営口貿易の展開とその史的背景
石
田 Eligil. ノ、平
p 営[[開港と列国対満進出の史的背景 ♂ 周知の如く、近世ヨーロッパにおいて絶対主義的国家の形成と相互媒介的に進められた排他的侵略的な重商主義的活動 は、世界を舞台として相互に激しい闘争を展開し乍ら、その覇権がスペイン、ポルトガルからオランダへ、それからイギ リスに推移すると共に、他方これに対抗するフランスの勃興を見、更にロシヤの東方進出とそれにおくれてアメリカの新 しい登場を見るに至った。そして、この間に、イギリスを先頭として次々と産業革命がおこり、近代資本主義への転換が 行われていった。以上の事態を反映して、ヨーロッパの対中国貿易も先ずスペインによって、その領地ルソンを媒介とし て開始され、次いで、オランダ、フランス、イギリスの進出を見たがh就中イギリスは一六〇〇年に設立された請印度会 社を通じて最も盛んにこの貿易を行った。中国よりの輸出品は、茶、絹練、絹織物等であった。なかでも茶に対するヨー ロッパの需要が十八世紀中に急速に増加し、中国よりの輸出は愈々増進したが、これに対してヨーロッパの商品に対する 中国の需要がなく、この片貿易のため結局銀を中国に齎らす外なかった。そこで東印度会社は、中国に阿片吸飲が流行し ている事実に着眼して、インド産のアヘンを中国に輸出し右の銀の支払負担を免れる途を見出した。これによって阿片吸 飲の流行とその需要が加速度的に高まって来たことはいうまでもない。かくて一世紀余に亘る中国への銀の流入傾向は逆 営口貿易の展開とその史的背景 一営口貿易の展開とその史的背景 二 覚し、一八〇五−六年以後は束印度会社に関する限りでは、逆に中国から銀の流出を見るに至った。ところで、イギリスに おいては、既に十八世紀の後半に綿業を中心として産業革命の展開を見、綿製品の輸出も一七三〇年に一三、000榜だ ったのが、一七八○年には三五五、○○○碍、一八00年には五、四〇六、○○○膀、一八二一年には一六、○○○、○ OO膀に増加している。従って、インド人が阿片によって牧戸が増加すれぱするほど、イギリスから綿製品を輸入する可 能性が大きくなるので、イギリスにとっては、甚だ好都合なことだったといわねばならない。されば雍正七年︵一七二九 年︶以後、阿片に関する禁令が行われ、その輸入も禁止されていたにも拘らず、年々密輸入は増加して十九世紀の初の十 年間の阿片の密輸入の年平均は四千五百箱、一八二一年から一八二八年の年平均は九千七百箱、一八二八年から一八三五 年白縮平均は一万八千箱と推算された。このために一八三〇年から一八三三年の間に中国から輸出された銀は四百万弗な いし五百万弗に上ったので、清朝政府は阿片の密輸を断乎取締ることとした。一八三九年に特旨を以て広東に派遣された 清朝官憲はイギリス商人を監禁し、阿片二万余箱を焼き棄てさせた。このことから阿片戦争が起ったが、中国側の惨敗に 終り、一八四二年南京条約を締結することとなったのである。この条約によって、清朝はイギリスに香港島を割譲し、賠 償金を支払ったほか、広東、度門、福州、寧波、上海の五港を外国貿易および外国人居住のため開き、これらの港に領事 を駐在させ直接清朝官憲と交渉する権利を認めた。﹁これにならって、アメリカ、フランスおよびロシヤ等も清朝と長々同 様な条約を締結した。すなわちアメリカは一八四四年に望度条約を、フランスは同年十一月に黄哺条約を、スエーデン帳 ノルエーは一八四七年にロシヤは一八五一年に夫々通商条約を結び、いずれも相互に最恵国約款を設けたのである。この ようにして、中国の先進諸国による謂わゆる半植民地化の歴史的過程が開かれるに至った。 ところが南京条約を始め、これに続いて諸条約が締結された後もこれら先進国との対立が緊張を続けるのみであったα 而も新たな開港場も上海を除いては振わず、ことに広東においては、貿易の独占権を失った行商および安価な資本主義臨
総製品等によって打撃をうけた手工業者たちの反抗もみッて、中思人の排外運動が激しかったひ華麗の官憲もこれを抑え るどころか、むしろこれに便乗してこれら先進諸国の通商条約改訂の交渉に応じない等、事態は愈々険悪を呈して来た。 このような情況を背景として、第二阿片戦争またはアロー号戦争といわれる清国と英・仏連合軍との戦争が一八五六年か ら一八六〇年にかけて生じた。すなわちイギリス船籍をもち、イギリス国旗をかかげたアロー号に清朝の官吏が乗込んで 中国人水夫を海賊容疑で逮捕した事件がぎつかけとなり、更にこれより先、フランス宣教師が広西省で殺害された事件も あったので、英仏の武力行使となり、更にその北上によって一八五八年天津条約が結ばれた。アメリカおよびロシヤは後 ればせ乍ら、英仏と同様な利益を得んとして、英仏対清国の対立の調停の役を演じつつ、巧に英仏の天津条約と歩々同様 な条約を締結した。ところが清国側に背信的な抵抗があったので、英仏連合軍の北京進撃となり、一八六〇年十月に北京 条約の締結と天津条約の批准交換を見るに至った。この天津条約において牛荘、豊州、海南、淡水、巌頭、早舞、鎮江、 南京、弔事、九江の十港が開港されることになったのであるが、南京条約で中国と最恵国約款を結んでいた国々も天津条 約および北京条約に均露することになった。