127
「政党政治」確立期における
地域支配構造(1)
一静岡県御殿場地域の事例にそくして一
筒 井 正
夫 目 次 はじめに 1.基礎構造の変化 [1]商品市場の展開 [2]労働市場の展開 [3]階層構成並びに地主小作関係の変化……以上本号 皿.地方(町村)行財政分析 [1]概観 [2]歳出構造 [3]歳入構造 [4]運営方針の検討 皿.地域政治状況並びに支配構造 [1]1917年∼1924年1月(1期)一勝亦政友会町長時代一 [2]1924年1月∼1928年12月(皿期)一横山憲政会系町長時代一 おわりに は じ め に 本稿は,筆者の構想する同一地域を素材とした戦前期地域支配体制砥究の一 環を成す。筆者はこれまでに,産業革命期並びに日露戦後期における地域支配 つ 体制について,若干の分析を試みてきた。本稿では,それに続く第1次大戦期 1) 拙稿「日本産業革命期における名望家支配一静岡県御殿場地域の事例にそくして」 『歴史学研究』538号,1985年。同「日本帝国主義成立期の農村支配体制一静岡県原 里村の事例を中心に一」『土地制度:史学』105号1984年。128 彦根論叢 第244号 以降のいわゆる政党政治の確立過程における地域支配構造の解明を試みんとす るものである。言い換えれば,日本における「政党政治」確立下の地域支配体 制は,いかなる経済的・政治的契機によって成立し,どのような構造をもって いたのか。そしてそれはまた何故かくもたやすくファシズム的統治へと道を譲 っていったのか。この古くて新しい問題に対し,本稿は,静岡県御殿場地域を 事例に,第1次大戦が地域経済・社会状況に与えたインパクト,地方行財政機 構の役割り並びに地方政治状況の三局面の考察から接近しようとするものであ る。 ここで筆者の方法的視点を従来の研究史を念頭に置きつつさらに敷循すれば, 以下のようになる。 第1に,経済史と政治史分析を結節する環として行財政分析を重視する視点 である。いうまでもなく政治的対抗は,一地域という限定された社会において さえ,直接的生産関係における矛盾=対抗関係を基底としながらも,それがそ のままの形で政治問題化する場合はむしろ少なく,地域住民の直接関係する生 産・生活・教育・文化等の諸条件をめぐって階級矛盾が政治問題として発現す る場合が通常であろう。これに対し,政治的支配層は,経済過程における私的 な支配隷属関係を維持し,そこでの矛盾があらわな政治的対抗関係として展開 し自己の支配を脅かすのを防ぐために,地域社会における公・私の諸団体を介 して,生産・生活・イデオロギーの各局面における住民の社会的統合を図り, 彼等の支配への「同意」をとりつけてゆこうとするのが常である。そしてそれ ら生産・生活・イデオロギーの各方面の統合化を地域社会において中心的に担 う団体こそ,県・市・町村といった公共団体であり,その行政の経済的側面が 地方財政を形成することはいうまでもない。そして本稿が対象とする「大正デ モクラシー」期こそ,明治期以来の地域統合様式が大きく動揺し,その結果地 方行財政をめぐる様々な論点が,まさに「大正デモクラシー」状況下の主要な 論争点として,諸政党・諸階級によって取り上げられ,また実際にいくつかの 重要な改革が実現されていったのである。従ってζの問題の解明なくして,い わゆる政党政治下の地域支配構造は充分明確になしえないといっても過言では
「政党政治」確立期における地域支配構造(1) 129 ない。とうした問題め解明を通じて,.地域における政治過程や支醜体制め構造 を,単に直接的生産過程における矛盾の発現とその処理の仕方から意味づける 2)だけでなく,生活並びに生産諸条件や財政運営をめぐる諸階層の対抗と妥協の 過程としでより総休的に描く途が開かれ,他方,政治史家が問題とする地方名 3) 望一層による地域利益誘導活動等についても,それがいかなる階層の利害と結 びついており』,’また地域経済の発展にどのような逆規定的作用を及ぼすかとい った点についても,はじめて明確になしうるものと思われる。 第2に,筆者の対象とする農村地域を,地域内完結的に分析するのではなく, 周辺都市との相互関係の中で考察する視角である。その際重要なことは,都市 との関連を,商品市場・労働市場・財政並びに資本市場の三局面にわたって総 体的に考察する視角である。このような方法をとることによって,農民層分解 4) や地主小作関係の変化といった経済過程の合理的説明が可能となるばかりでな 2)1920年代における農村支配の研究は,近年著しく進展し,小作争議の収束のあり方 に焦点をあて,小作調定法の実質的機能を重視する「協調体制論」,あるいは産業組 合や農会の経済的・社会的統合機能を重視する「協同主義」論のもとに支配体制論が 総括されている(前者については,庄司俊作「近畿先進農業地域における地主制の後 退過面一『協調体制』の問題を中心として」 『土地制度史学』89号,1980年。坂根嘉 弘「協調体制の歴史的意義一後退期地主制下における農村支配の一形態」『日本史研 究』」 224号,1981年。後者については,森武麿編『近代農民運動と支配体制』,柏書房, 1985年。)。たしかに1920年忌という階級対立が最も顕在化した一時代にあっては,こ うした視角から支配体制を総括してゆくあり方は一つの有効な方法であると思われる が,小作争議やそれに主として関係する農民運動だけが支配体制のあり方を規定する 要因としてクローズアップされ,それ以外の地域住民の生産や生活・行財政等に関わ る諸問題や諸対立は,二次的問題として軽視される傾向を生んでいるように思われる。 従ってそうした諸問題をめぐッて打ち出される国家や政党の諸政策(例えば,道路・ 鉄道等交通手段をめぐる,いわゆる地域利益誘導活動や,道路法・鉄道法等の国家側 の法的統制。教育費国庫補助金制度や職制廃止・戸数割規則・「両税委譲」等をめぐ る諸政党の政策を想起されたい)について,経済史の側ではほとんど問題になしえな いという一種方法上の閉塞状況に陥っているように思われる。本稿では,経済過程分 析を基礎に,地方行財政(特に行政村における)分析を媒介とすることによって,上 記諸問題をも含んだ形で,地域政治状況論や支配体制論をより豊富化しうる途が開か れるものと考えており,その一つの試みである。 3) 有泉貞夫「日本近代政治史における地方と中央」『日本史研究』271号,1985年。 4)商品市場と労働市場との統一的把握から地主小作関係の変化や農民層分解論を解明 してゆく方法については,戦前期以来の経済史の伝統的方法であり,本章ではそれ を同一地域において,特に両者の関連に留意して分析を試みるにすぎない。ただし従
130 彦根論叢 第244号 く,後にみるごとく,この時期の政治対抗の一つの軸をなす地域間対立や,既 成政党が繰り広げる様々な請願運動や地域統合運動のもっこの時期における独 自の社会的意義についても,明確に把握することができると思われる。さらに この都市と農村の相互関係の分析は,大戦後において一旦は階級関係に覚醒 化した農民意識が,後の昭和恐慌に至る不況過程の中で,何故反都市→反政党 意識へと推転していったのかという,農村の側でのファシズム的統合に対する 「受け皿」の形成過程を解明してゆく際の前提作業という意義を有しているこ とを付言しておこう。 ところで都市と農村とひと口に言っても,また別の意味において単純な関係 には置かれていないことに注意する必要がある。というのは,東京や大阪とい った巨大都市を一国内の中心地域とすれば,その周辺にあたかも衛星のごとく 中・小都市や田舎町が配され,さらにそれらを小中心として広大な農村地帯が 広がり,中心部→小中心→周辺農村という従属的かつ重層的配置のもとに,前 記三局面の市場的結びつきが都市と農村の間で展開されているからである。