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ザクセンの土地制度(1)

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《研究ノート》

ザクセンの土地制度(1)

松  尾  展  成

(岡山大学名誉教授)      

第1節 はじめに

 本稿の対象地域は「ザクセン」である.第一次大戦敗戦後の旧ザクセン邦は,ドイツ第二帝政下のザク

セン王国(下記)を継承した邦である.ドイツ民主共和国がドイツ連邦共和国(ともに,第二次大戦敗戦

後に戦勝国による占領期を経て,1949年に独立)に併合された(1990年)後に,成立した新ザクセン邦は,メー

クレンブルク・フォールポメルン邦およびブランデンブルク邦とともに連邦共和国最東部に位置するけれ

ども,歴史的には「ザクセン」は中部ドイツ東部と呼ばれてきた.連邦共和国のザクセン邦とバイエルン

邦およびチェコ共和国の3国国境地点から北東方向に延びる,エールツ山地とラウジツ山地を南部境界と

する「ザクセン」は,政治史上,2地域に区分される.第1は,西のザーレ川(エルベ河の西側支流)か

らエルベ河本流を東に少し越えて,プルスニツ川(エルベ河の東側支流である黒エルスター川の東側支流)

までの地域であり,第2は,上記プルスニツ川から東のクヴァイス川(オーデル河の西側支流)までの地

域である.上記ザーレ川より西方は主として,1485年に成立したヴェティーン家エルンスト系領邦国家(下

記)と,それから派生したテューリンゲン諸邦(詳細省略)であった.上記クヴァイス川より東方のシュ

レージエンは,14世紀からベーメン王国(ベーメン国王は,15世紀末からハンガリー国王を兼ね,王朝交

代後の1526年からは神聖ローマ皇帝とハンガリー国王を兼ねていた)の一部であり,1741年の占領以後に

はプロイセン王国の1州であった.新ザクセン邦は西部で主として連邦共和国の新テューリンゲン邦およ

びザクセン・アンハルト邦と,北部でザクセン・アンハルト邦およびブランデンブルク邦と,東部でポー

ランド共和国と,そして,南部でチェコ共和国(本稿との関連で言えば,旧ベーメン王国)と,接している.

 (Ⅰ)「ザクセン」の上記第1の地域は,大体において,10世紀後半にフランク王国東部,テューリンゲ

ンのハレ(ザーレ)市近郊,ヴェティーン城から興り,周辺地域で地歩を固めたヴェティーン家が,11世

紀末にマイセン辺境伯となって以来,次第に領域支配権を拡大して,ほぼ全域を支配するようになった

地域である.1422年に神聖ローマ帝国の選帝侯に昇格した同家の領邦は,1485年に兄エルンストのザクセ

ン選帝侯国と弟アルベルトのザクセン公国に分割された.後者,アルベルト系のザクセン公は,シュマル

カルデン戦争(1546 47年)で旧教側の皇帝に加担して,皇帝軍勝利直後に選帝侯に昇格し(新教シュマ

ルカルデン同盟軍の有力者であったエルンスト系領邦君主は,このとき選帝侯位と広大な領土をアルベル

ト系に譲った),さらに,フランス皇帝ナポレオンと同盟して,1806年に国王に昇格した.アルベルト系

ザクセン選帝侯国成立以後の領土の主要部分は,ザクセン史上,Kreis(後の同種官庁と区別するために,

旧県と訳す)に区分された旧県地域(Kreislande)あるいは本領地域(Erblande)と名付けられている.本

稿はこの地域を旧本領地域(旧県数7)と呼ぶ.ところが,ザクセン王国は,成立して間もなく,対ナポ

レオン戦争を終結させたヴィーン会議(1815年)の決定に基づいて,北隣の主要戦勝国,プロイセン王国

などに領土の約6割

(1)

を割譲した.このように縮小したザクセン王国(王国

(2)

と略記)が,本稿の主

要な対象地域である.

(2)

 このとき王国から失われたのは,旧本領地域の北部および西部の広大な領域と両辺境伯領の大部分(下

記)である.本稿は,旧本領地域中の1815年以後の残存部分(エールツゲビルゲ旧県とフォークトラント

旧県の殆ど全部,および,マイセン旧県とライプツィヒ旧県の南部)を単に本領地域と呼ぶ.本領地域の

北部境界は,旧国境よりも遥かに南方に移って,商業都市ライプツィヒの少し北から東にジグザグに走る

境界である.また,西部境界は,旧国境よりも東方に移って,白エルスター川(ザーレ川の東側支流)と

プライセ川(白エルスター川の東側支流)に,ほぼ沿って南北にジグザグに走る境界である.ただし,本

領地域の内部には,領邦君主が強い支配権を及ぼしえない,いくつもの領域があった.その最大のものは

高位貴族シェーンブルク家の旧神聖ローマ帝国封,後の協定所領であり,同家協定所領が王国の地方行政

制度としての郡(Amtshauptmannschaft)に編成されたのは,郡の創設(1873年)の5年後

(3)

であるが,

本稿は協定所領と,本領地域内で一定の独自性を保っていた,その他の領域も,本領地域(1878 80年の

3県[Kreishauptmannschaft]22郡にほぼ照応)と見なす.

 (Ⅱ)上記第2の地域は,ザクセン選帝侯が1635年にベーメン国王から世襲封として獲得した,オーバー・

ラウジツ辺境伯領(OL伯領と略記)とニーダー・ラウジツ辺境伯領であり,1815年以後には,前者の北部(約

6割)と後者の全部がプロイセンに割譲されたために,OL伯領の南部(約4割)のみである.この残存

地域を本稿は小ラウジツ(1873年以後の1県4郡にほぼ照応)と呼ぶ.

 第二次大戦敗戦後の「ザクセン」を大略で見ると,

(1)旧ザクセン邦に,1815年にプロイセンのシュレー

ジエン州に編入されたOL伯領北部,ゲルリツ,旧ホヤスヴェルダとローテンブルクの3郡(Kreis)を合

わせた領域が,民主共和国下の中間的統治機構の一つ,ラント・ザクセンとなった.本稿はこの3郡を旧

領3郡と名付け,この旧領3郡と本稿の小ラウジツを合わせた地域を,大ラウジツと呼ぶ.ただし,大ラ

ウジツは,旧領3郡中のゲルリツ郡とローテンブルク郡の,そして,本稿の小ラウジツ中のツィタウ郡の,

ナイセ川(上記クヴァイス川よりも西側のオーデル河支流)以東部分を含まず,OL伯領よりも狭い

(4)

これら3郡のナイセ川以東地域は,ポーランド共和国の東部国境と西部国境が,1945年のポツダム協定に

基づいて西方に大幅に変更された結果として,ポーランド領となったからである.

 (2)民主共和国の全6ラント(東ベルリーン市を含む)は1952年に廃止され,中央政府直結の15ベツィ

ルク(東ベルリーン市を含む)に編成された.ラント・ザクセンの地域は3ベツィルク,すなわち,ドレー

スデン,カルル・マルクス・シュタット(その中心都市は名称変更以前と現在のケムニツ市)とライプツィ

ヒとなった.そのとき,第1に,旧領3郡のうち,旧ホヤスヴェルダ郡(旧郡はその後,南部の新ホヤス

ヴェルダ郡と北部のゼンフテンベルク郡に分割された)とローテンブルク郡はベツィルク・コトブスに編

入され,ゲルリツ郡はベツィルク・ドレースデンの北東部に編入された.第2に,1815年にプロイセンの

ザクセン州に編入された,トルガウ郡(かつてのマイセン旧県の一部)の大部分,アイレンブルク郡(主

として,かつてのライプツィヒ旧県の一部)の一部分とデーリチュ郡(かつてのライプツィヒ旧県の一部)

が,主としてベツィルク・ライプツィヒの北部に編入され,また,第一次大戦までテューリンゲン諸邦の

一つ,ザクセン=アルテンブルク公領であったアルテンブルク郡が,同ベツィルクの西部に編入された.

