中世には,領主直営地は狭く,その生産は市場向けではなく,領主の自家需要のためであった.そのため
に,ドイツ人による征服以来,隷属状態にあり,利用する土地の所有権を持たないゾルブ人農民が,領主
に対して課されていた賦役も,13世紀までは年に数日を超えなかった.また,ドイツ人農民の賦役は,植
民直後も16世紀初めにも,同じで,年に数日であった
(20)
.しかし,領主は,特に16世紀から,領主地で
市場向けに生産する
(21)
ようになり,拡大した領主地の耕作のための労働力を必要とした.領主はゾルブ
人をラス用益民に転化し,彼らの賦役を年に数日から週に数日に引き上げた.1562年に上級裁判権を獲得
した農場領主は,領民の裁判に際して,ドイツ人にも刑罰を任意に科しうるようになったために,罰金よ
りも騎士農場での労働を判決した.したがって,この側面から見れば,農場領主制は1562年にほぼ完成し
た.16世紀には週に2 3日の賦役が一般的な不確定賦役と見なされていたけれども,領主経営の拡大に
つれて賦役は重くなった.H. クノーテによれば,賦役増徴に抵抗して,訴訟を起こした,レシュヴィツ
(Leschwitz)など8村(主として南部)の領民に対して,確定賦役を証明できない領民は,「この地方に
通例の賦役」の義務を負う,と1566年に判決された.17世紀央になると,賦役はさらに重くなり,「この
地方に通例の賦役」として領主は,毎日(1週に6日)の賦役を要求しうる,と1651年に判決された
(22)
(告
訴した村は不明であるが,判決は同年の上記隷民令に基づくであろう).
七年戦争(1756 1763年)は農村住民に大きな被害をもたらした.しかし,OL伯領では,領邦君主が農
民保護政策を実施できなかったにも拘わらず,領主に対する領民の訴訟と賦役拒否の影響もあって,この
時期には農民追放は大規模には実施されず,農民地の数はほぼ維持された.一部の領主農場では経営革新
が,すなわち,休閑地でのクローバー・馬鈴薯の栽培と家畜の厩舎飼養が,進み,厩肥の運搬などに必要
となった新規労働を,領主は領民に賦役として要求した.また,領主による休閑地栽培の拡大とともに,
共同地放牧権が領民に制限された.以上の事態は,程度の差はあるとしても,旧本領地域と相似していた.
領民は過重な賦役のために自身の経営を改善できなかったので,領民の経済的地位はさらに悪化した
(23)
.
長期に亘る,同一村の農民賦役の変化(増徴)をペータースハイン(Petershain)村(北部)についてJ. メー
ルベは記している.同村では1495年に,フーフェ農は連畜賦役を,園地農は手賦役を,年に8日のみ義務
づけられていた.クノーテの解釈では,賦役義務の低さから,同村領民はドイツ人で,土地所有権を持っ
ていた.1519年にも,この「確定」賦役は同じであった.しかし,1756年には,全ての同村領民の土地は
ラス用益地となっていた.そして,農民は領主農場のために,穀物,乾草などの全ての連畜運搬を,仲仕
付きで果たすべきであった.園地農と小屋所有者も,脱穀などの,毎日の賦役を義務づけられていた
(24)
.
ベールケが示した,18世紀後半の7所領の階層別賦役一覧
(25)
から,農民について主要部分のみを略記
すると,第1表①ガウスィヒ
(26)
(Gaußig),②ラメナウ(Rammenau),③クロスタウ(Crostau),④オーバー・
第1表 農民の週当たり賦役日数(18世紀後半と1810年)
地域 18世紀後半 1810年
①騎士領ガウスィヒ所属2村(南部) 3−4日 2−4日(2)
②騎士領ラメナウ(南部) 主として6日
③騎士領クロスタウ所属4村(南部) 5−6日
④騎士領オーバー・マルシュヴィツ(南部) 6日
⑤騎士領グタウ(北部) 3日
⑥騎士領ブレーザ(北部) 3−6日
⑦SHケーニヒスブリュク1村(北部) 6日(1)
⑧騎士領バールート所属3村(南部) 毎日
⑨騎士領グレーディツ所属3村(南部) 殆ど毎日
⑩騎士領クリクス所属1村(北部) 毎日
⑪騎士領ミルケル所属4村(北部) 毎日
(注1)18世紀前半の所領中の1村の日数.知られている,他の1村では年に22日.(注2)3村の日数.