かかる歴史的背景の下に牛荘の名において辛口が開港され、満洲経済は先ず この窓口を通じて世界経済に開かれることになったのである。 なお、当時、既にイギリスは十八世紀後半から十九世紀初頭にかけて産業革命を経過して近代資本主義の展開を見、フ ランスは一七八九年i一七九五年の大革命およびこれに続くナポレオンの戦争時代もあったので、イギリスより約半世紀 おくれて産業革命が始まった。アルザスの綿工業の工場制度は一八一五一五〇年間に確立したと見られ、一八四五一六〇 年に鉄道建設期を経過し、鉄工業は一八五か年以後において本格的発展をなしたという。ドイツにおいても、フランスと 略々前後し関税同盟︵一八三四年︶と鉄道建設期︵一八四〇年代以降︶と共に近代資本主義の展開が行われたと見て大過な、い と思う。アメリカにおいても鉄道建設が主に一八四〇年代以降に展開し、 一八三〇年に僅か一三哩だったのが四〇年には 営口貿易の展開とその史的背景 三
営口貿易の展開とその史的背景 四 二、八一八哩となり、五〇年には九、〇二一哩、六〇年には三〇、六二六哩となり、その後加速度化し、鉄道建設がアメ ⑬ リカ資本主義の形成に重大な役割を演じた。アメリカの綿業は一八二四年頃迄にはその基礎が確立されたといわれ、その 後の発達は次の表からこれを看販することが出来る。 年 次 一八三〇年 一八四〇年 一八五〇年 一八六〇年 三場数 七九五 一、
四〇
一、〇七四 一、〇九一 資 本 四〇、 山ハ一四千弗 五一、一〇二 七山ハ、〇一二一一 九八、五八五 雇傭老数 六二千入 七二 九四 二二製品額
一一 Rハ A ○○○千弗 四六、 二五〇 六五、五〇一 一五、六八五 ロシヤにおいては近代資本主義の形成は、更に半世紀おくれたと見られる。リヤシチェンコは封建世襲地制経済が崩壊 し農民の隷農化および商業資本の発達となって現われた十六世紀後半以後、一八六一年隷農の解放までを隷農制経済と呼 んでいる軸この時代において商業資本は、隷農制経済を根拠に国民的市場を創り、たとえ微弱な程度においてなりとも㍉ 国民的工業資本の原始蓄積を準備しつつ、隷農制度を助長し、工業資本主義の新形式に突進しはじめたという。先ず鉄道 について見るに︸八六一年に一、四八八露里であったのが、 一八七一年には一〇、二〇二露里となり、↓八八一年には二 一、一五五露里となっている。近代的工業化が最も早く現われたのは綿業部門で一八四〇年代に遡ることが出来、他の部 門においては一八六〇1七〇年代に現われ、更に資本主義的技術の最後の勝利は一八九〇年代に至って漸く工業の全部門 に認められるに至った。これらは、主としてイギリスからの輸入機械によってなされたもので、一八五〇年代にイギリス からの機械の輸入は年々七五〇万ルーブルに上ったという。更にロシヤの資本主義化はツァーリズムの専制政治の下に外 転資本の導入によって進められ、、省思工業部門の株式、債券等の全資本のうち急撃資本の黒むる割合は繊維工業において二八%、木材工業で三七%、冶金・金属工業で四二%、化学工業で五〇%、鉱山業で九〇%であったとい%。また公債も 外国人によって投資され、その八○%がフランス人で、残りはイギリス人だったという。そしてこの借入総額の三分の一 以上が鉄道建設に向けられ、この鉄道のうち三分の一以上が主として政治的軍事的目的のために建設されたという。かく てシベリヤ鉄道も一八九一年に起工され、一九〇〇年に完成を見た。これと関連してマンチュリーよりボクラニーチナや 迄清国領土の満洲を通る東清鉄道敷設権が日清戦争後三国干渉によるロシヤ外交の勝利の結果として獲得され、一八九八 年に起工、一九〇二年に開通を見、更に、東清鉄道の支線としてハルビンから大連に至る南勢鉄道が一八九八年−一九〇 一年に建設され、翌一九〇二年一月を以て開通した。このロシアの対満進出に対抗して日本の進出が先ず日清戦争の形で 現われ、ついで日露戦争となって進展したことは周知のことであるが、日本資本主義の発達と対満進出のことは後日改め て詳論する予定であるので、ここでは単に指摘するにとどめる。 かくて前述の歴史的背景の下に営口が開港され、貿易を通じて世界経済に開かれたが、更にこのように、ロシヤによっ て東清鉄道および南満洲鉄道が満洲内に敷設されるに至って、今まで中国の独占的な植民地として形成された満洲経済が いわば寡占的植民地として再形成される重大な第一歩が踏み出されたのである。而も満洲経済の近代化はこうして先進資 本主義国の強力的進出によってなされたことも注目に値する。 ① 小竹文夫著﹁近世支那経済史﹂四一−四二頁および六〇頁以下。