 (3)ドイツ再統一の後に,ドレースデンなど3ベツィルクは,新ホヤスヴェルダ郡(ゼンフテンベル

ク郡はブランデンブルク邦の一部となった)とローテンブルク郡(改称・分割・統合は省略)をも加えて,

新ザクセン邦となった.ただし,アルテンブルク郡は新テューリンゲン邦に移った.

 以上の領域変動の結果として,1946年のラント・ザクセンの面積は王国=旧ザクセン邦よりも,また,

1952年の関連3ベツィルクは1946年のラント・ザクセンよりも,さらに,新ザクセン邦は1952年の3ベツィ

ルクよりも,いくらか広い.それぞれの面積は,王国=旧ザクセン邦が1880年に14,993

(5)

,3ベツィル

クは1952年に17,000

(6)

,1989年にはドレースデン6,738,カルル・マルクス・シュタット6,009,ライプツィ

(3)

ヒ4,966

(7)

(合計17,713),そして,新ザクセン邦は2018年に18,450平方キロメートル

(8)

である.

 なお,本稿の主題について一言する.卓越したザクセン史家K. ブラシュケは,ザクセン土地制度史

(sächsische Agrarverfassungsgeschichte)が,12世紀のドイツ人の植民から19世紀の改革に至る,約7世紀

間の統一体であり,荘園領主制の廃止をもって終結する

(9)

,と主張している.F. リュトゲは,エルベ河

をおおよその境界として,近世ドイツの土地制度を西部の荘園領主制と東部の農場領主制に区分する通説

に依拠した上で,荘園領主制の一亜種としての中部ドイツ荘園領主制を提唱したが,ブラシュケの上記用

語法は,農場領主制に傾斜した王国東部=OL伯領を除く,王国西部=本領地域における,中部ドイツ荘

園領主制のザクセン的形態,および,ドイツ人植民以後の,それの先駆形態を指している.本稿は,「ザ

クセン」,すなわち,本領地域とOL伯領

(10)

,の土地制度を,初発から市民的土地改革(1832年起点)以

後まで概観しようとする試みである.ただし,1815年以後については考察を王国に限定する.

第2節 市民的土地改革までのザクセン本領地域の土地制度

 市民的土地改革までのザクセン本領地域の土地制度を,ブラシュケの所説を中心として,概観しよう.

7世紀から旧本領地域とOL伯領に定住していたゾルブ人は,少数に過ぎなかった.彼らは不規則で小規

模な方形耕地で木製鉤状犂を用いて,不規則穀草式農法に従って農業を営んでいたが,この犂で耕作可能

な黄土地域は比較的狭かったからである.また,彼らの大多数は人身的自由を制限され,貴族=戦士に対

して貢租と賦役を賦課されていた.ここを10世紀にフランク王国が征服した後,12 13世紀に,フランド

ルを含むドイツ本国各地から多数のドイツ人が,ここに移住してきた.ドイツ人農民は粘土質土壌の広大

な森林を,これ以上の農民地の拡大を許さないほどに,開拓し,規則的で大規模な長方形耕地(村落耕区)

において鉄製有輪犂と三圃式農法によって生産力を向上させた.彼らは純粋型荘園領主制の下にあり,保

有地1フーフェ(1フーフェ=30アッカー,1アッカー=0.2767ヘクタールと見なすと,約8.3ヘクタール

となる)の世襲権と人身的自由を与えられ,荘園領主に対して僅かな現物・貨幣貢租を負担するだけで,

賦役義務は殆どなかった.小規模な領主農場は奉公人(農民と比較して極めて少数であった)とゾルブ人

によって経営された.それに対して,ゾルブ人はかつてとほぼ同じ状態にあり,ドイツ人農民よりも重い

貢租を,さらに,領主農場のための賦役を,賦課されていた.もっとも,ドイツ人が圧倒的多数を占める

ようになった旧本領地域では,ゾルブ人の賦役義務は残存したが,彼らの人身的不自由は15世紀までに消

滅した

(1)

 しかし,中世後期,1500年頃になると,旧本領地域の土地制度は激変していた.賦役義務がゾルブ人か

ら,人口の圧倒的多数を占めるドイツ人にも拡大して,領民の賦役に基づく領主農場=騎士領が形成され

ていたのである.騎士領が特に15世紀後半に形成された地域は,主として,ゾルブ人が比較的多い北部平

地であり,南部のエールツ山地とその北麓地域では,騎士領は16世紀以後に形成された.その結果として,

旧本領地域における,植民以来の純粋型荘園領主制は,ゾルブ人に課されていた賦役に影響されて,16世

紀に中部ドイツ荘園領主制に転換された.この転換の原因は,一方では,中世後期における貨幣経済の発

展に伴う生活水準の向上と貨幣価値の下落が,荘園領主の貢租収入を実質的に減少させ,他方では,都市

人口の増加とエールツ山地における鉱山業の発展によって,農産物販売の機会が拡大し,領主による農産

物生産・販売を,そして,領民の賦役に基づく領主直営地の拡張を,刺激したことである.賦役の導入は

上からの圧力,当時としては在地高権,によってのみ可能となったはずである.先ず,荘園領主は征服以

後の城伯の裁判権と植民以後の村落共同体の自治権を殆ど奪って,自らの裁判権に融合させ,1400年頃ま

でに家産(下級)裁判権を築き上げた.次に,確立しつつある領邦国家は,管区(Amt)によって直接的

(4)

に支配する管区領民と同じように支配するために,1500年頃までに荘園を,その領民に対する行政・警察・

徴税の国家機関とした.両者の混合から在地高権が形成され,それに支えられて,賦役が導入され,騎士

領が完成した.さらに次の事情が加わった.下級貴族=荘園領主が大きな役割を果たす身分制議会が,租

税同意権を持つ機構として,ヴェティーン家領邦の分割(上記)以前の15世紀央に既に整備されてきた.

政策遂行に必要な現金収入の増加を目指す領邦君主は,身分制議会から租税徴収の同意を得るために,土

地貴族に譲歩し,領主=領民関係の変容に介入しなかった

(2)

 旧本領地域における中部ドイツ荘園領主制の特質は,一方では,荘園と在地高権の結合および騎士農場

の小規模性(ほぼ50 100ヘクタール.これは,1フーフェ=約8.3ヘクタール[上記]と見なすと,約6 12フー

フェとなる),他方では,領民の世襲保有地に課された,一般的には比較的軽微な諸負担(賦役,現物・

貨幣貢租,領主放牧権)と領民の人身的自由であった.ただし,後者の中の移動の自由は,17世紀央の奉

公人令とその後の規制強化によって一定程度,制限された.なお,ラス用益地(Laßgut)は,村落耕区に

属さない土地に対する,農村住民の追加的な利用形態として,16世紀に出現はしたものの,後述のOL伯

領と異なって,極めて稀であった.領主による農民地没収について見ると,1500年以後の本領地域でそれ

は農民地の4 5%を占めただけである(後出第2表参照).それ以上の農民地没収は,農民側の抵抗によっ

て,特に16世紀央以後は領邦国家の農民保護政策によって,大体において阻止された.したがって,中部

ドイツ荘園領主制にとって領邦君主の農民保護政策が規定的であった.もっとも,旧本領地域の荘園全体

が騎士領の形態を示していたわけではなく,1500年頃には,全農村住民の約7割が騎士領の支配下にあり,

残りの約3割はその他の荘園所有者に属していた.後者は領邦君主,宗教財団,市参事会などであり,そ

れらの荘園では,一方では,領民諸負担の中心は,ドイツ人農民の植民期に定着した,比較的軽微な現物・

貨幣貢租であったが,他方では,これらの荘園(領邦君主以外)も騎士領と同じように在地高権と結合し

ていた.しかし,15世紀末以後に,騎士領以外の荘園所有者(上記領邦君主など)と,勃興した都市市民

が,既に完成した騎士領を獲得した場合には,獲得以前の諸関係,特に賦役,はそのまま維持された.そ

して,騎士領の購入,修道院領の没収などの結果として,18世紀には本領地域のほぼ5割が,領邦君主を

荘園領主とする管区村落となっていた

(3)