マルシュヴィツ(Obermalschwitz),⑤グタウ(Guttau),⑥ブレーザ(Brösa),⑦高位貴族所領(SHと略記)
ケーニヒスブリュク(Königsbrück)のとおりであった(②,④−⑥は村数不明).また,ショウタによる,
1810年の5騎士領所属14村の賦役一覧から,農民賦役の日数のみを表示すると,第1表①ガウスィヒ,⑧
バールート
(26)
,⑨グレーディツ(Gröditz),⑩クリクス(Klix),⑪ミルケル(Milkel)のとおりであった
(27)
(これらの村々の住民の階層構成は後出第5表参照).
このように,18世紀後半−19世紀初めに関して知られている賦役は,⑦SHケーニヒスブリュクの1村(18
世紀前半)における,年に22日の賦役(第1表(注1))を除けば,南部でも北部でも,極めてしばしば
毎日であった.
(2)農村住民の階層構成
これらの賦役,厳密に言えば,賦役を含む農場領主制的諸負担,を負担した農村住民の階層構成は,時
期的にどのように変化したか.ブラシュケによれば,大ラウジツを含むラント・ザクセンの農村人口は,
15世紀央まで農民と極めて少数の奉公人のみであった
(1)
.したがって,大ラウジツの農村住民も農場領
主制の成立以前には農民のみであった.他方で,クノーテなどによれば,フランク王国による征服以前に
も,貴族=戦士への貢租義務を負ったゾルブ人農民の他に,領主地での手賦役を課されたゾルブ人園地農
が存在し,征服以後にも存続した
(2)
.しかし,園地農の数値をクノーテなどは提示していないし,奉公
人は極めて少数であったので,本稿はブラシュケに依拠して,両階層を無視する.
先ずは農民.領主直営地の拡大に伴って,中世盛期から18世紀までに,地域によって差異はあるけれど
も,ベールケによれば,農民フーフェの数は約33%だけ減少した
(3)
.
第2表 ラント・ザクセンの農民地数と農民人口(13001843年)
年 本領地域 大ラウジツ 農民地合計 農民人口
1300年 [44,945(100%)] [19,055 (100%)] 64,000[100%] 320,000人[100%]
1550年 43,150 [96%] [13,850] [ 73%] 57,000[ 89%] 287,000人[ 90%]
1750年 42,787 [95%] [ 7,213] [ 38%] 50,000[ 78%] 250,000人[ 78%]
1843年 42,787 [95%] [ 7,213] [ 38%] 50,000[ 78%] 250,000人[ 78%]
第2表は,ラント・ザクセンの農民地合計と農民人口および本領地域の農民地数に関する,ブラシュケ
の数値と,それに基づく,筆者の推計値,[ ](以下同じ.計算値を含む)を示す.ブラシュケによれ
ば,ラントの農民地合計と農民人口はドイツ人の植民終了以降,絶えず減少した.また,1834年の数値は
1750年と同じである
(4)
.ブラシュケは,綿密な史料調査を通じて,1500年から1750年までの期間に本領
地域の農民地の少なくとも3%が農民追放によって領主地に転換された,と実証し,農民追放は最高で農
民地の5%に及んだであろう,と推定している
(5)
.第2表によれば本領地域の1750年の農民地は1550年
の99.16%に相当する.したがって,1550年を基準にした減少幅は,0.84%であり,全期間の減少部分を
最大の5%と見なすと,残りの減少部分は4.16%となる.この4.16%の農民地は,騎士領の拡大が顕著で
あった,(恐らく1500年から)1550年までの時期に,農民から奪われた,と想定される.そのために,本
領地域の1500年(あるいは1300年)の農民地数は1550年のそれの104.16%,すなわち,44,945となる.し
たがって,大ラウジツの1500年(あるいは1300年)の農民地数は(64,000 44,945=)19,055で,1550年の
それは(57,000 43,150=)13,850となる.以下同様である.また,1300年を基準とした,各年の比率が[%]
の数値である.これを見れば,大ラウジツでは,1300年の農民地数と比較して,1550年にはその73%が,
1750年には僅か38%が,存在したに過ぎない.すなわち,第2表によると,大ラウジツの農民地数の減少
幅はベールケの主張よりも遥かに大きく,62%に達したことになる
(6)
.
