活躍の舞 台として,ブレヒト劇のメッカとして余りにも有名である。
〔Chaussestr.125:FGhrungendurchdieArbeits−undWohnr註umevonB・Brecht
undH..WeigelDi.,Mi..,Fr.10い00−12..00Uhr・,Do.10.00−12..00Uhr・,17・00−19・00uhr,Sa,9け30−11。30Uhr,12.30−14“00Uhr〕囲
ヨハネス・R・ベッヒャー・ハウス(Johannes−R.−Becher−Haus)
ベルリン中心部から少し郊外のパンコウ(Pankow)にある。Sバーンを利用
するとオストクロイツ(OstkreuZ)で乗り換えて,回り道になる。地下鉄を利用
する場合はアレクサンダー広場(Alexanderplatz)からだが,Sバpンのパン
紬 所在地と開館時問等の記事は≪Museen.Galer・ien,Sammlungen,Gedenk− statten≫および≪LiterarischeMuseen und Gedenkst邑tteninder・DDR≫ に高 木 文 夫 72 コウ駅の手前までしか行けず,バスに乗り換えねばならない。詩人ヨハネス・ R・ベッヒャー(1891−1958)は戦後亡命先のモスクワからソ連占領地域に帰還,
DDRの文化連盟会長や文化相を歴任,DDR国歌の作詞者でもある。彼は,
緑濃く閑静な住宅街にあるこの家に亡くなるまで住んだ。没後DDR芸術アカ デミー所有のヨハネス・R・ベッヒャー・アルヒーフがこの家に残され,生誕90年の1981年以降,中のいくつかの部屋が記念館として整理され,一・般に公開
されている。展示品の重点は亡命時代の国際的な仕事と帰国後の文化担当の政 治家としての活動に置かれている。 〔Majakowskiring34;Ge甜net‥Di・14・00−18・00Uhr,Miり,Do・9・00−12”00Uhr・Sa..nurnachVoranmeldung9..00−12”00Uhr〕
写真1ヨハネス・R・ベッヒャー・ハウス マルク博物館(Markisches Museum)ベルリンを貫流するシュプレー河の畔にある。地下鉄を利用すれば,「マル
ク博物館」駅から,Sバ1−ンでは「ヤノヴィッツ橋(JannOWitzbrじcke)」駅か
らすぐ近くにあるこのあたりはベルリンでも特に古い地域であり,周辺はベル
リンとケルンの二つの町だった時代をしのばせる。マルク博物館は1874年に創
立された。ベルリンを中心とするマルク・ブランデルプルク地方の郷土史博物 館で42の展示室から成る大博物館である。中の3室が劇作家ゲアハルト・ハウ プトマン(1862−1946)の退品展示に当てられている。アグネーテンドルフ (Agnetendorf現在ポーランド領)の彼の家にあった遺品は1946年ベルリンに 移され,50年代初めにこの博物館に移管された。現在展示室にはアグネーテン ドルフの書斎が復元され,6千冊以上のハウプトマンの蔵書や家具,所蔵芸術 品が展示されている。1967年に入手されたペンネヴィッツ・ヨレクションはハ ウプトマンの自筆,戯曲作品や散文作品の初版本をはば完壁に収集している。 さらにハウプトマン記念館には研究施設も併設されている。その他,マルク博 物館にはフォンターネの作品の原稿綴しやE.TA.ホフマンの作品原稿や書簡, 自筆を含むヒッツイッヒの遺品も所蔵されている。(⇒エルクナ岬,クロース タ・−(ヒッデンゼー)) 〔Am KlallnischenPark5;Ge6ffnet:Mi.,bisSa.9..00−17“00Uhr,So.9..00−18,.00 Uhr〕 写真2マルク博物館入口
高 木 文 夫 74 フランクフルト県 エルクナー(Erkner)
ゲアハルト・ハウプトマン記念館(Gerhart−Hauptmann−Gedenkst芸tteErk−
ner)
エルクナーは行政上フランクフルト県に属するが,ベルリンとの境に位置し, ベルリンのSバ、−ンの区域内にあって中心部からでも40分前後で行ける。ハウ プトマンは1885年から1889年までの丸4年間,今日ハウプトマン記念館になっ ているこの家に住んだ。結婚後まもなく彼は健康上の理由からこの家に移り住 んだのだが,3人の息子はここで生まれた。2階の3部屋にしつらえられた展示室 はハウプトマンの生涯と作品を,彼とエルクナーとの関係に重点を置いて概観 できるようになっている。エルクナーとその周辺は1887年ここで完成した短篇小説『謝肉祭』と『踏切番ティ・−ル』の舞台でもあり,またここでハウプトマ ンは出世作の戯曲『日の出前』を執筆した。しかし,エルクナーと最も結びつ きが強いのは『ビーバーの毛皮』(1893年)だ。この戯曲の登場人物は当時の エルクナーの住民たちをモデルにしている。たとえば,年金生活者クリコ.−ガ −はハウプトマンの家主であり,インテリのフライシャーはノ、ウプトマン自身 である。当館はDDRでの中心的なハウプトマン記念館でもある。(⇒ベルリ ン・マルク博物館,クロ1−スタ−(ヒッデンゼー))
〔Kr.FGrstenwalde,Gerhart−Hauptmam−Str.1/2;Ge6ffnet:Mi。bis So・14100 ̄
17…00U山・〕 写真4ノ、ウプトマン記念館に 掲げられた記念額 写真3ゲアハルト・ノ、ウプトマン 記念館(エルクナー)フランクフルト(Frank董urt an der Oder)
クライスト記念館(Kleist−Gedenk−und−ForschungSSt&tteFrankfurt/
Oder・) ベルリンから快速列車に乗って1時間余りでポーランドとの国境の町フラン クフルト・アン・デア・オーダーに到着する。1777年この町で劇作家・短篇′ト 説家ハインリヒ・フォン・クライスト(1777−1811)が生まれた。クライスト の生家は残っていず,そこから100メートル離れた,旧駐屯軍学校に1969年ク高 木 文 夫 76 ライスト記念館が設立された。ここには研究所もあり,研究活動,資料収集活
動,公開活動の他,≪Beitr芝ge zurIKleist−Forchung≫(ISSNO232−
