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保険非商品説再論の
ゴ西
藤
雅
夫
一 B・ 保険学がもともと経済学であるためには、いったいどのような立場をとらねばならぬかということ、さらに進んでその 経済学では、保険が商品と見られないということについては、しばしばこれを論じて来たので、いまさらくり返す必要は ない。保険学における私、の考え方は、根本的にはこれにつくされるが、これに対しては、もとより多くの異論が予想され るであろう。事実、最近いくつかの批判を公私ともに耳にするようになった。そこで、もう一度これをとり上げ、これを 聴きながら、改めて私見を開陳することは、あながち無用としないのである。 いうまでもなく一つの主張には、それだけの根拠がなければならない。同様に、それに対する批判も、また深い理由が あるはずである。したがって、ある主張がなされる場合には、およそ予想せられる批判や疑問を前提とし、それらを反省 ・吟味しながらこれを進めなければならないし、またそのような反省と吟味とは、主張がすすんで、何らかの理論的体系 が形づくられた後においても、なお重ねられることを必要とする。学問か、つねに謙虚な態度によってのみ築かれること は、いうをまたないのである。 ところで、私は私なりに、みずからの主張を展開する過程において、この態度を忘れなかったつもりである。行論がや 保険非商品説再論 8 一保険非商品説再論 e ・ 二 や冗漫であり、くどくどしさを免れ得なかったのも、そのためとしてお許しを得たいと思う。 そして、さきに拙著﹁保険の経済理論﹂︵昭和三十五年五月︶を公刊することによって、私としては、一応の理論体系を きずいたことになるが、それについても、やはりこのような願いを離れていない。所詮、未熟な独断でないことを期して いる。そういう際に、多少とも私見がとり上げられ、しかもそのとり⊥げが根本的な里国点にふれていることは、私に対 する好意以外の何ものでもなく、ありがたいというほかはない。 そういう意味で、この好意に応えるためにも、さらに私自身の体系を確かなものにするためにも、退いてそれらの問題 点を究めるべきである。あえて再び筆をとったのは、私の盲断を重ねる意図,でもなく、まして論争をかまえようとする心 でもない。私が、何をどのように考えようとしたかを、みずからのうちに確かめようとするにすぎぬのである。幸いに叱 正を得たいと思う。 さて保険学がとるべき立場については、すでに二度の機会にふれるところがあった︵拙稿、保険学の立場、保険学雑誌、三 九〇号。再び保険学の立場について、本誌,六八号︶。 そして、その立場が説かれた場合に、つねに、保険の商品性が当然にと り上げられたし、それもまたいくつかの機会に論じられたのである︵拙稿、保険の本質とその商品性、本誌、二九号。保険本質 論の展開、小島昌太郎博士古稀祝賀記念論文集。保険の↓つの反省、保険学雑誌、四〇三号など︶。 これらは、私見によれば、たがいに不可分の問題を形づくり、ぎり離してはもともとこれを論じ得ない。ただここでは 行論の煩をさけるため、前者については反覆しないが、それでもやはり、多少これに触れることを免れがたい。それもや むを得ぬこととして、寛容を仰ぎたいと思う。 二
いまここで、保険学説の発展を詳かにするつもりはない。ただ一つ指摘したいのは、それぞれの特徴をもって展開され たもろもろの学説は、私見によれば、いずれも多かれ少かれ効用の側に平射の基礎を置いているという点で共通するとい うことである。法律的解釈も、本質的にはこの域を出ないといえる。ここに効用の側といったのは、いわば消費者たる加 入者において、保険がどういう役割をもち、したがってどういう過程をとってそれが成りたつかとの点から、保険の本質 がながめられているということにほかならない。 しかし、このようないわば消費者、つまり需要の立場からの考察が許されるとすれば、同時にそれは、いわば生産者つ まり供給の立場から、同様に老察されるはずである。しかもこの後の立場は、今日の資本主義経済組織のもとでは、企業 のそれにほかならぬのであるから、その意味では保険の本質は、むしろ企業の立場においてとり上げられなければならぬ といえる。私の考え方は、根本的にはそこから出発するのである。 もとより需要は供給によって成りたち、供給は需要を前提とする。両者は、たがいに不可分の関係においてのみとりあ げられる。その点で、かりに私が、いわば供給の立場から保険を見るとしても、それは需要の立場を無視していない。も ともと需要が効用を、そして供給が、企業の技術過程をそれぞれ前提とするのであるから、保険もまたその意味で、効用 と技術との不可分の関係において考察せられるべぎこと、いうをまたないのである。 