木 之 下 正 雄
On Hno" and Hga" Attached to the Subject of the Adjective Clause.
Masao Kinosita ー t 叶 I で 山 打 _ I tt .' = 車 J 一 -! - - I i -I I ・ 1 -払 1 1 5 -5 Ⅰ 現代語で,ノが連体語につき,ガが終止法・中止法・条件法の主語につく点では,両者の間に明 確な違いがあるが,連体節の主語にはノ・ガともについて,意味や使い方の●違いがあまり明確でな い。 サをワル望たぎる音の外には,何の物音も聞えなかった。 (山鳩319) 長火鉢の鉄ぴん塗たぎる音(秩 五位の狼狽するのを見ると(芋粥32)_ _ 五位聖顔をあげたのを見ると(芋粥28) 兄聖ゐぬ時はよく書物の質問をカ達にしますo それで阿梅の書物についての不審は兄望ゐぬ時に 多くあるやうです。 (花車392) 同様な事がらにノもガも使うのは,一見無差別なように見えるが,むしろノとガの闇に微妙な違 いを感じているからだと思われる。 文語にもノ・ガがある。それの違いについては諸説があるが,現代語のノとガの違いと同じでは ない。 連体語,連体節の主語につく。終止法の主語にはつかない。 --現代語ノ-文語ノ・ガ 終止法の主語,連体節の主語につく。連体語にはつかない。 -現代語ガ-文語 助詞ナシ こう並べて見ると,現代語のノとガの違いは,文語のノ・ガと助詞ナシとの違いに相当するものと 思われる。それで現代語のノとガの違いを考えることは, 女御更衣あまたさぶらひ給ひける中に 女御更衣望あまたさぶらひ給ひける中に のような,文語のノ・ガと助詞ナシとの間にどんな違いがあったかを考えるのに役立つと思われ る。 結論からいえば,現代語のガは,主語と述語を対立的に把撞して主語についてどうしたかを叙述 しようとする,出来事の叙述に重点がある。ノは,主語についてどうしたかを叙述しようとするの でなく,主語と述語が-まとまりになって-いわば夜合概念となって一被修飾語の性質を説明する もので,被修飾語に重点があるのである。 「兄がゐぬ時」は「兄がいない」という出来事に重点が
あり, 「兄のゐぬ時」は「時」に重点があるのである。 基本的な意味の違いのほかに,同一の事がらに対して「兄がゐない」を重くするか「時」に重点 ∫ を置くかという把瞳のしかたに,人によって傾向差がある。すなわちガとノは,意味の違い-表現 の重点の違いがあるが,人による使い方の傾向差もある,というのが本論の結論である。 ⅠⅠ まず連体語と連体節の主語との区別について考えたい。 「鳥の美しい声」は, 「鳥の」は連体語, r美しい」は単純な修飾語で, 「鳥の一美しい声」のよ うな構造である。 「鳥」と「声」は全体と部分の関係といえるが, 「全体の体言一性状語一部分の体 言」の構造では,全体の体言は連体語であるのが普通である。この型の特徴は次のようなものであ る。 1・ 「包聖美しい声」のように「鳥が」で言い換えられない0 2. 「鳥の」と「美しい」との闇に意味上の断絶があるので, (ア) 「鳥の」を下に廻して「美し い鳥の声」のようにもいえるし, (イ)中間の「美しい」を省いて「鳥の声」ともいえる。 3.口ことばでは, 「鳥の」の次にマ(闇)を置くことが多い。 4.最初の体言と被修飾語の体言とは,所有関係か,全体と部分の関係である。 動作性の語の場合も同じ構造の文は多い。一般に同一の事がらに3とおりの言い方ができる。 a 主語ガー述語一被連体語(AガーBスルーC) b 主語ノー述語一被連体語(AノーBスルーC) C 体言の連体語ノー動詞の連体語一被連体語(AノーBスルーC) aはガによって主語述語であることが明らかだが, bとCは同じ外形である。話手の意図におい ては「Aの-Bする」か「Aの-C」かきまっているのであるが,実際には見分けにくい場合が多 SB 央代のこのたびの黙ってゐる別れの気持ち(旅愁⊂二二二「 (1) 「央代が」といえないこと, (2) 「央代の別れの売持ち」といえること, (3) 「央代の」の次 にマを置くのが普通であることから, 「央代の」は連体語である。 それは, 「このたびの」という修飾語が「黙ってゐる別れの気持ち」をまとめている。そのため に「黙ってゐる」は,そのまとまりを脱げ出して「央代の」を承けることができないからである。 意味の上からも, 「気持ち」は「央代」という全体の中の部分であるが,所有関係といってもよ い。そして「気持ち」というような語は,事がらを叙述してそれを内容とする場合と,その所有者 を承ける場合が普通である。前者はガになるのが普通なので,ノがつく場合は後者であるのが普通 である。また「黙ってゐる」は,事実においては央代の動作であるけれども, 「央代」という主体 を必要としない, 「気持ち」の性質を示す単純な修飾語となり得る語である。 次の例も同じく連体語と思われるO も この男の悪を憎む心(羅生門10)」 二 / - -1 ㌔ -m 一 ・ ・ -一 -h I