7112)という研究誌も定期的に発行している。同誌はクライストとその時代に 関わる研究論文,書評,書誌を主な内容としている。クライスト記念館内の6部 屋と廊下の1部が展示室に使われている。約600のオリジナリレを含む資料はク ライストの生涯と作品,時代背景,現代におけるクライストの受容状況につい て知識が得られるよう展示されている。特に現実の問題を克服しようとするクラ イストの矛盾あふれる奮闘ぶりや,愛国的な作家・ジャ・−ナリストとしての彼 の功績が手にとるように理解できる。さらに,クライストが同時代および後世 に与えた影響を扱う展示品は文学作品,文学研究,音楽,造形芸術,凝劇にお けるクライスト作品の創造力や現代にもつアクチュアリティも明らかにしてい る。記念館のすぐ背後ほ国境のオーダ・−河で,ポーランド側が遠望できる。(¢ オスマンシュテット) 〔Faberstr.7;Geaffnet:Di.10.00−12小00Uhr,14.00−18.00Uhr,Mi・bisFr“10・00−12.00Uhr,14.00T16.00Uhr,Sa.。So.10..00−12.00Uhr,14.00−171・00Uhr〕
写真5,クライスト記念館 この他フランクフルト県には,ブッコウ(Buckow)にブレヒト夫妻が1952年以 来仕事と休養に利用した別荘が記念館になっており,また,バート・ザ一口ウ= ピースコウ(BadSaarow−Pieskow)にべッヒャーの記念館があるハ(c9ベルリン)ノイプランデンブルク県 シュターヴェンハーゲン(Stavenhagen) フリッツ・ロイター文学博物館(Fritz−Reuter−Literaturmuseum) シュターヴ、=.ンノ\−ゲンの町は「ロイターの町(Reuterstadt).」と名づけら れているように,低地ドイツ語に拠った詩人・作家フリッツ・ロイタ・−(1810 −1874)の生まれた町である。ロイターの生まれた,旧市庁舎が文学博物館に なっている。この文学博物館の展示は,ロイターの生涯と作品を解明し,批判 的リアリストとして,そして民衆と結びついたフモリストとして彼を評価する ことを目ざしている。13ある展示室のうち彼の生まれた部屋を含む2部屋が彼 の活動に当てられている。展示品にはロイタ・一所蔵の家具や室内装飾品,自筆 原稿,初版本,絵の巧みなロイタ・一自身の措いた絵画や挿絵などがある。また この文学博物館はロイターや他の低地ドイツ語作家の自筆原稿を収めるアルヒ −フがある。その他にここでは「低地ドイツ語の夕べ」などの催し物がひらか れている。
高 木 文 夫 78 DDRにはノイプランデンプルク県を中心に他の都市(デーミッツ郷土博物館, ノイプランデンプルクのロイター記念館)にもいくつかのロイタ・−記念館があ る。(⇒アイゼナッハ)。
〔’Kr.Malchin,Marktl;Ge6ffnet:Mo.bisFr・.8.00L12.00Uhr,13.00−17.00Uhr,
Sa.。So.9い00−12.00Uhr・,14.00−16.00Uhr(Nov。bisApr…Sa”nur9日OO−12.00 Uhr,So.erstablO..00Uhr)〕 この他ノイプランデンプルク県にはフェルトベルク(Feldberg)にハンス・ ファラグ・ハウス,ベンツリ・−ン(Penzlin)にヨ・−ハン・ハイリンリヒ・フォ ス記念館がある。 ロストック県 ・−こ 一・ ・.ぺ予二∴∴・、  ̄ ̄ 〈
クロースター(ヒッデンゼー)(Kloster/Hiddensee)ゲアハルト.ハウプトマン記念館(Gerhart−Hauptmann−Gedenkstatte)
ヒッデンゼ・−はバルト海に浮かぶ小島である。1885年初めてこの島を訪れた ハウプトマンは10年後の1895年以降毎年のように夏になるとこの島に滞在した。彼は1926年から夏季別荘「ハウス・甘−ドルン」に逗留し,1930年にはこ
の別荘を購入し,同年冬に増築した。1953年に一腰公開,没後10年にあたる
1956年に記念館になり,1979年から翌年にかけて居室のいくつかが復元され,
オリジナルの家具調度が備えつけられた。ヴュランダではハウプトマンの生涯 と創作活動におけるヒッデンゼーの意味が理解できるようになっている。ハウ プトマンはここで戯曲『日没前』(1932)などを執筆した。同館の所蔵品とし ては彼のデスマスク,肖像画,蔵書,芸術品,作品の挿絵,劇場のプログラム やポスターなどがある。その他近くの基地にハウプトマンの塞がある。(¢ベ ルリン・マルク博物館,エルクナ−) 〔Kr.Riigen;Ge6ffnet:Maibis7.Okt.taglich9。00−16.00Uhr〕 ロストック県にはこの他,リュ・−ゲン島のガルツ(Gar・z)に詩人エルンスト・ モ1−リッツ・アルントの博物館,シュ.トラールズント(Stralsund)の文化歴史 博物館にアルントの展示室,バ・−ト・ドベラン(BadDoberan)にエーム・ヴ ュルク・ハウスがある。
高 木 文 夫 80 マクデブルク県には特筆すべき文学記念館はないが,郷土博物館などの1室
がそれに当てられているものがいくつかある。まず,ハルデンスレーベン(Hal−
densleben)の郡博物館にグリム兄弟と弟ヴィルヘルムの息子ヘルマンの遺品の一部を展示する部屋があり,シ3.テンダル(Stendal)にはドイツ古典主義にゆ
かりの深い美術史家ヴィンケルマンの生家を利用した記念館がある。また県庁
所在地のマクデブルク(Magdeburg・)にはDDRの反ファシズム作家エ1−リヒ・ ヴァイネルトの生家を記念館としたものがある。 ポツダム県 ノイルッピン(Neuruppin) 郡郷土博物館(KreisheimatmlSeum) ノイルッピンの郷土博物館内には作家デーオドーア・フォンターネ(1819−1898)を記念する展示室がある。フォンクーネは1819年12月30日この町のライ オン薬局の子どもとして生まれた。彼はこの町に両親とともに1827年まで,ギ ムナジウムの生徒として1832年から1833年まで住んだ。後に1850年になってま た母と妹がノイルッピンに住むようになってから,フォンタ・−ネとこの町との 結びつきは新たなものになった。1859年以降ノイルッピンは彼にとって「ルッ ピン伯爵領」を迫遥する拠点となり,この地方一・帯は彼の初期の作品『マルク・ ブランデンブルク紀行.』(1861年)の舞台となった。(¢ベルリン・マルク博 物館) 〔August−Bebel−Strい14−15;Geiiffnet:Di。bis Fr。8..30−12..00Uhr,13.00−17…00 Uhr,Sa…8…30−12..00Uhr,So.,10.,00−12.00Uhr,15.00−17.00Uhr〕 ノイルッピンから北に向ってさほど遠くないところにあるラインスペルク (Rheinsber・g)の町も上述の『マルク・ブランデンブルク紀行』の舞台である が,今世紀初めにはベルリンからの恰好の遠足の目的地となり,避暑地となっ た。1912年まだ無名の作家クルト・トゥホルスキ・−は『ラインスペルク ー恋 人たちの絵本』を発行したが,彼を記念する展示品がこの町の労働組合所有の クラブにある。また,県都ポツダム(Potsdam)にはフォンタ−ネの草稿・書 簡などを所蔵するフォンタ−ネ・アルヒ・−フがある。 S吋,●・●