次に農村下層.1550年になると,本領地域の農村と同じように,大ラウジツの農村にも園地農と小屋所
有者が出現した.1550年の大ラウジツの農村人口に占める「園地農+小屋所有者」の比率は,ブラシュケ
によれば,不明であるけれども,本領地域(7%――第2節)よりも高かったであろう.1750年頃には
大ラウジツの同上比率は極めて高かった
(7)
.そのうち,大ラウジツ北部は,本領地域北部と同じように,
農業地域であった.ゾルブ人が多い北部平地では,農業の労働力需要は殆ど変化せず,工業も発達しなかっ
たので,人口増加率は低かった.ここにおける園地農と小屋所有者は,本領地域および南部ラウジツと異
なって,工業的発展によってではなく,本領地域とは異なる土地制度,農場領主制,の発展の結果と見な
されるべきである.領邦君主(の農民保護政策)に制御されない土地領主が,大規模農業生産に突き進み,
農民地の一大部分を領主地に転換し,農村住民を世襲隷民に押し下げた.したがって,園地農と小屋所有
者の多くはここでは領主農場の日雇あるいは賦役労働者であった.ただし,北部の中でも,高位貴族所領
のある旧ホヤスヴェルダ郡などでは,園地農と小屋所有者の比率がやや低かった.小規模騎士領が農民を
最も激しく追放した.それに対して,ゾルブ人の少ない南部高地は,既に産業革命以前に農村麻織物工業
地域であり,工業の発展のために人口が激増した.北部で過剰となったゾルブ人は,(隷民令に基づく土
地緊縛規定に違反して,)都市と工業的南部に移住し,そこで圧倒的なドイツ人に吸収された
(8)
.
1777年のラウジツ農村部についてはブラシュケは「園地農+小屋所有者」の郡別比率を示している.す
なわち,大ラウジツ7郡の数値の低い順に,旧ホヤスヴェルダ郡52%,カーメンツ郡55%,ローテンブル
ク郡67%,ゲルリツ郡68%,バウツェン郡70%(以上本稿の北部),ツィタウ郡78%,レーバウ郡80%,
ラウバン郡83%(本稿の南部)であった.それに対して,本領地域全体では同比率は36%に過ぎなかった
(9)
.
農村人口の階層構成をやや具体的に見よう.ベールケは,いずれも北部のSHケーニヒスブリュク①11
15村とSHムスカウ②22 40村のうち,全ての対象時期に検証可能な10村について,⒜16世紀央,⒝17世紀
後半と⒞1780年頃の農民,園地農と小屋所有者の1村当たり平均人数を掲げている.さらに,⒟1810年頃
についての①⒟は10村の,②⒟は40村の,数値を筆者が⒜−⒞に繋いで,作成したものが第3表である
(10)
.
したがって,⒟の村々と⒜−⒞の村々は一致してはいない.
