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「後拾遺集」巻六「冬」評釈(一)

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十月のついたちにうへのをのこども大井河にまかりて歌よ み 侍 り け る に よ め る                         大 納 言 公 任 へ = ) 落ちつもる紅葉を見れば大井河ゐせきに秋もとまるなりけり (大意U 大井河の堰に落ちつもる多-の紅葉を見ると、その堰 に秋もとどまっているように思える。 ∩鑑賞︺ 京都郊外の大井河へ殿上人たちが出かけ'そこで開催 した歌会における作品である。 この7首は、﹃風雅集﹄巻八冬にも入集しているが'南旬に異同 があり'﹃風雅集﹄ では'第二旬が 「もみぢ葉みれば」'下の句が 「ゐせきにとまる秋にぞありける」となっている。﹃大約雷公任集﹄に は「落ちつもる紅葉を見れば大井河ゐせきにとまる秋にぞありける」 安     田     純     生 とあ-、第二旬は﹃後拾遺集﹄と'下の句は﹃風雅集﹄と共通して いる。このほか、﹃今昔物語集﹄巻二十四にも'「落チッモル紅葉ヲ 見レバ大井河ヰセキニ秋ハトマルナリケリ」と見えている。つまり' 下の句に関していえば'﹃後拾遺集﹄と ﹃今昔物語集﹄とが近く' ﹃大納言公任集﹄と﹃風雅集﹄とが同一ということになる。﹃風雅集﹄ は'現存する公任の家集と同系統の本から歌を採ったと推測される'.jig. が'﹃後拾遺集﹄が「秋もと溜るなりけり」とした理由はよ-わか らない。公任の家集には'結句を「--にぞあ-ける」とした歌が多 く見られ'公任白身はこの表現を好んでいた模様である。もっとも i ﹃後拾遺集﹄にもや侶り多数見られるので'撰者の藤原通俊が「--にぞありける」を嫌って改作したとも思われない。かといって' ﹃今昔物語集﹄を典拠としたとも考えにくく、上野理氏がいわれた ( 2 ) ようにへ現存の﹃大納言公任集﹄とは別系統に属する家集か'家集 ではない記録を資料とした可能性も考慮すべきであろう。

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- 18-. : 1 4 ' ' と こ ろ で 、 と の 歌 の 主 眼 は 、 藤 払 お び た だ し ぐ ひ う か か っ て い る 紅葉に'とどまを秋を認識したところにある。紅葉が堰にひっかか っていたの.は'大井河で属冒した実景と見てよかろう。ただ'川を 流れる紅葉にゆく秋を重ね合わせた歌には'早く'ノ紀貫之の「年ご とにむみぢ葉ながす龍田川みなとや秋のとまりなるらむ」 (冒今集﹄ 巻五)があ-t Tもみぢ葉の流れて淀むみなとをぞ暮れゆく秋のとま りAiiはみる」 (冒今六帖麗こもあった。いずれも'紅葉の流れつく 川口を秋のとどまる場所として捉えた作品である。公任が'これら の二首'特に貫之の歌を学んだであろうことは十分に想像される。 一方'﹃後撰集﹄巻七には'「もみぢ葉は散る木のもとにとまりけ り過ぎゆく秋やいづioな.るらむ」 (読人不知)という'紅葉はとどま って秋の季節・dとどまかない現実を嘆いた歌があ-'この1首の発 想を少し変えたのが公任の作である。先後は明らかでないが'源道 済の「小倉山もみぢふ-しき大井河なみの心に秋ぞとまれる」 (﹃道 済集﹄)も同怨である。そこに従来の歌と異なる新しさが存するとい えばいえようが'知的なものに興味が傾き過ぎたためか'情感のと ぼしい歌となってしまっている。しかし'十月7日の作である上に' 冬まで持ち越した秋を歌って'秋の部とごく自然に連接しておりへ 冬の部の巻首にふさわしい作品である。 