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香川県の農地改革
辻
唯 之
第一次農地改革から第二次農地改革へ 戦後日本と第一次農地改革 敗戦の年,食糧危機と空前のインフレが日本 を襲った。都市では勤労者の生活は破綻し,労働運動が急速かつ広範に進展し た。農村では戦時中からつづく強権供出に対して農民たちの不満が噴出する一 方,工場閉鎖による失業者や復員,海外引上げ者などの大量帰農で食糧不足が 深刻化した。こうした状況のもとで,農地改革の実施を懸念する地主たちの土 地とりあげが激増した。農林省の推計によると,地主による土地とりあげは終 戦の日からむこう 1年間に25万件にものぼり,その l割が争議として表面化, うち 4割が地主側の勝利に帰したとし、う。香川県の場合,昭和22年 7月までの 地主による不法な土地とりあげ件数は 4千件に達した。他方,強権供出と土地 とりあげに対する闘争を通じて農民組合が再建され,その組織化が急速にすす んだ。日本農民組合香川県連合会の結成は 21年 5月29日のことであった。 このような緊迫した食糧危機と体制的危機に直面した日本政府は,食糧危機 に対処し社会安定を実現すべく連合軍に先がけて農地改革構想をうちだした。 20年 12月 4日に第89帝国議会に上程され十た『農地調整法改正法案』がそれであ る。のちの第二次農地改革案に対してこれを第一次農地改革案とし、う。第一次 (J) 本稿は戦後香川の農業お主び漁業の変遷を考察するにあたっての第l意にあたる。今後,以下 の要領で発表の予定である。 第2iji:戦後土地改良事業の進展と用水問題 第3章 戦 後 農 政 の 展 開 一一基本法農政から減反政策へ一一 第4章 変 貌 す る 香 川 の 農 村 第5章 漁業制度の改革と戦後の漁村 第6章 戦 後 漁 業 の 変 遷-90ー 香川大学経済論議 782 農地改革案は,地主勢力の側からの強い抵抗にあって難航L,あやうく審議未 了になりかけたところを同年12月9日のマッカーサーの「覚書」と大衆運動の 激化としう外圧にうながされて,地主寄りに骨抜きにされながらようやく修正 可決した。その内容は,不在村地主の小作地はすべて強制買収の対象とするも のの,在村地主の小作地はおおよそ全国平均で
5
ヘクタールまで保有を認める というゆるやかなもので,しかも隣接市町村在住者も在村地主とみなされた。 第一次農地改革案にしたがって在村地主の保有地を5ヘクタールまで認めた 場合,小作人に開放される農地は旧来の総小作地250万ヘクターノレのうち95万 ヘクタールにしかならない。地主 l人あたりの保有面積が3..6ヘクターノレとき まった香川県の場合,強制譲渡の対象となる小作地は3,000ヘクターノレで,こ れは総小作地2万9,000へククターノレに対しわずか10%程度にすぎない。この ような不徹底な小作地開放に対L,21年1月11日の『香川日日新聞』も「三町 六反はなお過大」と題して「改正法(注一一『農地調整法改正法案』のこと〉 の根本の狙いとする士地の再配分からさらに農奴開放への飛躍的措置の実現と いう封建制度打破の理想郷へ達するには道甚だ遠しの感を深くさせられる」と 論評した。 はたして第一次農地改革案はGHQ(占領軍最高指令部〉の認めるところとは ならなかった。日本の軍国主義の基盤をとりのぞき日本の社会を民主主義社会 にっくりかえるための地主制解体一農地改革としてはきわめて不十分である, というのがGHQの認識であった。こうして, w改正農地調整法~ (第一次農地改 革〉は21年2月に施行されたが,小作料の金納化と農地価格を決定したままで 農地委員の選挙をおこなうこともできず,したがって農地の強制譲渡を実行す ることもなく,いわば幻の改革として挫折したのである。 第二次農地改革法の制定 第一次農地改革に対する内外の不満が高まるな か,政府は第一次農地改革案を断念し,あらためて第二次農地改革案にとりく まざるをえなくなった。そしてこの第二次農地改革案を構想するにあたって主 導的立場にたったのがGHQであった。 第二次農地改革案は地主制解体と自作農創設という点で第一次農地改革案と783 香川県の農地改革 -91-くらべてはるかに徹底した内容のものとなった。その骨子は,つぎの
2
点であ る。 (1) 地主からの農地の買収・小作人への売り渡しは政府の手でi
直接これをお こない(国家賃収方式),地主と小作人同士の譲渡・取得は認めない。 (2) 不在村地主の小作地はすべて買収,在村地主の小作地保有は認めるが, その保有限度面積は全国平均で lヘクタール(北海道4ヘクタール)と する。 農地改革の実施にあたって『自作農特別措置法~ (以下, w白創法J
と略〉と 『農地調整法~ (以下, w農調法』と略〉が昭和21年10月21日に公布された。こ の二法がこれから実施される農地改革の法的根拠となる。『白創法』は農地の 買収・売り渡しを中心とする自作農の創設に,w
農調法』は耕作権の保護,小作 料統制ならびに農地委員会にかかわる。 農地改革の機構 市町村農地委員の選挙 農地改革二法案が公布された翌月の11月6日,農 林省はこれからはじまる改革事業実施の中央本部となるべき農地部を設置した。 同日,この農地部の地方出先機関として全国に6つの農地事務局も設置された。 香川県の農地改革事業の指導と監督にあたるのは岡山農地事務局である。1
8
臼 には各府県で戦前来農地問題にかかわってきた農地係を大幅に拡大して農地課 が設けられた。『香川県農地改革三年史~ (以下『三年史』と略〉はその模様を 「一九四五年(昭和二十年〉七月四日の朝まだき,空襲によって灰燈となった 県庁は,当時唯一の焼残りの鉄骨洋館,高松市の県立女学校に間借りの事務所 をもっていた。新しく独立した農地課はそこの講堂のー遇をしきってあたふた と居を構えたのであった」とのべている。この手ぜまで不便な仮事務所での農 地課の最初の仕事は市町村農地委員会の選挙であった。 香川県下171市町村の農地委員の選挙は21年12月20日に実施された。選挙に あたっては選挙制度としてはわが国はじめての階層別選出方式が導入され,地 主層から 3人,自作層から2人,小作層から5人,計10人の委員が選ばれた。村-92- 香川大学経済論叢 784 域がおおきいために地主委員ならびに小作委員をそれぞれ
1
名増やした傘礼村 や由佐村などのような村もあった。また昭和1
5
年に5
つの村を合併した高松市 の場合は,旧市街地の高松と古高松・木太・太田・屋島・鷺田の旧村をそれぞ れ1
地区とする6
つの農地委員会が設けられている。 農村民主化の試金石ともいうべき農地委員の選挙であったが,選挙の実施状 況は『四国新聞~(
2
2
年1
月3
1
日〉も「思わしい民主投票が出来なかった」との べているように,かならずしもかんばしいものとはいえなかった。第l
に無投 票委員会の数が過半数を超え,第2
に棄権率も20%
をうわまわった。全国的に も選挙結果は同じような状況にあった。戦前来長きにわたって地主階級に隷属 と屈従を強いられてきた農民大衆が自己の権利に目覚めるにはまだ日も浅く, また「上から」推進された農地改革の限界といえよう。 ところで,市町村農地委員会の構成メンパーには農地委員のほかに専任書記 と部落補助員がし、る。専任書記は農林省一県庁の指導系統につながっており委 員会の事務中椋である。農地二法の正確な理解とその具体的適用において高い 事務処理能力が要求される専任書記のポストには引揚げや復員で帰農していた 若きインテリたちが就任した。香川県の市町村農地委員会の専任書記も大半は2
