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D.ガイヤー『ロシア革命』(二)

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(1)D.ガイヤー『ロシア革命』. (二). 翻訳・成田博之 The. Japane?e. Revolution'in. of `Soziale Voraus Russi sche Revoution''by. trauslation "Die. Hiroyuki. 第二章. setzungen. D.. der. Geyer.. NARITA. 革命の社会的諸前提. ァンシャン・レジームが倒壊したとき,ロシアにおいて安心感とか確固たる信頼感と か揺ぎなき人生の確信とかをはっきりと認めうる年を想い起せる人は,わずかであった ろう。. 「古き良き時代」を特定することば,ロシアでは嘩の国よりも多分もっと難かしかった ろう。このことば,革命を天職としていた人あるいはともかく「希望の源」■とみなして いた人のみならず,革命を一切の希望の終りとみなしていた人にとっても少なからず当 19世紀を通じて世代から世代へと てはまったのである。革命にたいする恐れと期待は, ますます深く個人の意識や世間の意識のなかに刻みこまれていった。人は革命とともに 暮すことに慣れていった。それは言ってみれば,今日のわれわれが「原爆と一緒に暮」. さなくてはならないの,t同じであったろう.クルミア戦争以前の皇帝ニコライ1世の時 代(1825-1855)にまだ考えうるかにみえたこと,それは1789年以降絶えざる新たな噴 火で西側世界をっき崩してきた震動をまぬがれうるという可能性であった。`l'ところが それはこの皇帝の後継者の治世に入ると,極めて不確かで疑わしいものとなった.ツァー リ帝国は,ヨーロッパの憲兵として,また有無を言わさぬ解体と間断のない変化を求め る諸勢力にたいする防壁者として臨むというその機能を回復不可能なまでに喪失してい た。そして,専制政治は神の御心にかなった秩序であるという尊称を拒もうとしない人々 の間でさえ,これまで受け継いできたことはもう保持できないだろうという予感に悩ま されていた。草創ま,ニコライ1世治下のように,ロシア国境のかなたにあり.,道を誤っ た「平等主義者」や「空論家」の陰謀によって,国境の外から時折持ち込まれる問題で はなくなり,今や誰にも分かる恐るべき脅威としてロシアの心臓部に,その実只申に浮 かびあがってきた.(2). ァレクサンドル2世の政府(1855-1881)が,農奴制の廃止と旧い臣民秩序の解消に ょって,改革から新しい力を求めようと決意したとき,革命の予測と悪夢は強まり,そ の雰囲気はその後再び拭い去られることはなかった.'3'ァ-ンシャン・レジームは衰弱し ていくだろうという予言は,独裁政治の死を誓っていた陰謀家サークルの綱領にのみ掲 げられていたのではない。自らを旧秩序とみなしていた多くの人達もまた,革命は時代.

(2) 26. 成. 田. 之. 博. の宿命であって至る所に存在すると考え,ひたすら祈りに載った。ツァーリ,アレクサ ンドル2世は,自分自身不安に駆られ,その顔っきはルイ16世にますます似てくるよう にみえたoさらに,改革の決行によって革命自らが大臣の席につき,皇帝の徹陪食にあ ずかっているという噂が,ぱっと広まった。 人々は,この災いのもとはペテルプルクの自由主義官僚にあるとみていた。彼等は, 当時ビスマルクからも「赤」よばわりされていたが,その企画や法律によ、つて古いロシ アをひっくりかえそうしているかにみえた。人々は,迫りくる破局を様々な光景から読 みとっていた。学生たちは,よき「教養ある社会」とみなされていたもの全てにたいし 反抗した。 若者たちは,アナーキーな態度とニヒリステイ・;クで蒼白い顔っきをし,良家の娘たち は,煙草をふかし髪を断髪にし,しとやかさを一切かなぐりすてていた。青年は,. 「人. 民のなかへ」入り,そこで啓蒙活動を行い,革命はロシア国民の歴史的定めなのだ,と いうことを証明しようという宿命的ともいえる執着心をもっていた。(4'その頃,郊外の 農村には新しい国民となった粗野でボサボサの髪をした農民大衆がみうけられた。彼等 は,昔の恭順な態度のかわりに反抗的な姿勢を示し,貴族の田園生活を不快でときに堪 えきれないものにした。そのとき,人はかの懸念が理由がないことではないことを悟っ た。昔の安泰さは消えうせた。 さらに解放者ニッァ-リが,. 1881年3月に狩りたてられる獲物のようにテロリストの 爆弾の犠牲者となって倒れたとき,それは多くの人々にとって継ぎ手のはずされた時代 の当然の帰結のように思われた。`S'このような動向に目を向けるならば,果して旧社会 は進歩する変化を目の当りにして,未来にたいする恐れから自己催眠にかからなかった のかどうか,あるいはまた革命的転覆の危機が迫っていたとみなせる現実的根拠が存在 していたのではないのかカ潤われねばなるまい。. 