第3表 北部の2高位貴族所領,各10村における農村住民の階層構成(16世紀央-1810年頃)
所領 時期 農民 園地農 小屋所有者 総数
① SHケーニヒスブリュク
⒜
16世紀央 14.2人[83%] 3.0人[17%] 0人[ 0%] [17.2人,100%]
⒝17世紀後半 14.0人[57%] 8.0人[33%] 2.5人[10%] [24.5人,100%]
⒞1780年頃 12.0人[47%] 5.6人[22%] 8.0人[31%] [25.6人,100%]
⒟1810年頃 13.9人[55%] 3.1人[12%] 8.3人[33%] [25.3人,100%]
②SHムスカウ
⒜
16世紀央 14.7人[67%] 2.0人[ 9%] 5.2人[24%] [21.9人,100%]
⒝17世紀後半 10.0人[52%] 2.8人[14%] 6.6人[34%] [19.4人,100%]
⒞1780年頃 8.7人[49%] 2.5人[14%] 6.7人[37%] [17.9人,100%]
⒟1810年頃 8.8人[44%] 3.0人[15%] 8.0人[40%] [19.8人,100%]
第3表によれば,⒜から⒞までの2世紀余りの期間について,大略で見ると,①⒞の住民総数は⒜の約1.5
倍に増加した.それに対して,②では住民総数は一貫して減少し,⒞は⒜の8割となった.階層別には,先ず,
実数として,農民はこの間に絶えず減少し,⒞は①で⒜の85%であり,②では59%であって,②の減少率
が遥かに大きかった.園地農の実数は,①の⒝で⒜より著しく,②でやや,増加し,その後に減少したと
しても,いずれも⒞は⒜よりも大きかった.すなわち,⒜に対して⒞は①で1.9倍に,②で1.3倍に増加した.
小屋所有者は②でかなり増加し,①で激増した.①の⒝と比較しても,⒞は3倍を超えており,②の⒞は
⒜の1.3倍であった.次に,住民総数中の比率は,農民について見ると,①でも②でも一貫して減少したが,
①の比率の低下,36%は②の18%の2倍であった.園地農の比率は,②で9→14→14%とやや上昇したけ
れども,①では17→33→22%とジグザグに推移した.小屋所有者の比率は②で⒜24%から⒞37%(1.5倍)
に上昇し,①では⒜0%から⒞3割強に急上昇した.⒟については,対象村落が⒜−⒞とは完全には一致
しないので,比率のみを⒞と比較しよう.農民の比率は①では8%上昇し,②では5%低下した.園地農
は①で10%低下し,②で1%上昇し,小屋所有者は①で2%,②で3%上昇した.以上に関して,①⒝に
おける園地農比率の急上昇が,また,①⒟における農民比率の相当の上昇が,何に起因するか,は不明で
ある.なお,第1に,ベールケが本節(2)(注11)の個所で示した,1750年の①15村の数値は,第3表
①⒞と異なるけれども,⒟の時点までに農民数が増加した事情は同じである.ベールケは,18世紀末に「SH
ケーニヒスブリュク(第3表の①である)の園地農を除いて,農村の全所有者群は…増加した」と述べて
いる
(11)
が,農民数増加の原因には言及していない.第2に,②で小屋所有者の比率が既に⒜の時期に高
いのは,ラウジツ北部の一部(ムスカウ周辺など)と南部の一部(ゲルリツ周辺)における製鉄業の発展
と関連していた.そのために,鍛工業集落が建設され,園地農と小屋所有者が定住していたのである
(12)
.
第3表の数値は,⒟を除いて,対象村落が同じであり,期間が2世紀半と長いために,貴重であるとし
ても,OL伯領を特徴付ける数値とは見なしえないであろう.農民数の減少率は,既述のように,ベール
ケによれば3割強であり,ブラシュケの数値から計算(第2表)すれば,6割強であったけれども,第3
表の2SH,特にSHケーニヒスブリュクでは,農民数が殆ど変化しなかったからである.
