はじめに
清末東文学堂についての一考察
ー中国人設立の東文学堂と日本語教育を中心に一劉 建 雲
清末中国人の本国における日本語学習の場として中心的な位置を占めたのは、東文学堂と呼ばれる 日本語学校である。 東文学堂に関する研究は、最初に実藤恵秀の『中国人日本留学史稿』(1八『中国人日本留学史』(2)など に見られる。その中で、実藤は中国人日本留学のもう一方の半面史として清国傭聘日本人教習(教師) のことを取り上げ、さらにそれを「彼国自身で学校を作り、日本人に教授に当らんことを請うたのに 応じて、年限を予約して彼国に渡つて行った」ものと、「日本人にして自ら彼地(清国)に学校を興し て、彼国子弟の教育に身を投じた」ものとの2種類にわけて論じている点が知られる(3)。彼は後者を「日 本人開設の学校」と称し、福州東文学堂、杭州日文学堂、泉州彰化学堂、天津東文学堂、魔門東亜学院、 南京同文書院、金陵東文学堂、北京東文学社などの学校をその具体例として列挙した。 近年において実藤の日本人教習の研究を継承•発展させた研究には、中国では ‘i王向栄の 『日本教習』(4) があり、日本では阿部洋の『中国の近代教育と明治日本』(5)や「清末中国の学堂教育と日本人教習一明 治後期教育雑誌等所収記事・論説の分析ー」(6)及び阿部を代表とする近代アジア教育史研究者達の精力 的な研究の成果である『日中教育文化交流と摩擦ー戦前日本の在華教育事業』(7八『お雇い日本人教習 の研究ーアジアの教育近代化と日本人一』(8)などがある。その多くは、東文学堂を在華日本人教習の活 動の一環として位置づけている点では実藤の研究と大差がない。 近代アジア教育史研究者の一連の共同研究の中で、もっぱら東文学堂の問題を取り上げているのは 佐藤三郎の「中島裁之の北京東文学社について」(9)と中村孝志の「東亜書院と東文学堂一台湾総督府華 南教育施設の濫腸ー」(JO)及び細野浩二の「清末中国における<東文学堂〉一明治末日本の教育権収奪の 理論をめぐる素描ー」(11)である。サブタイトルに示されたように、これまた中国近代教育に対する明治 日本の果たした役割や明治日本の対華教育工作にポイントが置かれ、議論の焦点は日本の対華教育事 業という側面に絞られている。その結果清末に現れた東文学堂の実態の全容についての考察は行われ ておらず、「東文学堂」という概念もまた曖昧なままである。その問題意識は19世紀末から 20世紀半ば に至る 50年の日本の対中国政策の展開という文脈の中で東文学堂の教育を位置づけようとする枠組み から発するものと考えられる。 しかし、東文学堂は現在の言葉で言い換えれば日本語学校であり、それがその時代を生きた中国人の日本語学習の要求から発し、その場として機能したことはいうまでもない。事実のこの側面を無視し、 日本語学習の主体の側の視点を抜きにして明治日本の対華教育活動の成功と失敗を論じるのは一面的 に失するおそれがある。本稿ば清末、とりわけ中日甲午戦争(日清戦争)以降設立された今日知られ ているすべての東文学堂を考察対象とし、その設立の背景、設立と運営の主体及びそこに展開された 日本語学習・日本語教育の実態を明らかにし、その盛衰の意味を捉え直そうとする筆者の研究の一部 であり、とりわけここでは中国人設立の東文学堂に焦点を絞って考察する(12)0 ー 東文学堂についての概観 1 東文学堂の概念 本論に入る前に、「東文学堂」の概念をまず明確にしておく必要がある。細野は前掲の論文の中で実 藤の研究を踏まえ、実藤の言った「日本人開設の学校」を十分な検討を加えないまま「東文学堂」と 総括している。「日本人開設の学校」は文字通り日本人が「自ら彼地」で興した学校のことであり、そ の意味において実藤が挙げた上記の諸学校の外に、上海英学院(13)のような英語学校や、上海日本尋常 高等小学校(l4)のような日本人居留民の教育を行ったものも含まれるべきである。特に後者のような日 本人居留民のための学校は民国に入るとその数がおびただしく増えてくるので、日本人開設の学校= 東文学堂という概念設定では厳密さに欠ける。 ここで、中国人の日本語学習の場としての「東文学堂」を次のように改めて定義しておきたい。即ち、 東文学堂は中国人を学習の主体・教育の対象とし、 主に日本語教育あるいは日本語を通して普通教育 を行う、日本人又は中国人が設立した学校のことである。そうすれば、前述の実藤・細野両氏が挙げ た南京同文書院(15)は20世紀の20年代までは専ら日本人留学生の教育を行ったものであるから、東文学 堂からも日本が中国人のために設けた学校からも除外することになる。 この概念規定のもとに東文学堂の考察を進めることによってはじめて新しい事実がより鮮明に見え てくる。この概念によってとらえられる東文学堂の全体像を次に示す。 2 東文学堂の概況 上述の概念規定の下に、諸先行研究を踏まえ、筆者が明治後期の教育雑誌に載った関係記事や外務 省史料及び中国側の資料を調査した結果をもとに、東文学堂を設立・運営パターンによって整理する と表1のようになる(16)。清末の東文学堂は基本的に中国人設立と日本人設立及び中日共同設立の3種 類があった。この整理に基づいてそれぞれの概況を以下に述べる。 (1) 日本人設立の東文学堂 日本人設立のものには個人経営と団体経営の2種類があったが、純粋に国家経営のものはない。義 和団事件後、西洋諸国が賠償金から一部を出して清国における教育事業に投資したのに対し、明治
表1 清末の東文学堂 戸 人 設 立 個 人 清 末 の 東 文 学 堂
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中 日 共 同 設 立 中 国 人 設 立 海 ﹁ 日 清 英 学 堂 ( 1 8 9 8 ) 上 ー 留 学 高 等 予 備 学 校 (1905 津 ﹁ 東文学舎 7 1 8 9 8 ) 天 日 出 学 館 (19oo ・ 1 1 1 紳 孵 I I 資 堕 広 安 江 北 上 州 ユ 東 徽 蘇 京 海 東 四 嶺 東 淮 東 東 茄 川 東 文 安 文 文 予 東 同 学 東 書 学 備 文 文 堂 文 館 社 学 学 学 ^ 学 ^ ^ 校 堂 堂 1堂 1 1 ^ 1 1 1 9 1 9 9^
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ー 東 亜 同 文 会 広 州 東 文 学 校 (1899.811900) 不 明 蘇 州 東 文 学 堂 (19011 日本の内部でも清国から領収すべき賠償金の中から「其一部を割きて」「清韓地方にある邦人設立の教 育事業」に充てるという提議もあった(17)が、「対支文化事業特別会計法」の成立によってはじめて義和 団賠償金が民国中国に対する教育文化工作に充当された 1923年までは、極度な「財政困難」によって それが実現されなかったことは、細野も指摘したところである(18)。日本人設立のものでは個人経営の 数が最も多く、東文学堂全体の三分の一をも占める。それらは主として北京・上海・天津の 3大都市 に集中していた。団体経営のものには本願寺系統のものと東亜同文会系統のものがあり、前者は 5校 もあるが、全て福建・浙江・江蘇の3省に分布している。それに対し、後者は広州東文学校1校しか なく、 しかも翌年南京同文書院など同会の対華事業の展開によって経費の都合上地方の各支部が撤去 され、該校もわずか数ヶ月で閉鎖されてしまったのである。東亜同文会設立の学堂は1校だけだったが、 東亜同文会は広東嶺東同文学堂をはじめ多くの東文学堂に無報酬で教習を派遣していた。このことは、 中国における日本語学校設置の必要性を最も早く主張した同会が「財政的能力の限界から日本教習を 多派する方途」を余儀なく取らされたと細野が指摘していることを裏付ける(19)0 同時代に京師大学堂師範館総教習を担当していた服部宇之吉は、「是まで清国で日本人の経営して居 る学校もあるが同文書院を除くの外は皆一私人の力なので、従つて規模も小に設備も不完全で成績は 上らぬ」結果を招いたとこの種の学校を批評し(20)、この服部の言葉が後の研究者が東文学堂を論じる時に影響を受ける権威的な評価となっている。しかし、表1に示したような状況を見れば、服部の話 ぱ必ずしも当時の実態の全容を反映したものではない。日本人設立の東文学堂は全体として「成績は 上らぬ」ものであったとしても、決して「同文書院を除くの外は皆一私人の力」によるものではなかっ た。