実際,王位を継承したかの鈍重なアレクサンドル3世(1881-1894)は,まったくもっ て時代にいま一度ブレーキをかij,ようとしたのである.彼は,古いタイプの人間を自分 の囲りに集めた。彼等は独裁政治に権威を,忠実な臣民に安眠を取り戻そうとする勢力 であった○官僚的強権国家の全兵器庫は,革命的サークルを根絶し,立憲的改革の道を 断ち,自由主義的動向が幻想にすぎないことを実証するために動員された。国家は反動 的な公安警察の領域でその機能を発揮したoその方法は不穏な分子を取締り,社会の自 由化に歯止めをかけ,社会内の諸制度を無力にし,かくて臣民が国家を市民自治におき かえられるはど強力にならないようにすることだった。政治の方向を定めたいという臣. 民たちの欲求は,自分自ら代表する専制の輝きときらめきのなかで満されるべきなので あったo. 「公論」は政府の検閲による芸術作品に姿を変え∴ときどき官製のナショナリ. ズムや少数支配層の民族的強権国家思想に拍手喝采を送るべきではあるが,民族自決に たいしてはそうしてはならなかったのであった.'6). しかしながら,よく整備された秩序の下で暮しているという安心感は,二度と戻るこ l. とはなかったoというのも,反動的な政治といえどもアンシャン・レジームの運営すべ. てにっいてまわる一定の制約をまぬがれることばできなかったからである.それはこう.

(3) 27. D.ガイヤー『ロシア革命』(二). いう意味である。政治の後退局面においてさえ,諸力を解き放たなければならないので あって,その根本精神は旧来の秩序の現状維持ではなく,速やかで思いきった変更なの であった。. 80年代以降の工業化の帰結を検討したロシアのマルクス主義者たちの確信は,. 正鵠を射ていた。即ち,皇帝の大蔵大臣は,資本主義的発展の助っ人としてつまるとこ ろは心ならずも革命の共犯者となるだろうという期待,革命の事業を気づかうツァーリ の雇われ人が現われやしないかという期待が,彼等のあいだで高まっていた。(7)事実, ロシアでは工業にたいする関心は,最初から国家利害に由来した鉄道敷設と工業再建, 経済的後進性の克服は,この帝国の国家理性になっており,政府はこの分野の近代化を 強力に推し進めた。軍事戦略を根拠として発展の諸目標が設定され,その次にそれらの あいだの優先順位とテンポが確定されたのである。その動機ははっきりしていた。なぜ. なら,ロシア古事列強の政治的結び?きや対立関係から簡単に脱け出すことばできな中っ た。また,ロシアは自ら肩を並べようとしていたかの諸大国の近代的で膨脹的な経済よ りもむしろアジアにおける帝国主義支配下の植民地タイプに近い経済段階にあったので 1892年から あるが,帝国主義の時代にその段階にとどまっていることはできなかった。 1902年にかけて「産業革命」の主唱者であったセルゲイ・ウィッテは,この時代の他の 大臣が全く理解しなかったことを,即ち,帝国は進歩と激動を宿命づけられており,そ の上,あらゆる角度からみてその支払いが間近に迫っていることを理解していた。(8) 若い工業を順調に拡大成長させなくてはいけないときに,支払うべき請求書をそこに 外資の借款にた 回すことばできなかった。投資資金はここでは自由にならず,その上 いする責務は,農産物あるいは原料輸出によって支払われた。. 「原始蓄積」は他の財源. によってまかなわれねばならない。従ってこのことは,納税者がその出資者である国家 財政の問題であった。それはとりもなおさず何百万人というロシア農民大衆が,工業成 長の費用を負担しなければならないということにほかならなかった。その帰結からのが れられなかった。. 1914年以前の最後の十年間に初めて国家の工業投資の意義が,民間銀 行資本の役割の増大に伴い,低下したにすぎない。ロシア革命の社会的諸前提を論ずる 者は,近代化のこのような側面をよく考えてみなくてはいけない。 もし人が農民の農業経営は,市場からの現金収入を得るほどの力をっけていなかった という主張におわるならば,それは余りに平凡な診断というものであろう。遅くとも九 十年代以降のロシアに起ったことは,長期的農業危機であって,それは繰り返し破局的 なまでに進行し,極度の俄健による疫病と途轍もないはどの困窮が大衆をおそったので ある。その結果,当時の教養ある新聞購読者に早くもある戦懐を与えた。それはわれわ れの多くが,インドに大量の餓死者が出たことを知り,そして親身な慈善活動によって も開発援助資金に′よっても決してその災いをなくすことができないとわかったときりに感 じるその戦懐と同じものである。 ロシアのこうした悲惨な状況の原因は,容易に指摘できる。農民解放の遺産がここで の問題となる。 1861年以後に農村共同体が買い戻し取得した土地は,狭いうえに細分化 されており,そこに農民は住んでいた。彼等の再生産能力は,ロシアの農業社会におい ては本来,進歩的要因であった.他の国の場合と同様ツァーリ帝国においても,出生率.