第3表のように長期に亘るものではなく,1777年のみについてであるが,ショウタは,OL伯領最大の
封建領主である,高位貴族所領(SH)4,宗教財団所領3と市参事会所領(RHと略記)3に所属した,
都市
(13)
の家屋数と357村以上(部分所有を含む)の住民階層構成を示している
(14)
.当時,領邦君主が所
有していたホヤスヴェルダは,ここでは管区と記されているけれども,歴史的経緯から,ブラシュケなど
(15)
に倣って,SHと見なす.ただし,SHザイデンベルク(Seidenberg)(1市10村)では,都市の家屋と農村
住民の合計912のみが示され,後者の階層構成が示されていない.それに対して,A. クンツェは同じ1777
年の数値として,上記ザイデンベルクを含むSH3の3区分農村住民数を挙げている
(16)
.そのうち,ショ
ウタのそれと僅かに異なる,1SHの数値を無視し,SHザイデンベルクの数値のみをショウタの数値に加
えて,合計と比率を計算し,農民の比率の高さの順に配列したものが,第4表である(第4表では,これ
らの所領に所属する,7市の家屋,合計1,591戸が除かれている).
巨大所領10のうち,第1に,北部の3SHが①,②と③であり(本表の②と③は第3表の①と②である),
南部のSHが④である.第2に,バウツェン司教座聖堂参事会(Domstift)所領(Domバウツェンと略記)
⑤は主として北部に,マリーエンタール修道院所領(KHMタールと略記)⑦は主として南部にあり,マリー
エンシュテルン修道院所領(KHMシュテルンと略記)⑥は北部と南部に分散していた.第3に,北部の
第4表 巨大所領10所属農村住民の階層構成(1777年)
所領 村落 農民 園地農 小屋所有者 合計
①SHホヤスヴェルダ(北部) 30 601人[56%] 152人[14%] 326人[30%] 1,079人[100%]
②SHケーニヒスブリュク(北部) 15 179人[51%] 84人[24%] 86人[25%] 349人[100%]
③SHムスカウ(北部) 46 364人[43%] 153人[18%] 330人[39%] 847人[100%]
⑥KHMシュテルン(北部・南部) 61 555人[31%] 264人[15%] 997人[55%] 1,816人[100%]
⑨RHゲルリツ(北部) 67 668人[28%] 769人[33%] 914人[39%] 2,351人[100%]
⑧RHバウツェン(北部) 48 180人[25%] 240人[34%] 288人[41%] 708人[100%]
⑤Domバウツェン(北部) 26 218人[15%] 216人[15%] 1,007人[70%] 1,441人[100%]
⑦KHMタール(南部) 21 324人[15%] 305人[14%] 1,541人[71%] 2,170人[100%]
④SHザイデンベルク(南部) 10 101人[14%] 154人[22%] 452人[64%] 707人[100%]
⑩RHツィタウ(南部) 33 426人[12%] 569人[15%] 2,686人[73%] 3,681人[100%]
⑪10巨大所領合計 357 3,616人[24%] 2,906人[19%] 8,627人[57%] 15,149人[100%]
⑫ラント・ザクセン(18世紀央) [44%] [56%] [100%]
2RHが⑧と⑨
(17)
であり,南部のRHが⑩である.第4に,巨大所領10の合計
(18)
が⑪である.第5に,最
下段⑫は,時期はいくらか早いけれども,ラント・ザクセンの参考値である.大ラウジツを含むラント・
ザクセン人口の階層構成は,ブラシュケの数値
(19)
から農村のみで計算すれば,18世紀央に農民=38%,
「園
地農+小屋所有者」=48%,農村の非定住者=13%であった(既述).したがって,農村の非定住者を除
いた数値は,農民=44%,「園地農+小屋所有者」=56%と算出される.これが⑫の数値である.
巨大所領10の合計⑪では,農民の比率は住民全体の24%に過ぎず,園地農の比率はそれより5%小さく,
小屋所有者が全体の57%に達していた(「園地農+小屋所有者」は76%).⑪を⑫と比較すると,農民追放
が激烈であった小規模騎士領の数値を含まない巨大所領10でも,⑪の農民比率は⑫より2割低く,した
がって,⑪の「園地農+小屋所有者」の比率は⑫より2割高かった.北部の3SHは,農村数では,⑪農村
全体の25%を占めるけれども,住民数は15%に過ぎないのに対して,南部の3所領(RH⑩,SH④とKH⑦)
の合計は,農村数で⑪農村全体の18%,すなわち,北部の3SHの7割に過ぎないけれども,住民数は北部
の3SHの3倍に近い43%に達していた.