 ここで3点を補足する.(1)騎士領所有者からの圧力によって導入された奉公人奉公強制は,法定期

間に限って,農村子弟の移転の自由を制限した.また,農場経営の拡大と集約化に伴って,騎士領所有者

は,領民の畜賦役と手賦役を増徴したばかりでなく,経営様式の改善あるいは革新から生じた,新たな作

業を領民に賦課した.それは,耕地への施肥の改良,亜麻・大麻・ホップのような工業用作物の栽培,馬

鈴薯と,家畜の厩舎飼養を可能にするクローバー,のような,18世紀に初めて一般化する新種作物の栽培,

のための労働であった.新種作物の場合には,農業技術の進歩が領民賦役の強化と結び付いていた

(4)

 (2)農民の土地利用権を制限する,農民地での領主放牧権も領主制的諸負担の一つであった.この権

利は,農民の休閑地での羊放牧によって,市場向け羊毛大量生産の可能性を,したがって,経営面積の拡

大なしに収益増大の可能性を,騎士領所有者に与えた.特に18世紀に,農民も馬鈴薯とクローバーを休閑

地で栽培するようになると,放牧権は不法な辛苦から進歩の障害となった.そのために,この権利を巡っ

て,ザクセン近世土地制度史上,最も多数で,最も激しい対立が生じた.――以上の賦役と領主放牧権は

領主農場においてのみ問題となったから,それらは,一方における,騎士領に服属する領民と,他方にお

ける,領主経営を持たない荘園に所属する領民,の領主制的諸負担の差異を拡大させた

(5)

 (3)一方で農村人口が増大し,他方でフーフェ農民は増加しえないために,園地農と小屋所有者(Häusler.

小屋住農から改訳)が16世紀央から増加した.第1に,彼らは荘園領主から,給付義務ある農用地を僅か

しか,あるいは,全く,与えられておらず,したがって,荘園領主制に僅かしか,あるいは,全く,依存

(5)

していなかったけれども,在地高権を把持する荘園領主は,その高権的強制力によって,経済的には僅か

しか,あるいは,全く,領主に従属していない両社会層から,諸貢租を,そして,賦役さえ,要求した.

領主は,出現した,無所有の間借人にも保護金を支払わせ,時には,賦役を強制した.第2に,園地農は

僅かしか,また,小屋所有者は殆ど,自家農業に従事しなかった.農民経営は一般に自家労働力と奉公人

で十分であり,領主農場は,50 300ヘクタール(約6 36フーフェ)の規模に過ぎず,主として領民の賦役

と奉公人によって経営された.そのために園地農と小屋所有者は非農業部門,村落手工業,村落商業など

に主として従事し,彼らの増加は,農村=農業と都市=商工業の分業に基づく,旧来の社会=経済構造を

変化させた

(6)

 ブラシュケの数値に依拠すれば,農民が1946年のラント・ザクセン(本領地域と大ラウジツ.以下同じ)

の農村住民全体に占める比率は,1100年と1300年の100%から1550年の73%を経て,1750年の38%に,そ

して,1843年には遂に20%に減少した.農村の非定住者(間借人と奉公人)のそれも19%(1550年)から

13%(1750年)に,そして,8%(1843年)に縮小した.それに対して,「園地農+小屋所有者」の比率

は7%(1550年)から48%(1750年)に,そして,遂には71%(1843年)にまで増加した(ただし,1550

年の数値は大ラウジツを含まない).この園地農と小屋所有者は一般的には農村工業の担い手であった

(7)

 園地農と小屋所有者は,出現した16世紀には,半数以上の村落で存在しなかったが,本領地域西南部に

は比較的多かった.1750年になると,事態は大きく変化していて,園地農と小屋所有者がいない村は最早

なかった.しかし,彼らの分布には地域によって著しい差違があった.南西部高地の彼らの高い比率,し

ばしば75%以上の比率は,近世の開発の結果であり,森林が大抵は純粋の園地農・小屋所有者集落に変わっ

(8)

.それに対して,農業が主産業である北部平地では,園地農と小屋所有者は大ラウジツの北部と同

じように騎士領の農業労働者であった

(9)

第3節 市民的土地改革までのオーバー・ラウジツ辺境伯領の土地制度

(1)世襲隷民制

 次に,OL伯領(面積5,870平方キロメートル

(1)

あるいは約5,900平方キロメートル

(2)

)の土地制度を

検討しよう.当地域の経済史研究に当たっては,地域区分が重要である.第1に,ブラシュケは,村落

と耕区の形態から,西のケーニヒスブリュク市からディーザ(Diehsa)村を経て,東のロートヴァサー

(Rothwasser.現ポーランド領)村までの東西線を境界として,大ラウジツを南北に二分できる,そして,

南北2地域は人口密度の格差にも表れた,と述べている.すなわち,1843年の郡別人口密度表において,

「1平方キロメートル当たり人口50人」を基準として,50人以下は北部,50人以上は南部である

(3)

.この

基準から見ると,北部はホヤスヴェルダとローテンブルクの2郡であり,南部はバウツェン,ゲルリツ,

カーメンツ,ラウバン,レーバウとツィタウの6郡である.ただし,①カーメンツ郡の郡域は,主として

上記東西線の北側にあったけれども,同上表の人口密度が70人であるから,南部に区分されたのであろう.

②「北部」の中でホヤスヴェルダ(Hoyerswerda),ムスカウ(Muskau. ローテンブルク郡)とゲルリツの

3市周辺の原野では鉄工業が盛んであった(後述参照),と記されている

(4)

.同上表で人口密度62人のゲ

ルリツ郡は,南部に区分されているはずであるが,ここでは南部と北部の用語法が混乱している.第2に,

J. ショウタは,OL伯領のうち,1815年以後のプロイセン領2郡(ゲルリツとラウバン)およびザクセン

領ラウジツ4郡を南部としている

(5)

から,ホヤスヴェルダとローテンブルクの2郡が北部に当たる.こ

の点でブラシュケとショウタは,大ラウジツがラウバン郡を含まないことを除いて,一致している.しか

し,筆者は,OL伯領を郡で区分する場合には,北部に区分されている上記2郡以外に,バウツェン郡(同

(6)

上表の人口密度93人),ゲルリツ郡とカーメンツ郡も北部と考える.これら3郡の広範な郡域があの東西

線の北側にあったからである.したがって,南部は,東西線以南で,人口密度124人以上のラウバン,レー

バウとツィタウ(181人で,最高)の3郡となる.また,筆者は,引用文献に提示された騎士領と村落の

所在地を,HOSとSchumannによって確認した後,後の所属郡ではなく,上記東西線を基準として,北部

と南部に区分した.ただし,騎士領は,騎士領の所在する村落によって,南北に区分したが,騎士領バー

ルート(Baruth)のように,所属村落が南北両地域に跨がっている場合があった.

 本題に戻ると,旧本領地域に対してOL伯領ではゾルブ人の比率が高かった

(6)

.ドイツ人の植民活動が

終了した中世盛期に,ゾルブ人の法的地位がいくらか向上したけれども,この地域の土地制度は,概略だ

けを見ると,中世後期には旧本領地域とは極めて異質なものとなっていた.ゾルブ人ばかりでなく,ドイ

ツ人にとっても,非常に不利な世襲隷民制が,すなわち,農村住民の人身的自由を侵害する権限と結び付

いた,荘園領主の強力な領民処分権が,あるいは,農場領主制

(7)

が,形成されていたのである.