御 殿場地域も,図1のように東海道線を介して,大都市東京・横浜と,さらには より近接する沼津や小山といった中小都市との,二重の影響下に置かれている にいはしのである。今度はその御殿場地域内においては,停車場を有する新橋部落一帯 が,周辺農村部に対して小中心地たる地位を保っているのである。このように 御殿場地域は,都市と農村の重層的とでもいえる相互関係を,農村の側から明 らかにする上で,恰好の素材を提供していると考えられる。 第3に,「政党政治」下の地域支配構造を,原政友会内閣期と憲政会主導の 護憲三派内閣期について,両者の同質性と差異性に留意して明らかにする視点 である。言い換えれば,原内閣期の統治構造のどのような構造的矛盾の中から 第二次護憲運動の展開がもたらされ,さらにそれが護憲三派内閣期の統治構造 にいかなる特徴を付与したのかを地域の実態にそくして解明することが,本稿 来の分析では階級関係の解明に力点が置かれ,必ずしも都市と農村の経済地理学的な 相互連関と反発の関係は明確になしえておらず,何故農村内部からファナティックな 反都市感情が醸成され,それが反政党意識へと結びついていったのかという点につい て,経済史の側でのきちんとした説明はなされていないように思われる。
「政党政治」確立期における地域支配構造(1) 131
図1御殿場町周辺直
近隣都市 東京 浜松 小 横浜 團 山 平塚 東海道線 沼津小田原 静岡 御殿場町内略図 農 村壁高部
譜
▲1一
農 村部 1ヨ町場 新橋部落 ∵!.・ 圏中間地帯 萩原・二枚橋・西田中 [[[]旧宿場街 御殿場部落□鮒地帯 讐
→箱根千石原 農 村 部 の主要な課題の一つにほかならない。この点に関しては従来政治史の分野で優 5) れた蓄積のあるところであるが,本稿では経済史の側から,主として地域支配 5) 代表的なもののみを挙げれば,松尾尊志「政党政治の発展」 『岩波講座・日本歴史 19』1963年,升味準之輔『日本政党史論』第5巻,東京大学出版会,1979年等。また 近年伊藤之雄氏は,中央・地方の政治状況の分析をふまえ,護憲三派内閣期において 中央では政友会総裁派と憲政会において,普選(治安立法含む)の実施・財政の緊縮 志向・欧米との協調外交などの点で相互接近する路線が形成され,地方においては, 原内閣期の名望家支配体制が崩れる中で,中間層以下の意向をより反映した改造され た名望家支配が形成されたとする,有力な見解を明らかにされている(代表的論稿の みあげれば,同氏「護憲三派内閣の形成と展開」『政党内閣の成立と崩壊』,山川出版 社,1984年。「名望家秩序の改造と青年党」『日本史研究』241号,1982年)。ただ氏の 場合そうした体制の下における地域支配構造の中味については必ずしも明らかになし132 彦根論叢 ee 244号 一 /一L. i 構造という点に焦点をあてて上記課題に迫ろうとするものである。 ところで御殿場町の政治的変遷をふりかえると,1917年(大正6)3月から 1924年(大正13)1月までは,前政友会県議勝亦国臣が町長を歴任し,政友会 的施策を忠実に町政において実行する。御殿場町では,1923年の震災で多大の 損害を被るが,翌年5月政・本分裂下の総選挙において・勝亦は町長を辞して 政友本党から立候補し,落選する。.この間第二次護憲運動の渦中にあるが,御 殿場町でも憲政会系の地主横山国手が,旧町長勝亦の後継者と対峙して町長に 立候補し,年半年間の町内抗争の末新町長に就任している。以後横山は1928年 12月に辞任するまでは,憲政会的施策で町政を運営してゆくのである。このよ うに御殿場町は,ほぼ国政と連動した政治的動きを示すのであり,この点から も該期の地域支配構造の変遷を考察する上で恰好の事例を提供しているといえ よう。 なお本稿では,関東大震災が町経済・財政並びに政治状況に与えた影響の大 きさに鑑:み,第1次大戦から震災まで(1914年∼23年)を1期一ほぼ勝亦町長 時代にあたる一,それ以後の24年∼29年までをH期一ほぼ横山町長時代にあた る一として時期区分し,叙述を進めてゆくこととする。 1. 基礎構造の変化 〔1〕商品市場の展開 (1)移出入構成の変化 まず御殿場地域全体の経済動向を把握するため,御殿場駅における物資集散 状況の推移を追おう。表1をみると,移出入総額は,大戦を経た1919年(1期) には,1914年の2∼3倍に拡大し,25年に至ってもほぼ同じ水準を維持してい る。その中でも特に到着物資が発送物資を凌駕して増大し,従来からの移入依 えていないように思われる。この点原内閣期の民力酒養運動の実態や地方有力者への 利益誘導政策に着目して政党政治下の地方基盤を明らかにしたのが金原左門氏である (例えば,同氏「政党政治の展開」『岩波講座日本歴史・近代5』1975年)。ところが 今度は,金原氏の場合原内閣期から護憲三派内閣期への,政党の地方基盤=支配構造 の変化・推転の論理が,必ずしも明らかではないように思われる。
「政党政治」確立期における地域支配構造(1) ユ33 存的性格をこの期にますます強めている。 まず1期における移出入構成の変化から検討を始めよう。移入品は大戦期に 実に2.7倍に増加しているがその内容は,米騒動状況以来恒常的移入品となう 6) たと思われる外米,町場の発展に伴う非農業人口の増大(表5)に対応した疏 .菜・果実・食塩・砂糖・麦粉・清酒・ビール等の食糧品,陶製器・藁工品・タ バコ等の日用品,さらには大豆粕・過隣酸右灰等の金肥や建築用材(石材・セ メント・砂利等)に代表される生産材の大量導入であった。これらのうち食糧 品並びに日用品等の消費材については,1.従来農村において贅沢品と考えら 7) れていたが大戦期以降中・下層農民にも普及していったもの(醤油),2.従 来農村において家内工業や副業として産出されていたもので,大戦期以降ます ます工業製品に代替ざれていったもの(味噌・醤油),あるいは地域内供給を g) 満たせなくなったもの(藁工品),3.非農業人口の増大や富士登山基地とし ての繁盛を背景として新たな嗜好品とレて登場したもの(ビール・清涼飲料水), 4.富士登山客を対象にこの期に成長した菓子製造業の原料として移入された もの(砂糖・麦粉),等が含まれており,いずれもこの期の新たな社会状況と 9) 消費構造の変化に対応して増大した品目であった。これらの移入先は,一部 6)御殿場地域では米騒動こそ起らなかったものの,各村むらでは窮乏民の増大がみら れ,彼らの騒動化を防ぐため,村内有力者の寄付により外:米を購入し,貧窮者に廉売 している。隣村原里村の事例については『御殿場市史』 (以下『市史』と略記する) 第6巻,646頁を参照。 7) 田村平治・平野正章編『しょうゆの本』柴田書店,1971年。 一 8) 御殿場駅は富士登山へのいわゆる御殿場口の起点として,登山客の乗降で賑ってい た。特に大戦期0)好況期には,1917年登山人員36,977人から1919年同39,580人へと登 山臥の増加がみられた(『市史』第6巻,949頁)。 9)一一石井寛治氏が正当に指摘するように,消費の拡大といった場合にも,その内容に潜 む地域性と階層性に留意する必要がある(同氏「国内市場の形成と展開」,山口和雄・ 石井寛治編『近代日本の商品流通』東京大学出版会,1986年,所収)。本稿では,町 場と農村,その内部での階層間の消費水準の差異など,史料上の制約から十分明、らか にすることができなかった。また同氏は,労働者・農民の個人消費支出が実質的増加 に転ずるのは,労働争議・小作争議を通して自らが獲得した生活水準の上昇の上に立 って,およそ1919年以降のことであるとしている(同氏「産業・市場構造」,大石嘉 一郎編『日本帝国主義史1・第1次大戦期』東京大学出版会)。御殿場地域において も大戦期の消費拡大は,富士登山観光客や町内上層によって引起されたものであり, 中・下層農民にまで実質的な個人消費水準が増加するのは,彼等の小商品生産者とし ての成長と,小作料の実質的低下が実現された1920年代においてであったと想定して いる。