内供32.さういふ策略をとる心もち(鼻17) それが叔父望自分をためそうとする意図なのを準じたO (白虎14) 車掌の何か言ひ罵る声と共に(蜜柑249)二_二二二二 私たちの夜の目もろくろく眠らずにした労力(機械134)■■■■■■ その理由は次のように考えられる(1)最初の体言は,それがどうしたかを叙述するよりも,級 の体言と所有関係または全体と部分の関係にあることを示す方が必要である (2)最初の体言と後 の体言とは,全体と部分または所有関係にある (3)後の体言は,主語述語の構造における客語・ 連用修飾語・動作の結果というような役目ではない (4)上接の部分を主語述語とする場合は,そ れを内容として承けるような語であるが,その場合はガになるのが普通である(ⅧのD。 (5)動転 は,主体の限定を必要としない,それだけで後の体言の性質を表わすことができる (6)ガと言い 換えにくいし,またマを置くのが自然である。 上の(5)は次の意味である。 困ったのは清の行く先である。 (坊ちゃん228) 「行く党」は一語になっているが, 「行く」という動作概念を含んでおり,それは清の動作である。 しかしここでは, 「行く」に対して主体観念は直接的に働かないで, 「行く」はただ「党一将来」を 限定するだけである。上の例文の「動詞一被連体語(悪を憎む心)」は臨時に結合したものなので, 連体語と被連体語に分かれているが, 「行く先」と同じく一つの複合語として機能するoすなわち 「悪を憎む」は, 「男」の動作ではあるけれども,ここでは「男」の動作として述べたのでなく, 「心」の性質を表わすだけの役目である。それで「この男の」と「悪を憎む」との閏には意味上の 断絶があり,口ことばではマを置くのである。 これを次の言い方にすればb型になる。 (ア)私たちの夜の目もろくろく眠らずにした仕事 (イ)私たちの夜の目もろくろく眠らずに働いた仕事場 (ウ)私たちの夜の目もろくろく眠らずに働いた賃金 被連体語が,客語や連用修飾語や動作の結果である場合である。出来事を認識する際に,被連体語 を,主体とそれの動作という構造の中の客語や連用修飾語として,または主体と動作の結果とし ∫ て,把撞するから,動作に主体の限定が必要になるのである。主語述語の関係で結合するので,ガ に言い換えられる。 もっとも,客語もC型になることがあるので,常に客語はb型になるとは限らないo 私の,新しく建てた家 といえるからである。これは, 「私の家」という所有関係を問題にし, 「新しく建てた」が「新築の」 「新しい」という,豪の性質を述べるだけで動作の主体のことを問題にしない言い方だからであ る。そして客語・連用修飾語・動作の結果の場合はこのようになりにくいことが多いo また全体と部分の関係もb型になるので,常に・・C型になるとは限らないo 私に対・して叔父の抱いた意図
「叔父の一意図」は前例ではC型だったが,ここでは「意図」は客語であり,主語述語で叙述する 事がらを内容としない。 「抱いた」だけでは「意図」の性質の説明にならず,主体の限定を必要と する。動作が主体に続いているので主語述語と感じられやすい。それでb型になるのである。 鳥の鳴く声 サモワルのたぎる昔 これらが主語述語となるのは, 「声」 「音」を,主体とそれの動作によって生じた結果とする言い方 だからである。 それで基本的には,最初の体言と後の体言とが全体と部分の関係か所有関係にあり,最初の体言 が,その動作よりも後の体言を必要とし,動作が,主体の限定を必要としないで単独で後の体言の 性質を説明する,つまり動作と被連体語が-複合語として機能する,というような場合はC型にな るといえる。 文語でも次のような例は連体語である。 その棚磯の裁ち縫ふ方をのどめて(帯木56)」二こ= かの空蝉の打ち解けたりし宵の例日(末摘花=二二 絡虫m島きからしたる声(貿木389) このような構迫の文を「鳥の美しい声」の型としよう。 ⅠⅠⅠ ガは終止法の主語につく唯一の格助詞であり,主語を表わす場合にだけ用いられるので,ガがつ くと,その体言は主語であって次にそれの述語が来るはずだという予想を持つ。 家が物持のせゐもあるが, (金閣寺304)二二≡=二F「 (それは)玄宰発生が在世中のことです。 (秋山図し二J 軽部が私-の反感(機械125)主 ‥ 体言と体言とをつないでいるが,ガがあるために,連体語と被連体語の関係でなくて,主語述語の 関係として受け取られる。ガがあるために後に述語が来ることを予想し,後出の体言に述語的要 秦(物持である,生きている,私へ対して抱く)をくみ取る。最初の体言は後出の体言の述語的要素に 係って主語的であり,後出の体言は上接語に浄しては述語的要素で承け,下接の体言に係る役目の ために体言化する.このような文は「-(体言)が-(体言)の-(体言)」の構造が多いが,述語たら しめる働きはガにあるのであって,後出体言につくノにあるのではない。 「玄宰発生が在世中は」と あっても, 「在世中」が述語の働きをすることによってそのことは明らかである。このようにガは, それのついている文節が主語であることを示す。連体節の主語についている場合も同様である。 出来事の認識は,主体が次の動作をするということ,あるいは次の性状にある(と判断する)こと, すなわち主体とそれの動作性状の存在とが対立的に統合されることによって成立する.その対立的 統合を示し,それによって出来事を叙述しようとする意図を表明するのがガである0 「サモワル望声ざる音」は, 「あれは何の音か」という,音の性質についての質問に対する答で ある。 「音」に重点があり, 「サモアルのたぎる」はそれの性質の説明・判断である。主語述語から
