J.デューイにおける人間行為の哲学的思索の出発点
としてふさわしい「習慣」 ―人間行為の核心とし
ての習慣的生活行動の観察をとおして―
著者
天間 環
雑誌名
教育思想
巻
48
ページ
19-35
発行年
2021-03-31
URL
http://hdl.handle.net/10097/00131789
J.
デューイにおける人間行為の哲学的思索の
出発点としてふさわしい「習慣」
―人間行為の核心としての習慣的生活行動の観察をとおして― 天間 環(東北大学大学院・院生)〇 はじめに
人間は精神的存在である1。人間=精神的存在の行為を最も一般的・根本的 に特徴づけるのは、その知的ないし精神的な構造である。精神的あるいは知 的性格をもつ行為とは、「意味の所有と意味に対する反応」2である。 人間=精神的存在における習慣形成の条件や形成された習慣的行動の特性 の考察は、様々な問題を含んでいる。この問題は、習慣形成の前提条件とし ての個人の外側にあり外部から包み込んでいるところの社会生活と、人間= 精神的存在の個体の生来の活動力とその習慣的な組織との二側面から具体的 な仕方で考察できる3。この二つの側面は、別個の異なったものとして並列す るのではなく、精神的・知的行為という一個同一の事件の表裏二面を成すも のであって、お互いに他を前提し依存し合う関係にある。人間の身体的およ び精神的なほとんどすべての行為は、この二側面を統合したものとしての「習 慣」4に基づいて為される。 筆者はこれまで、人間形成、すなわち人間における「習慣」形成の根本的 な在り方を理解するために、『人間性と行為』(1922 年)をはじめとするデュ ーイの著作群において展開する「習慣」概念を検討し、個々人が形成・習得 する習慣的行動の諸特性を明らかにすることに焦点を絞って考察を進めてき た。しかし、もちろん「習慣」をめぐる問題は個々人の形成だけに専ら関わ るものではなくて、もともと社会的な広がりをもったものである。そこで、1 John Dewey, 1925, EXPERIENCE AND NATURE, The Later Works, Volume 1, Edited by Jo
Ann Boydston, Carbondale and Edwardsville, Southern Illinois University Press, 1981, p.217. 2 ibid., p.208. 3 拙稿「習慣的行動に注目することの意味―経験再構成の広がりと深みを規定するも の―」『日本デューイ学会紀要 第34 号』1993 年,89 頁~94 頁。 4 筆者は、習慣、衝動、知性を何らかの実態を表示する名詞としてではなく、活動力 ないし行為の要素・傾向・機能を表示する形容詞として理解する。したがって、名 詞的に使用する場合は、「習慣」、「衝動」、「知性」と記述する。
社会的な規模をもった行動の組織または様式としての「習慣」の特性や機能 に着目すると、習慣的行動の人間の生活や行動における働きの根源的で遍在 的な性格が一層明白になる。人間の考察や理解における哲学的な方法の要点 は、専門科学的研究とは異なって、人間の生活や行動を可能な限り広くその 全体を展望しつつ、その多面的な視野の中に問題となる事物・事態を位置づ けて、その一般的な構造的傾向を分析し、人間生活全体にとっての価値を判 断し批判することにある。このような方法上の基本的特徴をもつ哲学的な人 間の考察にとって、人間行動の根本的な特徴を未分化で統合的な仕方で含ん でいる「習慣」は、その考察を始める出発点として極めて相応しいもの、哲 学的考察に固有の素材群を成すものとであると考えられる5。本研究は、まさ にこのようなデューイの思索の筋道を、より一層具体化して辿ってみようと するものである。
1 人間性の理解における新しい包括的「習慣」概念の位置
(1) 日常普段の生活の行為における「習慣」の遍在性 デューイの新しい包括的な「習慣」概念によれば、われわれの日常生活の 「ほとんどすべて」は習慣的な仕方で為され習慣的な特性によって浸透され、 習慣的な機能によって覆われている。「生活」や「行為」は、ただ単に、外的、 身体的な形態や性格のものだけでなく、内的で精神的な形態や性格のものを も併せて含んでおり、それら両方の形態や性格の「生活」や「行為」は、お 互いに分離・独立して別個に各々なされるものではなく統合的に為されるも のである。また、日常生活は、われわれの生涯や人生にとって決定的で重要 な意味をもち、非本質的で末梢的で無味乾燥のものではなくて、さらに軽薄 で表面的で一時的な領域、場面のものでもない。また、日常生活とは別個に 存在する人生の意味や生きがいそのものを直接開示する根源的・本質的で例 外的で異常な人生の場面に対する、単なる入り口や堕落した形態のもので水 で薄めた在り方では決してない。日常生活こそは、人がそこで過ごす時間的 量からみて、人生の大部分を成すものであるだけでなく、人が、その性格の 根幹部分において深く関わっているものであり、人生の核心ないし本質を成 す場面であり、人生の目的、生き甲斐の源泉となり得る唯一の場面である。 5 拙稿「デューイにおける哲学的思索の出発点としての「習慣」について」『日本デュ ーイ学会紀要 第32 号』1991 年、19 頁~24 頁で、習慣的行動の未分化で統合的な 内容は人間性の問題を直に主題とするような哲学的思索の出発点として、またその 思索の主たる活動領域として極めて相応しいものであることを考察している。