(4) 28. 成. 田. 博. 之. の急激な上昇は農民解放の結果もたらされたものである.'9'農民を自由にしたことが人々 過剰をもたらし,誰もそれをコントロールすることばできなかった。 「人口革命」が困 窮をっくり出した。悲しむべき農民の状態からいって,急に増えた家族の欲求を満たせ ないという光景は,至る所で見うけられた。何百万人という食にありつけない人々が空 腹をかかえていた。 世紀の変り目をすぎても政府はこうした深刻な被害を取り除く;あるいはせめて軽減 しうる方策を何ひとつ立てなかった。国家の限られた財政資金は,数年先まで決められ ており,地方からの税収入は全く農村に還元されなかった。工業の労働力需要もまた, 広大な農業国でそれとわかる程度にまで過剰人口を軽減するまでにはおよそ至らなかっ た。いや,工業が広範囲に存在する農家の家内工業の存立条件を次々に奪っていること だけは,いよいよはっきり感じられた。農民はロシアの工場にたいする飢えの競争者で あって,自ら困窮から脱け出すことは不可能であった。仮に当時,農業経営に新たな発 展の機会が訪れたとして,そのためには思いきった費用のかかる構造改革事業をいくつ か大規模に組み合わせることが必要だったであろう。 今や世紀の初めに農民大衆の暴動が帝国の広い地域にわったて起り,農業世界の社会 的爆破力をまざまざと見せつけられると,そのための解決策が多方面から提示された。 そのなかで最も急進的だったのは,社会主義嘩党の理論家たちのものだった。これらの 政党の農業綱領は,ツァーリズムの暴力的打倒やロシアの民主的共和国への移行,最終 的には社会主義への移行と結びあわされていた。昔のナロードニキの伝統にそい,社会 革命党の農業社会主義を説く知識人は,土地の全面的社会化を主張した。もっとも彼等 とその名宛人が一体この考えをどのように理解していたかはともかく,そう唱えてい た.仲仕事に励む国民が土地を所有すべきであり,耕地は社会的所有としてそれを実際 に耕す者にその永代利用権が与えらねばならない。その場合,農民は将来の希望として, 社会主義的生活様式を歓迎するだろうし,ロシア農民と私的所有および儲け追求は,お よそ相容れないものであるということが,公理として前提にされていた。それはこの思 想家達の独断から生じた自分勝手なイメージであって,農村世界の認識から生れたもの ではなかった。この保守的なユートピアはレーニンが権力につく前に農民自身によって 打ちくだかれた。 もっとも冷めたとらえ方をしていたのは,社会民主党陣営であった。ただし,その綱 領の思想はマルクス主義的意味における「ブルジョア革命」によって将来実現されるで あろうことと関連づけられた限りにおいて,そういえるのであるが。帥やがて到来する 「ブルジョア・デモクラシー」は必ずや古い農業制度の残樺を一掃し,農村での階級闘 争に道を開くにちがいない。資本主義的発展は必然的に小農経済を破壊し,自由の光が 農民にとどく前に,彼等はプロレタリアとなるにちがいないという古典的テーゼがその 出発点になっていた。これと比べて国家介入の形態や土地国有化の方式をめぐっては, さらに長期間の検討を要した。. 1905年に初めて社会民主党はその最小限要求のなかで, 大土地所有の分割もまた求めることを了承した。彼等はなによりも農民大衆との結びつ きを保っため,マルクス主義的意味におけるこの「プチ・プル」方式を採用することに.