彦根論叢 第244号 134 ︵営ヨ!マ︶ 田誕 ︵セ 瞭﹄﹁・惣韓確︶ ・臨黙・舘ヨ!マ ︵其 三二毒︶蛍ヨ/で 営ヨ !で・芝瞳複毒・ 瞳駆稲唾蘇ヨ︶ 営ヨ!で・営畑照 呉ヨニミ醍 ︵奪 瞭呉・芝騨裡︶ 襲・額阻蟹臨曙 ︵営ヨぐ︶瞳漿 ︵畠ヨ そ・惣蟹陣導・ 鞭誰購蝶課ヨ︶ 三田ぐ﹄看 三綴韓桜 臨寒 赴疑 飾込・益 岨川 赴疑 魁疑 飾泌・戯襲 騨降・赴襲 髄研 無疑 ︵惣盤貝匝︶ 圏騒 魁味 丁 酬
駅K田誕
。◎ @N㎡ o cつ ◎◎ o◎oく◎o rl 一 OOH oっ_
目O
O
O。Q協 OQっ 四脚.目 掴 課 8卜、㊤ 卜斜、qO
㎝OH N◎ooり 。っィ
。qホ菖 ①Ooっ ◎O 盾叙レ
。っ Bo NΣ OoQoQO
NOHO
8頃 卜①寸、。蘭O
◎om
OHO
N肖 ◎Q?9
卜雪 ゆ四 一 〇 自 oDヲ
り嵩 蕊◎○ お頃.。◎ 撫 酪 叶鴇O肖 ㊤㊤oっ 專 N㊤H トお ①8.祠 N耳 ①賞 等cq 8寸 ◎o 盾署。
①寸。っ 留QD σっm
目菖.目 n。q㊤.㎝ 掴 駅 柵 嗣 酔O目曾 O自 O rぐ cつNHoo
H
eq 掾 お cq eq ◎o 誘N ◎◎g
oうン
掴 課 O專、。◎ 卜O
①卜 ¢㊤σっ OqoのO
①O祠 ◎うg
自O
O
O
◎っ O寸O 。っW。H 榊 冨 母翻曾 1マ 騨剣翠e申 穀蕪懸送鍵 巽 平 野命・金釧 起麹・粗暮 ムヘ 一 短 四照・麟課 裸 ロ且 ● 巡 計 皿 鳴 λゐ”渥醤論轄Q窟鄭く田論ゆ惣興面諭螂軽愚 ︻網
135 。掴繕りで極楚翠。Q顧ゆ蝿思僻檸鴬︵︶Q銀く田鐘・ 。3聴3り虞樋如楚思需輿、9胸駒暴楚翅糾Q暗㍊漣任岨旺田・︵想 ﹁畑駆四身魍釧置螂謹犀肝OH日照﹂楚潔く田鐘、9舶懸鮭⑲﹁細舵握味﹂ ︵溢韻 「政党政治」確立期における地域支配構造ω 咀田・昇ヨ・圏魚 匿髄 弓田!マ・帳裸 赴駆・三分 禎留津騒・回報 丁目 阻泌 圏船 田奪 壇三 三三 顧魚 臨込・無駆 灘襲 定欝・歯罧 ゆも紹瞳・無襲 ゆ8.OH ①鴇、。。H O。qH、自 8卜.。。円 蕊駄ゆ ⑦n。っ、。◎
O
ぜN O霧 卜掃O
QOp
σQp
守O、寸O
お円 (oo m) m。。トい。q ooO
oo 薫駕 迦\11 赴翠駆翻層 顧込OOO oo NO
寸
①。oO、卜O
詰8N
お目 O◎Qoっ Qon。Q 嵩◎o O。。H.H 頃。っO、N き◎っ ︵。。︶。。寸 頃◎QQQO
OQっH o pa o co o o卜噌 LΩ 祠卜卜、。Q 頃 ①N 卜。っH霞 臨N 扇 寸 トN ①お.寸 O 鐸◎っ (Oヲ︶㎝O。っ.N O O ㎝NOOON co O
cu co 卜。っn、寸 ま①、寸 守 Nα⊃寸 誘⑩ ①α○ 鴎O㎝ 寸卜㎝ お鴎 寸◎っ◎9 cqW
ゆ8 ︵巽︶霧 ゆ慧 ㎝ ◎o@O 寸“O
目①H 寸Qっ 800 0⑩ O Nりσっ O の 8 0H 卜 ㊤8、。o O NN ︵卜①㊤︶卜cq寸、H ON
OcqNrlNoN口つ
F咽 LΩ O。。回、m ゆ。っn.目。卜「ぜQ◎oめりしΩooooo
CりHF噸 寸◎Ot㌔く◎N
ζつ Qつ㏄F噌F噌 頃OHり「ぜooo』D
トーF→ r■ ぐ翠Q Ψ
躍 廿 蕪 嘔 ︵帥曙・額︶腿鋼 蕪田韻QΨ 蕪田禦圃嶋蕪田則く
溶 下
知禽・堅十二汎ス禦 尊 樽 ︵還誓︶遜糠 論陣・墨陣鞭 畑
ぐ口岨蝿翠
笑H隷Q
然 §簗鰻・繋 岨 □136 彦根論叢 第244号 ・・一 . : (麦や清涼飲料水)を除いてほとんどが沼津(二二・果実・清酒・ビール・魚 等)・三島(味噌・醤:油)・清水(食塩・砂糖)・「袋井(藁工品)・平塚(甘藷) といった近隣の中・小都市からのものであり,その中でも特に沼津の占める割 合が大きかった。 次に生産材をみると,まず金肥は,農民層の競争的乱伐によって枯渇化の危 機に瀕していた山野肥料に代って,農会等を通じて安価に導入されたものが多 く含まれているが,そうした事態の背景には,共有山林(=入会地)の行政町 村への統一過程が進行しており,それはやがて関係部落農民の入会権擁護のた めの根強い抵抗を引き起こしてゆくことになる。建築用材については,この期 の政友会町長による積極財政主義が,役場・学校・道路・橋梁等の相継ぐ建築 ・修繕を施行させ,これによるところが大きい。特にセメント・石灰・砂利が 多いのは,. アの時期から橋梁や建物の一部にコンクリートが使用され始めたか らであった。これら生産材の移入先は,一部が沼津からであり(石材等),大 部分は東京・横浜の京浜工業地帯からであった(セメント・砂利・人造肥料・ 大豆粕・金属等)。 次に移出品の動向をみると,大戦期には,1.9倍の増加を示している。まず 従来から移出品の大宗を占めていた繭と竹行李の農家副業製品は,この期も順 調に移出量を伸ばし(繭1.9倍!t竹行李1.7倍),前者は沼津及び岡谷(汐留経 .由)の製糸地帯へ,後者はほとんどが横浜から欧米市場へ輸出され,一部が阪 神地方に移出されていた。また清酒や木材・薪等も2倍弱の移出増を示してい り る。清酒生産は,増大する移入品との競争下にありながら,大戦期に生産額を 伸ばし(表2),販売先を移入品との競合を避けて,小山町・大宮町(鉄道) 10)例えば隣村原里村では,1921年陸軍特殊演習に備えて芹沢橋を鉄筋コン・クリートに 修繕し(原里村「大正十年事務報告書」),また震災復興工事では御殿場小学校の基 礎工事にコンクリートが使用されている(『大正12年御殿場町立小学校震災工事関係 綴』)。 11) 「大正元年御殿場町産業調査」の「清酒調」の項では,「当県以西ノ製品ハ何レモ 優品ニシテ,遺感ナガラ当地方製品ハ不良ナル為メ,随テ競争ヲ免ガレザルモノト認 ム」とし「将来ノ改良ヲ要スル点」としては「販路ノ拡張ハ勿論競争品ノ輸入ヲ除 クコト」を挙げている(『市史』第6巻,672頁)。
「政党政治」確立期における地域支配構造(1) 137 や山梨県都留郡・神奈川県千石原地方(荷車)に求め,移出額を増加させてい ったのである。木材類は,富士山麗の山林の多い須山村や山梨県地方から荷車 で運ばれ,東京地方に移出されていたが,大戦期以降の町場を中心とした木材 需要の増大の中で,逆に東京からの製材晶移入が増加していったものと思われ 12) る。 そのほかこの時期には,従来ほとんど移出額がみられなかった米・雑穀・飼 料・金属・石材といった諸品目も移出額を増大させていることに気づく。米は 小作貧農層の窮迫販売を含めますます商品市場に投げこまれ,近隣町村一神奈 川県山北町・小田原町(鉄道),小山町・山梨県都留郡・箱根仙石原村(荷馬 車)一へも移出されていた。また玉蜀黍や山野草・稗桿・恭稗・甘藷蔓といっ た雑穀類も,大戦期以降成長著しい畜産業の飼料として,東京・山北町・三島 町方面に移出を伸ばしている。金属については,当地晶出のものはほとんど考 えられないので,共有地内の陸軍演習場で使用後の兵器や廃弾類が含まれでい たものと思われる。しかしながらここで述べた米や雑穀・石材類は,他方で大 量の移入をしていることから,それが当地で消費された後再び近隣町村へ移出 された分が担当含まれていると思われ,その分だけ当地産の移出量は割り引い て考えねばならないであろう。 ・ 以上が大戦期(1期)の移出入構成の変化であるが,さらにff期の動向を1925 年時点で確認すると,以下の特徴点が確認できる。移出については,ほぼ1期 と同様の傾向がみられるのに対し,移入については少なからぬ変化が認められ る。移入総量については,1925』年時点でも1919年と比べほとんど変化をみてい ないが,その内容をみると,農産物・食糧品等の消費材は約20%の減少を示し ているのに対1し,金肥や建築用材等の生産材は逆に55%も増大しているからで 12) 例えば御殿場町長は大正8年の町会において次のように発言している。「現今木材 需要激増二反シ其生産僅少ニシテ其差愈々増大セントシ林業界ハ益々多幸ナラント ス」(大正8年『御殿場町町会議事録』)こうした状況が製材品移入の増加をもたらし ’たのである。 13) こうした状況は,「需要構造の高度化」として指摘される’20年代の総需要の特質 (疋田康行「産業構造」,1920年代史研究会編『1920年代の日本資本主義』)の一つの 現れとして把握できよう。