高 木 文 夫 82 ドレスデン(Dresden) シラー・ハウス(Schillerhauschen) ドレスデンの中心部から郊外の離宮ピルニッツ宮殿に向う途中のエルベ河畔 のロシュヴィッツ地区にシラー・ハウスがある。1785年9月フリードリヒ・シ ラー(1759・−1805)は友人のケルナーをドレスデンに訪ね,1787年7月まで 約2年間当地に滞在した。現在シラ・−・ハウスのあるところはもともとケルナ 一所有のブドウ山だった。シラーはここのか−デンハウスにひとり閉じこもり, 戯曲『ドン・カルロス』の完成に取り組む。この仕事はなかなか捗らないが, オーデ ライプチヒ滞在時に構想を得た有名な頒歌『歓喜に寄す』はここで完成した。 一斉『ドン ・カルロス』も苦心惨憺の末ようやくここで完成する。記念館には それを記念する額とレリ1−フが掲げられている。(⇒ライプチヒ,ワイマール, イエナ,バウアーバッハ) 〔Schillerstr.19;Ge6ffnet:Mi.,,So.11.00−18.00Uhr〕 「ェルベのフィレンツェ」と呼ばれるドレスデンはドイツ初期ロマン派の中 心地のひとつでもあった。中心部からエルベ河を渡ったところに㌻ドレスデン 初期ロマン派博物館」がある。(⇒ヴァイセンフェルス,イエナ) カーメンツ(Kamenz) レッシング博物館(LessingmlSeum) ドレスデンの北乗にある小さな町カーメンツはドイツの啓蒙主義時代の文学 を代表するゴットホルト・エフライム・レッシング(1729・−1781)の生まれた 町である。生家は1842年の大火で消失したが,1929年から1931年にかけてレ ッシング・ハウスが建設された。現在ここにレッシング博物館と図書館が置か れている。展示品はレッシングの生涯と作品が概観できるようになっており, 特に「レッシングと舞台」の部門ではドイツ国民演劇の完成に対するレッシン グの重要性が理解できるようになっている。博物館では作品原稿,初版本,18 世紀ドイツの社会情勢を目のあたりにしてくれる当時のオリジナルなどが展示
されている。 〔Lessingplatz;Ge6Lfnet‥MoかbisFr・91・00−12・00Uhr,13・・00−16”00Uhr,Sa・,So・ 12、.30−16.30Uh工〕 ドレスデン県内ではそ・の他にドレスデン近郊のラーデポイル(Radebeul)に 19世紀末から20世紀初めにかけて活躍した冒険小説家カ−ル・マイを記念する 「か−ル・マイ博物館」が1985年2月開館した。さらにスラブ系の少数民族ソ ルブ人が多く住むバウツェン(Bautzen)には「ソルブ語著作物博物館」がある。 カール・マルクス・シュクット県 県都か−ル・マルクス・シュタット(Karl−Marx−Stadt)の北東にある小さ な町ハイニヒェン(Hainichen)の郷土博物館に,啓蒙主義時代の詩人クリステ ィアーン・フユルヒテゴット・ゲレルトの記念室がある。 ライプチヒ県 県庁所在地ライプチヒは古くから商業の町として栄え,しかも15世紀初めに は大学ができ,文化の中心でもあったので,文学に関わる人々も多勢来訪した り,大学で学んだりした。例えば≠ その中でもゲーテは特に有名であり,ライ プチヒを訪ねれば『ファウスト』ゆかりのアウェルバッノ、の地下酒場を訪れず にはおれないだろう。その人ロにはファウストとメフィストフェレス,学生た ちの像がある。また,近くにはゲーテのよく通ったカフェ「カフェーバウム」 もある。その他,レッソングも,ノヴァーリスも,ヴァ・−グナーも,エーリヒ・ ケストナーもこの大学に学んだ。しかし,ここで取り上げるべき文学記念館は ライプチヒにも県内にもそれはど多くはない。 ライプチヒ シラー・ハウス(Schillerhaus Leipzig−Gohlis) もともとライプチヒ郊外のゴーリスにある。シラーは1785年5月から9月ま
高 木 文 夫 84 でこの農家の上階に住んでいた。当時ゴーリスは一・農村にすぎず,ライプチヒ 市民が遠足によく訪れるところだった。記念館には「1785年ここにシラーが住 み,歓喜に寄せる歌を書いた」と記された額が掲げられている。この家でシラ ーは『歓喜に寄す』の初稿と『ドン・カルロス』の第2幕を書き上げた。1 階の展示品はシラーの生涯における1785年夏の意味,そしてケルナーとの友 情,ケルナ・−を通して知り合った出版者ゲッシュンとの関係,『ドン・カルロ ス』のことが理解できるようになっている。この建物は1841年ライプチヒ・シ ラー協会の創設者ローベルト・ブルムにより発見され,1856年にライプチヒの シラー愛好家たちの寄金により購入された。(¢ドレスデン,ワイマーリレ,イ エナ,バウアーバッハ) 〔Menckestr.42;Ge6董fnet:Di.,Mi.,So。11.00−17..00Uhrう ライプチヒから南東にある小さな町グリンマ(Grimma)には出版者ゲッシュ ンの住んだ家があり,さらに作家ヨ・−ハン・ゴットフリート・ゾイメの記念館 になっている。
ハレ県内にはドイツ連邦共和国(Bundesrepublik Deutschland以下BRD)
との境を成すハルツ(Harz)地方がある。最高峰ブロッケン山は『ファウスト』 の舞台として有名であり,ハルツ山地はゲーテ,ハイネ,フォンターネの作品 の舞台となった。ハルツ山地周辺の町にいくつかの文学記念館がある。
バート・ラウホシュチット(Bad Lauchstadt)
ゲqテ劇場(Historische Kuranlagen und Goethe−Theater)
ここは県都ハレのすぐ南にあり,18世紀初めから温泉保養地として宮廷貴族 たちの訪れるところとなった。ここの城を中心とした公園内に,ユ802年に建設 された劇場がある。1791年から1814年までラウホシュチットでは夏の間ヨー ハン・ヴォルフガング・フカ・ン・ゲ、−テ(1749・−1832)を総監督にワイマール宮 廷劇場の公演が行なわれた。ゲ、−テの提案に従って新しく建設された劇場では 1802年6月26日こけら落としにゲーテ自身が書いた前狂言『我らがもたらすも の』が上演された。この劇場はDDRで唯一・のゲーテ時代の舞台技術を伝え, 当時の舞台について知識を得られる劇場であり,現在でも使用されている。公 園内の3つの園亭に常設展示が置かれている。「水浴の園亭」に18世紀のこの 町の状態と訪れた人々についての,「泉の園亭」に1761年からのラウホシュテ ットの劇場の歴史とゲーテ劇場の建設史およびゲーテ・シラ・−とこの町の関係 についての,「公の園亭」にロココ様式の演劇サロンについての展示がされて いる。(⇒ワイマールはか) 〔Kr.・Merseburg/Saale,Parkstr…18;Fiihrungen:MarzbisOkt.,Di。bisSo.9い00,