(5) D.ガイヤー『ロシア革命』(二). 29. ふみ切ったのである。しかし,実のところ社会民主党の農業綱領は基本的に当時のロシ ア自由主義者や立憲民主党すら農民に与えた約束以上のものを何ら含んでいなかった。 1905年頃に彼等は,国家が大土地所有の所有権に大々的に踏みこむことを前提とする改 革案を構想していた。農場や大土地私有地の分割により全般的な土地不足を解消できる だろうという意見は,先の「ブルジョア」グループのなかでもすでに金科玉条祝されて いた.昭それは明らかにひとつの信仰であって,その信奉者は農業の構造的危機から目 をそらしたいという誘惑にいっも陥っていたのだ。 政党の綱領ではなく自己の専門的知識から発言できる農業専門家は,だから慎重な判 断の下に別の側面を考察した。彼等にとって土地改革はその発展に非常に時間のかかる 問題であったし,投入される資本規模は工業への投資と歩調をあわせて行われなくては. いけなかった。輸出に傾斜した大土坤所有を分割し,すべての希望を小農経済の発展可 能性に託すというこの関連方式は,すでに封じられていた。そこでまず着手すべきこと は,未分割共同体の解体,連帯責任制と集団的土地所有という中世的な耕作制度の解体 であった。そのためにはまた,村内に散らばっている細切れの土地の思い切った整理や 混合農地の除去,耕地整理,農民の移住,植民による合理的経営規模を有する農地の創 出が必要である。なかでも重要なことは大々的な融資政策を展開し,進取の気性に富む 農民が自らの経営面でのイニシアティブを発揮して,粗放農業から集約農業へ移行せし めることである。. これはストルイピンを首相とする内閣が決定した方向であった.Q3 1906年最初に緊急 措置としてとられたその決定は,自然にもたらされたものではなかった。何よりも革命 運動の巨大な圧力とこの年の政治危機が,この改革に踏み切らせたのであって,それは 自由主義的経済観と古い官僚主義的貧民救済思想とが互いにせめぎあったひとつの実験 であった。. 1910年に作成され提出された膨大な農業法は,すぐれた成果であって当時,. ロシア以外にその例をみないほど大がかりな近代化の試みであったことは,率直に認め ねばならないだろう。今日もなおこの法律上の業績は,農業史上ひとつの画期を印した といってよい。. が,ロシア史の上でこの新しい試みは,ひとつの画期とはならなかった。もし仮に古い 農業制度の強引な改造が現実に成功し,農民大衆の困窮が健全な自作農経営の発展によっ て解消されるに至ったとして,そのためには多くの年月を,そう数十年を必要としたで あろうことば誰しも疑えないところである.もしもこの少し後に起った第一次世界大戦 が,すべての優先的事項を突き崩さなかったとしても,やはり成功はおぼつかなかった であろうということは,多くの点から明らかである。 もとより政府が自ら設けた課題に長期間耐えられるという保証は,全くなかった。こ の改革には長期にわたって資金が投入されるのだと請け合うものは誰もいなかった。国 家の慢性的資金不足や高率の対外債務負担,そして軍拡競争と急速な工業成長を強いる 帝国主義的大国政策への加担という状況に直面すれば,なるほど懐疑にとらわれるのも もっともなことであった。複数の経済的発展目標のあいだには,相互に密接な依存関係 があった。農業の改革は工業の急速な拡大がそれを助けなければうまくいかないだろう.