そのことを、私はとくに保険理論の二面性と名づける。保険の本質は、あくまで、このような二面性を含んだものとし て、明らかにせられるであろう。しかしそうはいうものの、経済の成りたちから見れば、基本的にはまず供給、すなわち 企業の技術過程によって、それが支えられているとせねばならない。それぞれの産業部門は、その部門を支えるもろもろ の企業の、固有の技術過程によって特徴づけられるからである。 そういう技術過程に特徴をもつそれぞれの企業が、供給によって需要に立ち向う。そして需要は、これらの供給に結び 保険非商品説再論 e 三
保険非商品説再論 e 四 つけられて、それぞれの効用をみたすのである。このような需給の結合関係が市場を形づくり、価格はそこに成立する。 需要も供給も、価格を通してのみ可能であり、需要の側における効用もまた同断である。 ところでこの場合、供給の側における企業の技術過程が、価格したがって市場の形成を前提とし、それに制約されそれ に支えられることにおいては、また例外ではない。私がとくに技術過程を問題にするのも、まさにその意味においてであ る。弓術過程への着目が、単純に技術そのこと、いいかえれば経済に対立するものとしての技術でなく、むしろ経済にお ける抜術を指しているのは、これで明らかであろう。経済学、とくにいわゆる部門経済学ないしは経済学各論において問 題となるのは、このような技術過程にほかならない。 いま保険学、もろもろの産業部門のうちで固有の領域をもつとすれば、保険学の理論は、当然にこのようなものでなけ ればならぬはずである。すなわちいわば供給の側において保険企業が、どのような技術過程をその経営の内容とし、これ に対していわば需要の側においてもろもろの加入者が、保険の効用をいかにしてみたすか、という観点から理論が構成さ れるであろう。 ところでいったい技術過程は、企業にとっては、資本の循環過程のほかの何ものでもない。すなわち資本が、その企業 において、具体的にどのような形をとって順次に姿をかえて行くかの道行ぎを意味している。企業は、そういう資本循環 の担い手として理解せられるが、しかもその資本が、ひろく国民経済の舞台で、他の企業におけるそれぞれの資本とどの ように交渉し連繋するかという関係において、その資本循環がとり上げられるとぎ、その産業部門についての経済学つま り部門経済学ないしは経済学各論が成立することとな・る。 私が右で技術過程といったのは、この意味での資本循環を老察することである。そこでその資本循環が、どのような点 でその企業の固有のものであり、またいかにしてその産業部門で特異の性格を示すかの考察が、まさに経済学の理論を形
つくる。技術が経済におけるそれであるというのは、まさにその意味においてであり、いわば供給の側からのこのような 考察において、これに結びつく需要の側で、効用が論じられるのである。 保険もまた、この例外をなすものではない。保険におけるいわば供給すなわち固有の抜術過程が、いかなる構造をもち どのような機構において成立するかを考察することによって、はじめていわば需要がこれに結びつくところの意味が明ら かとなり、加入者における保険の効用が論じられるのである。保険学が経済学である限り、出発点はまさにこのことにあ り、理論の展開はそこからなされると知らなければならない。 かくして、私においては、保険の経済理論は、保険企業の技術過程をとり上げることに始まり、またそれによって可能 となる。しかしこのことは、しばしば指摘したように、保険の経営学的考察を意味しない。いま、保険企業の経営に考察 が及んでいるにしても、眼は、もとより経済的な機構に注がれている。保険企業に着目し、保険の機構をとり上げるとい うのは、このことを指している。保険の商品性の問題は、理論のこのような立場から吟味せられるべきである。 r三 かくの如く企業の技術過程に着目し、それによる供給を需要に対立せしめるとぎ、そこに観念せられるものは当然に商 品でなければならない。企業と商品との二つの概念は、いわば不可分のものとして成りたつであろう。その場合に企業の 技術過程は、供給の側における商品形成の道行きであり、効用は、需要の側における商品使用の道行ぎである。 いまこのことを価値に即して見ると、商品形成の過程は、価値形成のそれである。もとよりこの価値は交換価値である が、その交換価値が、供給の側、すなわち企業の手でどのように形づくられるかの道行きが、ここにいう抜術過程を指し ている。かくして形成ざれた商品が、交換の関係を通して、その需要の側において、使用価値として意識せられる。経済 保険非商品説再論 e 五
