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Summa Theologiae q. 15, a. 1 におけるイデアの基本的性格とイデアの存在論証について -Thomas Aquinasにおけるイデア論の研究I-

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(1)

Summa Theologiae

q. 15,・a.jにおけるイデアの

基本的性格とイデアの存在論証について

 一一Thomas

Aquinasにおけるイデア論の研究 I-岡

  崎  文  明

(人文学部哲学教室)

 Fundamental Meaning of Ideas and Demonstration

of Ideas' Existence in Summa Theologiaeq. 15、a. 1

Thomas

Aquinas' Theory of Ideas l  ̄

        Fumiaki Okazaki ば)epartmenX. of Philosophy、Faculりof Humanites)        梗       項 I.序 一問題提起-    〔1〕∼〔2〕 II,イデアの一般的な規定         〔3〕 Ⅲ,イデアは存在するか(1)  §1.生成と形相      〔4〕  §2.能動者と形相       〔5〕  §3.能動者が範型としての形相を有する有し    方一二種類一   印 自然的な存在に従って有する    〔6〕  (田 可知的な存在に従って有する    〔7〕  §4,以上のまとめ       〔8〕  §5.以上の吟味   (D 事実を提示することによる証明とそれによっ    て明らかにされたイデアの性格    〔9〕  (田 人間精神のうちに存在する範型としての形相    が完全な意味でイデアと呼ばれない理由〔10〕 概 Ⅳ.イデアは存在するか(2)  §1.神の精神のうちにイデアか存在することの    論証      〔11〕  §2.イデアの存在論証(後半)の構造  〔12〕  §3.イデアの存在論証の問題点     〔13〕 V.イデアの存在論証の意味 −イデアの性格規定  とイデアの存在論証の関係一一  §1.イデアヘの問の性格    〔14〕∼〔15〕  §2.イデアが存在する場の探究一−イデアの存在   論証のまとめー       〔16〕  §3.V章の結論      〔17〕 VI.結 論 −イデアの基本的性格一  〔18〕 vn.使用テキスト VⅢ.参考文献 IX.註        Iレ序 一問題提起一一  〔1〕周知のようにイデア論はPlatonに始まる。 しかしそれは弟子のAristotelesによって「な おまた,われわれ〔プラトン学徒〕はエイドスが存在することをいろいろの仕方で証明している が,そのいづれも明白ではない(出隆訳・アリストテレス全集12)」(l’等々と批判されて,斥けら れている(2)。  ところでThomasはAristotelesから多くを学んでいると言われている。そして彼はAristoteles のイデア論批判も或る意味でそのまま継承している。 ところかそれにもかかれらずThomasは自 らの哲学の中心部にイデア論を有している。とは言えそのイデア論はPlatonのイデア論をその

まま継承したものではない. Thomas のイデア論は, Platon. Aristo teles の外に, Dionysius, Boethius, Avicenna, Anselmusの著作やDe CaMsis,『聖書』等々の影響下において形成されて いるか,とりわけAugustinusの影響力は大きく,そのイデア論を直接継承する(3’。

(2)

1ろ2 高知大学学術研究報告 第加巻’人文科学 かにして自らのイデア論を形成していくのであろうか. Thomasりイデア論を斥ける説に対して, いかなる態度を保つのであろうか.         ‥‥‥ ‥  〔2〕この問題か明らかにされるためには次の小間が聞かれなければならない. 1) Thomasは,そもそもイデアとは何であると考えているのか.つまり, Thomasにおけるイ  デアの基本的な意味・性格が明らかにされなければならない. 2 ) AristotelesはPlatonのイデアをどのように捉え√そのどの点左どう批判するのか. 3) ThomasはAristotelesのイデア論批判をどのように解釈しているのか・ 4) ThomasはAristotelesのイデア論批判のどめ点を認め,どの点を斥けて自らのイデア論を成  立させるのか.       ∧,1`  これらを探究することによって〔1〕で提出された問題が明ら/かとなるであろう(4).        11 1  ところで,拙稿で扱うのは小間1の一部である.,  扱うテキストの中心的な箇所はSumma theologiae第十五間第一項である.この項のテーマは