(6) 30. 成. 田. 博. 之. し,また,工業の前進は農業改革のすみやかな成功が前提となっていた。. 1985年以降,. -寛して工業への融資を続けてきた銀行資本にとり,農業経営に大規模な信用を供与す る・ことば,ほとんど不可能であった。農業社会の改造が必ずしも新しい政治危機や社会 t. 運動を惹き起すものでないかどうかについて,結局のところ全くはっきりしていなかっ た。. 「上からの革命」であるこの改革が古い社会を変えていくうちに,アンシャン・レ. ジーム自体が一緒に滅んでしまう危機が新たにつくり出されるかもしれなかった.0勾第 一次大戟後,中欧の東部と東欧の南部において議会制政府とその強権主義的な後継者が しくじったことを,ニコライ2世の政府が成功させることができたかどうか,誰も判断 できないだろう。というのも,これらの国々もやはり農民大衆の困窮と農村の人口過剰 問題を農業改革によって克服しようと,空しい努力を重ねたからであった.89また忘れ てならないことば,ロシアが戦争に巻きこまれたのは決して単なる偶然ではないという ことである.なぜなら,戦争は一定の政策の計算の上に成り立っているからである。そ の政策も非歴史的に,対内面と対外面に別々に分っことはできるけれど,しかし他方, Eg家の対内的な発展目標は,対外的に強国としての利害と野望に固く結びつし「ていたか らである。改革の成功のチャンスをロシア政府の参戦から切り離して考え,そして改革 は大戟争という現実にぶつかって失敗したという言明は成り立たないとする見方には全 く根拠がないのである.a◎帝国の国内改革の開始にはその政治的基盤からみて,いっも 破局の危機がつきまとっていた。 革命の社会的前提を検討する際に留意すべきことは,開戦当時ロシアの農業制度は全 面的な転換期にさしかかっていたということ,つまり新たな秩序を確立するというより も問題の真只中にあって混沌たる状態にあったということなのである。多くの民衆が打 ち続く苦境と新しい環境への移行を同時に経験し,また,社会的悲惨と伝統的生活圏の 破壊を経験すれば原初的でアナーキーなけいれん作用を引き起す状況が生まれたのであ る。にもかかわらず,農民層はまだ自分達の指導者をもっていなかったし,まして自分 から進んで政治的針路を定めるまでには至らなかった。農業問題に比べてはるかにその 特異性に欠けていたのは,ロシアの労働者問題であった。ロシアの工業化は国家の保護 下に進められていたので,確かに労働者問題は西欧と異なり徹底した国家活動の産物で あったoロシアの工場は一度も完全に官営という性格から脱し切れなかった。帥. しかし. ながら,工場が集中した地域における社会諸現象は,他の国で産業革命の初期にきわめ て尖鋭かっ錯綜した形をとってすでに現われていた光景にどこまでもよく似ていた。社 会科学の文献や社会主義教育によって資本主義の恐しい姿は,すでにきわめてわかりや. すく描かれていたし,またそれは西側の多くの労働者の意識のうちにまだ活き活きと保 たれていた。彼等にとって重要なことはもはやブルジョア的資本主義社会から自己を解 放することではなく,この社会から多くの点で今なお締め出されているということであっ た。東側における農業の緊急性の度合を測るならばロシアの労働者問題は,どこまでも 少数者の問題なのであって,大都市とわずかな地方中心地に限定された明らかに人口の 密集による過密問題にほかならない.第一次大戦に至るまで帝国内の労働者の数は,三 百万人をわずかに越えたにすぎない。.

(7) D.ガイヤー『ロシア革命』(二). 31. かろうじて生活している農民大衆の困窮状態を目のあたりにした人にとってロシア工 業の社会的ひずみは,さしあたりとるにたらないあるいは見過すことのできることのよ うにみえた。実際,優秀な警察-行政つまりその労働者保護立法にもられた家父長的な 保護政策をもってすれば,地方から流れこむ労働者を従順にしておくことができるし, また社会民主々義的なインテリの小グループが工場に入る道を遮断できる,こう政府は 長いこと信じていたのである。qO 工業労働の世界における社会的悲惨さば基本的にやはりどこまでも地方の大規模な悲 惨さの一部分なのであるから,大都市の大企業のそうした不幸は田舎におけるよりも適 切に対処できるのである。ロシア農村の広大さが,いっものろい官僚制をなかなか入り こませようとしないのである。七十年代と八十年代をみると急速に発展をとげた工業中 'L、地の労働者大衆のあいだには,まだプロレタリアの階級意識は成長をとげていなかっ た。もしそうであれば脅威に感じられたであろうが,彼等のあいだではまだ農民的メン. タリアイが勝っていて多くの労働者は,農業世界とのつながりを断ち切っていなかったo このことば明らかに農村での習慣や経験の多くが,工業労働という従来と異なる環境 のなかで損なわれずに残っていたということを意味していた。即ち,共同体の古い仕組 み,長老選挙と全員討論と全員決定,連帯責任と利益代理権の継承など,こうした制度 になじんでいたことが工場労働者の組織的集団生活や相互扶助組織に関する諸規則を実 りあるものたらしめていた。こうして仕事場や安下宿から小さなきわめて小さな労働者 組織の原基が作られ,工場当局との対決を通してその発展の可骨臣陸が確められていった。 