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心理的幸福主義の妥当性(六・完)

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31一一『奈良法学会雑誌』第4巻1号(1991年6月〉

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心理的幸福主義の妥当性的・完

自 次 序 言 第一章幸福の概念 第一節思想史的省察ハ以上第二巻四号﹀ 第 二 節 言 語 的 事 実 ( 第 一 一 一 巻 一 号 ) 第一二節導出ハ第三巻二号﹀ 第二掌心理的幸福主義 第 一 節 必 然 的 帰 結 ( 第 一 一 一 巻 一 一 一 号 ) 第二節弁証(第三巻四号﹀ 第三節心理的幸福主義者(本号﹀

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第4巻1号一一32

第三節

心理的幸福主義者

以上述べてきたように、人間のあらゆる行為は自己幸福によって究極的に動機づけられている。その場合の﹁幸福﹂ の概念内容には注意を要するし、動機づけと言つでもあくまで﹁究極的に﹂である。従って、それは(普通の意味での) 快楽主義や計算高い効用主義を意味するものではないし、また、必ずしも(究極的にはともかく)利己主義を帰結する わけでもない。しかし、言葉の厳密な意味において、人々は常に自己自身の最大限の幸福を求めて行動していると、 言うことができる。幸福が、そしてそれのみが、人間行動の普遍的・究極的な動機であり目的なのである。 このような考えをその趣旨とする理論は、これまで一般に心理的幸福主義(心理的快楽主義)と呼ばれてきた。そこ で本稿もそうした表現を採用しているわけであるが、既述の如く、本稿におけるその言葉の意味は所謂﹁心理的幸福 主義﹂と完全に同じではない。前者が形式的・抽象的であるのに対し、後者は内容的・具体的であり、従って、それ は快楽的・効用的・利己的な色彩が強く、また、そもそもその概念内容は不精確且つ暖昧である。それ故、その無限 定な使用は誤解を招く恐れがあるが、ともあれ、基本的な趣旨は同一であり、従って、心理的幸福主義は普遍的に妥 当すると言うことができるであろう o 従来、否定的な見解が支配的であったが、それは、その批判に一定の妥当性が 認められるとはいえ、端的に言って誤っていたのである。本稿の目的は、それを一示すべく心理的幸福主義の正確な概 念規定と基礎づけを行なうこと、即ちその理論的な確立にあった。そしてそうした試みは、未だ不十分とはいえ、以 上の論述によって既に完了したのである。それは、 ﹁序雪己で予告しておいたように、倫理学的及び人間論的におそ らく大きな意味をもっているであろう。 こうして、心理的幸福主義は新たな基盤と形態をもって措定されたが、そのように再構成された心理的幸福主義の

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見地からするとき、倫理学又は倫理思想の歴史的な展開に対する解釈も当然変わってくるであろう。即ち、これまで とは違った見方が可能になるのではあるまいか。そこで、最後の締め括りとして、本節においては、学説史ないし思 想史に関する問題について若干の考察を付け加えておくことにしたい。というのも、そうした考察は、これまで取り 扱ってきた、心理的幸福主義の妥当性についての理論的問題とは直接関りをもたないが、その確立に対する補助的な 役割は果すであろうし、理論の理解にとっても有益であると思われるからである。またもちろん、それは、本稿の関 心とは別に単なる学説史や諸学説の個別的解釈自体に関しても、 一つの参考或は問題提起となるであろう。 とはいえ、それは何も、心理的幸福主義の見地から学説史全体を見直すなどということを企図しているわけではな ぃ。本節の(直接的な)目的は限定的であり、従って、ここで検討の対象にしようとしているのも、二・三の学説にす ぎない。ではその目的とは何かということになるが、実は既に﹁序言﹂において、私は次のように述べておいた。 ﹁︹心理的幸福主義の︺思想的系譜は(少なくとも緩やかな意味においては﹀著名な思想家を連ねており、従って、思想史 の主流を占めてきたと言っても過言ではない。心理的幸福主義は、実は古来より存在してきた一つの有力且つ伝統的 33一一心理的幸福主義の妥当性的 な 考 え 方 な の で あ る 。 ﹂ 本節はそれを受けたものであり、それ故、本節の直接の目的はそれを多少とも実証すること にある。心理的幸福主義の思想は歴史的に見て意外に広汎な土壌を形成しているのではあるまいか。言わば、心理的 幸福主義の学説史上の再評価、そして復権

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それが以下の考察の背後にある基本的な考えなのである。 それでは、それを達成するためにはどういう視点をもつべきであろうか。如何なる学説について検討すればよいの であろうか。まず、心理的幸福主義と目されている代表的な見解について見てみることは、当然である。それによっ て、倫理学史における心理的幸福主義の基盤、位置、概念などが明らかになるであろう。しかし、もちろんそれだけ では、前述した本節の目的は果されない。心理的幸福主義の意外な広がりを説くためには、そのような思想とは縁遠