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中日共同設立の東文学堂 福州東文学堂・北京東文学社・慶門東亜書院の3校は、近代中国教育への明治日本の働きかけとい う視点から成された今までの研究において、いずれも日本人開設の学校として取り上げられてきたが、 筆者の調査では、実はその設立の当初から全て中日共同設立の形で設けられているのである。福州東 文学堂の場合、運営管理の主導権は始終中国側に握られていたからこそ、順調に清朝の新教育体系の 中で正規の学堂へと変身を遂げることができたのである。北京東文学社の創設者といわれる中島裁之 でさえ、当時学社の本当の責任者である簾泉総理(校長に相当)の当局への報告書の中では総教習の 任に過ぎなかった。後に中島は自らの献身的な行動と学堂事業への非常な執着によって中国側の信頼 を失わずに学堂の管理権を握るようになり、簾泉も一身上の都合はあれ徐々に学社から手を引くよう になったのである(21)。最も残念なのは慶門東亜書院のことで、日本側が自ら演出した慶門事件なるも ので共同設立者の中国側を裏切り (校舎は上陸した日本陸戦隊の司令部となった)、地元の人々の反感 を買って、それ以後は中国人のための教育という役割を殆ど果さずに終わったことは中村孝志の考察 した通りである(22)。この共同設立の東文学堂の設立・運営・管理の形と実態については、さらに調査 と議論が必要とされるものである。 上述したように、日本の対華教育事業という視点からなされたこれまでの研究の中では、中日共同 設立の東文学堂に関するものが最も多く、日本人設立の東文学堂もある程度研究されている。それに 対して、 学習者側の主体性が最もよく反映できる中国人設立の東文学堂のほうは殆ど取り上げられて おらず、具体的な事実関係すら確定されていない。日本人設立と中日共同設立のそれについての具体 的な考察と議論は別稿に委ねる(23)が、本稿では以下中国人設立の東文学堂を中心に時代の動きに沿っ て考察を進め、これまで確定されなかった事実関係を確認したうえで、そこに展開された日本語教育 の実態を明らかにする。 二 中国人設立の東文学堂 東文学堂の最初のものは中国人設立の上海東文学社である。それは「最初の東文学堂」として注目 されてきた福州東文学堂よりも半年近く早かったのである。このことは東文学堂の出現はまず中国人 の日本語学習の要請から発したことを意味すると言える。 甲午戦争以後、ロシアがフランス・ドイツと連合して日本に遼東半島の返還を迫りつつ(即ち「三国干渉」)自ら旅順・大連を占拠したことによって、日露の対立は日増しに先鋭化していった。一方、 遼東半島返還についてのロシアの真の狙いを見抜いた清朝は、康有為等の改良派を中心に「ロシアを しりぞける上策」として日本との連携を図り、変法維新の手本を日本に求めようとして、ここから中 日は急接近するようになった。こうして、近代中日関係史におけるいわゆる「黄金の十年」(24)を迎える ことになったのである。東文学堂は正にその気運に乗って生まれたものである。 中国人設立の東文学堂をより詳しくまとめると表2のようになる。 表2を見ればわかるように、設立者代表の欄には江康年(25)や羅振玉・察元培など変法維新運動に積 極的に関与し支援した人物の名が多い。中でも甲午戦争後の台湾割譲に反対して抗日活動を組織し、「台 湾 民 主 国 」 と い う ア ジ ア 初 の 民 主 国 を 創 立 し た こ と で 知 ら れ て い る 丘 逢 甲 の よ う な 人 物 が い た こ 表2 中国人設立の東文学堂 校名 形式 設立者代表 設立(存在)年 閉鎖(改組)年 改組後の校名 *上海東文学社 紳雛 羅振玉・、/王康年 1898.3 1900(義) *北京東文書館 紳孵 察元培・劉樹屏 1898.6 1898.8 淮安東文学堂 紳雛 羅振玉•談観孫 1899.2 1900(義) *安徽東文学堂 紳雛 李 鴻 章 呉 汝 綸 1899 1900(義) *広東嶺東同文学堂 紳雛 丘逢甲•楊守愚 1900春 (1907) 官緋となる *協立四川東文学堂 紳雛 周善培 1900.4 1900.8 蘇州東文学堂 不明 嗚守之 (1901) *保定公立東文学堂 官立 1903.4 (1994.10) 直隷師範学堂に合併 *成都東文学堂 官立 1903.12 (1905夏) 沸学予備学堂 雲南東文学堂 官立 1904.10 (1907) 方言学堂 資州東瀦予備学校 紳雛 靡子波 1904 参考資料一覧表: ①井原鶴太郎「淮安東文学堂の概況」『東亜同文会報告』 10明治33.9.1 ②井手三郎「上海来信(淮安学堂に付)」『東亜同文会報告』 6明治33.5.12 ③南京留学生「南京来信(淮安東文学堂現況)」同上 ④「四)IIノ学事」『東亜同文会報告』 79明治39.6 ⑤東亜同文会絹『対支回顧録』下原書房 1968 pp.771-772 ⑥察元培『察元培文集』巻十三・「日記」錦繍出版事業股伶有限公司 1995 P.280 ⑦朱有職主編『中国近代学制史料』ニ・下華東師範大学出版社 1989 PP.535-536 ⑧陳濠涛主編『四川近代史稿』四川人民出版社 1990 P.408 尚、*印が付いている学堂に関する典拠は、本稿の三、四の部分で示す。 典ヽ 拠
①
⑥ ⑦④
とは特に興味深い。さらに、安徽東文学堂は敗戦後の中日講和交渉で/青国側の代表を務めた李鴻章の名を以て設けられたことから、敗戦が支配者に与えた衝撃の大きさが窺える。李は1895年維新派主宰 の強学会に義捐しようとして断られたが、洋務をめぐる戦争前後の李の思想の変化も興味深い。 東文学棠は「欽定学堂章程」という近代的学制が頒布された1902年8月を境目に、それ以前には「紳 雛」と言われる私立のものだけであったものが、それ以降は官立のものが目立つようになる。さらに 黄興等が日本へ留学に行く前、 1901年9月から翌年5月にかけて集中的に日本語を学んだという湖北 省武昌県華林の今では校名さえ確かめられない学校(26)や、重慶の東文速成学堂(27)をも考えれば、当時 同種の学校が数多く存在したことが想定できる。これらの学校は地域的に北京・上海のような大都市 から、直隷・江蘇・安徽・広東・四川・雲南・湖北など広い範囲に分布していた。 1902年以前の「紳雛」東文学堂の中には上海東文学社や北京東文書館のように日本語の訳書教育を 行うために創立した学堂もあり、江蘇淮安東文学堂のように最初から「東文で普通教育を施す」(28)ため に創ったものもあった。つまり、近代的学制が成立する前の東文学堂は、和書を通して西洋文明を摂 取するという維新派の急務に応える一方、中国における近代教育の先駆としての役割をも果たしたわ けである。その多くは義和団事件の影響でまもなく閉鎖されてしまったが、設立者達は事件後の西太 后の「変法上諭」 (1901.1)によってもたらされた新しい教育の気運に乗って本格的な近代教育事業に 献身していく。 