ところで、「ほとんどすべて」というとき、それでは、習慣的な特性や機能 によって覆われ、浸透されるのを免れているような「生活」のあり方や「行 動」には、いったい如何なるものがあるだろうか。ここで改めて指摘するこ とは、有意義である。 ここで、先ず、(ア)新生児の生得的な反応、反射的行動をとりあげる。こ れには、人間誕生直後の呼吸、産声、またその後の、抱きつき等がある6。具 体的にその一例を紹介すると、ⓐモロー反射、ⓑ口唇探索反射、ⓒ吸引反射、 ⓓ追視反射、ⓔ把握反射、ⓕ自動歩行などが挙げられる。これらの行為は、 その後の人間行動の基礎とはなるものの、やがて成長していく過程において、 このリズムが崩れ、それに代わって外界の環境に即応した行動が認められる ようになる。 次に、(イ)物質的な事柄に純粋に物質的に反応する場合を取り上げる。突 然物音を聞いて飛び上がるとか、熱いものに触れて手をひっこめるとか、急 に明るさが増してまばたきするとか、動物のように日なたで日光浴をするな どの行為である。こういった反応行動は、生物学的な段階である。しかし、 人間の行動の典型は、こういう例では示されない。話を聞いたりするのに音 声を用い、料理や暖房のために火を燃やして番をし、仕事や社交を続けたり 規則正しくするために明かりをつくる。これらのことが、とりわけ人間的な 活動を表わしている7。人間の活動は、文化的に伝達される環境の中に取り巻 かれ、人間が何を為し如何に行動するかは、有機体的な構造や肉体的な遺伝 だけで決定されるのではなく伝統、制度、慣習など文化的遺産の影響によっ ても決定される。人間は、ミツバチやアリとは違った意味で社会的である8。 次に、(ウ)限界状況における主体的な決断にのみ基づく行為・行動を取り 上げる。これは、人生の危機的または限界的状況における主体的な決断に基 づく行為である。これまで自らが形成・習得してきたあらゆる「習慣」を動 員し、組織し、結集し、凝縮して行使しつつ、最終的に「習慣」の機能その ものを超え出て、それから飛躍する瞬間として考えられる行為である9。例え 6 三宅廉・黒丸正四郎著『新生児』NHK ブックス、昭和 46 年、149 頁~175 頁。 7 John Dewey, 1938, LOGIC: THE THEORY OF INQUIRY, The Later Works, Volume 12,
Edited by Jo Ann Boydston, Carbondale and Edwardsville, Southern Illinois University Press, 1986, p.48.(『論理学:探究の理論』、上山春平編『世界の名著59』、魚津郁夫訳、 中央公論社、昭和55 年、431 頁。)
8 ibid., p.49.(同書、431 頁)
9 拙稿「デューイにおける「習慣」概念の意味とその構成方法」『日本デューイ学会紀
ば、地下鉄での火災を例に挙げると、人々は、夢中で、そして無意識のうち に逃げまどい何とか生きのびようとしてとる行動である。 さらに、(エ)研究者や芸術家においてみられる行為・行動を取り上げる。 研究者や芸術家においてみられるような、極めて特殊化され洗練された、繊 細で高度に複合的な習慣的行動である。これは、これまで形成された習慣的 組織を総動員してそれに依拠しながら「習慣」の機能を完全に超えた探究・ 創造的活動である。芸術家が、制作過程で行き詰まり苦しみもがき、次への 制作段階に進めないでいる時、衝動的に取った行動により活路を見いだすよ うな場合である10。 以上のような、習慣的行動によって決定的な仕方で規定されていない習慣 的行動の影響がたまたま欠落した、あるいは習慣的行動の影響を超え出た例 外的な生活過程や行動場面に注目することは、逆にそうした例外場面が希少 であること、習慣的行動の機能がわれわれの生活や行動にくまなく浸透して いることを逆向きの仕方で明らかにすることになる。したがって、日常普段 の生活過程における習慣的行動のこのような普遍的な存在に注目するならば、 人間の行動における習慣的行動の特性や機能を改めて具体的に考察してみる ことの重要性が明らかなものとなる。 (2) 意識的な反省の機能の範囲を超えて広がる「習慣」の機能の広 さと深さ 日常生活における「習慣」の機能の遍在ということの意味を、もしそれが、 ただ日常生活において具体的に直接に、そして現実に為されたところの表面 化した行為にだけ「習慣」の機能の遍在を語ることができるということを表 現していると理解するならば、そのような習慣的行動についての理解は甚だ 一面的であり皮相的なものである。 なぜならば、習慣的行動の機能は、(ア)意図的あるいは意識的に為される ところの焦点的でかつ知的で反省的な行為をも基本的に規定し支配している。 (イ)また、知的で反省的な行為の基礎ないし前提条件として、その種の行 為に横たわっている。それは、半意識的な行為態度を専ら構成するものであ るが、その具体的事例として性格や精神のあらゆる組織に作用するほど精妙 で浸透力のある「環境からの無意識的な影響」として、次の四点が上げられ る11。すなわち、第一は「言語の習慣(the habits of language) 」である。言葉 10 同論文、22 頁。