0
歳台で,たとえば高松市農地委員会高松地区の専任書記9
名は年齢の最高が3
8
歳,最低が1
9
歳,平均2
5
歳という若さであった。委員会の実地調査に協力す る部落補助員には村と士地の事情にくわしい部落の年長者が部落ごとにl
名選 ばれてその任にあたった。村域が広く部落数もおおい由佐村では36名もの部落 補助員が活躍した。 県農地委員会と中央農地委員会 市町村農地委員の選挙につづき,県農地 委員の選挙が2
月2
5
日におとなわれた。県民地委員会も市町村農地委員会と同 様階層別に,地主1
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人,自作4
人,小作6
人で構成される。このほか知事が推 薦し農林大臣が選任した5
人の中立委員がメンパーに加わった。会長は知事の 兼務であった。『三年史』に掲載の「香川県農地委員当選者名簿」によると,小 作委員も自作委員もほとんど全委員が社会党員や農民組合の幹部たちで,県農 地委員会は市町村農地委員にくらべてずっと政治色の濃いものとなった。県農785 香川県の農地改革 -93-地委員会の主要な任務は, (1)市町村農地委員会が作成した買収計画の承認, (2) 市町村農地委員会の決定を不服とした訴願の裁決, (3)未墾地買収計画の作成な どであった。 都道府県農地委員会の選挙に
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カ月遅れた2
2
年3
月2
6
日,中央農地委員会が 組織された。農地改革遂行上の基本的な諸問題を審議決定することが中央農地 委員会の任務で,そのメンバーは全国から選ばれた1
6
名の農民代表者2
名の 全国的農業団体の代表者5
名の学識研究者である。農民代表者の委員の中に は香川県三豊郡大野原村の地主で元県会議員の合田公平の名もあった。 ところで『自創法~ (第三条〉によると,(1)在村地主の小作地保有面積は都府 県で平均おおむねl
ヘクタール以内,(
2
)
在村地主が自作地を所有する場合は自 作地に小作地をプラスした面積が都府県で平均おおむね3ヘクターノレ一一-3ヘ クタールをオーバーすればそのオーバーした分の小作地は無条件に開放一一一で引 なければならない。各都道府県の小作地保有面積についてはその決定が中央農 地委員会にゆだねられた。在村地主の小作保有限度面積が決まったのは22年3 月2
8
日の第l
回中央農地委員会であった。農家1
戸あたり経営面積および土地 所有者l
戸あたり所有農地面積を考慮しつつ決定された在村地主の小作保有限 度面積は,経営面積も所有農地面積も狭小な香川県の場合は(1)が6
0
アール,(
2
)
が2
へククタールで,いずれも全国最小位の面積であった。 中央農地委員会のもうひとつの任務は農林大臣が諮問した事項について調査 し審議することであった。この諮問事項中で香川県にかかわるもっとも重要な 事項は「甘土」と呼ばれる慣行小作権の処理であった。以下,この甘土問題に ついて詳述しよう。 慣行小作権としての甘土 戦前の地主制のもとでは農地をめぐる地主一小 作の法的関係はたんに民法上の賃借関係にすぎず,し!たがって小作人の地位は きわめて薄弱で,いつ地主から土地をとりあげられでも対抗できない立場に あった。しかし数少ないケースであったが,耕作者の承諾なしに小作地をとり あげることはもちろん,地主が交替してもこれまでどうりに耕作しつづけるこ とのできる,いわゆる慣行小作権の存在する地域もあった。富山県砺波地方や-94- 香川大学経済論叢 786 愛媛県東部地方とともに香川県もその数少ない地域のひとつであり,しかも戦 前,慣行小作権地帯といえば香川県がその代表であったように慣行小作権の存 在はほとんど県全域にみられたのである。この慣行小作権は「甘土」とよびな らわされてきた。 野村岩夫著『香川勝、下の甘土料に就いて~ (昭和3年)によると,すでに江戸 時代に三豊郡の大野原地方などで町甘士にあたる慣行小作権の発生がみられると いうが,しかし甘士が小作人の耕作権として香川の農村に広く定着するように なったのは大正末期の農民運動以降であった。全国にその雷鳴をとどろかした 香川県農民運動は小作料の減額とともに甘士を耕作権として獲得する戦いでも あったといわれている。 ひとたび甘士が耕作権として確立されるようになると,つぎには甘土それ自 体が小作人の聞で売買されるようになり,さらに小作地の又貸しもおこなわれ るようになる。讃岐地方では小作地の又貸しを「又小作
J
,又貸しの相手を「文 小作人jといい,その関係はつぎのようになる。 地主 一一一(小作料〉一一一ー小作人 小作権者一一(又小作料)一一一一又小作人 この図式のよれば又小作料から小作料を差しヲ│いた残余が小作人の収益であ り,それは小作権を所有することの対価にほかならない。土地の所有と耕作権 の所有の違いはあるが,甘土つきの士地の又貸しをおとなう小作人はまさに 「中間地主」の立場にあった。 甘士がついている農地の場合,所有権そのものの対象となる「底土」の価格 に甘士料を加算したものがその農地の売買価格である。そして理論のうえでは 小作料を資本化したものが底土の価格,又小作料と小作料の差額を資本化した ものが甘土料である。農地改革で問題となったのは甘士など慣行小作権の存在 する小作地の買収価格をどうするか,つまり農地買収にあたって小作権の価格 は農地の買収価格の中にふくまれるのかどうか,ふくまれるのならば小作権の 価格と所有権の価格の割合をどうさだめるのか,という問題であった。いわゆ る甘土権賠償問題である。当然のことながらこの問題は農地を買収される地主787 香川県の農地改革 -95-にとっても農地を売り渡される小作人にとってもきわめて重要な問題であっ た。 慣行小作権の処理 慣行小作権の処理問題ははやくも第
1
聞の中央農地委 員会 (22年3月開催)でとりあげられた。この問題を審議するために設けられ た特別委員会での審議は,京大教授・大槻正男らの報告書c
r
慣行小作権とそ の賠償問題一一香川県下の調査を中心として一一J)にもとづいておこなわれ た。 この報告書によると甘土権賠償の方法としてつぎの3
つの方法が提案されて いる。その第l
は「法定買収価格以外に甘士価格を買収する方法」で,この方 法によれば地主には法定価格が,甘土権者の小作人には小作権補償価格が支払 われることとなる。第2は「賃貸価格又は倍率を増訂することによって甘土権 の賠償を行う方法」で,この方法では高められた買収価格のうちに小作権価格 がふくまれることとなる。この考え方の基礎には慣行小作権地帯の賃貸価格は 小作権あるがために低くおさえられてきたとL寸認識があった。第3
は「法定 買収価格を地主,小作に分割させる方法」である。この方法をとる場合は地主 .小作分収率の算定方法を決めなければならない。 22年5月6・7日に開催の第3田中央委員会は特別委員会からの報告にもと づき慣行小作権の取り扱い方についてつぎのように決定した。すなわち,r