 この転換には当地域特有の事情があった.ドイツ国制史上,ニーダー・ラウジツ辺境伯領とともに特例

をなすOL伯領は,フランク王国による征服以来,常住の領邦君主を持たず,他地域の領邦君主がここを

属領として外部から支配した.その領邦君主は,しばしばの交代の後,本稿で問題となる15世紀末から,ベー

メン国王(その地位について本稿第1節第1段落参照)であり,1635年からザクセンの領邦君主であった.

そして,常住しない領邦君主は,ラント代官を通じて統治したが,領邦君主がラント代官に賦与した統治

権限は,極めて小さかった.領邦君主による直接的支配の欠如の結果として,OL伯領は,下級貴族=騎

士領所有者の支配する身分制議会が,事実上殆ど無制限の統治権を掌握した,「土地貴族の封建的=身分

制的共和国」となった.すなわち,身分制議会は立法権・法令解釈権,徴税権と官職提案権をほぼ独占し

ていた.しかも,この議会は,領邦君主によって,通常は5年に1度,招集されたが,そればかりでなく,

領邦君主の関与なしに,1年に3回,定期的に開催された

(8)

.このように権限を甚だしく制約されてい

た領邦君主は,旧本領地域におけるような農民保護政策を実施しえなかった

(9)

 こうした土地貴族の政治的優位を背景として,OL伯領の近世土地制度を特徴付ける世襲隷民制が形成

されていった.それの遥かな起源はフランク王国による征服とゾルブ人の従属にあった.この従属関係は,

人身的自由を持つドイツ人農民が,中世盛期に数多く流入したために,ゾルブ人にいくらか有利に変化し

(10)

.しかし,16世紀には,旧本領地域の場合とほぼ同じ前提条件の下で,土地領主の地位が極めて強

力となっていた.先ず,ベーメン王国の農場領主はフス戦争(1419 1436年)とその余波によって農民か

ら著しい打撃を受けたが,その領主によって起草され,農民に対する無制限の権力を領主に与える法典が,

ハンガリー王国統治に注力しているベーメン国王によって,1500年に認可された.そして,この法典が,

ベーメン王国の属領であったOL伯領にも,適用された.次に,身分制議会に参加し,土地貴族と一定程

度対抗しうる「六大都市」は,1534年のプラハ協定において,都市に逃亡した領民の,旧領主への引渡し

に同意した.さらに,1539年の領邦令は領主の許可状なき領民の騎士領領域離脱を禁止し,その規定は

1597年に再確認された.1621年になると,賦役の増徴に反抗する農民運動の高揚に対して派遣された神聖

ローマ皇帝特使が,特許状を裁定した.この特許状はOL伯領における慣習法を,そして,領主が「この

地方に通例の賦役」を要求する権利を,是認した.最後に,新しい領邦君主となって,既に1635年と1642

年にOL伯領の特殊的地位と慣習法を承認していたザクセン選帝侯は,1651年の領邦令,いわゆる隷民令,

を公布した.OL伯領身分制議会によって起草された,この隷民令によれば,第1に,世襲隷民はその出

生地の領主に対して人身的に不自由であり,生きた付属物として騎士領に緊縛された.第2に,領主は,

前領主の許可状なき者を自己の領地に定住させてはならなかった.第3に,領主は,一方では,領民の意

志に反して世襲隷民を非世襲的なラス用益地から追放しうるし,他方では,ラス用益地への定住を,また,

(7)

拡大した領主地への重い耕作賦役を,世襲隷民に強制しえた.こうして,OL伯領の世襲隷民制が完成した.

1651年隷民令の規定は以後,しばしば強化された

(11)

 世襲隷民制の法制化に加えて,15世紀に騎士領所有者の家産(下級)裁判権が,領邦君主と村落共同体

の裁判権を駆逐しつつ,警察権を伴って,確立した.また,1562年にはベーメン国王から全ての領主は,

旧本領地域の領主と異なって,上級裁判権を獲得した.これ以後,領主は上級裁判権を梃子として,ドイ

ツ人領民をゾルブ人と同じように隷属させた

(12)

 領主の農業大経営は,厩舎などで常時利用可能な,多くの奉公人を必要としていたので,世襲隷民制は

奉公人奉公強制令としても制定された.旧本領地域(既述)よりも遥かに早く,1493年のOL伯領身分制

議会決議に基づいて,農村の全ての奉公人はその世襲領主の許で奉公すべきであった.1539年の上記領邦

令は隷民子弟に対する領主の優先雇用権を認め,最高賃金を定めた.この優先雇用権を一部の領主は奉公

強制に転換した.奉公人関連規定は,1597年以後しばしば強化され,遂に1767年に至った.すなわち,同

年の奉公人令は,小屋所有者・余所者を含む,全ての奉公人に対して,領主が労働を強制しうる,と規定

した.また,法定賃金は,鋳貨悪鋳と物価騰貴にも拘わらず,実質的に最低となった

(13)

 三十年戦争(1618 48年)で荒廃した農民地の再建に際して,領主はその一部でもって領主直営地を拡

大し,他の部分を,家屋,家畜,農具,種子などを付けて,賦役義務あるラス用益民(Lassit)の定住の

ために利用し,あるいは,土地の引受を領民に強制した.このような世襲隷民制の成立・発展とともに,

ドイツ人もラス用益民とされ,法的地位におけるゾルブ人とドイツ人の区別は消滅した.こうして,三十

年戦争後には,一般的に農村住民は,身分的には,騎士領の生きた付属物として土地に緊縛された世襲隷

民に圧服され,土地との関係では,ラス用益地の非世襲的用益権のみを与えられ,重い賦役を課された,

常時追放可能なラス用益民に,階層としては特に零細農,園地農と小屋所有者に,押し下げられた

(14)

農場領主制が完成したのである.

 このように強力な特権と権限に基づいて,あるいは,それらの拡大につれて,騎士領所有者は領主直営

地を拡張した.W. ベールケによれば,ドイツ人植民の時期に10フーフェ(≒600モルゲン)程度

(15)

であっ

た領主直営地は,徐々に拡大した.第1に,領主は15世紀に村落共同体の共同地を収奪した.第2に,土

地所有権を持たないゾルブ人が,14世紀末から土地を領主に奪われ始めた.第3に,土地所有権を持って

いたドイツ人農民も,土地貴族が1562年に上級裁判権を容認されて以来,土地から追放されるようになっ

た.三十年戦争後には,1651年の上記隷民令と,特に「領民買上げ」(=領民地の強制買上げ)に関する「決

定」(1672年)に基づいて,戦争で荒廃した農民地の没収と農民追放が実施された

(16)

 騎士領の面積は,ベールケによれば,18世紀に平均約2,000モルゲンであった(上記東西線の北部1と

南部6の騎士領は1,300から2,900モルゲンまでで,それを単純平均すると,1騎士領約1,900モルゲンとな

る).また,19世紀の4事例(旧クヴァイス郡→ラウバン郡,南部)で騎士領は800から2,700モルゲンま

でであった

(17)

(1騎士領の平均面積は約1,900モルゲンと算出される).さらに,ショウタに基づけば,19

世紀初めにOL伯領全体の概数で領主地は425を,農民地(共同地などを含む)は349を,占めていた(農

民利用地の大部分はラス用益権の下にあった,と考えられるけれども,農民地・農民所有と一応呼んでお

く).したがって,以上合計は774

(18)

(単位は千モルゲン.ショウタの単位はシェッフェルであるが,1

モルゲン=1シェッフェルと見なす)で,内訳は領主地55%対農民地45%となる.

 農民追放に伴って既存の領主直営地が拡大されたばかりではなく,騎士領が新設された.そのために,

身分制議会出席権を持つ騎士領の数が,1620年の224から1800年には410に激増した.そして,後者中の

271が小ラウジツにあった

(19)

 領主農場の拡大に伴う,農村住民の諸負担の変化を,OL伯領で特徴的な賦役に注目して,概観しよう.