の基本的様式や語彙の大部分は、きちんと決まった教授の方法としてではな く社会的に必要なこととして営まれる日常の生活の交わりの中で形成される。 第二は「行儀作法(manners)」である。よい行儀作法は、よい育ちから生ずる。 いやむしろ、よい育ちそのものである。育ちは、知識を伝えることによって ではなく、平素の刺激に対する反応として、平素の行動によって獲得される。 結局は、周囲の雰囲気や気風が行儀作法を形成する。第三は「よい趣味と美 的鑑賞眼(good taste and esthetic appreciation)」である。優美な形態や色彩をも つ調和のとれた対象に常に接していれば、趣味の基準は自然に向上する。第 四は「価値判断の基準(the standard of judgment of value」である。何に価値が あり、何に価値が無いかについての意識的な評価は、全く意識されていない 基準によるのである。(ウ)さらに、それらすべての行為や態度の根底となっ ている古い「習慣」の層に依拠して行為・行動が展開されている。この古い 「習慣」は、特別の精神分析的技法に頼らなければ、意識的反省の水準へと 浮かび上がらせることができないほど、深く性格の核心部分あるいは基底部 分へと浸透し沈殿した人生の初期に獲得されたものである。 したがって、人間の生活と行為における習慣的行動の機能は、ただ単に直 接的・具体的な行為の運動的あるいは、心理的な手段・技術として現れるの みでなく、さらに、それらの技術としての習慣的行動の機能とその発動であ る行為の根底をなすものとして、そのような行為への動機や意欲そのものと しても現れ機能する。また、そうした一定の具体的な動機や意欲・意思を支 え、それらを包んで広がる気分といわれる層にも広くかつ深く浸透している 12。意識化や意識の反省的機能が深まれば深まるほど、習慣的行動の機能の 範囲は、一層深まりかつ拡がる。その意味で、意識や知的反省的経験は、習 慣的行動の、したがってまた潜在的意識や無意識の機能の限りない大海に浮 かんだ小さな島である13。だがしかし、それにもかかわらず、その小さな島、 すなわち意識ないし知的反省の拡大や習慣的行動の意識化の中にしか、われ われの習慣的行動を統制し人間の行為と生活を理解し統御するための手がか りはないのである。
2 人間行為の哲学的研究および考察の出発点としての「習慣」
by Jo Ann Boydston, Carbondale, Southern Illinois University Press,1980 p.7.
12 John Dewey, 1922, HUMAN NATURE AND CONDUCT, The Middle Works, Volume 14,
Edited by Jo Ann Boydston, Carbondale, Southern Illinois University Press, 1983, pp.29-30.
(1) 哲学的な人間行為の研究及び考察の特徴 さて、次に、デューイにおける「哲学(的思索)」についての考え方、理解 の仕方が問題となる。哲学は、専門科学とともに、反省的思考の一種である が、しかしまた、その思考活動の目的や構造において根本的に異なった在り 方をとり、異なった機能を担っている。デューイは、「哲学は本来批評であっ て批評の多様な形態の中でもその一般性という点で、その特異な地位をもつ ものである。それは、いわば批評の批評(a criticism of criticisms)である。」14と
する。そしてデューイは、「批評」について、「批評とは、識別的な判断であ って、判断は、その識別の主題が善や価値に関わる場合には常に批評と呼ば れるのが適切である」15と考える。一般に「批評」は、二つの過程を含んで いる。一つは、批評されるべき当の事物・事件の生起の条件およびそれがも たらす結果の分析的探究であり、もう一つは、そのような分析的認識に基づ いて、一定の価値を提示しつつ、その立場から為される当の事物・事件の価 値の識別・決定である。批評は、この二段階の過程ないし機能よりなる。批 評は、この後者の手順を踏んでいるという点において、科学的な事実認識と 根本的に異なった構造をもっている。そして、哲学もまた、一種の批評とし て、同様の構造をもっている。 それでは、哲学の特徴は何か、それは他の批評とどこが違うか。その違い は哲学的批評が有する「一般性(generality)」16にある。哲学は、諸々の「批評 の批評」である。そこで、哲学的批評の一般性は如何なる点に現れるか、が 問われる。哲学的批評の一般性は、第一に、その批評の主題が価値の一定・ 特殊な種類ないし領域に限定されないで、日常生活のうちに見いだされると ころのあらゆる価値とその批評の様式に及ぶことに現れる。哲学的批評は、 このような一般的な広がりを有する視野の中に、その中で生起する広範な影 響力をもつと思われる諸問題を位置づけて、それを分析し批評する。第二に、 その批評の方法における徹底的に包括的で組織的な性格に現れる。方法にお ける包括的・組織的性格は、先ず諸々の価値を識別判断するその立場の包括 的・究極的性格に、そしてまた、それを繰り広げる手順の体系的性格に見出 される。諸々の価値を識別・判断する際に哲学的批評がその基準として提案 し設定するところの立場または価値の観念は、単に生活のある特殊な領域に おける、当面の目標ないし理念というような種類のものではなくて、われわ