慣 行小作権は小作人の財産であって,農地の公定価格は慣行小作権の価格と所有 権の価格の双方をふくんだ価格である」と。そして公定価格を慣行小作権価格 と所有権価格に分割する比率をどうさだめるかは県農地委員会の決議にゆだね られた。中央農地委員会の決議をうけて香川県農地委員会が決定した地主・小 作分収率の算定方法は,甘土権価格の比率=甘土権価格/ (甘土権価格+底土 価格)もしくは(又小作料一小作料)/又小作料であった。ただし,(1)この算定 方法にしたがって算出された比率といえども,それは10""'-'30%の範囲をこえて はならず,また, (2)土地もしくは甘土を購入してからまだ10年以上経過してい ない場合は当該地主もしくは又貸人である当該小作人に対して 1年以内なら その全額,2
年以内ならその90%といったように購入期聞を考慮した甘土料のc u n 可 JW 香川大学経済論議 788 補償がおこなわれることとなった。県下の市町村農地委員会は,県農地委員会 が示した右の算定方法にもとづき管轄区域内での甘士権価格・底土価格,ある いは又小作料・小作料の高低をみながら買収価格から差し引くべき甘土価格の 比率をそれぞれ算出した。もしその比率が最高の
30%
と算出されたなら,田の 買収価格は賃貸価格の4
0
倍であるからその30%
引き,つまり賃貸価格の2
8
倍が 政府買収価格となる。『三年史』に掲載の各郡政府買収価格倍率表をみると,丸 亀市だけが最高の差し引き率30%
に対応する2
8
倍で,ほかの郡市はほとんどが3
0
倍前後であった。小豆郡は差し引きなしの4
0
倍であるが,これは小豆郡が県 下で唯一甘士の存在しない地域であったからである。 物議をかもす甘土料 このようにしてその取り扱いが決着した甘士料で あったが,地主側には一方的に不利な決着となった。この点,時期はさかのぼ るが,昭和2
2
年3
月に県農地部に宛てて提出した陳情書のなかで三豊郡の地主 たちは「香川県は気候温暖,土地肥沃にして二毛作の上回多く,従って元来比 較的高額の小作料なりしを,先年の小作争議(注一大正期の農民運動のこと〉 の結果,小作料の減額となり,所調地主の犠牲にて甘土料を生じ,今回更に土 地代金より甘土料を差しヲ│く時は,地主は二重の負担となる結果を生ず」と訴 えた。この訴えのように低い農地価格で買収されたうえ,その農地価格からさ らに甘土料分まで差し引かれれることとなった地主層のふんまんはおさえがた し農地改革に対し強い不満を残すこととなった。「物議をかもす甘土料一一 地主負担は酷と撤廃の声しきり一一J
と題して訴訟をおこそうとしている県下 の地主の動向を報じた9月 6日の『四国新聞』の記事もそのような地主層の心 情の一端を物語るものであるといえよう。 一 改革事業の実施 改革事業実施経過の概観 『自創法』第一条に「自作農を急速且つ広範に 創設しJ
とあるように農地改革を短期間になしとげることはGHQならびに日 本政府の基本的立場であり,この立場から昭和23年12月31日が完了の時期とさ だめられた。この2
カ年という短期間での完遂という大目標のもとに改革事業789 杏川県の農地改革 -97-は急テンポですすめられたが,実際に改革事業がほぼ完了したといえるのは
2
4
年末であった。概括すれば22年には買収事務が, 23年には売り渡し事務と経理 事務(対価の支払い・徴収など〉が,2
4
年は登記事務が改革事業の中心課題と なった。以下,買収計画と売り渡し計画についてその全国・香川県の進行状況 を概観しよう。 [買収計画] 農地の第l回買収は22年3月末を期限として実施された。 22年 3月といえ ば,この月に中央農地委員会が組織されて農地改革の機構がようやくととのっ たところであったから,不在地主や大地主の農地買収を除いて買収計画をすす めることはほとんど不可能な状況にあった。にもかかわらず第l
回買収の期限 が2
2
年3
月末となったのは農林省の不退転の決意をしめすとともに,GHQ
の 強い要請があったからである。『農地改革顛末概要~ (以下,w
願末概要』と略〉 によると,香川県の場合,第1
回買収の進捗率はわずか1%
台であった。 第1
回買収は財産税の納付時期と重なった。財産税は現金による納付が困難 な場合は物納も可能とされたため,農地を財産税として納める途を選ぶ地主が おおかった。財産税物納地は大蔵省所管の国有財産として収納されたうえ,農 林省の所管に移した後,市町村農地委員が一般の買収農地とあわせて売り渡し 計画をたてることとなる。香川県の場合, 4,900ヘクターノレの農地が物納され ている。 第2回買収は22年7月 2日が期限であった。期限内に買収を完了するために は,買収計画の縦覧期間,買収計画に対する地主からの異議申立・訴願期間な どを考慮すると 4月中には市町村農地委員会は買収計画を決定していなければ ならない。さらに改革事業を本格的にすすめるとなると, (1)在村地主の小作地 保有面積, (2)慣行小作権の対価,この2点が決定されていなければならない が,(1)については第l
田中央農地委員会の決定を経て農林省から各府県に告示 されたのが4月10日, (2)についての中央農地委員会の決定は 5月であった。だ から第2
回の買収も第l
回同様不在地主・大地主の小作地を対象にするしかな かった。香川県の場合,全開放面積に対する第2
田買収までの買収農地累計の-98- 香川大学経済論叢 790 比率は,
21%
であった。 市町村農地委員会が活動を開始して6
カ月後の第3
回買収(期限2
2
年1
0
月2
日〉にいたってようやく改革事業は本格的買収の段階に入った。買収事務に全 力を傾注するようにとの都道府県に対する日本政府の数次にわたる督励のも と,改革のテンポははやまった。『四国新聞』も2
2
年9
月1
8
日付けの紙面に「買 収事務に拍車一一農地開放年内完了か」と題する記事を載せている。この時点 で香川県の買収実績は開放予定面積の49%
であった。 第4回(期限2
2
年1
2
月2
日)になると改革のテンポはいっそうはやまり,全 国で4
7
万1
,6
3
6
ヘクタールの農地が買収された。買収実績では過去最大である。 香川県の場合,四国新聞が予想した年内完了は無理であったが,農地買収は70%
以上すすんだ。 第5
回・6
回・7
回買収(
2
2
年1
2
月3
日'
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2
3
年1
0
月2
日〉。第5
回以降,買収 はあらたな段階にはいった。農林省の指示にしだ、がって各都道府県農地委員会 % 100 90 80 進 70 60 捗 50 率 40 30 20l
;
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第l
回 図-1 J J J f L 第 2 回,
r / J J ノ 第 3 回 J ノ ノ 買収期別の農地買収進捗率(全国・香川県) , -一" -ー' ,-
-/ 〆 / 第 第 第 4 5 6 回 回 回 貿 収 , 4 -= -~ 第 7 回 期 第 第 8 .. 9 回 回 第 10 回 ー一一一全国 一一一香川県 『農地改革顛末概要~ 235ページより作成1791 否川県の農地改革 -99-はこれまでのように買収面積をふやすだけでなく,今後は一筆の買収もれも許 さない厳格な態度でのぞむこととなった。香川県農地委員会も各地で農地改革 完遂協議会を開催,これをうけて各市町村農地委員会で農地開放促進運動や在 村地主の保有地開放促進運動が展開されたのがこの時期である。第
