敦煌出土孔氏本鄭氏注論語の研究
11
0
0
全文
(2) 熊. 12. 谷. 尚. 夫. 次. 目. 序言. -. 鄭玄の論語校定と注解作業 鄭注論語と論語集解 四. 教壇本鄭注と集解本邸注との校勘. 五. 教壇本と経典釈文所載の鄭本との校勘. 六. 教壇本とわが国の古写本論語集解の書き入れ及び経典釈文鄭本との校勘. 七. 結語. -. 序. 昌. 現行本論語の経文はすべて魂の何畳の論語集解にもとづいて編集されているが,この論 語集解が成立する以前の論語に関して,いわゆる魯論・斉論・古論の三論語や後漢の王充 がいう河間論語ほもとより,前漢の張南が魯論と斉論とを折衷したといわれる張侯論,そ れにもとづく前漠の包成の今文説や後漢の馬融の古文説など,諸家の手定した論語やその 注釈書もみな亡伏してしまったので,今日ではただ目録だ桝こその名をとどめているにす ぎない。. ことに古論の訓説を作ったという前漠の孔安国や三論語の折衷校定にあたって,最も重 要な地位にあったともいうべき後漢の鄭玄の論語注解作業も,わずかに論語集解やその他 の講書に引用されている一部の注釈によって考察検討を加えなければならない状態で,そ の全貌ほいまだに容易にうかがうことができない。 史伝によれば,鄭玄の校定注解した鄭注論語は中国でほ唐代まで残存し,わが国でほ平 安時代に伝来したことを記録しているが,以後は散伏してしまってその完本ほ見あたらな い。しかるに1907年から翌年にわたり,フランスの中央アジア探検家で東洋学者でもあ るポール・ペリオPaul Pelliotが甘粛省敦塩県の石窟中から,唐の龍紀二年(890)二月 の写本,. 「孔民本鄭氏注」という論語の残巻(パリ国家図書館蔵)を発見するに及んで,鄭. 注論語の一面目を探究できるようになったことほまことに有意義なことといわなければな らない。. この残巻は述而篇第七の「執鞭之士」の葺から郷党篇第十の終章までの四篇であるが, 各篇名の下に「孔民本鄭氏注」と善かれているので,現行本論語にほ見られない体裁を持 っものとして貴重な文献資料というべきである。そしてその孔民本とか,鄭氏注という語 ほいかなる意義を持つのか,すなわちこの敦煙本(孔民本鄭氏注論語)と孔安国や鄭玄と の関連はどうなのか,あるいは孔安国と鄭玄との学問的襲用関係がどの程度のものか,さ. らには論語集解の孔安国の注釈に対する疑問説を解明する手掛りとなるのではないかなど, 多くの問題を内在していると思われる。. さてそれらの問題を究明するにあたってほ,まず敦塩本が鄭注論語として,いかなる価 値を持つものであるかを検討しなければならない。もとより鄭注論語を考察するには,請 書に散見する論語の鄭氏侠文や諸経典の鄭往などにも依拠しなければならないが,それに.
(3) 13. 敦塩出土孔民本鄭氏経論語の研究. 関してはすでに後述の清儒をはじめ藤塚都民(論語総説1が論述しているので,今回は敦 塩本と論語集解の鄭注・経典釈文所載の鄭本並びにわが国の古写本論語の書き入れの鄭注 とを比較して考察を加えてみたいと思う。 ニ. 鄭玄の論語校定と注解作業. 鄭玄(紀元127-200)ほいうまでもなく後漢末の大儒で,北海郡(山東省)高密県の 出身である。初め第五元先から今文学を学んだが,後に張恭祖,さらに馬融に師事して古 文学を修め,故郷に辞去する時は馬融が門人に「鄭生今去,吾道東奏。」と言って欺いたと いわれ,帰郷後ほ門人の教育と著述に専念し,諸経典に注解すること百余万言に及んだ。 その論語校定及び注解作業については,後漢書鄭玄伝の「門生相与撰玄答諸弟子問五経, 依論語,作鄭志八篇。凡玄所注,周易・商書・毛詩・儀礼・礼記・論語・孝経云云」を始 め,論語集解序の「漢末,大司農鄭玄就魯論篇章,考之斉古,以為之注。」や論語義疏叙の 「建安中,大司農北海鄭玄字康成,叉就魯論篇章,考斉験古,為之注解。」並びに経典釈文 序録の「鄭玄就魯論張包周之篇章,考之斉古,為之注蔦。」同じく経典釈文論語音義の学而 の部,. 「伝不」の条に「鄭注云,魯読伝為専,今従古。案鄭校周之本以斉古,読正凡五十. 事。