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第4巻1号一一34 いと見られている諸学説においてそれが存在しているということを、示す必要があろう。心理的幸福主義(心理的快楽 主義)の要素を含んでいない、又は、それと理論的に対立する、と思われている学説、或は、それと性格的・傾向的に 相容れないと考えられている思想について考察し、それらの中に心理的幸福主義の考えが少なくとも客観的には認め られるということを、指摘しなければならないであろう。そこで、それにふさわしい検討対象とは何かということが 問題になるが、ここでは、アリストテレスとカントを取り上げてみたい。もし両者が私の予想通りであるならば、そ れらは上述の目論見にとって最適の材料と見なしうるであろう。何故なら、それらはそれぞれ、主要な倫理学説のみ ならず基本的な思想傾向や一つの時代をも代表しているからであり、且つまた、心理的幸福主義者とは見られていな いからである。心理的幸福主義が彼らをもカバーしうるとすれば、それは本節の目的に大きく寄与するものと思われ る。しかしその前に、先述の如く、典型的な心理的幸福主義者、それを自認している思想家から、入ってゆかねばな ら な い 。 学史的に見て、心理的幸福主義の最も枢要な系統は、ホヅブズからベンサムに至るイギリス経験論であろう。イギ リス経験論は、そのリアリスティックな観察に依拠することによって、総じて幸福主義的な人間観を形づくっていた と言えよう。ホップズとベンサムの聞には、 ロ ッ グ や ヒ ュ I ムを始めそれぞれ独自の意義をもっ思想家が林立してお り、いずれも注目に値する。しかし、心理的幸福主義という観点からするとき、その基礎を築いたホッブズとそれを 理論の中心に据えたベンサムとが、最も重要であろう。そこで、少なくともその二人について見ておく必要がある。 始めにホヅブズであるが、経験主義を徹底した彼は、唯物論者として、人間も一つの物体、即ち物質的な機械であ ると見倣す。従って、人間行動は全て自然界の因果法則によって必然的に決定されるものと考えるのである。即ち、 1 1 1 1 人 間 行 動 ( ﹁ 意 志 的 運 動 ﹂ ﹀ は 、 まず、対象に対する﹁接近﹂と対象からの﹁後退﹂に二分される。両者には、そ

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れぞれそのための運動が予め体内において行なわれており、接近のためのそれが﹁欲求、 悪﹂である。つまり、人間行動の基礎には欲求と嫌悪がある。それら二つの力があらゆる人間行動の在り方を決定づ 後退のためのそれが﹁嫌 けるのである。と同時に、ここに価値の観念が成立し、欲求の対象が各人にとっての﹁善﹂、 される。そして、それらは我々に対して或る一定の現れ方をするのであるが、善の現れ又は感覚は﹁快楽﹂であり、 悪のそれは﹁苦痛﹂である。このようにして、人間行動と快楽及び苦痛とが内在的・必然的・普遍的に結びつけられ 嫌悪のそれが﹁悪﹂と 35一一心理的幸福主義の妥当性伺 る。人間行動は、快楽の獲得を目的とする欲求と、苦痛の回避を目的とする嫌悪によって、完全に支配されていると いうのである。これはまさに心理的幸福主義の、しかもその最も担本的な表明であろう。 こ う し た ホ y ブズの思想は、その後のイギリス経験論の基盤を形成した。その系譜に属する人々は、自然主義者も 直覚主義者も、その徹底の程度に個人的な差があるものの、ホップズの人間観を継承していると言えるであろう。か くして、心理的幸福主義(また、それと結合して倫理的幸福主義)はイギリス経験論の一つの伝統となったのであるが、 その幸福の問題を最も精力的に取り上げたのは、言うまでもなくベンサムである。彼の思想史的意義は倫理的幸福主 義の理論を実践化したところにあると思われるが、彼はまた、心理的幸福主義の代表であると見られてきた。確かに、 それが自己の思想体系においてベンサムほどに大きな位置を占めている思想家は、他にいないであろう。心理的幸福 主義のベンザム思想における重要性は、﹃道徳・立法原理序説﹄第一章昌頭のあの有名な一節に集約的に表現されて ﹁自然は人類を苦痛と快楽というこ人の主権者の支配の下に置いてきた。ただそれらのみが、我々が何をなす い る 。 べきかということを指示し、そしてまた、我々が何をするかということを決定するのである。 一 方 に は 正 邪 の 基 準 が 、 他方には因果の連鎖が、この二つの玉座につながれている。苦痛と快楽は、我々のなす全てのこと、我々の語る全て のこと、我々の考える全てのことについて、我々を支配しているのである。従って、我々の従属を払いのけるために

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第4巻1号一一36 なしうるあらゆる努力も、それを証明し確認するのに役立つだけであろう。﹂ そしてベンサムは、このような従属を 承認しそれを思想体系の基礎とする根本的な考え方を、即ち、心理的幸福主義と倫理的幸福主義を合体させてそれを、 ﹁功利性原理﹂と呼んだのである。 斯く、ベンサムの主張は明快である。但し、彼はそれを基礎づけるために十分な論証を行なっているわけではない。 彼が主に試みているのは、単に消極的に、﹁功利性原理に反する諸原理﹂の誤りを指摘するということだけである。 それは一つには、彼自身、究極的な原理の﹁直接的な証明﹂は﹁不可能且つ不必要﹂と考えていたからであるが、そ うしたことから、彼の心理的幸福主義は理論的に成熟しているとは言い難い。つまり彼の場合、というより(先述のホ ッグズを含む﹀他の人々についても同様であろうが、その心理的幸福主義は直観的認識又は或る人間観(世界観)から する殆ど一方的な宣言に止まっているのである。しかしともあれ、ベンサムにおいては心理的幸福主義が最も根本的 な原理であり、その重要性は他の誰におけるよりも大きいと言うことができる。従ってまた、先に紹介したように、 彼は最も挑戦的・断定的に語っているのである。 ベンサムの心理的幸福主義は、 およそこうした性格をもっている。前述のように、それは一個の理論としては不完 全 で あ る が 、 イギリス経験論の伝統の上に最も明確な形で打ち出されたものであった。その後、彼の後継者であり孫 弟子にあたる J ・