成り立っているが,主体について何かを叙述しようとするのでなく,単純な修飾語と同じく,主語 述語から成り立つ複合概念である。 「サモワルのたぎる音」だけを単独に読むと,出来事が眼前に 存在するのでなく,一般的にそういう性質の音として受け取られる。 しかるに「鉄ぴん型たぎる昔」は, 「あれは何をしている音か」という,音を出している事がら についての質問に対する答である.出来事を叙述することに重点がある。 「鉄ぴんがたぎっている, その昔」というような気持ちである。これだけを切り離してみても,出来事が眼前に存在するよう に受け取られる。こ?ような構造を「鳥が鳴く声」で代表しようo ガはこのような役目をするので,次のような場合にはガを用いるのが普通である。 1.連体節が一つの完結した文の内容を持つ場合 申童子が, ・・-・鼻を粥の中-落した(トイウ)請(鼻15) その仕方がない(トイウ)事を(羅生門12) \二=:・‥:・ 天竺生れの魔法使曇刀を呑んで見せる(トイウ)芸(杜子春291) 吃りの坊主が吃りながらお経を読む(トイウシグサノ)真似(金閣寺300) =・・・・・・-「坊主の」とすれば「坊主の一夷似」となる。 「理由」 「原因」 「結果」などの承けるものも完結した内容であるので,ガになる。 内供が鼻をもてあました理由(鼻15)L二=:二「 中童子や下法師がわらふ原因(鼻20)■■■-■ 屋敷の行為の方藍それだけ社会にとっては役立つことをしてゐる結果になっていく。 (機械∫ 2.事がらの叙述を際立たせる場合 いつか彼らは,瞭野望囲い斜面を作って,水の滴れた川床と一つになる,その丁度上の所へ, 出てゐたからである。 (芋粥33) 漢字で峰一つの文字藍一つの概念を現わし,意味をもっている,それが何よりの強みです。 (漢字) 際立たせることは独立的に表わすことになり,それだけ完結した叙述に近づくので,ガを用いるこ とになる。上例のように,読点を打って代名詞で承けることが多いのは,独立性の表明である。 3.被連体語が形式名詞の場合は, (a)連体節が事がらを叙述することに重点があり,形式名詞 はそれに従属的で,統合力の弱いものと, (一b)形式名詞が連体節を強力に統合して下に係っていく ものとある。 「時を表わす語」 「為」 「せい」 「はず」などは(a)であり,連体節の主語にはガがつ くのが普通である。「とおり」「限り」「なり(次第)に」「まま(に)」などは(b)であり,ノを周 いるのが普通である。 、鼻空短くなった時と同じやうな(鼻21) 自分が僧であるために(鼻16) l■-私藍俊さんに差上げるはずの手紙(秋263) もっとも「時」は,それに葦原を置き,連体節は「どんな時であlるか」を説明するだけの場合はノ
になる。 人のゐない時(鼻16) 事がらを叙述して,準体助詞ノで体言化する場合は,事がらの叙述に重点があるので,ガになり やすい。 ヽ 限頭が妙にむづがゆくなって来るのを感じた。 (俊寛183)I この構造の場合, 「俊寛」は元来ガが多いのではあるが,現在形の例は,ガ主語17例に卸してノ主 語1例にすぎない.芥川は,ノ主語が比較的多いのであるが, 「羅生門」 「鼻」 「芋粥」で,ガ主語 19例に対してノ主語8例である。過去形では,回想されるのは主体についてそれの動作が存在した ことであるのが普通なので,ガ主語が多いのは当然である。 「俊寛」にはノ主語の過去形はない。 芥川でも, 「山鳩」 「羅生門」 「鼻」 「芋粥」 「玄鶴」 「河童」で,ガ主語25例に対してノ主語3例に すぎない。 4.主語と述語の闇に連用語が入ると,述語が主語について叙述するのだという気持ちが強くな り,被連体語の統合力が弱くなるので,ガになりやすい。 それが叉株を点じた,所々の叢林の紅葉を映発してゐる美しさ(秋山図303)二二二二= 5.同じ気持ちから,述語を並べる場合もガになりやすい。 あなたは令息藍女中に惚れたり,令嬢壁運転手に惚れたりするのは- (河童473) その丹がついたり,金銀の箔がついたりした木を, (羅生門7)⊂_二二二:「 = すぐ前には「丹塗望はげた,大きな円柱」という言い方がしてあるoi:コ 不意に金槌塾頭の上から落って来たり,地金の夷銀板壁積み重ったまま足もとへ崩れて来た り,安全なニスと--テルの混合液のザボン空いつの間にか危険な重クロムサンの酸液と入れ 換えられてゐたりしてゐるのが, (機械124) こんなに「たり」の承ける部分が長かっ、たり, 「たり」が重なったりすれば,被連体語「の」によ って統合するのだということよりも,主語と述語の漸立が強く感じられるのは当然であろう. 下人は,老婆野E骸につまづきながら,慌てふためいて逃げようとする行事を塞いで(羅生門 11) 6.被連体語が,厳密には連体節に修飾されるのでない場合には,連体節と被連体語との間に意 味上の隔たりが生じやすく,連体節は独立性を持ちがちなので,ガになりやすい。 彼らの家は,町並更意畑に移る(所ノ)近く紅あったo (政268) 僕藍この国へ来た(日カラ)三日目に(河童472) 稔や袷空枝を張った(張ッテイル,ソノ松ヤ桧ノ)向うに(河童508) その側に七つぐらゐになる女の子が居ります(居リマス,ソノ子ノ)側-這ひより(塩原太助54)[丁 丁「 砂利の道が続く(続イテイル,ソノ道ノ)かたはらに(金閣寺333) _ _ 7.主体についてそれがどうしたかを叙述することに重点を置くべき場合 俊寛空自分で刻んだ,木像(俊寛203)
