地
方
茶
一猿
島
茶一
泉
敬 子
A Study
on the Tea
—Produced in Sashima Area —
Keiko Izumi 著 者 は さ き に生 産 ・消 費 の 観 点 か ら熊 本 ・ 広 島 の 茶 を 、茶 の 種 類 に よ る観 点 か ら西 尾 の 茶 を、特 殊 な の み 方 をす る 島根 県 の茶 を、 寒 い地 方 の茶 と して新 潟 、 宮 城 の茶 を と りあ げ こ れ らに つ い て調 査 し報 告 した。i)2}3)4)5) 今 回 は 日本 で 初 め て輸 出 さ れ た 茨城 県 猿 島 の茶 に つ い て 、 その 歴 史 的 、 地 理 的 背 景 を知 り、 日本 の 食文 化 の 一 つ と して果 して 来 た役 割 を知 りた い と考 え 、本 調 査 を行 った 。 研 究 方 法 は文 献 調 査 に よ る ほ か 、現 地 に行 っ て 聞 き取 り調査 も行 っ た 。 1.地 理 的 環 境 茨城 県 は 日本 列 島 が 西 南 か ら東 北 へ ま が る まが り角 に あ り、 関 東 地 方 の 北東 部 に位 置 し て い る。 南 西 部 に低 く、 北 部 及 び 東 部 に 向 っ て 高 度 が 増 し て い る 。 大 き く分 け る と北 部 山 地 、 中 央 部 か ら西 部 にか け て の 台 地 、 南 東 部 の低 地 の三 つ の地 形 に区 分 で き る。 茶 は 北 部 山地 及 び 中央 部 か ら西 部 に か け て の 台 地 に生 産 さ れ て い る。 中 央 部 か ら西 部 に か けて の 台 地 は洪 積 台 地 で 、 高 度 は低 く海 抜 15∼16mで あ る。 利根 川 、 鬼 怒 川 、 小 貝 川沿 い の 低 地 は し ば しば水 害 を うけ て きた が 、 河 川 改 修 と農 業 施 設 の改 善 に よ り生 産 地 域 に変 わ り穀 倉 地 帯 に な っ て い る。 気 候 に つ いて み る と太 平 洋 の鹿 島灘 で は夏 季 は暖 流 の 黒 潮 、 冬 は 寒 流 の 親 潮 が近 づ く。 海 岸 か ら湖 沼 は近 は温 和 、 内 陸 か ら山地 は 寒 暖 の差 が大 き い。 特 に 県 北 山 間部 は寒 く鹿 島 郡 南 部 は冬 で も温 暖 で あ る。6)茶 の栽 培 は 年 平 均 気 温 は12.5℃ 以 上 、 最 低 気 温 一15℃ 以 上 、 年 雨 量1400m皿以 上 の 温 暖 多雨 の地 が適 し て い る。 また 乾 燥 に も強 く、 従 っ て排 水 が よ い 丘 陵 地 、 台 地 に 多 く栽 培 され て お り、30度 の 傾 斜 地 に も栽 培 で き る 。 こ れ らの こ とよ り茨 城 は 地 形 、 地 質 、 気 候 と もに茶 の産 地 と して の 条 件 にか な っ て い る と思 わ れ る。 2.猿 島 茶 猿 島茶 は 利 根 川 と飯 沼 に は さ まれ た 関 東 台 地 即 ち岩井 市 及 び猿 島郡 一 帯(三 和 町 、 猿 島 町 、境 町)に つ く られ て い る茶 で あ る。 これ らの 地 域 は 関東 平 野 の ほぼ 中央 、 茨 城 県 の西 南部 に位 置 し東 京 よ り約50km位 の 圏 内 に入 っ て い る所 で地 勢 は 大 体 平 坦 で標 高 は23 m以 上 の所 は み られ な い 。 県 全 体 の茶 樹 の約 半 分 が栽 培 され て い る。
図1茨 城 県 国 土庁 土地 局 ・計 画 ・調 整局 監 修 日本 の 自然 と土 地 利用 III関東付 録 行 政 界 資料 茨 城 県 は 関 東 ロー ム 層 とい わ れ る土 で地 味 はや せ 、 作 物 栽 培 も思 うに まか せ ず 、 冬 の 季 節 風 は 農 業 に と って は苛 酷 な もの で あ っ た。 茶 樹 は 比 較 的 寒 さ に 強 く常 緑 樹 の た め 、 防 風 垣 に な る こ とか ら、 今 か ら300年 程 前 の 関 宿 藩 の 藩 主 が 畑 の 境 界 に茶 を植 え させ 、 飢 饉 に苦 しむ 農 民 を救 済 した とい う記 録 も あ り、 こ の 頃(1660年)か ら茶 の 栽 培 が 始 ま っ た と 思 わ れ る。 駿 島"の 名 称 につ い て は 人 名 説 と地 形 説 とが あ り、 前 者 は 日本 書 紀 に景 行 天 皇 の 頃 、 豊 城 の 命 の 孫 「彦 狭 島 王 」 の 名 前 に 由 来 す る と云 う。 後 者 は地 形 が 半 島状 台 地 に な っ て お り、狭 い 島 の よ うな地 形 で あ る と こ ろ よ り「狭 島 」 と書 き 、 そ れ か ら 「猿 島 」 とな っ た もの とい わ れ る。