それぞれの所領を概観すると,第1に,農民の比率は①と②のSHでのみ⑫よりも高く,③SHで⑫より
も僅かに低かった(②と③の比率が第3表のSH①⒞およびSH②⒞と異なるのは,対象村数の違いによる).
それに対して,他の7所領では,農民の比率は⑫より遥かに低く,同比率最低の⑩に至っては,⑫の3割
弱であった.第2に,園地農の比率は,高い⑨と⑧で領民全体の約33%で,他の8所領では最低14%,最
高24%であった.第3に,小屋所有者の比率の増加は農民の比率の減少と明確に対応しているわけでは
ないが,その比率は最高の⑩73%から最低の②25%までであった.それは北部の3SHで低く(4割以下),
⑥(55%)と北部の2RH(約4割)を挟んで,他の巨大所領4では6割を超えていた.第4に,「園地
農+小屋所有者」の比率は,低い順に,北部の3SHが44%から57%まで,その他の7所領が70%から88%
までであった.この低さの順位は,当然のことながら,農民の比率の高さの順位と一致する.以上から明
らかになるように,一方における,北部のSH3,特に①および②(農民の比率が5割以上)と,他方にお
ける,他の7巨大所領,とりわけ農民の比率が12 15%の4所領(⑤,⑦,④と⑩),では,農村住民の階
層構成が大きく異なっていた.
ショウタはまた,1810年に6騎士領に所属した計17村について,1農民当たりの園地農と小屋所有者の
数を挙げている
(20)
.その中で,ガウスィヒなど3村(後のバウツェン郡域でも南部の「工場村落」に最
も近い
(21)
),など3騎士領計9村(南部)を③に,その他の3騎士領8村(北部)を④に区分して,比率
を計算したものが,第5表の③と④である.ベールケ
(22)
も,18世紀後半のいくつかの騎士領所属村落に
第5表 11騎士領所属住民の階層構成(18世紀後半と1810年)
地域 年 農民 園地農 小屋所有者 合計
①
ラメナウ村 1746年 17人[25%] 28人[41%] 24人[35%] 69人[100%]
ガウスィヒなど12村 1769年 22人[13%] 60人[36%] 85人[51%] 167人[100%]
クロスタウなど5村 1781年 11人[10%] 60人[56%] 37人[34%] 108人[100%]
オーバー・マルシュヴィツなど4村 1786年 15人[16%] 26人[27%] 55人[57%] 96人[100%]
バールートなど17村 1778年 88人[25%] 118人[34%] 146人[41%] 352人[100%]
② グタウなど3村
ブレーザ村 1786年
1788年 10人[16%]
4人[19%] 26人[41%]
11人[52%] 27人[43%]
6人[29%] 63人[100%]
21人[100%]
③
ガウスィヒなど3村 1810年 1人[ 5%] 4人[22%] 13.7人[73%] 18.7人[100%]
バールートなど3村 1810年 1人[13%] 2.5人[32%] 4.3人[55%] 7.8人[100%]
グレーディツなど3村 1810年 1人[13%] 2.3人[31%] 4.2人[56%] 7.5人[100%]
④
クリクス村 1810年 1人[14%] 2人[27%] 4.3人[59%] 7.3人[100%]
ミルケルなど4村 1810年 1人[12%] 0.5人[ 6%] 7.16人[83%] 8.66人[100%]
ブラウナなど3村 1810年 1人[28%] 0.82人[23%] 1.82人[50%] 3.64人[100%]
ついて農村住民の階層構成を示している.その中の7騎士領43村の数値を第5表①(南部の5騎士領39村)
と②(北部の2騎士領4村)に掲げる(これらのうち10騎士領の農民賦役は第1表に表示した).