彼の妻が最初に出産した男の子(阿呆554)■■一1■■■■■ 素材が眼前の出来事であると,主体とそれの一動作として把撞しがちなので,ガになりやすい。殊に 準体助詞ノで承ける場合はガになりやすい。 (3参照) I 以上のような場合にガが多く用いられるのであるが,それは要するに被連体語の統合力が弱く, 連体節の独立性が強く,主語述語の浄立的統合によって事がらを叙述しようとする気持ちが強い場 合である。 独立性が強いので,連体節の次に読点を打つことが多い。 それは一昨日,利仁史枯野の路で手捕りにした,あの阪本の野狐であったo (芋粥39) 彼聖T)レス下イと親しくしてゐた,二十余年以前の追憶(山鳩318) 俊寛藍自分で刻んだ,木像をくれたO (俊寛203) またガ主語の次に読点を打った例も多い。述語に浄立する主語の重みを強く感じていることの表 明である。ノ主語にはこのような読点を打った例は稀である。 寝堂はふだんTl}レス下イ藍,書斎にきめてゐる一堂だったo (山鳩316) 眠さうな鳥が,時たま遠くに鳴く声がする。 (山鳩313)= 「 Wi ノは,被連体語に重点を置いて,連体節はそれの説明として用いられる場合である。これは性状 性の語の場合と動作性の語の場合とに分けられる。 俊寛は,一緒に陰謀を企てた連中の,かうした辛抱望ない,ふがひない容子を見て居ると, (俊寛180) 帯の結び方のだらし望ない容子(芋粥29) 「辛抱のない」 「だらしのない」は,一語の形容詞と同じ性質をもって被連体語の性状を表わす。 主語述語の形式をとっているが,主語について何事かを叙述しようとするものではない。主語述語 は一つに包まれる関係で結合している。この場合はノになるのが普通である。ガを多く用いる「俊 寛」でも,前例のようにノを用いているo 前例は成句に近いものであるが,臨時に結合する場合が多いのはいうまでもない。 薄ひげのある,色の黒い,野望大きな狸のやうな男(坊ちゃん230)」_∵ニニニL二丁= これは「象は鼻が長い」のような, 「○○は△△が××だ」といういわゆる稔主語文の,給主語が 被連体語に,述語節が連体節になったものである。被連体語は,給主帝がそうであるように,叙述 の題目であり,性状の存在する(と判断した)場所である。連体節の主語は,性質の判断がどの点 でなされるか,その基点を示す。ところで, 「色の黒い男」 「色は黒い男(だが)」 「色が黒い男」を 比べると, 「色の黒い男」の「色の」は, 「黒い」が色に関する判断であることを示す。しかし「黒 い」が「色」について叙述するというような漸立するものでなく,一語の形容詞のように,複合し た一つの性状概念となっている.一語の形容詞と同じように,被連体語に卸して単純に帰属的であ る。
「色は黒い男(だが)」とすると,「心はきれいだ」というような判断と浄比しているのであっ て,「色」を題目にまで重みづけている。「色が黒い男」とすると,他の判断と対比するわけではな いが,「色」を問題にし,それについて叙述しようとしているのである。「色は黒い」も「色が黒 い」も主語述語の滑立が生じているoそれだけに,「色の黒い」と違って,被連体語に升して単純 には帰属的であり得ない。鹿児島方言で,ノの場合は,イロ(V) y?ロ言かTのように,「色の 黒い」が一つのアクセント節になり,ガ(-)の場合はイロ苛(7)クロ貫オト丁のように, 「色が(は)一黒い」が別々のアクセント節になる。前者は一つの複合概念として機能し,後者は 二つの別々の概念として機能するからである。 主語述語から成る性状語は,その主語について叙述しようとする場合よりも,複合した一つの性 状概念となって,被連体語に漸して帰属的である場合が普通であるので,ノになる場合が多い。こ のような構造の文を「声の美しい鳥」の型としておく。 V 1.あの腰の曲った河童(河童499) _ いくさの空気の漂った,人気のない豪(お富390) 「丁二二二二二コ 戸の明いた水口(お富389) =二二==「 i 火の起った火鉢(玄鶴 [二二==「 これらの「曲った」などは,本来時間的な動作であるが,ここではその動作の結果としての性状を 表わす。これらの連体節は,被連体語の性状を表わすのが目的で,主語について叙述しようとする ものでなく,被連体語に対して帰属的である。本質的には「声の美しい鳥」の型と同じである。そ れでノになりやすいのである。 ガを用いれば,主語についてそれがどうしたかを叙述することになり,時間的な動作となり,. 「た」は過去を表わすことになる。たとえば,「腰が曲がった河童」とあれば.「その時に,・または, その事故で,腰が曲がった」というように受け取られる。 2.同じ理由で,「ような」がついで性状を表わす場合もノになりやすい。 からすの鳴くやうな声(羅生門12) 」二_∴㌻_二 心聖躍るやうな置物(金閣寺473) 意味の上からは,「からすの鳴く-やう」のように,「よう」によって統合されるためにノになるよ うに見えるが,終止法の「ようだ」の場合にはガになるのが普通なので,ノになるのは被連体語 「声」の統合による。被連体語の性状を表わし,それに帰属的であるためにノになるのである。 3.(a)鰻望とれる季節(俊寛193)・ 講説など空行はれる寺(鼻16) 破連体語が連用修飾語の場合であるo (b)こ聖女の売る魚(羅生門12) わしのする事(羅生門12)
