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東北帝国大学法文学部出立の頃 ──日本とドイツの交流を中心に──(補遺)

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Academic year: 2021

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(1)

東北帝国大学法文学部出立の頃 ──日本とドイツ

の交流を中心に──(補遺)

著者

木村 俊彦

雑誌名

論集

46

ページ

1-8

発行年

2019-12-31

URL

http://hdl.handle.net/10097/00131073

(2)

東北帝国大学法文学部出立の頃

   

──日本とドイツの交流を中心に──(補遺)

 

 

 

前稿補正   前 号『 論 集 』 の 小 稿「 東 北 帝 国 大 学 法 文 学 部 出 立 の 頃 ─ 日 本 と ド イ ツ の 交 流 を 中 心 に ─ 」 の 6頁 に、 「 あ わ せ て 上 級 生 に 5名 を 数 え た 」 と 書 き ま し た が、 「 上 級 生 」 は 4 名 で、 同 級 生 に 中 島 貞 子 が 哲 学 科 に い た ほ か、 下 級 生 に 高 橋 文 が 哲 学 科 に いたのを併せ、女子学生の仲間は6名いた」と訂正します。そしてこの高橋文(ふみ─これも同窓会名簿はふりがなの方を 書いている─)女史は西田幾多郎の姪で、尊敬する伯父の跡を慕って法文学部の哲学専攻生になったものである。伯父の西 田は京大教授を昭和三年に六十歳で退官しているが、実際の年齢は父親得登の三年早い年齢操作のために三年早く退官する ことになった。 「身の軽きを覺ゆ」と日記に書いている。   外 孫 の 上 田 久 の『 祖 父 西 田 幾 多 郎 』 10頁 に、 「( 西 田 の 妹 ) 隅 の 次 女・ 文 ( ふ み ) は 東 京 女 子 大 か ら 東 北 帝 大 の 文 科 に 進 み、 更にベルリン大学で哲学を専攻した。しかし戦争前に肺を病んで帰国し、間もなく死んだ。男勝りの才気煥発の人だったと い う 」 と 記 し て い る。 30頁 の 註 記 で、 「 高 橋 文 は 幾 多 郎 の 論 文〈 形 而 上 學 的 立 場 か ら 見 た 東 西 古 代 の 文 化 形 態 〉 を 独( 語 ) 訳した」と書いている。この西田の論文は昭和 9年の岩波書店『文學』に掲載されたもので、すると時期的には女史はやや 長 い 療 養 生 活 を 送 っ て い た こ と に な り、 「 間 も な く 」 で は な く な る。 『 西 田 幾 多 郎 全 集 』 の「 日 記 」 に は、 昭 和 3年 の 高 橋 文が西田の書をおねだりしたというメモが余白にある。他には文は登場せず、自分の娘のことばかり「日記」と「書簡」に 書いている。 東北帝国大学法文学部出立の頃

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『西田幾多郎全集』第七巻の「哲學の根本問題・續編」に収録したもので、西田最後の弟子・下村寅太郎によれば、その直 前に執筆した「辧證法的一般者としての世界」で、西田哲学において個物と世界の論理的問題の定式化が完成したという。 次の文化論は時期的にみて、東北大学連続講演のテーマと繋がるものではないか。昭和 9年 9月 26、 27、 28日の三日間の午 前、法文二番教室(階段席の大教室)で開かれ、木場深定先生が富山県から電話で話されたのには、満席だったという。た だ 内 容 も 題 目 さ え も 伝 わ っ て い な い。 「 う ー ん、 文 化 に 関 す る も の だ っ た か 」 と 言 わ れ た の で、 多 分 こ の 時 期 の 比 較 文 化 論 が考えられる。西田特有の構成主義の哲学より話しやすいテーマであり、高橋文も訳しやすかったのであろう。この時西田 を松島に案内したというが、瑞巌寺には行っても建物だけ見たのであろう。当時は 87歳の松原盤龍がまだ現役の僧堂師家を 勤めていたが、翌年の秋発病、暮に病没した。 ヘリゲルと河野與一   当時の法文学部の哲学担当教授は高橋里美、石原謙、河野與一など、西田幾多郎とも多少関わりのある人達だったから、 高橋文の入学には伯父の推薦があったであろう。河野は西田に仙台赴任の挨拶にきたという。哲学者としてラテン語とフラ ンス語が専門という異色の人材であるが、西田から見ると哲学的思考に欠けるという書簡を残している。岩波書店の 『書簡』 の出版では固有名詞を「○○」として印刷している。岩波文庫には河野はライプニッツの『單子論』やベルクソンの『哲学 的 直 観 』、 『 哲 學 の 方 法 』 を 訳 し て 出 版 し て い る の で あ る。 西 田 の 哲 学 の 方 法 の 方 が 異 色 で あ り、 「 読 む 」 こ と が 哲 学 等 の 主 流 で あ る。 河 野 は 東 大 の 仏 ( ふ つ ) 法 科 か ら 哲 学 科 に 転 学 し た の で あ る が、 三 高 で は フ ラ ン ス 語 担 当 の 教 官 だ っ た。 こ の 時 西田の講演を聞いて知的に興奮した話を回顧録に載せている。なお、三高のフランス語の教え子に桑原武夫がおり、東北大 のフランス語科に以後、京大系の教授が続く因縁になった。河野は昭和 25年 3月まで意外に長く東北大に勤めた。   西 田 は 大 正 14年 4 月 12日、 京 都 駅 に 着 く ヘ リ ゲ ル を 出 迎 え る 用 意 を 葉 書 に 残 し て い る。 「 東 北 大 學 哲 學 教 師 ヘ リ ゲ ル 氏、 リッケルトの弟子にしてラスク全集など出版せし人が、明十二日午後七時二十分の汽車(東京からの特急)にて京都驛に着 木村   俊彦