3.歴 史 的 背 景 猿 島 地 方 は江 戸 初 期 か ら茶 の 栽 培 が 盛 ん に 行 な わ れ 、"猿 島茶"と して 江 戸 の 消 費 地 に緑 茶 を供 給 した。 幕 末 に は 我 国 最 初 の緑 茶 輸 出 に成 功 した 。 この 地 方 は昔 、 平 将 門 が 本 拠 を か ま え て 朝 廷 の 軍 に反 抗 し た歴 史 の あ る土 地 で あ る。 は っ き りした 記 録 が 残 っ て い るの は 金 沢 文 庫 古 文 書 で あ るが 、 そ の 記 録 に よれ ば 永 徳2 年(1382年)武 州 称 名 寺 領 の下 総 国 赤 岩 郷 御 年 貢 結 解 状 に 「此 内300文 、 茶1斤 代 」とあ り 赤 岩 郷14ヶ 村 の 寄 合 い に用 い られ た事 実 が 述 べ られ て いる こ とか ら 、こ の 頃 猿 島地 方 に も茶 の 栽 培 が 行 な わ れ て い た と考 え ら れ る 。 下 っ て 慶 長16年(1611年)近 くの 筑波 郡 谷 田 部 で茶 検 地 が行 な わ れ た こ とか ら考 え る と、 こ の 頃 に は猿 島 地 方 で も民 間 一 般 の 間 に も茶 を飲 む 風 が お こ り庶 民 の 間 で 日常 飲 用 に 供 さ れ る よ うに な っ た とい う こ とが うか が え る 。 これ よ り前 、1603年 江 戸 に幕 府 が 開 か れ 、 江 戸 と い う一大 消 費地 が 形 成 さ れ た の で 、 ひ きつ つ き継 続 的 に茶 の 生 産 が 行 な わ れ た。 以 後領 主 は代 々 藩 財 政 を支 え る対 象 と して 強 制 的 に茶 を植 え させ た もの で あ り、 これ に伴 っ て 一 般 庶 民 の 問 に も上 記 の よ う な普 及 が み られ た もの と思 わ れ る。 関宿 藩 で は1647年 牧 野 豊 前 守 信 成 が茶 検 地 (茶 税 を と る た め に茶 畑 の 面 積 を し らべ る こ と)を 行 な っ て い る。 又1658年 に は猿 島全 村 に亘 り藩 主 板 倉 阿 波 守 重 郷 の 時 、 茶 検 地 が 行 な わ れ て い る。 以 後 領 主 は代 っ て も代 々 茶 園 に は 力 を入 れ 強 制 的 に茶 苗 の 植 付 を行 い、 猿 島地 方 の 茶 園 は 飛 躍 的 に 増 大 して い る。 そ の 後 は茶 苗 の 増 殖 が 盛 ん に行 な わ れ 、 貿 易 開始 の 嘉 永年 間 ま で 茶 園 の 増 加 が行 な わ れ て い る。 税 率 は 時 代 に よ り様 々 で あ るが1間 に つ き0.5文 位 の 時 も あ っ た が 次 第 に上 昇 し 茶 株1間 に つ き1∼3文 位 に まで な っ た。 しか し中 山元 成 、 野 村 佐 平 治 らの 努 力 に よ り価 格 も安 定 した 。 茶 税 は も との 畑 地 の 税 に 比 し高 率 で あ る の で茶 か らの 藩 の財 政 収 入 は 莫 大 な もの に な っ た 。猿 島地 方 の農 民 は こ の よ うに 重 い年 貢 を か け られ 加 え て 天 災 に苦 し め られ た。 徳 川 家 康 は 江戸 開 府 後 、 直 ち に利根 川 の東 移 計 画 の 立 案 と工 事 を命 じた が 、約60年 か か っ て 完 成 した。 しか し利 根 川 の 開 さ く と共 に 猿 島地 域 は そ の 影 響 を う けて 洪 水 に見 舞 わ れ る こ とが 多 くな っ た。 これ は 明 治 ま で も続 い た。 しか し猿 島 台地 の方 は 灌 が いの 便 に 乏 し く干 ば つ を受 け易 く不 作 の 年 が41年 間 に も及 ん で い る。 そ れ か ら天 保 の大 飢 饉 も起 こ り、 そ の結 果 農 民 の窮 乏 はそ の極 に達 した。野 村 佐 平 治 が 製 茶 の 改 良 に一 生 を捧 げ よ う と決 意 し た の は この 頃 で あ る。 彼 の 考 え方 は儒 教 の 影 響 が 強 く、 封建 的 で は あ っだ が"勤 倹 力行" 以 外 に 、 当 時 の 農 民 の 生 きる道 は な い と して こ れ を実行 し製 茶 の 改 良 に努 め た 。 中 山 氏 以 前 の猿 島茶 の 製 法 は 主 に「日乾 法 」 とい わ れ る きわ め て粗 悪 な技 術 で行 な わ れ て い た。 