保険非商品説再論 e 六 がまず交換価値を問題にする限り、この企業の技術過程に着目するのは、当然のことといわねばならない。 かく見て来ると、保険においても同様のことが論じられるであろう。すなわち、もし保険企業に、他の企業とは異った 固有の法術過程が成りたつとすれば、それは保険商品の固有の形成を意味し、反面に加入者におけるそれの使用が、保険 の効用をもたらすと闘えられる。いま後のことは、ここでは問題でない。問題は前のことにある。つまり保険において、 いかにしてどのような商品が成りたつか、ということそのことにほかならない。 ところで保険におけるこの商品の形成は、同時に保険における価値の形成である。後にもふれるように、保険の技術過 程では、保険料と保険金とが対応的に老婦せられるから、価値形成の問題は、つねに保険料について考察せられ、その保 険料の性質にしたがって、保険料の価値形成の次第が説かれる。いまは、このことに論及しない。 右のような意味で、保険企業に着目し、その技術過程を老察する立場からは、保険の商品性がみちびき出されるのは、 当然の成り行きといい得るであろう。今日説かれるところのいわゆる保険商品説が、このことを意識しての結論であるか どうかは、いまはあえて問題でない。私見によれば、そのような意識はあまり明確ではなく、ただ何となく、それが当然 のこととして、商品性がとり上げられているようである。その意味で、次の庭田異汗氏の所説は注目せられてよい。 同氏は、つとに保険商品説を問題とし、これに関する諸学者の主張を分析・批判し、かくしてこれを否定する結論に到 達した。そしてその過程において、私見をかなり詳しく紹介し、これに論評を加えているが︵庭田範秋、保険商品説の研究、三 田学会雑誌、四八巻一〇号︶、その後の論文においても、かなりきびしくこの学説を批判して、それが理論的根拠を欠き、単 に俗耳に入りやすいからにすぎぬと論難している︵同氏、保険経済学の論争点、三田商学年報工し。すなわち次の如くである。 保険商品説が、今日もなお、しかも相当広範に残存している根拠は、それが俗耳に入りやすいからである。確かに保険業者の立場か らすれば、一般大衆を保険に勧誘し加入させるには、保険を商品として説明するのがもっとも簡単であろう。︵中略︶従って、ごく便利
的・便宜的な意味で、保険商品説を主張するならば、なんら反対の理由はないし、そればかりか有益ですらある。︵中略︶保険業が商業 だと述べることによって、保険に運命的に附随している﹁種の体臭を消すことができ、それによって俣険が少しでも多く普及するなら は、保険商品説も悪いとだけは断ぜられまい。︵前掲、一三九頁︶。 もっとも同氏の見解は、私見と必ずしも立場を同じくしない。それは、明らかにマルクス経済学の立場において展開さ れた理論であって、この立場における限り、保険商品説の克服が絶対に必要とせられるというのが、同氏の考え方である ︵前掲、一三八頁︶。すなわち氏によれば、マルクス経済学における用語の奇怪ないいまわしにすぎない程度では、保険の経 済理論を進歩せしめるものではなく、保険商品説は、マルクス経済学の商品論において、根本的に完全に否定しつくされ ているはずである、ということになる︵前掲、一四〇∼三頁︶。そのことについては、後にふれるつもりである。 いま私が問題としているのは、経済理論の体系がマルクス的であるかどうかの、学派的所属の意味での立場ではない。 そのことから離れて、およそ右のように保険企業の、企業としての技術過程に着目することが、直ちに商品性をみちびぎ 出すであろうか、さらにその場合の商品性はいかなる内容をもつのであろうかの吟味が、最も根本の課題となるというこ とである。そのような立場でこの課題がとり上げられるとき、必然的に、保険の商品性が否定されざるを得ないというの が私の主張にほかならない。 ところで庭田氏の見解においては、マルクスの幸え方にしたがって、商品は価値と使用価値との対立物の統一であるが いま保険を商品とした場合、その使用価値は安心感とか安全感といったもの以外になくなる。それは、保険の効用として 心理的なものであって、使用価値自身は経済学の対象ではあり得ない、ということになる︵庭田、前掲︶。 この見解においては、商品の価値は、社会的労働として規定される。保険はどのように見ても労働の生産物ではない。 もともと生産物は、労働過程を経ることなくしては、現われないからである︵前掲︶。もとより保険の経営に労働は存在す 保険非商品説再論 e , 七