第5表の③と④(1810年)によると,農民と小屋所有者の比率は③より④が概して高かった.ただし,
③と④の6群の中で,(1)④のブラウナ(Brauna)など3村では農民の比率が最も高く,小屋所有者の
それが最も低かった.(2)④のミルケルなど4村では園地農の比率が最も低く,小屋所有者のそれが最
も高かった.(3)③のガウスィヒなど3村では農民の比率が極めて低かった.18世紀後半(①のラメナ
ウ村だけは18世紀央)では,①と②の7群で農民と園地農の比率に顕著な相違は見られないが,小屋所有
者の比率は②よりも①が概して高かった.30−40年を隔てた両群,①と③,および,②と④を比較しよう
とすると,比較は,同じ騎士領ガウスィヒとバールートに所属する村落に限定されるべきであろう.その
場合でも,①と③では村数が異なるので,判断は非常に慎重でなければならないが,この期間に両騎士領
所属村落で農民の比率が,ガウスィヒ所属村落では園地農のそれも,顕著に低下し,小屋所有者の比率が
顕著に上昇した,と言えるのではなかろうか.
さらに,1815年にプロイセン領となった1市8村を除く,KHMシュテルンの53村について,1市(農
民10人+家屋所有者260人)も除いて,ショウタから1810年の住民の階層構成を第6表
(23)
に表示する.
その場合,同修道院からかなり離れていて,この地域に領主農場がなかった
(24)
,南部の8村(①とする)
と,①を除く,北部の45村(②とする.部分所有の13村を含み,領主農場6があった)を区分し,合計と
比率を計算した.
第6表 Mシュテルン修道院所領住民の階層構成(1810年)
地域 農民 園地農 小屋所有者 合計
①南部の8村 135人[17%] 144人[18%] 509人[66%] 788人[100%]
②北部の45村 260人[30%] 163人[19%] 432人[51%] 855人[100%]
計(53村) 395人[24%] 307人[19%] 941人[57%] 1,643人[100%]
第6表によれば,②の農民の比率は①よりも2倍近く高く,反対に,①の小屋所有者の比率は②よりも
1.3倍近く高い.北部と南部での3階層間のこの関係は第4表の南北間の関係とほぼ同じである.ただし,
第6表の①+②の合計数(53村)を第4表⑥(30年余り前の61村)の数値と比較すると,対象地域がいく
らか狭くなった中で,園地農はかなり増加していたが,住民総数と小屋所有者はやや,そして,農民は7
割余に,減少していた.比率では,園地農と小屋所有者に変化は殆どないが,農民は7%減少していた.
同修道院では農民追放は殆ど実施されなかった(後述),とされるにも拘わらず,僅か30年余りの期間に,
なぜこれほど農民の実数が減少し,その比率が低下したのであろうか.この数値の差異にショウタは言及
していない.
第7表はショウタから,北部3村住民の階層構成を18世紀後半と40年余り後について示す.
騎士領ラーディボール(Radibor)所属の,同名の村①では,1800年を挟む40年余りの期間に,住民数
が急増した中で,完全農民(ラス用益民と考えられる)が激減し,園地農と小屋所有者が激増した.かつ
ての完全農民10人の土地は細分化されて,その畜賦役は消滅し,残る2人の農民の畜賦役も賦役代納金に
転換されていた.大園地農の一部は賦役代納金を支払い,他の部分(かつては完全農民と見なされていた)
と小園地農は週に5日の手賦役を課されていた.この時期に初めて出現した,領主地の小屋所有者を含め
て,小屋所有者が急増し,彼らの多くも重い手賦役を課されていた.このように,畜賦役の一部は賦役代
納金に,一部は手賦役に転換されていたが,手賦役は全て維持されていた.これは騎士農場の経営転換に
照応していた.騎士農場における投資(農具と役畜),畜賦役の解消と関連する完全農民の駆逐,手賦役
義務の維持,および,小屋所有者(騎士農場のための日雇層)の増加が,既に18世紀末以降に当村で見ら
れた.