 「諸イデアは存在するか(Utrum ideae sint.)」である. Thomasはこの問に対して,まずはじ めに「イデアを神の精神のうちに措定しなければならない」(5)と結論を提出している.そしてその 後に理由を述べていく.理由を述べる部分は,イデアの存在論証という形をとっている.この存在 論証の過程の中で,イデアの基本的な意味・性格が徐々にあ〉らわにぎれていく.それを明らかにす       ㎜         f     .  f ることが拙稿のテーマである.       /,・        n.イデアの一般的な規定ll  〔3〕「イデアは存在するか」と問う場合には,まずもってそれを問う者に「イデア」という名 称(nomen)で表示されているものが何であるかか何らか&)程度痙解ぎれていなくてはならない. なぜなら,彼がもしその理解を全く欠くとするなら,イデアの存在を問うことさえできないからで ある.それ故Thomasは,イデアの存在を問うか=らには,問うために必要なイデアの最少限度の 規定をなすことから論を出発させる.        ‥‥‥ ‥  醍αはギリシア語である.これをラテン語に移すとforma (形相)となる(6)  さてラテン語のformaすなわち「形相」には二種類があると言う.  一つは,事物と共に存在する「その事物の形相JIで」ある.十.  ・  いま一つは,事物とは別に存在する「その事物の形相」1である」  前者は常に質料と共に在って具体的な個物を形成している形相である.しかしこれはイデアと言 われない.       ‥‥‥  それに対して後者はイデアと呼ばれる形相である(7) これは事物`(質料)から分離した形相であ る.そして次の二つの機能を持っている(8)_すなわち 1.一つは,(その形相と言われるところの事物の範型てexemplar)」としての機能であり, 2.もう一つは,「認識者のうちに存在する認識対象の形相」であ9て,これは「認識の根源(prin-       1    ゝ.     ●      ●●●  cipium cognitionis)」として機能する(9)_しかしこの場合の認識の根源としての形相は,それに  よって(qua)認識者が対象を認識するところの,対象より抽象された対象の形象(species)で  はない(10) もしそうであるなら,それは同時にまた範型としての形相であることはできない  ことになってしまう一一.この形相は認識者の外に起源を有する,(つまり抽象によって外から取  込まれる)のではなくて,認識者自身の内に起源を有している.そして認識者はこの形相に従っ  て(secundum quam)対象を認識する(11)言い換えれば判断の基準となる形相である.  Thomasはこの二つの機能に関する限り,イデアを措定しなければな.らないと言う(12)

(3)

15, a. 1におけるイデアの基本的性格とイデアの存在論証(岡崎) 1ろろ

 以上でイデアの存在を論証するために必要な最少限度のイデアの一般的規定がなされた.それを

ここでー---くり返しになるが重要であるので再度一一まとめておこう.

 イデアとは

1.事物とは別に存在しているところのその事物の形相である.これは事物(質料)から分離した

 形相を意味している.

2.二つの機能を持つ.一つは範型としての機能であり,いま一つは認識の根源としての機能であ

 る.

 しかしこれらの二条件を何らかの意味で満たせばどのような形相であってもイデアと呼ばれると

いうわけではない.ここ迄で言えることはイデアである限り最底これらの二条件を満たさなければ

ならないことである.ではどういう意味で,これらの二条件を満たせば,イデアの資格を有するこ

とになるのであろうか.それはイデアの存在論証を通じて明らかにされる.

      la.イデアは存在するか(1)

§1.生成と形相

 〔4〕それでは果して上記二条件に適う形相は実際に存在するのであろうか.←一一しかしこれは

難しい問題を孕んでいる.イデアが存在するということはいかなる意味であろうか,もし存在する

とすればそれはいかなる存在であろうか,という存在(esse)にかかわる問題だからである.これ

については後に〔14〕∼〔17〕言及することにしよう一一一一.とにかく我々は次に「かかる形相は存在

するのか」を問わねばならない.これは拙稿の主要部をなす.

 Thomasのイデアの存在論証は二段階に分かれる.その前半(〔4〕∼〔7〕)は事実を提示する方

法をとっている.そして後半〔11〕はいわゆる論証という方法をとる.

 まずThomasは生成(generatio)に着目する.生成には必ず能動因(causa

agens)が先立っ

て存在している.

 ところで生成するもの(generatum)はすべて

イ.偶然的に(a casu)生成するか,それとも

口.偶然的でない仕方で(non

a casu)生成するか,のいづれかである.,

 ここで言う「偶然的に」生成するということは「多数の能動因の出会いから」生成するという意

味を有している(13)従って上記のイ.口を言い換えれば,生成するものはすべて

イ.多数の能動因の出会いから生成するか,それとも

口.一つの能動因から生成するか,

のいづれかであると言うことがで・,きる.

 ところで,前者はさておき,後者に注目して更に詳しく見ていこう.生成という運動か目指す目

的は形相である(H)何らかのものが生成し終った時にそれが獲得したのは目的とした形相である.

獲得された形相は質料と離れては存在し得ないところの形相である.そしてこれはイデアとは呼ば

れなかった〔3〕.

§2.能動者と形相

 〔5〕生成の過程を能動者から見れば「生成したもの(generatum)は能動因から形相を受けた」

ことになる.

(4)

154 高知大学学術研究報告 第28巻 人文科学

 目下の場合,能動因は能動者(agens)と同義である.

 能勘者の一般的規定として「能動者はすべて目的(形相)のために働く」(15)と言われている.

Thomasはこの規定を今の能動者にあてはめて次の様に説明している.「能動者が形相のために

働くのはただ自らのうちに形相の類似(similitudo)が存在している限りにおいてのみである」a6)

と.すなれち能動者が形相を生成物(generatum)に賦与するときには,

賦与された形相(17)の元

の形を自らのうちに有していなくてはならない.この元の形をここでは類似(similitudo)と言っ

ている.それ故能動者は自らのうちに「賦与された形相の類似」を持っていて,この類似を範型

(exemplar)として生成物に形相を賦与するのである.従ってこの類似は「範型としての形相」に

ほかならない.それ故この類似は,言うなら,「形相(i.e.質料と共に在る形相)の形相(i.e.範

型としての形相)」である.そしてこれはイデアと呼ばれる可能性を有している.