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・ミルも、心理的幸福主義を唱えており、そのミルの場合には、同じ功利主義者の立場から何と ハ 9 ) かそれを弁証しようと試みている。そうした試みはベンサムに較べれば一歩前進とはいえ、しかしその説明は、それ 自体の妥当性についてはさておき、心理的幸福主義の基礎づけとしては明らかに不十分なものであった。それはとも かく、以上概略見てきたように、心理的幸福主義はイギリス経験論の一つの伝統的思想として存在してきたが、ベン サムやミルに至っていっそうの発展を遂げた。 つまり、功利主義化ハ具体的実践化﹀による客観的基準の、従って幸福

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の、クローズアップに伴って、 より重要な位置を占めるようになったのである。心理的幸福主義と言えば、(ミル以後 における反自然主義・理想主義の台頭もあり)我々が直ちにベンサムないし功利主義を連想する所以である。 学史的な検討の第一段階として、これまで、心理的幸福主義の代表的な事例たるイギリス経験論を取り扱ってきた が、予め述べておいたように、次にそれとは逆の事例、敵対的とされている事例に、移らねばならない。最初に取り 上 げ る べ き は 、 アリストテレスである。もしアリストテレスの中に心理的幸福主義の思想が見出されるとすれば、そ れは重要な意味をもつことになるであろう o 何 故 な ら 、 アリストテレスは古代ギリシャを総括し象徴する思想家であ ると同時に、有力な倫理学説たる理想主義ないしは自己実現説の主唱者であると見られているからである。そのよう なアリストテレスに、果して心理的幸福主義の存在が認められるであろうか。それを判断するためには、その準備と し て 、 まず彼の倫理学説について概観しておかねばならない。 アリストテレスによれば、倫理学の課題とは、善とは何か、とりわけ最高善とは何かということである。では、そ の課題はどのようにして達成されうるのであろうか。善が問題となるのは、それが我々の行為の目的だからである。 37一一心理的幸福主義の妥当性的 そしてそこに、最高善の探求の糸口がある。というのは!ーーそのように善が目的であるとすれば、最高善とは究極 百的であるということになる。ところが、或るものが究極目的たりうるためには、それは如何なるものの手段でもな 自己目的たりうるものが求められるが、 以外にはない。従って、最高善とは幸福であるという結論に到達する。そうすると、次に求めらるべきは、その幸福 いから、同時に自己目的であらねばならない。そこで、 それは幸福(快楽) とは何かということである。それに対して彼はこう答えている Ill-例えば、笛吹きは上手に笛を吹き、彫刻家は美 しい彫刻を造るというように、それぞれその固有の機能が果されるところに真の幸福がある。それと同じく、人聞に とっての幸福とは、人聞に固有な機能の十分な展開にある。ではその﹁人間の機能﹂とは何かと言えば、それは﹁有

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第4巻1号一一38 理的﹂な魂の働きに他ならな一山山即ち、人聞の知性的及び倫理的な卓越性(理性と徳)に即しての魂の活動であはい具 体的には、理性的生活としての﹁観照﹂と徳の実現方法としての﹁中庸﹂である。つまり、観照と中庸の生活こそ幸 福であり、従って、それが同時に最高善だというのである。但し、アリストテレスは更に、その観照と中庸について 次のように付言している│││知性的卓越性は、主としてその自足性の故に倫理的卓越性 足的ではない)に優る。また、至福たる神々にあっては徳は不要であり、観照のみが存在するから、観照的生活は神的 な生活である。それ故、中庸よりも観照のほうがより究極的な幸福なのである。 ( そ れ は 対 他 的 で あ る か ら 白 こ の よ う に 、 アリストテレス倫理学の核心は、善とは(真の)幸福であり、それは人間としての(優れた﹀特質を発 揮することである、という点に存する。ここで、本稿の関心からして注白すべきは、幸福というものが一定の内容的 な規定を与えられていることである。即ち、知性的・倫理的な卓越性をもっ善人や有徳者としての幸福とそれ以外の 幸福とが区別され、後者は真の幸福ではないとされているのである。これは、本稿の第一章一節﹁思想史的検討﹂に おいて述べた、古代における幸福論の特徴と符合しているが、 しかしアリストテレスは、確かに経験主義者・現実主 義者と見られているだけあって、実際に存在している主観的な幸福を否定しているわけではない。 つまり、彼が倫理 学で述べている幸福とは(むろん、彼の考える限りでの﹀客観的なそれであって、それ以外に、各々の人聞にのみ妥当す る主観的・個人的なるものも一つの幸福として認めているのである。そしてそのような立場から、人間と幸福の関係 について次のように語っている。それは基本的に心理的幸福主義の思想と言うことができるであろう。 即ち彼によれば、生きることは或る活動であり、各々の活動に固有の快楽はその活動を完壁たらしめる。従って、 何びとも生を希求する以上、快楽を欲しない人はいない。 ( ロ ) る。そこで、こう主張されている。 つまり、生と快とは全く不可分の一体を成しているのであ ﹁人々はそれぞれ、自らの快とするところを選び、自らの苦痛とするところが}避