籠 に 入 れ た茶 の葉 を 、 わ か した 湯 釜 の 上 に お いて 蒸 した り、 い り釜 の 中 に茶 の 葉 を 入 れ 、 口 に 含 ん だ水 をふ きか け て 蒸 し た後 、 む しろ の上 で 手 もみ に し(足 で 踏 む の もあ っ た)日 光 で 乾 そ うさせ た だ けの もの で あ った 。 焙 炉 を使 うの もた だ助 炭 の 上 で 乾 燥 させ るだ け の もの で あ っ た。 従 っ て この 粗 悪 な 猿 島 茶 は 江 戸 で は とて も商 品 に は な らず 、 下 野 、 上 野 、 武 蔵 、 信 濃 地 方 へ 送 り出 され た。 製 茶 の価 も暴 落 し、 採 算 が あ わ な い の で 茶 苗 をひ きぬ く者 も出 て茶 園 は荒 れ て 行 っ た。 しか し、 茶 をぬ きす て た 畑 か ら も茶 税 を納 め な けれ ば な らず 、農 民 は ます ます 困窮 す る こ と に な っ た。 こ の 時期 前 述 の よ うに 野 村 佐 平 治 が 製 茶 改 良へ と努 力 を初 め て い た が 、 一 方 中 山元 成 は猿 島 の 地 が 特 産 物 に 乏 し く農 民 の 商 品生 産 が お くれ て い る こ と を改善 しよ う と茶 業 の振 興 に努 め た。1824年 同 氏 は 宇 治 の
茶 師 多 田文 平 を招 き、宇 治 茶 の 製 法 を学 び 、 又 江 戸茶 問 屋 山 本 嘉 兵 衛 の 助 け も借 りな が ら 宇 治 製 法 を 導 入 して 自 ら工 場 生 産 を行 な っ た 。 そ して その 製 法 を近 隣 の農 民 に も習 得 させ 、 茶 の 生 産 を拡 大 して 江戸 に売 り込 み を は か っ た。 こ の よ うな 人 々 の努 力 に よ り猿 島 茶 に対 す る需 要 も増 大 し、 生 産 も これ につ れ て 増 した 。 同 時 に 狭 島 地 方 は茨 城 県 の 茶 業 の 先 進 地 と し て大 き な影 響 を及 ぼ す こ と に な っ た 。 元 成 は 天 保5年(1834本)に は生 葉535貫 を加 工 した が 、 以後 年 々 生 産 規 模 を拡 大 し、 天保10年 代 に は生 葉 消 費 量 も2,000貫 以 上 に達 し延 べ400 人 の 雇 人 を使 用 して 約1ケ 月 に わ た り製 茶 を 続 け た と い う記録 が あ り、茶 の 生 産 が 急 速 に 発 達 した こ とが うか が え る。 関 宿 藩 は嘉 永5年(1851年)に 、 江 戸 藩 邸 内 に猿 島 茶 売捌 会 所 を設 立 す る ま で に な っ た。 茶 売 捌 所 の 経 営 い は、 元 成 他 、 茶 業 を し て い る富 山 三 松 、 上 原 和 三 郎 ら に 司 らせ て い た。 茶 会 所 は そ の後 、 明 治 維 新 まで 続 い た と い わ れ る 。 安 政5年(1858年)幕 府 は 長 ら く閉 鎖 して 来 た鎖 国 政 策 を改 め 、 ア メ リカ との 間 に 日米 修 好 通 商 条 約 を結 ん だ。 当 時 、 尊 皇 攘 夷 運 動 が 盛 ん と な り、 開 国 通 商 に 強 く反 対 す る もの が 多 か った 。 中 山 元 成 は積 極 的 な開 港 論 者 で あ っ た。 彼 の家 は 製 茶 の 他 、 木 材 商 、 酒 造 を 兼 ね 、 代 々 関 宿 藩 の 大 庄 屋 を兼 ね る豪 農 で あ り、 彼 の 家 に も多 くの 知 識 人 が 訪 れ た。 そ の 中 に 文 政10年(1827年)か ち3年 間 、 元 成 の 教 育 に あ た った 河 田迪 斉 が い る。 元成 は こ の 人 の 影 響 を大 き く受 け た 。 河 田迪 斉 は嘉 永6年(1853年)ペ リー 来 航 の 時 、 幕 府 の 全 権 委 員 で あ る林 大 学 頭 の 下 の 相 談 役 とな っ た 人 で 、 条 約 草 案 作 成 な ど に活 躍 し た人 で あ る。 元 成 は河 田迪 斉 を通 じて林 大 学 頭 に頼 み こ み 、 その 若 党 に 変 装 して 条約 交 渉 の 状 況 を直 接 見 学 す る こ とが で きた 。 そ れ に よ っ て 元 成 は 欧 米 の 事 情 に 通 ず る こ と が で き、 早 くか ら外 国 貿 易 に も強 い関 心 を も っ よ う に な っ た 。安 政2年(1855年)1月 に は単 身 長 崎 を訪 ね 、 約1年 間 を要 して海 外 貿 易 、特 に製 茶 の輸 出 につ い て研 究 した。 