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アジアの多文化共生への道

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はじめに    近年、アジアは、急速な経済発展に伴い、世界最大の地域経済圏を形成しつつある。そ の背景には、ASEAN+3、ASEAN+6、ARF(ASEAN 地域フォーラム)、上海協力機構、 六カ国協議等の地域協力機構のネットワークの形成がある。言い換えれば、経済、政治、 安全保障等様々な分野において重層的な地域共同体の形成が着実に進展しつつある。しか し、共同体は構成員である人々の一体感を創り出すための共通の意識・価値観等の文化的 アイデンティティによって初めてその基盤を強固にすることができる。そのための重要な 作業の一つに ‘文化交流’ がある。例えば昨今の、民間交流による日本のマンガ・アニメ 等のポピュラー・カルチャーのアジアへの浸透ぶりには目を見張るものがある(1)。このよ うな現象は将来の共通の価値観の創出に寄与すると思われる。  国際交流基金(以下、基金とする)は、政府の対外文化交流機関として、1972 年 10 月に設立された。その主たる目的は、国際文化交流事業を通じて、諸外国との相互理解を 深め、文化による国際貢献によって、世界の平和構築に寄与することである(2)  本稿では、基金のこれまでのアジア関係の文化事業を概観し、多文化間のネットワーク 形成、さらには将来に向けての平和的共生への可能性を模索してみたい。  従来、文化交流は、民間レベルによっても活発に行われてきた。しかし、民間交流にお いては、持続可能な大規模かつ多角的なプロジェクトのために人材や運営経費を確保する ことは困難である。過去約 40 年にわたり、国際交流基金は、グローバル化時代における 多文化間の理解と交流を図るべく、公的機関として長期的観点から諸事業を地道に継続し て展開してきた(3) キーワード:文化交流、多文化共生、アジア、知的交流、国際交流基金

アジアの多文化共生への道

小 熊  旭

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Ⅰ 双方向の文化交流プロジェクト(1970 年代~ 80 年代)   ◆ アジア伝統芸能の交流(1970 年代)  基金は、1972 年の設立以降の数年間においては、限られた公的資金を効率的に活用す るために、主として一方通行の「日本文化の海外紹介」活動を中心に、各種事業を行って きた。具体的には、日本紹介のための公演・展覧会、図書出版物の展示、映画及びテレビ の放映、さらに海外における「日本週間」の開催等である。また、主要な事業対象国とし ては、北米及び東南アジア諸国を二つの基軸として事業が進められてきた。  しかし、ここで重要なのは、1972 年4月の国際交流基金法の国会議決にあたり、「我が 国に対する諸外国の理解を深めることだけではなく、我が国民の諸外国に対する理解を深 めることもきわめて重要であることを特に留意すること」との付帯決議がなされていたこ とである(4)。言い換えれば、「「日本文化の海外への紹介」だけではなく、「海外文化の日本 への紹介」という「双方向交流」に注意を払い、努力すべきであるとされていたのである。  この付帯決議に基づき、基金は、1976 年、アジアとの相互理解を促進する目的から主 催事業として「アジア伝統芸能の交流(略称 ATPA)」プロジェクトを開始した。その内容は、 日本に知られていないアジア各国の舞台芸術を日本に紹介するもので、3年間を1サイク ル(1年目:現地調査と計画の策定、2年目:日本での公演と学術セミナーの開催及び学 術データの収集、3年目:英文報告書、16 ミリ映画、レコードの作成と刊行等)として 1987 年までに5サイクルにわたって実施されたものである(このプロジェクトで紹介さ れた国々は、東アジア、東南アジア、南アジアさらには西のイラン、トルコにまで及んだ)。  第1回のプロジェクトは、「日本音楽の源流を訪ねて」のテーマのもとに、1976 年3 月後半から4月初めにかけて、インドネシア、マレーシア、フィリピン、タイ及び日本各 地からの伝統音楽の演奏者が東京(国立劇場)で公演を行い、学術セミナーが開催された。  今から約 40 年前の 1974 年から始まった「アジア伝統芸能の交流(略称 ATPA)」プロジェ クトの企画と基本方針の策定に関わった、アジア音楽の専門家である小泉文夫東京芸術大 学教授(故人)は、第1回の実施結果を振り返り、次のように語っている(5)  私が「アジア伝統芸能の交流」を最初に考えましたとき、そのねらいというのは、 次のようなものでした。(中略) 私たちの中に奈良、平安、鎌倉、そして江戸時代の 日本人とつながっている面もあるし、周りのアジアの伝統とつながっている面もある。 そのことを、日本音楽とアジアの伝統音楽とを比べながら、いかにその関係が深いか、 似ているところはもちろんのこと、違うところがあれば何故違うのか、どのように違 うのか、一歩深く踏み込みながら、学問的にも根拠のあるものをつくろうとしたわけ です。(中略)  私たちの感覚の中に、(中略)共感する気持ちがあったのだということがわかった。