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け る 。 ﹂ 人聞は自己自身の快苦によって行動するというこの言明は、抽象的ではあるが、 確かに心理的幸福主義又は(少な く と も ﹀ その傾向を意味している。 しかし、それは倫理的な行為についても当てはまるのであろうか。既述の如く、 それが心理的幸福主義に関する最大の問題点であった。アリストテレスにおいては果してどうであろうか。彼の場合、 理論的に問題はない。何故なら、彼の倫理学説の中には既にその解答が含まれているからである。即ちそこでは、先 に紹介したように、倫理的行為こそが真の幸福であるとされているからである。従って必然的に、倫理を実践する者 つまり、彼の理論の中には、倫理的行為における心理的 幸福主義の貫徹ということが内在的に含まれているのである。そしてそれだけではない。その貫徹については、単に は自ら最高の幸福を手に入れるということになるであろう。 理論的必然性というだけではなく、実はアリストテレスの特に強調しているところなのである。それは﹁自愛﹂に関 する次の如き言説に明白に示されている。 アリストテレスは逆説的にも、正しいことや節制的なことといった徳を行なう人、即ち善き人こそ、最も自愛的で 39一一心理的幸福主義の妥当性肺 ﹁何故かと言うに、彼は最もうるわしきもの、最高の意味における善きものを自己に配し、自己のうち の最も優位的な部分を満足せし一回るからである。﹁彼は財貨とか名誉とか総じて人々の奪い合う諸々の善を放棄す ることを辞さない。但しその際、行為のうるわしさをば自分に占有しつつ││。けだし、彼は永い聞にわたってなま ぬるく快楽するよりも短く激しく快楽することを選び、また、長年月を何でもなく生きるよりも一年でもうるわしく 生きることを選び、更にまた、多くの瑛末な行為よりも一つのうるわしく大いなる行為を選ぶのである。生命を犠牲 にする人々における事態も、思うにこうであろう。:::彼は自分自身に対して H より大きな善 H を配しているわけで ハ 却 ﹀ あ る 。 ﹂ あ る と 言 う 。

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第4巻1号一一4<1 以 上 の よ う に 、 アリストテレスは、生と快とは不可分であり、誰でも自己自身にとっての快を求めるということ、 それは倫理的行為においても妥当し、むしろ善き人こそ真の幸福を得ょうとするということを、説いている。従って、 彼は心理的幸福主義者であると、或は少なくとも、彼の理論には心理的幸福主義の要素が含まれていると、言うこと ができる。そしてそうであるならば、予め指摘しておいたように、それのもつ思想史的な意味は小さくないであろう。 心理的幸福主義の基本的な考え方は、既に倫理学の成立期において、 しかも、様々の意味で決定的な重要性をもっア リストテレスの思想の中に、認めることができるのである。 アリストテレスはこれぐらいにして、次はカントである。これまでイギリス経験論に続いてアリストテレスについ て 見 て き た が 、 アリストテレスに心理的幸福主義の思想が存在していることは、実を言えば不思議ではない。という の は 、 一般に心理的幸福主義は(既述の如く)倫理的幸福主義と結びついているが、 アリストテレスもイギリス経験論 と共に倫理的幸福主義の大きな流れに属しているからである。両者の違いはその幸福観念にある。アリストテレスの しかもより大きな幸福に、価値を 幸福観念はイギリス経験論の自然主義的なそれとは異質であるが、 し か し 幸 福 に 、 認めるという根本原理は同一であり、彼は広い意味での倫理的幸福主義の始祖と言うことができるのである。ところ が、カントの場合には、もしそこに心理的幸福主義の思想が見出されるとすれば、(支配的な見方からして)全く意外で あろう。何故なら、周知の如く、厳粛主義(リゴリズム)と呼ばれるカントの倫理学説は、幸福主義に対立するもう一 つの主要な潮流を形成しており、 カントは反幸福主義のチャンピオンとされてきたからである。従って、カントにお ける心理的幸福主義の存在がもっ意味は、更に大きなものがあると言えよう。ともあれ、 カントの理論展開を以下跡 づけてみなければならない。彼は人間と幸福の関係について次のように論じている。 ﹁あらゆる傾向性はまさしく幸福という観念に総括されているが故に、あらゆる人聞は幸福への最も強力且つ内在