11‖00,14…00,Nov..bisFebいnur naChvorheriger Anmeldung.,〕
モルマースヴエンデ(Molmerswende)
ゴットフリート・アウグスト・ビュルガー記念館(Gottfried−August−BGr− ger−GedenkstZtte)
この町は『はらふき男爵の冒険(ミュンヒハウゼン)』(1786年)で知られる 作家ビュルガー(1742−1794)の生まれたところでノ\ルツの山中にある。生家
高 木 文 夫 86 が記念館になっていて,展示は彼の生涯と作家酒動およびその時代の社会情勢 が理解できるようになっている。中の1室が「ミュンヒハウゼン」に当てられ て,特にこの作品の翻訳や挿絵が展示されている。
〔Kr∴.Hettstedt;Ge6ffnet:naChvorherigerAnmeldungbeimRatderGemeinde〕
クヴエードリンプルク(Quedlinburg) クロツプシュトック博物館(Klopstockmuseum) ドイツ啓蒙主義の詩人フリ、−ドリヒ・ゴットリ・−プ・クロップシュトック (17241−1803)は叙事詩『メシアス』(1773年)の作者として,今日では『頒 歌』(1771年)で有名であり,当時ゲ・−テやヘルダーリンなどに強い影響を与 えたが,彼もハルツ山中の小さな町クヴュードリンプルクに生まれた。生家が 現在博物館になっている。この格子組みの家は1702年から1817年までクロッ プシュ.トック家が所有していたものである。1974年生誕250年を記念して現在 の文学博物館になった。展示は8室にわたり,詩人の生涯,作品,影響に関す るものの他,彼の家族のことや現在のDDRでの受容についてもわかるように なっている。博物館の所蔵品もクロップシュトソクの蔵書,肉筆原稿,詩人・ 家族・友人・同時代人の肖像画がある。その他開館時間外にも色々な催し物が 行なわれている。〔Schlof3berg12;Ge6f董net:Maibis Sept.Mi.bis So…9..00−13”00Uhr,Okt.bis
AprいMi.,bisSo。9.00−13L00Uhr,14い00−16。00Uhr)
この他旅行案内書などに拠れば,ヴァイセンフェルス(WeiBenfels)の城内
にあるヴァイセンフェルス博物館に初期ロマン派の詩人ノヴァ・一リスの記念展示室があることになっているが,筆者が案内された限りでは,同博物館は改
装中であり,所蔵品の詩の原稿,書簡,肖像画,婚約指輪などは現在公開され
ていず,記念館としての再開は数年先になるということだった。ヴァイセンフェルスはノヴァーリスが住み,亡くなった町なので,その旧居と墓がある。(¢
イエナ)さらにハレ県内にはヴュルリッツ(W翫・1itz)の公園内にゲオルク・フカ・ルス ターの展示室がある。その他特筆しなければならないのは宗教改革者で近代ド イツ語の開拓者マルチィーン・ルターゆかりの土地が多いことである。1983年 にDDRは国を挙げてルター生誕500年を祝った後なのでルターを記念する諸 施設は一層充実している。まずアイスレーベン(Eisleben)にはルターの生家 と亡くなった家があり,それぞれ記念館になっている。また大学町ヴィッテン ペルグ(Wittenberg)にルターは1508年から1546年まで住んだが,その旧居の 僧院がルター・ホールと名づけられ,世界最大の宗教改革史博物館になって−い る。すぐ近くにほルターの協力者メランヒトンの旧居もある。アイスレーベン とヴィッテンペルクは両方とも「ルターの町(htherstadt)」という名が冠せら れている。(⊂〉アイゼナッハ) チューリンゲン(丁hとirin9en)地方(エアフルト県・ゲーラ県・ズール県) 現在のエアフルト県,ゲーラ県,ズール県はチューリンゲンの森を中心とし,
高 木 文 夫 88
チコ∴−リンゲン地方と呼ばれ,現在のDDRの中でも早くから開けた地域であ
り,中央ヨ・一口ッパの交通の要衝であった。アイゼナッハやミ1ユ∴−ルハウゼン など宗教改革や農民戦争の中心地でもあるが,ここでは特にゲーテ●シラ ̄のドイツ古典主義にとって,そして初期ロマン派にとってゆかりの深い地方なの
で一・托して扱うのがよさそうである。 ワイマール(Weimar) 人口約7万人の小さな町ワイマ・−ルはNFGの本拠地であり,地図でもわかるように町全体にゲ・−テ時代を伝える建物や彫像などが溢れている。ワイマー
ル市内の文学記念館の見学には中央料金所(FrauentorStr」4毎日8−301−1245および13301−1630)で切符を買わねばならないが,全館の通し切符が便利であ
る。 HlllO‖t■Mlhn一州d 6■d印Ilt■¶18u亡h川}川 81hhhoI S亡hl0881h●dlll ワイマール中心地図 (≪ReisebuchDDR≫より)ゲーテ・ハウスとゲーテ博物館(Goethe−Nationalmuseummit Goethes
Wohnhaus) ゲ・−テは1782年から1789年までと1792年から没する1832年までのばば50 年間この家に住んでいた。1782年初夏ゲーテはそれまで住んでいたイルム川畔 のガ・−デンハウスからこの家に移る。初めは賃借だったが,その後1794年にワイ マール公カール・アウブストから贈られてゲーテのものとなった。内装は壁の 色を初めとしてゲ、−テの好みによってしつらえてある。移しい絵画や彫塑,素 描,焼き物なとが各部屋に飾られている。各部屋ほゲーテが整えたままに復元 されていて,中には『ヴィルヘルム・マイスター』から『ファウスト』に至る 重要な作品が完成した.書斎,約6,500冊の書庫,ゲーテの収集した造形芸術の 作品や鉱物を集めた部屋,ゲーテの妻クリスチアーネの居間などがある。なお, このゲーテの旧居は第2次世界大戦末期に破壊されたのを復元したものである。 所蔵品は疎開していたので無事だった。 