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そして日本音楽の中にもこれらと共通した根があるということもわかった。なぜそう なったのかといえば、東南アジアと比べたからなんです。(中略)  アジアの音楽と日本音楽を並べていっしょに聴いたときに、アジアの音楽のすばら しさと同時に、日本音楽のすばらしさもわかる。  ここには明らかに、「双方向交流」を行った結果、日本とアジア双方の「自他の発見」 があり、そのことによりお互いが辿り着くことのできた「共通の文化的アイデンティティ」 の創出を見出すことができる。その意味で、「双方向交流」を契機として、この「アジア 伝統芸能の交流」プロジェクトは、将来のアジアの共同体形成に向けた先駆けとしての役 割を果たしたと言えよう。  その後、1979 年1月、基金は、中国との初の政府間文化交流事業の一環として日本の 伝統演劇である「歌舞伎」を中国に派遣し、北京、杭州、上海を巡回公演した。また「双 方向交流」を実現するために、同年9月には、中国の伝統演劇である「京劇」を日本に招 聘し、東京、神戸、大阪、福岡、名古屋で巡回公演を行い、両国の間で二つの伝統文化の 異質性と共通性に対する認識を相互に深め合うことができた。 ◆ 「外国文化の日本への紹介」事業の拡大(1980 年代)  さらに、「双方向交流」を促進するための「外国文化の日本への紹介」は、1982 年、 基金の創立 10 周年記念事業として実施した「アジア文化」紹介事業によって本格化して いく。主要なものとしては、同年9月中旬に開催された「中国錦繍展」を皮切りに、イン ドネシアのダルマ・サンテ舞踊団公演「楽舞夢幻」、10 月初旬から半年間、北海道から沖 縄まで日本各都市を巡回開催した「国際交流基金映画祭―南アジアの名作をもとめて(略 称:南アジア映画祭)」、11 月下旬から2ヶ月間行われた「アジアの宇宙観―コスモス編、 マンダラ編」展等がある。  とりわけ、「南アジア映画祭」の企画委員会の副委員長であった映画評論家の佐藤忠男は、 この映画祭の意義や成果を回顧して以下の通り、述べている(6)  欧米の文化は自然にどんどん入ってくるが、アジアの現代文化は積極的に導入しな いとなかなか日本には伝わらない。そして現代文化のすぐれたものが入ってこないと、 その国と人々に対する尊敬の念が日本には育ちにくい。(中略)芸術的な水準の高い 作品であれば、きっと芸術家たちに対する畏敬の気持ちを引き起こしてくれるものな のである。  (中略)以後、これらの作品は日本各地のいたるところの映画界で引っ張り凧になり、 アジアへの認識と関心と親近感を高めるうえに大いに役に立ったと思う。

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 日本は日本文化の宣伝をするだけでなく、アジア諸国間の文化交流のホスト役、司 会役も心をこめて勤めるべきだということを、この経験から学んだ。  1983 年の6月には、初の「韓国現代美術展」が、東京、宇都宮、大阪、札幌、福岡で 巡回開催された。1981 年に韓国のソウルで開催された「現代日本美術展」の交換展とし て実施されたものである。  1985 年には、日中間では、7月に日本で初の「中国映画回顧上映会」が、10 月には中 国で初の「日本映画回顧上映会」等がそれぞれ開催された。  さて、1980 年代後半に日本の文化外交に新たな転換期が訪れ、文化交流が強化される ことになる。すなわち、1988 年5月4日、ロンドンを訪問した竹下登首相は、「日欧新 時代の開幕」と題する外交演説を行い、「世界に貢献する日本」の建設のために、「平和の ための協力強化」「国際文化交流の強化」「政府開発援助(ODA)の拡充強化」の三つの 柱からなる日本の「国際協力構想」を掲げた。それは、「先進民主主義国の主要な一員た る我が国にとって、世界の平和を守り、国際社会の繁栄を確保するため、その増大した国 力に相応しい役割を積極的に果たすことは当然の責任である」との信念からであった。と りわけ、三本柱の一つに国際文化交流を掲げた理由として、竹下首相は、次のように言及 している。  「広い意味での文化交流こそ、体制や価値観の相違を超え、民族と民族が互いに人間と して尊敬し理解し合う基礎をつくる上で、また政治,経済分野における関係をより円滑に 促進するうえで,根源的に重要な意味をもつもの」である。さらに、人と人は文化交流に よって繋がることができ、「国際社会の多様な文化は、いずれも人類共通の財産としてそ の普遍的価値を広く各国民が享受すべきもの」として多文化主義を尊重する。また、「異 質な文化に対する寛容な心を培うことは、開かれた国際社会、ひいては国際協調と世界平 和の構築につながるもの」である。国際文化交流はまた、「二一世紀に向けて、世界の文 化をより豊かなものにすることに貢献」するものである。この演説後、史上初の総理懇談 会「国際文化交流に関する懇談会」が設置され、国際文化交流は、内閣の主要政策の一つ となった。1989 年3月には、基金の強化のために、政府の出資金が 50 億円積み増しされ、 基金の事業展開は大きく飛躍していくことになる。 Ⅱ 平和構築のための多文化コラボレーション(1990 年代)   ◆ アセアン文化センターの設立(1990 年代前半)  こうした背景の下に 1990 年1月、基金はアセアン文化センターを新設した。初めて基 金内に「地域」を特定した制度的な機構が誕生したのである。