保険非商品説再論 日 八 る。しかし、労働の対象たる何ものもない。その場合に、いかにして保険という商品ができるのであろうか。これだけで も保険商品説の否定は十分である、とせられる︵前掲︶。 ここで、保険をサーヴィスとすることも、同氏によれば正しくない。保険労働がサーヴィス労働であることは肯けると しても、サーヴィスとして捉えた保険が、保険労働が商品であることによって商品となるとすることはできない、と、同 氏は論断する。この労働力が保険であるとすれば、それこそ問題にならぬ誤りであって、ここでも保険商品説は否定され る。つまり、マルクス経済学では、保険はあらゆる意味でその商品性が否定せられる。これがこの主張の根本点である。 ︵前掲、一四三頁︶。 そこでつづいて、保険商品説が否定せられる以上、保険資本が商品取扱資本であるとすることはできなくなる。むしろ 保険資本の運動形態が、商品取扱資本のそれと相違するということから、保険は商品でないという結論が生まれる。かく してこの見解によれば、保険資本は、 貨幣取扱資本の一種として規定せられる︵前掲一四二∼三頁︶。 同氏のいわゆる貨幣 予備説への展開は、そこから生まれるのである。 、 いま私は、この見解について、ことさら論評を加えるつもりはない。もっとも、保険の商品性を否定することにおいて 同氏と同じ結論に到達するにしても、それに至る論理の道行きについては、私見は決して軌を一にしないのである。そこ で、私は私なりに、この道行,ぎをもう少し明らかにすべき順序となる。 四 いったい商品が論ぜられる場合、まず労働の生産物がとり上げられる。それが有形であるか無形であるかを問わない。 いま保険においてこれを認め得ないことは、すでに右で明らかである。たとい無形の商品性が有形の保険証券に表現せら
れるとしても、その保険証券が売買せられると見る如ぎは、問題にすらならぬ謬見である。保険証券は、一般の有価証券 と事情を異にしている。これについては、後にふれることとする。そこで問題は、証券に表現せられる実体にある、と知 るべぎである。 第二にいわゆる労務も、また商品である。それが無形であり、かつ労働の生産物である点で、右の場合と共通してはい るが、それがいわゆる即時財︵訴§§8島σq。巳︶である点で、全く性質を異にする。ここに即時財とは、生産と供給、し たがって需要と消費とがもともと同時的に成立することを意味するが、それはまた、言葉をかえれば、生産と消費との同 一性にほかならない。 一般の商品では、まず生産があり、それにもとづいて供給がなされる。この供給は、他面から見れば需要を指すが、し かもその需要にもとづいて消費が行われる。生産、供給・需要、消費の三者は、それぞれ時間を異にして前後して成立す るのである。したがって、生産と消費との間には、つねに数量的不一致を免れない。売り惜しみ・買い占め・売れ残り・ 退蔵などの現象は、そのゆえに起らざるを得ない。 しかるに労務においては、このことがない。生産はそのまま消費なのである。両者は、もともと数量的に一致する。む しろ進んでいえば、それらは概念的に一つのものと見られ、その意味で、たがいに即時的・即一的である。両者の間に空 隙がない。そこでいま、これを交通労務について考えてみよう︵拙著、交通総論、第二版、五〇∼四頁︶。 いまここに百人の輸送ありとせんか、それは供給者にとっては百人分の交通労務の生産であり、同時に需要者にとって は百人分の消費を意味する。それは、交通機関によって行われた、ある客体の一定距離の移動という、ただ一つの事実で ある。もし百人の輸送可能な交通機関によって、五十入の場所的移動が現実に行われた場合には、それは百人の輸送では なく、実は五十人の輸送にほかならない。ただその場合には、百人分の輸送に要するであろう費用とほとんど変らない額
保険非商品説再論e九
保険非商品説再論 e 一〇 が、支出されるにすぎぬのである。 この事実を需要の側から見れば、現実に五十人分の消費がなされたことを意味する。そしてここに注意すべきは、生産 と消費とは同一事実の両面であり、その点で同時に成立するということである。前者が後者に先行するという時間的関係 は、もともとあり得ない。 重ねていえば、交通労務については、需要において生産が成立する。しかしそれは、一般の商品について、需要なくし て生産が行われないというのとその意味を異にする。一般の場合には、需要がないにかかわらず、これを誤認して生産が 行われても、その生産は無用となるほかはないから、いぎおい生産が行われない状態に落ちつくということを指す。交通 労務にはそのような関係はない。この場合は、単に、費用が無用に帰したというにすぎぬのである。 交通労務においては、消費は生産を措いては考えられず、逆.に、生産は消費を離れてあり得ない。すなわち、生産と消 費との二つの概念は、同時両面的に成立する一つのものとして捉えられる。