14 John Dewey, EXPERIENCE AND NATURE, p.298. 15 ibid., p.298.
れの生活全体(人生)の究極の価値である。哲学は、いずれもこうした価値 を提示し、あるいは前提することによってそこから批評を行う。さらにまた、 哲学的な一般的批評の包括的な性格は、その批評の主題と目された問題の事 態、すなわちその生起の諸条件とそこから生じる諸結果に関して、分析する 場合の手順または方法の一般的・包括的な形態をとってあらわれる。当の問 題は、社会生活の主要な諸側面、その全般的な在り方に関わる根本的な性格 のものと看做され、それゆえにまた、社会生活のあり方を規定する基本的諸 構造を提案しつつ、それを自らの視点として問題的事態の分析が遂行される。 もちろん、その分析に際しては、特殊な一専門科学のみならず関連のある多 数の多様な専門諸科学の方法や知見が可能な限り広範に参照されることにな る。 ① 人間行為の専門科学的研究 ここで、専門科学的研究の特質を若干確認する。専門科学的研究は、一定 の固有な問題意識に基づいて形成されたところの、一義的に明確に規定され た、一面的な観点に立って、多種多様な形態で展開されている人間行為の中 で特定の形態の行為を、しかも一定・特殊な条件の下における当該行為の特 定の性質・機能を研究の対象を構成するものとして選択し定立している。そ して、当該行為を当該専門科学の知識の体系に基づいて、すなわち一般的な 基礎概念や法則に基づいて分析し再構成することによって定義し説明して、 当該行為の原因となる諸条件を分析・究明するとともに、それが引き起こす 結果について予測することを目指すものである。以上のような観点の明確な 一義性と具体的に鋭く定義された対象の一面性こそが、専門科学の研究の結 論・成果を検証可能なものたらしめ、それに客観的・科学的性格を与える。 ② 哲学的な人間行為の考察ないし思索 そのような専門的な実証的・経験的諸科学の人間行為の研究に比較して、 哲学的な仕方で為される人間行為の考察ないし思索は、人間行為を「その全 体において」思索の主題とする。人間行為を「その全体において」と、特に 強調して述べようとするのは、多様な人間行為の中の一形態、しかも、その 行為における特定の性質・側面だけを考察の対象とするのではない。哲学的 な人間行為の思索においては、あらゆる種類や形態の行為すべてが、しかも、 それらの行為のあらゆる性質・側面において残らず思索の際に考慮されるも ので、それが取り組むべき思索こそがそこから出発すべき素材となる、と考 えられていることを示そうとするものである。
また哲学的思索は、人間行為の一般的特性を発見し記述しようとする。こ こに、一般的特性とは、ある種、ある形態の行為だけが持つものだけではな くて、共通した仕方で帯びるような特性で、しかもそれらの行為のあらゆる 性質・機能に浸透して、それらを残さず共通の仕方で規定しているような特 性を意味する。 さて、哲学的思索の一般的な批評としての性格、特にその課題と手順・方 法における特徴を、上述のように理解することができるとすれば、人間性の 諸問題を直接の主題とするような哲学的思索に相応しい問題領域の理解の仕 方、設定の仕方は、自ずと明らかになる17。哲学的思索がそこからその思索 の過程を始めて、主としてそこでその批判的な思索活動を展開すべきその固 有の活動領域または問題領域として、習慣的行動が支配的であるような、日 常的行動においてわれわれが経験するところのもの、すなわちその種の行動 の諸過程と諸結果は、日常普段の社会生活の多面的な諸要素や多様な諸過程 で経験されるものを無意識的に未分化な仕方で統合して含んでいる。その点、 一定程度体系的な反省的思考、すなわち専門諸科学がそれぞれ固有の一面的 観点に基づいて分析的に識別・選択し、抽象的に構成した諸対象や諸理論と は異なる。日常普段の社会生活の行動においては、なによりも、価値あるも のの追求や価値判断の過程と事実上の諸関係の冷淡な理解・認識の過程とが 未だ分化していず、望ましい事態と現実の事態が必ずしも区別されていない。 また、そこでは、現実の事物は、同時に多面的で多様な意図と仕方をもって 取り扱われており、事態の多面的で多様な諸性質と諸特性が断片的に混淆さ れたままで大雑把に捉えられている。そこで、もし、習慣的行動の過程で経 験されるところの未分化で統合的な経験内容を含んだこの種の事態を、その 統合的な在り方・まとまりを保ちながら反省的に意識化し、その統合やまと まりの基本的な特性や構造を際立たせることができるとすれば、その時には、 われわれは、われわれの生活や行動の基本的な構造を捉えていることになる。 まさに、このような意味において、習慣的行動の未分化で統合的な内容は、 哲学的思索、特に人間性の問題を直接に主題とするような哲学的思索の出発 点として、またその思索の主たる活動領域として、極めて相応しいものであ ると考えることができる。 17 拙稿「デューイにおける哲学的思索の出発点としての習慣について」『日本デューイ 学会紀要 第32 号』1991 年 19 頁~24 頁。