138 彦根論叢 第244号 ある。前者については,1期に至り,米・麦(特に小麦)や疏菜・果実・甘藷 類の生産額の上昇が当地の村むらでみられ,都市化に対応した農業生産の再編 が進む中で,移入増をくいとめることに成功しているためと考えられよう。後 者については,そうした農業再編のための金肥施用が,小作貧農層をもまきこ んで広く浸透していったことと,さらに震災後の復興事業の継続的施行が,こ うした生産材のいっそうの移入増をもたらした要因であった。 以上みてきたように,御殿場地域は大戦期以降ますます深くかつ広く他地域 との社会的分業関係の中に組み込まれていったのであるが,そこにみられる諸 特徴を以下の3点に要約しておこう。第1に,生産と消費との関連からいえば, 御殿場地域の経済は,繭と竹行李という外国市場に販路を持つ移出物により, 15) 生計用品や生産材を購入するという産業革命期に形成された構造はこの期も貫 いており,さらにまた外米や大豆粕の移入増大を考慮に入れるとき,地域経済 全体の消長がますます植民地や海外市場に依存する構造となっていった点であ る。第2に,他地域との分業関係においては,生産材の移入では京阪工業地帯 に大きく依存し,消費材においても近隣中小都市,特に沼津への依存関係を深 めていった点である。しかも1期に至るにつれ,生産材の移入が消費材の移入 を上まわる速さで進んでゆく傾向のもとでは,京浜地域への当地の依存性はま すます強まらざるをえない。そして,こうした地域間分業関係は,生産材と生 計消費材の購入を可能ならしめる繭ならびに竹行李の価格が上昇基調にある場 合には,一応円滑な進展を示すものと考えられるが,20年代後半期以降の繭・ 竹行李価格の急落と,これに反し生産材や生計用品が「独占価格」のもとに高 額を維持する場合には,京浜大都市や沼津を中心とした近隣小都市と,御殿場 地域特に繭・竹行李を産する周辺農村部とは,対立嵩反発関係に転化せざるを えないのである。第3に,御殿場地域全体は,上述のごとく海外市場並びに他 14)農家経済調査改善研究会『大正10年度∼昭和16年度農家経済調査概要』によれば, 1924年における流動的物財費に占める肥料の割合は,5反1町経営層で59.1%,1町 ∼1.5町で52. Za/・,1.5町∼2町で57.5%を占めた(犬塚昭治『日本における農民分解 の機構』,未来社,1967年,252頁)。 15) この点については,前掲拙稿「日本産業革命期における名望家支配」参照。
「政党政治」確立期における地域支配構造(D 139 都市への従属依存関係に立ちながらも,停車場を有する御殿場町は,物資・人 員の集散地として発展し,周辺農村に対しては生産材・消費材を供給する小中 心地たる地位を占めていたことである。 それでは上にみた地域聞の交易・分業関係に組み込まれながら,御殿場町の 経済はいかなる対応を示したのであろうか。主要生産物の動向を具体的に検討 しよう。 (2)主要農工生産の動向一表2一 御殿場町における生産物価額総額は,大戦期に約4.5倍に著増するが,戦後 恐慌と震災直後の落ちこみ,さらに27年以降は慢性的不況に陥るというように, 20年代は,一時的価格上昇期(25年)を除いて停滞基調を推移している。だが 産業別推移を追うと,1期までは農・工・畜産が並進的に価額増を示している のに対し,∬期後半の不況期には,農産物は急落の一途を辿るのに対し,工産 並びに畜産物はむしろ漸増発展基調にあるというきわだった対象性をみせてい ることが注目される。 1期 まず田479町・畑282町を擁する当町の農業生産の動向から検討しよう。表2 によると価額は大戦期に4.5倍という伸びを示すが,戦後恐慌下で3割強低落 した後,20年代は概して停滞基調に陥っている。大戦期においても,生産量で は,主要産物たる米や繭は停滞,大・小豆や玉蜀黍等の畑作物は漸減傾向さえ 示していることがわかる。こうした価格上昇に追いつけない生産面での停滞状 況が,食糧品移入の拡大と米価暴騰期における窮乏民の増大をもたらした要因 の一つであった。だが注目すべきことは,他方でこの期に産額を伸ばしている 部門が現れている点である。麦は従来の大麦中心から小麦に比重を移して20年 16) 代に入ってから増大し,疏菜(甘藷を含む)や鶏卵もこの期に急成長をとげて 16)1913年大麦932石・小麦160石から1927年大麦474石・小麦478石へと変化する(御殿 場町「産業統計台帳」)。たしかに20年代の小麦生産は,全国的には競争的世界市場に 規定されて顕著な増大は示さないが(約1割増大),需要の増大と大麦に比して価格 がより堅調を保つこと等の条件に支えられて,低落する大麦に代って漸増傾向を示し ていたことも注目される。この点,犬塚前掲書,94∼95頁参照。
彦根論叢第244号 140 (鴎 D。っ︶ 。。 B。 ヘ、
m
O。q①.め臼 (の D◎o︶ O◎っ。o、自 ㎞。っト6自 (ゆ Bcq︶ 。。 @目㎡ O雷、畠 (① Dcq︶ 鐸卜.① OO寸.誘 (寸 D噂︶ 。o?B○、。o囲 8。。、卜。っ肖 (㎝ Doっ︶ 鴎。。H.ON ゆ①O.。。。っH (H D㎝︶ 露卜、① 8卜、。っ。o (頃 C。っ︶ 。。 閭g.翻 O。。寸.8 (o◎ DN︶ OO。Q、菖 OOO6卜 (eq D目︶ 鼠O.如 OO。っ、㊤ゆ (鳴 D剛︶ ①ON.釦 瓢08、O︾ 緊 畢.N 恨謬軽.H ㊥ (O DN︶ O等、。。 8N.。。N ︵①.目︶ 蕊。。.。qH 昏。o、㊤即 (O D㏄︶ O①。o、。O O專、丼 (H D㎝︶ OOO、① OOO.專 (H DH︶ 等。っ、卜 8N.。っ寸 離即 }。 D・E..・ (O Dcq︶ 圧OOO、。っ 輯OOO.Oゆ 騒 単.㎝ 確謬軽.H ㊦ (卜 D目︶ 。っ Bっ 。. Bっ O卜q⊃、。。㊤ (① A囲︶ δ哩り Oδ.お 否.岬︶ ㎝O。。、卜H 一§.・① 一 (。o D。っ︶ 肖羽.鵠 08.。。① (g.寸︶ bり・。.・。H §.ま (。o D。q︶ OO卜、冒 OOO、8 (◎Q Deq︶ OOO、。。副 OOO、8 (り D㎝︶ OOO、① 08.。○卜 (㏄ DQっ︶ 匪08、︾ 輯08.H卜 騒 恒.。q 二男軽.H @in (① (卜 (O (① (寸 (O 懸坦.寸罰低H.。。鱗抵.。q懸濁.一 橿㊥ ︵寸.㎝︶80、寸霧卜 (頃f 三州
(頃 (。。 (⑩ (◎o モ燥 ︵Qo.鴎︶臣謹。。.。。楓O①H、回 騨寧.。q瞳遡屡.H 三眠網◎ 鄭欄外勇奮.< 凧 (① (① (。o Bっト.卜H守 (。っ Bっ Bq n寸 (H .①蕊。っ (㊤ Bq (① Bq (。D Wり.鴫棋O鋸 緊皐.N直謬軽.目 岡ぐO釈@ (。◎ W.瓢08碑欝 N難
(㊤ @①.コ①8 (① (N 醤坦.N確謬軽.H 偲.㊥ .( 聯.q 鰯.っ ︵頃.。Qn︶鴎躇60。qOO.H卜苺.卜 (① (q⊃ (eq ︵S。o,。りm︶団鴎。qO.。○卜障誌.H陶①。。H、卜 隔坦.。っ蚤屡.N慨謬軽.祠 .来﹁◎ ︵頃の︶O。っ①H ︵寸の︶O斜H ︵。qの︶トN①H 一(ハ§