同時代の観察者が今やロシアにも愚鈍で働く家畜に臆しめられた群衆が,無防備のまま 資本主義的搾取にさらされていると語っていたときに,それでもなおこの群衆は驚くほ どその隊列を整え集会をもったり自分遠大衆の運命を共同してひき受けたりするばかり でなく,集団的抵抗に訴えるまでになっていた。のみならず80年代以後,経験豊かで向 学心に富む労働者がグループをっくり,そのうちのいくつかの小さなサークルはマルク ス主義文献の学習を通じたちまち社会民主々義的あるいは労働組合的な物の考え方や対 応の仕方を身につけていった。こうした新しい体験が農業世界から引き継いだ古い組織 形態と結びっいたことは,簡単に見てとれるであろう.q砂 実際にロシアの工場労働者が西側の労働運動の形態を見習っていったのも,こうして であった。すでに九十年代のストライキ運動は機械を打ち壊したり,怒りをやみくもに 法外な形で発散する時期を過ぎて,経済的な要求は規律ある行動を通してまとめられ, 主張されるようになったのである。その要求自体がロシア労働運動の急速な発達を示す ものであった。. 他方,ロシアのプロレタリアはその自発的活動すべてにわたって,重大な障害にぶつ かったことを,もちろん軽んじてはならない。官僚的警察国家が自由な結社をすべて禁 C,労働者に集会の権利やストライキの権利を認めない以上,この若い運動はその力を 非合法的な抵抗という形でしか世間に現わすことができなかった。しかしまた,まさに このことによって賃上げやわずかな労働条件の改善をめぐる限定された労働紛争は,負 初から非常に尖鋭な性質を帯びることになった。警察やコサック分遣隊が工場の門前に.

(8) 成. 32. 田. 博. 之. 控えて,こうした争議の政治的性格を一層目だたせることになったo 秘密の細胞に組織化された社会民主々義系のインテリが,一体どの程度この労働運動 の発展に貢献したかを正確に測ることば難しい。インテリと労働者の関連をめぐる問題 は,研究上激しい論争の的になっている。鮒ただ,以下のことば確かである.革命的サー クルは大胆かつ精力的に活動して工場労働者と接触し自分達の孤立化を避けたこと,ま た,プロレタリア-トが自己の歴史的使命に目覚め,経済的闘争を政治闘争に,つまり ツァーリズムと支配階級に反対する革命行動に転換させる必要を理解するよう彼等が働 きかけたこと,以上である。疑いもなく政府もまた,ここがもっとも由々しい危険の出 現場所と考え, 「革命のバチルス」を工場からおい.はらうため,あらゆる手段を講じた。 その結果,今世紀初頭に入ってもツァーリズムの秘密警察と社会民主党の地下委員会と の激しい対立関係という注目すべき陣型が残っていたのである。双方とも労働者を味方 につけようと努め,相手方が労働者の信頼と共感をかちえるのを妨害した。片方は警察 依存型の臣民秩序の社会的基盤が体制から失なわれないように願っていた。 (1903年に 公認の労働者政党まで出現した。これはモスクワの警察長官ズバトフの手になるもので あった。)(21)もう片方は革命の社会的基盤として労働者階級を必要としていた。. 1905年. の激動が新たな形勢をつくり出す前に,警察国家が革命家達との競争に勝てるかどうか, すべて疑わしくなっていた。. 確かにロシアの社会民主党は自覚の決定をいわば命令一下,プロレタリアの行動に移 せるほど労働運動の指導機関として安定的地位をうることに成功していた訳でなかった。 内部が分裂したところの,ほんの小さな少数派であるというこの政党の困難を取り除く ことばできなかった。その上,工場労働者を相手に社会民主党員と競いあっていた社会 革命党系のグループの影響力が,方々でかなり残っていた。だがしかし,他方からみる とプt3,レタリアートに向って現代の針路を示すうる政治勢力は,他にひとつも存在しな かった。言いかえると階級意識をもった労働者諸層の期待を十分担うにたる勢力が,他 にひとつも存在しなかったということである。 1905年の革命騒動の過程で,そのことの もっ意味が,初めて明らかになったo(22)政治的環境が自由になると,マルクス主義理論 が予言したとうり,かの「社会主義と労働組合の結合」が非常に具合よく実現されると いうことを旧体制の政治危機は知らしめた。なるはどプロレタリアートはめったに社会 民主党の直接的指導に服して行動したことばないけれど,しかしほとんど常に同党のス ローガンや綱領から直接影響を受けていた。確かに,革命家のなかでプロレタリアの抵 抗組織の形態はおろか考えついた者は誰もいなかった。その形態は1905年にロシア型評 議会であるソビエトとして自然に形成された。しかしそこに盛りこまれていた政治的, 経済的要求は,やはりまぎれもなく社会主義的な色彩をおびていた。八時間労働や社会 保障や民主的自由の全力タログ,それに民主共和制への呼びかけもそこに入っていた。 イコンやツァーリの肖像は1905年1月,ペテルプルクの冬宮前でおこなわれた大衆請願 にはまだ見うけられたけれど,労働者の集会やデモそれに大衆ストライキの場から消え てしまった。以後,赤旗が支配的となった。 周知のように苦境に立った専制は,ニコライ2世の十月宣言やその後の基本諸立法を.