(2) 全体的・総合的な人間行為の研究の出発点としての「習慣」 ① 人間行為の哲学的考察 哲学的な人間行為の考察・思索が上述のような特徴をもつとすれば、そう した考察においては、人間行為のある特殊な一種類あるいは一形態のみに注 意を奪われ、それを選択し、それのみを本質的な地位や性格を有するものと 考えてはならない。また、人間行為のある特定の性質や側面にのみに注意を 奪われ、それのみを選択し、独断的・恣意的に、それに本質的な地位や性格 を与えてはならない。なぜならば、哲学的な人間行為の思索・考察は、すべ ての種類、すべての行為の性質や側面に全く対等の地位や資格・性格をもつ ものとして等しく注目しなければならないからである。また、それに基づい てそれらのすべてに共通してみられる一般的特性も構想しつつ、分析・発見 しなければならないからである。 そして、もしそうであるとすれば、人間行為の哲学的思索においては、あ る特殊な、例外的な条件下でのみ生起するある特殊な種類ないし形態の例外 的な行為、すなわちある一定特殊な性質・側面のみが、専ら例外的かつ端的 に肥大化しているような行為は、そうした思索の出発点となるような主題な いし素材としては明らかに適切なものではない。もし、そのような主題ない し素材を取り扱い、それと取り組む場合には、それが持っている、そのよう な一面性や特殊性に十分留意し心に銘記しておかなければならない。さもな ければ、その種の性質・側面のみが人間行為を専ら代表し、それを規定する ものと看做され、それがそのまま人間行為の一般的特性へと思い誤って祭り 上げられることになってしまうからである。 ② 「衝動」と「知性」の例外的で一面的な性格 「習慣」つまり、行為の習慣的な組織や機能が、全面的にそして完全に崩 壊し解体し混乱・停止することは、全く異常な状況下でのわずかな瞬間を除 けばあり得ない。行為の習慣的な組織や機能の混乱や解体は、それゆえに、 常にただ部分的で一時的である。そして、行為の習慣的な組織や機能の、ま さにこのような部分的で一面的・一時的な混乱や解体・停止に際して、「衝動 的行動」18―すなわち、行為の衝動的な性質や機能、つまり行為における有 機体(生命体)の基本的・原初的欲求に根ざす、生得的な未組織の流動的な 情動的エネルギーとしての要素・側面と、「知的行動」19―すなわち、行為の 18 John Dewey, HUMAN NATURE AND CONDUCT, p.65.
知的な性質や機能、つまり行為における精神的で観念的な意味操作としての 局面・機能とが、出現し表面化し、当該行為の主要な焦点的な性質・側面と なるに至る。やがて、衝動的行動と知的行動を包括するような、新しい習慣 的行動が形成されると、再び新しい習慣的な行動への専心・没頭の流れが始 まる。 したがって、衝動的行動の性質・機能と知的行動の性質・機能とは、常に、 絶えず行為に随伴し、あらゆる行為に例外なくすべて浸透しているような普 遍的・遍在的な性質・機能・要素では明らかにないし、また衝動的行動と知 的行動とは恒常的、連続的に常時生起しているものではない。 そしてそれと同時にまた、衝動的行動の性質・機能、及び知的行動の性質・ 機能は、行為の全ての性質・機能にくまなく浸透しそれらをすべて残らず包 括・統合してもいないし、少なくともそれらの中の主要なものに浸透しそれ らを包括し統合もしていない。また、衝動的行動の性質・機能は、ただ単に、 行為における有機体的な条件、しかも、その中の生得的にしてかつ生理学的 情動的であるような限られた条件や要素しか包括し統合していないし、また 表現していない。そしてまた、衝動的行動の性質・機能は、有機体外の客観 的諸条件とそれが引き起こした有機体内の諸条件、つまり習慣的なものも知 的なものも包括していない。 一方、知的行動の性質・側面は、行為における客観的な意味体系の操作と しての性質・機能を主として包括し統合して表現するものであるが、それが 包括し統合するところのものについて、常に、仮説的で一面的な性格のもの でしかない。 ③ 「習慣」の普遍的かつ包括的・総合的な性格 衝動的行動と知的行動との、上述のような、一時的で過渡的・断続的な在 り方ないし性格、および、一面的で部分的な在り方ないし性格に対して、習 慣的行動こそ、行為において恒常的・遍在的・普遍的そして連続的に存在し 機能するものであり、行為の諸性質・側面を、その全体において包括し統合 し表現するものである。 まさに、習慣的行動の性質の機能・側面が、文字通り全体として完全かつ 全面的に解体・混乱し、その機能を停止してしまうことはあり得ない。行為 が存在するところには、それが如何なる種類、如何なる形態の行為であれ、 そこには習慣的行動の機能が存在しており、行為の全ての性質・機能に習慣 的機能が浸透している。 衝動的行動が、習慣的行動の浸透と支配を逃れて、それを解体しあるいは