■■-¢ 基輿望持ってゐた清盛の教書(俊寛 被連体語が客語の場合である。被連体語が客語や連周修飾語の場合は, 「鳥の美しい声」の型と違 って,その修飾語は主語述語を具えたものになる。そしてガでなく,ノがついているのは, (a)の ように,被連体語の内在的な性質の説明判断の場合もあり, (b)のように外的な性質の説明の場合 もあるが,ともに被連体語の性質の叙述であり,したがって被連体語に対して帰属的であり,主語 について叙述することには重点がないためである。ガにすれば,主語について叙述するという態度 が強くなるo 「基庚空持ってゐた 」は, 「誰が持っていたか」に重点があり, 「基康が教書を持 っていた,その教書」の意味である。 「基廉の持ってゐた-」は, 「どんな教書であるか」という,こ二_二二二二「 教書の性質に重点がある。そんな場合は,ガを比較的多く使う「俊寛」でもノを用いる。 4.鳥の鳴く声■■■lll■l■ 「鳥」と「声」は全体と部分の関係といえる.そしてⅡで,全体と部分の関係の場合は,連体語 と見るべき場合が多いといった。しかし主語述語の関係に見るべき場合も多い。 眠さうな鳥が,時たま遠くに噂く声(山鳩313) これは「時たま遠くに」という連用語が入ったために「鳥が」になったのではあるが,とにかく 「鳥」が主語として意識されていることが分かる。 主語述語の場合に,ノになっているのは被連体語に重点をおくためである。そのこどは連用語が 入ると上例のようにガになりやすいことから推察される。 被連体語が実質名詞の場合は,それに重点が置かれやすく,それの統合力が強いので,ノになる ことが多い。連周語が入らない場合, 「鳥が鳴く声」のように主語述語の叙述に重点を置く言い方 は多くない。 このⅤの型を「鳥の鳴く声」の型とする。 ⅤⅠ これまで連体節を, 「鳥が鳴く声」 「声の美しい鳥」 「鳥の鳴く声」の型に分け,ガは主体とそれ の動作性状を対立的に統合して出来事を叙述することに重点を置き,ノは被連体語に重点を置き, 連体節はそれに帰属的な複合概念である,と述べたO 基本的にはこのような意味の違いがあるが, 同一の事がらに対してノもガも用いることができる。そのどちらを用いるかには人による傾向差が ある。 傾向差を考えるに当たって,芥川を中心とした。芥川は純粋の江戸っ児であること,ノ・ガの使 い方に著しい傾向があること,幾たびも使用傾向に変遷があったことのためである。 調査は,下壊語を実質名詞と形式名詞に分けた。形式名詞は語によってガを取る傾向の強いも I の,ノを取る傾向の強いものがあるからである。 実は,実質名詞と形式名詞,形式名詞と助動詞・助詞,主語と連体語など,区別しにくいことも 多い。それで2回調べたのだけれど,数倍も厳密とはいえない。が使周傾向を知るのにはさしつか えないと思う。
第 1 表 Ⅰ (ノT-実質名詞) Ⅱ (ノー形式名詞) 班 (ガー実質名詞) Ⅳ (ガ-形式名詞) IK W 浮 固lh 「 ㌃ 「 ㌃丁 11 11 ー28 普 通 ■55 い 19 ー5 い 7 ■世 計 55 130 日 45 円 ー牡 丹(10ョ) 29 ー41 ト 6 ー34 塩 原(5 回 20 28 ー 6 ■1 26 朝 計 l 「 √ ー69 12 ー60 ■美 武 蔵 一一3 7 7 7 胡 蝶 ■ 7 i! 3 5 、 6 妙 f f i 29 34」 空 」 空
-計 三 三二空」三㌧
青■ 葡 萄 1 34 卜91 23 今 戸 -㌃ * 25 一一聖 上13 ⊥竺 ■ 坊 ち ゃ ん i 20 ー24 36 俊 寛 12 ー17 い 2 ー54 機 疲 ー23「 ■1 7 ー 58 道 具 や 10 ⊥ ⊥ 二一 港 ら く だ ー 0 1 竺⊥ 竺⊥ 竺 -五 人 廻 ー4 7 0」 ⊥ 請 蛇 合 草 t 2 日 ー 0 ー 3 「 「 11 37 36 白 虎 40ペ■- [互 工 重工 l 6ー 41 金 初 20ペ 23 15 竺 -閣 終 20ペ い 11 12 41 守 40 20 27 81 輿 水 い 2 2 I 4 漠 不 可 3 2 1 0 卜 3 藤 堂 1 0 日 ー 2 字 P 披 多 ㌻ 「 丁 「 0 1 3 計 12 「浮世風呂」は話しの部分だけ。 「武蔵野」 「胡蝶」は地の文だけ。 第 2 表 発表年 「 ㌃丁車 言うヨ Ⅰ Ⅱ 回 Ⅳl 唇 13 ー 16 B 16 ー 鼻 12 10 ー 23 B 16 ー芋 粥 31 日 39 B 18 妹 1 卜3 ー2 ー3 20 座 子 春 3 14 計 10 い 7 19 F蜜 柑 14 B ■空 、」 秋 15 ト5 ー28十 今 20 ∫舞 踏会 14 芦 A 21 座 山 図 4 才3 11 16 芦 til 鴫 19 ー7 ー27 ●一生 L トロッコ 7 ー7 0 7 C一
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種賓分けの基準は, A. I+FがⅠ+Ⅱより多い(18年∼21年) ・ B. I+1とI+Fがほぼ同数で,打がⅡよりかなり多い(15年∼19年) C. I+1が∬+Ⅳ●よりはるかに多く, ⅡがⅣ'より多い(22年,:26-27年) D. I+Iが圧倒的に多く, I Fが稀である(23年∼27年)A 「声の美しい鳥」のような性状語は,語の性質上ノになるので,それを除いた場合も調べたが, Ⅰ ・廿の数値が少なくなり,その結果, A′..蝣I+WがⅠ+Ⅱより甚だしく多い。 B′. ∬+Ⅳ●がⅠ+Ⅱより幾分多い。 C′. 1+1がi+fより幾分多い。 D′. I+IがⅡ+Ⅳより圧倒的に多い。 と改めるだけで,作品の所属には変わりがない。 種賛別にま阜めると次のようになる。 第 3 < PQ O Q MgOCO co-^ < N C O m^IOt^-Cor-1rH--t^"^rH soo<6 義 わかりやすいように,ガに滑するノの使用率を図示すると,次のようになる。 