ま た、 そ の往 復 に主 要 な 製 茶 地 帯 を訪 ね て 各 地 で 技 術 を 習得 した。 安 政4年(1857)年 に は 、伊 豆 下 田 に新 設 さ れ た ア メ リカ領 事 館 にハ リス を訪 ね 、 秘 書 ヒユ ー ス ケ ン に猿 島 茶 を提 示 して 貿 易 の 交 渉 を行 な っ たが 、 ア メ リカ側 が 話 に の らず 、 交 渉 は失 敗 に終 っ た 。 しか し元成 は 翌 年 の通 商 条 約 調 印 後 、 早 速 貿 易 の 準 備 に と りか か っ た。 安 政6年(1859年)、 横 浜 港 で ア メ リカー 番 館 ポー ル 商 会 の 貿易 主 任 阿 星(中 国 人)と 筆 談 で 交 渉 を行 い、 つ い に こ こ で猿 島 茶 の輸 出 に 成 功 した 。 元 成 の 交 渉 は横 浜 に お け る緑 茶 輸 出 の 嚆 矢 と伝 え られ て い る 。 元 成 は続 い て イ ギ リス 商 館 と も輸 出 契 約 を成 功 させ 、 江 戸 小 網 町 に 店 を 出 し茶 を運 び横 浜 に出 荷 して 貿 易 を行 い 、 岩 井 と江 戸 、 横 浜 間 を往 復 す る よ う に な った 。 しか し、 元 成 は 尊 攘 派 か ら強 い不 満 を買 い 身 の 危 険 を感 じて 慶 応 元 年(1865年)に は一 時 貿 易 か ら身 をひ い た こ と も あ る。 しか しな が ら元 成 は そ れ に屈 せ ず茶 業 をす す め 、 つ い に猿 島 茶 は単 に国 内 の需 要 を 目的 とす る段 階 を こ えて 、 日本 の 重 要 な輸 出 品 の ひ とつ とな っ た の で あ る 。 幕 末 か ら明 治 初 年 に か け て の 最 大 輸 出 品 は生 糸 で あ り、 次 いで 茶 が 重 要 な 地 位 を 占め て い た 。 猿 島茶 は その 一 部 分 と し て 国 際分 業 の一 環 を担 っ て い た の で あ る。 し か しな が ら急 激 な 需 要 増 大 に 応 ず る た め に粗 製 や 贋 造 が 横 行 し、 混 ぜ 物 入 りの 不 正 茶 が 出 ま わ っ た 。 不 正 茶 に混 ぜ た種 々 の 混 物 に は い ろ い ろ な葉 を用 い て い た が枸 こ(ナ ス科 の落 葉 灌 木 で 根 を薬 用 にす る)や 藤 、 柳 の葉 な ど が 入 れ られ て い た 。 茶 の輸 出 の ほ とん ど を頼 っ て い た ア メ リカ市 場 で も不 正 茶 が 問題 に な り、 明 治15年3月 、 つ い に ア メ リカ議 会 は不 正 茶 輸 入 禁 止 条 令 を 可 決 、 日本 茶 の 輸 出 は
急 激 に 減 少 した 。 この よ うに して明 治15、16年 頃 に は猿 島茶 も 信 用 を失 っ て し ま うが 、 こ こで 再 び 元 成 は 贋 造 粗 製 品 を取 り しま り指 導 す る 「茶 業 組 合 取 締 所 」 の 頭 取 に就 任 、 県 内 の 茶 の 改善 に 多 大 の 労 を と った 。 しか し元 成 の 労 もむ な し く、 茶 の 発 展 を は か るほ どの 成 果 は あ げ られ ず 、 元 成 の 製 茶 工 場 で さ え以 後 経 営 を悪 化 させ 、 その 規 模 を縮 小 して行 っ た。 製 茶 生 産 量 で み る と、 明 治16 年 に は1,560貫 を生 産 して い た が 、19年 に は 640貫 、20年 に は506貫 に減 少 し た。 こ れ は ほ ぼ 幕 末 段 階 と同規 模 に縮 小 した こ とに な る。 20年 代 に も生 産 規 模 は 年 々 縮 小 し、 茶 園 も普 通 畑 に転 換 した 。 この 頃 に は猿 島茶 の 特 産 品 的 商 業 発 展 の 道 は閉 ざ され 、 農 家 副 業 的 方 向 と して位 置づ け られ た 。 こ の よ う な経 過 をた ど り明 治 後 期 に は猿 島茶 は停 迷 を続 け ざ る を得 な か っ た 。 し か し大 正 末 期 か ら昭 和 初 期 に か け て機 械 化 に よ る大 規 模 生 産 が 行 な わ れ た 。 県 内 の 茶 業 が こ の 時期 どん どん 衰 退 して行 く中 で猿 島 郡 水 掛 村 な ど は この機 械 化 を と り入 れ 、 か な り大 規 模 に 製 茶 が行 な わ れ て い た 。 猿 島茶 は販 売 を 目的 とした大量 生産 に よって積 極 的 に生 産 を 推 し進 め た が 、 大 正 期 を通 じて順 調 に は発 展 しな か っ た 。 