︵鋼↑︶。っ◎﹃①H (O ↑︶碍2 (。Q ゥ︶①H9 (り Pヒ︶旨①H ︵寸寸︶暗ゆ例曾 解法Q熱望H親臨朝畠螂霞犀 N榔.如釦E專。。卜。。煮簗三三迦︵祠 .や如圧OOO。。。っ喧︵㎝ .まゆむ興”鐘H・櫓・韻楚に︵︶まゆ極較廻懸灘楚︿﹀︵坦 餐趨9%﹁﹁嵐、一融融﹂﹁騨Φ粛握課糊﹂慧、辟麺︵盛報 14工 「政党政治」確立期における地域支配構造(D n総.コ。。﹂㊤8、。。仁、一 ︿卜.トリ︶ 薯頃、お皿 等H.。っト ︿。q.O㊤︶ 。っホ、きト O尋、。qO ︵N ︵㎝.⑩︶ OO喩。。。っ (m D匿︶ Oお6。aσっ 恵N.。。 ︵寸.㊤︶ 。。ィ.謂 ︵瞬。っ︶。o回 q.。っ︶ Oお.㊤H (㏄=j。。① (卜 DO︶ 。qm卜、。。 .( ゥ︶. cq
m
合,卜﹀ 誘。p6ゆ O。。Q、O寸 苺卜、。oH 合N> 卜O胤寸OOq (m D尋︶ 08、① 蕊H、卜H N◎OOδ①O、一 ︵寸.露︶ H。う㊤、。っO㊤ 專⑩.呂 ︵肖 ︵頃.噂︶ O。。①、。q。。 ︵寸.OO︶ O等、。OOn ︵門ゆ︶ OOめ、卜。っ (◎o Bっ) B◎目 (O D。。︶ 鴇O.H。q ひ ︵㊤.雪︶ 。。ゥ、寸自 ひ ①①寸.一 念.頃﹀ 誘①、。q⑩ O。。。。、。。。。 蔀O、寸cq ︿寸.。。N> 0等、。○。っ。o ︵寸.O︶ 。っ?B。、H ㊤O卜.N (H DQり︶ OOO、①目 (。。 Dき︶ 8陀①等 ①。。ゆ.N 一 (㎝ D頃︶ 8ゆ.目。っ (り Bっ) nN 蕊H、自発、囲 ︿矧.。。協V σっnN.。う。o卜 。っ凵D8 ︿①べ︶ OOO.。うN (一 B雨鴎︶ O卜O、。DO郊 ①。う閥、。う、 窩K (卜 D㊤︶ 08、①H (O B。) B。レ
(O D噂︶ 守寸、蕊 ひ ︵寸.囲︶ O專.。。 oうp
e覇│
︿①.矧> Oめ。◎、。。の O薯、二 ゆ專、①。っ 合。っ﹀ ま頃、。q。り寸 ︿㊤.σq︶ 。。 n寸.自 O卜﹃臼 ス。q。。。㎝︶ OOゆ、O。○ ︵露oO︶曽eq (N DmO︶ 8環り。。H (卜メ︶。q⑩ 。。W、回 合.。。﹀ 鷺。q㎡寸 8H、。り。q 頃8、。qN 合.。っ野﹀ 。○m卜、。o。。り (O D。っ︶ 。り秩D①一 。っ @陀菖 ◎っ ?m、80、目 ︿。。.Oゆ> 8。。、自ゆ 苺頃、輿。9 命.專V 雪O頬卜。っ遷・・蘂..
(回 D邑 ①。Q﹃。D雪 O。っ。う、N 罫K (。○ Dcq︶ 。っ@H、⑩ (eq 黶j@
(畔 ィ︶ O。DO.O卜 (ゆ 盾n ?早jZeq (。。 D祠ト︶ 。っ B。n、O。。目 (ゆR︶N㊤ ①お、一 ︿①.。。﹀ 。。ゥ.①。っ OO。。、〇一 。っg。っ、斜 ︿Qっ.專﹀ ①。o卜.n專 (目 DN︶ 。。pO、① ㊤①卜.。。 ︵寸.Oゆ︶ 80㎡雪 OO寸、N (O g) Bう ︵頃一︶ 。o@卜.︾ (① g) nH (㎝ Ceq㎝︶ OOO、苺 ︵8肖︶。っ。。 ︵﹃爲︶ 霧。。.㊤。。 ︵8︶目自 8① 合.。。﹀ 。qn寸、。。N O。。卜、OH 斜り、卜H ︿祠.おV 躊州.O。q寸 (同 Deq︶ O。o卜、。o 蕊ゆ、㊤ き◎Q、㊤斜言 ︿㎝.專﹀ 。o BD@、詰n H卜。o、卜 (卜 D。。寸︶ O寸㊤6頃cq α。n。q.。っ (O Bっ) Bっ (H DQD︶ α雲.⑩H ︵斜︶団 (卜 │︶ OOO、。o。g (oっ 揩初 )。 B。 B 頃. g。。︶ つき詹_
cqo n)議 っ㊤m 。。.H> 卜、斜 8、。っH ゆ.① .。q頃﹀ 。。O、奪㊤ 瓢設置 m.Oゆ﹀ 。。㊤、①め。Q 。。寸.OH め6 Oり︶ N、爲H α。赫 誘︶。っ 。oO j 。繭。D、Qq 二H.響︶卜 q⊃. ホ︶ 0、①卜 oDo 盾g j。 B。 チ 目. n噂︶ 囲.Oコ ①o n)菖 qOBq、回 。。.HV Q①BQ、e噸H 。q㏄.卜 O、n 卜.寒> 卜。◎、①。り。Q Φ. n︶ 。o卜.。り 0.① N.O︶ o。 8.O 卜O㊤.苺N、 ﹃專﹀ 。。 チトコ。qH 卜①寸、卜 罫 穫 卜. ス︶ 昌卜.。D。o 紹H、。q O。g︺[鰹︶江。っ q H]Aoo
v
。り。 B) り蕊、。。 。っ。 BHg藩︶。っ。っ O. 冝j 卜畠.蕊 O寸 g転︶H 。q。。。っ 卜.H> ○。 チト D噂 O、。。 。。り、州 0.。qm> 扁児ゆ鷲 α9.O︶ 。。鴇、目 OO。。.①Q申◎
譲卵罧㊥ 10回騒 q畑填こ → N o◎.導べ
.山奥譲.円 箪.N 阪姻烈.肖 坦.。。 三三㍊.eq 遡姻.H l㊥iぐ藻岨 $rstll /マ 里粛廿㊥ 令嗣躍◎ぐ
學.N
騨軽.H臨H
142 彦根論叢第244号 表3農会品評会成績単位:人 (1)1921年稲作改良品評会 (2)1928年稲及び秋蚕品評会
謹優・・1231・1計
A1500円∼ BIOOO 一一1500 C 700 一一1000 D 400 ・v 700 E 200 一s一 400 F O ・v 200 1 ーワ一−1121⊥−漏
亡U11⊥1
ρOQUO79自
1( 7) 12 (37) 6(18) 15(12) 9( 4) 3( 2)優・・1・・1・以下計
ABCDEF
4FD−山 −轟00Qゾρ00ゾ一
9臼Qゾ48Qソ 一←001 9臼4り臼QU61←11
4亡U78F◎ 0 5(15) 20(61) 44 (35) 79(39) 50(31) 出所)『大正10年御殿場町産業関係綴』「昭和3年度御殿場町農会晶評会成績」 注)01928年の場合は稲と秋蚕を合計して示してある。 o()内は各階層内に占める割合(%) いる。特に疏菜と鶏卵は,都市化に伴う新たな需要増に支えられ,相対的に 高価格でありしかも戦後恐慌期にも大幅な価格下落を示さなかったことから, 1915年から21年にかけて価額で6. 7∼10倍,生産量で2.1倍(翁面),作付面積で 1.8倍(同,「御殿場町議業台帳」)に増加するという発展を示した。このよう にこの期は,第1次大戦期の急速な資本主義の進展が,一方で農業人口の流出 (後述)による農業生産力の停滞を引き起こすとともに,都市化にむけて農業の 側での新たな対応も進展するという,過渡的な性格をもっていたといえよう。 次いで農業生産力の担当層を,1921年の農会品評会話選者によって推し測ると (表3一(1)),明治期までは農事改良の先導的役割を担った所得1500円以上の寄 生地主層はほとんど姿を消し,代って700円∼1500円までの耕作地主並びに地 主自作層と,200円∼700円までの中堅自作・自小作層の二層が立ち現れている ことが看取できよう。その中でも特に1000円∼1500円の自作地主層が主導的地 位にあると目され,そのもとで400円∼700円の中堅自作・自小作上層がいよい よ拾頭してきた状況を表3一(1)は物語っている。これに対し200円以下の小自 作・小作層は3名と少なく,この段階ではいまだネグリジブルな存在に留って いた。こうした状況は,大戦期の労働力流出がまず小作・貧農層をとらえ,彼 等の家族構成並びに農業従事者が上層より相対的に減少するという(表13),こ の期の労働市場の展開のあり方に規定されたものであった。「政党政治」確立期における地域支配構造(1) 143 次に工産物の動向をみると,大戦期には清酒(36∼50%),製糸業(20∼30 %),竹製品製造業(16∼26%)を中心に,木製品や菓子製造業などこの期に 急成長をみた新興部門を加え,価額で4.5倍,産額で1.6倍,職工数で43年半 (清酒並びに製糸業),という伸びを示している。このように主として価格上 昇に牽引された大戦期工産物の急成長は,戦後恐慌で打撃を被り,特に製糸・ 清酒・木製品部門での価額下落は著しいが,1922∼23年頃には,ほぼ大戦中期 (1918年頃)の水準に回復していったのである。 17) 製糸業では,56∼195釜を有する1ないし2の製糸場が町内に存在し,職工 数82∼147名を数えていたが,町外製糸場や紡績工場に出稼ぎに行く女工も相 当数居たようである。