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 アセアン文化センターの目的は、アセアン諸国を中心にしたアジアの多様な文化を日本 に紹介することであり、その事業は、主としてアセアン諸国の舞台芸術、美術、映像等の「現 代芸術文化」を重視し、アセアンの人々が、どのようにものを考え、感じているかを日本 人に知らせることを目指したものであった。  とりわけ 1992 年は、アセアン結成 25 周年、アセアン観光年であり、また基金創立 20 周年でもあった。これらを記念して、基金は、東京都、大阪府・市、広島県・市、福岡市 との共同事業として、「東南アジア祭 ’92」を実施し、東南アジアの文化が過去に前例の ない規模で紹介された。全体テーマを自然と人間の共生するアジア世界とする展覧会「花 宇宙―生命樹―アジアの染め・織り・飾り」展を始めとして 1992 年8月から 12 月にか けては、「美術前線北上中―東南アジアのニューアート」展、「アジアこども絵画コンクー ル」、「東南アジアポップス海道」、インドネシア・日本共同制作舞踏作品「ボロブドゥー ルの嵐」、アジア4カ国共同制作オムニバス映画「サザン・ウィンズ」等、東南アジアの 文化を総合的に紹介する大規模なイベントが開催された。  「東南アジア祭 ’92」は、4ヶ月半の期間で集客数が数十万余りに達し、大成功を収めた。 この企画に携わった NHK の後藤多聞は、「私たちが見失ったアジア的豊かさ・豊穣さを 今一度思い起こす契機に、あるいは、アジアの一員としての日本を再認識する機会として 実現したい」という思いが、結果として「“花に飾られた艶やかな品々が一堂に会し、自 然と深く交感し続けたアジアの人々の心の優しさ、祈りの実をつむぎだす”(展覧会図録 より)ことができたといえるのではないか」と述べている(7)  また、1990 年から始められた「アセアン漫画家展」は、1995 年から後述するアジア センターに「アジア漫画展」として発展的に引き継がれた。この展覧会は、社会風刺を効 かせた一コマ漫画で各回違ったテーマ(例えば、「漫画に見る変わりゆくアジア」、「アジ アの女性」、「アジア―私の国の人口問題」、「アジアの食卓」、「私の隣人イメージ」、「アジ アの就職事情」等)によりアジアの実情をアジア各国で活躍する第一線の漫画家に描いて もらい、日本各地にとどまらず、アジア各国で巡回開催された。これらの事業は、老若男 女を問わず一般市民レベルでのお互いの違いと共通点を認識してもらうことによってアジ ア域内の相互理解にも大きく貢献し、アジア各国からも高い評価を得た。  これらの事業の中で、特に日本とアジアの芸術家・専門家同士による共同作業というよ りはむしろ協働作業(コラボレーション)と呼ぶべき新しい形式の文化交流イベントは、 後述する六カ国共同制作舞台公演事業「リア」を生み出す契機となったと言えるだろう。 ◆ 「平和友好交流計画」を掲げた村山談話とアジアセンターの設立(1990 年代後半)  1990 年代後半の文化交流において注目すべきは、後述の「平和友好交流計画」の一環 として、1995 年 10 月に基金の中にアジアセンターが設立されたことである。