昭和 初 期 に は恐 慌 と戦 争 の 影 響 を うけ、 猿 島茶 も栽 培 面 積 が 急 速 に減 少 した 。 しか し な が ら猿 島郡 で は昭 和 初 期 か ら昭 和14年 頃 に か け て 製 造 戸 数 が 若 干 減 少 して い るの に拘 らず 、 製 茶 量 が 増 加 して い るの で、 この 時 期 に は 著 しい 生 産 能 力 の増 進 が あ っ た こ と と推 察 さ れ る。 以 後 、 今 日に至 る まで 猿 島 地 方 は 県 を代 表 す る猿 島 茶 の特 産 地 と して生 産 能 力 を高 め 、 原料(生 茶 葉)の 一 部 を他 地 域 か ら移 入 しな が ら製 茶 量 を増 加 させ て行 った 。 4.明 治 以 後 の 茶 産 業 に つ い て 茨 城 県 で は猿 島 を中 心 とす る西 部 地 帯 と東 茨 城 、 那 珂 、 久 慈 を中 心 とす る北 部 地 帯 が 江 戸 時 代 か らの特 産 地 で あ った が 、 製 茶 技 術 は 天 日乾 を 中 心 とす る もの で販 売 も 多 くは な か っ た。 そ の後 、 天 保 年 間 に 中 山元 成 が猿 島 茶 改 善 に努 め他 地 方 に も影 響 を与 え た。 そ して 安 政 開 港 を転 機 とて茶 は 重 要 な輸 出 品 とな り、 維 新 後 は政 府 の 新 産 業 移 植 政 策 を裏 づ け る資 金 源 と して 県 内 の 茶 業 も 多 くの保 護 、 奨 励 を 与 え られ た 。 中 山元 成 には 県 勧 業 課 の特 別 な 援 助 が あ り、 県 の 融 資 に よ り茶 園 の造 成 をは か り、 製 茶 伝 習 所 を開 設 し た。 こ れ に よ って 技 術 伝 習 生 とい う名 目で低 賃 金 の 労 働 者 を確 保 で き、 事 業 の 拡 大 をは か っ て い っ た 。 元 成 の造 成 し た茶 園 の 大 部 分 は 山林 を開 墾 し た もの で 、施 肥 に使 用 す る肥 料 は専 用 の 運 搬 船 を もっ て 東 京 よ り運 ん だ とい わ れ る。 中 山家 の茶 製 造 に使 用 した 労働 力 は 月 に 総 数 840人 に 上 り(1日28人 宛)、 当時 す で に 製 茶 が 工 場 制 の 手工 業 形 態 を と って い た こ とが分 か る。 明 治7年 か ら44年 に お け る生 産 量 の推 移 を表1で 比較 す る。 明 治7年 に61,610貫 で あ っ た もの が14年 に は216,273貫 と急 速 に 増 加 し たが 表 に 見 られ る よ う に短期 間 で 減 少 し た り増 加 した り して い る。 生 産 量 の変 化 に は ひ とつ には 気 象 条 件 と病 虫 害 な どに左 右 され る こ とが 多か っ た が 、他 面 で は急 激 な 需 要 増 大 に 応 ず るた め の粗 製 、 贋 造 に よ る信 用 の 失 墜 等 が 大 き く影 響 して い る と思 わ れ る。 そ の 間 「製 茶 改善 規 則 」「茶 業 組 合 準 則 」「茶 業 組 合 取 締 所 設 置 」 等 を制 定 す る な ど茶 業 の 改 善 、 発 展 を試 み た もの の 、 余 り発 展 は 見 ら れ ず、 大 正 期 に な っ て もほ とん ど発 展 は 見 ら れ な か っ た 。 大 正14年 の 主 要 府 県 の製 茶 産 量 は表2に み る よ うに静 岡 、 三 重 、 京 都 の 三 府 県 は 商 業 的 農 業 の発展 が み られ るの に対 し茨城 は 県全 体 と して も農 家 副 業 に とど ま っ て い た
表1生 産 量 の 推 移 年 製茶生産量 製茶数量 明 治7 61,610貫 明治25 189,541貫 10 ?0,621 26 169,523 14 216,273 27 152,734 15 230,606 28 156,125 16 166,155 29 163,120 17 192,129 30 166,324 18 186,382 31 151,921 19 369,592 32 166,417 20 236,155 33 165,929 21 200,294 34 153,868 22 217,574 35 172,303 23 139;933 36 218,603 24 221,427 37 231,637 25 189,541 38 233,144 『茨 城 県 農 業 史 ・第1巻 』 39 240,956 40 205,719 41 206,901 42 230,336 43 202,715 44 220,634 表2主 要 府 県 の製 茶 産 量(大 正14年) 製造戸数 生 