鄭本或無此注老o」などがあって,いずれも鄭玄の注解作業を明記しているが,鄭玄の 使用した論語の底本についてはその表現をやや異にしている。すなわち何畳や梁の皇侃は 「魯論の篇章」と言い,唐初の陸徳明は「魯論の張・包・周の篇章」あるいは「周の本」 と述べており,また皇侃ほ鄭玄の校定並びに注解作業の年代にも言及している。鄭玄ほ献 帝の建安五年(200)六月に七十四歳で死亡しているから,皇侃(論語義疏)のいう建安 (196-220)中とは鄭玄の晩年であり,このころに校定注解を行なったものほ,要するに 釈文序釦こいうごとく,魯論の張南・包成。周氏の篇章をもととし,斉論と古論とを参考 にして作ったというのと同じもので,その内容篇次ほ魯論系であったろうと考えられる。 「梁有古文論語十巻鄭玄注,文王粛・虞 そして障害経籍志によれば「論語十巻鄭玄注」 翻・訣周等注論語各十巻,亡。」. 「論語九巻鄭玄注,育散騎常侍虞害讃」. 「論語孔子弟子目録. 一巻鄭玄撰」とあり,釈文序録にほ「鄭玄注十巻」があり,さらに旧唐書経籍志には「論 「論語釈義十巻鄭玄注」 「論語篇目弟子一巻鄭玄 語叉十巻鄭玄注虞言質」 「叉十巻鄭玄注」 注」とあり,唐書芸文志にも「論語鄭玄注十巻」. 「又注論語釈義一巻」. 「論語篇目弟子一巻」. 「虞喜賛鄭玄論語注十巻」と記載されているが,宋史芸文志以後の文献目録にほ鄭注論語 の名が見あたらない。. これらの資料から考察すると,梁代には古文論語十巻の鄭注本が存し,また釈文論語音 義にいう「鄭本に此の往なき老あり。」や論語義疏の叙文などによって,今文魯論系の鄭注 本にも数種の異本が存在したということを知り得る。かくして鄭玄ほ反復的に数多くの校 定や注解作業を行なったものと推定されるのである。 三. 鄭注論語と論語集解. 論語集解ほ貌の何畳・苛歳・曹義・鄭沖・孫畠の五人が共同の著作として正始八年.
(4) 14. 熊. 谷. 尚. 夫. (247)ごろ,斉王芳に郡上したもので,その内容は前漠の孔安国・包威。周氏と後漠の馬 融・鄭玄と三国時代の陳雫・王粛・周生烈の八家の注釈を集め,諸家の注釈で適切なもの がない個所ほ改易して自分らの注解を施したものである。晴志・唐志や釈文序録に「何畳 集解十巻」とあってその名を独占しているのは,何畳の社会的地位が最も高く,また論語 編纂の総領を担当したからであろうo実際の作業を扱ったのは鄭沖のようで,清の宋期鳳 (論語新法表)は論語編纂の記事が青書の鄭沖伝のみに『初沖与孫畠・曹義・萄頴。何畳 共集論語諸家訓話之善老,記其姓名,因従其義。有不安老,酎改易之,名目論語集解,成 奏之貌朝。』と載っていて,他の四人の個所にほ論語に関して何らの言及もされていないこ とから, 「論語集解之成,当定自沖手。」と言って集解ほ鄭沖の著作であると断定している.. 八家の注釈のうち,孔安国の注について,集解の序文に「古論唯博士孔安国為之訓解, 而世不伝。」と述べながら実際にほ数多くの注を引用していることから,後世の学者の間 で疑問視され,集解所載の孔安国は前漢の大儒とほ別人であるという議論が起こった。こ とに清儒で疑問を唱える老が多く*,荘中(経義知新記)の魂人説をほじめ,劉台洪(論語 餅枝) ・威庸(論語注) ・陳鰻(論語古訓序)らの後人仮託説,沈涛(論語孔注弁偽)の何 畳偽作説,丁妾(劉宝楠論語正義引論語孔注証偽)の王粛偽作説などが続出し,またわが 国でも武内義雄氏(論語之研究)の孔晃説が唱えられるようになった。 次に鄭注論語の成立と論語集解の成立とが後漢と魂の時代とはいえ,実際ほわずか五十 年足らずの隔たりにすぎないのに,集解が現存し鄭注論語が亡伏したのは何故であろうか という疑問が起こる。. このことに関してまず隔志では「漠末鄭玄以張侯論為本,参考斉論古論而為之注。魂司 空陳畢・太常王粛・博士周生烈皆為義説。吏部尚書何畳叉為集解。是後諸儒多為之注。斉 論遂亡。古論究無師説。梁陳之時,唯鄭玄・何畳立於国学,而鄭氏盛於人間。」と記載し, 鄭注論語と集解の六朝時代における普及事情を説明している。