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 これにより、1990 年に設立されたアセアン文化センターを発展的に改組し、それまで 個別的、単発的に実施してきたアセアン諸国を中心とするアジアの多様な文化の紹介を包 括的かつ継続的に行うことが出来るようになった。 同センターの目的は、(1)アジア域内各層における対話と交流を通じて相互理解を促 進する、(2)アジア地域が共通に抱える課題を解決するための国境を越えた共同作業を 推進することである。  新事業の内容は、以下の三つの領域において行われることになった。 ① アジア地域の知的交流推進 ② アジア地域の文化振興支援 ③ 日本におけるアジア理解促進 このリニューアルされたアジアセンターの重要な特色は、従来の「日本対アジア」とい う関係ではなく、「日本自身をもそのアジアの一員」として含めたことである。とりわけ「現 代」という同時代に焦点を当てたアジア域内の対話、交流、協働作業を通じて、アジア域 内の相互理解を深め、共通の価値観の形成を目ざしてゆくことが重視されたのである。  同センター設立の背景には、「国際文化交流に関する懇談会」(1994 年6月)が羽田孜 首相に提言した「アジア・太平洋の未来を作り上げる交流」を踏まえて、戦後 50 周年を 翌年に控えた 1994 年8月に、村山首相が東南アジア訪問の機会に発表した「平和友好交 流計画」に関する談話がある。すなわち、この「談話」の中で村山首相は「私は、我が国 の侵略行為や植民地支配等が多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたことに対 し、深い反省の気持ちに立って、不戦の決意の下、世界平和の創造に向かって力を尽くし ていくことが、これからの日本の歩むべき進路である」。さらに「我が国は、アジアの近 隣諸国等との関係の歴史を直視しなければなりません。日本国民と近隣諸国民が手を携え てアジア・太平洋の未来をひらくには、お互いの痛みを克服して構築される相互理解と相 互信頼という不動の土台が不可欠です」と述べるのである。  言い換えれば、過去の戦争による侵略行為に対する深い「反省」の下に、「世界平和の 創造」のためにアジア域内の交流を行うと謳っているのである。その目的の実現のために、 次の二本柱から成る「平和友好交流計画」を発足させ、「この計画の下で、今後 10 年間 で 1000 億円相当の事業を新たに展開していく」と表明したのである。すなわち、第一は、 「過去の歴史を直視するため、歴史図書・資料の収集、研究者に対する支援等を行う歴史 研究支援事業」である。第二は、「知的交流や青少年交流などを通じて各界各層における 対話と相互理解を促進する交流事業」である。  では、ここで言う知的交流とは何か。この用語の統一的な定義は確立していない。歴史 的には、第一次大戦後の 1920 年代初頭、国際連盟において「世界平和」への鍵は国家間 の相互理解を培うことであり、これは「文化的エリート層」の活発な知的協力の上に築か れなければならないと主張され、以後「知的交流」という表現が広く用いられるようになっ たのである(8)

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 従ってグローバル化する現代に即して筆者が敢えて定義するなら、知的交流とは、「多 文化共生の下、平和を希求する〈知の創出〉に向けてのコラボレーション」である。 ◆ ケース・スタディーとしての六カ国協働制作舞台公演事業「リア」  アジアセンターによる日本におけるアジア理解促進の「芸術交流事業の活動」としては、 「中国現代美術展」、日本と中国を含めたアジア六カ国協働制作舞台公演事業「リア」の演 劇公演、「アジア IN コミック展」、「アンダー・コンストラクション:アジア美術の新時代」 展、アジア理解講座等の講演、映像、展示等の幅広い分野の交流事業が実施され、日本と アジア全体の相互理解と日本におけるアジアの文化・芸術に対する理解に多大の役割を果 たすことになった。  中でも特筆すべきは、舞台公演「リア」である。これは、六カ国演劇人のコラボレーショ ンにより、1995 年9月から丸2年の歳月をかけて制作され、1997 年9月に日本で初演 された(東京、大阪、福岡)。  これは、シェイクスピアの「リア王」に着想を得ながらも、シンガポールの演出家、日 本の脚本家によって、原作を大胆に解体し、娘による父親殺しの物語として、アジア的な 様式(リアは能の俳優、長女は京劇俳優他シンガポールとマレーシアの俳優、タイとイン ドネシアの現代舞踊家と武術家、音楽はインドネシアのガムラン奏者、日本の琵琶奏者等) の中で再構築した全く新しい演劇作品である。  六カ国の出演者から構成された舞台は、それぞれの国の出演者が、各自の「母語」を使い、 伝統的な発声を用いる。言い換えると、舞台の上では、六カ国語が自由に飛び交い、シェ イクスピアの「母語」である英語は全く使用されていない。それを可能ならしめたのは、 他でもない世界的に評価の高いシェイクスピアのもつ普遍性であった。なぜなら全く新し いアジアの作品ならば、その作家がよって立つ特定の国の、特定の「文化」の視点を反映 せざるを得なくなり、アジアの作品というよりは、アジアの中の特定の国の作品となって しまう。そうした偏りを避けるためにも作品は、「普遍的な存在になっている原作」であ ることが必要であった。ここでは参加者全員が、作品に対し等距離に関わることができる だけでなく、自己の「文化」である「母語」と表現スタイルにより、自由自在に自己表現 を行うことができたと言える。  総勢 19 人のキャストと音楽家たちはシンガポールでの国際ワークショップに参加し、 東南アジアの伝統音楽・舞踊・音楽の様々なクラスで研修し、言葉やスタイルの異なる中 で、様々な不平や不満、精神的・肉体的ストレスなどを乗り越えて東京の公演にやってき たのである(詳細は『国際交流』第 78 号、第 84 号を参照)。  日本での公演を成功裏に終えた1年半後、基金は、1999 年1~2月に出演者たちの故 郷である東南アジアへの里帰り公演と豪州公演を実施した。さらにはシェイクスピアを生