(8)

中世には,領主直営地は狭く,その生産は市場向けではなく,領主の自家需要のためであった.そのため

に,ドイツ人による征服以来,隷属状態にあり,利用する土地の所有権を持たないゾルブ人農民が,領主

に対して課されていた賦役も,13世紀までは年に数日を超えなかった.また,ドイツ人農民の賦役は,植

民直後も16世紀初めにも,同じで,年に数日であった

(20)

.しかし,領主は,特に16世紀から,領主地で

市場向けに生産する

(21)

ようになり,拡大した領主地の耕作のための労働力を必要とした.領主はゾルブ

人をラス用益民に転化し,彼らの賦役を年に数日から週に数日に引き上げた.1562年に上級裁判権を獲得

した農場領主は,領民の裁判に際して,ドイツ人にも刑罰を任意に科しうるようになったために,罰金よ

りも騎士農場での労働を判決した.したがって,この側面から見れば,農場領主制は1562年にほぼ完成し

た.16世紀には週に2 3日の賦役が一般的な不確定賦役と見なされていたけれども,領主経営の拡大に

つれて賦役は重くなった.H. クノーテによれば,賦役増徴に抵抗して,訴訟を起こした,レシュヴィツ

(Leschwitz)など8村(主として南部)の領民に対して,確定賦役を証明できない領民は,「この地方に

通例の賦役」の義務を負う,と1566年に判決された.17世紀央になると,賦役はさらに重くなり,「この

地方に通例の賦役」として領主は,毎日(1週に6日)の賦役を要求しうる,と1651年に判決された

(22)

(告

訴した村は不明であるが,判決は同年の上記隷民令に基づくであろう).

 七年戦争(1756 1763年)は農村住民に大きな被害をもたらした.しかし,OL伯領では,領邦君主が農

民保護政策を実施できなかったにも拘わらず,領主に対する領民の訴訟と賦役拒否の影響もあって,この

時期には農民追放は大規模には実施されず,農民地の数はほぼ維持された.一部の領主農場では経営革新

が,すなわち,休閑地でのクローバー・馬鈴薯の栽培と家畜の厩舎飼養が,進み,厩肥の運搬などに必要

となった新規労働を,領主は領民に賦役として要求した.また,領主による休閑地栽培の拡大とともに,

共同地放牧権が領民に制限された.以上の事態は,程度の差はあるとしても,旧本領地域と相似していた.

領民は過重な賦役のために自身の経営を改善できなかったので,領民の経済的地位はさらに悪化した

(23)

 長期に亘る,同一村の農民賦役の変化(増徴)をペータースハイン(Petershain)村(北部)についてJ. メー

ルベは記している.同村では1495年に,フーフェ農は連畜賦役を,園地農は手賦役を,年に8日のみ義務

づけられていた.クノーテの解釈では,賦役義務の低さから,同村領民はドイツ人で,土地所有権を持っ

ていた.1519年にも,この「確定」賦役は同じであった.しかし,1756年には,全ての同村領民の土地は

ラス用益地となっていた.そして,農民は領主農場のために,穀物,乾草などの全ての連畜運搬を,仲仕

付きで果たすべきであった.園地農と小屋所有者も,脱穀などの,毎日の賦役を義務づけられていた

(24)

 ベールケが示した,18世紀後半の7所領の階層別賦役一覧

(25)

から,農民について主要部分のみを略記

すると,第1表①ガウスィヒ

(26)

(Gaußig),②ラメナウ(Rammenau),③クロスタウ(Crostau),④オーバー・

第1表 農民の週当たり賦役日数(18世紀後半と1810年) 地域 18世紀後半 1810年 ①騎士領ガウスィヒ所属2村(南部) 3−4日 2−4日(2) ②騎士領ラメナウ(南部) 主として6日 ③騎士領クロスタウ所属4村(南部) 5−6日 ④騎士領オーバー・マルシュヴィツ(南部) 6日 ⑤騎士領グタウ(北部) 3日 ⑥騎士領ブレーザ(北部) 3−6日 ⑦SHケーニヒスブリュク1村(北部) 6日(1) ⑧騎士領バールート所属3村(南部) 毎日 ⑨騎士領グレーディツ所属3村(南部) 殆ど毎日 ⑩騎士領クリクス所属1村(北部) 毎日 ⑪騎士領ミルケル所属4村(北部) 毎日 (注1)18世紀前半の所領中の1村の日数.知られている,他の1村では年に22日.(注2)3村の日数.

(9)

マルシュヴィツ(Obermalschwitz),⑤グタウ(Guttau),⑥ブレーザ(Brösa),⑦高位貴族所領(SHと略記)

ケーニヒスブリュク(Königsbrück)のとおりであった(②,④−⑥は村数不明).また,ショウタによる,

1810年の5騎士領所属14村の賦役一覧から,農民賦役の日数のみを表示すると,第1表①ガウスィヒ,⑧

バールート

(26)

,⑨グレーディツ(Gröditz),⑩クリクス(Klix),⑪ミルケル(Milkel)のとおりであった

(27)

(これらの村々の住民の階層構成は後出第5表参照).

 このように,18世紀後半−19世紀初めに関して知られている賦役は,⑦SHケーニヒスブリュクの1村(18

世紀前半)における,年に22日の賦役(第1表(注1))を除けば,南部でも北部でも,極めてしばしば

毎日であった.

(2)農村住民の階層構成

 これらの賦役,厳密に言えば,賦役を含む農場領主制的諸負担,を負担した農村住民の階層構成は,時

期的にどのように変化したか.ブラシュケによれば,大ラウジツを含むラント・ザクセンの農村人口は,

15世紀央まで農民と極めて少数の奉公人のみであった

(1)

.したがって,大ラウジツの農村住民も農場領

主制の成立以前には農民のみであった.他方で,クノーテなどによれば,フランク王国による征服以前に

も,貴族=戦士への貢租義務を負ったゾルブ人農民の他に,領主地での手賦役を課されたゾルブ人園地農

が存在し,征服以後にも存続した

(2)

.しかし,園地農の数値をクノーテなどは提示していないし,奉公

人は極めて少数であったので,本稿はブラシュケに依拠して,両階層を無視する.

 先ずは農民.領主直営地の拡大に伴って,中世盛期から18世紀までに,地域によって差異はあるけれど

も,ベールケによれば,農民フーフェの数は約33%だけ減少した

(3)

第2表 ラント・ザクセンの農民地数と農民人口(1300­1843年) 年 本領地域 大ラウジツ 農民地合計 農民人口 1300年 [44,945(100%)] [19,055 (100%)] 64,000[100%] 320,000人[100%] 1550年 43,150 [96%] [13,850] [ 73%] 57,000[ 89%] 287,000人[ 90%] 1750年 42,787 [95%] [ 7,213] [ 38%] 50,000[ 78%] 250,000人[ 78%] 1843年 42,787 [95%] [ 7,213] [ 38%] 50,000[ 78%] 250,000人[ 78%]

 第2表は,ラント・ザクセンの農民地合計と農民人口および本領地域の農民地数に関する,ブラシュケ

の数値と,それに基づく,筆者の推計値,[ ](以下同じ.計算値を含む)を示す.ブラシュケによれ

ば,ラントの農民地合計と農民人口はドイツ人の植民終了以降,絶えず減少した.また,1834年の数値は

1750年と同じである

(4)

.ブラシュケは,綿密な史料調査を通じて,1500年から1750年までの期間に本領

地域の農民地の少なくとも3%が農民追放によって領主地に転換された,と実証し,農民追放は最高で農

民地の5%に及んだであろう,と推定している

(5)