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八 2 v 的な傾向性を既に自らもっている。﹂ そしてそれは、人間存在の根本的性質に由来する。 ﹁幸福であることは、必然 的に、理性的だが有限的な全ての存在の要求であり、従って、彼の欲求能力の不可避的な規定根拠であ硲 w ﹂ そ う で ﹁ あ ら ゆ る 実 質 的 な ( 却 ち 、 欲 求 能 力 の 対 象 を 意 志 の 規 定 根 拠 と し て 前 提 す る よ う な ) 実 践 原 理 は 、 : : : 全 て 完 門 用 品 ) 全に同一種類のものであり、自愛又は自己幸福の普遍的原理に属する。﹂ あ る 以 上 、 つまり、欲求能力に基づく行動原理は全て 自己幸福の原理に他ならないというわけである。このようにカントは、人間行動と自己幸福との必然的な関係の存在 を指摘しているのである。 しかし、それはまだ心理的幸福主義を意味してはいない。欲求と自己幸福との普遍的な結合ということだけでは、 不十分である。何故なら、それは同時に、欲求能力に基づかない実践原理は自己幸福の原理に属さないということを も含意しているからである。ところでカントによれば、人聞は単に欲求能力(感性)をもつだけではなく、理性的な存 41~一心理的幸福主義の妥当性的 在でもある。そして、その理性的意志の規定根拠は幸福にはなく、従って、﹁形式的﹂な実践原理は自己幸福の原理 ではない。そこでカントは、幸福獲得の意図或は目的は﹁全ての人聞が自然必然的にもっていると前提することがで 円引曲﹀ きる﹂としながらも、それが究極的に唯一可能な意図・目的であるとは言っていないのである。 だが、欲求能力に全く基づくことのない形式的な、即ち完全に理性的な実践原理は、﹁有限的存在﹂たる人聞に果 して可能なのであろうか。人聞が一面において理性的でありながら、また常に感性によって触発されざるをえない有 限的存在であることは、 カント哲学の大前提であり、彼の常に強調しているところである。その場合、もし人間の意 志が時と場合によって理性に規定されたり感性に触発されたりする、 ( お ﹀ こともありうる(﹁純粋意士山﹂)というのであるならば、なるほど、形式的原理も一時的・散発的には可能である。しか つまり、純粋に理性のみによって規定せられる し、人間が理性的

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つ有限的な存在であるという場合、その意味は、黒であったり白であったりする(即ち言わばこ面

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第4巻 1号一一42 的存在)のではなく、完全な黒にも完全な白にもなりえない、即ち、濃淡の差はあれ常に灰色たらざるをえない♀一口わ ば中間的存在)ということであろう o もしそうでなければ、有限的でない人聞の出現が原理的に可能であるということ になり、自己矛盾に陥ってしまうからである。そこで、ヵントの前提からして、完全に形式的な意志規定は人間には 只の一度でさえも不可能だということになる。そうであるからには、実質的原理が全て自己幸福の原理に属する以上、 人間は常に多かれ少なかれ﹁自己幸福の普遍的原理﹂を免れえないということにならざるをえないであろう。 そして、実はカント自身においても、形式的実践原理なるものは達成不可能な単なる理念に止まっているのである。 ﹁この原型(即ち、神聖な意志という実践的理念)に無限に接近することが、あらゆる有限的な理性的存在に可能とされ る唯一のことである。それ自体神聖と呼ばれる純粋な道徳法則は、この理念を絶えず且つ正しく彼の眼前に示すので ある。彼の格率のこの無限に進行する進歩と絶えざる前進への恒常性とを確実にすること、即ち徳は、有限的な実践 ( 市 m v 理性が実行しうる最高のものである。﹂ カントにおける形式的原理の非現実性は斯く明白であるが、 そ れ で も な お 、 一時的に神聖な意志となる可能性が完 全には否定されていないと主張されるかもしれない。しかし、そうではないのであって、 カントは、道徳的行為にお いてすら存在している自己幸福的なるものを最後まで無視することができなかったのである。それどころか、その自 己幸福的なるものを逆に積極的に評価せざるをえなかったのである。即ち彼は、有限的存在による道徳的実践を可能 ( 刀 ) にするために、﹁道徳性の意識と、それに比例するその結果としての幸福への期待との、自然的及び必然的な結合﹂ ( お ﹀ ﹁実践理性の二律背反(徳と幸福との矛盾)の批判的解決﹂として提起し、そしてそれを﹁最高差己と見なしてい を る の で あ る 。 むろん、この場合の﹁幸福﹂ ( E C n r 凹巾ロ

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とは、通俗的な意味におけるそれとはやや異なる。それは、彼によ

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れ ば 、 ﹁自己の傾向性に対する支配の意識、それ故同時に、傾向性からの独立性の、従ってまた傾向性に常に伴う不 満足からの独立性の、意識、そしてそれ故に、 自己の状態についての消極的な適意(当 c E m m E F D ) 、即ち、その根源 においては自己の人格に対する満足であるところの満足

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﹂であり、(所謂快楽ではなく)﹁一種の快楽 ( 羽 ﹀ ( の

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忌)﹂である。つまり、この、﹁徳の意識に必然的に伴わなければならない幸福の類似物(﹀ E E m c る ﹂ は 、 ( 所 謂 ( g v 幸福ではなく﹀正確には﹁自己満足﹂であり、それも﹁耽美的﹂満足ではなく﹁知性的﹂満足であるというのである。 しかしながら、このような知性的自己満足、即ち、自分は低劣な自然的欲望から超越しているという意識、そのよう に高貴な人格を自分はもっているのだという自負が、決して﹁幸福の類似物﹂などではなく、正真正銘の幸福、むし ろ最も人間的な幸福であることは、言うまでもない。自尊心や倫理的充足感が我々人聞の主要な幸福でなくて何であ カントは道徳から幸福を排除するどころか、逆に幸福を﹁最高善﹂の中に含めざるをえなかったと、 ろ う か 。 従 っ て 、 見ることができるのである。 更にそればかりではない。カントは動機についても幸福の存在を、 しかも同じく積極的に、認めているのである。 43一一心理的幸福主義の妥当性的 彼 に よ れ ば 、 ﹁ 純 粋 な 道 徳 的 動 機 ﹂ は 、 ﹁人間に自己本来の威厳在感ずるよう教えるものであるが故に、自己自身に とって予想外の力を心に与えることによって、あらゆる感性的執着から、それが支配的になろうとする限り、離脱せ しめ、そして、自己の可想的本性の独立性と自己が到達すべきと考える心の偉大さの中に、自己の捧げる犠牲に対す る豊かな賠償を見出さしめるよということは、カントの特に力説している純粋な道徳的動機(﹁道徳的心術﹂﹁モラリテ 1 ト﹂)とは、実際にはこのように不純なものであったということである。有限的な存在が全ての感性的執着から離脱 するには(何と/)﹁豊かな賠償﹂が必要であり、我々の最も純粋な道徳的動機ですらそれを要求せ、ざるをえないとい うのである。自己の﹁威厳﹂や﹁心の偉大さ﹂を意識することは、確かに﹁豊かな賠償﹂であろう/