近代的な学制が確立してから、「東文で普通教育を施す」ような東文学堂は大量の日本人教習の傭聘 によって成り立った多くの普通学校に取って代わられ、「東文学堂」も徐々に現在の日本語学校や留日 予備学校のような本来あるべき日本語学校の姿に成りつつあったのである。 三 中国人設立の東文学堂に関する研究のいくつかの問題点 1 察元培が上海東文学社の創立に参与したという説について 『日本留学精神史』(岩波書店、 1991)という著書で大仏次郎賞を受賞した中国人研究者厳安生は「梁 啓超、王国維、察元培与日語」という論文の中で、察元培は上海東文学社の創設に関わり、しかも王 国維などの生徒達と一緒にそこで日本語を学んだと述べている(29)0 周知のように、察元培は近代中国教育の先駆者の1人であり、彼の生涯における教育と哲学の理論 は近代ヨーロッパの学問に根ざすものが多い。しかし、その近代思想の受容が日本語の学習から始まっ たという点はあまり知られていない。もし厳安生の説が正しいとしたら、上海東文学社は開講後わず か2年半の間に察・王の2大学者がそこに学んだということになり、そのことだけでも近代中国教育 における該学社の意義は相当大きいものだったことになる。こうした問題意識に基づいて該学社の調 査に当たったところ、どこにも察元培が関わったという事実は見出されなかった。 前述の如く、上海東文学社は『農学報』(30)の主宰者羅振玉らによって創立された清末中国における最 初の東文学堂である(31)。明治31年2月の『東亜学会雑誌』に載っている該「東文学社社章」にはその
発起人として羅の外、『農学報』の同人である蒋繭や『時務報』館主
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王康年及び秋裸賢、邸憲の名も記 されている。しかし、察元培の名はない。資金の運営や教習の招聘及び社内の日常事務の処理を担当 するのは、「社紳」(学社に50圏以上寄付した人は社紳という)に選ばれた理事と「社章」に決められ ているが、それには邸子蕃という人が当たっていたようである(32)。趙万里『王静安先生年譜』によれば、 創立の当初は学生が少なく「同学(王国維の同級生)僅六人」であった(33心『王静安先生年譜』に記さ れた王国維の「同学」には沈絃、奨柄清があり、それは蔭山の論文に述べられた「開設当初、同校に 学んだ中国人学生は、王国維、陳胎範、奨柄清、沈絃、呉爾易、胡溶康、薩端の7人」(34)ということと 一致している。しかし、察元培の名はない。ちなみに、該学社は義和団事件(1900.6)によってわずか 2年半で閉鎖の運命を迎えた(35)0 そもそも厳安生の説はどこから来たのであろうか。前掲の彼の論文によれば、「察元培伝略」に基づ くとされる。察元培が口述した「伝略」には確かに「甲午戦争以降、朝廷の人が争って西学を談論し、 オ民も始めて翻訳書を読むようになった。1898年彼は友人と協力して東文学社を創り、和文書を読む ことを習った」とある(36)。しかし、筆者の考察では、以下に述べるようにそれは上海東文学社のこと でなく、北京東文書館のことである。 1897年初、すでに翰林院編修を授けられた崇元培は、朝廷の定期的な昇格試験である「大考」を受 けるために京師に赴き、恰も「維新自強」の気風が高まる時期に当たって、そこに全国各地から集まっ た翰林学士と日々新時局のことを論じ、新思想を貪るように吸収した。察の「日記」における1897年10 月17日(旧暦、以下は同じ)の記述によれば、「西文(英仏独語のこと)の書籍は値段が高く、その肝 心なものは日本に訳本があり、日本文に通じればひろく西文の書籍を読むことができる。西文は 3、 5年学ばなければ通じることができないが、日本文は簡単で半年でいい」とある。このような考えから、 彼は友人と「擬闘東文書館」、つまり「東文書館」の設立を計画した(37)。翌年6月、京師城内最初の日 本語学校が羊越賓胡同江寧試館というところに誕生したのである(38)。この「日記」に記された「東文 書館」は上記の「伝略」にある「東文学社」と同一のものであることはすでに察建国によっても指摘 されている(39)。教師は当時の外務部左丞・奉天交渉使を務めた陶大均で、日本人を妻として日本語に 精通する人物であるが、陶はまもなく「以日本続議租界事」で天津に赴き、その代わりに野口多内を 推薦した。生徒には察元培本人の外、協同設立者の劉樹屏(40)父子と王書衡、唐文治、許文勲、王紹堪、 黄思永、呉陰培などがいた。維新変法はまもなく失敗し、西太后の反動的なクーデターに怒った察は 離京したため、書館はわずか2ヶ月で解散してしまった。 帰郷した察はまもなく故郷の紹典中西学堂の校長に就任し、前掲の「日記」によればその仕事は少 くとも妻王氏がなくなった1900年5月までは続いたと考えられる。また同年の8月からは紹興より百 キロほど離れた練県というところにある剖山・ニ戴2書院の仕事を主宰し始めているので、「上海東文 学社の創立に参与し、しかもそこで生徒と一緒に日本語を習った」ということはあり得ない。2 野口多内が保定東文学堂で日本語を教えたという説について 上述の北京東文書館で察元培らを教えた野口多内は後に東京博覧会 (1914)での日華貿易参考館の 開設で有名な人物となっている。彼が中国で経験したもう一つの日本語教師の事例について、東亜同 文会編『続対支回顧録』下巻は次のように記している(41)。 唄治) 三十二年君(野口多内)は保定の蓮池書院院長呉汝綸に招かれ、同書院に附設せられた 東文学堂の生徒50余名に東文を教授し、傍ら呉汝綸に師事して漢籍を研鑽する事となった。後年 の陸軍中将薩換、天津検察庁長廉偶、民生部次長孫培等は当時君から東文の教授を受けた俊オ中 の鉾々たる者で、彼等は何れも北清事変後東京に留学し、各々その器を成すに至ったのであるが、 君が東文学堂に披つて日本の文明を北支那に注入したる功績は特籠すべきものであり、候に君を 以て最初の第一人者とせざるまでも、勘くとも君は此方面に於ける最も古き功労者の一人である。 つまり、野口は北京東文書館に次いで、 1899年から保定にある呉汝綸主宰の東文学堂で日本語を教 えていたということになる。 また、佐藤三郎は「中島裁之の北京東文学社について」という論文の中で、野口が上記の東文学堂 に就任した経緯について次のように述べている。1898年呉汝綸の蓮池書院に留学中の中島裁之が「呉 が保定に設立を考えていた新式の農工学校」の計画立案に協力するよう依頼を受けた。翌(明治32) 年帰国中の彼は呉から例の学校がいよいよ開設の運びに立ち至ったことを告げ、年500円の俸給でこの 学校に勤務してほしい旨の手紙を受け取ったが、勤めるとすればどうしても助手を 1人連れていきた いと助手の給与のことで呉と交渉し、話がつかずにいるうち北京に在留していた野口が就任した(42)0 つまり、佐藤も野口が保定にある東文学堂で教鞭を執ったとしている。 しかし、 『桐城呉先生尺贖』 (1904)に収められている呉汝綸の野口宛の手紙によれば、野口が就任 したのは保定の東文学堂ではなく安徽東文学堂であったことがわかる。その手紙には安徽東文学堂の 「章程」が付録として付けられている(43)。既述の如く、安徽東文学堂は李鴻章の名を以て呉汝綸が設 けたものである。その「章程」によれば、校舎は李鴻章の淮軍公所に設置し、資金は淮軍公所により 教習の年間俸給四百金を提供し、他の支出は大令輯謡軒によって義捐するという形になっていた。学 堂は専ら「院中後進」を育成することが趣旨とされていたので、生徒の募集は安徽省人が主な対象であっ た(44)。広州同文館の東文館と同じように、生徒の課業は「中学」と「東学」に分けていながら、「中学」 は生徒各自が自宅で学び、学堂では「東学」だけの授業を課した。そこで目指した「東学」は現在に 言う「日本学」のことではなく、「日本所謂普通之学」である。ただ、「此時方立初基、不能躁等、応 先従言語文字入門(この時基礎ができたばかりなので飛躍はできず、まず言語文字から始めるべきだ)」 と「章程」が主張しているので、野口は義和団事件で北京に避難するまでの1年足らずの間、ほぼ日 本語だけを教えていたのではないかと考えられる(45)0 『続対支回顧録』が何に依拠してそう書いたのかは明らかでないが、佐藤は主として中島裁之の 『東 文学社紀要』に拠っているので、それに当たって確認した。同 『紀要』によれば、中島が呉の相談に