.第2表によれば本領地域の1750年の農民地は1550年

の99.16%に相当する.したがって,1550年を基準にした減少幅は,0.84%であり,全期間の減少部分を

最大の5%と見なすと,残りの減少部分は4.16%となる.この4.16%の農民地は,騎士領の拡大が顕著で

あった,(恐らく1500年から)1550年までの時期に,農民から奪われた,と想定される.そのために,本

領地域の1500年(あるいは1300年)の農民地数は1550年のそれの104.16%,すなわち,44,945となる.し

たがって,大ラウジツの1500年(あるいは1300年)の農民地数は(64,000 44,945=)19,055で,1550年の

それは(57,000 43,150=)13,850となる.以下同様である.また,1300年を基準とした,各年の比率が[%]

の数値である.これを見れば,大ラウジツでは,1300年の農民地数と比較して,1550年にはその73%が,

1750年には僅か38%が,存在したに過ぎない.すなわち,第2表によると,大ラウジツの農民地数の減少

幅はベールケの主張よりも遥かに大きく,62%に達したことになる

(6)

(10)

 次に農村下層.1550年になると,本領地域の農村と同じように,大ラウジツの農村にも園地農と小屋所

有者が出現した.1550年の大ラウジツの農村人口に占める「園地農+小屋所有者」の比率は,ブラシュケ

によれば,不明であるけれども,本領地域(7%――第2節)よりも高かったであろう.1750年頃には

大ラウジツの同上比率は極めて高かった

(7)

.そのうち,大ラウジツ北部は,本領地域北部と同じように,

農業地域であった.ゾルブ人が多い北部平地では,農業の労働力需要は殆ど変化せず,工業も発達しなかっ

たので,人口増加率は低かった.ここにおける園地農と小屋所有者は,本領地域および南部ラウジツと異

なって,工業的発展によってではなく,本領地域とは異なる土地制度,農場領主制,の発展の結果と見な

されるべきである.領邦君主(の農民保護政策)に制御されない土地領主が,大規模農業生産に突き進み,

農民地の一大部分を領主地に転換し,農村住民を世襲隷民に押し下げた.したがって,園地農と小屋所有

者の多くはここでは領主農場の日雇あるいは賦役労働者であった.ただし,北部の中でも,高位貴族所領

のある旧ホヤスヴェルダ郡などでは,園地農と小屋所有者の比率がやや低かった.小規模騎士領が農民を

最も激しく追放した.それに対して,ゾルブ人の少ない南部高地は,既に産業革命以前に農村麻織物工業

地域であり,工業の発展のために人口が激増した.北部で過剰となったゾルブ人は,(隷民令に基づく土

地緊縛規定に違反して,)都市と工業的南部に移住し,そこで圧倒的なドイツ人に吸収された

(8)

 1777年のラウジツ農村部についてはブラシュケは「園地農+小屋所有者」の郡別比率を示している.す

なわち,大ラウジツ7郡の数値の低い順に,旧ホヤスヴェルダ郡52%,カーメンツ郡55%,ローテンブル

ク郡67%,ゲルリツ郡68%,バウツェン郡70%(以上本稿の北部),ツィタウ郡78%,レーバウ郡80%,

ラウバン郡83%(本稿の南部)であった.それに対して,本領地域全体では同比率は36%に過ぎなかった

(9)

 農村人口の階層構成をやや具体的に見よう.ベールケは,いずれも北部のSHケーニヒスブリュク①11

15村とSHムスカウ②22 40村のうち,全ての対象時期に検証可能な10村について,⒜16世紀央,⒝17世紀

後半と⒞1780年頃の農民,園地農と小屋所有者の1村当たり平均人数を掲げている.さらに,⒟1810年頃

についての①⒟は10村の,②⒟は40村の,数値を筆者が⒜−⒞に繋いで,作成したものが第3表である

(10)

したがって,⒟の村々と⒜−⒞の村々は一致してはいない.

第3表 北部の2高位貴族所領,各10村における農村住民の階層構成(16世紀央-1810年頃) 所領 時期 農民 園地農 小屋所有者 総数 ① SHケーニヒスブリュク

16世紀央  14.2人[83%] 3.0人[17%]  0人[ 0%] [17.2人,100%] ⒝17世紀後半 14.0人[57%] 8.0人[33%] 2.5人[10%] [24.5人,100%] ⒞1780年頃  12.0人[47%] 5.6人[22%] 8.0人[31%] [25.6人,100%] ⒟1810年頃  13.9人[55%] 3.1人[12%] 8.3人[33%] [25.3人,100%] ②SHムスカウ

16世紀央  14.7人[67%] 2.0人[ 9%] 5.2人[24%] [21.9人,100%] ⒝17世紀後半 10.0人[52%] 2.8人[14%] 6.6人[34%] [19.4人,100%] ⒞1780年頃  8.7人[49%] 2.5人[14%] 6.7人[37%] [17.9人,100%] ⒟1810年頃  8.8人[44%] 3.0人[15%] 8.0人[40%] [19.8人,100%]

 第3表によれば,⒜から⒞までの2世紀余りの期間について,大略で見ると,①⒞の住民総数は⒜の約1.5

倍に増加した.それに対して,②では住民総数は一貫して減少し,⒞は⒜の8割となった.階層別には,先ず,

実数として,農民はこの間に絶えず減少し,⒞は①で⒜の85%であり,②では59%であって,②の減少率

が遥かに大きかった.園地農の実数は,①の⒝で⒜より著しく,②でやや,増加し,その後に減少したと

しても,いずれも⒞は⒜よりも大きかった.すなわち,⒜に対して⒞は①で1.9倍に,②で1.3倍に増加した.

小屋所有者は②でかなり増加し,①で激増した.①の⒝と比較しても,⒞は3倍を超えており,②の⒞は

⒜の1.3倍であった.次に,住民総数中の比率は,農民について見ると,①でも②でも一貫して減少したが,

①の比率の低下,36%は②の18%の2倍であった.園地農の比率は,②で9→14→14%とやや上昇したけ

(11)

れども,①では17→33→22%とジグザグに推移した.小屋所有者の比率は②で⒜24%から⒞37%(1.5倍)

に上昇し,①では⒜0%から⒞3割強に急上昇した.⒟については,対象村落が⒜−⒞とは完全には一致

しないので,比率のみを⒞と比較しよう.農民の比率は①では8%上昇し,②では5%低下した.園地農

は①で10%低下し,②で1%上昇し,小屋所有者は①で2%,②で3%上昇した.以上に関して,①⒝に

おける園地農比率の急上昇が,また,①⒟における農民比率の相当の上昇が,何に起因するか,は不明で

ある.なお,第1に,ベールケが本節(2)(注11)の個所で示した,1750年の①15村の数値は,第3表

①⒞と異なるけれども,⒟の時点までに農民数が増加した事情は同じである.ベールケは,18世紀末に「SH

ケーニヒスブリュク(第3表の①である)の園地農を除いて,農村の全所有者群は…増加した」と述べて

いる

(11)

が,農民数増加の原因には言及していない.第2に,②で小屋所有者の比率が既に⒜の時期に高

いのは,ラウジツ北部の一部(ムスカウ周辺など)と南部の一部(ゲルリツ周辺)における製鉄業の発展

と関連していた.そのために,鍛工業集落が建設され,園地農と小屋所有者が定住していたのである

(12)

 第3表の数値は,⒟を除いて,対象村落が同じであり,期間が2世紀半と長いために,貴重であるとし

ても,OL伯領を特徴付ける数値とは見なしえないであろう.農民数の減少率は,既述のように,ベール

ケによれば3割強であり,ブラシュケの数値から計算(第2表)すれば,6割強であったけれども,第3

表の2SH,特にSHケーニヒスブリュクでは,農民数が殆ど変化しなかったからである.