これによれば鄭注論語ほ晴 代まで官学にも′採用されていたが,むしろ民間に広く流行していたことを知り得るo しかしその間に梁の皇侃(488-545)が何畳め集解にもとづいて論語義疏を著わし,磨 初の陸徳明(556-627)が経典釈文に集解を底本として用い,さらに唐の開成石経(837 建立)に集解の経文が採用され,宋の耶馬(932-1010)が太宗の勅命で著わした論語正 義(注疏本)も集解を用いて疏釈を行なっていることを見れば,唐代以後における鄭注論 語はすでに官学として顧みられなくなったといわなければならない。ただ唐志には論語額 三十家の最初に「論語鄭玄注十巻・叉注論語釈義一巻・論語篇目弟子一巻」と記載してい るところを見れば,民間ではなお伝写講読されていたものと考えられる。. しかるに前述のごとく宋志になると鄭注論語の名目が見えず,また耶馬の論語正義に疏 引鄭注十三粂(五経正義・後漢書章懐太子在所引の論語鄭注)はあるが,鄭注論語の存在 について何らの言及もしていないところを考えると,正義の成立した成平四年(1001)ど ろにはすでに散伏してしまったのではないかと思われる.。かくて宋以後の論語の鄭注は集 解・義疏・注疏をほじめ経典釈文・群書治要・太平御覧やその他の講書に散見する鄭氏侠 *. 清儒の孔注疑問説についてほ藤塚都民(論語総説)の論述がある。.
(5) 15. 教壇出土孔氏本邸氏注論語の研究. 文によって,その一班をうかがうにすぎなくなってしまったが,清末,既述の唐抄本鄭注 論語残巻(鳴沙石室伏善本)が敦燥で発見されて,鄭玄の注解作業を知る上の重要な手掛 りとなったのである。. なおこの敦塩本が書写された寵紀二年(890)と同じころ,わが国の宇多天皇の寛平年 間(889-897)に藤原佐世が勅を奉じて撰した日本国現在書目録(続群書類従巻第八百八. 十四)の論語家の部に「論語十巻鄭玄注,論語十巻何畳集解,論語六巻陸善経注,論語義 疏十巻皇侃撰,論語疏十巻袴仲都撰」とあり,末尾に「経典釈文jiT巻陸徳明撰」と記載さ れているところによると,平安初期までほ鄭注本が集解本・義疏本・経典釈文などととも に中国から伝来したことになるが,その後ほ不幸にして散伏してしまったようで,以後の 文献目録にほ見あたらない。したがってわが国に現存する論語古写本はすべて何畳の集解 本だけであるが,ここで特に注目しなければならないことはそれらの古写本の行間・不閑外. や紙背に,経典釈文や義疏などの語句の記入及び異本との対校による書き入れなどがあっ て貴重な資料を提供してくれることである。. 散蛭本鄭注と集解本鄭注との校勘. 四. 敦煙本に孔民本鄭氏注と書かれてあることほいろいろの問題を提起するが,この鄭氏注 が集解本の鄭注といかなる関係にあるかを検討するために,まずその異同を比較考察して みることにする。. (横浜国大・人文紀要・第二類第七輯・敦燥出土唐抄本鄭注論語残巻校勘記参照). 1両方が合致するもの 30条があげられる。. 次の①-⑲の各注,. ⑧夫子不為也. 〔述而〕①夫子為衛君乎. ⑧皆雅言. ④我非生而知之者. ⑤互郷. ⑥人繋. ⑦君子坦蕩蕩. 〔泰伯〕⑧啓予足啓予手. ⑲師撃之始 ⑨君子所貴乎道老 ⑫子聞之謂門弟子 ⑬牢日 ⑭子路使門人為臣. 〔子苧〕⑪達巷党人 〔郷党〕 ⑯便便言 ⑳私顛 命召. ⑰君召使蹟. ⑳狐絡之厚 ⑳入大廟. ⑬揖所与立 ㊧不時不食. ⑲賓退必復命 ㊨祭肉不出三日. ⑳上如揖 ⑳厩焚. ⑮吾身衛反魯 ㊧享礼有容色 ㊨君祭先飯. ⑳君. ⑳迅雷風烈. このうち敦鰹木鄭注が集解本鄭注よりも詳細付こなっているものに, ①②⑧⑪⑬⑬⑬⑩㊧ ㊧⑳の11条がある。これほ何畳らが鄭注を適宜に脚除,またほ節録して集解の鄭注にし たとも考えられるので問題となる点はない。また道に敦堤本が集解本よりも簡略になって いるものに③⑭⑯⑳の4条があるが,これは恐らく敦燈本が書写される時に一部の字句が 脱落したためか,または書写の原本がすでに脱落変改していたためによるものと思われる。 2. 両方が相違するもの. 次の述而篇の2条があげられるが,敦燈本はいずれも集解本より具体的かつ詳細に注釈 が施されている。. 〔述而〕①富而可求也. ②不義而富且貴. ①の敦燈本鄭注はあいにく断簡のため,語句に不明個所があるが,集解本鄭注とは甚だ.