産 量 一戸当 たり生 産 量 貫 貫 貫 全 国 1,106,667 10,218,818 9.9 静 岡 34,021 4,894,020 143.1 三 重 9,663 540,460 55.9 京 都 20,361 415,621 20.4 鹿児島 113,942 390,950 3.4 奈 良 10,474 316,963 30.3 岐 阜 51,968 271,349 5.2 滋 賀 25,748 267,283 10.4 埼 玉 20,964 235,605 11.2 茨 城 41,102 229,103 5.6 福 岡 41,531 224,916 5.4 『茨 城 県 農 業 史 ・第3巻 』 よ り 「県 統 計 書 」 表3全 国の 作付 面積(S.61) (3.6)r-(2.8) 静 岡(38.4) 鹿 児 島 (12.7) 三 重 (6.8) 埼 玉 1 【 熊 本 宮 崎 京 都 そ の 他(27.8) 全_面 積は、o,、。。ha(5.1)ヒ(2.8) 『農 林 統 計 』 よ り作 成 とみ られ る。 大 正 期 を通 じて茨 城 の 茶 業 は衰 退 す る副 業 とな っ て い るが 猿 島 、 久 慈 な どの特 産 地 帯 で は 機 械 化 に よ る大 規 模 生 産 が 行 な われ 、 福 島 、 栃 木 、 東 京 等 周 辺 地 に運 ば れ て い た。 次 に 茶 生 産 の 現 状 をみ る と表3の よ うに、 昭 和62年 度 の 全 国 の 茶 の 作 付 面 積60,200ha で 茨 城 で は 「そ の他 」の 中 に含 ま れ1,230ha(2 %)に す ぎ な い。 また 、 県 内 の 茶 園 の現 状 は表4の 通 りで 昭 和56年 と61年 を比 較 す る とわ ず か5年 間 で 殆 どの 郡 で農 家 数 は減 少 して い る。 戸 数 が 減 少 して も一 戸 あ た りの茶 園 面 積 が 増 加 して い るの は 県 西 部 の 真 壁 、 結 城 、 猿 島 の 3郡 で あ る。 5.考 察 茨 城 の 茶 の歴 史 は猿 島茶 の 歴 史 とい っ て も 過 言 で は な い 。 特 産 品 に 乏 しか っ た猿 島 地 方 の 商 品 と して 改
表4茶 園 の面 積 と戸 数 (戸 数:戸 、 面積:a) S.56 S.61 市 町 村 戸 数 面 積 一 戸 あ た りの 面 積 戸 数 面 積 一 戸 あ た りの 面 積 県 計 5,264 67∼527 12.8 4,768 53,305 11.2 県 北 市 165 887 5.4 157 1,789 11.4 東茨城郡 338 7,463 22.1 272 4,867 17.9 西茨城郡 150 1,903 12.7 146 1,657 11.3 那 珂 郡 738 4,179 5.7 898 4,431 0.5 久 慈 郡 1,976 16,114 8.2 2,041 15,461 7.6 多 賀 郡 1 4 4.0 5 16 3.2 鹿 島 郡 31 701 22.6 28 310 11.1 行 方 郡 63 2,087 33.1 34 204 6.0 県 南 市 iO1 2,236 22.1 52 906 17.4 稲 敷 郡 92 3,443 37.4 61 1,645 25.3 新 治 郡 167 2,003 12.0 143 1,847 13.0 筑 波 郡 69 1,297 .. 45 964 21.4 北相馬郡 1 4 4.0 0 0 0 県 西 市 235 4,279 18.2 153 2,220 14.5 真 壁 郡 18 463 25.7 6 179 35.8 結 城 郡 144 3,009 20.9 87 2,333 26.8 猿 島 郡 975 17,455 17.9 641 14,576 22.7 善 を行 い 、 藩 財 政 の 資 源 と して 育 て 、 幕 末 か ら明 治 初 期 に は 海 外 に 輸 出 さ れ る ま で に な っ た猿 島茶 の成 功 は 民 間 の 豪 農 とい わ れ た 人 達 の努 力 の結 果 で あ り、 同 時 に藩 や 政 府 の 経 済 的 な 援 助 と技 術 指 導 に よ る もの で あ る と考 え られ る。 猿 島 茶 は 日本 に お け る茶 の 輸 出 の先 駆 者 と して 努 力 が な され た が 、世 界 の 市 場 で は緑 茶 は 「商 品 」 と して成 功 し な か っ た。 そ の 原 因 と して は 次 の こ とが あ げ られ る。 1)国 民 的 嗜 好 の ちが い 洋 風 の 食 事 で は調 味 料 と して 殆 ど砂 と う を 用 い な い とい う食 生 活 の ち が いが あ る。 