§3.能勘者が範型としての形相を有する有し方一二種類- O)自然的な存在に従って有する  〔6〕さて,能動者が自らのうちに形相の類似を有する仕方に二通りある.そしてこの仕方に応 じて能動者は二種類に分たれる. 1.或る種類の能勘者においては,生じるべき事物の形相`か「自然的な存在に従って(secundum  esse naturale)」先在している(praeexistere). 2.もう一つの種類の能動者においては,生じるべき事物の形相が「可知的な存在に従って  (secundum esse intelligibile)」先在している(18)

 さてイデアはいづれの能動者のうちに存在しているのであろうか.これらのうちの前者から検討 していくことにしよう.この種の能動者は「自然的本性によって(per naturam)」働くものである(19’. その例として人間を挙げる(2C”.「人間は人間を生む」.人間は入間以外のものを生むことはない. 人間は人間を生むことがその自然的本性(natura)に属しているからである.これを「人間はその 自然的本性によって働く」と言う.ところで生まれた人間(子)の形相と生む人間(親)の形相は いづれも「人間の形相」である.そして子の形相は親の形相の言わば写しである.従って親は自ら       ● ●       t   l       tのうちに子の形相の類似(i.e.範型の形相)を有している.  また火(ignis)もその例である.「火は火を生じさせる」(2(”.火に可燃物を近づけるとそれは 発火する.これを「火はその自然本性によって働く」と言う.ところで発火した火は元の火と同じ  「火としての形相」を持っている.元の火が自らの形相を他に賦与することによって新しい火が生 じる.従って元の火は自らのうちに新しい火の形相の類似(i. e.範型の形相)を有していると言 える.  このような意味で,かかる種類の能動者は自らのうちに,生じるべき事物の形相の範型を「自然 的な存在」に従って先在させていると言うことができよう.  ところでThomasは,かかる仕方で能動者のうちに存在する範型の形相をイデアとは呼ばない. なぜなら,イデアの存在はかかる「自然的な存在(esse)」ではないからである.それは何故である のか,その理由は後に〔16〕見るであろう.  (ii)可知的な存在に従って有する  〔7〕では次に後者の検討に移ろう.この種の能勁者は「知性によって(per intellectum)」働く ところの知性的能勘者である(21)かかる能動者に三種類ある.入間,天使,神がそれである.(し かしThomasは,天使はさておき,人間と神を念頭に置いている)・  さてThomasはこの例として人間である建築家(aedificator)を挙げる.建築家はその精神の

(5)

15,a. 1におけるイデアの基本的性格とイデアの存在論証(岡崎) 155

うちに(in

mente)建てるべき家の類似を先在させている‘121この類似は「範型としての形相」で

ある,具体的には彼の精神のうちに在る家の設計図である.彼はこの形相(設計図)に家を似せよ

う(assimilare)と意図する(23)このことを「建築家は知性によって働く」と言う.それ故かかる能

動者の精神のうちでは,範型としての形相は「可知的な存在」に従って先在していると言うことが

できる.

Thomasはこのような形相を「イデア」(今め場合「家のイデア」)と言い得ると語る(24J

 ここに至って,更にイデアの意味・性格か明らかになった.すなわち「イデアは精神のうちに

存在している範型の形相である」と.ここからThomasはイデアの存在(esse)を「可知的な

存在(esse)」であると考えていることが解る.

 しかしこれでイデアの意味と存在が完全に明らかにされたわけではない.

Thomasは「これは家

のイデアであると言われる(Haec

dicituridea

domus.

)」と断定せずに,「家のイデアである

と言われ得る(Haecpote%£ dici idea

domus.

)」と含みを持たせた言い方をしているからであ

る.何故かかる形相がイデアであると断定することができないのであろうか.そのわけを後に〔10〕

検討してみなくてはならない.

§4.以上のまとめ

 〔8〕ここで〔3〕∼〔7〕の大筋をまとめておこう.

1.イデアは「事物とは別に存在しているその事物の形相」である.

2.イデアは,範型と,認識の根源の二つの機能を持つ.      一一以上〔3〕

と規定された後,以下にイデアの存在が問われる.

3.生成には必ず能動因が先立っている.

4.一箇の能動因によって(i.

e.偶然的ではない仕方で)生成するものにおいては,生成の目的

 はーつの形相である.       一以上〔4〕

5.能動者は(i.

e.能動因)は一つの形相を目指して働く.その時,能動者は自らのうちに,賦

 与される形相の類似を予め有している.       一以上〔5〕

6.その有し方に二種類ある.それに応じて能動者も二種類に分かたれる.

以下,イデアはこれらのいづれに存在するかが問われる.

7.或る種の能動者は「自然的本性によって」働く.この能動者は「自然的な存在に従って」目指

 す形相の類似を自らのうちに先在させている.

8.たとえば,人間や火がそうである.人間は人間を生み,火は火を生じさせるからである.

9. しかしかかる類似はイデアと呼ばれない.イデアは「自然的な存在」ではないからである.

      一以上〔6〕

10.別の種類の能動者は「知性によって」働く.この能動者は「可知的な存在に従って」目指す形

 相の類似を自らのうちに先在させている.

11. この種の能動者は人間,天使,神である.それらのうちで人間の建築家を例にとる.彼は精神

 のうちに建てるべき家の類似(範型)を先在させている.