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G・F・ハドソン著 尾崎秀実訳﹁世界政治と東亜﹂一五頁面小竹氏 副腎 四四頁。 小竹氏 右著 六三頁。 本位田祥男著﹁欧洲経済史﹂三〇八頁。 米谷栄一著﹁満支貿易と共栄圏貿易﹂四一一四二頁。 阿片戦争を中心とする詳細な歴史的記述については、矢野仁一著﹁近世支那外交史﹂二〇五一三七八頁参照。 アロ﹂号事件の背景およびアロー号戦争およびその港東については、矢野博士の右第三七九−六三三頁に詳論されている。なお簡単にして要を得た 営口貿易の展開とその史的背景 五営口貿易の展開とその史的背景 よ ノ\ 記述は米谷氏の前掲書四五一四七頁に見られる。 ⑧ 米谷氏 前掲書 四七頁。 、 ⑨ イギリスの産業革命については本位田氏の右著三〇五−三二〇頁に要を得た記述が見られる。なお市川墨入郎著﹁近代資本主義社会﹂ 史︶はイギリスの第一次産業革命を一七七〇年一一八三〇年と見ている。同書三一頁。 ⑩ 市川氏 右著 九五頁、九八頁。なおフランスの産業革命については、本位田氏 前掲書 三二一−三三〇頁参照。 ⑭ 市川氏 右著 一〇六頁。ドイツの産業革命については、本位田氏 右著 三三一−三三九頁参照。 ⑫じdoゆq震計国。o昌。ヨ8閏δ8﹃︽oh9Φ︾日二言碧℃Φo宮Φ−署.ω自−繊O・塩野谷九十九著﹁アメリカ経済の発展﹂八二頁。 ⑬ゆ。αq母什しぼ斜戸きト塩野谷氏右著一〇五頁。 ⑭ しロ。職費け、一σ一9戸合昏. 塩野谷氏 右著 一〇五頁。 ⑮ ぺ・イ・リャシチェンコ著 山下義雄訳﹁露西亜経済史﹂ ︵満鉄調査課編︶二五三頁以下参照。 ⑯リャシチェソコ著山下訳書二六二頁。 ⑰リャシチェソコ著右訳書三八五頁。 ⑱⑲ リャシチェンコ著 右訳書 三九四頁。 ⑳⑳ 市川氏 前掲書 =一二頁、=一三頁。 ⑳ 永雄策郎著﹁植民地鉄道の世界経済的及世界政策的研究﹂一二八一一二九頁Q, ︵京大西洋
二営口貿易の展開
先に述べた如く一八五八年の天津条約によって牛荘が開港されることになったが、牛荘城は既に河底が浅くなった関係 上貿易港としての条件をとうに失っておったので、実際は営口が牛荘の名の下に開港されたのである。 一八六一年英国の初代領事としてメドウズ︵日日ζΦp。餌・≦し。︶が着任し、外国海関︵閃・邑σqp9。。8ヨεは一八六四年に事務 ④ を開始した。それ以前は山海関道台が書式を派遣して関税徴牧にあたっていた。 このように江口は満.洲唯一の外国貿易港として開かれたものの、始めのうちは貿易は遅々として進まず、最初の二〇年 ② を経過しても貿易額は僅かばかり増加し党に過ぎなかった。旋だ.﹄こに注意すべきは、次の営口貿易統計表およびこれを転機としてこれが逆転したことである。勿論、この統計は後に述べるように汽船貿易の統計であり、外に相当な曇 わち戎克貿易があるので一概にはいい得ないが、兎も角一八八○年から一八九〇年代にかけて輸出は上昇の一途を 来た。これは大体において貿易の刺戟によって満洲の再生産がこれに適応的に発展して来たことを示すものと灯 る。更に輸出品目を見るに、大豆、豆油、豆粕の謂わゆる大豆三品は抑々の始めから輸出の八○%前後を占めてい は注目に値いする。すなわち一八七二年の輸出額二、○○○、五〇二海関両のうち八六%強の一、七三九、七四〇︷ が大豆三品であり、一八七ニー一八八]年の輸出年平均二、八七四、一二四海関両のうち大豆三品は八○%強の二、 四、七一八海関両となっている。更に一八八ニー一八九一年の輸出年平均五、二七六、一九八海関両のうち、大豆. 七六%弱の三、九九八、四四一海関両を占め、 一八九二一一九〇一年の年別平均においては輸出一二、五八七、五. 関両のうち八︸%強の一〇、二一四、四五三海関両が大豆三品であった。 営口貿易統計(単鑑」賄
寸劇輸瀬」輸出劉蕊
大豆三品 輸出額 ],738 1, 252 1, 372 2, 214 2, 088 2,388 3,509 3, 151 2, 718 2, 801 2,96正 3,241 3,281 3, 576 3,ユ36 4, oe7 4, 357 3, 987 5, 070 6, 563 6, 495 7, 065 6, 676 4, 579 9, 455 11, 372 * 14, 740 16, 685 9,643 16, 088023790743253346767795025788595085833855521272786966130704164057661363569155465100356284648
211223433333444555789985王37018
1119]一工002496590888934882046968392043793204857299827778599484949452
314837353590670828292387459756332243543223334443787873124703