7
回買収ま でに買収された農地は150万ヘクタールに達した。全買収面積に対する買収累 積面積の比率でみると, 85..6%の農地が買収された。香川県も全国の傾向とほ ぼ同じ86叶6%にあたる農地の買収が完了した。 23年中には第8回, 9回, 10回 と3
回の買収がおこなわれた。図-1
は全国および香川県における買収期別の 農地買収進捗率である。この図からも香川県の農地買収は23年でほぼ完了した といえるが,なおのこる未買収の農地については2
4
年まででほとんどすべて買 収された。 [農地の売り渡し] 日本政府が地主から買収した土地は,財産税物納地や旧軍用地などとともに 耕作者に売り渡される。買収事務におくれて実施となった農地売り渡しの業務 が本格的に着手されたのは23年3月以降であり,しかも政府の指示する完了の 期限は23年末であった。この年の 3月時点で進捗率が10%台でしかなかった香 川県にとって売り渡し業務の年内完了はきわめて大きな負担となったものと忠 われる。 ところで, ~白創法J には買収小作地の交換にかかわる条文がある(二三条・ 二五条〉。買収した小作地を全然交換せずそのまま右から左に売り売り渡した 場合,相手側の地主の事情によって,たとえばある小作人はl
ヘクタールの小 作地を全部買い受けられるのに,べつの小作人は10アーノレの士地も買い受けら れないといった不公平が生じる,そのような不公平を是正して買い受けの機会 公平化をはかろうという主旨の条文である。さらにこの交換をステップにして 農地集団化のための交換分合が実施できれば,農地改革は日本農業の宿命とま でいわれた零細分散錯闘制を克服する絶好の機会となろう。だが現実には長野 県下伊奈郡鼎村などごく小数の事例を除き,期限が2
年にかぎられた農地改革 に当事者相互の利害が複雑に錯綜する交換分合事業を介在させることは一般に-100ー 香川大学経済論叢 792 困難で,大方の委員会では買収と売り渡しを中心とする当面の事務をこなすの が精一杯であったというのが実情であった。香川県でも農地改革中に交換分合 事業を実施した事例は川島町の川東など数部落にかぎられていた。 こうして農地の売り渡しは小作農が従来小作してきた耕地片をただ機械的に 売り渡すだけにおわり,戦前来の零細分散錯間制下の零細農民経営はさらに一 段とその零細制を強めつつ農地改革後もひきつづき存続することとなった。農 地改革でその実施の機会を失した交換分合事業がさかんとなるのは自作農体制 が定着した昭和
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0
年代後半にはいってからである。 市町村農地委員会の改革事業 さて改革事業に直接たずさわるのは市町村農 地委員会である。以下,市町村農地委員会の実際の活動を通じて,改革事業の 具体的な実施状況をみてみよう。ここでとりあげる農地委員会は仲多度郡の善 通寺町および与北村の農地委員会,それに大川郡の松尾村農地委員会である。 農地委員会の活動記録は「議事録」に記されている。農地委員会には一般の縦 覧に供するための議事録を作成する義務があった。それが資料として今日農地 改革の基礎資料として残っているのである。 [一筆調査] 法の定めるところにしたがって買収対象農地を一筆のもれもなくただしく買 収をすすめるためには,(1)農地各筆ごとに所有者・耕作者を確認しつつ自作地 か小作地かを区別するとともに,(
2
)
所帯ごとの所有面積と耕作面積を把握しな ければならない。戦前にも農地台帳のたぐいは作成されていたが内容がずさん で役に立たす、,このためあらたに農地の現況調査が必要となった。一筆調査と よばれたとの農地の現況調査実施のため,県は「農地一筆調査規則」を公布し た(
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2
年1
月2
1
日)0W
三年史』によると,県下の圃場数9
2
万筆に必要な調査票 の印刷が戦災で廃撞となった高松ではできず,大坂に印刷を発注しでかろうじ て調査表を確保したとし、う。 2月10日に開催された第l回の与北村農地委員会は早速に一筆調査の実施体 制の検討をおこなった。その結果,部落を基本単位として町内を9つの区域に 分け,各区域の班長には部落から選出の補助員をあて,農事実行組合の全面的793 香川県の農地改革 -101-協力のもとに一筆調査はすすめられることとなった。ここにし、う農事実行組合 は農家小組合ともいい,戦前から県下の農村に広く存在した生産と生活両面に わたる部落農家の共同組織のことである。なお部落から選出の補助員は農民組 合の推薦によるものであった。農民組合については詳述しないが,地主の不当 な土地とりあげ反対,食料危機進行下での強権供出反対などを契機にして日本 の農村各地で急速にもりあがった農民運動を背景に,
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0
年末から組織の拡大が すすみ,ときあたかも農地改革のさなかであったから,この農民組合と表裏一 体となって改革事業をすすめる農地委員会もおおかったのである。与北村もそ うした農地委員会のひとつであった。 [買収の対価決定] 国家による農地の有償買収とL、う基本方針のもとで,農地1
0
アールの買収価 格(=売り渡し価格〉は田が賃貸価格の4
0
倍=全国平均約7
6
0
円,畑は賃貸価格 の4
8
倍=全国平均約4
5
0
円とさだめられた。さらに地主は開放農地のうち都府 県で平均3
ヘクタール(香川県2
ヘクタール〉以下の部分については,田は1
0
アールあたり平均2
2
0
円,畑は1
3
0
円の報償金が政府から支払われる。香川県に おける一例を由佐村の某地主宛ての買収令書にみると,田1
0
アールあたりの買 収価格は約1
,0
2
0
門,報償金は2
8
0
円であった。『四国新聞』が報じる2
2
年 11月の 公定米価はlキログラム9
円9
0
銭であるから,回1
0
アールの価格1
,0
2
0
円では1
0
0
キロc7斗〉少々の米しか買えず,なおさら当時5
倍以上した関米価で計算 すると1
5
キロ(1斗〉も割りかねない安さであった。しかもインフレが急進状 態にあった当時であったから,;蟻烈な土地所有要求をもった小作農が全国でも 香川県でも小作地の売り渡しをすすんでうけて自作農たらんとしたことは当然 といえばまことに当然なことであった。 ところで買収価格の計算上,賃貸価格に乗じる倍率4
0
倍は倍率の最高値で あって,実際の倍率をどこにするかは各市町村農地委員会の決定にゆだねられ た。善通寺町農地委員会も松尾村農地委員会も原則として最高の4
0
倍を採用し たが,与北村農地委員会は農地の優劣を考慮して3
7
倍から4
0
倍と倍率に幅を設 けた。なお買収価格から差し引くべき甘土料を考慮したときの各郡平均の倍率-102- 香川大学経済論叢 794 についてはすでに述べたが (8ページ入善通寺町など上記3つの農地委員会 が採用した差し引き率はいす、れも最高の
30%
を差しヲ│いた2
8
倍であった。 [不在地主の農地買収] 各都道府県における在村地主の農地保有限度が未決定であったために第l回 買 収 (3