そこから逸脱するのは、ただ、習慣的行動の特殊な一部分に関して一時的に しかも他の習慣的行動の全体系の存続と機能を前提にしてのことであり、間 もなくその逸脱し氾濫した衝動的行動は、新しい習慣的行動の組織の中に吸 収・統合されてしまう。しかし、衝動的行動は、せき止められ、硬い外皮で 覆われた習慣的行動の再調整及び再組織の「基軸(pivot)」20として重要な位置 を担っていることを忘れるわけにはいかない。詳細については、紙数に限り があるので割愛する。 一方、知的行動は、ただ、極めて複雑で高度に組織化された習慣的行動を 前提としてのみ、出現・機能し存続することができる。したがって、知的行 動が習慣的行動の浸透と支配を超え出るのは、ただ、習慣的行動の特殊な一 部分に関してで一時的のことであり、しかも、他の習慣的行動の全体系・組 織の存続と機能を前提してのことであり、その存続と機能の知的な在り方を 目指してのことであって、間もなくその超え出た知的行動は、新しく再編成 された習慣的行動の組織・体系の中に、自らを体現することによって一時的 で過渡的な機能を閉じてしまう。結局、終始一貫して、存続し機能しつつ、 他の性質と機能が部分的・一時的な仕方で活動機能するのを許すか支持し、 そうした活動と機能を新たな組織および体系へと吸収し統合することによっ て発達するのは習慣的行動のみである。 以上のように、衝動的行動と知的行動は、習慣的行動の破たんを機会とし て生まれた「双子の兄弟(the twin)」として「相対立し補完する」関係にある21。 解放された衝動的行動は、知的行動の「機会」となり端緒となるとともに、 さらに知的行動に「一定の方向」と推進力を与える。衝動的活動から分化・ 独立した知的行動は、解体された古い習慣的行動の諸成分に注目し、これを 組織し配列し直し、衝動的行動の運動の目標を明確に定めそれに対象を与え ることによって、再び衝動的行動を組織し秩序立て習慣化する。知的行動は、 衝動的行動の反省的・知的傾向―「独創性(originality)」22―にその起源をもつ ものであり、自らの目標を成す事物を明確に意識した衝動的活動力である。 結局のところ、知的行動とは、習慣的行動の内に含まれている知的な要素の 発展で、柔軟で繊細な習慣的行動そのものを意味する。したがって、人間の 活動力は、常に習慣的行動、衝動的行動、知的行動の三要素の相互作用をな んらかの仕方で含み、そうした相互作用の統合として存在し機能する。習慣 20 ibid., p.75, p.108. 21 ibid., p.118. 22 ibid., pp.70-71.
的行動、衝動的行動、知的行動こそ、人間性の三基本要素、すなわち人間存 在の一般的特性の三要素を成すものであり、それらの相互作用こそ人間すな わち精神的存在の構造を成すものである。その中でも、習慣的行動は、あら ゆる種類、あらゆる形態の行動の全ての性質と機能に浸透し、それらを包含 し包括し、未分化な形態で混在・融合し相互作用し合っている。 ④ 全体的・総合的な人間行為の思索の出発点としての「習慣」 人間行為の全体的・総合的な、すなわち哲学的研究の基本的性格ないし特 徴については、既に、2の(1)の②「哲学的な人間行為の考察ないし思索」 で考察した。そして、その際強調したのは、そのような、全体的・哲学的な 思索ないし考察が、人間行為を、「その全体において」思索し考察する、とい うことであった。ところで、人間行為を「その全体において」考察するとは、 多種多様な行為の中の性質・機能のみを考察の関わる素材として限定し選択 するのではなくて、あらゆる種類や形態の行為の全てを、しかも、それらの 行為のあらゆる性質・機能において残らず考慮に入れつつ思索を始めるとい うことを意味する。そこで、このような人間行為の全体的・哲学的な思索及 び考察がまさにそこから始まるべき考察の適切な出発点ないし素材及び材料 には、特殊な行為の性質・機能ではなくて、あらゆる種類や形態の行為の全 てを、しかも、それらの行為のあらゆる性質・機能を残らず包含し統合し代 表しているようなものが相応しい。そして、まさにそのような普遍的・遍在 的であって、同時に包括的・統合的なものとして習慣的行動がある。習慣的 行動は、衝動的行動と知的行動を包括し統合している。衝動的行動と、知的 行動は、全体として存続し機能し続ける習慣的行動を前提として、その部分 的・局所的な機能の破たん及び停止に際して、その部分・個所に関してのみ、 発生し出現し機能する。衝動的行動は、習慣的行動の特殊な仕方での再編成 をいわば要求し続ける。一方知的行動は、そのような再編成の過程・仕方を 可能な限り具体化し、詳細な手続きないしプログラムと化し、その際の諸条 件と手段を明らかにする。衝動的行動と知的行動との、このような習慣的行 動の組織・体系の再編成の活動は、解体や機能停止を免れているところの、 残余の習慣的行動の全組織・体系によって支えられており条件づけられてい る。首尾よく再編成された習慣的行動の新しい仕方での活動とともに、衝動 的行動と知的行動の活動は終息する。このようなわけで、衝動的行動と知的 行動の出現は、人間行為においては、ただ、習慣的行動の組織・体系の再編 成の過程と結びついて、その再編成の過程に寄与することにおいてのみ、そ の意味ないし存在理由を有しているのであって、ただそれのみで、独立して
意味があるのではない。 結局、習慣的行動こそ、人間行為の全体的・哲学的な研究・考察にとって、 極めて相応しい出発点としての素材・材料である。
3 全体的・総合的(哲学的)な「習慣」研究の展開とその具体的手
順