王112ーワ臼 1872 1873 1874 1875 1876 1877 1878 1879 1880 1881 1882 1883 1884 1885 1886 1887 1888 1889 1890 1891 1892 1893 1894 1895 1896 1897 1898 1899 1900 1901 1902 1903 19e4 1905 1906 1907 1908 .1909 1910 1911 1912 1913 1914 19正5 1916 1917 1918 正919 1920 1921 1922 25,345 27, 979 29, 441 49, 955 30, 070 17, 047 21, 827 29, 090 27,931 31, 490 27, 951 25, 737 21, 350 20, 365 17, 621 18, 230 20, 737 23,473 32, 293 36, 606 35,012 17, 703 20, 310 12, 242 12, 264 15, 169 16,176 19, 847 26, 237 25, 325 27, 722 22, 776 24, 479 16, 216 20, 392 14, 097 10, 813 9, 550 18, 225 13, 994 20, 964 23, 652 で一一 省三 略○ し二 た年 。以 後 は 連 絡 す る 統 計 を 入 手 し 得 な い の 〔備考〕1872−1900まではNewchwang, PeceD1al Rep。rts.1892−1901・今井上訳 「営口開港前後」附録統計により作成。1901 −1910多では「南満洲経済調査資料第六,営 n I ln言r齢i山、 r¶Ub”r訟■ 、 ffXウt鮎 〆冶雨八田 営ロ貿易の展開とその史的背景 七営口貿易の展開とその史的背景 八 ︹註︺ 右に掲げた営口貿易統計の数字は、汽船による輸出 入額である。この外、民船による貿易があるが、民船︵ジ ャンク︶貿易額が発表せられたのは一九〇一年以後の分か ③ らで、それ以前の分は不明である。それで統計の連続を期 するため一九〇一年以後も汽船による輸出入額をとった。 一 繹鼈黶│一九二二年の数字は、これが掲載されている東 亜経済調査局﹁支那貿易の趨勢﹂上編⇔経済資料第一〇巻. 第七号四六−四七頁には明言していないがこれにある一九 一 Z年の数字を﹁南満洲経済調査資料第六営口﹂の一六頁 ︵輸出額︶、五︸頁︵輸入額︶ にある同年の数字と比較し て見ると﹁支那貿易の趨勢﹂上編⇔にある数字は汽船によ る輸出入額であることが明かである。なお大豆三品輸出額 の数字は、Z①≦oゴ≦鋤昌ひq層∪Φo①巳筥力ΦbO旨ω一。。㊤N一一〇2 の選訳である﹁営口開港前後﹂附録六二八七二i一九〇 一年における豆粕、豆油、大豆﹂の統計を海関両で表して いる数字について合計して作成した。なお、一八九八年の 大豆三品輸出金額の合計は二〇、七一〇、一一二海関両と なるが、これは総輸出額一七、四四八、二八○海関両を遙 かに超過する。そこで.よく検討して見ると、誤りのもとは 同年の大豆輸出金額一四、二三三、○八五海関向なる数字 にあることがわかる。何故なればこの輸出を物量︵担︶で 表した数字は四、二二〇、九六三担であるが、若し海関両 で表した右の数字が正しいとすれば、一担当り三・三海関 両強となる。ところが前年の一八九七年は同様な計算で一 担当り一・七海関両強であり、翌年の一八九九年は一・九
八海関両、一九〇〇年は一・七海関両である。また一八九八年の豆粕担当輸出価格を見ても一八九七年は一・三海関両弱、九八年は一・五海関両、九 九年は一・五海関両であるから、一八九八年の大豆だけが例年の約二倍にもなっているということは考えられない。そこで、その前年の一・七海関両 と翌年の一・九八海関両の平均をとって一・八海関両として、前記の四、二二〇、九六三担に乗ずると七、五九七千海関両︵千以下切捨︶となる。こ の数字を以て一八九八年の大豆輸出金額とし、これに豆粕、豆油の輸出金額を加えて同年@大豆三品の輸出額の数字とした。なお一九〇二年以後につ いては、大豆三品の輸出高が担で表したものしかないので、統計の連絡がつかぬので省略した。基礎となる海関の∪ΦoΦ銭p・一幻Φ弓oH宏は非常な稀観 本で、僅かに満鉄図書館にあった位だといわれたが、今は殆んど見る事は出来ないであろう。 次に輸入品目としては、綿布類が最も多く、総輸入額の四〇i五〇%を占めていたという。ただ、これを確証しうる統 計資料を入手することが今日不可能なことは遺憾である。この外、砂糖、麦粉、燐寸、石油、金属類の輸入が主なもので ⑤ 9 あった。 このような貿易の品目別構成を見ると、満洲の再生産的経済循環は、大豆三品を主とする農産物およびその加工品の輸 出と綿布を主とすみ雑貨の輸入を媒介としつつ世界経済に開かれて来たことがわかる。 貿易の年別推移に眼を転ずるならば、 一八八五年頃から一八九〇年にかけ上昇傾向が目立って来たが、更に一八九〇年 代には驚くべき前進が見られた。そのため営口の外見までが急激な変化を来したという。 ﹁牛荘海関十年報 一八九ニー一九〇一年﹂の報ずる所によれば二八六〇年代の泥造りの村は、多数の立派な店舗、家屋、寺のあ る富裕にして入口稠密な町となり、蒸気油坊の高い煙突によって駆る意味の近代的の外観を呈した。河は大型の汽船で賑い無数の民船 の船頭の唄声は汽船の汽笛に混って聞えた。以前は僅か許りの半季宗風の小屋よりなっていた外人街は、商人の邸・教会・病院・ホテ ⑥ ル等全く見せかけのヨーロッパ風建築が寛並ぶに至ったしという。 このような貿易の前進について右の﹁海関十年報﹂は﹁経済的・政治的原因の両者が此の突如たる前進に貢献したので ある。清国政府は多年満洲を未開発のままにしておく政策を採って居ったが、↓八八○年代には見解が変化した徴候が見 えた。北部国境の防備は固められ、東三省における無主の土地を確保するために移民を奨励した。既に永年に亘って非常