12.かかる家の形相は家のイデアと呼ばれる可能性を有している.イデアは「可知的な存在」を有

 しているとするからである.      ,

13. しかしかかる家の形相は完全な意味で家のイデアと言うことは出来ない. --一以上〔フ〕

§5.以上の吟味

 (i)事実を提示することによる証明とそれによって明らかにされたイデアの性格

 〔9〕さて次に若干の吟味を加えよう.能動者,形相,イデア,範型等々の概念によって構成さ

(6)

1ろ6 高知大学学術研究報告 第28巻 人文科学

れた枠組の中で語られてきた以上の事柄は,我々がこの世界において追経験できる事実の範囲内に

おいて看取されて,承認される.そしてイデアをThomasの語る意味で理解するなら,確かにイデ

アと呼ぱれ得るようなものか人間の精神のうちに存在していることを事実だと突き止めることがで

きる.そしてかかる仕方の論述は先述した〔4〕「事実を提示する」ことによるイデアの存在の証

明であると言うことができるだろう.      `

 さてこのようにして徐々に明らかにされたイデアの意味・性格を結論としてまとめてみよう.

 イデアとは

1.事物とは別に存在するその事物の形相である.

2.範型と認識の根源の二つの機能を持つ.         ヅ

そして

3.精神のうちに存在する.一一しかしいかなる精神のうちに存在するのかが問題として残る.

 (ii)人間の精神のうちに存在する範型としての形相が完全な意味でイデアと呼ばれない理由

 〔10〕次に,建築家の精神のうちに存在している範型としての形相が,完全な意味ではイデアと

呼ばれる資格を有しない理由を考えてみよう.

 それは,かかる範型の形相を,

Thomasはイデアとは呼ばないからだ,と端的に答えることがで

きるであろう.しからば,何故Thomasはかかる形相をイデアと呼ばないのであろうか,これが

本来の問でなくてはならない.これを考えてみよう.

 人間が行う制作が現実のものとなるためには範型の形相のほかにさまざまなものを必要とする.

たとえば資材や工具ばかりではなく,それらを実際に扱う労働者や,技術(ars)も必要である.

そして制作は絶えず範型の形相(設計図)を見なからなされなければならず,しかもその結果,制

作の失敗(作り損い)もはいり得る.仮にうまく制作布れたとしでも,現実の制作物は決して範型

の形相通りに出来上がることはない.現実に描いた三角形が定義通りの三角形ではないように.

  このように人間の制作は不完全である.何故であろうか.それは,人間の制作が,彼の精神のう

ちに在る範型の形相のみでは現実化しないという理由による.範型の形相が完全な意味で範型であ

るためには,ただそれのみで完全な制作が遂行されなくてはならない.ところが人間の精神はかか

る意味での範型の形相を宿してはいない.

では何故人間の精神に宿る範型の形相は不完全であるのであろうか.それは,

人間の精神のうち

に宿る形相の存在(esse)に由来する.人間の精神に宿る範型の形相は’「可知的な存在」を有して

はいるものの,上記の意味で完全な範型として働くことができないような存在しか有していないか

らである.

 それは何故であろうか.それは,範型の形相を宿しているところの人間の精神が,そのような不

完全な存在(esse)しか有していないからに外ならない.

 それ故Thomasは,人間の精神における形相はイデアの範型としての機能を十分には有してい

ない,従って,範型としての条件を十分には満たしていないと見るのであろう.従ってそれは完全

な意味でイデアとは言えないことになる.      ”

 それでは果して,完全な意味で範型となるべき形相か存在する場はあるのであろうか.以下にお

いて〔11〕〔16〕で明らかにされるように,それは神の精神に外ならない.神の精神はそのような

存在を有していて,その結果そこに宿る形相もかかる存在を持つととになるからである.

 しかし我々は結論を急ぎ過ぎた.元に戻ってイデアの存在論証の後半を見なくてはならない.

(7)

15, a. 1におけるイデアの基本的性格とイデアの存在論証(岡崎) 1ろ7       Ⅳ.イデアは存在するか(2) §1.神の精神のうちにイデアが存在することの論証  〔11〕Thomasはこれ迄の議論を前提として,神の精神のうちにイデアか存在することを論証す る.すなわち 1.この世界は偶然に生じたのではなくて,知性によって働く神によって造られたのであるから

 (Quia igitur mundus non est casu factus, sed est factus a Deo per intellectum agente,*"'), 2.神の精神のうちに形相か存在していて,世界はこれにかたどられて造られたことは必然である

 (necesse est quod in mente divina sit forma, ad similitudinem cuius mundus est faCtus.(26)). 3. ここにイデアの特質か存する(Et in hoc consistit ratio ideae.<"n .

 Thomasは結論3において「故にイデアは存在する」と言わずに,「前提に(in hoc)イデアの 特質か存する」と語っている.これは「神の精神のうちに在る世界の範型としての形相がイデアで あると規定すれば,イデアは存在する」ということを意味している.そして「神の精神のうちに在 る世界の範型たる形相」がイデアと呼ばれるにふさわしい資格を有し得ることは既に〔10〕見た/  我々はイデアの存在論証の最後の結論に至ってやっとイデアの性格規定が完成するのを見ること ができる.そして更に,イデアの存在論証とイデアの性格規定とは分かち難く関係し合っているこ とも見ることかできる.しかし何故,その存在論証と性格規定が密接不可分に関係し合っているの であろうか.これについては後に〔14〕∼〔17〕見なければならない.