1920年には23名が小田原紡績に就業していることが判明 するし(後述),1927年には富士瓦斯紡績小山工場に30名,東京練馬東洋モス リン株式会社に8名をはじめ計46名の女工が出稼に出ていることが明らかにな 18) る。そうすると町内外の女工就業者は,ほぼ110∼190名程度と推測することが できる。彼女等の出身階層を表4で確認すると,判明する68名のうち,所得 400円以上の中堅自作・地主自作層が11%,200円∼400円の自小作層が31%, 200円以下の小自作・小作貧農層が60%という構i成を示し,圧倒的に貧農層が う その供給源であったことがわかる。次に竹行李製造業については(表11),原 材料を前貸しして職人層を問屋制的に支配する商人や「工場」主層(所得1000 円∼4000円に3人)を頂点として,職工2∼3人を雇う家内工業経営者が続き (400円∼600円8人),その下に商人から前貸支配をうけて製造に従事する職 17)明治36年に設立された萩原製糸場は大正初期までつづいていたが,大戦期に残って いたかは定かでない。また今一つの御殿場製糸場は,昭和4年2月火災で消失するま で存続した(『市史』第9巻,281頁∼282頁)。 18) 「女工トシテ出稼者調査表」(御殿場町『庶務関係書類綴,昭和2年』) 19)表4で明らかにした紡績女工の析出基盤は,中村政則氏や靱負みはる氏が明らかに した製糸女工の析出基盤とほぼ一致するものと考えられる。中村政則氏によれば「小 作農民あるいは5反以下自小作農」(永原慶二他『日本地主制の構成と段階』,東京大 学出版会,1972年,542頁)であり,靱負みはる氏によれば「1反未満所有で5反未 満経営という小作・小自作層」(同氏「第1次大戦後の製糸女工の析出基盤一五加村 の農家経営と女工労働一」,大江志乃夫編『日本ファシズムの形成と農村』,校倉書房, 1978年)が析出されている。
144 彦根論叢 第244号 入層が存在し(100円∼300再の28人が中心的存在),さらにごれらの外延部に 』「縁まき」という最終工程を副業として担当する農家並びに町場の下層民が分 厚く存在していf209このように製糸業・竹行李製造業ともに農家経済と密接な 関連があり,特に200円以下の貧農並びに雑業層の生活の破綻を防止する経済 的機能を担っていたといえよう。これに対し酒造業では職工数約3b入;木製品 製造業では20∼30人と,’労働市場の面における農家経済との結びつきほ,相対 的に希薄であった。
H期表2
1923年9月の関東大震災は,御殿場町に,全潰292戸,半潰845戸という甚大 な被害をもたちしたのであるが,その後の復興過程の中で,農会による農事改 良事業が動力農具の普及を伴う形でいっそう活発化し(日章で詳述5;それに よって農業生産力そのものは,1期よりむしろ上昇・安定していったこと力斗, こめ期の特徴としてまず指摘できよう。20年代の農家戸数の安定を背景に,米 収穫高・反収ともに震災後には9000石,1.9石台となり,それ以前の7000石台, 1.5∼1.8石レベルに比べ,上昇している。繭も20年代に入ってから秋蚕を中心 に著しく成長し,1人当収高高も4.7∼7.0石と,大戦期の3.2∼4.1右を凌駕し ている。大・小豆や玉蜀黍等の耕種畑作物は,いぜん漸減傾向を続けているが, 1期に現れた新しい傾向たる,小麦・果実・疏二等都市(町場)向けの商品作 物の成長はこの期にいっそう進み,さらに1926年以降は鶏卵生産の増加が顕著 21)であり,これらの新興生産物で,全農畜産物の20%前後を占あ・るに至っている。 しかもこうした農業生産力の発展傾向は,大戦期に減少した農業人口のもとで 支えられたものであることに留意する必要がある。従って農家1戸当りの生産 高も,例えば米の場合,1913年9.3石」1919年12.8石,1927年15.1石と着実な 20) こうした副業竹行李生産に従事する農民は,主として5反未満所有の小自作・小作 層であったことが,隣村原里村についてであるが明らかにされている(前掲拙稿「日 死本帝国主義成立期における農村支配体制」)。 21)第1次大戦期から1920年代におけての,養蚕・疏菜・果実・養畜といった商業的農 業の発展についての全国レベルでの特徴づけについては,森武麿「農業構造」(前掲 『1920年代の日本資本主義』所収)参照。「政党政治」確立期における地域支配構造(1) 145 上昇を示すのであり,いわゆる土地生産性と労働生産性の並行的発展という該 期の傾向は,当地でもはっきりと認められるのである。 次にこの期の生産力担当層を表3一②で確認すると,1期に比べ明らかに下 降化が進ん.でいることがわかる。700円以上の中・上層では,1000円∼1500円 の自作地主の地位は後退し,代って700円∼1000円の自作上層・地主自作層が 顕著に進出している。また700円以下の中・下層でも,1期では少数であった 200円∼400円の自小作・小作上層と200円以下の小自作・小作層が広範に立ち 現れているのである。この中で400円∼700円の中農層こそ,優等∼2等までの 上位入賞:者を最も多く輩出していることから,全階層中の中核的生産力担当層 と規定できよう。また200円以下層も,脱農化に伴う家族構成員の減少という 相対的に不利な条件(表13)を,農会活動への積極的な取り組みによって克服 し,労働生産性を上昇させていったのである。 23) このように皿期に至ると,下層の上層部(小作上層)をも含んだ中農層(主 として地主自作と自小作層)が,新たな農民二二商品生産の担い手として拾頭 してくるのであるが,20年代後半期の農産物価額の急落は,まさに彼等のさら なる上昇を外部から断ち切るものとして立ち現れたのであった。 次に工産物の動向をみると,この期も全体として漸増傾向にありながら,種 目によって相異なる対象的な動きを示していることがわかる。まず農家経済と の関連が深い製糸業や竹製品製造業は,1925年中ピークを迎えた後は,価格の 急落に伴って生産額・職工数ともに大幅な低落・削減を余儀なくされている。 これに対し,震災復興土木・建築事業の継続的需要に支えられた木製品製造業 は,価額・製造戸数ともに2倍弱に増加させて発展し,また登山観光客の需要 を頼りとする清酒並びに菓子製造業や清涼飲料水製造業(1929年創業)も,同 様の発展傾向を示しているのである。 22)栗原百寿『日本農業の基礎構造』一『栗原百寿著作集』1一,校倉書房,1974年, 187頁,287頁以下。 23) このような20年代における「生産力担当層としての中農」の性格については,綿谷 超夫「資本主義の発展と農民の階層分化」(東畑精一・宇野弘蔵編『日本資本主義と 農業』岩波書店,1959年)参照。
146 彦根論叢第244号 表4 女工の出身階層 所 得 人 数 700∼1000円 ,400一一 700, 200一一 400 0tv 26e 1}…%・人 21 (31 ) 41 (60 ) 計 68 出所)『大正10年住所寄留届書綴』 「昭和2年女工トシテ出稼者調 意表」 同上各年次『戸数割賦課額角 簿』 注)o大主10年と昭和2年において 判明する出稼女工に限って出 身階層の所得を調べた。 o内訳は紡績女工58名,製糸女 工10名。 〔2〕労働市場の展開 (1)戸数並びに人口の変化 以上みた、ように,豆下寺にその後期 の不況の進展下には,価額の面での農 工並進的な発展の途は閉ざされ,この 時期農民的小商品生産の中核的担い手 として立ち現れてきた自小作・小作農 民にとっては,農産物価格低落と,女 主労賃収入や副業竹行李収入の減少に よって,自己のさらなる発展の途が閉 ざされつづある中で,農工間の逆比例 的な不均等発展が,まさに眼前に展開 する歴然たる事実として,感得されて いったのではあるまいか。 表5によって,まず職業別戸数の推移をみると,1902年(明治35)には813戸