月末日期限〉が買収の対象をもっぱら不在地主の小作地にかぎってお こなわれたことについてはすでにのベた。事実,与北村,善通寺町,松尾村の いずれの農地委員会も第l回の主要議案は不在村地主の農地買収計画の作成で あった。松尾村の買収計画表をみると,不在村地主の数は法人をふくめて54 名,そのなかには神戸や大阪,遠くは北海道在住の地主の名もあった。 市町村農地委員会による在村地主か不在村地主かの認定は当該地主にとって 60アールの小作地が保有できるかどうかの分かれ目となる。『措置法』は第一 次農地改革では陵昧であった不在村地主の居所を生活の本拠地である住所に限 定した。この規定にしたがって与北村農地委員会はひと月の大半を丸亀の「妾 宅」ですごす与北村の地主を一万両断のもとに不在村地主と認定している。 善通寺町の第2回不在地主買収計画作成の際に不在地主の名の記載漏れが数 件,その小作地のある同じ部落の農地委員から指摘された。善通寺町にかぎら ずあわただしく作成された農地台帳は不正確なものがおおく,この点,中央委 員会への県の報告にも「農地改革の進行につれ,逐次一筆調査の不完全を暴露 するもの時に生じ,これが公正を期する為,実地と台帳の照合等を重ね“'"“・」(
W
顛末概要,]2
2
1
ページ〉とあるとおりである。 [在村地主の農地買収] 不在村地主の小作地全面開放に対して,在村地主は全国平均で1
ヘクター ル,香川県で60アールを限度とする小作地の保有が認められた。しかし第一次 農地改革と違って第二次農地改革では,どの小作地を保有地として地主の手元 に残すかの選択権は地主にはあたえられず,農地委員会にその決定の権限がゆ だねられた。だから各農地委員会はそれぞれの立場において在村地主の保有地 選定基準を設けなければならない。 与北村農地委員会における保有地選定基準はつぎのようなものであった。そ795 香川県の農地改革 -103-の選定基準のうち重要なものを掲げると(1議事録」から原文のまま引用), (1) 農業に精進する見込のないものの耕作する農地は先ず保有地とする。 (2) 2反未満を耕作しているものの農地を保有地に繰り入れる。 (3) 入作者の耕作する農地を保有地に繰り入れる。
ω
)
農地の全面解放者の耕作する農地は優先的に買収する。 (5) 農地不解放者の耕作する農地は保有地に繰り入れる。 以下,各条文の意味するところを説明しよう。 まず(1)の「農業に精進する見込のないもの」とは飯米確保だけを目的とした 非農家のことで,日本農業の生産力的発展に今後寄与することのないこのよう な農家に農地を売り渡さないようにすることは農地改革の精神からいって当然 のことであった。 (2)も,農業生産力発展の立場から極零細農家を農地売り渡し 対象から除外しようという主旨である。 (3)にいう入作者とは与北村の農地を耕作する小作人でその居所が他村にある ものをさすが,条文の意味するところは,入作者が耕す小作地は本人に売り渡 さず地主の保有地にくりいれることで与北村の田は与北村の田として村内に残 そうというのである。善通寺町農地委員会でも数部落にま十たがって小作地を所 有する在町地主の小作地を買収するにあたって,当該地主が居住する部落の小 作地はこれを優先的に保有地として残すべきとの主張がおこなわれた。これも 自分のところのムラ(=部落〉の田はできるだけ自分のムラに残しておきたい という,古くからの素朴で自然な村人としての感情からであった。 (4)にいう「全面開放」は「中出買収」とか「自主買収」とか呼ぼれ,地主が 保有地を買収されることを自主的に申し出たときは農地委員会はこれを買収す ることができた。ところで,戦中・戦後の食糧難の時代,耕作権の強化・小作 料率の急速な低下など地主経済悪化のもとで,地主のなかには食糧確保の必要 から小作を余儀なくされたものもすくなくなかった。このような「地主兼小 作」にして農地改革に協力して全面開放に応じたものには,このものが耕作す る小作地は優先的に買収して本人に売り渡そうというのが(4)の意味するところ であり,反対にこの地主兼小作にして全面開放に応じなかった「農地不解放-104- 香川大学経済論叢 796 者」の小作地は本人に売り渡さないようにしようというのが(5)の意味するとこ ろである。 与北村では以上のような選定規準にもとづいて在村地主から小作地を買収 し,それでもなお保有限度60アール以上の小作地が残るときはじめて当該地主 は保有限度の小作地の選定について希望条件をいれることができたのである。 農地の全面開放についてさらに言及すれば,香川県は申出買収の事例がおお く,申出による開放農地の地主保有面積に占める割合は最上位全国
7
県のひと つであり,また23年 11月18日の『四国新聞J
は「解放実績は全国でも恐らく三 位を下るましト"一J
と報じた。この同じ記事によると,I
全面開放」をおこなっ た市町村は県下に川島町など 14町村があった。ただしここでいう全面開放は在 村地主がl人残らず、それぞれの保有地をすべて解放した場合をさしている。農 地買収忌避の一般的傾向のなかでの申出買収にはさまざまな事情があったが, 農民組合による解放促進運動もその有力な事情のひとつであった。この点につ いて『三年史』が「 “全地解放とても決してそのすべてが心からなる地主の 自発によったものとは云ひ難く,其処には農民勢力のかなりな圧迫のあった」 云々とのべていることからもうかがわれる。また善通寺町農地委員会も松尾村 農地委員会も農民組合の意、をうけて地主に全面解放の説得をおこなったことが 議事録にしるされている。ちなみに香川県では,地主委員が委員長の席を占め る農地委員会の割合は全国の39%に対してその半分にも達せず,逆に小作階層 から委員長がでている農地委員会が全体の半分を占めるという状況にあった。 香川県の農地改革はこうした活発な農民運動にささえられて比較的順調に進行 したといわなければならない。訴訟件数がわずか 14件という事実もこのことを 裏付ける。隣県の徳島県は60件,愛媛県は84件,高知県などは275件もの訴訟が あった。 しかし農地委員会のなかには改革に協力的でなく,かえって改革を阻害する ような行動にでる委員会もあった。当時の新聞記事は,さきに村長も勤めたこ とのある委員長の所有?する小作地 2ヘクタールを委員長の意をうけた委員会が 力づくで不法にとりあげた仲多度郡十郷村農地委員会,地主代表の農地委員が797 春川県の農地改革 -105-主導権を撮っているため農地解放が遅々としてすすまぬ仲多度郡白方村のほ か,四筒村については
r
日昔ながらの顔役が顔をきかせている封建的土地 で,このために同村農地委員会もあとのたたりをおそれ地主制力に屈服,小作 人の土地取り上げに狂奔7
月買収も皆無といった有様でわ川」とその模様を 生々しく報じた(~四国新聞j] 22年 6月23日〉。また,委員会の内部対立から一 筆調査も実施できぬまま知事から解散を命じられた長尾村農地委員会のような 例もあった。 〔未墾地解放] 都市にあふれる失業者の大群と迫りくる食糧危機に対処するため,日本政府 は2
0
年の1
1