ゲーテの旧居に隣接するゲt−テ博物館は1979年から1982年にかけて全面的 に改装され,1982年3月23日,ゲーテの没後150年を記念して再び一・般に公開 された。ゲーテ博物館は次の14室から成る。まず最初の部屋はゲ−テの全生涯 写真6ゲーテ・ハウス(ワイマール)高 木 文 夫 潔) にわたった作品『ファウスト』に当てられている。2番目の部屋は「若きゲ、− テ」,続く3番目は1771年から1775年に至るフランクフルト時代をテ、−マと し,第4展示室ではワイマ・−ル時代の最初の10年間が扱われている。第5展示 室では,ゲーーテの1779年2月1日の日記をもとにゲ・−テの公務の1日が取り上 げられている。第6展示室は「イタリアのゲt−テ」,第7展示室はシラ・−との 交友時代(1794−1805)に当てられている。第8・9展示室ではワイマール宮 廷劇場の監督ゲ、−テを,第10展示室は自然科学者ゲーテを,第11展示室は1釦0 年というドイツ文学にとって重要な年を扱い,第12展示室は自伝的作品に,第 13展示室は「ゲ1−テと世界文学」に,最後の部屋は再び『ファウスト』の,そ の第Ⅱ部と『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』というゲ、−テ晩年の作品 に当てられている。(⇒ワイマ・−ル市内およびイエナはか) この他ゲ・−テ博物館は後述のワイマ・−ル市内外各地に点在するNFG管理下 の文学記念館を統轄し,学術的指導を行ない,NFGの管轄外にある,イエナ のゲ・−テ・シラ・一関係の記念館,イルメナウのゲーテ記念館,バート・ラウホ シュテットのゲーテ劇場と公園にも学術上の助言をしている。またゲーテ博物 館はゲーテ・シラー・アルヒーフ所蔵以外のゲーテの遺品をすべて管理してい る。
〔Frauenplanl;Ge6ffnet:Apr.bisOkt.Di。bisSo.9.00−13.00Uhr・,14..00−17.00
Uhr,Nov.bisM註rzDi.bisSo.9.00“13.00Uhr,14..00−16.00Uhr〕 ゲーテのガーデンハウス(Goethes GarItenhaus) ワイマ1−ルの町に沿って流れるイルム川の畔にあるこの家に,ワイマールに 到着したばかりのゲーテが落ち着いたのは1776年4月のことだった。この家は カール・アウダスト公から贈られたものである。1782年にフラウエンプラーン の大きな家に移ってからも,ここはゲーテにとって雑事にわずらわされずに引 きこもって仕事のできる避難場所だった。小さく質素な家だが,今でも当時そ のままの姿を見せている。1階に暗合所,食堂があり,上階に居間,書斎,書 庫,寝室がある。家具の殆どがゲーテの使用したオリジナルだが,その他にも ゲーテの創作活動をうかがわせる品々がある。庭もゲーテの構想どおりに保た れている。(.Corona−Schr翫er−Str.;Ge6ffnet:Apr.bis Okt.Mi.bis Mo.9.00−12.,00Uhr, 13.00−17.00Uhr,Nov.bisMarzMi.bisMo.9.00−12.00Uhr・,13.00−16.00Uhr〕 写真7ゲーテのガーデンノ、ウス ゲーテのガーデンハウスがある−・帯はイルム川に沿って緑の濃い公園になっ ていて,別名ゲーテ公園という。ゲ・−テがこの家に引越してきた当時はヤプ や茂みにおおわれていて,散歩もままならぬほどだったが,ゲーテは庭師らの 手助けで,1828年今日あるような公園を完成した。公園内にはさまざまな記念 碑や石像が置かれてあり,市街地に接する辺りにはゲーテ・シラー・アルヒ、− フ,城,ドイツ古典主義中央図書館,音楽家フランツ・リストの家,ロ・−マ風 の建物,フォン・シュタイン夫人の家などがある。 シラー ・ハウス(Schillerhaus) 1802年シラ・−はこの家を手に入れるが,1805年には亡くなるので,住んだの は約3年にすぎない。シラーはこの家の屋根裏部屋で『ゲィルヘルム・テル』 や『メッシーナの花嫁』,『デメトリウス』に取り組んだ。ここと家族の住ん だ2階が現在展示室になっていて,シラーの生涯と主要な作品について理解で きるようになっている。第1展示室は幼年時代から青年時代にかけて,『群盗』
高 木 文 夫 92 や『たくらみと恋』について,第2展示室ではシラ・−のライプチヒ時代,ドレ スデン時代そしてイエナ時代を扱い,ケルナ・−との友情の始まりや,イエナで の作家としての成長,シャルロッテとの結婚について,第3展示室は歴史家お よび劇作家として−のシラ・−を,第4展示室はシラ・−の最晩年を扱っている。と の展示室でも多数の自筆原稿や銅版画,絵画などでシラーの生涯と時代が手に とるようにわかる。書き物机の上にはシラ・−の遺作『デメトリウス』の原稿の −・部分が乗せられ,亡くなった時の寝台がそばに置かれている。 ゲーテ・ハウスに比べ,こじんまりとした簡素なシラー・ハウスだが,現在 その裏手にシラ・一博物館が建築中で,1988年開館の予定である。(⇒ドレスデ ン,ライプチヒ,イエナ,バウア・−バッハ) 〔Schillerstr。12;Ge6ffnet:Apr.bisOkt.Di..bisSo.9.00−13・00Uhr,141・00−17・00
Uhr,Nov.bisMarzDi.bisSo.9.00−13.00Uhr,14.00−・16.00Uhr〕
写真8シラーり、クス(ワイマール) この他ワイマt−ル市内にあるゲーテ,シラーゆかりのものの中ではまず「ゲ ・−テ・ i/ラー霊廟(Goethe−und Schiller−Gruft)」を挙げねばならない。霊 廟はワイマールの市街地の南の閑静な歴史墓地の中央にある。ゲーテの妻クリ スチア・−ネの墓は市内の別の墓地にある。ドイツ国民劇場前に立つゲーテとシ ラーの像は余りにも有名である。上に述べたゲ・−テ・ハウス,ガーデンハウス,シラ・−・ハウスの他にも彼らの住んだ家が市内にある。例えば,ゲーテ・ハウ
スの前の小さな家にシラーが1787年から1789年まで住んでいたが,その当時 は2人はお互いに面識はなかった。(¢イエナ,ライプチヒ,ドレスデンほか)
キルムス=クラコウ=ハウス(Kirms−Krakow⊥Haus mit Herdermuseum)