第 4 表 (合計数) 10倍以上 8 人 浮 世 普 ) 4.5 4 l I ⊆≡ヨ 円 i -i l c q -w -2 1 2 1 7 ● l サl 1 I 俊 寛 -金 閣 I A 漢 字 美妙 -機 械 ・ 白 虎 -B 今 戸 -坊 ・ 落 語 1 円 朝 L C 浮 世 計 第 5 表、(上,実質名詞;下,形式名詞) 1盲IA 旦4-金閣・白虎 tH[cOI俊寛・漢字 IB・機械 -5・美妙・今戸 HS・坊 俊寛lI落語 美妙1・ 2 ・-円朝 漢字・金閣in ・IC 白虎・今戸A2「 機械2・ 5-3-浮世計 浮世計3・ 5」 ● 円朝4-育 B5-青7-(浮健普) C81 坊 ( 浮 健 普 ) ・ 落 語 ・ D 10倍以上 ¥- -一-蝣-D 略号は巻末の資料を見られたい。 「浮世普」は浮世風呂の普通名詞の略。
以上の表から次のような事が考えられる。 (1)芥川Dや「坊ちゃん」のように,実質名詞でノをガの10倍くらい用いるのもあれば, 「俊 寛」のようにノとガがほぼ同数のものもある。また形式名詞で,芥川Dのように,ノがガの10倍以 上のものもあれば,芥川Aや「白虎」.「金閣寺」のように,ガが4, 5倍も多いというのもある。 このように人によって作品によって,ノとガの使用傾向には著しい差がある。これは「漢字をめぐ る諸問題」の座談会の記録によると,実際の談話笹おいても傾向差があるようである. 、 〟 (2)同一の人であっても年代によって傾向差のあることがある。芥川のノとガの比率は,初期 (B)には他の人と同じ程度であり,20年頃(A)にはガの比率が他の人より高いくらいになった。 ところが22年(C)には急にノの比率が高くなり, 23年(D)からはガの使用がほとんどなくな って,ノの比率が圧倒的に高くなった 26, 7年の作品にはガの使用が幾分ふえたが,基調として はノの比率が圧倒的に高い状態で終わった。 (3)芥川の晩年はほとんどノだけであるが,これは他に察例がない。 (4)一般に実質名詞では,形式名詞よりもノの使用率が高い。その中で, 「落語」 「円朝」 「坊ち ゃん」芥川BCのように,ノとガの比率の傾斜の甚だしいものもあれば,莫妙のように傾斜のゆる やかなものもある。 (5)形式名詞でノがガより多いのは芥川CDの浸かに, 「円朝」 「落語」 「浮世風呂」 「青葡萄」が ある。 (6)実質名詞でも形式名詞でもガを比較的多く用いるのは, 「俊寛」 「金閣寺」 「漢字をめぐる諸 問題」「白虎」で,昭和時代的である。芥川Aも,全体としてはそれらと同じくらいに用いている が,実質名詞と形式名詞との違いが甚だしい点が異なる。 (7)全体におけるノとガの比率,実質名詞においてノを非常に多く用いること,形式名詞におい ても比較的多くノを用いることから,芥川BCと「坊ちゃん」 「落語」 「円朝」 「浮世風呂」は同じ ような傾向にある。これらの作品の性格を考えると,この傾向は江戸語の傾向を承けつぐものと思 われる。 (8)同じく江戸っ児である尾崎紅葉の「青葡萄」が実質名詞・形式名詞ともにノの使用率が高い のは,文語的だったからと思われる。 山田莫妙は,たとえ冗漫で額雑な感じになっても,文章と話しことばを一致させようと努め,そ のためにマス体を用いた。ガが多いのは,莫妙の考えた話しことばの実相がそうだったのだと思わ れる。もしそうだったら,美砂の東京語と, 「円朝」 「落語」 「坊ちゃん」芥川BCの東京語とがあ ることになる,音語には幅広い傾向差があるから,両方とも東京語の姿を表わしていると考えてよ 1 いことである。ただ芥川のBCはやや文語的な言い方に片寄った言い方だったろうと思われるo VII 芥川は,特に晩年Dでは,異常な慶合いまでノを用いている。そのことを明らかにするために は,普通にはガを用いるところに,特に形式名詞において,芥川はノを用いていることを,個別的
に示さなければならないが,今は概説するに止める。 ∬でガになりやすい場合を列挙したが,それに,連体節が完結した文の内容を持つ場合をあげた。 その場合に芥川の晩年にはノを用いた例がある。 このかはうそを相手に河童望戦争した話(河童484) ボー下のぐいと後ずさりする錯覚(湖南の扇433)-■■■■ 理由・結果などの語が来る場合もノを用いた。 彼望玉蘭を苦しめた理由は(湖南の扇 詩人tlヅク君の強烈なる煙草を愛したる結果, (河童503)■■■一 後者が文語的な言い方であることは注意したい。次の例を考え合わせれば,これらは古風な江戸的 な言い方であったろう。 御当地の女子はことばつきのはげしい故か,物事が荒うきこえるな。 (浮世272)L= 上方は人気望やわらかいせゐか, 7,ソト穏便さo (浮世245) 普通にはガを用いる,統合力の弱い形式名詞の場合にノを用いている。 既望銀座通りへ出た時には(歯車524) 少年のどこかへ行った後, (阿呆L_J 僕の東京-帰るたびに(歯車■■■■■■ それは-打算の未だに残ってゐるためだった。 (阿呆561)■■一 塾人望うそをつかれるはずはない. (歯車517) この痛みを止めるのは一杯のウイスキイ望あるだけだったO (歯車535) 広い河岸には石垣の闇に舟虫の動いてゐるばかりだった。 (信輔414)-一二二 僕望泣かれない以上,僕の母の死ぬことは必ずないと信じてゐたo (点鬼簿261) 浮世風呂には次のような言い方があるので,これらも古風な言い方の名残りである。 仲直り望すんだ上には,盃のあとで証文はおれがもらって, (浮世247) 準体助詞で体言化する次のような場合も,一般にはガを用いるところである。 法律の賭博を禁ずるのは, (保儒402)⊥二」 観望長抄にも少ない金持の子だったのを-(湖南の扇436) 次のような場合も,一般にはガを使う. どの位嘩望阿呆だったかを感じ, (歯車528) お住は反動望来たのか, (一塊の土410) これは円朝の, 留守中どういふことのあらうも知れぬ。 (塩原59)- -」 というような古風な言い方-の近寄りである。 歯車は数のふえるのにつれ,だんだん急に廻りはじめた。 (歯車543)■-llll■ 「・・・に従って」 「-につれて」 「-に違いない」の上接の節は,一旦事がらを叙述するので,ガを用