『人間性と行為』において展開された習慣的行動についての考察について 意図ないし意識されていた方法論の側面に焦点を絞ってそのねらいと特徴を まとめると、そこには、二つの段階がある。 その第一段階は、既存の多種多様な習慣概念を包括・統合するような、よ り一層広くかつ根本的な新しい習慣概念の枠組みを仮説・構想する段階であ る。 その第二段階は、人間の前意識(潜在意識)的、さらには無意識的な行動 へと意識的反省の機能を浸透させることによって、人間行為の基底部分ない し核心部分を成すような行為の諸層に含まれる習慣的行動の性質・側面を発 見し意識化し、それによって習慣概念を深化拡大し論理的に一貫したものと する段階である。 もちろん、この二つの段階は、叙述される場所や順序によって、明白に截 然と分けられていはいない。両方の陳述と事例は混在しており容易には区別 され難い。われわれは、デューイの著作を幾つか通読してみて、彼の思考の 展開過程におけるかすかな方法的意識としてのみ、その区別を想定し確認す ることができるにすぎない。 (1) 全体的・哲学的な「習慣」の考察の第一段階 このことについては、すでに1の「人間性の理解における新しい包括的「習 慣概念」の位置」において、そのあらましを考察した。そこでの手順は、行 動様式としての「習慣」すなわち習慣的行動は、公然とあるいは時には暗黙 の仕方で注目されて、専門諸科学の研究のテーマ・対象となり、日常生活に おいて特殊な配慮の的となり、文芸や芸術においてその性質・機能が多様に 観察され描写され応用され哲学・思想史の中でその思索の主題となったとこ ろのものを、すべて残らず配慮の下に置きながら「習慣」と呼びならわされ、 「習慣」の名を負うこの多種多様な行動のあり方の全てに残らず共通して貫 徹しているような一般的な特徴を発見し指摘することであった。そして、そ れらの一般的特徴に基づいて、つまり、それらの一般的特徴を同時に満足す るような仕方で、より一層広い一般的習慣概念を構成するというものである。(2) 全体的・哲学的な「習慣」の考察の第二段階 そもそも習慣的行動は、人が、それに習熟しそれを十分に形成すると、習 慣的行動を為すにあたって、その都度その行動の詳細かつ具体的な諸過程を 意識的に注意を集中して指導しあるいは吟味しなくても十分適切な仕方で自 動的に成し遂げられるようになる。人の意識的注意は、その習熟した習慣的 行動から離れて、それを、それ自らの自動的な無意識的な機能に委ねて、目 下緊急を要する状況の知的な、すなわち習慣的行動の体系を再編するような 探究に専心従事する。かくして、十分に形成、習得された古い既成の「習慣」 の体系の上に、それら「習慣」の体系をその都度、それなりに再編成し修正 しながらではあるが、新しく形成された「習慣」が次ぎ次ぎと積み重なり付 け加わっていく。以前に形成された古い「習慣」ないし「習慣」の体系は、 その後に形成される新しい「習慣」のその形成過程の前提条件となり、その 過程を支えかつ規定する。古い「習慣」の体系は、新しい「習慣」の形成・ 習熟の過程を支えかつ規定しつつ、それ自体逆に再編成ないし再修正の働き を受けることになる。したがって、古い「習慣」あるいは「習慣」体系の古 い部分ほど、それが特殊に部分的・末梢的なものでない限り、またそれが途 中で意識的反省の機能の浸透によって、その地位に根本的な改変(再編成・ 修正)を蒙らない限り、「習慣」の体系、つまり性格の根底あるいは核心部分 を占めるものとなる。そして、後から改めてなされる意識的反省の機能によ っては、容易に浸透されず、そして分析され認識されることもなく、体系的 再編成ないし修正がなされ得ないものとなる。また、それが、いわば自己自 身であるような、自明で日常的・常軌的行動は、ほとんど意識に上らないし、 ましてや反省的に注目されたりその根拠を問われたりすることはない。とこ ろで、哲学的・全体的な「習慣」研究の第二段階のねらいは、まさにこのよ うな、前意識的あるいは無意識的な、核心部あるいは根底部に沈殿している 「習慣」、あるいは「習慣」の体系を組織的な首尾一貫した仕方で意識的反省 の下にもたらし、「習慣」に反省的意識を浸透せしめ、「習慣」を意識化し、 その特性を分析し認識・記述し、かくして「習慣」の既存の概念を一層拡大 するとともに、それを深化させ一層首尾一貫した特性の論理によって説明さ れ得るものとすることにある。そして、このようなねらいを追究するために、 哲学的・全体的な「習慣」研究が、この第二段階において、推進しなければ ならないところの具体的な手順は次の二つである。すなわち第一に、前意識 的あるいは無意識的で核心的な「習慣」あるいは「習慣」の体系を意識化し て認識するための方法を発見し組織化することである。第二に、そうした組
織的な方法・手順に則って、根底的・革新的な「習慣」を意識化し、その成 果に基づいて可能な限り一般的な新しい習慣概念を構成し提案することであ る。 ① 前意識的で無意識的な習慣的行動を意識化する方法の組織化 われわれの行為や性格の根底ないし核心をなす前意識的で無意識的な習慣 的行動を意識化する方法の形成については、『人間性と行為』や『倫理学』(1932 年)をはじめとするデューイの著作の中に、それ自体としてまとまった、体 系的な論述というようなもの―いわゆる方法論―が存在するわけではない。 彼の著作の中で、具体的な論述の展開そのものの中に含まれて、既に現実に 行使されているところの方法と方法の意識とをわれわれが、改めて注意深く 発見し、抽出し、組織立てる他に方法がないのである。ところで、方法(意 識)にみられる、根本的な方向は、われわれの―もちろん習慣的な―行動及 び生活様式からみて、それを、全くあるいは部分的に欠如していると思われ るような異質な意思ないし異常な行為あるいは生活様式に注目することであ る。