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んだヨーロッパを目指し、6~7月にベルリンの「世界の演劇 1999」フェスティバル、 コペンハーゲンの「国際夏の舞台芸術 1999」フェスティバルにそれぞれ参加し、欧州の メディアを沸かせ、いずれも高い評価を得たばかりでなく、文化・芸術を専門とする有名 なテレビ・ネットワーク ARTE によって数カ国で全編放映されるに至ったのである。  ここには、紛れもなく、現代のグローバル化時代における「多様性」と「差異」を認め た上での多文化共生を目指した新しいアジア演劇の創出を見ることができる。  ちなみに、基金は、2007 年の秋に日本を含む、インド、イラン、ウズベキスタンの4 カ国が参加した「演じる女たち3部作―ギリシャ悲劇からの断章」と題する現代演劇協働 制作の作品をニューデリー、東京及びソウルで上演した。共通素材として普遍的な演劇と なっているギリシャ悲劇が提案され、国籍の異なる3名の演出家たちからは「女性の視点」 という極めて現代的なテーマが提起されたのである。  東アジア関係では、基金は、2011 年6月中旬に、「能と昆劇 現在と未来」という舞 台上演とフォーラムを開催し、2001 年にユネスコ無形文化遺産リストに登録された能と 昆劇を題材にした日中の演劇人、研究者による伝統文化の継承と創造および国境を越えた 協働の可能性を探った事業を実施し、日中両国の「共生」の課題を追求したのである。 Ⅲ 21 世紀における地球市民の文化的連帯 ◆ 日本・中国・韓国を連携する「隣交」ネットワーク  知的交流の推進は、さらに小渕恵三内閣に引き継がれた。  1998 年 12 月2日、小渕首相は東京で開かれた「アジアの明日を創る知的対話」会議 に出席し、アジア地域の平和と繁栄のためには、関係諸国の多様な知的な蓄積や才知を結 集することが必要であり、アジアの明日に向けての新たな知的相互協力の対話には、可能 な限りの支援を惜しまないと述べた。その後の成果は、同首相の私的諮問機関である「二一 世紀日本の構想」懇談会が 2000 年1月中旬に最終報告書として提出した提言の中に生か された。    日本と韓国・中国との関係は、単に外交という名で呼ぶには足りない。その関係は 外交と呼ぶには余りにも深く、にもかかわらず、十分に深まっているとはいえない。 外交的な努力だけでは掴みきれないものをすくいとり、深みのある関係を築く営みが 必要である。そういう営みを「隣交」と呼ぶことにしたい。  中国と韓国(朝鮮半島)との関係を長期的に安定させ、信頼関係を結ぶには、これ までの通常の外交努力では不十分であり、観光的、風俗的、流行的な理解では追いつ

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かない。ある種の国民的な覚悟が必要である。そういう意味での「隣交」である。  「隣交」に踏み出すにあたっては、日本人がこれら隣国の民族の歴史、伝統、言語、 文化を十分に理解することが求められる。そのためには、学校教育において両国の歴 史と日本との関係史、とりわけ現代史を教える時間を充実させるとともに、韓国語や 中国語の語学教育を飛躍的に拡充するのが望ましい。日本国内の主要な案内板には英 語と共に両国語が併記されるくらいに「隣交」感覚を研ぎ澄ましたいものである (9)  ここで明らかな通り、私たちが中国、韓国と「隣交」を結ぶためには、知的交流、文化 交流による国民的な覚悟で信頼醸成に努めなければ、北東アジア地域の連携は有り得ない。 こうした流れの中で、同年 11 月、シンガポールで行われた日中韓首脳会合で、「2002 年 日中韓国民交流年」開催が合意されるに至る。    「2002 年日中韓国民交流年」の記念事業として、基金は、「日中韓次世代リーダーフォー ラム二〇〇二」(第1回)を中国現代国際関係研究所、韓国国際交流財団と共催の形で事 業を開始した。  その目的は、日中韓3カ国から選ばれた各界(政界、財界、官界、学界、メディア、 NGO・NPO 関係者)の次世代を担う若手リーダーが、日中韓3カ国を順次訪問する合宿 形式のプログラムに参加しながら、参加者同士のディスカッション・セミナー等を通じて お互いの国に対する理解を深め、この地域に共通する問題意識を共有し、問題解決のため 国境や分野を越えて協力し合えるネットワークを形成することを目ざすものであった。  一例を挙げれば、「日中韓次世代リーダーフォーラム二〇〇五」(第3回)は、2005 年 7月 17 日から 27 日まで総合テーマ「北東アジア共同体構築のための日中韓協力」の下 に開催された。参加者が作成した「プログレス・レポート」によれば、まず第一に、開催 時期が時宜を得ていた。2005 年夏は、歴史問題を巡る論争が数カ月続き、日中韓関係が 緊迫しており、次世代リーダー達の課題と責任は重かったのである。彼らは、真摯な討論 を通じて、ダイナミックで調和のとれた北東アジア共同体の構築を目指した。主な内容は 以下の3点である。 (1) 安全保障・信頼醸成のためには「どの国も地域における覇権を追求したり、地 域の問題に一方的取り組みをしてはならない」という統一見解を持つに至り、 国連憲章その他の国際規範に則って進めること (2) 持続可能な開発に向けた経済協力のためには三国間の FTA という経済協力、ア ジアの金融の安定についてはアジア版国際金融基金を創設すること (3) 社会文化的交流と相互信頼の構築については、それが上記全ての土台であり、 協力の基礎であること、また、3カ国に共通な漢字の使用、儒教等の「多様性 の中の類似性」という考え方を検討し、さらに三国関係改善のために「日中韓 次世代リーダーフォーラム」が積極的役割を果たし、三カ国に緊密な人脈を作り、