営口貿易の展開とその史的背景九
営口貿易の展開とその史的背景 一〇 に多数の移民が流入して居った。例えば、 一八七六年の見積りによれば約百万の山東並びに直隷の農民が来満したといわ れる。併し、当局の奨励は確かに刺戟剤の作用をなした。人々は引続き入満し、土地の開墾は一層進められ、穀物の産出 も一層増加した。⋮⋮幸い偶然にも供給過剰の時には重要物産の一大需要が日本におこった。大豆と豆粕の市場として日 ⑦ 本市場が見出されたことは南満の貿易発展の最も有力な経済的要因であった。﹂と述べている。 この﹁海関十年報﹂が第一に挙げている北満防備の強化と植民の積極的促進について有高巌氏は﹁黒龍江省呼蘭平野の 開発に就ぎて﹂という論文でこれを裏付けるような次の如ぎ叙述をなしている。 すなわち、有高氏は、呼蘭平野の開発について、三期に分かち、第一期を清の雍正十二年︵一七三八年︶から威豊九年二八五九年︶ま で第二期を成豊十年︵一八六〇年︶から光緒十三年︵一八八九年︶まで、第三期を光緒十四年︵一八九〇年︶から現代までとし、第一期は 官屯期というべき時期で、漢人一般の移民が禁止されたのであるが、第二期について、次の如き叙述がなされている。曰く﹁前期の末 頃露入南下の勢凄まじく且つ本省軍資の欠損警しかりしを以て清朝は此期の初に多年の政策を一変し、此地方の封禁を弛めて漢民を招 離し、所謂植民実辺の策を断行せり。爾後時々新墾を停止せしことありしも漢民移入の大勢は将々として制し難く為に呼蘭平野の開発 ⑨ は長足の進歩をなせり﹂と述べ民墾前期と呼んでいる。因みに第三期は電線架設、東清鉄道の建設その他近代的建設に関連する時期で ⑩ 民墾後期という。 に なお、稲葉博士は、この北満洲の民墾の促進を図った理由について、清朝政府が﹁地方官庁の牧入を開墾によって増加するというこ とである。将軍特普欽の言にも、黒龍江一年の軍事費は、三十七万両であるが、呼蘭は一部の開墾で、既に十有余万両の租税を徴牧す るといって居るのでも、中央政府を動かした有力なる理由の、軍事補充といふことにあるを知るであらう。記録によるに、黒龍江省は、 ⑪ 威豊三年︵一八五三年︶より光緒=二年︵一八八七年︶までに軍費の欠損が、二百七十余万両を計上した。﹂と述べている。 ﹁海関十年報﹂が第二に挙げている日本への大豆、豆粕の輸出について﹁南満洲経済調査資料第六営口﹂の述べてい る所を見ると次の如くである。 ﹁一八六八年ニハ始メテ機械汕房ノ設立ヲ井溝ルモ問モナク旧式油君側ノ反対ニョリ閉業ノ止ムヲ得サルニ至レリ 日本トノ+ハ豆貿
易力漸ク注目ヲ喚起シタルハ亦実二此時代ナリトス 一八六九年乃チ外国輸出解禁当年二於テ忽チ大豆十二万五千担豆油一万一千四百五十担ノ輸出アリ 当年ハ日本二於ケル米ノ牧穫不 良ノ上庄特二需要ヲ増シタル傾アリト云ヘトモ尚初年トシテハ貿易額大二失スルカ如シ サレハ此以前二於テモ多少秘密輸出ノ行軍レ ⑫ ・ タモノナルコトハ推測スルニ難カラスL ﹁⋮⋮日本二対スル輸出ハ一八八○年日本二士テ搾油原料凶作ノ為メ営ロヨリ大豆約十三万三千担及豆粕六万野掛ノ輸出アリシ後ハ著 シク減退シ 一八八六年ノ如キハ皆無トナリシが翌年二至リ復活シ殊二一八八六年二於テ従来日本二対シ大豆供給者ノ首位二在リシ朝 畜力非常ノ凶年ナリシ専掌満洲ヨリ輸入ス〃モノ多ク満洲大豆ハ日本商人間二大ナル注意ヲ喚起シ前途ノ有望ヲ想像セシメタリ⋮:二 八九〇年︵明治二+三年︶郵船会社力学浜神戸牛苦難二定期航路ヲ営ムニ至リ本邦商人ニヨリテ取扱ハルル端緒ヲ開キ後二年ニシテ三井 物産会社ハ出張員ヲ派遣シテ直接売買二従事セシメタリ⋮⋮ 一八九一年ニハ再ヒ朝鮮ノ凶作二加ヘテ魚肥又不漁、殊二近年米作ノ肥料トシテ豆粕ノ遥二魚肥二超越スルコト漸ク認メラルルニ至 ⑬ リ日本二対スル輸出ハ俄カニ増進シ前年二比シテ大豆ハ三割八分豆粕ハ三割九分半増加ヲミタリ﹂と。 ﹁牛荘海関十年報一八八二!一八九]年﹂はこの点につきこの時期において﹁満洲の生産品が直接輸送せられた唯一の外国は日本で あるが、この輸送も一八八九年迄は極めて少額であった。その平均価絡は約三二、○○○海関両であったが、その間非常に高低があっ た。即ち量る年︵一八八六年︶には総額が僅かに=七海関両に過ぎなかったが、一八八九年には日本向貿易は著しき進歩をなした。 ⋮⋮最後の三年間の数字は次の如くである。一八八九年九八、○〇七海関両、一八九〇年一七九、〇九〇海関両、一八九一年四六〇、 ⑭ 三五四海関両。﹂と。 かくの如きが後々までも満洲輸出貿易発展の大きな推進力となった大豆、豆粕の対日輸出の始めの事情だったのである。 次に営口貿易は日清戦争のとぎ一時急激に減少したが、戦後猛烈な勢で上昇して来た。それは一つには日本との貿易、 ことに大豆、豆粕の対日輸出が著しく増加して来たためと見られる。 前掲﹁南満洲経済調査資料第六営口﹂はこの点につきユ八九六年秩序恢復ト共二数多ノ日本商人渡来シ三井物産会社ノ外 松村、 福冨、海仁ノ諸洋行ノ開設ヲ見 日本ヘノ輸出ハ頓二膨脹セリ 当時日本ヘノ輸出ハ無税ナリシヲ以テ南清地方ヘノ輸出二比スレハ遥 営口貿易の展開とその史的背景 二