(6) 熊. 16. 谷. 尚. 夫. しく異なっている。南朝の宋の襲駆の史記集解(1自夷列伝)に「富貴不可求而得之,皆修 徳以得之,若於道可求而得之者,維執鞭購職我亦鵠之.」の鄭注を用いていることから考 えると,すでに何畳引用の集解鄭注が当時の主流をなしていたように思われる0 「正道によって富貴を得るの ⑧の敦燈本鄭注ほ「礼記日,徳潤身潤畳也。」を引用して, でなければ,自分の身に害がある。」と説くのに対し,集解本鄭注ほ「不正な富貴ほ自分 の所有とするものでほない。」と説き,皇侃はこれを敷術して,不正な富貴ほ自分と無関 係なものであるという意に解釈するが,ともかくその様相を甚だ異にしている。これは恐 らく何畳が敦燈本におけるような鄭注を要約したものではなくて,別の鄭本から引用して 集解の鄭注としたものであろうと推定される。. 五. 敦蛙本と経典釈文所載の鄭本との校勘. 経典釈文は陸徳明が唐以前の諸家の説を引用して,諸経典の音切・訓話及び文字の異同 を考証した書であるが,その論語音義ほ数種の何畳集解を底本とし,また同時に二三の鄭 本に依拠して校勘を行なったものである。その著作の時期ほ唐初であるから鄭注論語や何 畳集解が成立してより約四百年近くの年代を経過したことになる。 経典釈文ほ現行本としては抱経堂叢書本と通志望経解本とがあり,また宋の耶馬の論語 注疏にも引用されているので,それらによって敦煙本との比較考察をしててみると次のと おりである。 釈文論語集解経文. 釈文鄭本(. 敦燈本「. )は通志堂本. 」は経文. 「不樫」鰹謂大索横流之属. ㊥ 「陳司敗」. 音剛鄭本同 鄭以司敗鵠人名賛大夫. (彰「子疾」. 鄭本無「病」字. 「子疾病」. 鄭云慰質貌(殻質貌). 恵慰. Q) 「則絞」. 鄭云急也. 絞急也. (む「於穀」. 鄭緑也. 穀薩也. (う「不易」. 鄭音以鼓反. 不易待言是人好学難得也. (釘「不暦」. 鄭云善也. 庶善也. 鄭作側基反黒勝也. 純嘗為桶古之締字以才為撃此 締謂果樹也. ⑩ 「大牢」. 鄭云是呉太宰畜. ㊥ 「牢」. 鄭云弟子牢也. 太宰呉大夫名東 牢孔子弟子子牢. ⑯ 「空空」 ⑲ 「両端」. 鄭戎作「悟性」 鄭云末也. 南端猶本末. ⑭ 「屠`」. 鄭本作「弁」云魯讃弁環視今従古. 「弁」魯讃弁為今従古. 鄭云絶望之静. 「早か」絶望之辞也. ⑯ 「葦臥. 鄭云裏(秦). 真也. ㊥ 「匪」本文作「横」. 馬云匿也鄭同. 「橿」檀匝也. 〔述而〕 ① 「不綱」. 陳司敗帝大夫蓋名御蓮. 一本云「子疾病」 〔泰伯〕 ④ 「則恵」. 〔子苧〕 ㊨ 「也純」. @. 「卓爾」. 「空空」.