表5職業別戸数の推移
1・9・2年1・9・3年1・9・9飼・92・年・925年1・927年t・929年 農 商 工 公務自由 交通運搬 家事使用人 そ の 他 無 職 戸 % 813(69) ] 328]42
戸 % 773(67) 289 98 戸 % 664(46)粥
/i56
10 戸 % 590 (35);2,g /286 14 戸 % 615(40) 346 284 65 85 36 80 11 戸 % 603(35) 428 308 106 108 97 44 30 戸 % 614(34) 438 316 109 119 48 105 34 計 ll,”1.83 il,160 ll,445 ll,496 ll,522 ]1,724 il,783 出所)1902年:「事務報告書」,1913年・1919年「町村形勢一班下調書」,1925∼29年 「統計台帳」,ただし1913年の商戸数は1910年のもの。「政党政治」確立期における地域支配構造(1} 147
表6戸数割等級別戸数の変化
等級 ・9・6年1・7}18}・gI・・
特1∼4 @ 5∼8 @ 9∼12 @ 13∼16 @ 17∼20 24戸(2%) V0 (6 ) P15 (10) R64 (32 ) T78 (50) 23戸 U7 P18 R56 T96 23戸 V0 P17 R53 U17 22戸 V1 P20 R32 V55 26戸(2%) U7 (5) P20 (9) R35 (26) V32 (57) 計 11,・5・ 1・,16・ 1,・8・ ユ,… 1・,28・ 出所)各年次「町会決議書」 ・70%を占めていた農家戸数は,日露戦後期から減少しはじめ(1902年∼13年 目40戸減),第一次大戦期にはさらに100戸余を減じ,20年代に至って600戸台 に安定する。だが全戸数に占める農家の割合はすでに40%弱へと低下していた。 これに対して商・工・運搬・公務・自由の各層は,大戦期から20年代にかけて 一貫して増加傾向を示し,また20年代後半の不況期には,無職・その他といっ た貧窮者も増大している。しかもこれら増大する非農業人口は,ほとんどが戸 数割等級17∼20等(20等級中)に属する最下層であることが表6より判明する。 また1910年から1917年にかけでの商入層(一部職人層含む)の動向を確認する24) ’
と,卸商20戸→35戸,仲買商12戸→48戸,小売商248戸→352戸と変化し,圧倒 的に零細な小売商が増大していったことがわかる。彼等の中で増加した主要な 職種をあげると,酒類(10→18戸)・味噌醤油(3→6戸)・塩砂糖(13→31戸) ・果物青物(8→13戸)・魚介(4→8戸)・菓子(11→15戸)・人工飲料(3 →14戸)等の食糧品類,履物(17→23戸)・荒物・小間物(9→18戸)・建具指 物(4→9戸)・農具度量衡(5→9戸)・金物機械(9→22戸)等の日用品・ 器具類,さらに繭生糸(2→12戸)・綿麻(8→15戸)・肥料(3→4戸)・木 材(4→12戸)・一同(不明→19戸)等の原材料類であり,大戦期に成長した農 工部門と拡大した移出入物資を流通面で支える商人層であった。 次に人口の変化を図2でみると,現住人口は大戦期初頭の1916・17年に急増 24)以下の叙述は,明治43年・大正6年御殿場町『産業関係書類』に基づく。148 彦根論叢 第244号 図2 人 口 推 移 人 10,000 9,000 8,000 3,000 2,000 1,000 ①現住人口数 コへ ’\
\ 〈
ノ”で一\…ノ㍉
②流出入のみによる人口推移 ③入寄留年度現在数/ ④出寄留年度現在数 1915 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 304 出所)各年次「事務報告書」より作成。 した後,18年に急減し,22年頃まで停滞傾向にあるが,以後は一貫して増加し 続けている。しかしながら他方で,この間の町内への入寄留者は,1916・17・ 28年を除いては停滞傾向にあるのに対し,町外への出寄留者は,震災時を除い て一貫して増加していることが確認される。そこで現住人口から毎年の自然増 分(出生人ロー死亡人口)を差し引いて,流出入のみによって左右される人口 の社会的変化を示すと,図2の②部分のようになり,大戦初期に若干増加した 後はほぼ一貫して減少停滞傾向を辿っていることが判明するのである。御殿場149 「政党政治」確立期における地域支配構造(1) 需蝋9妬﹁膿踵騨駆蔭羅癒抵謬味母翻圏照﹂︵養祀 震き⋮卜。。。。.目。・⋮卜自 。震⋮基、肖⋮。 。雲㎝⋮§⋮。。 O.お。・⋮。。。。。。、胤舘 od臼⋮o袋 の 噂.⑩。oH門。Q袋.。Q⋮Ocq O§。。⋮O霧 。。 N.O卜窪§.ご寸 。話H⋮。、寺⋮。。 O.謬寸⋮H自、醗自 ⑩・ゆ雲 。。。。O 峰 卜師cq⋮ゆ。。。。マ ・。?c目§⋮コ
OdO亘08 N
。甕H⋮。專、N⋮N 一誘N⋮H。。①、。・⋮雲 。。 D①蕊⋮①苺、H耐 旺 ⋮ ︸ 知く黒国︸< 需 傘・号音・・量§二・冨喜・
O㎝H 一㊤誌 ゆ。 寸。 .一 N 7團{▼一彊 〈””’r黒譲
目 rl O諮H
q⇒ c< 丹田駅 O響⋮。り 謬肖 O雪 …H 斜㎝ 口q c<眠目
O露 .eq mO卜 QQ 。。?m、㎝.O O田 召 O自 曹H
O鵠 一 δO、Nず O扁 百 ゆ匿 繭 08 .H 目 Qりo or a 寸Qつ ロq c<︽十
一N
〈 脚謹犀り・量①曇章章・§・魯
08.回 ⋮例 匿。D 国⋮< 踵︽﹄﹁ OoQcq OO囚 O蕊 8り O日 …H O目 ⋮囲 §、ご頃『
OQQH 蔚§﹃
…囲 一 目 σり 国⋮< 仔眠蘭 8。。.駐の 。。ユ⋮H
O。。 ⋮肖 。匿⋮寸 O日 ⋮州 qq @< 輕郭11 O卜 O芝 OOcq OON r一 一 co 一 ㎝9 …H§N
8 脊
。等N
・窪⋮。・・︸ 匿◎o 障◎っ OmO O瞬卜 担σう N守 ㎝旨8H
り◎QΦ …。・…
…目…
ζ◎州N「蝉 一 冨 …HN
。專、軸⋮N H等、里O肖 頃O円 ⋮H ・ 圧 ⋮< 国⋮<瞳構
醤離溢無く亡く
燦 六
町K勾一恥
翠 Q Ψ⑭囁
楓㊥H
照⑨駅務 田㊥
帥騨戦留翻組⑨ 蝋餌灘耗引◎ H・<嘔 匝鰹其幡羅:騒 ・@@@@@裡僻に起㊥
恨蛭暗鼻㊥
蝋
遡◎ 蝉髄鍛罧響
︵母鵠曾︶餐避嘩霞﹂二野Q榊K導寅纏鴇卜網
150 彦銀論叢ec 244号 町は,1889年(明治22)の東海道線開通以来周辺農村からの流入者が相継ぎ, 1911年時点で町内寄留者総数は2230名(現住人口の26%)を数えていたのであ るが,大戦期以降ば,上にみたように周辺農村に対する人口吸引力は急速に衰 え,逆に近隣諸都市への人口流出地域へと変貌していったのである。 しかしながら他方でこの期には,町内にいわゆる農村雑業層が分厚く堆積し ていったこともすでに述べたとうりである。・そして流入入ロは該期停滞傾向に あることから,その中には町内農村から農民分解によって析出.された者が数多 く含まれていたと考えられる。そこで町内における人口移動の実態を,1925年 の部落別転入老=戸数割新規課税者調によって明らかにしよう。表7に記され た117名のうち,25年の入寄留者数12名,町内住所変更者28名を差引いた77名 が,この年農民層をはじめとする各職種から新たに析出されて登場した者であ るといえよう。さて彼等の職業は,日雇・入夫層26名,大工等引入層28名, 物品販売業22名で全体の65%を占め,その他サービス業・運輸土木関係者・教 師・巡査・店員等が数:判ずつ含まれている。平均所得は272円と低く,特に人 夫層は171円,職人層は264円,物品販売業は234円と,平均を下回る零細所得 者達であった。彼等は,町場の新橋部落を中心に(30戸),萩原・二枚橋・西田 中の準町場中間地帯に(合計44戸)集中してゆき,雑業層として堆積していっ たのである。また1日中心地たる御殿場部落にも25名存在する1が,教師・吏員・ 巡査を除くと雑業的労働者・職人層は17名であり,新橋部落等の新中心地に比 べ少数にとどまっていたのである。 さて,以上みてきた人ロ・戸数の変化のあり方から,ほぼ次のような事態が この期の御殿場町に進行していたものと考えられる。まず大戦初期の1916・17 年段階には,町外から一時人口の流入がみられるが,18年頃より大戦の影響 (都市工業地帯からの労働力吸引)が強まり,農民層分解が一部挙家離村をも 伴う形(=農家戸数の減少)で進行する。そして脱農化した層は直接町外へ流 ’26) 出するか零細な雑業層となって町内町場に流入する。そしてさらに町場に堆積 25)明治44年御厨町(御殿場町の旧名,1914年以前まで)「事務報告書」。 26)戦前期の農村では挙家離村という形での流出は極めて稀であったとされる(野尻重