営口貿易の展開とその史的背景 ]ニ ニ有利ナリシナリ 同年ニハ又機械油魚ノ開設アリ前年ノ失敗二反シ甚タ好成績ヲ示セル面恥更二↓八九九年以降三箇年細目︼二所ノ機 ⑮ 械油房ノ設立ヲ見其生産力ハ合計一日一万五千六百枚目達セシヲ以テ営二親於ケル生産額ハ従来二比シ頗ル巨額二上レリしと述べてい る。かくて大豆三品の輸出増進に相互媒介的に近代的搾油工場が勃興し始めたのである。なお一八九六年の貿易の著しい増加は前年の ⑯ 戦争によって抑制された部分も含むもので﹁実はニケ年歯の貿易額を現わしている﹂と見られる。 噛 更に﹁海関十年報﹂は﹁一八九七年は、その前年の貿易額が大であったと云うが、それにもまして一層目増加を示し、特に日本向輸 出は異常に増大した﹂と述べでいる。 一八九九年に現われた貿易ことに輸入の飛躍的増大はロシヤによる東清鉄道およびその支線としての南満鉄道の建設の ⑯ ため大量の鉄道資材がアメリカから輸入されたことに大きく影響されている。 満洲におけるロシヤの鉄道建設について海関十年報は次の様に報告している。 ﹁一八九八年三月二十七日附の露清間の協定により、露国は旅順港と大連湾を租借し、東清鉄道と呼ばれる所の、清国領土を通過し之 ら租借地に到る鉄道の建設権を認められた。露国の租借地は北は遼東半島の西岸蒲拉旬︵普蘭店︶と東岸幣信窩と結ぶ一線であった。 当面︵懸口︶一と云うより寧ろ当港から三哩離れた直家屯のロシヤ人居留地、そこから区間十三哩の支線が本線との接合点、大石橋 まで通じていた一が新線の南部起点並に必要物資の輸入に便利な地点として選ばれた。⋮⋮同年秋冬の聞に鉄道建設は着々と続行さ れ、 一八九九年五月目は大石橋までの支線は開通した、同年山海関鉄道は錦州府ま.で敷設され、そこから語口までの土台工事は事実上 ⑲ 完成した。﹂⋮⋮そして一八九九年には﹁大石橋経由当港・間借港間の鉄道連絡が実現し、ロシアの鉄道は北は奉天まで完成し、天津 営口間の清国鉄道は全く完成して、建設列車が完全に通れるようになった。﹂ 一九〇〇年に貿易が激減を示しているのは北清事変すなわち団匪事変のためである。この擾乱は満洲にまで及び建設さ れたばかりの東清鉄道は二百露里も破壊された。これを契機としてロシヤ軍隊の全満洲の占領が行われ、これが日露戦争 ゆ 勃発の直接の原因となったことは周知のことである。破壊された鉄道がただちに復旧したことはいうまでもない。更に一 九〇一年にはマンチュリーiボクラニーチナヤで満洲を通る東清鉄道も、ハルビンi大連の南町鉄道も完成を見るに至っ
た。大連港が新たな貿易港として登場したことも注意しなければならない。 このようなロシヤによる鉄道の建設が後に詳論するように他心な投資を伴い、それが直接には建設資材の輸入という面 から輸入を激増さしたことは前述した如くであるが、次にその投資は建設労働としての漢人の対質流入を飛躍的に促進, し、これに伴って農業移民を増進さし農業的再生産の拡大を招く。更に、その流通を媒介する商業の発展および農産加工 業の勃興を招来することはいうまでもない。そしてこれらの商業および加工業は、鉄道建設の拠点であり、後に鉄道交通 の要衝となった地点に集中して、例えばハルビンに見るが如ぎ都市の形成として現われるのである。更に鉄道の完成は運 送力を飛躍的に増大し、運送費を低減する。先進国によるこのような鉄道、港湾および其他の建設ならびにこれが経営と いう植民地活動は、もともと市場ないし原料供給源の確保を中心とするが故、ロシヤの場合もそうであるが、更に日本の 進出が展開された場合にも見られるように、植民地型の貿易を促進して来る。このため満洲内の再生産的経済循環も、鉄 道その他の形態における先進国の近代的媒介の下に再形成され、質的量的な発展を示して来る。ところで満洲の輸出は大 豆三品を中心とし、始め南方中国との取引から次に日本との通商を展開し、日露戦争後ヨーロッパに新販路を見出して愈 々増進して来た。この農産物および農産加工品に対する輸出需要の増大は、中国よりの対満植民を益々促進する。更に中 国系の商業資本の進出による商業および農産加工業の発達が顕著になる。それらがまた中国よりの雑貨の輸入を愈々増加 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ させる。すなわち先進国の対満植民地活動が活濃になればなる程、中国よりの下からの自然発生的な植民が愈々促進さ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ ゐ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ れ、満洲における漢人の経済生活は下から中国依存性を愈々強めて来たのである。そして中口開港によって対外貿易が展 開したわけであるが、それと同時に上述の理由から対中国貿易を愈々発展させるようになった。このような対中国貿易の 展開は後々までも営口貿易の中心をなした。 営口貿易において対中国貿易が如何に重要な地位を占めているかを先ず一九〇一年1一九一〇年の輸出入について見る 償口貿易の展開とその史的背景 一三