乗りだしたのは確かに「農工学堂開設」の件であるが、ただそれは「保定に設立」することを考えた ものではなく、「郷徒の為」に設立を考えたものである。呉は安徽省の出身で、たまたまこの時「帰南 静養」しようとしたからであった(46)。 ちなみに、保定公立東文学堂は1903年4月直隷師範学堂(47)内に併置開校されたもので、中国で初め て制服を定めた学校として知られている(48)。学制は2年で、生徒は卒業後選抜を経て日本に留学する チャンスが与えられていた。日本語の教師は北京東文学社の経験を持った剣持百喜の外もう 1人いた が、 1年後は東文学堂が師範学堂に合併され、剣持らも辞めていく。その代わりに児崎為槌が合併後 の東文専修科の専任教習として1904年10月に赴任している(49)0 3 四川省のいくつかの東文学堂について 四川省は内陸でありながら、清末に日本人教習を雇った人数は各省のなかで「屈指の位置」にあっ たという(50)。四川省における日本語学習は沿岸の各省に後れをとらないほど盛んであった。最初に四 川省の東文学堂の問題に言及したのは前掲実藤の 『中国人日本留学史稿』 [1939]であるが、その中の 「日本教習分布表」に清国お雇い日本人教習の活躍の場として「協立四川東文学堂」が挙げられ、教 習の欄に中島裁之の名がある。
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王向栄の「日本教習分布表」は実藤のそれを増補したものだが、成都 の学堂の欄には「東文学堂」と「東洋予備学堂」の二つの日本語関係の学校名が紹介されている。教 習として前者には中島裁之、後者には服部操 • 徳永熊五郎・大野現の名が記されている(51) 。 i王の挙げ た「東文学堂」は紛れもなく実藤の言った「協立四川東文学堂」のことであるが、「東文学堂」と「東 洋予備学堂」はまたどういう関係なのであろうか。 四川省出身の郭沫若の 『少年時代』という自伝の一部の中には次のような記載がある。一番上の兄 は成都の東文学堂に入り、そこで1年間勉強してから留学生として日本に派遣されることになってい た。東文学堂の教習はいうまでもなく主に東洋人 (日本人)で、甲辰(1904)年の夏休み兄は服部操・ 河田喜八郎(成都高等学堂教習)という 2人の東洋人教習を伴って峨眉山を遊覧し、帰りに寄り道を して郭の自宅に 3日間泊まった。郭沫若は服部操(中国語音はfubucao)を「仏菩薩」 (fopusa)といい、 河田喜八郎 (hetianxibalang)を「河田稀把爛」 (hetianxibalan、「稀把爛」はまた「物が砕けてめちゃ くちゃになる」という意味がある)といって、時々彼らと話しに行き、「瓦塔苦西 (watakuxi)」 .「阿 那打 (anada)」. 「薩約那羅 (sayaonaluo)」などの言葉を覚えた。驚いたことに、これらの東洋人は 非常にケチだった。彼らの持っている油絵模様のビスケットの缶がほしくて、兄に教わった日本語を 用いて請求したが、発音がだめだったのかそれとも兄の日本語が下手だったのか、結局くれなかった。 後に「仏菩薩」という人は、兄が教えた日本語は長くてよくない、子供に教えるときは中国語の発音 に近いものから教えるほうがいい、例えば茶碗を「Chawan」、椅子を「Isu」などと言ったので、教わっ た日本語が全く通じなかったわけでもないようだ。東洋人の到来によってわれわれ田舎の風気もだい ぶ開け、特に父はそれから生卵を食べるようになった(52)0ここでは、郭沫若の兄が学んだ成都の「東文学堂」は中島の勤めていた東文学堂かどうか、そこに 出た日本人教習の名はなぜ
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王向栄の挙げた「東洋予備学堂」のそれと重なってしまうのかが問題になっ てくる。表1を見ればわかるように、当時の教育事情で同じ都市にほぼ同時に日本語関係の学校が二 つも存在し、しかもそれが同じ教授陣に教わるということは不自然である。 前述したように、中島裁之が教鞭を執った協立四川東文学堂は 1900年 4月に始まったものである。 しかし、それは義和団事件などでわずか百十余日で「廃類スル」に至ったと中島が自ら記している。 2年後、四川候補道王談が北京東文学社経営中の中島に再び成都に来てほしいという旨を伝えたが、 中島は東文学社のことで身を引くことができず、学堂は結局再典できなかったようである(53)。したがっ て、郭沫若の言った成都の「東文学堂」は中島が勤めていた「協立四) 1│東文学堂」ではあり得ない。 さらに調査した結果、i
王向栄が記した「東洋予備学堂」は、実は「東洋予備学堂」という校名のも のではなく、「溜学予備学堂」という校名のものであることがわかった。「湘学予備学堂」の前身は中 西学堂という官立学校であって、元々英仏両語を教えていたが、数年経ってもさして「成績の見るべ きもの」がなくしばらく閉校し、 1903年12月服部操の着任を待ってまた「東文学堂」という校名で再 スタートしたのである(54)。郭沫若の 『少年時代』に記録された東文学堂はこの学堂の事と考えられる。 「東文学堂」の校名で再スタートした該学堂は最初から「卒業後官費を給して日本に留学せしむる」 という東洋留学予備校の性質をもったこともあり、 1905年夏、従来の日本語教育の上さらに英仏独の 3語及び普通学を加えて名も「湘学予備学堂」と改められた(55)。つまり、中島裁之が教えていた「協 立四川東文学堂」は 1903年以降の「成都東文学堂」とは異なり、 1903年以降の「成都東文学堂」は後 の「滸学予備学堂」と同一のものだったということである(56)。 ちなみに、成都東文学堂、即ち後の滸学予備学堂で教えた日本人教習には江向栄の挙げた服部操・ 徳永熊五郎・大野環の他、木田鋲次という人もいた。ただ、徳永は華陽中学堂、木田は製革公司にそ れぞれ籍を置いていたので、東文学堂では兼任として働いたと考えられる(57)。当時四川省に日本人教 習が多かった事を、郭沫若は前掲の 『少年時代』の中で日本の「皮匠師個まで招いて来た」と椰楡し ているが、その「皮匠師侮」は木田のことではないかと思われる。 四 中国人設立の東文学堂における日本語教育 1 中国人の日本語学習の動機 前にも述べたように、清末の東文学堂は変法維新の気運に乗って誕生したのである。梁居実という 維新派の人物が1899年10月嶺東同文学堂(58)の主な発起人である丘逢甲に宛てた手紙の中で東文学堂を 創る必要性を説いた根拠には3
点ある(59)。第1