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くさうです。誰も京都に知った人が ないさうですから,私も驛まで行ってやりたいと思ひます。   若し御差支なくば君も其節、京都驛まで御出を願へますまいか。君や高坂・木村などに、一週間程都ホテルに居るさうで すから、何處か京都の案内を頼みたいと思ふから、紹介して置きたいと思ひます。一緒に散歩でもして哲學の話を聞いては い か ん。 氏 は ヴ ィ ン デ ル バ ン ト な ど に も つ い た ら し い。 四 月 十 一 日   西 田   西 谷 君。 」 西 谷 啓 治 宛 と 同 様 の 葉 書 が 高 坂 正 顯 宛にも送られている。日記には「 13日午後と 15日夜「ヘリゲル氏来訪」を記している。文学部同窓会名簿によれば、ヘリゲ ルは大正 13年 4月の着任である。   河 野 與 一 は ド イ ツ の ヘ ー ゲ ル・ コ ン グ レ ス の シ ン ポ ジ ウ ム (「 へ ー ゲ ル・ コ ン グ レ ス 」、 『 思 想 』 昭 和 7年 ) を 利 用 し て、 ド イ ツ の エ ル ラ ン ゲ ン に 行 き、 ヘ リ ゲ ル に 再 会 し て い る( 昭 和 6年、 193 1 年 )。 そ の 話 は「 最 も 古 い 假 綴 表 紙 の こ と 」 に 載 せ て いる (『圖書』 昭和 30年) 。ベルリン大学の聴講から、 バンベルクの国立図書館に行って木版印刷の歴史資料を館長に見せて貰っ た 後、 「 他 に も 同 館 秘 藏 の 古 製 本 を 見 せ て 貰 っ て か ら、 午 餐 の お 供 を し た。 こ れ か ら 何 處 へ 行 く と 訊 か れ て、 エ ル ラ ン ゲ ン へ寄ると云うと、あすこに何があると問われるから、日本に長くいた哲學者ヘリーゲル氏がいると答えた。──向うは君の 行くのを知っているか。──いや、出しぬけです。──それはいけない。私が大學へ電話を掛けて上げる。──館長は電話 室へ行ったまま中々戻ってこない。何でもヘリーゲル氏の家には電話がなくて、その向いの學生集會所から呼び出しにした。 とにかく打ち合わせが出來て、エルランゲンで宿をきめてから月明りを浴びてヘリーゲル邸を訪ねた。數年ぶりの對面であ る。いきなり云われたのは、どうして前以って知らせないかという小言であった。現に明日は旅に出る所だ。いなければお 互いにいやな思いをするじゃないか。──通された客間には壁に作りつけた暖爐の上に二本の弓が二張と陣笠が一つ懸けて あった。その上に弓道の免状が金縁の額に収められていた。   こ の 間〔 195 5 年 〕、 東 北 大 学 の 柴 田 治 三 郎 君 が 來 て、 ヘ リ ー ゲ ル 氏 の 訃 を 伝 え た。 今 年 4月 18日 ガ ル ミ シ ュ ─ バ ル テ ン キ ル ヒ ェ ン ( ミ ュ ン ヘ ン の 南 10 0 キ ロ メ ー ト ル ) で、 病 苦 と 闘 っ た 後、 七 十 一 年 の 生 涯 ( 188 4-195 5 年 ) を 終 え た こ と、 人 々 に 待 ち 望 ま れ た 著 作 の 原 稿 は 遺 言 に よ っ て 炎 に 投 ぜ ら れ た こ と、 遺 骸 に は 日 本 の 絹 の 着 物 を 著 せ た こ と を、 小 町 谷 操 三 君 に 宛 た 東北帝国大学法文学部出立の頃