〇 十月のウいたをごろ紅葉の散るをよめる 大僧正深栄 ㍉たむけにもすべき紅葉の錦こそ神無月にはかびなかりけれ ∩大意︺ 手向けの幣ともなるはずの紅葉の錦も'神無月には散 ってし事っLt神のいない月でもあるので甲斐のないことでぁった。 ヽ ヽ ヽ ヽ ︹鑑賞︺・その歌も'前の公任の歌と同様'ことわりのまきった 1 , 首 で あ る ? 「神無月にはかひなかりけれ」は'単に、「神がいない月なので ・--」と解するだけでは不十分である。詞書に「紅葉の散るをよめ る」とあるの一でtI当然ながら紅葉は散っていると見なければならな い。美しい紅葉の鏡も,十月に入ると散って七㌢つゆえに甲斐がな いのである。 この深覚の歌を読んで想起きれるのは'菅原道其の「こ9たびは ぬきもi,万場へず手向山もみぢ@鏡か偽9まにま庭」(冒今集鳥丸) と」素催法師のTたむけたはつづ-の袖もきるべき叱紅葉にあける 神やかへきむ」(賢ir集﹄軌九)とである。素性の歌については,蘇 田の﹃古今集註﹄に「教養卿云'此歌ハ深覚僧正ノ夢ニ'素性ガ我 ( 3 ) 歌ノ一トゾ申ケルトイヘリ」とあ-'深覚が心に深くとどめていた 作であったらしい。もちろん'これら以外にも'紅葉を錦にたとえ たり'その関連から手向けの幣を詠んだ歌は数多い。手向けの例に 限っても 立田姫たむくる神のあればこそ秋の木の葉のぬさと散るらめ ( 冒 今 集 ﹄ 巻 六 ・ 兼 覧 ' 王 ) L秋の山もみぢをぬさと手向-れば住む我さへぞ旅ごこちする ( ﹃ 古 今 集 し 巻 六 ・ 紀 貫 之 ) 紬なびの山をすぎゆく秋なれば龍田川にぞぬきはたむくる の作は'十月下旬に詠まれた落葉の歌であり'時間の推移に基づい

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十月のウいたちごろ紅葉の散るをよめる 大僧正深栄 魂の山もみぢをぬきと手向くれば住む我さへぞ旅ごこちする ( ﹃ 古 今 集 し 巻 六 ・ 紀 貫 之 ) 紬なびの山をすぎゆく秋なれば寵田川にぞぬきはたむくる ( ﹃ 古 今 集 J l 巻 六 ・ 清 原 滞 養 父 ) わたつみの神に手向くる山姫のぬさをぞ人は紅葉といひける ( ﹃ 後 撰 集 ﹄ 巻 七 ・ 読 人 不 知 ) 遺しらば尋ねもゆかむもみぢ葉をぬさに手向けて秋はいぬとも ( ﹃ 古 今 六 帖 ﹄ 第 一 ・ 作 者 不 明 ) たむくとも手向けの神やうけざらん紅葉の錦おはぬきにして ( ﹃ 源 賢 法 眼 集 ﹄ ) 唐錦やまの木の葉をきりたちてぬさとは風ぞよもに手向くる ( ﹃ 好 忠 実 ﹄ ) などが先行作としてあげられよう。その意味では'きわめてありふ れた発想である。ありふれているといえば'結句に「かひなかりけ -」を措くのも廿とつの類型となっていた.たとえば、﹃後損壊﹄ で三首'﹃拾遺集﹄で五首、﹃後拾遺集﹄で他にこ首の例がある。47 らに,神無月という十月の称から神の非在をいうのも、深覚が最初 ではなく'曽爾好忠の歌に「何ごとも行きて祈らむと愚ひしにやし ろはありて神無月かな」 (﹃好忠集﹄)があった。ただし'深覚の時代に' 神無月を「天の下のもろもろの神'出雲にゆきてこの国に神なきゆ ゑにかみなし月といふをあやまれり」 (買義抄n とする俗説がすで に成立していたかどうかは不明である。 落葉を詠んでいる点は前歌と同じであるが、前歌が十月一日の作 であったのに対し'「十月のついたちごろ」とやや漠然としている。 この場合'「ついたちごろ」といっても'十月7日前後の意ではあ るまい。十月一日を起点とした数日間をいっ七いるのであろう。次 の作は'十月下旬に詠まれた落葉の歌であう'時間の推移に基づい て配列されているのがわかる。 Jtj+.∫ 承保三年十月'今上みかりのついでに大井河にみゆきせ昔 せ 絵 ふ に よ ま せ 給 へ 各                 御   儲 大井河ふる嘗ながれを尋ねきてあらしの山の紅葉をぞ見る ∩大層 古い時代に行事のあった大井河を私も尋ねてきて'嵐 の吹きすきぶ嵐山の紅葉を見るととだo ∩鑑賞∪ 承保三年十月二十四日に白河東息がおこな丁た大骨潮 行事での御製であを詞書に「み.