 第3表のように長期に亘るものではなく,1777年のみについてであるが,ショウタは,OL伯領最大の

封建領主である,高位貴族所領(SH)4,宗教財団所領3と市参事会所領(RHと略記)3に所属した,

都市

(13)

の家屋数と357村以上(部分所有を含む)の住民階層構成を示している

(14)

.当時,領邦君主が所

有していたホヤスヴェルダは,ここでは管区と記されているけれども,歴史的経緯から,ブラシュケなど

(15)

に倣って,SHと見なす.ただし,SHザイデンベルク(Seidenberg)(1市10村)では,都市の家屋と農村

住民の合計912のみが示され,後者の階層構成が示されていない.それに対して,A. クンツェは同じ1777

年の数値として,上記ザイデンベルクを含むSH3の3区分農村住民数を挙げている

(16)

.そのうち,ショ

ウタのそれと僅かに異なる,1SHの数値を無視し,SHザイデンベルクの数値のみをショウタの数値に加

えて,合計と比率を計算し,農民の比率の高さの順に配列したものが,第4表である(第4表では,これ

らの所領に所属する,7市の家屋,合計1,591戸が除かれている).

 巨大所領10のうち,第1に,北部の3SHが①,②と③であり(本表の②と③は第3表の①と②である),

南部のSHが④である.第2に,バウツェン司教座聖堂参事会(Domstift)所領(Domバウツェンと略記)

⑤は主として北部に,マリーエンタール修道院所領(KHMタールと略記)⑦は主として南部にあり,マリー

エンシュテルン修道院所領(KHMシュテルンと略記)⑥は北部と南部に分散していた.第3に,北部の

第4表 巨大所領10所属農村住民の階層構成(1777年) 所領 村落 農民 園地農 小屋所有者 合計 ①SHホヤスヴェルダ(北部) 30 601人[56%] 152人[14%] 326人[30%] 1,079人[100%] ②SHケーニヒスブリュク(北部) 15 179人[51%] 84人[24%] 86人[25%] 349人[100%] ③SHムスカウ(北部) 46 364人[43%] 153人[18%] 330人[39%] 847人[100%] ⑥KHMシュテルン(北部・南部) 61 555人[31%] 264人[15%] 997人[55%] 1,816人[100%] ⑨RHゲルリツ(北部) 67 668人[28%] 769人[33%] 914人[39%] 2,351人[100%] ⑧RHバウツェン(北部) 48 180人[25%] 240人[34%] 288人[41%] 708人[100%] ⑤Domバウツェン(北部) 26 218人[15%] 216人[15%] 1,007人[70%] 1,441人[100%] ⑦KHMタール(南部) 21 324人[15%] 305人[14%] 1,541人[71%] 2,170人[100%] ④SHザイデンベルク(南部) 10 101人[14%] 154人[22%] 452人[64%] 707人[100%] ⑩RHツィタウ(南部) 33 426人[12%] 569人[15%] 2,686人[73%] 3,681人[100%] ⑪10巨大所領合計 357 3,616人[24%] 2,906人[19%] 8,627人[57%] 15,149人[100%] ⑫ラント・ザクセン(18世紀央) [44%] [56%] [100%]

(12)

2RHが⑧と⑨

(17)

であり,南部のRHが⑩である.第4に,巨大所領10の合計

(18)

が⑪である.第5に,最

下段⑫は,時期はいくらか早いけれども,ラント・ザクセンの参考値である.大ラウジツを含むラント・

ザクセン人口の階層構成は,ブラシュケの数値

(19)

から農村のみで計算すれば,18世紀央に農民=38%,

「園

地農+小屋所有者」=48%,農村の非定住者=13%であった(既述).したがって,農村の非定住者を除

いた数値は,農民=44%,「園地農+小屋所有者」=56%と算出される.これが⑫の数値である.

 巨大所領10の合計⑪では,農民の比率は住民全体の24%に過ぎず,園地農の比率はそれより5%小さく,

小屋所有者が全体の57%に達していた(「園地農+小屋所有者」は76%).⑪を⑫と比較すると,農民追放

が激烈であった小規模騎士領の数値を含まない巨大所領10でも,⑪の農民比率は⑫より2割低く,した

がって,⑪の「園地農+小屋所有者」の比率は⑫より2割高かった.北部の3SHは,農村数では,⑪農村

全体の25%を占めるけれども,住民数は15%に過ぎないのに対して,南部の3所領(RH⑩,SH④とKH⑦)

の合計は,農村数で⑪農村全体の18%,すなわち,北部の3SHの7割に過ぎないけれども,住民数は北部

の3SHの3倍に近い43%に達していた.

 それぞれの所領を概観すると,第1に,農民の比率は①と②のSHでのみ⑫よりも高く,③SHで⑫より

も僅かに低かった(②と③の比率が第3表のSH①⒞およびSH②⒞と異なるのは,対象村数の違いによる).

それに対して,他の7所領では,農民の比率は⑫より遥かに低く,同比率最低の⑩に至っては,⑫の3割

弱であった.第2に,園地農の比率は,高い⑨と⑧で領民全体の約33%で,他の8所領では最低14%,最

高24%であった.第3に,小屋所有者の比率の増加は農民の比率の減少と明確に対応しているわけでは

ないが,その比率は最高の⑩73%から最低の②25%までであった.それは北部の3SHで低く(4割以下),

⑥(55%)と北部の2RH(約4割)を挟んで,他の巨大所領4では6割を超えていた.第4に,「園地

農+小屋所有者」の比率は,低い順に,北部の3SHが44%から57%まで,その他の7所領が70%から88%

までであった.この低さの順位は,当然のことながら,農民の比率の高さの順位と一致する.以上から明

らかになるように,一方における,北部のSH3,特に①および②(農民の比率が5割以上)と,他方にお

ける,他の7巨大所領,とりわけ農民の比率が12 15%の4所領(⑤,⑦,④と⑩),では,農村住民の階

層構成が大きく異なっていた.

 ショウタはまた,1810年に6騎士領に所属した計17村について,1農民当たりの園地農と小屋所有者の

数を挙げている

(20)

.その中で,ガウスィヒなど3村(後のバウツェン郡域でも南部の「工場村落」に最

も近い

(21)

),など3騎士領計9村(南部)を③に,その他の3騎士領8村(北部)を④に区分して,比率

を計算したものが,第5表の③と④である.ベールケ

(22)

も,18世紀後半のいくつかの騎士領所属村落に

第5表 11騎士領所属住民の階層構成(18世紀後半と1810年) 地域 年 農民 園地農 小屋所有者 合計 ① ラメナウ村 1746年 17人[25%] 28人[41%] 24人[35%] 69人[100%] ガウスィヒなど12村 1769年 22人[13%] 60人[36%] 85人[51%] 167人[100%] クロスタウなど5村 1781年 11人[10%] 60人[56%] 37人[34%] 108人[100%] オーバー・マルシュヴィツなど4村 1786年 15人[16%] 26人[27%] 55人[57%] 96人[100%] バールートなど17村 1778年 88人[25%] 118人[34%] 146人[41%] 352人[100%] ② グタウなど3村ブレーザ村 1786年1788年 10人[16%]4人[19%] 26人[41%]11人[52%] 27人[43%]6人[29%] 63人[100%]21人[100%] ③ ガウスィヒなど3村 1810年 1人[ 5%] 4人[22%] 13.7人[73%] 18.7人[100%] バールートなど3村 1810年 1人[13%] 2.5人[32%] 4.3人[55%] 7.8人[100%] グレーディツなど3村 1810年 1人[13%] 2.3人[31%] 4.2人[56%] 7.5人[100%] ④ クリクス村 1810年 1人[14%] 2人[27%] 4.3人[59%] 7.3人[100%] ミルケルなど4村 1810年 1人[12%] 0.5人[ 6%] 7.16人[83%] 8.66人[100%] ブラウナなど3村 1810年 1人[28%] 0.82人[23%] 1.82人[50%] 3.64人[100%]

(13)

ついて農村住民の階層構成を示している.その中の7騎士領43村の数値を第5表①(南部の5騎士領39村)

と②(北部の2騎士領4村)に掲げる(これらのうち10騎士領の農民賦役は第1表に表示した).