(7) 17. 教壇出土孔氏本鄭氏注論語の研究 ㊥ 「揮之」. 鄭云陳也. 揮陳也. ㊥ 「綻」. 鄭云繋也(臭). 故繋日経. 鄭本作「弁」 鄭云孔子山行見雑食梁釆也. 孔子山行見雌雑食其梁粟. 〔郷集〕 ㊨ 「見易」 ㊧ 「山梁」. 「見弁」. 1両方が合致するもの. ①④⑤⑥⑦⑧⑨⑲⑪⑫⑬⑭⑮⑯⑬⑩⑳㊨の18条があげられる。このうち⑨⑪⑬⑲ほ敦 燈本の鄭注が釈文の鄭注よりも幾分詳しくなっているものであるが,鄭義に変わりはない。 ①の「不綱」は敦燈本の鄭注(鰹は綱の俗字)も集解の孔安国の注と同じく「綱」. rを. 「網」でなく,. 「音剛」すなわち大綱(はえなわの類)の意に解いており,釈文と合致するo ⑦の「不易」は釈文によると「孫音亦,鄭音以鼓反」とある。すなわち東晋の孫緯は. 「易」を「亦」. (夷益の反)に読んで「変易」の意に解くが,鄭玄は「以鼓の反」に読んで. 「容易」の意に解き,敦煙本の鄭義と一致する。 ⑫の「空空」は敦蛙本も同じで,釈文にいう鄭本の戎本でないことは明らかである。 ⑬の「両端」については皇侃の義疏引の謬協の注釈では「本末」とあり,また清の銭塙 の論語後掛こは「端即嵐. 物初生之題也,物之鋭老謂之尚,亦謂之末,叩其両端,瑞其本. 而奔其末之説欺.」と説いているところから,釈文の鄭注「末也」は「本末也」の「本」 が脱落したか,それとも「端」だけを注釈したものと見るべきである。 ㊧の敦塩本ほ「魯讃弁為,今後古」とあるが,. 「為」の下に「挽」が脱落したものである。. ⑯ほ通志堂本の釈文・敦煙本はともに「裏」になっているが,書写の誤りで抱経堂本の 釈文のごとく「裏」が正しい。 ⑲の「鑑」ほ礼記玉藻の鄭注には「巌謂今旗及奮架」とあり,皇侃の義疏にも「砕麻日 敵,故架亦日線」とあるところから,敦煙本の鄭注「改案」と一致するとみなされる。 2. 両方が相違するもの. ②③⑰の3条があげられるが,. ②はその一部分が相違するものである。. ②の「陳司敗」ほ集解の孔注でほ「陳の大夫で,司敗は官名である.」と説くのに対し,・ 釈文の鄭未でほ「斉の大夫で,司敗は人名である。」と注釈し,さらに敦塩本邸注でほ「斉 の大夫で,名は御蓮である.」と解釈している。朱真の集註は孔注を採用して鄭注に従わ ない。また清の恵棟の九経古義にも「蓋孔子在陳時也,司敗之官惟陳楚有之,其為陳人, 無疑。」と述べて陳司敗の斉人説に反論している。これに対して釈文の鄭本と敦塩本とが 司敗の人名か官名かは別として,ともに斉人説をとっているのは鄭義と認めてよいと思う ので,両者は全く相違しているわけではない。 ③ほ釈文によると,陸徳明の資料となった鄭本にはいずれも「子疾」となっていて「子疾 病」と書かれていなかったという。また陸徳明ほ同じく資料とした集解本には「子疾」と 「子疾病」との二種類があったともいい,さらに「案集解於子苧篇始釈病,則此有病字非。」 と述べて,述而篇は当然「子疾」でなければならないと断定している.しかるに敦煙本は 現行の集解本と同じく,述而篇・子窄篇ともに「子疾病」と書き写され,しかも子竿篇の 方だけに「病謂病益困也」. (病益ほ疾益の書き誤り)という注が施されている。春秋左氏.