従 っ て 食後 に飲 む茶 は甘 味 をい れ る(多 くの 人 が) コー ヒー や 紅 茶 が 好 まれ て お り、 テ ィ タ イ ム に お い て も コー ヒー 又 は 紅 茶 が好 まれ 、緑 茶 の 風 味 は余 り好 まれ な い。 2)信 用 の 失 墜 茶 の 輸 出 が 盛 に な る と儲 け の た め に は、 混 「茨 城県農 業基本調査結果報告書」 よ り り物 を入 れ た り粗 製 贋 造 を し た り して良 心 的 な取 引 き を行 な わ な か っ た こ とよ り、 世 界 の 市 場 よ り排 除 さ れ た 。 3)そ の他 茶 の 湯 の わ び 、 さ び等 の趣 向 は 西 欧 人 に は 理 解 さ れ な い 。 茨 城 県 は首 都 に近 い とい う地理 的 条 件 か ら都 市 化 が進 み 、 茶 園 も減 少 の傾 向 に あ る。 しか し なが ら今 日で も茨 城 県 の 特 産 品 の ひ とつ と して猿 島茶 は 存 在 して い る。 日本 全 体 の茶 品 質 の 位 置 づ けか らす れ ば必 ず し も高 級 茶 には 入 っ て い な い と思 われ る が 、今 後 茶 樹 そ の も の の 品質 改 善 が 十 分 に行 わ れ 、 品 質 の よ い猿 島茶 の 生産 が 行 わ れ る こ と を期 待 した い 。 中 山 、 野村 両 氏 の技 術 導 入 、 茶 業 の 改 善 等 の 努 力 は偉 大 な もの で あ り、 この 歴 史 あ る 猿 島の 茶 を衰 退 させ る こ とな く栽 培 を発 展 さ せ る こ と を望 ん で い る。
本 研 究 を行 うに あ た り、 中 山 元 成4代 目で' 茶 業 を営 ん で お られ る 中 山信 一 郎 氏、 猿 島村 役 場 及 び 岩 井 市 役 所 農 政 関係 の 方 々 、 平 山 友 子 さん に深 謝 す る。 猿 島茶略年表 年 号 西 暦 猿 島 茶 の 歴 史 国 内 建 保2 1214 (栄西 ・実 朝 に茶 を進 献) 1338室 町 幕 府 永徳2 1382 (下総国赤岩郷御年貢結解状に茶が初 見) 1590徳 川家 康 江 戸城 に入 る 1594利 根 川改 修 は じま る 1600関 ケ 原 の 戦 い 慶長16 1611 (筑波 郡 で茶 検 地) 1633江 戸 川 新 さ くは じ ま る 寛 永12 1635 山川領諸川村茶検地 正保4 1647 上 出島村等茶検地(牧 野豊前守信成) 1654赤 堀 川 増 さ く 万 治1 1658 関宿領全村 に茶検地(板 倉阿波守重郷) 1661 寛 文 S 関宿 領 、 茶 園 激増(久 世 大 和 守 広之) 1665逆 川 増 さ く 1673 元 禄3 1690 (初代 山本 嘉兵 衛 、 江 戸 に開 業) 1729享 保 大 き きん 元 文3 1738 (山城 国 、 永 谷三 之 烝 、 煎茶 をつ くる) 天 明4 1784 「沓掛 村 三 右衛 門外 五 名茶 商 売 仲 間」 1783天 明 大 き き ん 文 化14 1817 中 山 元成 生 れ る 文 政5 1822 野村佐平治生れる 文 政7 1826 浦 向村 、 本 谷 仁左 衛 門 「焙 炉 茶 扣 」 天 保5 1834 中村 元成 、 多田文 平 を招 き宇 治 茶 の 製法 を学 ぶ 1832 天 保6 1835 (山本 嘉 兵 衛徳 翁 、 玉 露 をつ くる) ∼37天 保 大 き きん 天 保8 1837 猿 島地 方 「茶 問屋 仲 間 議定 書 」 天 保9 .. 野 村佐 平 治 、 山本 嘉 兵 衛 に製 茶 を学 ぶ 天 保10 1839 野 村佐 平 治 、 製茶 を江 戸 に売 る 天 保14 1843 桜 井新 三 郎 、 宇治 よ り製茶 を招 く 猿 島茶業発展 1851久 世 広 周 、 老 中 と な る 嘉 永6 1853 関宿 藩 「物産 会 所 」 を江戸 に開 設 一 入五 三 ペ リー浦 賀 に来航 中山 元成 、 富 山 三松 ・初 見和 三郎 これ に 1854日 米 和 親 条約 締 結 参 画 安 政4 1857 中 山元 成 、 下 田 にて ハ リス と緑 茶輸 出交 渉 1858日 米 修好 通 商 条 約 安政の大獄 安 政6 1s5s 申 山元 成 、猿 島茶 の 対 米輸 出 に成功 日本橋小網町に支店開設 万延1 :.1 (野村 佐 平 治 、桜 井 儔 三 郎 ら郡 中取締 役 を命ぜ ら れ る) 文 久2 1862 境 、関 宿 に茶 会 所 設 置(一 説 に慶応 元年)偽 茶 1864天 狗 党事 件 出 ま わ り、 取締 り強 化 され る 慶 応1 1865 岩井 に茶会所 設置 慶 応2 1866 茶価大暴落