 第5表の③と④(1810年)によると,農民と小屋所有者の比率は③より④が概して高かった.ただし,

③と④の6群の中で,(1)④のブラウナ(Brauna)など3村では農民の比率が最も高く,小屋所有者の

それが最も低かった.(2)④のミルケルなど4村では園地農の比率が最も低く,小屋所有者のそれが最

も高かった.(3)③のガウスィヒなど3村では農民の比率が極めて低かった.18世紀後半(①のラメナ

ウ村だけは18世紀央)では,①と②の7群で農民と園地農の比率に顕著な相違は見られないが,小屋所有

者の比率は②よりも①が概して高かった.30−40年を隔てた両群,①と③,および,②と④を比較しよう

とすると,比較は,同じ騎士領ガウスィヒとバールートに所属する村落に限定されるべきであろう.その

場合でも,①と③では村数が異なるので,判断は非常に慎重でなければならないが,この期間に両騎士領

所属村落で農民の比率が,ガウスィヒ所属村落では園地農のそれも,顕著に低下し,小屋所有者の比率が

顕著に上昇した,と言えるのではなかろうか.

 さらに,1815年にプロイセン領となった1市8村を除く,KHMシュテルンの53村について,1市(農

民10人+家屋所有者260人)も除いて,ショウタから1810年の住民の階層構成を第6表

(23)

に表示する.

その場合,同修道院からかなり離れていて,この地域に領主農場がなかった

(24)

,南部の8村(①とする)

と,①を除く,北部の45村(②とする.部分所有の13村を含み,領主農場6があった)を区分し,合計と

比率を計算した.

第6表 Mシュテルン修道院所領住民の階層構成(1810年) 地域 農民 園地農 小屋所有者 合計 ①南部の8村 135人[17%] 144人[18%] 509人[66%] 788人[100%] ②北部の45村 260人[30%] 163人[19%] 432人[51%] 855人[100%] 計(53村) 395人[24%] 307人[19%] 941人[57%] 1,643人[100%]

 第6表によれば,②の農民の比率は①よりも2倍近く高く,反対に,①の小屋所有者の比率は②よりも

1.3倍近く高い.北部と南部での3階層間のこの関係は第4表の南北間の関係とほぼ同じである.ただし,

第6表の①+②の合計数(53村)を第4表⑥(30年余り前の61村)の数値と比較すると,対象地域がいく

らか狭くなった中で,園地農はかなり増加していたが,住民総数と小屋所有者はやや,そして,農民は7

割余に,減少していた.比率では,園地農と小屋所有者に変化は殆どないが,農民は7%減少していた.

同修道院では農民追放は殆ど実施されなかった(後述),とされるにも拘わらず,僅か30年余りの期間に,

なぜこれほど農民の実数が減少し,その比率が低下したのであろうか.この数値の差異にショウタは言及

していない.

 第7表はショウタから,北部3村住民の階層構成を18世紀後半と40年余り後について示す.

 騎士領ラーディボール(Radibor)所属の,同名の村①では,1800年を挟む40年余りの期間に,住民数

が急増した中で,完全農民(ラス用益民と考えられる)が激減し,園地農と小屋所有者が激増した.かつ

ての完全農民10人の土地は細分化されて,その畜賦役は消滅し,残る2人の農民の畜賦役も賦役代納金に

転換されていた.大園地農の一部は賦役代納金を支払い,他の部分(かつては完全農民と見なされていた)

と小園地農は週に5日の手賦役を課されていた.この時期に初めて出現した,領主地の小屋所有者を含め

て,小屋所有者が急増し,彼らの多くも重い手賦役を課されていた.このように,畜賦役の一部は賦役代

納金に,一部は手賦役に転換されていたが,手賦役は全て維持されていた.これは騎士農場の経営転換に

照応していた.騎士農場における投資(農具と役畜),畜賦役の解消と関連する完全農民の駆逐,手賦役

(14)

義務の維持,および,小屋所有者(騎士農場のための日雇層)の増加が,既に18世紀末以降に当村で見ら

れた.

 それに対して,いずれも騎士農場が存在しないクロストヴィツ(Crostwitz)村②(KHMシュテルン所属)

とヘーフライン(Höfl ein)村③(同上修道院など3人の領主に所属)では,第7表の1820年の園地農は部

分フーフェ農(Teilbauer)を含んでいるが,この時期に住民数は殆ど変化せず,その階層構成も,②村に

おける園地農の実数の増加と比率の上昇(7%),および,小屋所有者の実数の減少と比率の低下(6%)

を除けば,農民の実数と比率を含めて,殆ど変化しなかった

(25)

第7表 北部3村住民の階層構成(1777年と1820年) 村 年 完全農民 園地農 小屋所有者 合計 ①ラーディボール村 1777年 12人[25%] 7人  [15%] 29人  [60%] 48人[100%] 1820年 2人[ 2%] 19人(1)[21%] 68人(3)[76%] 89人[100%] ②クロストヴィツ村 1777年 19人[28%] 8人  [12%] 42人  [61%] 69人[100%] 1820年 18人[26%] 13人(2)[19%] 38人  [55%] 69人[100%] ③ヘーフライン村 1777年 6人[27%] 6人  [27%] 10人  [45%] 22人[100%] 1820年 6人[24%] 7人(2)[28%] 12人  [48%] 25人[100%] (注1)大園地農9人,小園地農10人.(注2)部分フーフェ農・園地農. (注3)打穀人小屋所有者6人,小屋所有者49人と領主地の小屋所有者13人.

 次に,クンツェ論文から南部の5個別事例を挙げる.

 グロース・シェーナウ(Großschönau)村(RHツィタウ所属で,大織布工村落の一つ)では,第8表

(26)

に示した約150年間に,間借人を除いた,②の[3者合計]人口が,①の3.9倍に激増した.その過程で,

②の[3者合計]に占める,農民と園地農の比率はそれぞれ①の3割以下に低下したけれども,農民の実

数は全く変化せず,園地農は僅かに増加した.変化しなかった農民35人の中では,(完全)フーフェ農が

ほぼ半減し,部分フーフェ農が増加した.また,②の小屋所有者は実数で①の10倍以上に,比率で2.7倍に,

激増した.さらに,②の間借人は実数で①の2倍以上に増加したけれども,間借人を含む(総人口)に占

める,その比率は,①の7割に低下した.総人口が3.4倍に増加したためである.ただし,当村に関しては,

18世紀央以後の数値がない.

第8表 織布工村落グロース・シェーナウ住民の階層構成(1587­1730年) ①1587年  ②1730年  馬4頭所有農民 18人 フーフェ農   10人  馬3頭所有農民 7人 9ルーテ農   11人  馬2頭所有農民 10人 半フーフェ農   14人 農民計 35人(人口245人,30%)〈45%〉   35人(人口 245人, 9%)〈12%〉 園地農 27人(人口135人,17%)〈25%〉   30人(人口 150人, 6%)〈 7%〉 小屋所有者 33人(人口165人,21%)〈30%〉  346人(人口1,730人,62%)〈81%〉 [3者合計]    [95人〈人口545人,100%〉]     [411人〈人口2,125人,100%〉] 間借人 64人(人口256人,32%)  154人(人口616人,23%) (総人口) 801人(100%) 2,741人(100%)

 オーバー・オーダーヴィツ(Oberoderwitz)村の階層別人数(騎士領ハイネヴァルデ[Hainewalde]所属部分,

1739年)は第9表のとおりであった

(27)

 第9表によれば,1739年にオーバー・オーダーヴィツ村では,間借人を除いた[3者合計]の中で,農

民は2割を占め,園地農は1割以下であり,小屋所有者は7割を超えていた.間借人を含めた〈4者総計〉

の中では,農民は14%を,園地農は5%を,小屋所有者が5割を,間借人が3割を,占めていた.ただし,

この数値は1年のみのものであり,前後の推移が不明である.

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