営口の内外貿易(単位千海関両) 営口貿易の展開とその史的背景
年次
27, 612 32, 313 32, 352 31, 815 49, 761 31, 222 16, 286 22, 189 31, 685 27, 298 4, 293 5, 346 5, 850 4, 231 9, 938 6, 009 5, 440 6, 260 7, 041 8, 771 17, 888 14, 553 13,918 15, 222 7, 584 10, 198 10, 494 15, 626 19, 421 17, 538 7,315 8, 803 10, 217 1, 573 6, 719 7,312 7, 714 9,462 12, 293 11, 991 1901 1902 1903 1904 1905 1906 ]907 1908 1909 1910 302, 533 (82%) 63, 179 (18%) 142, 442 (63%) 83, 399 (37%)合計
〔備考〕南満洲経済調査資料第六営口による。輸出ば同書17頁, 輸入は同書51−52頁。なお1910年の外国D≒」輸出は同書では 21,991となっているが支那貿易の趨勢上編(⇒の46頁所掲の 数字は11,976となっている。後者の統計は汽船のみによる ものであり,上掲の統計は汽船と民船によるものを含んで いる。併し,外国向輸出は殆んどが汽船により,民船によ るものは非常に少ないと考えられる。前年と比較して見て もなんとしても21,991は誤りと考えられる。恐らく原文が 漢字で印刷してあるところがらして,二というのは一のミ スプリントでないかと思う。それでここでは11,991と訂正 して掲載した。 営口輸入の内外品別構成 (単位千海関両) 16, 706 19, 336 17, 716 16, 749 28, 520 23, 201 10, 766 13,115 19, 554 17,123 合計 184,9241 182, 786 〔備考〕 「南滴洲経済調査資料第六 営口」第一篇貿易52頁による。 一四 に、次の統計表に見らるる如くであるひこの 十ケ年間を平均して見ると輸出においては対 中国輸出が全輸出額の六三%強を占めており 輸入においては対中国輸入額が全輸入額の実 に八二%を占めていることがわかる。この場 合、中国からの輸入額は全部中国産の商品で あると考えてはならない。この中には外国産 の商品で一旦中国の他の港 ︵多くは上海︶ に 輸入せられるものが少くなく、直接輸入額の 略々二倍を占めており、今総輸入額を外国品 と中国品とに区別して見ると次の如くなって 年次1外国品 中国品 17, 199 18, 322 20, 486 19, 297 31, 179 王4,029 10, 960 15, 334 19,172 18, 946 1901 1902 1903 ユ904 1905 1906 1907 1908 1909 1910 いる。すなわち、一九〇一年一一九一〇年までの数字では、外国品 と中国品は殆んど相半ばしていることが知られる。 一このように詠口貿易が対中国貿易を中軸として展開した関係から して、近代に入っても、それは単に近代的な汽船によるばかりでな ロ ジャンク く、民船すなわち戎克によるものが相当多かった。 ﹁牛荘海関十年 ジャンク 報]八九ニー一九〇一年﹂は戎克および戎克貿易について詳細な記述 をなしているが、三口に出入する戎克は一九〇一年には航洋戎克約ゆ 二千、内河船一万であったという。そして例えば上海、海州及び戦楡から来る戎克は沙船および南船と呼ばれ、大型船で 二千二百石、小型船で五百石を運搬したb輸入貨物は、各種工布、精・粗磁器、革鞄、紅・緑茶、鹸蛋および各種の雑貨 で、輸出品は大豆等であった。大型沙船一調の資本金平均約一万五千両で小型船は約四千両であった。そして一航海の利 ゆ 益は大型戎克が約一千二百両、小型戎克が約四百五十両であったという。 海関統計は一九〇〇年までは汽船による貿易のみを発表し、民船による貿易は発表しなかったが、一九〇一年以後はこ れが発表を見るに至った。幸にして﹁南満洲経済調査資料第六営口﹂には一九〇一年i一九一〇年の統計が掲載されて いるのでこれを挙げると上表の如くである。すなわちこの十年間を通じて見るに輸出においては民.船による額が一九% 汽船及び民船(ジャンク)による営口貿易 (単位千海関両)
輸入
汽船民船
年次