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政府が実施するフォーラムを補足する交流プログラムを策定していくことを提 案すること(10)  このように北東アジアの共同体形成を求める知的交流活動は、地道ながらも確実に成果 を積み重ねてきている。しかしながら、知的交流活動の効果を名実ともに上げるためには、 国の体制の違いを超えて「知的交流」に関わる人材の言論の自由と独立性を確保しなけれ ばならない。例えば、討論会は非公開で自由発言を保証する等のきめ細かな配慮がなされ るべきである。発言者が所属する国の政策に縛られてはならない。 ◆ 文化政策による地域安全保障の共有    2004 年 12 月、小泉純一郎首相は、「文化外交の推進に関する懇談会」を設置した。そ の趣旨は、「我が国と諸外国の国民が、国際文化交流を通じ、お互いの理解や信頼を高め るとともに、文化の分野での国際協力を進めること」で、「世界文化の多様性を維持・発 展させ、もって、世界の平和と繁栄に貢献することは、日本外交に幅と奥行きを持たせる 上で極めて重要」であるとし、「日本における地域研究、知的交流の在り方について検討 を行うことは、日本の有識者の発信力を高め、外交の基盤をより堅固なものとするために 重要である」との観点からであった。  翌 2005 年7月 11 日に発表された同懇談会の報告書「『文化交流の平和国家』日本の創 造を」は、21 世紀の文化外交の目的を「自国についての理解促進とイメージの向上」「紛 争回避のための異なる文化間、文明間の相互理解と信頼の涵養」、及び「全人類に共通の 価値や理念の育成に向けての貢献」の3点に求めた。文化交流は、「今日従来とは大幅に 異なる重要な外交的意味を持つ。文化交流は何よりも国や市民の対外イメージの向上に貢 献し、国際社会での日本に対する好感度を上げることに寄与するものである」とした。い わゆる、自国のイメージを向上させ、自国の理解を深めるために、相手国の国民に直接働 きかけるパブリック・ディプロマシーの重視を掲げたのである。  この「懇談会報告書」の重点は、中国、韓国等東アジア地域を重点対象地域の一つとし て位置づけていることである。そこには歴史認識を始めとして問題が山積しているからで ある。「日本が過去の歴史の教訓の上に戦後六〇年に亘って平和国家としての国際貢献を 続けてきたこと、そしてこれからも信頼関係を大切にして世界の平和と繁栄に貢献してい く決意であることを丁寧に説明していくと共に、文化交流や対話、文化の面での国際協力 等を通して対日理解を促進し域内の諸国との信頼感を深め、ひいては将来の「共同体」の 形成に向けて共通の利益や価値観、一体感を醸成していくことが肝要である」。そのため の行動指針として、知日派のネットワークの整備や学生・教育交流の推進、共通する課題 に関する対話の促進(例えば、日・中・韓歴史共同研究)等が挙げられている。

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 当時、小泉首相は靖国神社参拝等で日中関係、日韓関係を極度に冷え込ませていた。し かし、それゆえにその緊急の打開策として上述の「懇談会」を設置せざるを得ない切迫し た状況にあったと推察される。    この「懇談会報告書」の提言を受け、2006 年4月、基金内に「日中交流センター」が 設立された。これは日本と中国の将来を担う若者たちに、東アジアの未来を共に創るため、 「心と心を結びあう(心連心)」機会や場を作ることを目的にしたものである。日中間の幅 広い市民交流事業と相互理解促進事業を実施するために、2005 年度補正予算で承認され 100 億円ファンド(政府出資 20 億円プラス基金が有する資金 80 億円)の運用利子により、 「中国高校生長期招聘事業」や日中市民交流等の活動を行っている。日中交流センター事 業により、基金も中国における対日イメージの向上に本格的に対応策を講じ始めたのであ る。 ◆ 「多文化共生」プロジェクトの展開  2007 年1月に開催された第2回東アジア首脳会議(EAS)において、安倍晋三首相は、 大規模な青少年交流を通じてアジアの強固な連帯にしっかりとした土台を作るため、EAS (東アジア首脳会議)参加国(ASEAN、中国、韓国、インド、豪州、ニュージーランド) を中心に今後5年間毎年 6,000 人程度の青少年を日本に招く 350 億円規模の交流計画を 実施することを発表した。それに基づき、「21 世紀東アジア青少年大交流計画」(JENESYS プログラム)が各国と関係機関との協力の下に、招聘や派遣等、様々な交流事業が始まっ た。中国からは、これまでの「日中 21 世紀交流事業」を継続・拡充し、この大交流計画 の一環として多くの高校生・大学生を招聘している。  基金は、この計画の一環として、「次世代リーダープログラム」を実施している。その 内容は、東アジアの国・地域の次代を担うリーダーとしての活躍が期待される若者(16 カ国 20 名程度)に日本の社会・文化等を理解する機会を提供し、彼らの対話や経験の共 有を通じた相互理解と連帯の深化、緊密なネットワークや共通のアイデンティティの形成 を目的としている。  初年度の 2007 年に行われた、公開国際シンポジウムのテーマは、「東アジアの異なる 文化・社会・宗教間対話」であり、総合テーマは、「多様性の相互理解を通じた共同体意 識の形成の可能性」だった。    「文化的アイデンティティ」はどのように創出できるのかという根本的な問題を取り上 げた上述のシンポジウムの発表、総合テーマの討議結果は、英文報告書として基金より刊 行されている。同報告書の文化間対話では、東アジアの国々の差異を前提とした上で、共