それは、交通労務が、交通機関という設備を 利用せしめる行為によって、具体的に構.成せられるからである。この利用を可能ならしめる行為が、労働によってもたら されるこというまでもない。 さて保険は、このような即時財的性質をもつ商品であろうか。 これについては、佐波博士の有力な主張がある︵佐波宣 平、保険学講案︶。すなわち次のように述べられる。 保険は附従契約である。ここでは、発言権は原則として保険者の側にあり、保険契約者はただ附従するのみであって、保険料をはじ め保険契約に関する条件は多くの場合保険者によって定められる。こうした関連が人々をして保険を普通の商品と見なさしめる。 しかし、これのみが保険の全面ではない。上記のゆえに、保険をただちに﹁般商品と同一視することは許されない。︵新色保険にお いて需要と供給との問にすこしも空隙がなく需要が同時に供給を本質的に構成するためである。
買い占めやストックの利かないのは一般に即時財の特微であって、この点、交通労務や電力も大体同様である。これらを供給する事 業が供給量にO$貫。唆る①跳を示すのは、それが即時財を取扱うがゆえである。ところが、保険には、こうした℃$貫駄㍗℃①路がな い。特に巨ω㌣げ。自ωというものがない。ここでは、多々益々弁する。需注に応じきれない保険なるものは考えられない。むしろ、契 約件数の多い場合ほど、大数法則はより完全となり、安全割増はより小さくなる。結果として、保険料は低下する。これは交通事業や 電力供給事業などとちがって、保険の場合は、需要と供給︵需要者と供給者︶との間に本質的対応の関係がないからであるΩ馴掲、八六∼ 七頁︶。 、 この見解は、やがて導かれて、価格︵保険料︶をめぐる供給の弾力性の理論に展開せられ、保険においてはそれはきわ めて大きいとせられる。少くとも純保険料に関する限り、そういうことになる︵前掲、八九頁︶。 いま私の問題はそこには ない。問題は、このような商品の実体をなすものはいったい何であるか、ということそのことである。その場合この見解 によると、それは可能的債権にほかならぬ、ということになる。すなわち次のように述べられる。 上で保険では需要が同時に供給を本質的に構成するといったけれども、この場合の供給は、﹁可能的債権﹂つまり未来に一定の事故が 発生するならば所定の保険金を支払うであろうとの約束の提供を意味する。通常の売買では商品の引渡が供給であって、供給によって売 買行為は終了する。しかるに保険においては可能的債権の提供または約束が供給である。したがって、供給がなされたとてそれでOΦ8− 罫諏は終了しない。仕事は未来にのこされている。むしろ、そういった未来性をもつところに保険供給の特微がある。︵前掲、九〇頁︶。 これで明らかなように、この見解によれば、保険は一つの労務であり、その内容は約束の提供を指している。しかもそ のような結論にみちびくところの根本は、それが即時財たる性格をもっているということにある。しかし、私見によれば この結論に至るにはもう少し順序がなければならぬし、その道行ぎにおいて、つき進んで明らかにすべき問題点が残され ている。それらについては後にふれることとし、ここではただいわゆる労務もまた商品たることを指摘するにとどめる。 五 保険非商品説再論 e =
保険非商品説再論 の 二一 商品の第三の形は、いわゆる関係財に見出される。それは、無形であるという点で右の労務に通ずるが、しかもこれと 根本的に異っている。この場合では生産の過程を必要としない。設備を利用せしめるという労働は存在しないのである。 さてここに関係財というのは、労働によって形づくられるのではなく、一定の人間関係が社会的に価値すなわち交換の 関係に置かれ、それが売買せられる点から、財としての資格をもつものである。いったい労働の生産物というのは、有形 であれ無形であれ、それの成りたちを分解するとき、結局単純な労働に帰することを意味するが、関係財にはこのことが ない。それの成りたちは、いかなる点から見ても、単純な労働に分解せられない。それはただ、社会的に一定の意味を帯 びるところの人間間のある関係が、交換価値をもつものとして構成せられるにとどまる。たとえば権利はこれである。 もとより権利それ自体は、法的概念である。それは、つねに義務と対立して、人間行.為を制限し秩序づける。ただそれ が、一定の社会関係から貨幣と交換せられるとき、財として意識せられるのである。その場合、他の財と同様に価格をも ち、それの需要・供給をめぐって市場を形成する。そういう道筋において、無形でありかつ労働と無関係のままに、それ が商品となり得るのである。 