慶 応3 1867 中 山元 成 、 日本 橋 の支 店 を 閉 じ る 1867大 政 奉還 慶 応4 .. 関宿藩物産会所廃止 1868戌 辰 戦 争 猿 島茶 の 不振 つ づ く 1871廃 藩 置 県猿 島郡 は関宿 県 の うち 印旛 県 の ち千 葉 県 に入 る 明治5 1872 中 山元 成 、 印旛 県勧 業 課 出仕 明治6 1873 中 山元 成 、「茶 園栽 培 略説 」「製茶 略 説 草稿 」(野 1875猿 島郡 、茨 城 県 に編 入 村佐 平 治 、関宿 藩 士 族 救 済 の ため 木綿 工 場 成 立) 猿島茶業盛況に向 う 1877第 一 回内 国勧 業博 覧 会 明 治14 .. 濫 製茶 続 出、 猿 島茶 業 不振 中 山元成 、 茨 城 県勧 業 委 員 とな る 岩 井 に 製茶 改 良 伝 習所 をつ くる 明 治15 .. 茨 城 県令 ・人見 寧 、製 茶 改 良 を論 告 中 山元成 ら、 猿 島郡 「製 茶 申合 条 目」 明 治16 .. (野村 佐 平 治、 葉 煙 草 の輸 出に成 功) 明 治17 .., 茨 城 県 茶 業組 合 設 立(頭 取 中山 元成 、 幹事 桜 井 1884加 波 山事 件 儔 三 郎 ら) 明治20 .. 野村 佐 平 治 「製 茶 指針 論 」 倉 持 三 右 衛 門、 早 晩 生種 の 改 良 をは じめ る 明治25 .. 中 山元 成 没 明治27 1894 茨城 県、 製 茶教 師 を各 地 に 派遣 1894日 清 戦 争 畑茶 改 良試 験場 、県 内 二十 七 か 所 に 設置 明治28 1855 桜井儔 三郎没 野 村佐 平 治 「茨城 県緑 茶 製 法 ノ方針 」 野村流製茶練習会設立 産業革命すすむ 明 治30 1897 野 村佐 平治 、 緑 綬褒 賞 を うけ る 明 治32 ;・ ・ 中 山元 成、 県知 事追 褒 賞 を うけ る 明 治35 1902 野村佐平治 没 1904日 露 戦 争 1914第 一 次 世 界大 戦 大 正6 1917 機 械 製 茶 は じま る(岩 井 、 古 谷工 場 等) は さみ 摘 、機 械 製茶 普 及 す る 大 正12 1923 倉 持 三 右衛 門、倉 持 晩生 種 の一 晩茶 で 反 収563kg 1923関 東大 震 災 をあ げ る 1929世 界 恐慌 昭 和16 1941 農業試験岩井試験地に製茶工場建設 「や ぶ き た 」 茶 園20ヘ ク タ ー ル を 造 成 1941太 平 洋戦 争 は じま る 昭 和28 1953 岩井 試 験 地 「や ぶ きた 」苗 の分 譲 を は じめ る 1945太 平 洋 戦争 お わ る 昭 和30 19551茨 城 県茶 業 協 会創 立(古 河市)
参考文献
1)泉 敬 子:生 活 科 学 研 究 第6集(1984) 2)泉 敬 子:生 活 科 学 研 究 第7集(1985) 3)泉 敬 子 、後 藤 美 典:文 教 大 学 教 育 学 部 紀 要22(1988) 4)泉 敬 子 、石 崎 弘 子:生 活 科 学研 究 第8集 (1986) 5)泉 敬 子:生 活科 学 研 究 第9集(1987) 6)市 村 正 二 、 瀬 谷 義 彦 、 桜 井 明 俊 監修:茨 城 県風 土 記 、 旺 文 社(1987) 7)茨 城 県農 業 史 第1巻:茨 城 県農 業 史 編 簒 会 8)茨 城 県 農 業 史料 史料 地 場 産 業 編:茨 城 県 農 業 史 編 慕 委 員 会 9)茨 城 県 史料 、近 代 産 業 編1:茨 城 県10)日 本 地 誌 研 究 所:日 本 地 誌 第5巻 、 二 宮 書 店(1968) 11)全 国 国 土 調 査 協 会:日 本 の 自然 と土 地 利 用III関東 12)世 界 大 百 科 辞 典:平 凡 社(1967) 13)村 井康 彦:茶 の 文 化 史 、 岩 波 新 書(1979) 14)角 山栄:茶 の 世 界 史 、 中公 新 書(1980) 15)大 石 貞 男:日 本 茶 業 発 達 史 、農 山村 文 化 協 会(1983) 16)木 戸 田 四 郎:茨 城 の 歴 史 と民 衆 ぺ りか ん 社(1979) 17)茨 城 県 農 業 史 第3巻:茨 城 県 農 業 史 編 慕 委 員 会 18)1985年 農 業 セ ンサ ス都 道 府 県 別 統 計 書 茨 城 県:農 林 水 産 省 統 計 情報 部 19)昭 和56年 度 茨 城 の農 業(茨 城 県 農 業 基 本 調 査 結 果 報 告 書):茨 城 県 企 画 部 統 計 課 20)昭 和61年 度 茨 城 の農 業(茨 城 県 農 業 基 本 調 査 結 果 報 告):茨 城 県 企 画 部 統 計 課 21)椎 名 仁 、 渡 辺 貢 二 、:猿 島茶 に 生 き る、 崙 書 房(1977)