は、日本は「同洲同種」の国であり、その国力はオー ストリア・イタリアを超え、 ドイツとフランスの中間にあるので、隣国間の交際を図ろうとすればま ず連絡すべき対象となり、交際しようとすれば、必ずその言語文字に通じなければならない。つまり、中日交際の必要性と交際のための日本言語文字理解の必要性の認識である。第2は、「西文」を習うの は幼年からでなければならないのに対して、東文の場合は成人になってからでも学習できる、西文に 通じるのは7、 8年もかかるが、東文では 1、 2年あれば通じることが可能である。つまり、中国人 の学習者にとって東文は学びやすいという認識である。第3に、西書の肝心なものは大体日本人に訳 されているので、東文を以て西文に通じるのが早道だという認識である。 梁居実の認識は先に挙げた察元培の意見と同じく、当時の中国人の日本語学習及び東文学堂創設の 動機を示している。特に西洋諸言語より日本語のほうが学びやすいという点は当時においてほぼ共通 の認識となっていた。戊戌政変後日本に亡命した梁啓超は1899年 2月の 『清議報』において「論学日 本文之益」という文章を発表し、「日本文を習い日本の書物を読んだ」最初の数ヶ月の喜びを「如幽室 見日、枯腹得酒(暗室に日を見、空腹に酒を得た如し)」と述べている。彼が日本と中国の数十年来の 近代化のプロセスを比較して次のように指摘したことは知られている。つまり、中国では「西学」を 治める者が少なく、訳書は「兵」や「芸」の面に偏っていて、「兵」や「芸」は専門的且つ複雑で、す べての学を捨てるほど専念して勉強しなければ名を揚げることができないし、社会風気の開化にはあ まり役立たない。それに対して、日本では明治維新後の有用な訳書や著書は数千種を下らず、なかん ずく政治や経済、哲学、社会学などの「経世之学」が詳しい。日本の学は西欧から来たもので、それ が西書をすべてしかも間違いなく訳したものというわけではないが、中国人が「西文」を習うのは5、 6年もかかるのに対して、日本文の場合は「数日而小成、数月而大成(数日にして小成があり、数ヶ 月にして大成がある)」。日本文を習えば「日本之学、已尽為我有突(日本の学問は悉く我がものとなる)」。 したがって、彼は英語を習う前に日本文を習うことをあまねく中国人に勧めたのである。 明治期の日本語について、当時の中国人は口語を「東語」又は「日本語」といい、文章語を「東文」 又は「和文」、「日本文」と言って区別していた。日本語学習といっても、前掲梁啓超の文章によれば、 「日本語を学ぶ法」と「日本文を作る法」及び「日本文を学ぶ法」の三つがあり、梁のいわゆる「数 日而小成、数月而大成」というのは最后のほうを指すもので、つまり「日本文」を学び日本書を読む ことである。「日本文を学ぶ法」は「已通漢文之人(すでに漢文に通じる人)」に限られ、成人の学習 に適している。 短時間で日本文を習得し日本書が読めるようになるということは、梁啓超のみならず当時多くの知 識人に日本語を学ばせた主な理由であった。 2 基本的な教授法 以上のような学習動機によって、教師の指導は日本文、つまり文章語に即した速成的なものとなる ことが決定づけられる。その主流となる教授法は以下の二つあった。 (1) 和文漢読法 前掲梁啓超の文章によれば、「日本文漢字居十之七八。其専用仮名。不用漢字者。惟脈絡詞語助詞等
耳(日本文には漠字が7、8割を占め、専ら仮名を用いて漢字を用いないのは接続詞や助詞の類に過 ぎない)」。「将其脈絡詞語助詞之通行者。標而出之。習視之而熟記之(接続詞や助詞などよく使われる ものを取り出し、それらを常に見てしっかり覚え)」、さらに「実字が先、虚字が後ろ」(60)という語順を 転倒して読む方法を理解しておけば「スムーズに本を読むことができるようになる」という。これが 梁のいわゆる「和文漢読法」である。彼は自ら 『和文漢読法』 という本を編集しており、それは当時 の日本語教育に大きな影響を及ほしたと言われているが、残念なことにこれを見たという研究者は中 日いずれにもいない。 梁の体裁を見倣って呉啓孫という人により編集された 『和文釈例』(北京華北訳書局1902年刊、実藤 文庫に蔵本がある) という本があり、それは厳安生の「中国日語教育草創期初探」という論文でも注 目されている(61)。この 『和文釈例』からわれわれは「和文漢読法」の基本的な方法を理解するための 有力な手がかりを得ることができるので、その中の第1篇「元日記」の一部を図1の如く複写・紹介 しておく(62)0 図1の内容から本文だけを抜き出 すと次の通りになる。 鶏磐暁キヲ報ジ。禁門悉ク開 ク。措紳百官。衣冠ヲ整へ。履 新ヲ賀ス。馬車絡騨。往来織ル ガ如シ。庶人モ。亦衣ヲ鮮カニ シ。履ヲ新タニシ。相訪フテ。 互二。吉利語ヲ道フ。昌平ノ美 観。蓋シ此日二在リ。 中間に挟んだ割注の意味を要約し て言うと次のようになる。つまり、 ①「暁」「報」「悉」「開」「整」「賀」 「鮮」「訪」「道」「蓋」「在」等の字 の後ろの日本文字は皆語尾で意味が ない。和文の文法には語尾変化とい うものがあって、意味表現の微妙さ は皆そこにあるが、漢文とはあまり 関係ないので、初心者は無視してよ い。②文の中の「ヲ」という字は「斡 旋之詞」で、最も重要である。和文 は漢文の語順と反対で、和文を読む 図1 『和文釈例』の一例
元日記
鶏
磐
暁
キ
ヲ
報
ジ
゜
麟
翡
鰐
翌
懇
謡
蜂
謬
躙
鰐
疇
●
翻
丘
建
炉
贔
認
鰐
暫
葬
鰐
必川ヲ字以幹旋之。亦定例。凡阻和文。遇有ヲ字。知其下之漢字。必嘗在其上 一 字 之 上 也 。此句キ字ジ字。為 暁字報字之尾昔。棄之不誤。其ヲ字幹旋。常将句末報字。移於暁字之上。故評成漢文。即為鶏翌報暁四字。禁門悉ク開ク。麟謬認穀
0摺紳百官。翡鰭霰囀忌罪辺麟崎鱈
0 2衣
ヲ字幹旋。へ字不続如上例。凡漢字下有緊附之尾昔。皆在虚字。宵字則無有。故鶏性禁門衣 冠ヲ整へ°冠等字下並無之。虚字下所以附以尾昔者。以其尾昔之字名随文法変化而無一定。日本謂之 語尾変化。其文法微妙。全在此等。然於漠履新ヲ賀スヲ字幹旋。ス字尾昔。日本文法。有名詞。有動 文 無 甚 関 係 。 初 学 讃 者 。 可 以 置 之 不 理 也 。 0 詞。名詞即賓字。動詞即虚字。凡ヲ字幹旋之翌
詰
疇
記
蒜
闘
。
一
蝶
蒻
認
翡
翌
翠
遠
墨
嗜
計
0馬
車
絡
畔
゜
麟
゜
往
来
織
ル
ガ字頓逗之詞。凡句中忍行頓逗之虞。則用ガ字。シ字如字之尾昔。而如字。和文 1 廿 2^
ヘ
モ
モ
ヵわ刃 ‘ ‘ / 0 用之。常在句末。其義較漢文為賞。如言某某之如。即漢文之所謂如某某者也。 0 即 ヲ 字 幹 旋 。 力 字 鮮 字 尾 昔 。 鮮 衣 新 履 . 本 濶 名 臨 . 亦 衣 ヲ 鮮 カ ニ シ ° 而 此 虞 川 之 。 意 謂 塁 塁 其 衣 . 則 鮮 字 成 為 動 詞 . 亦 字 之 意 。 往 往 句 下 復 用 亦 字 。 即亦有不復用者応以其意已具也.和文秤例