(8) 熊. 18. 谷. 尚. 夫. 伝正義の桓公五年「公疾病」の孔頴達の疏にほ「鄭玄論語注云,病謂疾益困也。」とあり, この論語注が述而篇・子苧篇のいずれの注釈かは不明であるが,釈文及び敦塩本によって 察すれば,恐らく子軍属のものに相違ない.そして敦燈本の述而篇の「子疾病」は,陸徳 明の言うごとくもともと「子疾」となっていたものが何かの写し誤りで「病」が付加され たものと思われる。. ⑰説文や集韻によれば匪・横・匪・檀・匝ほみな同義に通用したが,鄭本と思われる太 平御覧(巻七百十三)引の論語住も釈文の一本と同じく「横匿也」とあることから考える と,敦煙本ほそれらとは異種の鄭本であるといわなければならない。 六. 敦蛙本とわが国の古写本論語集解の書き入れ 及び経典釈文鄭本との校勘. わが国に伝来した論語は日本国現在書目録によれば数種類あったようであるが,現存し ているわが国の古写本論語はいずれもみな何畳の集解であり,これらの古写本にほ注目す べき書き入れがあることは既述のとおりである。そしてその系統についてほ大別して清原 家本と中原家本との二系統があり,また両家の独特の家学による相違や同じ清原家本でも 書写の時代・経本の変遷によって異同があることは,すでに武内義雄氏が「論語之研究」 で詳しく述べられているo ただ武内氏は清原家本(正和本). ・中原家本(文永本・高山寺本・宝左庵本・徳治本)並 「論語之研究」にはその一部しか掲載され. びに宗重本などに依拠して校勘されているが,. ておらず,ことに清原家古写本の述而篇の「抑為」,泰伯篇の「不磨」,子竿篇の「鼻衣裳」 「病間」 「不為酒困」 「巽」における書き入れについてほ何らの言及もされていないの ・. ・. ・. で,これらについて考察を加えてみたい。 (1)述而篇の「抑為」 清原家本の正和妙本論語集解・嘉暦抄本論語集解・建武抄本論語集解にはいずれも「於 力反,魯讃抑為意,今後古」の書き入れがある。既述のごとく,釈文序録によれば鄭玄は 張侯論を斉論と古論とに依拠して折衷したように見えるが,釈文論語音義の学而篇「俸不」 の条に「案鄭校周之本以奔古讃正凡五十事,鄭本或無此注者o」と述べているところによ れば鄭玄は魯論の周民本を読正したようで,また読正の注がない鄭本もあるという.現行 の釈文にほ鄭玄の読正記事が二十四条だ桝まあるが,全部の五十事はない。このことに関 して武内氏は「論語之研究」の序説に「現在の釈文に脱侠があるためとも推察せられるが, 又陸氏の拠った鄭本が既に不完全であったのだらうとも考-られる。」と推論し,また坂 本良太郎氏が正平板論語の書き入れの中から発見した釈文の逸文一条及び敦堤本の読正の 三条(そのうちの一条は釈文と重複)を追加して「上挙の諸条を総合すると二十七条の読 正を知ることが出来たが,*残の二十余条ほ遂に之を明かにすることが出来ない。」と述べ られている。そしてさらに鄭本の読正を想像されるような三十一条を摘録して試論されて *二十七粂の讃正ほその後古写本論語における釈文の讃正記事三条が発見追加され,月洞譲氏の 「輯侠論語鄭氏注」にその三十条が列挙されている。.