キルムス=クラコウ=ハウスは1800年ころの市民の住居文化をよく伝える ものだが,この家の2階に文学理論家,美学者であり,民謡叫収集家としても 知られるヨーハン・ゴットフリート・ヘルダ・−(1744−1803)を記念する博物 館がある。この博物館は1963年に開館されたが,1978年ヘルダーの没後175 年を記念して改装された。 展示は6室にわたっていて,ヘルダ−の生涯と作品が概観できる。家具のい くつかはヘルダーの遺品である。最初の2部屋はヘルダーの伝記を幼年時代か らワイマール時代まで伝えている。それに続く部屋ではヘルダーの広範囲に亘 る仕事の中から重要なテーマが取り出され,整理されている。それは,ヘルダ ・−のヒューマニズム構想,歴史哲学,民謡の採集と研究,フランス革命との関 わり,抑圧された民衆への肩入れなどである。なお,この博物館のすぐ近くに ある教会は管区総監督などを勤めたヘルダーの名が冠せられ,ヘルダー広場と 名づけられた教会前の広場にはヘルダー像が立っており,教会の背後にはヘル ダーの旧居がある。 〔Jakobstrい10;Ge6Hnet:Apru bisOkt.,Di.bisSo..9.,00−12‖00Uhr,13“00−17・00 Uhr,Nov..bisM註rz9一.00−12小00Uhr,13。00−16。00Uhr〕
ヴィットゥムスパレー(Wittumspalais mit Wielandmueseum)
国民劇場の向い側にあるヴィットウムスパレーは未亡人になった公妃アンナ・ ァマーリアの住んだ宮殿で,ここに彼女の「円卓を囲む仲間」が集うた。その メンバーは学問や文学・芸術に携わる人々で,朗読会や演奏会,造形芸術の鑑 賞会や意見の交換が行なわれた。この楽しい会合の中心はヴィーラント(1733 1−1813),ゲーテ,ヘルダーで後にシラーが加わった。1813年ヴィーラントが 亡くなった時,ここの大広間で葬儀が行なわれ,ゲーテが弔辞を述べた。ヴィ ツトゥムスパレーはゲ・−テ時代のワイマ1−ルの宮廷社会をよく伝えるものだが,
高 木 文 夫 94 ここの一・隅(東のそで)に,ヴィ・−ラント没後150年に当たる1963年ヴィ・−ラ ンド博物館が設立された。ドイツ啓蒙主義の重要な作家であり,ドイツ古典主 義への道を拓いたヴィ・−ラントの生涯と作品が,同時代の絵画や銅版画をもと にあらわされている。5つの展示室ではヴィ、−ラントの青春や初期作品,啓蒙 主義の精神を体現した作品,後に続く若い世代との関係,ワイマール時代の傑 作,フランス革命後の評論家・作家と しての活動が示されている。ヴィ・−ラン ントと家族の所蔵品,特に書き机や陶 磁器が彼の姿を生き生きと伝えている。 なお,ゲーテ・ハウスの近くにヴィー ラント広場という名の広場があり,ヴ ィーラントの像が立っている。(⇒オ スマンシュテット) 〔AmPalais;Ge6ffnet:Apr.bis Okt Di..bis So..9.00−12.00Uhr,13.00− 17..00 Uhr,Nov小bisMarz Di.bis So.9り00−12..00Uhr,13..00−16い00Uhr〕 写真9ヴィットゥムスパレー この他ワイマールの中心部にあるものとして,上に挙げたゲーテ・シラー・ アルヒーフとドイツ古典主義中央図書館について述べておこう。 ゲーーテ・シラー・アルヒ・−フは1885年にゲーテ・アルヒーフとして設立され たものだが,100万以上の所蔵品を誇る。18世紀初頭から20世紀初めに至るド イツ作家の生原稿が保存されている。 ドイツ古典主義中央図書館には約80万冊の蔵書があり,その中には3,000 中世写本,13,000冊の蔵書と無数の挿画を含む「ファウスト」・コレクション, 1万冊余のシェイクスピア文庫がある。同図書館の主要活動は1848年までのド イツ文学の第1次文献,第2次文献の収集とそれらの各目録(個人目録も含め て)の刊行である。
これらは双方ともNFGに所属するが,NFGはこの他庭園から記念碑まで
さまざまなものの維持。管理を行なっている。 ティpフルトと.ベルベデーレ(Belvedere)の城はどちらも現在は行政上ワイ マールに属するが,市の中心からやや離れている。 ティーフルト城(SchloL3Tie董urt) イギリス風庭園に囲まれたティ、−フルト城は公妃アンナ・アマーリアの真の 居城だったが,やがてワイマールの文人・学者たちが訪れるようになり,楽し い集まりが開かれた。「ティ1−フルトの夕べの集い」でゲーテは彼の作品『イ フィゲーニエ』や『タッソ丁』の一・部を朗読し,シラーは『ドン・カルロス』 をここで初めて朗読した。ティ・−フルト城の内部は18世紀の噂好と住居文化の 典型を成している。内部にあるゲ・−テの部屋は彼が頻繁にこの他を訪れたこと を表わしている。ここに展示されているのはゲーテの肖像画,小説『若きヴュ −ルターの悩み』の挿絵の他に,ゲ・一テの歌唱劇『魚を取る女』のティ1−フル ト城庭園での夜の初演(1782年7月22日)を伝える絵画がある。 〔Hauptstr..14;Ge6ffnet:Apr∴.bisOkt∴Di.bisSo.,9..00−131・00Uhr,14・・00−17…00
Uhr,Nov.,bisM註rzDi.bisSo.9.00−13”00Uhr,14.00−16.00Uhr〕
ワイマール市外にあるNFG関係の文学記念館(NFG発行のパンフレットより)高 木 文 夫 96 オスマンシュテット(OfSmannstedt) ヴィーラント記念館(Wieland−Gedenkst註tte) ワイマ・−ルから北東に向って約13キロメ1−トル離れた小さな村オスマンシュ チットにヴィーラントは1797年から1803年まで家族とともに住む。1797年ヴ ィーラントは2万2千夕・−ラーの金を払って−,ここの荘園を手に入れた。かね てからの念願どおり,彼は田舎に引きこもり,か−ル・アウダストの宮廷から は独立して仕事ができるようになったが,お金を使い果してしまい,その後つ ねに金銭上の不安に悩まされ,ついに1803年に荘園を手離し,ワイマ・−ルに戻 ってしまう。荘園内の屋敷ゐ一・部が現在ヴィーーラント記念館になっている。当 時,この屋敷に多くの人々がヴィーラントを訪ねてきたが,その中でも1802年 冬のクライストの訪問はよく知られている。クライストはこの滞在時に戯曲 『■ロベ・−ル・ギスか−ル.』を完成した。(¢フランクフルト)これに関する資 料が記念館の廊下に展示されている。この他,この/トさな記念館に展示されて いるのは,ヴィ・−ラントの′ト説の初版本や彼が編集した雑誌であり,オスマン シュテットで完成した作品の成立事情をよく伝えており,また荘園売買の事情 を伝える資料も展示されている。また別室にはクライスト以外の来訪客,特に ゲーテ,ヘルダー,ゾフイ、−・ラ・ロシュ.に関する展示がある。ヴィーラント は止むを得ずこの地を去ったものの,ここをこよなく愛し,遺志により,死後 近くを流れるイルム川の畔に埋葬された。(⇒ワイマール) 〔Kru Apolda;Ge6ffnet:Apr..bisOkt…Mi。bisSo。10.00−16..00Uhr〕