か-のづいでに」とあるのは、大 井河での遊覧が贋造遥にともなう行事であったためである。﹃扶桑 略記﹄や﹃柱史抄﹄下巻によれば,梅津に行宮が設けられ、.大井河 には、天皇の御船をはじめへ公卿の船が二艇'さらに殿上人の船' 内記外記などの船が浮かべられたという.この府率の性格について ( 4 ) は'橋本不美男氏が詳細に論じられている0橋本氏によると'白河 ∵ ■ ーれ ︼ 天皇は、延茜七年九月に営まれた字多法皇・醍醐天皇の大井河行事 を強く意識していたようである。第二旬&.ごるきながれ」 、は'具 体的には延喜七年の大井河行幸を指し'川の嫁で「ながれ」を出し てきているのである。 いうまでもなく'「あらしの山」は、地名「嵐山」であると同時 に嵐の吹きすきぶ山で.もある0.したがって(嵐山の紅葉は'嵐によ

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-20-って散り乱れているはずである。そのことは' 朝まだきあらしの山の寒ければ紅葉の錦きぬ人ぞなき ( ﹃ 拾 璃 集 ﹄ 華 三 ・ 藤 原 公 任 ) ︰風はやきあらしの山のもみぢ薫も下にはとまるものとこを聞け ( ﹃ 実 方 策 ﹄ ) 散りまがふあらんの山の紅葉ゆゑ心つ-きぬときのなきかな ( ﹃ 小 大 君 集 ﹄ ) 蔽-まがふあらしの山のもみぢ葉はふもとの里の帆にざ-ける (「永承四年内裏歌合」・藤原祐家) といった作によって塙知られる。 いずれにしても、掲出のl首は'いかにも王者の雁らしい風格の ある詠みぶ-である。散-まがう紅葉に対している白河天皇の自信 に満ちた愛情が'何とな-愚いうかぺられるようである。天畠の念 頭に披'あるいは'在原行平の「さがの山みゆきたえにし芹川の千 代のふる道あとはありけり」 (﹃後撰集﹄巻十五)があったのかもしれな い.しかし'それにもまして関係がありそうな9は'上東門院彰子 が後t条天皇の春日行革の際に詠作した'「みかき山さして釆にけ りそのかみの古きみゆきのあとを尋ねて」 (﹃玄々集﹄) である。この 彰子の歌は'﹃大鏡﹄巻七や﹃栄花物語﹄巻十六にも収められ'よ く知られていたf首であった。白河天皇は、・彰子の歌をおそら-は 意識していたであろう。 同じ行事の折に'藤原俊家は'・r大井河ふyO,頒みゆきの流れにて となせの水も今日ぞすみける」 (覇勅撰集遠七)と詠んでいる。「古 き流れ」をいったところは御製歌と寮想であるが'援下の作らしく' さて'兼房の歌は'﹃八代集抄﹄に「心は明也」と注するとおり平 ? 改 正 l 旧 川 . . q お 曙 吊 邦 こ し 人 h ノ 、 ヽ 下の句には天畠への祝意がこめられている。 種の山庄にてしぐれのいたうふり侍りければよめる 藤原兼房朝臣 あはれにもたえず音する時雨かなとふべき人もとはぬすみかに ︹大意u しみじみと寂しい様子で、音を立てて絶えずふってく る時雨であるなあ'尋ねてくれるはずの人も尋ねてこないこの住居 に 。 ︹鑑賞︺ 流布本では'結句を「とはぬすみかを」とし'「すみ かに」という校異を示しているが'伝為氏筆本・太山寺本・日野本 ほかの諸本で「すみかほ」となっている。ここは'「を」よりも「に」 の 方 が い い 。 ﹃後撰集﹄巻八所収の歌に'「神無月ふりみふらずみ定めなき時 雨ぞ冬の僧じめなりける」 (読人不知)とあるごとく'時雨は冬の到 来を告げるものであった。﹃後拾遺集﹄には'時雨を主題とする歌 が四首ならんでいる。初めの二首が時雨の降っている歌であり、三 首目は時雨が降ったりやんだ-している歌である。四首目は'時雨 を歌ってはいるが'実際には降っていない。これも'時雨が唐突に ふり出し'ふったりやんだりしながら、終局は降らなくなってしま うという自然の変化にあわせた配列であろう. 神無月ふかくなりゆく稗よりしぐれてわたるみ山ペの里