4 り 1 : . , ; \ ー 桐城表届朴林絆 時「ヲ」の字があればその下の語を上の語の前に移すとよい。③「テ」は動詞の後ろに来て下の文につながり、漠文の「而」の意に相当する。④「ノ」は「之」の意である。⑤「二」は「中」の意があり、 使い方は「ヲ」とほぼ同じで、「斡旋之詞」でもある。訳す時は「ヲ」と同じく、下の語を上の語の前 に持っていく。「ヲ」は動作を表す意があるのに対して、「二」は場所を表す意味がある。従って、上 記の和文を漢文に訳すと次の通りになる。 鶏磐報暁。禁門悉開。措紳百官。整衣冠。賀履新。馬車絡騨。往来如織。庶人亦鮮衣新履。 相訪互道吉語。昌平之美観蓋在此日突。 原文に照らせば漢字を一つも漏らさなかったことがわかる。こういう「一辞を漏さず」のような「和 文漢訳」は当時の日本においても広く推裳されていた(63)。ただ、そこに取り上げた「和文」は本当の 意味の和文ではなく、日本語の中の「漢文」である。 ところで、そもそも「和文漢読法」は梁の発明ではない。早くも梁が日本に亡命する前の1898年7月、 当時北京東文書館で日本文を習っていた察元培はその「日記」に「刺取日本字書中虚字(日本語文章 から虚字を取り出し)」、「依字母先後以末字類緊之(それらを仮名順にまとめて覚える)」という記録 を残している(64)。察らが最初に日本文を教わったのは陶大均という中国人教師であったし、日本文を 習い初めてから 1間後に「日本小文典序」を試しに訳していることから、その「和文漢読法」に近い やり方は教師の陶から教わったものではないかと思われる。 1899年以降は梁啓超の自らの影響力によって「和文漢読法」が急に中国の日本語教育の現場で広がり、 察元培が前後して勤務していた紹興中西学堂や上海南洋公学においても、 1901年から日本文の代わり に「和文漠読法」という科目が取り入れられている。特に南洋公学の場合は察が自ら日本語学習の指 導を担当していたので、彼の話によれば「私は日本語はしゃべれないが、日本の文章を読むことがで きた。それで学生に日本文を読む方法を教え和文書を訳させ添削を加えた」という(65。) この時、察は 手元に唐宝鍔・敗麓輩著 『東語正規』(作新社、 1900)を含む数冊の日本語学習書を持っていたが、彼 が最も推賞したのはやはり 『和文漢読法』という本であった。 つまり、「和文漢読法」はある程度日本語がわかるようになった中国人によって工夫された一種の速 成的な教授法であり、初期の段階において特に中国人の日本語教師によく使われた。 (2) 漢文和訳法 厳安生は前掲「中国日語教育草創期初探」 [1994]という論文の中で、田岡嶺雲が上海東文学社で教 えたのは和文漢読であり、中島裁之が北京で教えたのも和文漢読であった、当時中国の知識人に日本 文を教えた日本人は「漢学之士」が多く、彼らは元々和文漢読だけに長じていたが、日本語を教える ことはできなかったと言っている。厳が何の資料を根拠に田岡や中島が中国で教えたのは和文漢読だっ たと言っているかは不明であるが、日本人教師が和文漢読だけに長じていたというのはどうも違うよ うである。 上述したように、北京東文書館で最初に察元培らに日本語を教えたのは中国人教師の陶大均だった が、後には日本人の野口多内が彼に代わっていた。『察元培文集』巻十三・「日記」によれば、野口が『論
語』や『韓非子』を和訳し「虚字文法」の注を付して教授に使えたという (66)。 中西学堂の時代も察元培は校長でありながら自ら生徒と一緒に東文班の中川外雄という日本人教師 について日本語を習い続けていた。中川は最初に読本だけを以て教授していたようだが、 1ヶ月後は「以 先ー小時授読本一課、限第二日黙写、以後ー小時訳漢文為東文、以討文法(先に1時間の読本を授け てそれを翌日に空で書かせるように課し、後の1時間は漢文を東文に訳すことを指導して以て文法を 習得する)」ように調整された(67。) これは北京で野口の教授を受けた察の要求に基づいた調整ではない かと思われるが、漢文和訳を以て文法を習得したということは意外であった。 当時「漢文和訳」という教授法を使ったのは決して北京東文書館や紹興中西学堂だけでなかった。 1898年 9月に創設された福州東文学堂で総教習をつとめた岡田兼次郎も、最初から日本の小学読本を 教材に使いながら、「漢文和訳」の指導をしていた。下記の問題と答案はその翌年行われた学年試験に 出たもので、これを通して「漢文和訳法」が一体どういうものだったかをおおよそ突き止めることが できる(68)。 問 不 可 不 飲 茶 答茶ヲ飲マザルベカラズ 問 使 吾 不 所 楽 答 吾レヲシテ楽ヲ聞カザラシム 問 秦 将 伐 楚 答秦将二楚ヲ伐タントス 問 吾 未 学 諸 侯 之 礼 也 答吾レ未ダ諸侯ノ礼ヲ学バザルナリ 問 不 飲 酒 也 答酒ヲ飲マザルナリ 問 可 不 読 書 哉 答書ヲ読マザルベケンヤ 問 謀 動 干 文 於 邦 内 答 邦内二於テ千文ヲ動カサン事ヲ謀ル 問 斉侯使公子無肪師帥戌曹 答 斉侯公子無肪ヲシテ師ヲ帥ヒテ曹ヲ戌ラシム つまり、野ロ・中川・岡田らが教えたいわゆる「漢文和訳」は、実は漢文訓読だったのである。こ うして、教師と生徒が共に熟知した 『論語』や 『緯非子』のような漠文古典を教材に使えば、日本文 の基本的な文法構成が習得できるのみならず、意味説明の苦労も省けることになる。 よく考えればわかるが、日本の「漢学之士」が得意なのは「和文漠読」ではなく、「漢文和訳」、つ まり漢文訓読だったはずである。「和文漢読法」のほうはむしろ中国人あるいは中国語が相当堪能な日 本人の教師でなければうまく使えないのではないかと思われる。しかし、この時代中国に行った多く の日本の「漢学之士」は筆談で現地の中国人と交流していたことが大量の史料に記録されている。岡 田兼次郎は「最も北京語に熟達」した人と言われるが、彼の出した試験問題文の中国語に文意の通じ ない箇所が多かったという点から、当時の日本人教師の多くは「和文漢読法」よりも「漢文和訳法」 を使ったことが考えられる。 野口の場合から考えれば、教師の経験がなく、勿論中国人に対する日本語教育とは何か全く見当も 付かない当時の多くの日本人教師にして、生徒の「功を急ぐ」という心理を読みとり指導上の便宜を図っ て「漢文和訳」、つまり漢文訓読を教えた例は少なくなかったであろう。直隷師範学堂に合併された保
定公立東文学堂(合併後は東文科という)で教えていた児崎為槌は、国語教育の面で相当の経験と業 績を積み重ねたベテランの教習であり (69)、中国人に対する日本語教育については初めての経験だった と言いながら、彼独自の見識を確かに持っていた。しかし、彼が教えたのも同じく「漢文和訳」であっ た。それについて「棒読みにて立派に分る漢文を訓点を附して読ましむるは誠にかわいそうだ」等と 彼が自ら漏らした言葉から、彼の「漢文和訳」の指導はむしろ強要されたものではないかとも思われ る(70)。つまり、日本人教師の教授法の取捨において雇傭者の立場にあった中国側の意志が強く働いた ことが考えられる。 「和文漢読法」にせよ「漢文和訳法」にせよ、いずれも訳書が目的でしかも速成を図るという変法 維新の必要性に応えて生まれた音声言語を抜きにする教授法であり、その使用には学習者が漢文に通 じることが条件とされる。逆に淮安東文学堂のような、十歳前後の児童を対象とし「専ら東文で普通 教育を施す」ことを目的とする学校では、当然ながら日本文よりも日本語に指導の重点が置かれ、教 授法も音声言語に配慮してより着実な「翻訳法」や「直接法」を取ることになる。 むすび 小論は清末中国人が設立した東文学堂を中心に、これまで確定されなかった具体的な事実関係を考 察し、その設立の背景や中国人の日本語学習の動機及びそこに展開された日本語教育の実態を明らか にした。 中日甲午戦争以後、遼東半島の返還や膠州湾事件をめぐって中日関係は急接近するようになった。 一方、甲午の敗戦を食わされた清朝は康有為等の改良派を中心に、亡国の危機を救おうとして変法維 新を図りその手本を日本に求めた。東文学堂は正にこの気運に乗って生まれたものである。 「維新救国」という切迫した使命を背負った大勢の中国知識人がこの時日本語を学ぽうとした主な 理由は、「同文」と言われる日本語が中国人にとって西洋諸言語より学びやすく、日本語を習い日本書 を読むことを通じて西洋文明を摂取することが捷径であるということであった。明治期の日本語は言 文離れが激しく、特に文章語の7、8割以上は漢字であった。それに着目した中国人の日本語教師は 教育の速成を図り「和文漢読法」という音声言語を抜きにした教授法を工夫し、創出することになる。 一方、さまざまな目的で中国にやってきた日本人の多くは教師の経験がなく、勿論外国人に対する 日本語教育とは何かについて全く見当も付かないままで日本語教育の教壇に立つのである。まともな 中国語も話せない彼らは、生徒の文章語目当ての学習動機に応え、教師と生徒が共に熟知した 『論語」 や 『韓非子』のような漢文古典を利用していわゆる「漢文和訳」、即ち漢文訓読を指導した。この事実 が実証できたことは、清末中国で急激に興隆した日本語教育の実態を解明する上で重要な意味を持っ ている。漢文訓読ならば、日本文の基本的な文法構成が習得できるのみならず、意味説明の苦労も省 けるので、授業中教師と生徒の間を隔てた言語障害がさほど問題にならない。その指導法が意外に効 率が高かったためか、教師側が中国人に対する日本語教育に慣れ、生徒側もじっくり日本語(日本文