§2.イデアの存在論証(後半)の構造

 〔12〕上め存在論証の特長は,人間(建築家)の制作と神の制作を並行させている点にある.何

故両者を並行させることかできるか.それは,〔7〕で見られた様に両者共「知性的な能動者」で

あるからである.しかし並行関係は最後で成り立たなくなる.我々はこれらを上の論証過程にあわ

せて見てみよう.

1.神は,建築家と同様に知性によって働く.

2.家が建築家によって作られる様に,世界は神によって造られた.

3.建築家の精神のうちに家の範型である形相が在る様に,神の精神のうちにも世界の範型である

 形相が在る.

以上は並行関係にある/しかし各々の存在(esse)の次元は異っている.これが次の結論において

あらわになり,並行関係は破れる.

4.建築家の精神に在る形相は不完全な意味でイデアと言われる.しかし神の精神にある形相は完

 全な意味でイデアと言われる.

 結論4では並行関係は破れている.しかしそれにもかかわらず両者は一つの関係のもとにある.

それは並行関係ではなくて対比関係とでも言うべきものであろう.つまり,建築家という人間の精

神は不完全であるが,このうちに.さえ,不完全な意味でのイデアが存在している.ましていわんや

完全な神の精神のうちには完全な意味でのイデアが存在していないはずはない,という論法だから

である.

 ここにおいて明らかに

  〔不完全な精神〕:〔完全な精神〕=〔不完全な意味でのイデア〕:〔完全な意味でのイデア〕

という対比関係が看取される.そしてこれは「不完全」から「完全」への道を辿る論証,つまり

via perfectiva による論証と言えるであろう.

§3.-.イデアの存在論証(後半)の問題点

 〔13〕.この存在論証から生ずる一つの問題を明らかにしよう.それはvia

perfectiva の論法か

(8)

 158        高知大学学術研究報告 第28巻 人文科学 ら由来するものと言えよう.  人間の精神に範型の形相が存在していることを事実だと我々は承認することかできる〔フ〕〔9〕. そしてこの形相をイデアー完全な意味ではないにしてもーと呼ぶならイデアは確かに人間の精 神のうちに存在していることも承認できるであろう.なぜなら,既に見た様に〔9〕,このような 人間の制作は我々によって経験されるものだからである.(事実を提示する証明か妥当し説得力を 持つのはまさに「誰もが経験できる」という点にある). しかし「神が世界を造った」ということ は我々の経験を越える.これを,我々の経験範囲内にある人間の制作と並行させることは果して意 味を持つのであろうかという問題である. Thomasは,これについてはこの箇所において何一つ言 及してはいない.これはThomasを越える問題であるのかも知れない.  しかしThomasは明らかに並行関係を認めている.その根拠は一体どこにあるのであろうか.結 論から言えばそれは「存在の類比(analogia secundum esse)(28’)にあると思われる.人間はこの世界 のうちに存在して有限である.それに対して神はこの世界を越えて無限である.有限と無限,これら の間には何の関係も成立しない様に思われる.しかしThomasは両者の間に或る関係を認める.そ れは「創造」という関係である.「有限なる世界は無限なる神によって造られた」という関係である. 「創造」とは被造物に「存在(esse)」を与えることである.よって「無限の存在」である神は人間に       ¶    ・      ●● 「有限の存在」を与えた.ここにThomasは「無限の存在」と「有限の存在」の間に存在Cesse) の分有という「類比(analogia)」を認める.(ここから万物は神に似たものと言われる.)これが「存 在の類比」である(29)「無限の存在」と「有限の存在」の間に類比を認めることは「完全な存在」 と「不完全な存在」の間に類比を認めることになる.ここに不完全から完全への道, via perfectiva が拓かれる.そしてここにThomasにとって神と人間を並行させ得る根拠があると思われる.

    V,イデアの存在論証の意味−イデアの性格規定とイデアの存在論証の関係一

§1.イデアヘの問の性格

 〔14〕「イデアとはそもそも何であるのか」そして「イデアは存在するのか」という二つはイデ

      ●      ・     1

7に関する根本的な問である.既に見たように〔11〕,こめ二つの問は切り離すことはできないと

思われる.それは何故であろうか.

 物質的な事物を自然学において問う場合,「それは果して存在するか」と問いはしない.なぜな

ら我々はその事物の存在に感覚を通じて或る意味でrealeに触れて,その存在を了解できるからで

ある.(仮にその存在を問うとしても,実験によって,感党を通じて捉えられ得る限りでの存在を

問うのである,そしてその問は「それは何であるか,どんな機能を有するか」等々のその事物の本

質を問うための準備としての性格を有するに過ぎない.)

 それに反して,イデアは形而上学的な存在者である.我々は物質的な事物のようにその存在を

realeに了解することはできない.従って我々は「それは何であるか」と共に「それは存在するか」

を同時に問わなければならない.

 ところで,イデアの性格規定とその存在は或る意味で相補的である.それ故,イデアを任意に都

合のいいように規定したとしても,必ずしもその実在性は保証されないし,又逆に,イデアを存在

するように規定したとしても,その規定はイデアの本質を逸しているかも知れない.だから「イデ

アは何であるのか」と「イデアは存在するか」の二つを両天秤にかけながら問わねばならない.