(9) 敦燥出土孔民本鄭氏注論語の研究. 19. いる。しかしながら「抑為」に関しては,いかなるわけかその三十一条にも含まれず,読 正記事にほ全く触れていない。もとより釈文にほ「於力反」とだけあり,敦塩本にも読正 記事がない。. 「抑」と「意」とほ古くほ転詞として通用した語で,荘子の盗範篇の「意知而得見欺」や 大戴礼の武王践昨の「意亦忽不可得見欺」などに見られる。釈文の学而篇「抑輿」に「上 於力反」及び子竿篇の「偲意」に「意如字,或於力反非」とあること,また漠石経では 「抑輿」が「意予」となっていることから考えれば,古写本の「於力反,魯讃抑鵠意,今 従古」という書き入れは鄭玄の読正記事として正当とみなされる。そして学而篇の「抑 輿」も現行の釈文には読正記事が載っていないが,鄭玄の読正の一事であることはまちが いない。 (2)泰伯篇の「不原」. 正和本の書き入れは「音願,孔云謹也,鄭云善也,魯讃慮鵠他乱,今従古」とあり,寡 暦本も同様で「他」の字がなく,建武本にほただ「音願」だけしかない。釈文にほ「音願, 孔云謹也,鄭云善也」とあって読正の記事はない。敦塩本も「原書也」と注釈しているだ けである。また武内氏の三十一条には含まれず,読正には全く触れていない。以上のこと から察すると,古写本鄭注と敦煙本及び釈文の鄭注とは一致するので,古写本の読正記事 も正当とみなすべきであるが,. 「屠」と「乱」との関連は未詳なので今後の究明を要する貴. 重な新出資料といわなければならない。 (3)子軍篇の「翼衣裳」 正和本に「音勉,鄭本作弁,魯讃弁為統,今従古,郷薫叉然」の書き入れがあるが,寡. 暦本にほなく,建武本には「音勉」だけしかないo釈文には「音免,鄭本作布魯讃弁鵠 統,今従古,姉貴篇亦然」とあって正和本と合致する。また敦塩本は前述のごとく「弁衣 常」 (常は裳と同じ)となり,注にほ「魯讃弁為,今従古」とあって「統」の語を書き落と しているが正和本と同一であるとみなしてよい。 清の恵棟ほ九経古義に「説文日,鼻或作統,仇糸.李善日,挽古畳字,今論語作鼻,蓋 従魯論。」を引用し,また劉宝摘も論語正義に「魯論作鼻。(中略)鄭依古論作弁者,鼻弁義 経南通,但言弁可以該鼻,言鼻不可以該弁。」と論じている。要するに「鼻」は魯論で,. 「弁」. ほ古論ということになるo武内氏ほ敦燈本及び釈文に読正の注があることを指摘されてい るが,正和本の書き入れについては言及されていないので,これも注目すべき資料といわ なければならない。. (4)子竿篇の「病間」 正和本の書き入れには「孔云少差日間,鄭云摩也」. (摩ほ療の書き誤り)とあり,建武. 本にも同様に「音諌,鄭云泰也」とあるが,嘉暦本にはない。しかるに現行の釈文には 「如字」とだけあって,鄭注は記載されていない。敦塩本は「問痩也」とあるので,正和 本・建武本と一致する。礼記の文王世子第八の「旬有二日乃問」の鄭注に「間猶療也」と あるところから考えれば,正和本・建武本及び敦煙本の鄭注ほ正当なものといわなければ ならない。.
(10) 熊. 20. 谷. 尚. 夫. (5)子軍篇の「不為酒困」. 正和本にほ「馬云乱也,魯讃困薦臥今従古」の書き入れがあり,建武本も同様の書き 入れで「困乱也」とあり,. 「従」が「随」になっている。嘉暦本には書き入れがない。釈文. にほ「馬云困乱也」とあるだけで,読正の記事はない。敦堤本には「酒困困於酒,謂耽乱, 魯讃困為魁,今従古」とあって,正和本・建武本の読正記事と合致する。武内氏ほ正和本・ 建武本の読正記事に言及されないで,敦燈本の読正記事を全く新しい資料であると述べら れているが,正和本・建武本の記事が敦煙本の発見される以前にすでに書き込まれていた 事実を思えば,これも貴重な資料といわなければならない。 (6)子竿篇の「巽」. 正和本・建武本ともに「音遜,馬云恭也,鄭本作讃,云讃薦詮,言之善也」の書き入れ 「善」を「老」に書き誤っている。嘉暦本にほ書き. があり,正和本ほ「詮」を「麓」に,. 入れがない。釈文にほ「音遜」だけ記載されているが,先進篇の部「三子者之撰」の条に ほ「士免反,具也,鄭作供,讃日詮,詮之言,善也」とあり,また敦塩本ほ経文が「選」 となっており,注ほ「選讃為詮,詮言之善者」となっていて,正和本・建武本の書き入れ 「選」は逸周書の常訓篇に「夫民群居而無 と応ずる。 「讃」ほ広轡こ「讃,善言」と解き, 選」とあり,清の朱右骨(集訓校釈)ほそれを注釈して「選,善也」としているoまた説 文通訓定声にも「選,臣借鵠善」と釈いている。 これらのことから考えると,讃・選・供・詮ほいずれも古くほ通じて用いられたようで, 子窄篇の「巽与之言」ほ鄭本としてほ「讃与之言」と「選与之吉」との両種が通行してい たものと推定される。. 結. 七. 童五 口口. 前に述べてきたことをまとめてみると, (-)敦燈本鄭注と論語集解鄭玄注との校勘では32条のうち, 違する。. 30条が合致して2条が相. (二)敦煙本と経典釈支所載の鄭本との校勘では21条のうち, 違する。. 18粂が合致して3条が相. (≡)敦燈本とわが国の古写本論語集解の書き入れ及び経典釈文鄭本との校勘でほ・ 1.三者ともに合致するものとして,述而篇の「不綱」の「綱」,泰伯篇の「不慮」の注, 「卓爾」の 「牢日」の注, 「鼻衣裳」の「弁」及びその読正記事, 子竿篇の「太宰」の注, 荏, 「選与」の注(釈文は先進篇の注による),. 「揮之」の注,郷党篇の「見鼻」の「弁」が. あげられる。. 2.三者のうち,釈文になくて敦燈本と古写本書き入れの鄭本とが合致するものとして, 「不為酒困」の読正記事があるo 子竿篇の「病問」の注, 3.三者のうち,敦燈本だけのものとして,子苧篇の「油之哉姑之哉」の読正記事があるo 4.三者のうち,古写本書き入れの鄭本だけのものとして,述而篇の「抑為」の読正記事, 泰伯篇の「不慮」の読正記事がある。.