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〔 グ ス テ ィ〕 夫 人 の 立 派 な 手 紙 で 知 っ た。 私 に は、 ヘ リ ー ゲ ル 氏 は ド イ ツ 製 本 に 眼 を 開 か せ て く れ た 恩 人 な の で あ る。 」 河 野 には柴田との共訳がある。   因みにヘリゲル邸にあった弓などは米軍の接収で略奪されたと、未亡人が小町谷氏に語ったという。小町谷氏は商法担当 の教授であったが、弓道の趣味があって、ヘリゲルに阿波師範を紹介した縁があった。稲富榮次郎はヘリゲル教師の授業を 活き活きと回顧しているが、それは『弓と禅』 (福村出版) の後書き「ヘリゲル先生の想い出」に譲らなければならない。 西田幾多郎と妙心僧堂   西 田 幾 多 郎 ( い く た ろ う ) は 金 沢 四 高 講 師 を 浪 人 し て、 妙 心 僧 堂 の 虎 関 宗 補 の 接 心 に 居 士 と し て 参 禅 し た。 二 十 七 歳 の 時 で あ っ た。 後 継 者 が、 金 沢 時 代 に 居 士 と し て 知 り 合 っ た 池 上 湘 山 で あ る ( 木 村 素 衛 ) 。 湘 山 は 病 身 を 妙 心 寺 の 門 外 塔 頭・ 仙 壽 院で養ったが、そこには西田が四高で教えた植村寳林が住職していて、西田は京都では仙壽院を香花寺とした。四高教授時 代 の 日 記 に、 「 植 村 〔 定 造 〕 君、 遂 に 僧 に な り た り。 う ら や べ し 」 と 書 い た 住 職 で あ る。 湘 山 を 度 々 見 舞 っ た の は 当 然 の こ と で あ っ た。 虎 関 の 後 継 者 は 旧 知 の 池 上 湘 山 だ っ た が、 金 沢 で は 居 士 だ っ た の で、 必 ず 姓・ 名 で 登 場 す る。 歴 住 開 堂 ( 西 田 の 言 う 歴 住 式 ) に 案 内 さ れ て、 妙 心 寺 の 法 堂 ( は っ と う ) に 随 喜 し、 雰 囲 気 に 感 動 し て い る。 西 田 は こ の よ う に 現 象 学 的 に 禅 仏教と出会っていた。ヘリゲルは翌年西田を訪ねたが、一週間の間にこのような誘いはなかったようである。   縁故の教授達からヘリゲルを紹介された西田は、ハイデルベルクに留学した弟子の務䑓理作のことを当地の父G・ヘリゲ ル に 預 け る 旨、 仙 台 の オ イ ゲ ン・ ヘ リ ゲ ル に 頼 ん だ。 務 䑓 ( む た い ) が 寄 宿 し た 秋 に 父 ヘ リ ゲ ル は 逝 去 し た。 こ の 一 連 の こ と は 西 田 の 書 簡 集 (『 西 田 幾 多 郎 全 集 』 第 十 八 巻 ) に 出 て い る が、 ヘ リ ゲ ル が 京 都 を 訪 問 し た 翌 年 の 大 正 15年 春 の こ と で あ る。 早くから西田幾多郎とオイゲン・ヘリゲルは書簡で親しくなった様である。所が二人が関心を寄せる禅については話題が出 てこない。弊父のメモによれば、湘山は法嗣・徳宗に大正 11年、席を継がせている。昭和 3年に湘山は病没するので、西田 はもはやヘリゲルに妙心僧堂を案内する縁がなくなっていた。 木村   俊彦