 〔15〕しかし手順としては,イデアの規定から始めて,そめ存在を問うことになろう,さてイデ

アはイデアと言われるために最底必要な性格を有していなくてはならない.それは一体何であろ

うか.既に見たように〔3〕イデアは二つの条件を満たしているものであった.すなわち,一つは

 「事物とは別に存在するその事物の形相」であった.(これは事物からの分離を意味している条件

(9)

αjにおけるイデアの基本的性格とイデアの存在論証(岡崎) 1ろ9 であらた,)・いま一つは「範型としての機能と認識の根源としての機能を兼ね備えた形相」であっ た.ブ(これはイデアの働きを表わす条件であった.)       プ  しかし「このように規定されたイデアは果して実際に存在する(esse)のであろうか」という問 題が生じる. だがこれは難しい問題を孕んでいることを指摘しておいた〔4〕.なぜなら「イデア か存在する」と言う場合,その存在(esse)‘はいかなる意味を有するのかという存在の問題が生じ        ● ● ● ● ● ● ●        . ‘てくるからである.従って我々はこの問題,「イデアはいかなる意味で存在すると言えるのか」・を 避けて通るこどができない.″      :・  そこで我々は「イデアは存在するか」という問をこう問い直さなくてはならない.かかる仕方で 規定Iされたイデアが存在するとしたら,「それはどのように存在するのであろうか」と.すなわち イデアの「存在の仕方(modus essendi)」を問わねばならない.このように,イデアヘの問いは  「存在(esse)」をいかに把握するかにかかわってくるのである・  ところで, Thomasにおいても,イデアの存在を問うことは,イデアの存在の仕方を問うことに なっている. そしてそれは結局Thomasにとって,イデアが存在(esse)する場を切り拓く・こと に外ならないのである.なぜなら,イ・デアは,自らが存在する場と同じ存在性(entitas)を有する からである.すなわち,イデアは,自らが宿る場と同じ「存在の仕方」を持つからである.このよ うにThomasのイデア論も,そめ存在論と切り離すことができない関係を有している. §2.イデアが存在する場の探究−一一−イデアの存在論証のまとめ一一      し  〔16〕Thomasはイデアが存在す名場を探究するjそれはThomasのイデアの存在論証の過程で I  .      ●I    ●       ● 遂行されている.そこで我々ぼ,かかる存在の場の探究という視点から,イデアの存在論証を見直 してみよう.・ 1.イデアは質料的事物において存在するのであろうか.この場合,イデアは事物の’「形相」とな  る.無論答は「否」である.なぜならかかる形相は質料から離れては存在し得ない形相であるか  らであって〔31,イデアの「分離」という第二条件に反するばかりか第二条件の「二つの機能」  も有しないからである.       犬   質料的事物の形相はイデアの条件を満たすことができないような仕方で存在している.それは  質料的事物がまさにそのような存在(esse)しか有していないからに外ならない.従って質料的  事物はイデアが存在する場となることはできない.       − 2.それでは能動者のうちに存在する範型の形相はどうであろうか.この形相は一応イデアの二つ  の条件を満たしているように思われる.〔5〕   まずはじめに「自然的本性によって」働く能動者のうちに存在する範型の形相を検討する..か  かる能動者は自然的な存在(esse naturale)の仕方をしている.従ってこのうちに存在する形相          ●●      ■        ● ●● ● ●●   ・ ・ ごも,「自然的な存在」を有する.だが,かかる形相はイデアの第二条件の認識の根源としての機  能は有しない.なぜならかかる能動者は「知性によって」働かないからである.すなわち自然的  な存在は認識という働きを欠く存在でしかなく,従ってここに宿る形相も認識という機能を欠く  ところの非知性的な存在(esse)しか有しないことになるからである.それ故,自然的本性によ  って働く能動者もイデアが存在する場とはなり得ない.〔6〕 3.では次に,認識力を有する能勁者つまり「知性によって」働く能動者のうちに存在する範型の  形相はイデアの資格を有するであろうか.答は一応「然り」と言わねばならない.なぜならかか  る形相は,イデアの二つの条件-一一「事物から分離している」・「二つの麟能を持つ」-を一  応兼ね備えているからである.しかしよく検討してみなければならない.,

(10)

140 高知大学学術研究報告 第2R巻 人文科学

 かかる能勁者は可知的な存在(esse

intellgibile)の仕方をしている.従ってこのうちに存在

する形相も可知的な存在を有する.ところでかかる能動者に,人間,天使,神が含まれる.そこ

で(天使を除いて),人間の能動者のうちに在る範型の形相から吟味をしていこう.

 たとえば建築家の精神に存在している家の範型の形相はイデアと呼ばれ得るか.既に見たよう

に〔10〕それは完全な意味でイデアとは呼ばれない.なぜならそれは完全な範型として働かない

からであった.人間の精神は不完全(有限)な存在(esse)しか有せず,従って,そこに在る形

相も又不完全(有限)な仕方でしか範型として機能しないととになるからである.つまり人間の

精神のうちに存在する形相もそういう不完全(有限)な存在(esse)しか有しないからに外なら

ない.それ故人間の精神はイデアが存在するに轟さわしい場にはなり得ないのである.〔7〕

 さて今迄検討してきた三つの段階の存在一―質料的な存在(esse

materiale) ,自然本性的な

存在(esse

naturale) ,そして可知的な存在(esse

intellgibile)のうちの人間の精神か有する存

在一一はいづれも,「真の完全な意味での存在」と言うことはできないであろう.