(11) 教壇出土孔民本鄭氏注論語の研究. 21. 5.三者ともに注記されているが,趣をそれぞれ異にしているものとして,子竿篇の「也 純」フうミある。すなわち敦燈本には経文は「也純」となっているが,注は「純常為梢,古之 構字以才為聾,此綿謂黒宿也」とあり,正和本には「順倫反,練也,鄭作貯,側其反,黒 潜也」の書き入れがあり,嘉暦本にほなく,建武本には「順倫反」しかない.釈文にほ「順 倫反,練也,鄭作側基反,黒勝也」と記載されて「緒」がなく,. 「其」が「基」となってい. る。これを他の経書の鄭注に照合すると,礼記玉藻の「而純組綬」の鄭注には「純営為締, 古文梢字,或糸穿才」とあり,周礼地官媒氏の「純畠無過五南」の鄭注には「純実締字也, 古棉以才薦聾」とある.また釈文の礼記の部「而純」の条には「讃為棉,側其反」と記載 され,同じく周礼の部「純烏」の条にほ「側其反,依字従糸才」とある。このことから考 えると,正和本の書き入れも鄭注として正当なものとみなされる。かくて鄭本のうちには 経文「也純」を誤りとなして「也/W」,あるいは「也絹」に読正したものもあったと推定さ れる。そして現行釈文の注記「鄭作側基反」ほ「作」の下に「紛」または「描」の字が脱 落したものであろうo. 以上のとおり敦塩本を集解の鄭注・釈支所哉の鄭本やわが国の古写本における書き入れ の鄭本によって比較考察したのであるが,要するに敦燥本は鄭氏注と示すごとく鄭玄の注 釈本であることはいうまでもないが,一部にわたり諸本と相違する個所があるということ. ほ,何畳らが採用した鄭本や陸徳明が校本とした鄭本とは異なるものといわなければなら ない。ことに釈文が述而篇の「子疾」の条で,. 「鄭本無病字」と断定しているにもかかわ. らず,敦煙本の経文にほ「子疾病」となっていて「病」の注記がなく,また釈文の泰伯篇 の「予有乱十人」の条に「本或作乱臣十人,非」と判断しているにもかかわらず,敦燈本 には「有乱臣十人」となっていること,その他多くの誤字・脱字があることを考えると, 必ずしも清の羅振玉が「其在有唐亦鄭注中之善本粂」と述べたようにはいかないが,集解 における鄭注以外の諸注との関連や古書に散見する論語の注侠文を研究する上にほ,非常 に価値のある重要資料といわなければならない。 (1968年9月20. 日稿).
(12)
関連したドキュメント
加えて、従来の研究においてフョードロフの思想の形成時期を指摘するためにしばしば言及さ れてきた2つの断片にも触れておこう
なお︑本稿では︑これらの立法論について具体的に検討するまでには至らなかった︒
In this paper, we defined these con- trollable devices as Network Controllable Artifacts (NCAs). The conventional artifacts are controlled by own controller, but in most of the
看板,商品などのはみだしも歩行速度に影響をあたえて
られてきている力:,その距離としての性質につ
いずれも深い考察に裏付けられた論考であり、裨益するところ大であるが、一方、広東語
これらの先行研究はアイデアスケッチを実施 する際の思考について着目しており,アイデア
長尾氏は『通俗三国志』の訳文について、俗語をどのように訳しているか