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となせの水も今日ぞすみける」 (覇勅撰集違七)と詠んでいる。「古  ふり出し'ふったりやÅたりしhTTDか h v Y 〇 人 き 流 れ 」 を い っ た と こ ろ は 御 製 歌 と 寮 想 で あ る が , 臣 下 の 作 ら し く , う と い ぅ 自 然 の 変 化 に あ わ せ た 配 列 で あ 号 . きて'兼房の歌は'﹃八代集抄﹄に「心は明也」と注するとおり平 明である。このような平明な表現により、山里の寂参を歌いとろう とするのが'﹃後拾遺集﹄の時代の新しい傾向でもあった。時雨は 通り雨である。したがって'普通は「たえず音する」ことはない。 しかし、兼房が桂の山荘にいた時には'ひと時雨してやんだかと思 うと'またすぐに時雨が降ってくる'といった情況であったのだろ う。それが'「しぐれのいたうふり侍-ければ」であ-、普段の時 属せはいささか趣が異なっていたために'いっそう深い感慨を覚え たわけである。その気持が初句の「あはれにも」にこもっている。 兼房は、感慨が深かったゆえに掲出の一首を詠んだのであろうか. だれか知人に贈られた歌であったとも考えられる。そうであるなら ば'「とふべき人」 は特定の知人を指し'その人の無沙汰をうらん だ作となる。 人の尋ねてこない宿にふる時雨を詠んだ歌には'好忠の「しぐれ っっ人めまれなるわが宿は木の葉の散るをたれかとぞ愚ふ」 (﹃好忠 集﹄)や'伊勢大輔の「とふ人もなき山里のむら時雨ふたよ-みより 驚かすかな」 (﹃伊勢大輔集k)があった。﹃橘為伸朝臣集﹄の「とふ人 もなき冬の夜のきよなかに音するものはあられな-け-」は'兼房 の歌の影響下に詠まれた作であろう。 山里の時雨をよみ侍りける 永胤法師 神無月ふかくなりゆく稗よりしぐれてわたるみ山ペの鼻 ∩大意︺ 神無月も深まり'色も濃くなって散ってゆく紅葉の櫓 より時雨がわたる深山べの里であることだ。 ︹鑑賞) 帝二旬の「ふか-な-ゆく」は'ここで切れているの ではなく'初句からも続き'第三旬へもかかっていると解したい。 .「ふかくなりゆく輪」とは'やや言葉たらずの表現ではあるが' 日をへサつ深くなりゆくもみぢ葉の色にぞ秋のほどは知らるる ( ﹃ 後 拾 遺 集 ﹄ 巻 五 ・ 藤 原 践 衡 ) 谷水のそこも紅葉の色もみなふかくぞ見ゆる秋の佐保山 ( ﹃ 千 穎 集 l ) 高砂にたちわた-たる寮間より紅葉の色のふかき奥山 ( ﹃ 海 人 手 吉 良 集 ﹄ ) 神無月まだいくしぼipLぐれぬに紅ふかく野はなりにけり ( ﹃ 嘉 言 集 ﹄ ) 色 深 く な り も て ゆ け ば も み ぢ 葉 の 風 吹 か ぬ ど も 散 り ま き り け り ( r 遭 済 集 ﹄ ) 落ちつもる紅葉の色に山かはの浅さも深さながれとぞみる (F和泉式部集D などによれば、紅葉の色がますことと見てよかろう。むろんl方で は'紅葉は散りもしているのである。そして'その紅葉の櫓の兜の 空から時雨が降り出し'雲とともに深山べの里を層動していったの である。

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- 22 ・,-初旬に「神無月」を措いて7首を構成した歌は'実収多く存する。 しかも'時雨か紅葉、もしくはその両者を詠み込むのが常套であっ た。今'時雨と紅葉を共に詠み込んだ先行作の7部を掲げると' 神無月しぐれにあへるもみぢ葉の吹かば散りなん風のまにまに ( ﹃ 家 持 集 ﹄ ) .神無月もみぢふる里あれにけり時雨とみえてたもとぬるれば . ( ﹃ 安 法 法 師 襲 ﹄ ) 廟無月しぐるる山は滝みぢ葉の色も事向J1才のしるべな-ける ( ﹃ 兼 澄 集 A ) といった具合である。