月に「緊急開拓事業実施要領」を閣議決定した。との要領のめざし たものは大規模な開拓事業をおこなって逼迫する食糧需給の緩和をはかるとと もに,職を求める復員者,家を失った戦災者を開拓地に入植・帰農させようと いうものであった。しかし旧軍用地などの国有地の開墾はただちに着手できた ものの,私有の未墾地の場合はこれを取得するために入植者が独力で地主と直 接折衝しなければならないという困難な状況のもとにあり,その出発点で開拓 事業は座礁した。このような開拓事業に途を聞いたのが農地改革の基本法たる 『自創法』そのもので, ~自創法』により民有の未開墾地は農地と同様に国家が 直接買収して入植者に開墾用地として売り渡すことができるようになった。こ うして戦後の開拓事業は農地改革の一環として力強くおしすすめられたのであ る。ただ,入植に予期した成果があがらなかった反省から「緊急開拓事業実施 要領」は22年10月に「開拓事業実施要領」にあらためられて開拓事業は入植か ら増反に重点が移った。増反とは既存の農業者の耕作面積を拡大するもので あって,入植や開拓とはまったく性格を異にするものである。 『自創法』によって未墾地を買収する場合,保有限度の制限はないが開拓適 地でなければ買収はできない。そこで未墾地の買収については市町村農地委員 会が作成した未墾地買収計画の開墾予定地について県当局が開墾適地か不適地 かをまず判定し,そののち県農地委員会がこれを承認する,という手続きがと られ,開墾地として不適当なら買収から除外されることもあった。善通寺町農-106- 香川大学経済論叢 798 地委員会は
2
2
年1
月,町の南部および西部の山麓地帯を開墾予定地とする善通 寺町未墾地買収計画を作成した。開墾にあたるのは地元の農事実行組合で,戦 災者・引揚者による開墾を優先して地元農民の増反をすすめる計画であった。 同年7
月,県の開拓課から現地視察があり,翌2
3
年の3
月に南部山麓の一部地 区に開墾の認可がおりた。 開拓事業に対して買収の対象となる未墾地を所有する地主はもちろん反対の 立場にあった。右の善通寺町開墾計画に対しても3
人の山林地主から当農地委 員会に対して異議の申立てがあった。そのうちの1
人については当人が農地全 面解放の地主であることを考慮して農地委員会は買収をひかえたが,残りの二 人については全未墾地の買収を決めている。開墾の反対者は地主にとどまら ず,開墾対象の未墾地が自分たちの利益の侵害となるときは一般農民からも反 対の戸があがった。普通寺町開墾計画の場合も計画区域内に存在するため池の 導水路が開墾工事で崩落することを懸念してこのため池の水利組合が反対の立 場を表明したが,この問題は県当局が適切な砂防工事を施すことで解決した。 松尾村は周囲を山林に囲まれた村だけに開墾希望者がおおく,したがって松 尾村農地委員会にとっては未墾地買収計画の推進は委員会の重要任務のひとつ であった。2
2
年4月の第2
回委員会ではやくも計画の作成にとりかかっている。2
2
年5
月の第3
回委員会では開墾申請に対する異議申立てが3
件あった。1
件 は却下,1
件は開墾不適地と認定,もうl
件は申請者ならびに異議申立人の聞 で未墾地を折半して開墾,というのが委員会の結論であった。2
3
年1
2
月の第2
5
回委員会でも異議申立てがあったが,これは地主の開墾防止策にすぎないとの 判断から委員会の認めるところとならなかった。しかし当該地主はあくまで買 収に反対して行政訴訟をおこした。香川県における数少ない農地改革関係の行 政訴訟14件のうち,これはそのl件である。 『三年史』によると香川県における未墾地売渡し実績は総計1,164町歩で,全 国ではおよそ1
2
8
万町歩の未墾地が売り渡されている。 [農地の売り渡し] 買収計画にしたがって農地の買収がすすめられたように,農地の売り渡しも799 香川県の農地改革 -107-農地委員会の作成した売り渡し計画にしたがってすすめられる。売り渡し計画 の作成上,まず問題となるのは誰を売渡しの相手にさだめるかである。『自創 法』によると,最優先で売り渡しをうける権利は当該小作地の耕作者にある。 この耕作者にして買受けの意思があり,かっ『白創法』でいう「自作農にして 農業に精進する見込のあるもの」であるかぎり,その耕作者に農地は売り渡さ れる。買収農地が自作地の場合は農地委員会が独自に相手方を定めることがで きた。ところで右の「自作農にして農業に精進する見込のあるもの」とは具体 的にどのような農家をさすのか。逆にいえば,どのような農家が売渡しの非適 格者なのか。乙の点ついての農林省の通達は,(1)おおむね
2
0
アーノレ以下ーの極零 細農家, (2)一時的耕作者や高齢者農家など耕作能力の低い農家, (3) I精農」に 対する「惰農J,以上3
つのケースに該当する農家を売り渡しの非適格者とみ なすべしというものであった。 善通寺町農地委員会で農地売り渡しの基本方針が最初に検討されたのは2
3
年2
月の委員会であった。基本方針に関し第l
にとりあげられた点は交換分合実 施の是非である。当事者}相互の利害が複雑に錯綜する交換分合事業実施の困難 さゆえの国・県レベノレでの実施事例のすくなさについてはさきにのべたが,当 委員会でもその困難さが各委員から指摘され,審議の結果,委員会が率先して 交換分合をすすめることは無理であろうという結論に落ち着いた。問題となっ た第2
点は売り渡しの非適格者とされる極零細農家の規準=20
アーノレ以下につ いてである。1
0
アール引下げ論もでたが,結局政府の指示にしたがうことと なった。ちなみに1
0
アール引下げ論を主張する根拠は,I
議事録」から主張者の 発言をひとつ引用すると,I
……二反歩以内には売り渡しをしないことになっ て居るが,二反歩以下のもので農業に精進して居るものには売り渡して然るべ きである。その理由は今迄は財政の具合等で小作権を得ょうとしても得られな かったものであるから,此の際自作にさせるべきである」というものであった。2
0
アール規準については与北村農地委員会でも討議され,規準以下の農家でも 将来増反の見込ある農家には小作地の売り渡しを認めるととになった。 農地売り渡しの非適格者の件については5
月の委員会でも検討され,I
昔か-108- 谷川入学経済論叢 800 ら農業をしていないで食糧事情が悪くなって農業に転向した様な俄百姓
J
,["耕 作能力がなく人手を雇って経営をしている」ところの「仮装耕作者J
,さらには 一時的耕作者にすぎない疎開者などは耕作能力の低い農家として売り渡しの対 象からはずされることとなった。 農地調整と自作農創設 昭和21年9月25日の『四国新聞』の報道による と,終戦以来21年の6月までに全国で25万件もの地主による土地とりあげ事件 があった。中小地主などの場合は自作化してでも食糧を確保せざるをえないと いう終戦直後の逼迫した事情があったであろうが,主流はなんといってもやが て実施されるであろう農地解放に対抗するための土地とりあげであった。そし て農地改革実施のさなかも地主の土地とりあげはつづき, ~四国新聞』も頻々 と地主の土地とりあげ事件を報じた。たとえば,麦の刈入れを終えた翌日,小 作人がその田の耕起にでかけたところすでに牛を追込んで農作業をはじめてい た地主のこと (22年6月23日の記事入農地委員会の小作地返還勧告を無視し つづける香川郡川東村の地主のこと (22年1
0
月1
0