いるのが普通であるが, Dではノを用いている。 自殺しないものはしないのではない,自殺すること望できないのであるO (株儒410) 男皇女を猟するのではない,女望男を猟するのであるo (傑儒399) 今日では恒産のあるものは寧ろ恒心望ないものらしいo (株儒405)\ これは浮世風呂や落語にも用いられる。 どこにもそんな人の多いものさ。 (浮世152)二⊥=二= よく掘出し物のあるもんだけどもなあ。 (道具屋75)二_二二二ニコ 閏に連用語が入った場合。 僕は彼望内心では僕の秘密を知る為に絶えず僕を注意してゐるのを感じたO (歯車528) 僕の左に坐ったのは僕空をととひ玩江丸の上から僅かに一瞥した支部美人だった。 (湖南の扇436) 次のような場合にも,普通には,主語と述語を漸立的に統合して事がらを叙述することに重点を おく。 観望七八年前には色彩を知らなかったのを発見したo (阿呆557) 発生望校長を兼ねてゐるある高等専門学校の生徒(手巾41) 初期に用いた稀な例である。 以上,芥川の普通とは違ったノの使い方の例をあげたが,これらはシナ旅行を終えた22年から急 に多くなり, 23年からはほとんどガを用いなくなった。 芥川の初期には,文壇の,例えば激石の,口語文はで住の型を作りあげていた。その型は当時の 話しことばとは多少の隔たりがあっただろう。 「蜘妹」でガが多くなったのは,子ども相手の,請 しことばに近いマス体だったからと思われる。が,そうした外的条件だけでなく,もっと話しこと ばに近づけるべきだという,マス体を用いさせた,書きことばに対する考え方にも基づくのでなか ろうか。ちょうど第一次大戦直後であった。 それがシナ旅行を終えた22年から急にノが多くなった。それは文語的な文体への傾きのためと 思われる。文語的な「青葡萄」にノが多いこと, 「保儒」は次のような文語的な文体であること, 「円朝」 「落語」 「坊ちゃん」に額を見ないほどノが多いこと,L前にあげた諸例は芥川の少年時代の 話しことばにもなかったと思われること,などのためである。 しかし椎の菜の椎の葉たるを一笑し去るよりも退屈だろう. (株儒390), もっとも, 26年の「点鬼簿」, 27年の「玄鶴」 「河童」などではガが幾分ふえている。その中で 「河童」は談話の形式を借りたマス体であるが,ガがふえたのはマス体であるためばかりでなく, 芥川が自己を書く気になった心境と関係があるのでなかろうか。それがやはり,文語的な言い方の 方が芥川の性格にあっていたということなのでなかろうか。 「歯車」の主人公には,話しことばに 近づけなければならないという理屈よりは,話しことばの冗漫さ,猿雑さが,我慢のならないこと だったろう。文章は,もっと知的な,珠玉のようなものでなければならなかったのであろうo その
ことは,同じく文章にこった紅葉の「青葡萄」に文語的な言い方が多く残存していることと共通す るものがあるように思われる。 さて,文語的になったということは,ノ・ガの意味をどう見ることであろうか。 前に述べたように,ノ・ガには意味の違いがある。芥川のABを含めて多くの人たちにノ・ガの 用例の多少があるということは,意味を混同して使っているということでなく,どちらに重点を置 くかという,把瞳のしかたに傾向があるということである。 しかるに芥川のCDでは,前例のように,当然主体とそれの動作を対■立的に把撞して事がらの叙 述をすべき場合にノ主語節を用いている。そのことはノ主語節に事がらを叙述する意味を持たせる ことである。それが文語的なのである。文語では,ノ・ガは,条件法・ 「、なり」の承ける準体節の 主語にもつき得て,口語のガの領域の一部を受け持つのである。芥川のCDのノは,そのような文 語のノ・ガの領域を受け持っている。 VIII ノ・ガの使い方の傾向を調べるのには,形式名詞のそれぞれについて調べる必要があるが,今は ∼ 準体助詞ノだけに止めておく。 準体助詞ノの機首凱t,名詞を代表することと,体言性を与えることである。 A.名詞を代表するもの 第一に内供の考-たの(方法)は, (鼻16) t)レスTイの射止めたの(鴫)は, (山鴫313) 我々信徒の礼拝するの(神様)は, (河童499) わたしの話したいの(事がら)は, (河童482) 、 この場合,ノにするかガにするかは代表される名詞の場合と同いじである。芥川はもともと実質名詞 の場合にガを用いることが少ないので,この場合もガは少ないが,次のような例もある. 自分が飲めるの(芋粥)は, (芋粥27) 私が便りに恩ふの(人)は, (秋266) 準体助詞ノが,統合力の弱い形式名詞を代表する場合もある。 我々の自然を愛するのほ, -(河童490) これは「保儒」によれば「所以」の代表であるが,口語の「わけ」は統合力の弱い形式名詞なの で, 「我々が」とするのか普通である。 Bではガを用いているのである。 内嘩曇理由を知らないながらも何となく不快に思ったの(ワケ)は,蝣 (鼻20) 大体, 「保儒」の「所以」という語が文語的なのであって,ここにノを用いていることは文語的で ある。 B・体言性を与えるもの これには, 「動作すること」を表わすものと, 「動作する状態」を表わすものとある。両者とも, 主体についてそれの動作が存在することを叙述する場合と,単なる動作概念を表わす場合とがある。