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第4巻1号一一44 カント自身によるこのような、道徳における幸福の積極的是認は、厳密に言えば、彼自身の形式主義倫理学を根底 から突き崩すものである。それはただ、彼の或は俗世間の浅薄皮相な幸福観念を前提する場合にのみ、矛盾なく成立 ( 誕 ﹀ しうる。彼は幸福を専ら感性的なものと見、従ってまた、享楽的・快楽的なものと考えていた。それに基づいて彼は、 道徳における﹁幸福の類似物﹂は、傾向性から超越しており欲求能力の対象たりえないから、幸福とは呉質のもので あると考えたのであろう。その限りにおいては、彼の理論体系自体に矛盾があるわけではない。しかし、自己の理性 的能力又は道徳的人格に対する精神的な満足感は、疑いもなく我々が幸福と呼びうるものである。だとすれば、 カ ン ト倫理学の理論的整合性の如何にかかわらず、彼の形式的な実践原理もまた実は、究極的・根本的に﹁自己幸福の普 遍的原理に属する﹂と言わねばならない。つまり、厳粛主義者と言われるカントですら、純粋に﹁道徳的﹂な人間行 動を主張することができなかったのである。我々が有限的な存在である以上、我々は自己幸福原理から絶対に逃れら れないということである。カントが﹁最上善﹂の完全な実現のために﹁霊魂の不滅﹂を﹁要請﹂していることは、逆 に、人聞が人間である限り心理的幸福主義の支配を免れることができないということを、物語っているであろう。ま さに霊魂不滅の要請は、 カント倫理学の反幸福主義がもっ限界の露呈であり、 カント自身によるその正直な告 ま た 、 白 な の で あ る 。 このように見てくるならば、我々はカントにおいても心理的幸福主義の存在を明らかに認めることができるであろ ぅ。ヵントの主観的意図はともかく、少なくとも彼の理論には、 心理的幸福主義に結びつかざるをえない諸要素が客 観的に含まれているのである。かくして、善と幸福の同一性を説いたアリストテレスやイギリス経験論者のみならず、 両者の峻別を力説したカントもまた、 心理的幸福主義の事実を容認した、或はせざるをえなかったということになる。 否 む し ろ 、 カントが道徳の幸福からの独立化にあれほど専心し徹底し、 しかるに失敗したことは、彼こそが心理的幸

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福主義の事実を最も深刻に受け止めていたということと同時に、その事実の真理性をも、示しているように思われる。 カント倫理学のライトモチーフは、 まさに幸福からの完全な超越という仕方による普遍的な道徳世界の確立にあった にもかかわらず、彼は形而上学的要請の中においてしか全ての幸福を真に排除することができなかったのである。 以 上 、 ( イ ギ リ ス 経 験 論 ) 、 ホ V プズとベンサム アリストテレス、それにカントについて、簡単に検討してみた。そ し て そ の 結 論 は 、 ホップズ・ベンサムのみならずアリストテレス及びカントにおいても、心理的幸福主義の思想又は 45-一心理的幸福主義の妥当性的 論理が存在しているというものであった。同じく心理的幸福主義と言っても、もちろんその内容はそれぞれ完全に同 一というわけではない。しかし、上述の分析が示す如く、基本的な共通性は確かに認められるのである。 そうであるならば、予め述べておいたように、そのような﹁事実﹂はいくつかの重要な意義をもっているであろう。 それらのうち、ここで改めて言及しておきたいのは、本節の直接的な関心事である、学史上における心理的幸福主義 の復権に関る意義である。その点については、既述の如く、これまで検討してきた三者の学史的な位置を考えれば明 らかであろう。アリストテレスは古代を代表し、イギリス経験論とカントは(カントに綜合的側面があるとはいえ﹀近代 における二大潮流を形づくっている。中世が抜けているが、実はキリスト教の思想家にも心理的幸福主義の、又はそ ハ 訂 ﹀ れに通ずる、要素が存在していると見られるのである。だとするならば、心理的幸福主義の思想は極めて大きな広が りをもっているということになるであろう。その理論的地位の相違や自覚の強弱はあれ、立場や時代を超えた普遍性 をもっていると言うことができるであろう。このことがおそらく心理的幸福主義の真理性を反映し、且つそれを逆に 証拠立てていることは、始めに示唆しておいた通りであるが、それはまた、幸福という観点から倫理学の歴史を見直 し、諸学説の発展や関係を整理するということの必要性と可能性を、物語っているように思われる。そしてこれは、現 代倫理学の革新に連らなる作業ともなるであろ一ゆだが、むろんここでは、ただこのように言及しておくだけである。