入 5,000 4,000 3,000 2,000 1,000 「政党政治」確立期における地域支配構造(1) 151 図3 地域別現住人口の推移 “s..tt− tt v 町場3部落 ノノ
ゾvタ村・部落/r
農業従事者数旧中心地鰍一義\_1
\一く_ノ∼一.一P一一
191315161718192021222324252627282930年 出所)図2と同じ 注)1926∼27年農業従事者の変化は調査基準の変化による。 町場3部落には新橋部落と町場的要素の強い二枚橋・ 萩原の2部落を集計した。 した非農業人口が町外の労働市場に向けて激しく流出していったのである。こ うして町場地域には絶えず農村部から人口が流入すると同時に,町外への流出 が進行していたのである。20年代に入っても,挙家離村的脱農化はみられなく なるものの(農家戸数の安定),農業人口にはほとんど変化がみられなかったこ とから(図3),農村における人口の自然増分が常に町場や町外に押し出されて いたのであり,それと同時に町場に滞留する雑業層も引続き流出を続けていっ たのである。そしてこのような事態の進展の中で,町内人口の地域間格差が拡 大していった。明治中期まで宿場街として繁栄を誇った旧中心地の御殿場部落 や農村地帯の部落は,人口を減少・停滞させていったのに対し,停車場を有す 雄『農民離村の実証的研究』,岩波書店,1942年)から,この期の脱農化は,直ee一一一一 家を挙げて町外の都市へ流出していったのではなく,まず町内に留って,半農半商 (工)的な下層農民が徐々に農業を縮少して零細な小売商や雑業層に転化してゆき, 町場に滞留した後,町外へ流出していったものと解せられる。︵繕騒︶ヤ ︵<︶ト”週
ロ<。D
152 彦根論叢 第244号 傘 Q㌍〒Q ヤ ヤ .三.Ot._臼..㊤ ◎to り蝉 ㊤矧 ◎つ◎}一一 cu
r→cq F咽 ri 囲 ヤ⋮卜低回・
灘帳・麟嶋 ヤ ︵三田/マ︶ 味三撫島 回 やO
壷爵
踏ミ 目NN
州 _黒、..一雪...Q.一一. Hth一 OO> tsCD O)Or−1 T一 N
目_彊..二..e■ 倒 ,一→ 甲→H
coH
醤︸⑩N⋮ 等ミ9 寸 N一 ”f”’ 寸 菖.。。 。。.豊,, oo 卜・Lo oσ) くρrφ NT一 T一 T−IH .ご..り..ご_、N co O ri d co O 一〇 一.ご. r一書 Fl <㊤∞㎜︸ 鈴圏 鴎竺
N
g
ゆ …( ヘ︶㊤ (H j響 QQH
目 N 円 H 一 …( g) Bう …( 蛛j Bq 寸 }(メ︶鵠 …( g) .︵。っ囲︶。。肖 H …( Bっ j。っ (囲 j。“ ・・ c(艨j繭 目… iゆ j噸 ゆ 一(ヘ
︶寸 …( 。︶り …( モ 一 ︶N …( 肖 。り 蒼 ︶。つ 目 ㏄ 喬︶N 回 Nri ひ亀 祠 c◎ ご. こ㌔N (畔?
(目 jH⋮︵肖︶H 祠 (H jH 回 (祠ム
⋮︵目︶。。 (一 jN ︵囲︶寸 ヤ ︵会得︶ 購選に啄 .唱..一 ..ゴ..su O CO cf)T一一i CO N ..ら. 』D 矧 Fl 芝....諸.. 卜 卜 鴎 寸H
oQN
齢 Qり 日N
QうH
σう Oo (H j・⋮︵。q詩 (N jN (H j目 …( レ引 .︵N︶㎝ N否二
…( m︶N 八。。︶。。 ︵N︶鴎 …(m︶。◎ …( 艨j (H je潮⋮︵H︶目 目 (一 j㏄ ⋮︵。っ︶。。H
…( g︶H …( m︶。。 (州 j肖 (N j。。 …( p︶寸 …( Bう jO (囲 jぎ︶伽 ・ ︸ (囲 j回 ( p︶N …( 黶jN ヤ ト ︵灘 駆︶ 士長横隔購 (N jN (H jN (N j㎝ (。。 j。っ …( p)m
蚕︶N ( g︶H (ヘ︶目 ︵N︶N 蕎︶寸 (H j目 ︵N︶論 準 (同jゑ巽
(一 j・・⋮︵n︶M 蕎︶。苅 …( 黶j的 囲§︸ (N j㊤⋮籍姫 (目 j。。 (一 j。。 ⋮ 卜 …( Bっ j翻 一 …( レ︶。う …( ム︶H l N 喬︶N …( m︶卜 繕騒や無研ト ︵盈ヨぐ︶其辰趣
壁
壁
巡
壁
壁
壁
糸
高
等
幽
/
四 駅輻賦・試駅将駅転 螂機晦襖軸田樽腰 回 邑署 黒鴇廉鴇掛誕韻調 く ρ自 Q岳∩ 1ぺ1111叶 〈 an O A 1Rl 11叶 翁 お ,孟....二.. 巨. 翁 肴 貧 扇一せH 吝 嘱目 駅軽駅叔駅軽駅転 v w v w < 「自 o ∩ ㎝窒 ︶寸 …( 艨j⑦ …( ?j卜 (① j①露署︶2︵ゆ︶㎝唖
lR1 Hく肝 。右蝋9%﹃灘細暉臨細忘出﹂慈叶蝉︵溢「政党政治」確立期における地域支配構造(1) 153 る新中心地の新橋部落やその周辺の準町場地帯の部落では急速に人ロを増大さ せていったことを図3は物語っている。ただし20年代後半期にふたたび農村部 の人口が増加に転じているが,それは農家戸数・農業入口の増加によるもので はなく,一部帰農層や排出された雑業層が不況の進展下に農村内部に滞留して いったことによるものと思われる。次に流出構造の検討に移ろう。 ② 流出構造 わ 表8によって,流出人口の形態(男・女・家族)別並びに地域別推移を追お う。まず大戦前の1913年の場合をみると,男・女・家族流出とも最も多い流出 先が隣町村特にその農村部であり(それぞれ48%・41%・29%),もう少し地 域を拡大しても駿東郡内や静岡県内さらに神奈川県内の近接地域(小田原町や 箱根等)どまりであり(この地域まで含めると67∼78%を占める),東京・横 浜やその他の県への流出は少数にとどまっていた。このようにこの期の労働市 場は,基本的には近隣町村を中心とした農村型市場であり,それは解体化しつ つあったとはいえ農村における「年雇」及び季節雇による「富農」経営の存在 を前提としたものであると言えよう。出身地薫別では農村部が最も多いが,御 殿場部落がそれに次いで多く旧宿場街の人口流出がはや大戦前から始まってい たことがわかる。また新橋部落では家族型流出が多く,町場に堆積し始めた雑 業層も家族形態での流出を開始していることが看取される。 次に大戦を経た1921年の状況をみると,流出先では大戦悪癖も多かった隣町 村が男・女・家族とも減少し,代って東京・横浜が中心地域として登場し(特 に男子・家族では最上位に位置する),さらに京阪神その他の県へも広範に分 布しはじめている点が注目されよう。とはいってもこの時点では,隣町村や県 内への流出も男子で合計43%,家族でも同38%とかなりの数にのぼっており, 女子もこの年には近隣の小田原紡績に26名が加われていることから,いまだ近 27) ここでは流出形態における還流型(=「出稼」型)と非還流型の区別を明確にする ことができなかった。またここでいう「家族」型とは,単独流出ではなく何人かの家 族を伴っている場合を示す。従ってその中には全家離村的流出も含まれるが,1∼2 名の少家族を伴った場合も多い。