ゲーラ県地図 ドルンブルク(Dornburg) ドルンブルク城(DornburgerSch16sser) エルベ河の支流ザーレ川はイエナか らナウムプルク,ヴァイセンフェルス をへてハレへ注ぐが,イエナとナウム プルクの間のサーレ川を望む高台にド ルンプルク城がある。3つある城のう ち,ルネッサンス様式の城(16∼17世 紀建築および改築)とロココ様式の城 (18世紀半ばに建築)が現在博物館に なっている。1776年以降ゲーテはしば しば公務で当地を訪れ,ロココ城に宿 写真10.ドルンプルク城
高 木 文 夫 !蛤 泊した。ゲーテはまた1828年夏に2ケ月余り滞在したが,その時の事情をルネ ッサンス城内にある「山の部屋」がよく伝えている。そこにはゲーテのドルン ブルクでの活動,2つの抒情詩の完成,さらには気象学,地質学,植物学の仕 事を伝える展示がある。またロココ城にもその時の滞在を伝える絵画や地図, 書籍の小さなコレクションがある。 イエナりena) ドルンプルク,そのイルム川上流にあるイエナ,さらに上流のグロ1−スコッ ホベルクはゲーラ県に属する。これらの町はワイマ1一ルとの結びつきが強い。 イエナには古い大学があり,数多くの詩人,作家,哲学者がここに学び,ある いは教壇に立ち,さらには彼らを訪ねて多くの人たちがやって釆た。ちなみに シラーがこの大学の歴史学教授として教鞭をとったことから,現在この大学の 正式名称はフリ・−ドリヒ・シラt一大学である。しかし,イエナはシラーだけの町で はない。ゲ・−テにもゆかりがあり,ドイツ初期ロマン派(イエナ・ロマン主義) の中心地でもあった。 シラー記念館(Schiller−Gedenkstatte) シラーーが初めてイエナを訪れたのは1787年8月のことだったが,この時はこ の町にいい印象を得てすぐに立ち去った。翌1788年『オランダ離反史』が認め られ,イエナの歴史学教授に就任する。以来1799年にワイマールへ移住するま でここに住み,歴史論文や美学論文に取り組み,文学作品としては戯曲『ヴア レンシュタイン』3部作の執筆に力を注ぐ。イエナには何軒かシラーの住んだ 家があるが,記念館になっているのはその最後の1797年から1799年まで住ん だガ・−デンハウスである。展示品はシラーが住んだ時代のイエナの町,シラー のイエナ時代の交友関係,イエナで完成した『クセ・−ニエン.』や『■ヴアレン シュタイン』などのバラードから歴史著作に至る,重要な作品が中心であ る。敷地内の庭園はシラーが住んでいた当時のままに復元され,庭の一・角には シラーが閉じこもって『ヴアレンシュタイン』を執筆した尖塔のような小さな
家がある。(吟ドレスデン,ライプチヒ,ワイマーール,バウア・−バッハ)
〔Schilユerg呂L3chen;Ge6Ljent:15..Aprrいbis15日Okt..Di.bisSo.10.Ot)−ユ4什00Uhr〕
ドイツ初期ロマン派記念館(Gedenkstatte der deutschen Fr芭hromantik)
イエナが初期ロマン派の拠点だということは繰返し述べてきたが,この記念 館は1981年秋に開館したばかりで,研究機関は持たず,展示物のはかは月1回 の講演会などの催しものを行なっている,こじんまりした記念館である。DDR では上述のように戦後しばらくの聞古典主義に力が入れられてさたので,ロマ ン派についての普及酒動はまだこれからのことである。記念館はやは.りロマン 派に関わりの深い哲学者フィヒテの住居を復元したもので,展示品はロマン派 の理論的支柱だったシ.ユL/−ゲル兄弟(兄アウグスト・ヴィルヘルム1767−
1845,弟フリードリヒ17721−1829),兄の妻カロリ、−ネ・シュレーゲル
(1763−1809),作家ルートヴィヒ・ティ1−ク(1773−1853),ノヴァ1−リス らに関わるもの,彼らの肖像画(ただし複製),彼らの出版した雑誌,書籍, 書簡などがある。(qドレスデン,ヴァイセンフェルス)〔Unt.ermMarkt12a;Ge6ffnet:Di..,Do。bis Sa.10.Ob−13.00Uhr,14..00−17..00
Uhr,Miい10.00−13.00Uhr,14..00−18.00Uhr〕 写真11ドイツ初期ロマン派記念館内部高 木 文 夫 100 イエナにあるゲーテゆかりの施設として−,植物園にあるゲ1−テ記念館を挙げ ておこう。この記念館は自然科学者ゲーテにとって.ふさわしいものだ。ゲーテ が度婁なるイエナ滞在時に住みこんだ植物園の検査官の家が記念館になってい る。展示室ではゲーテとイエナの関係,すなわち,イエナ大学の支援者として の活動,ゲ・−テと密接な関係にあった友人や共同研究者,ゲーテの植物学や鉱 物学,気象学の分野での仕事が中心になっている。 グロースコッホベルク(GroL3kochberg)
ゲーテ記念館(Goethe−GedenkstatteSchlof3 und Park Kochberg)
コッホベルク城は1733年から1945年までフォン・シュタイン家が所有して いたが,18世紀後半の城主はシャルロッテ・フォン・シュタインだった。彼女 はゲーテと親しく,ゲ、−テは1755年から1788年までしばしばこの城に滞在し た。ゲーテ関係の展示物は2階にある。展示されているのは,ゲ1−テのコッホ ベルク関係のスケッチ,書簡,日記の はか,ゲーテの部屋にオリジナルの書 き物机がある。また,他の展示室には, ゲーテとシャルロッテの関係を伝える, 夫人の書き物机などがあり,1788年秋 のゲーテ最後のコッホベルク訪問を伝 える部屋もある。ここを訪れたのはゲ ーテだけではない。ヘルダー夫妻,ツア ハリアス・ヴュルナー,.1M.R.レンツ らも訪問者だったことを展示で知るこ とがでさる。城の周囲は緑豊かな公園 で,城のすぐ側には小さな劇場もある。 (¢ワイマ・−ルはか) 〔Kr.RudoIstadt;Ge6flnet:MiいbisSoい 9.00−12一.00Uhr,13“00−17“00Uhr〕 写真ほ コッホベルク城
イルメナウ(Ilmenau)
イルメナウはズ・−ル県に属するが,名前のとおり,ワイマールに注ぐイルム
川に沿って発達した鉱山の町であり,チューリンゲンの森に抱かれた美しい町
である。ゲーテ記念館(Goethe−GedenkstZtte Amtshaus)
ゲ・−テ・はイルメナウ鉱山の監督に総計28回この町を訪れた。ゲーテが鉱山の