なぜならいづ

 れも不完全な働き(operatio)しか有しない存在(esse)であったからである.そしてかかる存在

 はイデアの二条件を十分に満たすことかできないのであるi  丿

4.それでは神の精神のうちに存在している形相はイデアと呼ばれ得るのか.無条件的に「然り」

 と答えねばならない.神の精神のうちにある形相は,既述の如く〔10〕,完全な意味で範型とし

 て働く.しかもイデアの二つの条件を完全に満たす.なぜなら,神の精神に宿る形相は,完全に

 事物から分離しており(第一条件),そして範型として完全に働き,しかもその形相に従って完

 仝に万物を認識する(第二条件)からである.それはまた,神の存在(Esse)がそのように完全

 (無限)であるから〔13〕,それ故そこに宿るイデアもまたそのように完全(無限)な存在を有

 して働くからに外ならない.つまり神の精神のうちに存在する形相はイデアの二条件を完全に満

 たすような存在の仕方をしているのである.それ故,神の精神こそ,イデアが存在するに最もふ

 さわしい場であると言わねばならない.

我々はここに至ってはじめて, 「ありかつあらぬ」ではなくて,

イデアが本来存在するべき場,すなわち「真の完全な存在」一一

「常にある」--を見い出すことができた.そして同時にイデア

を恒常不変・自己同一を保つ完全な存在者として見い出すことかできたのである.

 Thomasにおいては,存在(esse)とはかかる働き(operatio)を有する極めて動的な性格を有

しているのである.

§3.V章の結論

 〔17〕イデアの存在の場を問うことによって,イデアはどのように存在しているのか,どのよう

な存在を持つのかか明らかとなった.それ故「イデアは存在するか」という問いは,同時にその結

論において,イデアの性格の規定を完成させるものとなったのである. ここに,先に述べた〔14〕

 「イデアとはそもそも何であるか」と「イデアは存在するか」の二つの問が不可分に結びついてい

る根拠か存する.       ● ,

       VI,結  論−イデアの基本的性格一一−

 〔18〕最後に結論を述べなければならない.既に見て来たように,イデアの存在論証全体は「真

の完全な存在」の追求であるという観点から見た時に理解ざれる.そしてその存在論証と共にイデ

アの性格規定が完成する`.その意味でThomasのイデア論は存在論と固く結びついていると言え

(11)

1) 2) 141

よう.

 さてここで,以上で明らかにされたイデアの基本的な性格の規定をまとめてみよう.

 イデアの条件は三つある.

 1.<事物からの分離を意味する一般的規定>

   イデアとは,事物とは別に存在するその事物の形相である.,

 2.<機能の規定>

   イデアは二つの機能を持つ.すなわち

  i)範型としての機能   :

  ii)認識の根源としての機能,である.

 3.<存在の場の規定>

   イデアは神の精神のうちに存在する.

しかしなお問題は残されている.

Thomas哲学において,

 1)神の精神のうちでイデアはいかなる仕方で存在するのか,

 2)イデア論は存在論とどのようにかかわり合っているのか,

 3)イデアの基本的な性格の規定μできたが,イデアの本質の規定はできていない.果してイ

  デアの本質は何か,

 4)イデアの二つの機能はいかに関係するのか,

  である.

 これらには機会を改めて言及したい.       .・

Ⅶ.使用したテキスト

略号  I       テ キ ス ト

・・Thomas Aquinas : Summatheologiaeparsprima.Marietti. Met. ■・・Ross. W. D. : Aristotle’sMetaphysics,Oxford, 1970.

       Ⅷ。参 考 文 献

1)Si.  Thomas Aquinas, Summa. Theologiae, Latin teエt and Knglis}y translation. Introduction。  Note,AIゆendices and Glossaries, Blackfrias, London, 1963.

2)トマス・アクィナス,「神学大全」第2冊,高田三郎訳,創文社. 1967.

3 ) Thomas Aquinas t Quaestiones disputatae, De veritate. Marietti。` 白

4)「トマス・アクィナス」山田晶訳,世界の名著・続5,中央公論社, 1975.

5)「形而上学」出隆訳,アリストテレス全集12,岩波書店, 1968.      一

      Iχ.註

(1) Met., A, c. 9, 980b 8-9.

   &‘be Ka8' ois rμ・novi btUwμ印&・I ≪<m ?・&ぞrsr,.    (car* ovBiva.φalvfTM T・o会ωzz・ (2) Ibid., A, c. 9等,      犬 ぺ (3)例えば「神学大全」第一部第十五問における三つの項において, Augustinusの「八十三問題集」から  四回も引用をなし,そしてそれをThomas自身のイデア論の拠り所としている.更に「真理論」第三間第  一項「イデアは存在するか」に限ってみてもAugustinusからの引用は七回に達している.  ・.,へ (4)イデア論を強力に斥ける立場にあるAristoteles説をThomasはいかに批判し自らの哲学のうちに取り

(12)

142

高知大学学術研究報告 第28巻 人文科学

  込むかを明らかにした後に:は,イデア論を認める立場,とりわけAugusti!lus説をいかに取り込むかも同   様に明らかにする必要かあるであろう.