ではなく)を習う余裕が生じたはずの1905年になっても、日本人の教師はなお「漢文訓読」の指導を 雇傭者から強要された。しかしながら千年も前から日本人が中国文明を取り入れるために工夫した漢 文訓読法が、近代において逆のプロセスで中国人の西洋文明の摂取に再利用された点はまことに興味 深い。 注 1 実藤恵秀『中国人日本留学史稿』日華学会 1939 2 --『中国人日本留学史』くろしお出版 1960 3 前掲実藤 [1939]pp.140-141 4 f王向栄著•竹内実監訳『清国お雇い日本人』朝日新聞社 1991 5 阿部洋『中国の近代教育と明治日本』福村出版 1990 6 --「清末中国の学堂教育と日本人教習一明治後期教育雑誌等所収記事・論説の分析ー」 『福岡 県立大学紀要』第7巻第1・ 2号 1998・ 1999 7 ー一編『日中教育文化交流と摩擦ー戦前日本の在華教育事業』第一書房 1983 8 『お雇い日本人教習の研究ーアジアの教育近代化と日本人ー』『国立教育研究所紀要』第115集 1988.3 9 佐藤三郎「中島裁之の北京東文学社について一近代日中交渉史上の一鮪として一」『山形大学紀要 (人文科学)』 7-21970 10 中村孝志「東亜書院と東文学堂一台湾総督府華南教育施設の濫腸ー」『天理大学学報』第124輯 1980 11細野浩二 「清末中国における〈東文学堂〉一明治末日本の教育権収奪の理論をめぐる素描ー」 前 掲阿部編 [1983] 12 本稿は阿部洋主宰の近代アジア教育史研究会によって行われた共同研究の成果である『近代日本 のアジア教育認識』(平成6・ 7年度文部省科学研究費催念合A〉による研究成果、目録篇と研究報 告書がある)に教示・示唆を得たところが多い。しかし筆者が本稿で新たに掘り起こした事実と提 起する見解があるので先行研究者の指正を乞う次第である。 13 明冶43年9月設立、百武思計太の個人経営。 14 元は親愛舎といい、 1902年に開尊小学校と改称、更に1907年より現在の校名に改められた。小島 勝「アジアの日本人学校一第2次世界大戦前の動向と性格ー」(アジア教育史学会1999年度年次大会 発表資料)に詳しい。 15 後に東亜同文書院と改称、従来の研究は日本が中国人のために設けた主な学校として取り扱って きた。 16 ( )は該学校の創立と閉鎖の時期を示し、「義」はその閉鎖は義和団事件によること(以下は同 じ)。なお、そこに記された各学校に関する創立時期や設立・運営の形態などについて、研究は勿論 のこと、当時の史料にも食い違いがあった。ここでは、箪者の考察と判断に基づいて表1を作成し
たが、それとなる根拠や問題点については各論において論ずることとする。 17 「北清事件に関する清国償金に就て内閣諸公に望む」『教育時論』 588明治34.8.15 18 前掲細野 [1983] P.64 19 前掲細野 [1983] pp.60-61 20 服部宇之吉「支那人教育に対する所見」『中央公論』第24年3号 明 治42.3 21 中島裁之『東文学社紀要』北京東文学社刊 1907pp.4-5 22 前掲中村 [1980] 23 中日共同設立の東文学堂について、筆者は「清末中国人の日本語学習と東文学堂ー福州東文学堂 を中心に一」と題し、「アジア教育史学会1999年度年次大会」 (1999年7月29日、国立教育研究所で 開催)において口頭報告した。論文を近く発表する予定である。 24 川尻文彦「i王婉著 『清末対日教育視察の研究』」『中国研究月報』 6141999 25 『時務報』館主。『時務報』は1896年8月黄遵憲・梁啓超.
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王康年らが創刊した20ページほどの旬 刊誌で、 当時「変法」運動の機関誌的な役割を果たした。 26 陳英オ「両湖書院憶聞」『文史資料選輯』 34中国文史出版社 1986P.96参照 27 陳漏涛主編『四川近代史稿』四川人民出版社 1990P.408参照 28 井原鶴太郎「淮安東文学堂の概況」『東亜同文会報告』 10明治33.9.l 29 厳安生「梁啓超、王国維、察元培与日語」『外語教学与研究』第2期 1986PP.38-39 30 創刊は1897年5月、停刊は1906年1月。創刊当初は半月刊だったが、次年度より旬刊となっている。 内容には日本の農学研究書や農学関係論文及び日本の各種新聞雑誌に掲載された農業関係記事の翻 訳が多い。その訳者には日本人の古城貞吉と藤田豊八が招かれたことが知られている。 31 該学社の創立時期については、『東亜学会雑誌』第2編第2号(明治31.2)に載っている「東文学 社社章」の後書きにこの学社は「旧暦正月より開学すべきにつき志願者は正月十五日迄に農学報館 に申出べし」とあるので、開学は西暦の 3月前後と想定できる。その設立の動機について、同「社章」 は①「因将来中東交渉之事必繁而通東文者甚少故」、②「因訳書訳報動須遠聘故」、③「中東人士語 言不能相通将来遊歴交接種々不便故」の 3点を挙げているが、その直接のきっかけは「訳書訳報動 須遠聘」という『農学報』の経営で感じた不便によるのではないかと考えられる。開校当初は専ら 東文を課していたが、後に訳書に必要な算術や代数・幾何など自然科学の科目も加わっている。教 師は最初湖北自強学堂の氏名不詳の中国人教習と『農学法』の訳者を務めていた藤田豊八の2人で あったが、翌年学生が急増したため、田岡嶺雲が増聘され、さらに当時在上海日本領事館副領事諸 井六郎と同館書記船津辰一郎も無報酬で社内で日本語を教えていたという(番黒莫栄宗撰「羅雪堂 先生年譜」羅振玉『羅雪堂先生全集』初編大通書局 1986P.8704)。 32 唐振常主編『上海史』上海人民出版社 1989P.334 33 前掲『羅雪堂先生全集』 [1986] P. 8703による。 34 陰山雅博「江蘇教育改革と藤田豊八」『国立教育研究所紀要』第115集 1988P.4135 『王国維文集』第三巻中国文史出版社 1997pp.470-471 36 察元培口述・黄世暉記「伝略(上)」(北京大学新潮社編『察オ民先生言行録』上 1920所収)に「自 甲午以後、朝士競言西学、オ民始渉猟訳本書。戊戌、与友人合設ー東文学社、学読和文書」とある。 (ここでは 『察元培文集』巻ー・「自伝」錦繍出版事業股扮有限公司 1995pp.119-120による) 37 『察元培文集』巻十三・「日記」上錦繍出版事業股伶有限公司 1995P.94 38 同上 P.124 39 察建国『察元培与近代中国』上海社会科学院出版社 1997P.73 40 字裸良、江蘇武進人、当時翰林院検討、その後上海澄衷学堂総理となっている。 41 東亜同文会 『続対支回顧録』下巻原書房 1973pp. 381-384 42 前掲佐藤 [1970] pp. 23-24 43 手紙の内容は次の通りである。 野口先生執事:前輿散友挑石泉談及擬設東文学堂。其後、石泉自京来書盛称執事、並謂執事不郡 棄下走、可来教習。当経復書謂已遠招散友中島、中島不来、即欲奉屈執事。