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通点を模索しており、例えば、米食の共通性や、西欧の影響、中国からの移民、アジア各 国の多様性という共通性の存在などが明らかにされ、統合を求めていくための提案がなさ れており、それなりの成果があったと言える(11)  問題点としては、コーディネーターの一人がコメントしているように、アジア太平洋地 域の多様性を持った各国の参加者(とりわけ中小国からの参加者)がそれぞれの国の規模、 経済発展による国力の違いなどに左右されずに率直に意見を述べられるような配慮がなさ れるべきである。  将来のアジアの域内共同体形成を目ざした基金の具体的取り組みの一つとして重要なも のに「日本語教育スタンダード」の構築がある。  多言語・多文化を抱えるヨーロッパ地域では、大欧州統合へ向けて着々と地歩を固 めており、2001 年に欧州評議会が「言語のためのヨーロッパ共通参照枠(Common European Framework of Reference for Language)」及びそれに基づいた欧州言語ポー トフォリオを完成した。言い換えれば、これは EU(ヨーロッパ連合)加盟国の人々が域 内を自由に移動できるようにするための言語教育・学習の場で共有される枠組みである。  ヨーロッパにならって、アジア域内の人々の移動を支援するために、基金は、日本語の 教え方、学び方、学習成果の評価の仕方を考えるためのツールとしての「日本語教育スタ ンダード」の構築の整備を開始した。  2005 年から数度にわたってシンポジウムを開催し、基金の目指す日本語教育とは何か、 指針はどうすべきか等の議論を重ねてきた結果、「相互理解のための日本語」を目指し体 系化することが日本語教育スタンダードにつながるとの結論に達した(12)。   こうして、2010 年7月、『JF 日本語スタンダード二〇一〇 利用者ガイドブック』が 遂に完成した。    注目すべきは、コメンテーターである韓国の同徳女子大学校 李徳奉教授の指摘である。 すなわち、「異文化間相互理解は、理解のレベルを言語的レベルだけでなく文化的レベル にまで広めて捕らえるのが望ましい」(13)。本来、言語教育の目的は、言語を理解し、相手 とコミュニケーション出来るだけでなく、相手の物の考え方・感じ方・行動の意味、すな わち文化理解にまで達する能力を高めることではないだろうか。そうすることにより、「相 互理解のための日本語教育」は、アジア、さらには世界の平和構築に貢献する国際語とし てその理念を実現することができよう。 おわりに  「東日本大震災」が発生した前年の 2010 年6月、基金が実施した「次世代リーダープ