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  西 田 が 禅 を 北 條 時 敬 ( と き た か ) か ら 紹 介 さ れ た の は、 國 泰 寺 か ら 金 沢 に 出 た 道 津 雪 門 に つ い て で あ っ た。 北 條 は、 金 沢 四 高 の 校 長 を 経 て 東 北 帝 国 大 学 第 二 代 總 長 に 就 任 し た の が 大 正 2年 ( 191 3 ) の こ と で、 北 條 夫 妻 は 金 沢 時 代 に 続 い て、 松 島 の松原盤龍に参禅したという。陽徳院に専門道場を開単していなかったから、参禅には不便だった。十年後の法文学部の教 授達は居士禅に無関心だったし、禅からヘリゲルの関心をそらす為に弓道を紹介したとさえ思える。ヘリゲルにはそれが気 の毒であったし、世界的にも禅は誤解されてしまった。没後の遺稿 ”Der Zen-W eg ” などは何を言っているのか判らない代物 なのに、前回述べたように 15版を数えて、和訳まである。東大の哲学科の学生には、鈴木大拙のように圓覺寺の今北洪川に 参禅した者が多く居たので、後継者の釋宗演は居士禅専門の両忘禅協会を東京に復活させて、釋宗活を師家にした。その弟 子 の 一 人 が 大 峽 宗 榮 で あ る。 尚、 雪 門 は 家 業 を 片 付 け た 後、 若 狭 の 弟 子 の 寺 で 指 導 を 続 け、 訃 報 は 西 田 に も 齎 さ れ た。 「 寸 心居士」 号は雪門の命名である。因みに久松眞一の 「抱石」 号は西田が寒山詩の 「白雲抱幽石」 から勧めたものである (書簡) 。 大峽宗榮の履歴   大峽宗榮の “ ZEN:Der le bendige Buddhism us in Japan ” は前稿で述べたように臨済禅の知識を,公案も含めて伝えようとし た も の で あ る が、 そ れ だ け で は 禅 仏 教 と の 現 象 学 的 出 会 い は 不 可 能 で あ る。 同 じ こ と は 鈴 木 大 拙 が 幾 つ か の ’Zen ’ 紹 介 を 志 しても、禅仏教の紹介には到らない。 200 5 年に東京のプリンスホテルで開かれた第 19回国際宗教学宗教史会議世界大会の禅 部会でカナダ人とアメリカ人が同じ弊を踏んでいた。 会場に花岡永子氏とミシェル ・ モール氏もいたが、私の大拙批判を笑っ て聞いているだけだった。因みに私はオットーの建仁寺での禅仏教の出会いを報告した。   大 会 の パ ネ ル 13 Q は( 発 表 は す べ て 英 語 だ っ た が、 プ ロ グ ラ ム は な ぜ か す べ て 日 本 語 に な っ て い る )、 ま さ に「 禅 仏 教 研 究 へ の 反 省 」 で、 J.E .H ata w ay 「 鈴 木 大 拙 と そ の 学 派 」、 木 村 俊 彦「 ル ド ル フ・ オ ッ ト ー と 禅 」、 延 原 時 行「 無 知 -キ リ ス ト 教 と 仏 教 」、 A.F .W elter 「 禅 の 伝 統 に お け る 正 統 性 」 で あ っ た。 彼 ら が 大 峽 宗 榮 の 名 は 勿 論、 ル ド ル フ・ オ ッ ト ー の 名 も 知 っ ていたかどうかは疑問である。大峽の履歴は九州工業大学総務課と成蹊学園史料館から資料を提供して頂いて判明した。尚、 東北帝国大学法文学部出立の頃