事業に携わっていた時代はイルメナウ鉱山の最盛期(1776・−1812)に当たる0ゲ・−テが居住し,公務を行な・つた役所が現在記念館になっている。役所は1756
年当時の外観のままである。中の5部屋が展示室になっていて,イルメナウの
鉱山の歴史,鉱山監督官ゲーテの労苦,イルメナウと詩人ゲーテの関係などを
知ることができる。また,ゲーテが使用したライティングデスクなどの家具も
高 木 文 夫 102 置かれている。(⇒ワイマ・−ルはか) 〔AmMarktl;Ge6flnet:15..Januarbis15.,MarzMo“bisFr.10・・00−11・00Uhr, 13サ00−15.00Uhr,15りMaibis15。Okt.Mo..bisSaい9..00−11.30Uhr,13.00−16・・30 Uhr〕 ガーベルバッハの猟館(Jagdhaus Gabelbach) チエ・−リンゲンの森の中,山の中腹にガーベルバッハの猟館がある。これは 1783年秋カール・アウダストの命により建築されたものであり(現在のものは 1968・−1970年に再建されたもの),ゲ・−テは1776年から死の前年の1831年ま で足繁く通ってきた。この家の入口,階段,床や宴会場,食堂には当時の宮廷 の狩猟生活や習慣をよく理解できる調度や絵画,狩猟用武器・用具が展示され ている。また,ゲーテの居間,寝室,書斎には当時の様式で,オ・リジナルの家 具が備えつけてあり,カール・アウグストの居室はゲ・−テの自然科学研究や森 林・狩猟との関係を伝える小さな博物館になっている。 〔.Ge6ffnet:Januar,Marz,April,Okt..Mi。bis So“9。00−12.00Uhr,13い00−16・00
Uhr,MaibisSept.Di“bisSo.9.00−12い00Uhr,13..00−17..00Uhr〕
シュテユツツァーバッハ(Sditzerbach) ゲーテ・ハウス(Goethehaus Stiitzerbach) シュテエツツァーバッハはイルメナウから南西の郊外にある。ゲーテは1776 年から1780年までに13回訪れた。館内に展示されている書簡,スケッチなど はゲーテのワイマール時代最初の10年間の成長,有名な抒情詩『イルメナウ』 の成立,シュテユ.ツツァーバッハやチューリンゲンの森での公務や自然科学研 究,当時の政治・社会情勢などを教えてくれる。この家の中心はゲ、−テが滞在 中居室兼仕事部屋として使った部屋であり,ここはゲーテの時代そのままに復 元されている。(¢ワイマールほか)〔Kr\.Ilmenau;Ge8ffnet:Maibis Okt.Di.bisSo..9..00−12.00Uhr,13..00q17.00
Uhr,/Nov.,bisJan.,M邑rz,Apr.Mi.bisSo..9い00−12.00Uhr,13..00−16.00Uhr, Feb.9..00−12.00Uhr,13..00−16.00Uh一っイルメナウの役所(ゲーテ記念館) からチューリンゲンの森の中をガーベ ルバッハの猟館をへて,シュチエ.ツツ アーバッハのゲ・−テ・ハウスに至るま での道は「ゲーテの散歩道」(Goethe− Wanderweg)と名づけられた○ゲーテ ゆかりの遺跡を訪ねて通遥する恰好の ハイキングコースである。コースの申 はどには『旅人の夜の歌』の詩が刻み っけられたゲーテの小屋(復元された もの)もある。 Go∈lht:・Wa爪derwcg Aussicbtstm Auss弓chtspunh 人usnugsgaStSt註t†c 1 ■〉 (≪ReisenzuGoethe≫より) バウァーバッハ(Bauerbach) シラー・ハウス(Schillerhaus)
チエ1−リンゲンの森深く,現在ではBRDとの国境近くに位置するバウアー
バッハは,1782年文学活動の自由を得るためにシュトゥットガルトを脱出した
シラーが逃れてきた場所である。シラーはこの寒村に半年余り陰模していた鱒,
その間に戯曲『たくらみと恋』を書き上げ,『ドン・カルロス』に着手した○
シラーがひそかに住んだ家が記念館になっているが,シラーの住んだ上階の小
さな部屋はほぼオリジナルの状態になっている。(⇒ドレスデン,ライプチヒ,
ワイマール,イエナ)〔Kr.,Meiningen;Ge6ffnet=Di”bisSo・naChvorherigerAnmeldung(Einreise
indasGrenzgebietistnurmitSondergenehmigungm6glich)〕
高 木 文 夫 104 この他ズール県には県都ズールから南東の国境近くのアイスフェルト(Eis− feld)にリアリズム時代の劇作家で小説家のオットー・ルートヴィヒの記念館 がある。 アイゼナッハ(Eisenach) アイゼナッノ、はエアフルト県に属する。この町は自動車工業の町として名高 いが,音楽家バッハの生まれた町として,またルターがこの町のラテン語学校 に学んだこと,後にこの町のはずれにあるヴアルトブルクの古城に逃れ,城内 にこもって新約聖書のドイツ語訳をし,ドイツ近代文学の礎を据えたことも有 名であ(⇒ハレ県)またドイツ文学に関心を持つ者にとってヴアルトブルク城 が中世の「ヴアルトブルクの歌合戦」の舞台だったことは見逃せない。 フリッツ・ロイター=リヒアルト・ヴ7−グナー博物館(Fritz隅Reuter∼Lund
Richard−Wagner−Museum)
この博物館はヴアルトブルクの登山道の入口にある。2人のうち低地ドイツ 語作家フリッツ・ロイターの博物館がここにあるのは奇妙に思われるかも知れ ないが,博物館に使われている別荘風 の建物は1866年から1868年にかけて 建てられたもので,ロイターが最晩年 を送ったところである。8つある部屋 のうち4つに当時の家具が据えつけら れ,ロイターの書斎はオリジナルな状 態に置かれている。他の4部屋にはロ イターの生涯と作品を伝える絵や資料, 同時代のものを中心にした作品の挿絵, さらにはロイター自身による20枚以上 の絵が展示されている。(¢シュター ヴュンハーゲン) 一方,間借り人のような形になって 写真13‖ ロイター=ヴァーグナ一 博物館内部いるヴァーグナー(1813−1883)の方がヴアルトブルクの麓にある博物館とし てはふさわしいように思えるかも知れないが,ヴァーグナー自身はロイターほ どこの土地と申開わりはない。約6千冊の蔵書から成るヴァーグナー・コレ クションは1895年あるヴァーグナー愛好家が購入して,ここへ落ち着いたもの で,規模はバイロイトのそれに次ぐ。