永胤の作も'号っいう和歌の類型を踏襲し.て いるわけであるが'第二旬以下の自然の捉え方は新鮮で'しみじふ とした情感を失ってはいない。やはりこの時代の新しい歌風を示し ているといえTO.﹃八代集抄﹄の 「磯節の哀所のきまおもかやりて 見るべくやトという評も'その点をおさえた上での言であろう。 ちなみに'源国信の「み山べのしぐれてわたる数ごとにかごとが ましき玉柏かな」(.Ftt戟集A J巻六)と,慈円の「み山木の残りはてた る稗より僧侶心ぐるるは嵐なりゼり」(還勅撰集遠六)とは'永胤の歌 をふまえているのであろう。 落葉如レ雨といふことをよめる 源   頼 尭 木の葉ちる宿は開きわくことぞなき時雨する夜も時雨せぬ夜も m大意U 木の葉の散る宿では聞きわけるということがない'時 雨の降る夜であるのか時雨の降っていない夜であるのかを。 i -. ︹麗質U∴庭の象経の歌とともに西宮における歌会での作である。 歌会には勉に藤原範永と藤原麿衝も参加してお-I.それぞれの家集 に ' 西宮にて落葉あめのごとし 夜もすがら紅葉は雨とふりつむにながむる月ぞくもらぎなける ∵ ・ . . , ・ ( r 範 永 軸 臣 集 ] ) 落つる葉あめのごとしといふ題 雨かとてぬれじとかづく衣事にかかるは惜レむ紅葉取りけり ( ﹃ 経 衡 築 ﹄ ) と見える。 額実の歌では'山里に住んでいる人の心が詠まれている。しかも その山里の人は'夜'家のなかにいて外の音だけを聞いているので ある。家産・経衛の作には'夜か昼かの時間の限定がないQ範泉は 夜の落葉を歌っでいるものの、明るい月夜であ-十頼実と替って.' 人は外に出ているか'少滋くiJも外港眺めている?・個石歌題に基 づ増ながら'ーそれ凝りの差異があるが'四首と4.に平明な表現であ るのは変わらな.い。褒現が平明で過ると'層芙あるい姥実感に即し ているかのまう屯考えがちである。心かし実際には'必ずしもそっ とはいえないよ,巷あ_額実の歌で. d下の句に少し替え物めい た感じがするむ 薬の落ちる音と雨の降る膏との類似をい,㌢のは漢詩から来た発想 で卦り,このことはすでに小島憲之氏がいわれていS)和歌におい ( 6 ) ド u

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木の葉ちる宿は開きわくことぞなき時雨する夜も時雨せ. g夜も た感じがする。 薬の落ちる音と雨の降る音との類似をいうのは湊詩から来た発想 であり,このことはすでに小島憲之氏がいわれていS)和歌におい では,後藤静子氏も指摘されたごとtS),読人不知の「秋の夜に雨と聞 えてふりつるは風にみだるる紅葉なりけ-」 (r後撰整巻七)があっ た。頼実がこれを学んだであろうことは'まず確実である。とはい え'・「落葉如レ雨」の歌題ならば、そう歌うのが必然であったという わけではな.い。﹃古今集﹄巻五には'凡河内窮恒の「たちどま-見て をわたらんもみぢ静は雨とふるとも水はまさら;ij」があり'﹃好思 索﹄ にも「つゆばか-袖だにぬれず神無月もみぢは雨とふ軒にふ れど且がみちた。これを膏は・次々と盛んに落ちる紅葉の様が 雨の降る様に似ているといっているのである。藤原公任の「もみぢ 葉は雨とふれども空はれて袖よりほかはぬれずぞあ-ける」 (買納 言 公 任 廉 ﹄ ) や ' ﹃ 後 拾 遺 集 ﹄ 巻 五 所 収 の ' もみぢ質の雨とふるなる木の間よりあやなく月の影ぞもりくる ( 白 河 天 皇 ) 水もなく見えこそわたれ大井河きしの紅葉は雨とふれども、 ( 藤 原 定 頼 ) ち,それらに基づいたものであろう。つま炉,落葉と雨との間には, 聴覚上の類似と視覚上の類似が存在しているのである。大まかにい えば'落葉を聞く方がより寂しげであ-'落葉を見る方がよ-艶で あるlといえよう。