(9) D.ガイヤー『ロシア革命』(二). 始めとする一連の譲歩を行い,軍法会議や軍隊の出動という手段とあわせいま一度何と か治安を取り戻すことができた。こうした譲歩のすべてをその後,数年におよぶ反動政 治は帳消しにすることばできなかった。しかし,新しい選挙法にもとづく労働者の選挙 人団の創設も国会における少数の社会民主党議員団の出現も,あるいはまた,労働組合 の合法化や常に検閲で威してきた二,三の労働者新聞の合法化も,さらに集会や結社の 権利など厳しく規制,監督してきた自由権の容認など,これらの措置は労働者が革命的 大衆行動の供給母体として改めてその姿を現わすという危険から政府を守る保険とはな りえなかった。. 1910年以前の数年間,労働者層がもっていた運動領域は限られていたと. はいえ以前に較べてはるかに広く,いまやそのあちらこちらで西欧の労働者政党や組織 のなかに定着していた改良主義的方向と同じ傾向が確実に生れつつあった。これは改良 であって革命ではなかった。しかし,にもかかわらず体制にとって支配秩序の完壁さに たいする信頼感は,長きにわたって増大しそうにない,ということすら常に不安の種だっ た。. ウィルヘルム2世がよく広言していたこと,つまり,アカに銃口を向けよ,というこ とをニコライはたびたび実行させた。 1912年10月に憲兵隊がレナ金鉱において労働者の デモ参加者にたいしむごい虐殺事件を引き起こし,. 1914年7月にもペテルプルクのプチ. ロフ工場で同様の事件を起した。権力者のいらだちと残虐性のなかに,工場プロレタリ アートの騒乱と反抗の変らぬ源であるという事実が映し出されていた。第一次大戦勃発 に先立っ二年間というもの,工業部門では大規模な大衆ストの波がまき起こり,特に大 都市にあってはそれはきまって社会主義的スローガンをかかげた政治ストに変っていっ た。. 1910年7月にポアンカレーが国賓としてペテルプルクを訪問した際,そこには約二 十万の労働者が決起していた。ソ連の研究のみならずアメリカのロシア史家も革命的状 況の事実を,戦争の開始によってやっとその爆発が抑えられたという事実を,十分な根 拠をもって語っている.(24) 1905年以来明らかとなり,世界大戦に至るまでの数年間繰り返し確認されたことは, 次の事実だった。即ち,支配秩序の破壊が迫ってきたときはいっでもロシアの労働者階 級は,このような危機に終止符を打つべく,全面的にそれに乗り出していくだろう,と いうことだった。農民大衆と違って彼らは,組織された勢力もしくはこれから組織化し, 協力が得られる勢力を代表していた。これらの勢力は,権力と政治生活の中JL.でもあっ た帝国の最も重要ないくつかの中心地にその拠点をもっていた。プロレタリア国民はそ の精神態度や志向からして既成の権力にいっときの安心感を与えなかったということは, 誰も見すごしえないところである。誰にせよ革命的危機の頂点において労働者を行動に 立ち上がらせることに成功した者は,これによってアンシャン・レジームを一気に破局 の淵に追いやったといってよいだろう.さて,次の二つの事柄を一緒に考えてみよう. ひとつは,破壊された農業社会にまだ続いている悲しむべき状態についてである。そこ では農民大衆は困窮しており,その広範な階層のあいだには重苦ややり切れのなさを原 初的な叛乱や-撰によって取り除こうとする根強い傾向がみられた。もうひとつは,労 働者階級が己れの運動を大規模な政治的大衆行動に転換しうるまでにその抵抗の準備を. 33.