そして、そのような考察の方向として、次の方法が考えられる。第一に、 一つの社会あるいは文化の規模において歴史を遡り、複雑に分化し専門化し 特殊化した意識的・制度的・計画的な行動の諸様式から、非組織的・非意図 的で、未分化のままに総体としてなされるところの習慣的行動の原初的な形 態ないし様式へと遡って、それに注目すること。その場合には、歴史学、文 化人類学、民俗学、言語学等の知見が参照される。第二に、人間個人の形成 史を遡り、意図的・計画的・組織的な性格をほとんど失って無意識的に為さ れる原初的な習慣的行動へと到達すること。この場合には、野生児の記録、 幼児研究、障がい児の事例研究、精神分析学、精神病理学等の成果や、自伝・ 伝記・日記等を参照することができる。第三に、われわれの日常普段の意識 生活に注目して明白な一定の目的意識のもとに、複雑に分化・特殊化しつつ 組織的に為されるような意図的・計画的な行動様式からほとんど意識的性格 を失って無意識的に為されるような習慣的行動の様式へと遡ること。通常は 意識に上ることが無い習慣的行動の諸過程とその内容が反省的に意識化され るのは、問題的あるいは危機的な状況に際会した場合である。異文化間接触 の機会や歴史的転換期の体験などが参照される。 ② 多種多様な習慣的行動の一般的な特性または構造の分析的指摘の手順 次に、多種多様な習慣的行動の一般的な特性または構造を分析的に指摘す る手順がくる。この手順の展開において、その根幹をなすものとして、デュ
ーイが何よりも重視することは、習慣的行動こそが人間的行動の、すなわち 人間の内的・精神的な諸能力と環境の諸条件を統合する行動の原初的な形態 である、ということである。習慣的行動を何よりもまずこのように戦略的に 位置づけて捉えるデューイの行動様式としての「習慣」理解は、人間性を哲 学的に思索することが如何にして可能なものとして構想されるかということ に関する、彼の全般的な展望と密接に結びついている。 以上のような組織的方法・手順に則って、根底的・革新的な行動様式とし ての「習慣」が意識され、その性質・機能が分析され、意識化された習慣的 行動相互の間の因果的な規定・被規定関係が考察され、それらの新しく獲得 された「習慣」の知識に基づいて、既存の習慣概念が再検討され再編成され る。発見され、意識化される「習慣」がその体系に於いて、したがってまた、 性格に及ぼす影響に於いて、根底的で革新的であればあるほど、それは、既 存の「習慣」概念の変革や修正に働く力は大きく、人間の行為の理解に及ぼ す効果は大きいものとなる。そして、前述の1の「人間性の理解における新 しい包括的「習慣」概念の位置」で、われわれが既に検討・考察したところ の、『人間性と行為』を中心とした、デューイの「習慣」概念は、いわば、彼 の方法的・意識的・組織的な行動様式としての「習慣」の意識化を目指す哲 学的な思索に根ざした、新しい可能な限り拡張された「習慣」概念の具体的 提案という意味をもつものである。
〇 おわりに
かくして、デューイにおいては、「哲学」は、日常生活の一般的・具体的な 枠組みを成す、集合的な習慣的行動様式の意識化と再構成の働きを担うもの としての「民主主義」的な「社会改革(social reform)」23を引き受けるいわば 一器官である。そして、彼がこのことを言い表したことは、前述のとおり、 それが「哲学は一般的批評である」24という表現である。この場合、「一般性」 という表現には、具体的に次のような意味が込められている。すなわち、㋐ この種の批評の主題を成す事態に含まれている価値が、日常の社会生活の特 殊な一領域に固有の限定された性格のもではなく、社会生活の他の諸領域の 事態の価値判断にも通じていて、広く決定的な影響を及ぼしているような種 類の一般的・根本的な性格のものであるということ。そして、㋑この種の批 評がその方法において、究極的な、すなわち当該社会の一般的な生活様式、23 John Dewey, EXPERIENCE AND NATURE, p.307. 24 ibid., p.298.
及びそれと連続している成員諸個人の人生についての望ましい在り方という 形式をとった価値の観念を仮説的に提案し、その価値に基づいて既存の生活 領域的・特殊専門的な諸価値を改めて根本的に評価すること。㋒特殊専門的 な二、三の諸科学に限らず、現存する諸科学の最善の知見を可能な限り幅広 く動員しつつ、その手順の過程についての客観的な議論が可能であるような 仕方で批評を展開すること、である。 哲学的思索それ自体を、まさにこのような具体的な課題ないし働きを担っ たもの、一般的批評の活動へと「再構成」、「改造」することは、デューイに おいては、社会規模において人々の日常生活の習慣的行動の諸過程を根本的 に再構成し、彼らの生活経験の具体的な充実を実現しようとする企図とは相 互に連動している。日常生活の習慣的行動過程を、人生の核心、生活経験の 重要な舞台として注目することと反省的経験とその成果を「より豊かで人間 味のあるもの」25にし、自然化すること、すなわち哲学に「実践的要素(practical element)」26を導入することとは、そこでは、表裏の関係にある。 25 ibid., p.28. 26 ibid., p.324.