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九 州 工 業 大 学 は 大 正 10年 6月、 明 治 専 門 学 校 か ら 国 立 の 九 州 工 業 大 学 に 改 称 し た の で、 本 稿 は こ れ に 統 一 し て い る。 大 峽 は帰国後学生部長に就任し、 14年に六等瑞宝章を受けている。しかし 15年 1月に退職、後は東京の私大嘱託を経て成蹊高校 教頭を委嘱された。その頃の成蹊学園は禅的情操教育を志向していたといい、同僚の奥田正造は弓道部顧問で禅に関心があ り、 『 大 燈 國 師 年 譜 』 を 昭 和 8年 に 出 版 し て い て、 今 に 便 し て い る。 ヘ リ ゲ ル の『 弓 と 禅 』 よ り 実 際 的 で あ る。 職 を 転 々 と し た 大 峽 は 大 正 11年 3月 に 退 職 し て、 禅 的 教 育 目 的 の「 擇 木 寮 」 を 経 営 し、 21年 8月 に 逝 去 し た。 後 年、 『 毎 日 新 聞 』 に 寮 生の回顧談が載った。竹堂忌に招いた未亡人は 90歳で、尚、健在だったという。   大峽は哲学科を出た後は教授職を転々としながら、釋宗活を禅の師と仰いでいたが、いつ参禅の機会があったかは不明で ある。宗活は宗演の法嗣の一人として、夏目漱石の『門』に「宜道さん」として登場するが、実際の資料としては伊藤探玄 『禅の一本道』に「先師を憶う」として貴重な記事があるが、記述に不慣れな所がある。大峽がマールブルクに宗活の書を 贈っている。北九州から東京に移ったのは宗活の道場・両忘庵を目指していたのであろう。寮監時代も寮生を両忘庵に連れ て行っているが、宗活は大峽より長生きして、昭和 29年に 84歳で逝去したという。寮生が大峽の未亡人を招いて毎年竹堂忌 を催し、夫人は昭和 56年の記事当時、 90歳で健在だったという。 ヘリゲルの吐露   ヘリゲルの言う所では、禅への道の予備門として、日本の弓道を習おうと思ったということである。その上で阿波研造師 範を紹介された。弓が禅への入り口だという思い込みは、鈴木大拙が禅と日本文化の関わりを論じた中での「武士道と禅」 の よ う な テ ー マ の 英 文 論 文 が 基 ら し い。 「 愚 堂 年 譜 」 で も、 槍 術 の 師 匠 は 愚 堂 和 尚 だ と、 仁 和 寺 再 建 を 監 督 し た 武 士 が 言 っ たという話が出てくる。しかし弓道というような存在をヘリゲルは初め知らなかったのだから、教官の入れ知恵だろうが、 高橋里美は丁度大正 13年から 2年間フライブルクのフッサールのもとに留学していて、関与なしか。西田は瑞巌寺の松原盤 龍の瑞巌寺ではなく、妙心僧堂に通って居士禅を試みた縁があった。大徳寺孤蓬庵で実際に見性老師に無字の公案を通して 木村   俊彦

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貰ったそうである。   しかしいわゆる西田哲学は禅の世界観ではなく、無限に対する金沢時代の思い込みが基になっていると,本人も述べてい る。 矢島羊吉先生は, 「西田哲学は無を言いながら無を有として捉えてはいないか、貴兄の御判断を知りたいものと思います」 と い う 書 簡 を 私 に 下 さ っ た。 『 ル ド ル フ・ オ ッ ト ー と 禅 』 39頁 参 照。 前 稿 で 徳 永 茅 生 の「 上 級 生 が 併 せ て 5 人 」 と 書 き 間 違 え た の で、 「 宮 城 定 ら 上 級 生 4 人、 同 級 生 に 中 島 貞 子、 下 級 生 に 高 橋 文 の 併 せ て 6 人 」 と、 お 詫 び し て 訂 正 し ま す。 同 級 生 と下級生は哲学専攻でした。 東北帝国大学法文学部出立の頃

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The Beginning Literal Faculty of Tôhoku University:

An International Fact between Japan and Gemany

(Continued)

Toshihiko KIMURA

 This paper is continued from the last one above-mentioned in the “Ronshû”, No.45. Teacher E.Herrigel taught philosophy and classics in the beginning faculty of Tôhoku Imperial University 1924-1928. These lectures were opened in a year after the beginning literal faculty. Herrigel had been a private lecturer at Heidelberg University. Shûej Ohasama studied philosophy at Heidelberg 1921-1923, and discussed his German translation of the history and teaching-problems (公案) of Zen Buddhism with Herrigel. So Ohasama seemed to introduce Herrigel to the authority as a foreign teacher of philosophy at Tôhoku Imperial University, Sendai. Ohasama’s text is titled “Zen: Der lebendige Buddhismus in Japan” 1926. But D.T.Suzuki’s English Zen books overwhelmed Ohasama’s correct Zen book.

 Herrigel was a talent teacher as a New-Kantian philosopher and taught classics also for Japanese students. One of them, Y.Inatomi, reported the teaching way by Herrigel in the acknowledgements in his Japanese translation of the “Zen in der Kunst des Bogen-schiessens” of Herrigel. At the text Herrigel retrospected that the invitation to teach philosophy at Tôhoku Imperial University seemed to be a chance to know Zen. But in Sendai he did’nt become familiar with Zen Buddhism but with Japanese bow-shooting art. Western people misunderstood that Herrigel reported Zen of Japan. But Herrigel never met with Zen Buddhism in Japan 1924-1928, no matter how there was not the chance to visit Zuiganji Zen temple near Sendai. He visited Kyôto once and Ikutarô Nishida, a philosophical professor being familiar with Zen Buddhism. But he did’nt introduce Zen to Herrigel.

木村

 

参照

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[Na] H.Nakajima, Instantons on ALE spaces and canonical bases for representations of quantized enveloping algebras, preprint.

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