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ログラム」のテーマは、「防災と人々のつながり:災害に強い社会の構築を目指して」であっ た。全世界の自然災害被災者総数の9割が東アジア地域に集中していると言われる中で、 共通テーマである防災について防災先進国である日本がその経験をアジアの人々と共有す る意義は大きかった。特に、防災の社会的側面として「人々のつながり」に着目し、地球 市民としての連帯を強めることを目指したもので、翌 2011 年1月下旬にも同じテーマで の企画を実施している。  偶然とはいえ、この2ヶ月後、「東日本大震災」が発生した。大震災という不運な出来 事に世界の注目が集まる中で一年後の 2012 年2月、基金は、 “教育:困難を乗り越える「し なやかな力」を育む取り組み” というテーマで、アジアの次世代リーダーグループを招聘 し、宮城県気仙沼市などを訪問し、教育を通じたネットワークづくりを継続している。    このように、基金は毎年、アジア地域にとって重要な今日的テーマや共通課題を取り上 げながら、文化発信の基地として域内の人々と地道に思索と討論の機会を重ねてきている。 2012 年には、「エネルギー安全保障:持続可能なエネルギーシステムの構築を目指して」 というように、そのテーマ選定は、個別的、具体的な喫緊の問題を扱っている。 アジア 地域の連帯と共通意識の醸成を希求するこのような知的結集の呼びかけは、持続可能な地 球環境保護を目指して、人類史的な共通課題に取り組むという多文化共生への道を象徴す る試みと言えよう。  従来、上述のように日本における公的な文化政策や交流事業は、その時々の時代状況に 応じて試行錯誤を経ながらも一定の実績を蓄積してきている。しかし、残念なことに、そ の貴重な知的財産が時空を超えて共有、継承されてこなかった嫌いがある。将来、多文化 共生による平和構築を目指すには、この反省を踏まえて、文化を礎とした国際的なコラボ レーションを、官民を問わず積極的に推進していく意志を、人々が共有することが不可欠 である。 注 (1) ポップカルチャーのアジアへの浸透ぶりに関しては、白石さや「ポップカルチャーと東アジア」 西川潤 平野健一郎編『国際移動と社会変動』岩波書店、2007 年を参照。 (2) 詳細は、次の通り。「国際文化交流事業を総合的かつ効率的に行なうことにより、我が国に対す る諸外国の理解を深め、国際相互理解を増進し、及び文化その他の分野において世界に貢献し、 もって良好な国際環境の整備並びに我が国の調和ある対外関係の維持及び発展に寄与することを 目的」(国際交流基金法第3条)とする。 (3) 国際交流基金の存在理由は、「文化交流に当たっては民間のイニシアティヴを尊重し、これを体 とすることが必要であるが、多額の費用を要するものや高度の専門知識を要するものなど民間の みの活動によることにはおのずから限界があるものもあるので、民間レベルでの交流を補完し、 またその円滑な展開を可能ならしめる基盤をつくる必要がある。政府は、このような観点から世 界各国との文化交流を安定した基盤の上で組織的・効率的に行うため」とされた。「国際交流基

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金を設立したのは、政治・経済・経済協力と並んで日本の外交政策の四本柱の一つとして文化交 流を推進しなければならない時期に来ているとの認識のもとに、積極的に文化外交を実施するた め」必要と認識されたのである(外務省『我が外交の近況』、1973 年および 1979 年)。 (4) 国際交流基金 30 年史編纂室編『国際交流基金 30 年のあゆみ』国際交流基金、2006 年、342 頁。 (5) 小泉文夫「比較して知る音楽」『国際交流』第 12 号、国際交流基金、1977 年、25 ~ 26 頁。 (6) 佐藤忠男「南からの華麗な衝撃」『国際交流』第 44 号、国際交流基金、1987 年、60 ~ 62 頁。 (7) 後藤多聞『「東南アジア祭 ’92」を終えて』『国際交流』第 61 号、国際交流基金、1993 年、108 ~ 109 頁。 (8) 1920 年代に「知的協力」は安全保障、政治、経済領域での協力に劣らず重要なものであると考 えられ、広く用いられるようになった。1922 年3月に国際連盟が「世界の知識人」を招へいし、「知 的協力」のための委員会の創設を論議し、その結果、国際連盟の一機関として「知的協力国際委 員会」が設立され、それに基づき、世界の 34 カ国で「知的協力国内委員会」が次々に設けられていっ た。入江昭『権力政治を超えて』岩波書店、1998 年、78 ~ 83 頁。 (9) 「21 世紀日本の構想」懇談会「最終報告書」2000 年 (http://www.kantei.go.jp/jp/21century/houkokusyo/index1.html)2012 年8月 11 日確認 (10) 「プログレス・レポート」国際交流基金、2005 年7月 25 日

(11) 『Towards an East Asia Community: Beyond Cross-Cultural Diversity ―cultural, Inter-societal, Inter-faith Dialogue』Edited by Yasushi Kikuchi, The Japan Foundation, Ministry of Foreign Affairs of Japan, Waseda University Institute of Asia-Pacific Studies, 2008. (12) 国際交流基金『平成 17(2005)年度 日本語教育スタンダードの構築をめざす国際ラウンドテー ブル会議録』国際交流基金日本語事業部、2007 年 (13) 李徳奉「相互理解のための日本語教育スタンダードの理念について」国際交流基金『平成 17 (2005)年度 日本語教育スタンダードの構築をめざす国際ラウンドテーブル会議録』国際交流 基金日本語事業部、2007 年、137 ~ 138 頁。 参考文献 国際交流基金 15 年史編纂委員会編『国際交流基金 15 年のあゆみ』国際交流基金、1990 年 国際交流基金 30 年史編纂室編『国際交流基金 30 年のあゆみ』国際交流基金、2006 年 国際交流基金『アジアセンター・ニュース』1997 年 国際交流基金『国際交流』第 78 号 畠 由紀「父を殺める子たち」、1998 年及び第 84 号 畠 由紀「6 カ国コラボレーション「リア」のその後」、1999 年 国際交流基金『平成 17(2005)年度 日本語教育スタンダードの構築をめざす国際ラウンドテーブ ル会議録』国際交流基金日本語事業部、2007 年 添谷芳秀・田所昌幸編『日本の東アジア構想』慶応義塾大学出版会、2004 年 西川潤 平野健一郎編『東アジア共同体の構築3 国際移動と社会変容』岩波書店、2007 年

参照

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