もともと権利が法的概念であるという点から見れば、それが売られるというのは、法的概念を経済的概念に移すことに なるから、その意味で、この表現は正確ではない。いわば便宜的用語にとどまる。経済的には、やはり関係財と名づける にしくはない、ということになる。 労働の生産物が、供給の側において企業によって財として形づくられるように、この関係財も生産ではないある種の方 法で企業によって形づくられると見られる。さぎに、企業の技術過程の意味について述べたが、この場合には、その財が 企業において、あの特殊な抜術過程をへて形づくられ、それが供給せられることになる。このことについては、高田博士 の次のような注目すべき見解がある。もっとも、後にこの見解は改められたが、そのことについてはいまは述べない。
● 、 まず一定の資本によりて、刹潤を生む手段が買入れられ、それが企業の内部に於て、生産にあらざる方法で財として結合せしめられ これが売られる。即ちその資本によりて、一方設備と勤蛍とを、他方、保険金支払準備金とを用意し、これらの結合によりて保険金の 支払という財を売る。その対価として受取る保険料の総額が中に利潤を含む︵高田保馬、経済学新講、第一巻、一九七∼八頁︶。 さて最後に、商品は貨幣そのものの中にも見出される。いったい商品は、売買すなわち貨幣との交換関係に着目して、 その貨幣の給付に対する反対給付の実体を意味する。そして、給付されるその貨幣の額が価格と名づけられること、改め ていうまでもない。しかしいま、貨幣そのものがまた貨幣と交換されるとき、この商品性は、貨幣についても同様に成立 するはずである。 このような貨幣の相互交換は、一般に金融と呼ばれる。あるいは通貨を同じくもしくは異にし、あるいは時を同じく、 もしくは異にして、さまざまの形をとることがあっても、貨幣間の交換関係に着目すれば、その一方は商品として理解さ れるはずである。その点で、金融もまた一般に商品性の外にあるものではないといえる。 保険においてこのことはどうであろうか。保険が、保険料と保険金との相互の給付によって成りたつ限り、この相互給 付の関係を交換と見ることは、はたして不可能であろうか。その場合多くの学者のいうように、保険料を価格と考えれば 保険における商品性は、保険金そのものか、もしくはそれに結びつく何らかの給付のうちに見出されるであろう。事実こ の考え方は、今日最も支配的であるといえる。これについてはきわめて多くの問題点がとり上げられるが、それは後に改 めてふれることとする。 右で私は、およそ商品の成りたちについて考えられる形態を、すべてつくしたつもりである。その場合に注意すべきは 商品におけるそれぞれの形態は、いずれも供給の側において、企業の固有の技術過程として与えられるということであ る。いいかえれば商品の成りたちの相違は、そのまま、企業経営の内容をなすところの、資本循環の具体的なすがたの相 保険非商品説再論 e =二
保険非商品説再論 日 一四 違にほかならない。およそ商品は、企業にとっては、資本以外の何ものでもないからである。 いまそういう点から、保険の商品性は、保険における資本が本来いかなる構造をもつか、給付たる保険金や価格たる保 険料が、その資本のどのような形として現われるか、さらに保険企業の利潤は、資本循環のどの道行ぎで成立するか、な どの諸点を老察することによって明らかにせられるであろう。もしこれらの点で、保険資本が一般の場合と異るところが あれば、まさにその点に技術過程の特徴があり、同時に保険の商品性がいかなる意味で是認もしくは否認せられるかの結 .論に導かれることになる。それを私はとり上げようとするのである。 占 ノ、 さて右で、企業の技術過程としばしばいった。それは経営の実体に即していえば、資本に関する企業の操作︵<Φ臥国耳8︶ にほかならず、しかもそれを資本の具体的な形態の移り行きに着目して、資本循環と名づけ得る。資本に関するこの操作 と循環とは、それがつねに一定の秩序のもとになされるという点から、これを機構として理解できるであろう。そして企 業は、この機構のいわば担い手にほかならない。したがって保険の本質は、保険企業が担うところのこの機構が、どのよ うな性格をもつかということから、当然にみちびき出される。 ここに企業は、固有の技術過程の担い手であり、それによって利潤の実現を目指す。むしろ進んでいえば、利潤実現の 手段として、たまたまある技術過程が選ばれ、それぞれ固有のものとせられる。それが企業として理解されるのである。 したがってもろもろの企業は、資本の主体として利潤を実現することにおいて共通し、その手段たる技術過程を異にする ことにおいてそれぞれ特徴づけられる。そこでそれぞれの技術過程は、企業が操作するそれぞれの資本の、具体的なすが たを決定することになる。