已而中島因在貴国雛理 同文書院、不能遠来、因託廉恵卿部郎代致鄭沈、又嘱孟祓臣宮賛続為勧駕、其応読之書、亦由恵卿 転請代購、何日光臨、不勝姓肢之至。不具。 附録東文学堂章程(抄) ー、此学堂為李偲相創立、提淮軍公所歳脩余款四百金為教習修膳。此外有韓謡軒大令歳捐裸支 零款、専以造就院中後進、望諸生努力響学、勿負前輩教育盛心。(以下省略) (ここでは陳学拘主編 『清代後期教育論著選』上人民教育出版社 1997pp. 466-468による) 44 本省人の定員20名の外、外省人からも「附学」生(授業料が必要)として10名を募集すると上記 の「章程」に決まっているが、『続対支回顧録』は野口が「生徒50余名に東文を教授し」たと述べて いるので、誇張がなければ応募の人が予想以上に多かったのではないか。 45 前掲東亜同文会 『続対支回顧録』下巻 [1973] P. 382によれば、「義和団匪の起るに会し、呉汝綸 及び君(野口)の身辺危険を呈するに至ったので、呉汝綸と再開を約して東西に別れ」、呉は深州に 避難し野口は「北京公使館に逃げ販つた」。事件後、野口は公使館の命令によって参謀本部戦史編纂 委員陸軍大尉斉藤徹男・鈴木義任の通訳として中国東北地方の調査に出かけているので、学堂はそ れ以降閉鎖されたのではないかと思われる。 46 前掲中島 [1907] P.1 47 直隷師範学堂については、 1902年3月直隷総督哀世凱の要請に応じて、元北京東文学社の教員で あった剣持百喜が同学社の学生 3名を連れて牧野田彦松と共に顧問として当省の学務司に赴任し、 一連の暫定的な学校規則を作成したのがその始まりである。師範学堂の正式の開校は同年の5月と 見なされている(阿部洋「清末直隷の教育改革と渡辺龍聖」 『国立教育研究所紀要』 1151988参照)が、 9月から 10月にかけて渡辺龍聖以下の日本人顧問や教習一行十数人が直隷省の招聘に応じて着任し た。大量の日本人教習を傭聘した直隷師範学堂がたちまち言葉の障碍にぶつかったことは想像に難
くない。そのためか、翌年翻訳局総弁王景藉が自ら学堂の提調を兼ねて剣持百喜を中心に東文学堂 を設けることにした。(典拠:前掲中島 [1907] pp. 39-45、77-82、93-94) 48 前掲実藤 [1939]P.167 49 典拠:①渡辺龍聖「清国直隷省教育状況」『教育界』 3-14明治37.10 ②楽浪生「児崎君の清国に之くを送る」『教育研究J 7明治37.10.1 ③児山奇人(児崎)「保定府における天長節祝賀式」『教育研究』 9明治37.12.1 ④厳修撰、武安隆・劉玉敏点注『厳修東遊日記』天津人民出版社 1995pp. 221-235 50 石橋生「東華学堂」 『燕塵』4-7明治41.7.30 51 江向栄『清国お雇い日本人」朝日新聞社1991pp.83-125 52 郭沫若 『少年時代』 1947年刊(『沫若文集』第6巻人民文学出版社 1958pp. 40-43所収) 53 中島裁之「四川紀行」 『東亜同文会報告』 13明治33.12及び前掲中島 [1907] P.1、P.57参照 54 和田喜八郎「和田喜八郎の清国通信」『教育』 49明治37.3.3 55 和田喜八郎「四川音信」『教育実験界』17-6明治39.3.25及び豊岡茂夫「四川の新教育」『教育時論』 782 明治40.1.5による。 56 四川省は1901年初めての官費日本留学生を派遣して以来、日本留学が一時ブームとなり、全省の 百余県は「繁昌の区」か「辺郎の地」かを問わずすべて留学生の派遣があり、最も多いときは二三 千人にものぼったという (前掲陳 [1990]P. 408)。既述の如く、留日予備学校のような学堂は資州 には「東湘予備学校」、重慶には「東文速成学堂」などもあり、校名に紛らわしいところがある。 57 難波常雄「巴蜀雑記(二)」『國學院雑誌』 13-5明治40.5.15 58嶺東同文学堂に関する年譜 1899年10月 梁居実が丘逢甲に手紙を出して東文学堂の設立に賛成するよう丘を説得 同 年 冬 丘が東山・景緯2書院の教職を辞任し、学堂の創設に着手 同年 12月 「創設嶺東同文学堂序」が 『知新報』第107冊(1899.12.3)に掲載 1900年3月初 丘は学堂のことを温仲和等に頼んでシンガポールやインドネシアヘ視察 同 年 春 学堂が潮州で開校、熊沢純之助・山下稲三郎が教師として招かれる。 同年6-8月 義和団事件で、学堂が臨時休校 1901年 6月 学堂が再開、校舎は油頭に移す。丘は学堂監督、温は総教習を担当 1902年 4月 日本人教習は熊沢一人になっている。 1903年 初 温は潮州府金山書院山長に転じ、同院山長何寿朋が学堂総教習になる。 同年 丘が学堂監督の職を離任 1907年 学堂が官雛となる。 典拠: ①山下稲三郎「油頭短信 (10月13日)」『東亜同文会報告』 12明治33.11
②山下稲三郎「腹門地方の形勢と油頭学堂の状況」 『東亜同文会報告』20明治34.7.1 ③某氏報「油頭通信 (4月29日)」『東亜同文会報告』 31明治35.6 ④熊沢純之助「油頭通信」『東亜同文会報告』 32明治35.7 ⑤熊沢純之助「油頭通信 (12月25日)」『東亜同文会報告』39明治36.2 ⑥熊沢純之助 「油頭通信 (4月14日)」『東亜同文会報告』 42明治36.5 ⑦丘晨波等編『丘逢甲文集』花城出版社 1994 ⑧徐博東 ・黄志平 『丘逢甲伝』北京時事出版社 1996 ⑨劉健明「丘逢甲与嶺東同文学堂」呉宏聡 ・李鴻生編 『丘逢甲研究』広東人民出版社 1997 59 原文は次の通りである。「東洋同洲同種,其国勢亦超出奥、意之上,而介在徳、法之間;欲択隣交, 首宜聯絡;欲資聯絡,必通其語言文字。故近年北京、舅東同文館皆添設東文一門。況学習西文,須 在幼年,東文則年長者亦可学;欲通西文,必須七、八年,東文則不過ー、二年而可通。又況西書之 要旨,大抵皆経東人訳出,是東文者実借以通西文之捷径也。」 (梁居実「与丘仲関論潮嘉設東文学堂書」『梁詩五先生遺稿集』台湾出版。ここでは前掲徐・黄 [1996]pp.141-142による) 60 実字は主に名詞を指し、虚字は動詞、形容詞等を指す。 61 厳安生「中国日語教育草創期初探」 『中国日語教学研究文集』 5吉林教育出版社 1994 62 実藤文庫所蔵のテキストは複写すると判読しにくくなるため、ここでは前掲厳 [1994]P. 381に掲 載されたのを借りた。なお、テキストに照らして「往来織ルが如シ」を「往来織ルガ如シ」と訂正 しておく。 63 干河岸桜所「漢文和訳和文漢訳の二標本」『日本人』 1901.11 64 前掲『察元培文集』巻十三 P.128 65 察元培「我在教育界的経験」 『宇宙風』 55・561937・1938(前掲『察元培文集』巻ー PP.217-218所 収) 66 前掲 『察元培文集』巻十三 P.127 67 前掲 『察元培文集』巻十三 P.172 68 問題と答案は1899年9月『太陽」5-20に載った小山松寿の「腹門通信」による。同記事には福州 東文学堂のことが紹介され、学堂が開校してから一回目の「学年試験問題及答案」も載せられている。 問題は「文典」、「漠文和訳」、「書取」、「暗記」、「言語用法」の五つからなり、ここで引用したのは その中の「漢文和訳」の部分である。答案は試験で首席を以て「日本派遣留学生候補者」に選ばれ た林槃という学生のものである。 69 国語教育における文法の教育がまだ十分重要視されていない明治後期において、児崎はすでに西 洋諸国の国語教育を研究し、日本語文法指導の必要性を唱え、独自の指導案・指導法を工夫して「小 学校に於ける文法教授の一例」という成果を『教育研究』第6号(明治37.9.1)に発表している。 70 永井勇助「直隷省保定府通信」『教育時論』 714明治38.2.15