(10) 34. 成. 田. 之. 博. 整えていた,というこ.とである。こうしてみると,人は次のように問うにちがいない。 明らかに幅広い社会的基盤をとっくの昔に失ったアンシャン・レジームが,にもかかわ らず,生きのびそして大戦に入ってまで十数年以上にわたって革命の危機を再三,乗り 切れたという事態がなぜ起りえたのかという疑問である。さらに次のように問われるに ちがいない。あらゆる弱点や脆弱さをかかえていたにもかかわらず,この政治体制がこ れら全期間にわたってみせたかの驚くばかりの抵抗力は,一体何にもとづくのか,とい うことである。ここで触れた問題は,革命の社会的諸前提から次に革命の前史と密接に 結びついた政治的問題に移される。. (注) 2.. (1) Vgl・. S・. Monas,The. Cambridge,. (2) Das (3). an. Section・. Revolutionsfurcbt. Untersuchung,. Otmena 1958; der. Russia. the. Provedenie. Bauernreform).. Moskau. Franco. Venturi,. Roots. in 19th. Century. Movements ; dazu. 1952) (5) Genaue. Darstellung. erzavija. der. E・C・. (unter. Nicgolas. under. I.. Alexander. Seton-Watson, Bauernbefreiung:. York. Alex-. unter. Mosse,. The. Russi-. T.G.. Robi. 1932; P.A.. Darstellung siehe die maBgebende History Socialist and of the Populist York 1960 (ital. Originalausg. Turin. von. A. P.Scheibert,. N.F.10.1962, 187811882:. Wurzlen S.. P.A.. Rogger,. Zajonckovskij,. Ⅱ・. den. aus. ist. von. Osteuropas Nationalism. Botchafters:. on. Russian 14・. in 19th. in:. samod Moskau Schwe-. v.. Conservatism. Century. gearbeitete Moskauer Historiker. dem. Krizis L.. 1966, S・. 194-212,. Rusiea.. Monographie. Quellen. Revolution,. Selbstherrschaft.). N・F・. Reflections. Gescbicbte. der. 323-336. (Die Krise der gg. Urteile des deutschen. Conservative Eine. Hinter-. (Narodnicestvo). Hans. Thaden,. Alexander. H.. New. Reformen. W.E.. Zur. Untersu-. gesonderte. Der agrar-und sozialgeschichtliche in Russia. Princeton, N.∫. 1961.. Krisenjahre. fur. 1964.. eine der. und Berlin 1927.. Grundsatzlichen:. Washington. 1958;. Regime.. Peasant. 1870-1880-ch rubeze die Beobachtungen. 1905, in: Jahrbucher dazu. Old. Osteuropas. 1964; vgl. initz, Denkwurdig・keiten. Zum. in Russia. verdient. 322-429・. Wurdigung. fur Geschichte. na. London S・. of Revolution・ Russia. New. die kritische. Jahrbucher. (6). in RuBland. 1958.. be主 ♂.Blum, Lord grund and Zur Volkstumler (-Bewegung von. Society. and. ZajoⅢckovskij, des Leibeig・enschaftsrechts). Moskau prava (Die Aufhebung v 1861 ど. (Die Verwirklichung zizn'krest'janskoj.reformy. under. krepostnogo ders・,. Revolution. die eine Gesamtanschauung fehlt・ InformativeUberblicke:. ・. Rural. der. Police. vermitteln wurde, the Modernization of Russia・ Emplre 180111917・ Oxford 1967,. nson,. (4). Voraussetzungen. 1961.. der. cbung. Eine moderne 2. Third. Mass.. Phanomen. ander 2 and. Soziale. 1861. -. vgl. Seattle,. zur) Konterreform P.A.. Zajonckovskiji. zu. erwarten.. (7) A・P・ R・. Mendel,. Dilemmas. Kindersley,. Russia.. 0Ⅹford. Stanford. 1963.. (8) Die tion. maBgebende of Russia.. The. of First. 1962; S.H.. Progress. Baron,. Monographie‥ New. York. in Tsarist. Russian. und. Russia・. Cambridge,. Revisionists.. A. Plekhanov:. Father. Th・ London. von. the. Laue, 1963.. sergei Zu. den. Study. Witte Formen. Mass.. Legal. of of Russian and nnd. the. 1961;. Marxism. in. Marxism.. Industrializa-. Problemen. der. I.

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参照

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