頼実らほ'両者のいずれかを選択できたはずであ るが'範永以外枚i取らかに聴覚上の類似に依拠して作歌している。 そのあたりに'山里の寂しい風情を愛好した彼らの指向がうかがえ る 。 藤原家経朝臣 紅葉ちる音はしぐれの心地して楯のそらはぐもらざりけり (大意︺.紅葉の散る音は時雨が降るように感じられ'それでい て棺の空は曇らなかったことだ。 (鑑賞U 前歌と同じ歌会での作品である。もっとも内容は前歌 とやや異なりへ現実には時雨は降っておらず'木の葉が散っている だけである。範永の「夜もすがら紅葉は雨とふりつむにながむる月 ぞくもらざ-ける」は'雨と落葉との類似を視覚で捉えているよう にも解されるが'家凝櫨'「紅葉ちる音」・と明瞭に音の類似をいっ ている。空の曇らないことをいったのは'「大空はくもらざりけり 神無月しぐれ心地はわれのみぞする」 (諾選集や巻十六㌧・儀人不動).の影 響を受けたせいであろう。 「輪のそら」の意を'﹃日本周語大辞典﹄は「相のあるあたりの 空。洩た蘭をとおして見える空」とする。溝の菜がかなり徹ってし まった結果'隙間から空が見えるのである。・この語は'むしろ中世 和歌において' ′符をもしき輪の空の冬がれにひとりありあけは都なりけり ・. (r冶玉集b第五:・ただし作者は藤原定家) くらき夜の山松風はきわげども相のそらに毘ぞのどけさ (r玉葉集し巻十六・永福門院)

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-24-峯しらむ棺の空に影おちてはなのくも間にありあけの月 (F風雅集﹄巻三・前大納言忠艮) といった用例が見出せる。家経以前には用例が見あたらず、彼の創 意にかかる歌語のようである。 十月ばかりに山里に夜とまりてよめる 能因法師 神無月ねぎめにきけば山里のあらしの声は木の葉なりけり ︹大意U 十月の夜'目覚めた折に聞くと'山盛に吹く嵐の音は 木の葉の落ちる音であったよ。 n鑑賞U 嵐を主題とした1首である。 歌には「木の葉」とあるだけで、落葉である旨を明瞭にはいって いないが'神無月の木の葉であるから、落葉ととらねばならない。 をの上で'「あらしの声は木の葉なりけり」 についてふたつの解釈 が可能であろう。ひとつは'「ひねもすに見れどもあかずもみぢ葉 はいかなる山のあらしなるらん」(講演集﹄巻四・歳人不知)のように嵐 が木の葉を選んできて、その葉が家にあたる音を聞いていると解す るてとである。もうひとつは'実際には嵐は吹いておらず'木の葉 のおびただしく落ちる音を聞いていると嵐のように感じられると解 することである。このふたつの解のうちでは'後者の方がいいかも し れ な い 。 あらしの声は'もの寂しく悲しい気分をさを^.nものであったoそ れは'僧正遍照の「秋山のからしのこゑをきく時は木の葉ならねど ものぞかなしき」 (﹃拾遺集﹄巻四)によっても理解できる。能因は' この遍腰の歌をふまえているのであろう。 「山里は冬ぞさびしさまきりけるひとめも草もかれぬと思へば」 (眉今集]埜ハ.源等)とあるご七く'冬の山里僧実に寂しい,.しか し'その寂しさを風情として横極的に評価する人々がいた。範永1・ 頼実といった和歌六人覚の面々もそうであったが'能.因もまた.その ひとりであった。﹃拾遺魔﹄巻四の冬の部に' 疫を寒みねざめて聞けば駕駕のうらやましくもみなるなるかな ( 読 人 不 知 ) 夜を寒みねざめて聞けばをしぞ鳴く払かもあへず霜やおくらん ( 読 人 不 知 ) という鴛鴬を題材にした二首が入集していて'夜の寝覚めに何かを 開く点は能因の歌と共通する。ただ﹃拾遺襲﹄の二首では'冬の夜 の耐えがたい寒さのなかで駕駕の鳴き声を聞きつつ'1万では'寒 さを感じないらしい鳥をうらやみ'他方では'さぞかし鳥も寒いで あろAhと共感している。能因の歌では'聞いている対象は木の葉の 音であり'しかもそれに耐えがたい自己の心を託しているわけでは ない。能因は、冬の山里の寂しさにひた-きっているのである。 この歌は﹃能困法師集﹄に見え'﹃能困法師集﹄ はほぼ詠作年境 に配列きれているので'寛弘七'八年頃の作と推定できる。 おいて'義通の作が後と見ていいように患う。とすれば'義通の新 ヽ   く J T l へ 0 4