いうまでもなく保険では、大数法則のもとで、確率の理論がはたらく。しかしながら、現実には、それが保険企業によ って事業として支えられているのであるから、その場合に保険企業が操作する資本がどのような性格をもつかということ が、まさに経済学の問題としてとり上げられるのである。資本主義経済組織のもとでは、このことによらずしては、保険 の本質は捉えられない。いいかえれば大数法則は保険企業の固有の資本的操作を通してのみ具体的に成立するのである。 さて保険は、もともと保険料と保険金との均衡の関係において成りたち、大数法則がこれを支える。すなわち多数の加 入者から払い込まれた保険料が、保険事件の発生を条件として、その加入者のうちの蓋然的な一定数の者によって受けと られるという関係において、保険が成立するのである。したがって加入者からいえば、みずからのものをみずから受けと るという・関係に置かれている。そして、この保険金の受けとりを具体的に条件づけるものが、保険事件の発生にほかなら ない。 保険におけるこの関係を、ここに保険関係と名づける。いま保険かもともとこれによって成り立つということから見れ ば、保険の本質はもっぱら保険関係にあり、保険の成立は保険関係の成立をもって十分とする、ということができる。そ の意味で、あえて保険企業の存在を必要としないであろう。ただ資本主義経済組織のもとでは、一般の産業におけると同 様に、企業たる資格をもつ一つの主体が、右の関係を支えるにすぎないのである。その点に、保険が一つの産業部門を形 づくるという国民経済的意味がある。 そうすると、問題のありかは、この保険関係が保険企業における資本循環としていかに現われているか、保険企業の資 本的燥作がどういう機構においてなされるか、ということになる。もとよりこの考察は、国民経済的諸関連において可能 である。保険企業の企業としての利潤がいかなる過程において成立するかということも、また当然そこから明らかにせら れるであろう。保険の商品性の意味も、そこから説明せられるはずである。
保険非商品説再論e 一五
保険非商品説再論 e 一六 保険関係が、もともとみずからのものをみずから受けとることであるということは、この関係の担い手たる保険企業か ら見れば、多数の加入者から払い込まれた保険料の集積を、これら加入者のうち蓋然的な一定数のひとびとに、再び保険 金として支払いつくすということにほかならない。この保険料の集積はいうまでもなく責任準備金であるから、保険は、 つまるところ、保険料から責任準備金をへて保険金に至るところの、貨幣集散の機構である。そしてその機構が、まさに 保険における資本循環の過程として理解される。 しかし、この理解には﹁つの省略がある。保険が貨幣的機構であることは肯けるにしても、それが何故そのまま資本的 機構となるか、この場合の貨幣がいかにして資本たり得るか。そのことの説明がなされなければならない。そこで、もと もと資本は、企業の操作において、それ自体増殖する過程にあるところの価値を意味するということを、まず反省してお こう。 いま保険料の集積たる責任準備金は、現実には運用されて利潤を生む。そしてその利潤部分を含めて、保険金として支 払いつくされる。実際には、保険金の総額に見合うように保険料が定められ、しかもそのうちに、 一定の重用利潤が予め 含まれる。企業の操作として形づくられる保険関係は、このような増殖過程をもつ保険料と保険金との集散の道行きにお ける貨幣機構である。いまそのことに着目して、これらの貨幣は、そのまま資本たる貨幣、すなわち資金たる資格を帯び る。その意味で保険は、資金交流の機構である。 もとよりこの場合の利潤は、もともと企業に帰属しない。もし帰属するとせば、それは、予定の利潤をたまたま超過し た際のその超過部分である。しかし、たといそれが企業に帰属しないからといって、保険料も保険金も、したがって責任 準備金も、およそ増殖過程から離れた貨幣ではあり得ない。それがやはり資本たる資格をもつというのは、ここからみち びき出される。資本たる意味が一般の企業におけると異るところがあるにしても、それが資本たる本質から離れていると