(5) I, 15, 1, c.

    Respondeo dicendum quod necesse est ponere in mente divina ideas. (6) Ibid.,       :

    Ideaenim graece, Iatine forma dicitur: 閉 Ibid.,

    unde per ideas intelliguntur formae aliarum rerum, praeter ipsas res existentes.    St. TiiomasAquinas, Summatfieologiae.Latin textand&

 Not・, AppendicesandGlossariesBlackfriars, London, 1963,によれば上記の原文は次の様に訳さ  れている. hence by ‘Ideas' we understand forms of other things, existing apart from the  things themselves.   高田三郎訳「神学大全」第2冊(創文社, 1967) 69頁においては,「ここに,「イデア」という言葉によ        ●●●●      ●   つて,諸々の事物とは別に存在するごとき「それらの事物の形相」が理解される所以か存する」と訳されて   いる.(傍点は筆者による) (8) I, 15, 1, c.      ..

   Forma autem alicuius rei praeter ipsam existens, a4 duo esse potest ;

  同じく上註の英訳はNow the form of a thing having an existence apart from the thing itself,  can have twofunctionsべイタリックは筆者による)

  同じく高田訳は「ところで,事物とは別に存在するごとき「事物の形相」の役割に二通りありうる」とあ  る(傍点は筆者によるλ      , ご

(9) I, 15, 1, c.

   vel ut sit exemplar eius cuius dicitur forma ; vel ut sit principium cognitionis ipsius,    secundum quod formae cognoscibilium dicuntur esse in cognoscente・

旧 I. 15, 2, c

   Hoc autem quomodo divinae simplicitati non repugnet, facile est videre, si quis    consideret ideam operati esse in mente operantis sicut quod intelligitur ; non autem sicut    species qua intelligitur, quae est forma faciens intellectum in actu.

圓 I, 15, 3, c.

   Secundum vero quod …ad omnia Quae a Deo cognoscuntut secundmn propriamrationem   et secundum quod cognoscuntur ab ipso …(イタリックは筆者による).このpropriam rationem   はイデアのことである.

旧 I, 15, 1, c.       ,    Et quantum ad utrumque est necesse ponere ideas. (13 I, 47, 1, c.

  sed eχ concursu multarum causarum agentium. Tale a・utem dicimus provenire a casu. (イ  クリックは筆者による)       パ

tt4) I, 15, 1, c.      ,

   In omnibus enim quae non a casu generantur, necesse est formam esse finem genera・    tionis cuiuscumque.

旧 I, 44, 4, c.       \\. `

  Respondeo dicendum quod omne agens agit propter finem. 註i.6においてはfinemの位置に  ’formamかはいっている. finisはformaであるからである.

閥 I, 15, 1, c.

   Agens autem non ageret propter formam, nisi inquantum similitudo formae est in ipso. ㈲ 「賦与された形相」は〔4〕における「獲得された形相」と同義である.すなわち〔3〕の質料と共にあ

 る形相にほかならない. 叫 I, 15, 1, c.

   Quod quidem contingit dupliciter. In quibusdam eりim agentibus praeexistit forma rei    fiendae secundum esse naturale,

    …中略…

   In quibusdam vero secundum esse intelligibile, 旧 Ibid.,      ゜

 ゛ In qibusdam・ enim agentibus praeexistit forma rei fiendae ’secundum esse naturale, ’I  sicut ・in his quae agunt per naturam ; :   ・      ’ (20 [bid.,      ‘         フ ,>

(13)

9. 15・α.1におけるイデアの基本的性格とイデアの存在論証(岡崎) 145

勧 I, 15, 1, c.

   In quibusdatn vero secundum esse intelligibi】e,ut in his quae agunt per intellectum ; 叫 Ibid.,

   ut in his Quae agunt per intellectum ; sicut similitudo domus praeexistit in mente    aedificatoris.

叫 Ibid.,

   quia artifex intendit domum assimilare formae quam mente concepit. 叫 Ibid.,

   Et haec potest dici idea domus : 帥 Ibid,

  このことの証明はI, 47, 1, c

  Sic igitur complementum universi. quod in diversitate rerum consistit, esset a casu : quod  est impossibile.

  Unde dicendum est quod distinctio rerum et multitudo est ex intentione primi agent is,  quod est Deus.

な口 I,15, 1, c.

匈 Ibid.,       ・ 帥 I, 4, 3, c

   Si igitur sit aliquod agens, quod non in genere contineatur, efFectus eius adhuc magis    accedent remote ad similitudinetn formae agentis z non tamen ita quod participent simili・    tudinem formae agentis secundum eandem rationetn speciei aut generis, sed secundum    aliqualetn analogiam, sicut ipsum esse est commune omnibus. Et hoc modo ilia quae    sunt a Deo, assimilantur ei inquantum sunt entia, ut primo et universali principio totius    esse.

叫 ここの理解は,「トマス・アクイナス」(世界の名著)山田晶, 1975,の48∼53頁に負う.

(昭和54年9月29日受理)

(昭和55年2月21日発行)

(14)

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