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い 川 _ 一 ■ 1 川 は l V I T   _ V することである。このふたつの解のうちでは、後者の方がいいかも しれない。 T ︿   ′ U I 月 ° . I h l u J F ト E r ヽ Y I . r r r L r 一 1 = n J   王 ' ー 一 に配列されているので'寛弘七'八年頃の作と推定できる。 宇治にて網代をよみ侍りける 橘義通朝臣 網代木に紅葉こきまぜよる氷魚は錦をあらふここちこそすれ ︹大意∪ 網代木に紅葉とまじ-あって寄る氷魚の様子は、ちょ うど錦を洗っているような感じである。 ︹鑑賞︺ 網代を主題とした山首である。 この歌に閑Lt藤原清輔は'「萄江濯レ錦蓬芯ふ文なり.(中略)か の江にあらひてさらせば鏡の色のまきるなり'又にしきをばをしく' たちうきことにいへばかくよめり。又魚鱗鏑といふことあり。二説 あり。Tには魚鱗は錦ににたるなり。1には魚鱗を焼きてその灰を 錦にさせば色よき也」 (買義紗﹄)と注している。背景にそのような 漢籍の知識などがあったとしても'義通の歌の場合'それはさして 重要ではない。まずもって'「錦をあらふ」との表現は'義通の独 創ではなかった。﹃後撰集﹄巻七に「もみぢ葉のながるる秋は川ご とに錦あらふと人やみるらん」 (読人不知)があり'﹃拾遺集﹄巻四に も'「網代木にかけつつあらふ唐錦ひをへてみする紅葉なりけり」 (読人不知)が見えている.特に﹃拾遺集﹄の歌とは詞旬の7敦する 点が多く'密接に関連しているようである。もっとも'﹃拾遺集﹄ の歌が寛和二年の作であることは判明しているものの、義通の歌の 詠作年時が不明なので、その先後は確定できない。が'だいたいに おいて'義通の作が後と見ていいように思う。とすれば、義通の新 しさは、紅葉の錦に加えて'氷魚が「こきまぜ」られている情景を 詠んだところにあることになろうか。たしかに'紅葉と氷魚'この 異質な色彩の組み合わせは'網代木に寄るか錦″の錦らしさをいっ そう強調している。しかし'素性法師の歌に「見わたせば柳さくら をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」 (冒今集遠l)があって、ここに も先人の作が影をおとしているのである。 網代に紅葉と氷魚が寄っているのは'あるいは実景であったかも しれない。実景であっても'伝統的な詠法でしか作歌できなかった のが当時の和歌の世界であった。 注 T)﹃後拾遺襲﹄の本文は国歌大観によったが'表記は攻めた 部分がある。 (2)﹃後拾遺集前後﹄ (昭G・4笠間番院二1九〇-二九三貢Q (3)﹃日本古典全集・古今和歌集﹄ (昭2・8 日本古典全集刊行会) 所収の教長注には'「コノ苛ハ素性源覚僧正ノ文ニワガウ タノ一トゾマウシケル」とある。源覚僧正という人物は平 安期に存在しない。 (4)﹃院政期の歌壇史研究﹄ (昭S・2武蔵野書院) 1七-二七百o ( 5 ) ﹃ 古 今 集 以 前 ﹄   ( 昭 G ・ 2   塙 鵜 苫 ) 三 二 二 貢 . ( 6 ) ﹃ 和 歌 文 学 の 世 界 ・ 第 二 集 ﹄   ( 昭 讐 1 0   笠 間 慧 臼 ) 所 収 「 平 安 和 歌 の 屈 折 点 」 。                     ∧ 本 学 助 教 授 ∨

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