はいい得ないのである。 七 かくして保険は、資金交流の機構であることを知り得た。保険料も保険金も、保険企業においてはともに資本として受 けとられ、かつ支払われる。すべて責任準備金の、それぞれ前身ならびに後身としての形態の変化である。この、前なる ものが後なるものにどのようにすがたを変えるかの道行きが、資本循環として把握されたのである。 ところでこの道行ぎは、価値の体化︵<臼ざもΦ巳鵠σq︶として理解される。かくして保険の機構は、保険金への体化の源泉 が、結局保険料に求められるという秩序にほかならない。この保険金への体化の源泉たる保険料も、保険料の体化たる保 険金も、さらにこの体化の過程における責任準備金も、いずれも直接に他の産業部門における企業に、あるいは間接に家 計を通してこれらの企業に、それぞれ資本として国民経済の舞台において結びついている。かくして保険資本が、社会総 資本の再生産関係において、 一つの位置を占めることとなる。そのことの考察が、保険学に対して経済学たる性格を与え るのである。 いまもし保険が商品であるとすれば、その商品性は、このような国民経済的な資本の関連において、しかも保険固有の 資本循環をとり上げることによって、明らかにせられなければならない。右でしばしば技術過程に着用するといったのは まさにこのことを指している。技術過程という意味で保険企業の経営にふれながら、眼は国民経済から離れていないので ある。商品性の問題は私見によれば、何よりもこの経営にふれるということを措いては、本質的に明らかにせられない。 さて、すべて体化の道行きとして促えられる資本循環において、一般の場合と保険の場合とは、どのように異るであろ うか。いま資本のすがたが、貨幣と財との順次の交替として現われるか、あるいは貨幣のみで終始するかということは、 保険非商品説再論 e 一七
保険非商品説再論 e 一八 いささかも問題でない。問題は、すすんで、この体化が、企業において資本の犠牲とその補償との関係に置かれるかどう か、ということにある。 すでに述べたように、企業の技術過程が、商品の形成においてどのような形をとるにせよ、資本循環は、その資本の支 出から始まる。つまり、資本の犠牲を出発点として、それが次の資本にとけ入るという順序を.へて、最後にそれの補償と しての牧入に終る。しかもこの油入は、企業にとっては、対価︵国三σQΦδすなわち価格にほかならない。 この出発点たる 支出も、帰着点たる牧入も、ともにこの企業が外部の企業もしくは家計との交換関係において見られるのである。 この交換関係において、価格を実現するその資本体化の最後の形態が、商品として意識されるのである。つまり両端に 交換をもつところの資本循環の過程が、そのまま商品形成の過程にほかならない。さらに言葉をかえれば、体化が対価に みちびかれる技術過程が、やがて商品形成の道行きを意味することになる。 そこでは利潤は、犠牲と補償とのそれぞれの額の差として実現せられ、かつ企業に帰属する。いま利潤実現という企業 本来の立場から見れば、資本体化の過程は、それがための手段たるにとどまる。いわばそれぞれの企業に固有の技術は、 すべて利潤目的に選びとられた、最も有効な手段的体系である。そういう体系の具体的成果が実は商品にほかならない。 商品性は、すべて技術過程においてのみ成りたつといえる。 このような関連は、保険においてはどうであろうか。この場合には、体化は対価にみちびかれない。保険料から保険金 への貨幣的集散の道行ぎは、もとより責任準備金の運用を含んで考察しても、すべて単純に資本体化において一貫し、対 価において終了しない。保険料は、保険企業にとって明らかに支出ではなく、保険金は聴入でないからである。いま単に 牧支という点から見れば、それは順序を全く逆にし、まず瓦窯から始まり、やがて支出に終る。しかもこの道行きにおい て、たとい責任準備金の運用による利潤があっても、それはもともと保険企業に帰属しないのである。
保険がこのような技術過程をもつ場合に、いったい商品性はどこに求められるであろうか。この技術過程は、いかなる 意味で商品形成の道行きと考えられるであろうか。一般の商品概念による限り、右の考察から得られる答えは、否という ほかはない。これを単純に、資本の形成から資本の分解に至るところの特殊の道行ぎとする以外に考えようはなくなる。 保険を金融と見る根本理由は、実はそこにあることである。 しかし、いま結論を急いではならない。もともと商品は交換を離れて考え得ないとすれば、この際、保険料と保険金と の二つの給付の対立は、交換とみなし得るであろうか。この二つの給付は、いうまでもなく保険企業と加入者との間に成 立するが、それを交換と見ることはできないであろうか。もしそれが許されるとすると、その場合価格は一般に保険料の 側に求められるが、それは、すでに背後において、商品を保険金の側に求めていることを意味する。つまり、保険金とい う商品に対して、保険料という価格が成立することになる。これについては,少くとも三つの点に反省がなされなければ ならない。そこで、次にはこのことを問題としよう。 ︵未完︶ 保険非商品説再論 e 一九