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第4巻1号一一46 とまれ、本節で試みた学史的考察をもって本稿を終えることにする。心理的幸福主義は人間存在の本質に関る。そ れ故、その問題は非常に根本的であり、従って大きい。私ももちろん、一篇の論文によってそれに結着をつけうるな どとは毛頭考えていない。しかし、本稿によって、この間題の適切な考察及び解決のための一つの突破口は少なくと も聞きえたのではないかと思う。というのはつまり、もし心理的幸福主義が妥当であるとするならば、それは本稿で 示されたような意味においてのみではないか、また、もし心理的幸福主義の論証が可能であるとするならば、それは 本稿で展開されたような仕方による以外にないのではないかと、私は考えているからである。本稿の論述が不完全で あることは、言うまでもない。個別的・具体的な内容に関して、様々の不足や欠陥が指摘されよう。しかし、その基 本的な方法や論理について言えば、それらは心理的幸福主義の確立にとって有効な唯一のものではないであろうか。 私がこのように些か大胆な言い方をするのは、 一つには、これまで心理的幸福主義に関しておよそ論証というものが 欠けていたからである。それは、単に直観的な認識として主張されたり自明の事実として前提されるのが常であった。 従って、必然的にまた、それは批判に対する効果的な答えを殆ど見出せないでいた。そのような情況を打破しなけれ ば、(貫一(の意味での﹀心理的幸福主義の思想が理解を得ることはありえないであろう。拙稿がそのための契機となり、 更に願わくば原動力となることを、期待している次第である。 ( 1 ) ( 2 ﹀ ( 3 ) ( 4 )

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c σ σ 2 ・ h m g . a H b a 誌(]岳町 H ) ・ 開 ︿ 向 山 門 山 、 52 ぺ 印 ピ σ E 3 、 品 川 } H W 円 。 ロ 仏 C ロ h F Z 2 ミ ペ C 円 - r 同y N ω -N 守九位ニ可 -M A H ・ ﹂ g N 札 ・ ・ 匂 -M 印 ・ ﹄・国内口気回白 B -凡同誌同誌守口九宮内リ虫色、悼芯忌町、之さ込(叉間的色、恒山﹃色、、白目 h a w 白 色 h 同句弘之島忠言悼(見∞坦﹀ w 民 同 同 口 町 同 J Z m 唱 J R O 円 四 rHUAH ∞ -同vH

(17)

-47一一心理的幸福主義の妥当性的 ( 5 ) 句 史 民 よ 同 ) 勺 ・ ャ 日 ・ ( 6 ) ﹂ ﹃ v R -n F m w M Y N -( 7 ) ﹂ ﹃ 忠 弘 -w H ︼ -A H ( 8 ) 例えば、このような論述もある。﹁なさるべきことはこれやあれやであっても、それをするよう究極的にさせられうるの は、ただ苦痛か快楽によるのである。﹂

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或はまた、﹁苦痛と快楽は、種々の行動様式と結びつくことによっ て動機として作用するし、また動機として作用しうる全く唯一のものである。﹂ ( H E 件 、 匂 -N 印 P H ・ ﹀ ( 9 ) ﹄ ・

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] 戸 叩 岱 也 -n v 印 刷 Y A H -ハ叩)アリストテレス﹃ニコマコス倫理学﹄(高田三郎・訳)、﹁世界の大思想﹂2、河出書一房一、二四 l 五 頁 。 (日)同右、二五六頁。 ( ロ ) 同 右 、 一 二 七 頁 。 (日)同右、二二三頁。 ( U H ) 同右、四

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頁 。 (日)向右、二二三 l 六 真 。 (日)同右、二二

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二 一 貝 。 点 線 は 中 略 。 ( 幻 ) 同 ・ 関 山 口 FCH 、 ミ ミ h m h S H h N 宮 司 、 h b s v b H h 怠 色 町 ﹃ め む な 誌 ( コ ∞ 日

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・括弧は引註。点線は中略。 ( 但 ﹀ 同 ・ 同 国 ロ 件 ・ C M Y 宮 崎 え な h 判 官 、 時 A h ( 巾 己 ・ 門 戸 仲 -Y ω ・ ω a ・

(18)

第4巻1号一一48 ( お ) 同 ・ 関 田 口 F 同 3 . H 凡 骨 ・ ( 巾 己

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∞・宮島光志﹃尊厳性と幸福││カント倫理学への一視角﹄、﹁倫理学年報﹂(日本倫理学会・編)第三九 集、一九九

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年 、 五 五 頁 参 照 。 ( お ) 宮 島 ( 前 出 ﹀ 、 六 三 頁 参 照 。 (お)戸間