(ア)動作すること一事がらを叙述する場合 利仁が一人をるの(トイウコト)は, (芋粥32) 老婆が鴬いたのはいふまでもない。 (羅生門11) 一旦マを置いて「下イウコH で言い換えられる場合である。事がらを叙述したものを承けるの で,ガになるのが普通である。 Aの名詞代表の場合はノになりやすいが,この場合はガになる傾向 が強い。たとえば 僕ら曇この雌の河童を抱きとめようとしたのは勿論ですo (河童502) もし名詞代表とすれば,芥川Cであるから, 僕ら望抱きとめようとしたの(河童)はこの雌の河童ですO となっただろう。また, 第一に内僻選考-たの(方法)は' をこの形式でいえば,芥川Bであるから, 第一に内供史そんな方法を考-たのは' のようになっただろう。 しかるにCではノを多く用いるようになり, Dではほとんどノになっている。 理性を神にしたボルテール望幸福に一生を送ったのは, (河童491) 僕は観望内心では僕の秘密を知る為に絶えず僕を注意してゐるのを感じたo (歯車528) (イ)動作すること一動作概念を表わす場合 時間望たって行くのが,待ち遠いo (芋粥36) 一家の空気のみだされるのをおそれ, (玄鶴446)-← ■ 動作そのものをさしていて, 「コ下」で言い換えられるが,一旦マを置いて「tイウコT」のよう に言い換えることは困難である。この場合はノになるのが普通であるo (ウ)動作する状態一事がらを叙述する場合 日金をかけた小娘が一人何か店員と話してゐたのは, (歯車530) t■■-(私ハ)白い手術着を着た産翼更一人,赤児を洗ふのを見下してゐたo (阿呆 事がらを叙述してその状態をいう場合で, 「様子」というような語で言い換えられる場合が多いo ガになりやすく, CDでさえ上例のようにガを用いるが, Dではノを用いている例もあるo コックたち望冷やかに僕を見てゐるのを感じたo (歯車520) 往来の人々の罪などといふものを知らないやうに軽快に歩いてゐるのは, (歯車524)-■ (-)動作する状態一動作概念を表わす場合 雨の降るのを眺めてゐた。 (羅生門8)二_ 五位の狼狽するのを見た。 (芋粥32) ■■■-この場合はノになるのが普通である。 準体助詞ノが体言性を与える場合, (ア) (ウ)のように,上接の連体節が事がらを叙述する場
5> 合はガ主語になりやすい。が,芥川CDではその場合もノを用いることが多い。 C,準体助詞以外の,体言性を与えるもの 体言性を与えるものに疑問表現がある。ガを用いるのが普通であるが, Cではガもノも用いてい る。 猫はその声に聞き覚曇あるのか. (お富390) お住は反動望来たのか, -(一塊の土410) D ではノを用いている。 どのくらゐ僕望阿呆だったかを感U, (歯車528) 「-に従って」 「-につれて」 「-に違いない」の上境の準体言節はガになるのが普通であるが, Dでノ主語になっていることは上に記した。 現代語では述語の下に,ノダ・ノデス・ノヂアルを用いることが多い。これらは述語について, 説明・主張する態度を表明するだけであって,述語に従属的である。ノダのノは上接の主語述語を 統合するカを失っている。発音の上でもソと崩れやすい。しかるにDでは統合力を持っている。 男望女を猟するのではない,女望男を猟するのである。 (株儒399) これは必ずしも道徳的にわたしの進歩したのではない。 (保儒412)二 I 「それはAのBするのである」の型である。 「である」は題目「それは」に応ずるので, 「AのB するの」はノによって統合される体言相当格といえるし,したがってノ主語になるのも当然だとい えよう。文語のナリで承ける場合がそうである。芥川Dはその使い方になっている。しかし現代語 では,終止,中止の場合にはガを用いるのが普通であって,芥川のこの使い方は異常である。 ノダのノが名詞を代表する次のような場合はAで述べたとおりで,ここの例に入らない。 人さまの噂などほこれはかしもしたこと望ねへの(奴)だo (浮世146) 踏切番が振るの(旗)であらう,唯一旗のうす白い旗が-(蜜柑251)-■ Ⅷで述べたことは,事がらを叙述したものを承けて準体助詞・その他で体言化する場合と,ノ ダが承ける場合とに,芥川のCDでは,ノ主語を用いるが,それは異常であるということである。 資 料、(引例の数字はページ数) 芥 川(「傑儒」を除く)新潮社「日本文学全集」 傑儒の言葉 講 談 社「日本現代文学全集」 浮世風呂 (略号「浮世」) 「日本古典文学大系」 円 朝(牡丹燈寵・塩原太助) ・俊寛 岩波文庫 武蔵野・胡蝶・青葡萄・今戸心中 筑摩書房「現代日本文学全集」 花 車 改造社 「現代日本文学全集」 坊ちゃん・機械・旅愁 講談社「日本現代文学全集」 落 語 普通社 「落語名作全集」 白 虎 東京文芸社「富田常雄選集」 金閣寺 新潮社 「日本文学全集」 漢字をめぐる諸問題(略号「漢字」)朝日ジャーナル 源氏物語 対校源氏物語新釈