10, 283 12, 313 10, 223 6, 605 9, 745 7, 16e 4, 679 6, 622 9, 636 8,138 23, 623 25,345 27, 979 29, 441 49, 955 30, 070 17, 047 21, 827 29, 090 27, 931 6, 357 5, 653 3, 825 4, 554 2, 039 2, 342 2, 032 5, 245 5, 478 3, 959 工8,845 17,703 20, 310 12, 242 12, 264 15, 169 16,176 19, 847 26, 237 25, 571 1901 1902 1903 1904 1905 1906 1907 1908 工909 1910 85, 404 (23%強) 282, 308 (77%弱) 41, 480 (19%弱) 184, 364 (81%強)合計
〔備考〕「南満洲経済調査資料第六営口」第一篇貿易16頁(輸出), 51−52頁(輸入)による。 営口貿易の展開とその史的背景 風口貿易の内外別構成(単位千海関両)年次
19,159 21,939 19,559 17, 807 13, 727 14,960 工2,058 13,142 15,803 17,387 25, 188 28, 724 25, 163 8,771 9, 551 8, 392 7, 930 7, 623 5, 405 5, 563 5, 088 4,934 6, 086 7, 105 7, 882 9, 849 13, 349 14, 776 14, OOI 13, 480 9, 020 14, 300 9, 178 8, 018 5, 291 7, 754 10, 776 13, 683 19, 60r6 11, 976 11, 946 8, 775 10, 999 7,196 6, 092 4, 919 2, 795 4, 259 10,471 3, 218 7, 281 3,996 1910 1911 1912 1913 1914 1915 1916 1917 1918 1919 1920 1921 1922 244, 616 (72%強) 153,282 1 94,179 62%弱) (28%弱) 93,923 (38%強)合計
一五 〔備考〕支那貿易の趨勢上編(二)46−47頁による(汽船貿易のみ)e営口貿易の展開とその史的背景 一六 弱、輸入においては二三%強となっている。ただ民船の場合は密貿易が少なからずあったと想像されるので実際額はこれ を上廻るものと見てよい。 なお﹁支那貿易の趨勢﹂上編口に掲載されている一九︼○年一一九ニ照年の営口貿易の内外別統計を見ると前面下表の 如くである。これは汽船貿易だけしかとられていないが、この十ニケ年を通じて見るに、輸出においては六二%弱が中国 向であり、輸入においては実に七二%強が中国よりの輸入額であることがわかる。しかし、この統計には民船貿易が除外 されている。いま民船貿易を含む前の統計とこれを含まない右の統計を同じ一九一〇年について比較して見ると、民船貿 易が問題になる国内貿易について輸出は前者が一七、八八八千海関両、後者はニニ、三四九千海関両で四、五三九千海関 両の差を生じ、これが民船による輸出であることがわかる。輸入については前者は二七、二九八千海関両、後者は一九、 ︼五九千海関両でその差額八、 一三九千海関両が民船による輸入額だということになる。今仮りに一九一〇一一九二二年 においても一九〇一一一九一〇年と同率の民船による輸出︵一九%︶および輸入︵二三%︶があったと仮定して計算して見 ると輸出においては七〇%弱が中国向けで、輸入においては七八%強が中国よりの輸入額であるということになる。これ を以て見れば、営口貿易は後々までも対中国貿易を中軸として展開したことがわかる。 ①6強勇”↓寄寓碧三日ΦO話8ヨ。qlUΦ∩魯竃幻30ぽの。口取①↓筍αρ乞碧蒔山江81H民塁窪一Φ仏簿6こ。野景Φ℃o答ω8Φ⇒8岡。器凝爵 Oo戸戸零8ぎO匡ぎ四−片口αo昌什ずΦOo口嘱目。昌p口Ω∪①︿900日Φ口什oh9Φ↓目Φ讐︽℃o罫二月。く一昌8ω℃一Q。Obo一一8一三日導]≦o弓ρ∪ごαqH砂ヨω四昌創 謹碧ω.ω①8口匹厨巽ρ<o一巳H.1完。居二目昌口口α図四昌σq9Φ℃o目駐二こ口び=玲Φαげ︽○穿初oh夢Φぎω℃の08﹃○Φロ興巴oHO臣ε日ρωゲ帥づ帥qげ四♂ 一㊤O幽.唱℃.H一恥9ZΦ≦oげ≦p5αq⋮∪①8巳巴国80腎ρHG。ON一一のO一・今井東吾訳﹁高話開港前後﹂︵﹁満鉄資料彙報﹂昭和十六年目・八・十月号抜刷︶ 一頁、三頁。 ②右報告今井氏訳四頁。 ③ 満鉄調査課﹁南満洲経済調査資料第六営口﹂第一篇 貿易 四頁。 ④右書第一篇貿易五四頁。 ⑤右書第一篇貿易五九頁以下参照。
⑥前掲﹁海関報告﹂今井氏訳抜刷四頁。 ⑦右報告今井氏訳抜刷五頁。 ⑧ 有高巖氏﹁黒龍江省呼蘭平野の開発に就きて﹂︵﹁内藤博士還暦祝賀支那学論叢﹂八一九i入日〇頁︵激化︶︶。 ⑨⑫ 有高巖氏 右論文 右書 八二一頁︵通頁︶。 ⑪稲葉岩吉著﹁満洲発達史﹂四一四頁。 ⑫ ﹄馴担囮﹁南溝⋮洲経済鞠貧料 第六 営[口﹂馳弟一篇 留ハ易 一一−一二百ハ。 ⑬ 右書 一三頁。 ⑭ユ八八二年−一八九一年に.おける牛荘海関報告Lイー・エル・モントゴメリー著綜山貞家訳満鉄調査月報 頁。