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円 ミ ミ F ・ ハ 包 ・ 門 戸 丹 -Y ω ∞ -E O 1 H ・ (幻)中世キリスト教哲学(神学)を代表するのは、周知の如く、アウグスティヌス(時代的には古代だが)とトマス・アクィ ナスである。まずアウグスティヌスについて言えば、彼の人生そのものが幸福の飽くなき探求の連続であり、そのための苦 闘であった。そして彼自身、幸福目的の普遍性について例えばこう述べている。﹁もし二人の人聞に向かい、 H 兵隊になりた い か μ と尋ねたならば、一人は H なりたいヘ他の一人は H い や だ u と答えるかもしれません。ところが、もし彼らに、 w 至 福になりたいか u と尋ねたとしたら、二人とも直ちに、何の薄踏もなく、 H なりたい H と答えるでしょう。前者が兵隊にな りたい、後者がなりたくないと思うのも、他でもない、至福になりたい一念からです。二人が別のことを欲するのは、おそ らくそれぞれ喜びを得ょうとする仕方が異なるからではないでしょうか。にもかかわらず全ての人は、至福になりたいと願 う点では一致しているのです。それはちょうど、もし n 喜びたいか μ と尋ねられたならば、万人の答えが一致するであろう のと同じです。この n 喜 び H こそは至福の生と呼ばれるものです。/この喜びを、或る人はこの道により、他の人はあの道 によって追求していますが、全ての人間か到達しようと努力している目標はただ一つ、喜ぶことです。﹂(﹃告白﹄、山田品・

(19)

49一一心理的幸福主義の妥当性的 訳 、 ﹁ 世 界 の 名 著 ﹂ 問 、 中 央 公 論 社 、 一 二 六

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頁 。 斜 線 は 段 落 。 一 二 五 六 ! 九 頁 参 照 。 ﹀ 次にアクイナスも、同様に、﹁人聞は自然本性的に至福を熱望する﹂ Q 神学大全﹄、山田品・訳、﹁世界の名著﹂却、中央 公論社、一一二頁﹀とか、﹁我々の意志は必然的に至福を意士ゆする﹂︿同四五八頁)などと、繰り返し述べている。のみな らず彼には、次の如き、幸福の究極性・自己目的性を認める論述も、見られるのである。﹁欲求の動きを終わらせるものは、 それが熱望されたものそのものにおける H 憩 い μ で あ る 限 り に お い て は 、 H 快 u に 他 な ら な い 。 ﹂ ( 同 一 一 一 四 1 五頁) 図に、(中世ではないが)一般のキリスト教的思想家についても付け加えておくならば、例えば(近代又は近世の)パス カルは、より決定的にこう語っている。﹁人聞は幸福であろうと願い、幸福であることしか願わず、またそう願わずにはい られないよ(﹃パンセ﹄、前回陽一他・訳、﹁世界の名著﹂別、中央公論社、一一一一六頁)或はまた、(アウグスティヌスと同 じ例を引いて)﹁全ての人は、幸福になることを探し求めている。それには例外がない。どんな異なった方法を用いようと、 皆この目的に向かっている。或る人たちが戦争に行き、他の人たちが行かないのは、この同じ願いからである。この原いは 両者に共通であり、ただ異なった見方がそれに伴っているのである。意志というものは、この目的に向かってでなければ、 どんな小さな歩みでも決してしないのである。これこそ全ての人間の全ての行動の動機である。首を吊ろうとする人たちま で 含 め て 。 ﹂ ( 間 二 二 六 頁 。 ﹃ 幾 何 学 的 精 神 に つ い て ﹄ 、 同 書 五 一 七 頁 参 照 。 ﹀ 更に現代のキリスト者では、例えばトルストイに心理的幸福主義の思想が見られる。即ち彼は、真の幸福は動物的自我に 基づく個人的な幸福にではなく、理性に基づく愛に、それによる永遠の生命に、あるとしながらも、幸福追求の普遍性自体 は認めているのである。﹁人は誰しも自分の利益のため、幸福のためだけに、生活している。自分の内にこの幸福に対する 欲求を感じないなどという人がいたら、その人は自分を生きているものとも感じていないのである。人は自分の幸福を願わ ずに人生を考えることなぞできはしない。誰にとっても、生きるということは、とりもなおさず、幸福を願いそれを手に入 れるということなので、幸福を願い手に入れるということが、結局、生きるということになるのである己 Q 人 生 論 ﹄ 、 米 川 和 夫 ・ 訳 、 ﹁ 世 界 の 人 生 論 ﹂ 1 、 角 川 書 庖 、 四 一 一 貝 ) (犯)こう書いてから‘私は三木清の次のような言葉を思い出した。﹁今日の人聞は幸福について殆ど考へないゃうである。試 みに近年現ばれた倫理学書、とりわけ我が国で書かれた倫理の本を開いて見たまへ。只の一個所も幸福の問題を取扱ってゐ ない書物を発見することは諸君にとって甚だ容易であろう。かやうな書物を倫理の本と信じてよいのかどうか、その著者を

(20)

第4巻1号一一50 倫理学者と認めるべきであるのかどうか、私にはわからない。疑ひなく確かなことは、過去のすべての時代においてつねに 幸福が倫理の中心問題であったといふことである。ギリシアの古典的な倫理学がさうであったし、ストアの厳粛主義の如き も幸福のために節欲を説いたのであり、キリスト教においても、アウグスティヌスやパスカルなどは、人聞はどこまでも幸 福を求めるといふ事実を根本として彼等の宗教諭や倫理学を出立したのである。幸福について考へないことは今日の人間の 特徴である。現代における倫理の混乱は種々に論じられてゐるが、倫理の本から幸福論が喪失したといふことはこの混乱を 代表する事実である。新たに幸福論が設定されるまでは倫理の混乱は救はれないであらう。﹂(﹃人生論ノ l ト ﹄ 、 新 潮 文 庫 、 一 五 貰 )

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