日の記事入農地委員会から の小作地返還要求を不服として県農地委員会へ訴願・却下山されたにもかかわら ず小作地を手放そうとしない大川郡長尾町の地主のこと (23年 l月18日の記 事),等々。 地主制度を解体して自作農を広範に創設するためには地主の不当な土地とり あげは許してはならない。耕作権の保護はそのために不可欠な大前提で司あった。 その第九条第一項に「農地ノ賃貸人ハ賃借入ガ宥恕スベ半事情ナキニ拘ラズ小 作料ヲ滞納スノレナド,信義ニ反シタル行為ナキ限リ解除若ハ解約ヲ為シ,又ハ 更新ヲ拒ムコトヲ得ズ」とあるように, ~農調法』は自作農創設に不可欠な耕作 権の保護を目的として『自創法』とセットになって制定された。そしてまたそ の第九条第三項に「賃貸借ノ解除若ハ解約ヲ・引…為シ,又ハ更新ヲ拒マントス ルトキハ…市町村農地委員会ノ承認ヲ受クベシ」とあるように,地主一小作 聞における農地調整の実務作業にあたったのは市町村農地委員会であった。だ から農地買収と売り渡しの自作農創設関係の処理ならびに地主一小作聞の農地 調整関係の処理が相半ばするという状況で市町村農地委員会の日常的業務はす801 香川県の農地改革 -109ー すめられたのである。以下,農地調整にかかわる 3つの事例を県庁の資料にも とづき紹介しよう。 農地調整の事例 〔その l 小豆郡西村農地委員会の事例] 小豆郡西村の農民Xは地主Yから借りうけた畑を耕作しつづけて数10年にな る。そのXから22年2月10日,西村農地委員会に農地調停願が提出された。前 年の
1
1
月,地主Y
が当該小作地に無断で立ち入り麦の作付けをはじめた,とい うのである。この調停願いの取り扱いをめぐって西村農地委員会は前後4
回委 員会を開催し,最終的にX
およびY
の耕作能力や生活の困窮度などを比較勘案 しつつ地主Yの行為を農調法違反と決議した。 この決議にいたるまでの間,農地委員が地主の説得にあたる一方,委員会は 地元の農事実行組合長にも働きかけて和解の仲介を依頼している。法律による 明白な裁断はできるだけ避けて話し合いで問題を解決したいという,このよう な西村農地委員会の態度はなにもこの農地委員会にかぎったことではない。部 落の平和的秩序をそこないたくないという気持ちは部落で暮らす村民には階級 的立場をこえて共通のものであり,農地委員だからといってその気持ちにかわ りのあるはずがなかった。 [その2
浅野村農地委員会の事例] 農地改革下に存在した小作地の中には,戦時中に主人や息子の徴用・応召で 一家の基幹的労働力を失った自作農家が人手不足から小作にださざるをえな かった,そのような小作地もふくまれていた。『農調法』によれば,このような 「一時的離作」による小作地は返還要求があればこれを拒むことはできない。 さて浅野村農地委員会に小作地の返還を願い出た地主Y
は仏生山町に在住の 地主で,小作地(畑〉は浅野村にある。地主Yの願い出の内容は,r
当該小作地 は長男が徴用で家を離れたためやむをえず小作にだしたものであり,徴用解除 で息子が帰郷したので返還してもらいたい」というものであった。そしてま た,Y
は一時的離作の証拠に甘土料を受領しなかった事実をあげている。浅野 村農地委員会は地主Y
の願い出を認めた。-110ー 香川│大学経済論叢 802 右のような地主
Y
の返還要求に対して小作人X
は仏生山町農地委員会に対し て次のように説明してその返還を拒んだ。すなわち,I
当該小作地のF
作は地 主Yから是非にと頼まれたもので,その理由は耕作を依頼した仲介入Aの説明 によると,Y
がみずから耕作するには居宅から速すぎて不便なためということ であった。なお,当地区では畑地には甘土料はもともとついていなし、」と。仏 生山町農地委員会は仲介入Aからも事情を聴取し,小作人Xの説明を適正と判 断して浅野村農地委員会に承認の変更をもとめた。(当農地調整は県農地委員 会にもちあがったが,その採決の内容は資料を欠くため不明。〉 二つの農地委員会にまたがり,かつ各委員会の判断があい対立するという事 例は珍しい部類にはいるが,一時的離作を理由に農地の返還を求めた事例は戦 時下の労働力不足が農家の一般的現象であっただけに,決してめずらしいもの ではなかった。 [その3
山内村農地委員会の事例] 当事者の一方である小作人X
の説明によると,昭和1
0
年1
2
月,相手方の地主Y
は熊本地方専売局ヘタバコ教師として赴任するにあたり家政整理のためその 所有する農地A
を家屋ともどもX
に賃貸しすることにした。契約期間は1
0
年 で,甘土料も支払われた。X
は1
3
年に応召され,一時帰国したが1
6
年に再び応 召,働き手を失ったX
の妻は小作地を一部近隣の農家Z
に貸しつけるなどの手 段を講じながら懸命に農業をつづ、けた。2
0
年7
月,戦災地の熊本から帰郷したY
はX
の妻ならびにZ
の反対を無視して農地A
を占拠,2
2
年5
月現在は農地A
の一部を自ら耕作し残り一部を小作に出すという状況である。X
が戦地から帰 還したのは2
1
年5
月であった。 ところで第一次農地改革の要綱案が閣議決定となった日は2
0
年1
1
月2
2
日で, その翌日に全国の各新聞紙に要綱が掲載された。だから2
0
年1
1
月2
3
日という日 は日本全国に農地改革の実施されることが知れわたったまさにその日であった。 この日以降,地主の土地とりあげが急増する。そこで農地委員会が作成する農 地買収計画は2
0
年1
1
月2
3
日の事実にさかのぼ引って作成されることとなった。こ れを「遡及買収」といい,この法的措置によって2
0
年1
1
月2
3
日以降の土地のと803 香川県の農地改革 -111-りあげはすべて無効となった。 さて小作人Xは山内村農地委員会に対し20年 11月23日現在の事実にもとづい て農地Aの買収計画をたてるよう要求した。 10年 12月にとりむすばれた地主Y との小作契約は契約期間が 10年だから, 20年 11月23日現在は契約期間内である。 農地
A
について遡及買収を適用すれば,地主Y
の土地とりあげ行為は明らかに 不法であった。 農地改革をめぐる諸問題 土地制度上の大改革であり,しかも 2年という 短期間におこなわれた農地改革は農業と農村の範囲をこえた社会問題をひきお こした。香川県の場合,高松市の都市計画区域内における農地買収問題もその ひとつである。その経緯はつぎのようであった。 東京をはじめとする日本の大都市はもちろんのとと,多くの地方都市も空襲 で被災し,高松市も市街地の大半が20年 7月 4日未明の空襲で消失した。戦争 で荒廃した国土を回復するためにまず戦災都市の復興を急がねばならない。と ころで戦災都市の復興計画は農地改革と深く関連するとごろがあった。という のは,都市復興のための区画整理事業が実施される区域内には商庖や宅地だけ でなく農地も存在するのがふつうであるが,その農地はやがて市街地の一部と なる農地であるから買収から除外するのがし、いのか,それとも現況が農地だか らやはり農地改革の一環として買収しなければならないのか,このこ者のいず れかに決着がつかなし、かぎり区画事業はすすめることができないからである。 この点に関し近く宅地となることが明らかな都市計画区域内の農地を農地改革 の対象として買収する意思は農林省にはもともとなかった。ただ,都市区域内 にも市街化がすすみそうにないところがとりわけ農村部との境界近くにあり, そのようなところにまで区画整理事業をおよぼす必要はない。そこで都道府県 知事は区画整理事業の実施にさきだってその実施区域をあらかじめ指定しなけ ればならなかった。区域が指定されたら,その区域内の農地は現況が農地で あっても将来農地でなくなるのだから農地改革の対象から除外されることとな る。 だが,実施区域の指定はたんに都市計画技術上の問題にとどまらなかった。112- 香川大学経済論叢 804 それは農地買収をもとめる農民・農民組合側と買収除外を希望する地主・商人 側の,実施区域の指定をめぐる真っ向からの利害の対立・衝突をひきおこすこ ととなり,この解決のために県ならびに市当局はおおいに苦慮することとなっ たのである。 『三年史』に掲載の都市計画図をみると,区画整理事業がおこなわれるのは 東の境界が御坊川で,南は栗林公園,西は幸町,北は海岸線までの区域であっ た。区域内に存在する農地は御坊川沿いにおおく,全体では