それに対して,いずれも騎士農場が存在しないクロストヴィツ(Crostwitz)村②(KHMシュテルン所属)
とヘーフライン(Höfl ein)村③(同上修道院など3人の領主に所属)では,第7表の1820年の園地農は部
分フーフェ農(Teilbauer)を含んでいるが,この時期に住民数は殆ど変化せず,その階層構成も,②村に
おける園地農の実数の増加と比率の上昇(7%),および,小屋所有者の実数の減少と比率の低下(6%)
を除けば,農民の実数と比率を含めて,殆ど変化しなかった
(25)
.
第7表 北部3村住民の階層構成(1777年と1820年)
村 年 完全農民 園地農 小屋所有者 合計
①ラーディボール村 1777年 12人[25%] 7人 [15%] 29人 [60%] 48人[100%]
1820年 2人[ 2%] 19人(1)
[21%] 68人(3)
[76%] 89人[100%]
②クロストヴィツ村 1777年 19人[28%] 8人 [12%] 42人 [61%] 69人[100%]
1820年 18人[26%] 13人(2)
[19%] 38人 [55%] 69人[100%]
③ヘーフライン村 1777年 6人[27%] 6人 [27%] 10人 [45%] 22人[100%]
1820年 6人[24%] 7人(2)
[28%] 12人 [48%] 25人[100%]
(注1)大園地農9人,小園地農10人.(注2)部分フーフェ農・園地農.
(注3)打穀人小屋所有者6人,小屋所有者49人と領主地の小屋所有者13人.
次に,クンツェ論文から南部の5個別事例を挙げる.
グロース・シェーナウ(Großschönau)村(RHツィタウ所属で,大織布工村落の一つ)では,第8表
(26)
に示した約150年間に,間借人を除いた,②の[3者合計]人口が,①の3.9倍に激増した.その過程で,
②の[3者合計]に占める,農民と園地農の比率はそれぞれ①の3割以下に低下したけれども,農民の実
数は全く変化せず,園地農は僅かに増加した.変化しなかった農民35人の中では,(完全)フーフェ農が
ほぼ半減し,部分フーフェ農が増加した.また,②の小屋所有者は実数で①の10倍以上に,比率で2.7倍に,
激増した.さらに,②の間借人は実数で①の2倍以上に増加したけれども,間借人を含む(総人口)に占
める,その比率は,①の7割に低下した.総人口が3.4倍に増加したためである.ただし,当村に関しては,
18世紀央以後の数値がない.
第8表 織布工村落グロース・シェーナウ住民の階層構成(15871730年)
①1587年 ②1730年
馬4頭所有農民 18人 フーフェ農 10人
馬3頭所有農民 7人 9ルーテ農 11人
馬2頭所有農民 10人 半フーフェ農 14人
農民計 35人(人口245人,30%)〈45%〉 35人(人口 245人, 9%)〈12%〉
園地農 27人(人口135人,17%)〈25%〉 30人(人口 150人, 6%)〈 7%〉
小屋所有者 33人(人口165人,21%)〈30%〉 346人(人口1,730人,62%)〈81%〉
[3者合計] [95人〈人口545人,100%〉] [411人〈人口2,125人,100%〉]
間借人 64人(人口256人,32%) 154人(人口616人,23%)
(総人口) 801人(100%) 2,741人(100%)
オーバー・オーダーヴィツ(Oberoderwitz)村の階層別人数(騎士領ハイネヴァルデ[Hainewalde]所属部分,
1739年)は第9表のとおりであった
(27)
.
第9表によれば,1739年にオーバー・オーダーヴィツ村では,間借人を除いた[3者合計]の中で,農
民は2割を占め,園地農は1割以下であり,小屋所有者は7割を超えていた.間借人を含めた〈4者総計〉
の中では,農民は14%を,園地農は5%を,小屋所有者が5割を,間借人が3割を,占めていた.ただし,
この数値は1年のみのものであり,前後の推移が不明である.