6
0
0
戸の農家と3
0
万坪の農地がふくまれていた。この3
0
万坪の農地をめぐり地主側と小作側の利 害が鋭く対立し,とこに都市復興計画に関連して県政をゆるがす大問題が生じ たのである。2
2
年1
0
月2
0
日の『四国新聞』は,高松市都市計画区内の農地買収問題は知事 の諮問委員会で審議されたが計画課と農地課の県庁内部の対立もからんで問題 の解決をみなかったことを報じた。翌月の1
1
月2
日には小作人大会が聞かれ, つぎのような大会宣言をおこなった。すなわち,I
叶"しかるに昨今,農地所有 の地主は,ある一部の弁護士と結託して無謀かっぽう大なる都市計画を主張 し,ついにこれに便乗して彼等の所有農地を宅地に変更して莫大な利得をつか まんとするは,多年その農地に多大の犠牲を払って封建的搾取の下に過重な年 貢を捧げてきた小作農民から士地と生活を取り上げ,その耕作権をもぎ取 りt…
J
云々と。そしてこの大会宣言をうけ,農地の全面解放実現を期して高 松市農地擁護同盟が結成された。一方,とうした農民の動きは都市復興をはば むものだとして,地主層を中心メンパーとする高松市都市計画促進同盟が結成 された。事態は年を越えて紛糾したが,政府による強力な指導もあって,結 局,2
3
年4
月1
3
日,増原県知事からつぎのような裁定が下された。その内容 は,区画整理地域内に編入すべき農地1
4
万6
,5
9
7
坪,小作農に解放すべき農地l
万5
,2
4
7
坪,残りの1
4
万6
,8
6
7
坪については,農地として買収はするが売り渡 しは5
年間保留し宅地にならないことを見さだめたうえで順次売り渡していく というものであった。こうして買収除外と買収留保の濃淡2本の線を引くこと で高松市都市計画は問題解決の第一歩を踏みだしたのである。805 香川県の農地改革 -113-高松市都市計画区域内の農地買収問題のほかで農地改革にかかわって世間の 注目をひいた社会問題には,善通寺町の旧軍用地買収問題,大川郡志度町の寺 有地解放問題,香川郡弦打村の愛国飛行場解放問題などがあった。はじめの善 通寺町の旧軍用地買収問題とは,終戦まで第
1
1
師団のあった善通寺町には戦後 広大な軍用地が残されたが,この軍用跡地を農民に解放するか,それとも国立 授産所一一戦争で叫腕や手を失った重度の障害者のためのーーを建設するかで町 当局と農地委員会があらそった事件であった。最終的には国立授産所の建設に 決着したが,その経緯は「善通寺町農地委員会議事録」にくわしい。 三 農 地 改 革 の 成 果 地主制の解体と自作農体制の創出 不在地主の所有する全小作地の開放, 第一次改革案では5
ヘクタールであった在村地主の保有限度の府県平均1
ヘク タールへの大幅切下げ,平均3ヘクタールの自作地保有限度の設定などの措置 のもとに,前近代的で古い体質の地主的士地所有制度を解体すべく農地改革は 断行された。小作人に開放された農地は1
9
4
.
.
2
万ヘクタールであり,これは旧 来の総小作地(
4
5
年=2448
ヘクタール〉の80%
におよぶ。開放小作地のうち,40%
が不在地主,60%
が在村地主の小作地であった。香川県の場合2
万8
,2
0
4
ヘクターノレ(うち,買収=1
万7
,9
0
4
ヘクタール,財産税物納による「管 理 換J
=4
,9
0
0
ヘクタール〉の農地が小作人に開放された。農地買収のために支 払われた金額は総額l
億4
1
1
2
円である。開放農地の36%
は不在地主,64%
は在 村地主の所有地であった。田畑別にみると,改革前06
年)に比べで改革後(
2
4
年〉では小作地は水田で65%
から12%
,畑で42%
から13%
へ激減した(図-2
)
。なお全国規模での小作地の変化は,総小作地が[
4
6
→1
3
J
%に減少,こ のうち水田は[
5
3
→1
4
J
%,畑は[
3
8
→1
2
J
%へとそれぞれ減少した。なお, 残存小作地については,創設自作地との均衡上,賃借権が強化・安定化され, 金納小作料も地主がその保有する小作地で生活するにはとうてい不可能な,収 穫高のわずか数パーセントの低い水準におさえられた。地主制の象徴であっ た,収穫高の半分にもおよぶ高額小作料は完全に過去のものとなった。ここに-114- 香川大学経済論議 806 図
-2
香川県田畑小作地別の変化(単位:ヘクタール〕 全 体 回 畑 Iltl和16司会 昭和24年 資料~農地改革顛末概要 ß 651ページより作成 戦前来長にわたって農村を支配しつづけてきた地主階級は消滅した。地主的土 地所有制度は解体したのである。 改革後の農村階層 それでは改革が実施されて農村の階級構成はどうか わったか。香川県の場合,改革前には全農家の20%にすぎなかった「自作農」 は改革後は59%に達した。この自作農の著増とは逆に,農地をまったくもたな い「小作農」は38%から7 %に著減し,r
自小作」・「小自作J
の農家も総じて 格段に自作化傾向を強めつつ改革前の44%から改革後には33%に減少した(図 - 3)。全国平均でみた場合,r
自作農」は28%から55%に増え,r
小作農」は 28%から8 %に減り,r
自小作」・「小自作」は41%から35%に減った。香川県 における自作地の増えかたは全国平均に比較して4
ポイント高いが,これは 「全面開放」の実績が全国に比して高かったためで,法定開放予定面積に対し807 香川県の農地改革 図-3 自小作別農家の変化(香川県〉
。
(昭和16年 ) (昭和24年 ) 以 耕 上 地r
1
昭)
-
6
、有FE家ツZ1 -の 自 作 1;[ 50 下 資料:同所ij,650ページより作成121%
の農地が開放されている。 自 f 巴fi -115ー 100% 小 小E県~
Ji作E 地 を 耕 作 せ ざ る 農家 こうして農地改革を契機に自作農の部厚い層が形成され,戦後日本農業の基 本的枠組みとなる自作農体制が創出された。 参 考 文 献 (1) 農地改革記録委員会『農地改革顕未概要~ (農政調査会 昭和26年〕(
2
)
農政調査会『農地改革事件記録~ (昭和31
年) (3) ~香川県農地改革三年史~ (農地改革史編集委員会 昭和25年)(
4
)
~香川日々新聞』 (5) ~四国新聞』 (6) 野村岩夫著『香川勝下の甘士料に就いて~ (昭和 3年〕(
η
大槻正男・桑原正信著「慣行小作権とその賠償問題一香川県下の調査中心として 一 一J(昭和21
年〕-116ー 香川大学経済論議 (8) I営ー通寺町農地委員会議事録J(善通寺市所蔵) (9) I与北村民地委員会議事録J(普通寺市所蔵) (10) I松尾村農地委員会議事録J(大川町所蔵)