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棲神 第貳拾六號 (創立三十周年紀念)

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(1)

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題食並に記念競

色 紙

口 絵 篤 農 高 租 御 遺 文 断 片

波木井公一族と身延山

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本偽賓在を中心とせる統融的宗教・:::::山

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貫長公の入信に闘する記事を先づ組偉中に徴するに、富士道師の﹁御倖土代 L ︵聖減五四年︶身延朝師の﹁元副化導 記 ﹂ ︿ 一 九 六 年 ﹀ 澄 師 の ﹁ 註 萱 讃 ﹂ ・ 性 師 の ﹁ 薩 埠 時 停 ﹂ 等 の 古 停 に は 何 等 の 記 事 も 見 え ぬ が 、 身 延 品 川 二 代 智 寂 省 師 の ﹁ 別 頭高組停﹂上には富木胤梅、大事三郎.進士大郎等に次で‘弘長一冗年の師轡雲結の下には、﹃敵人降多、荏原義宗、太 同乗明‘曾谷敬信、秋元太郎、四依頼基、池上宗仲.千賀有問、工藤吉隆﹄等の名は列ぬるが、未だ波木井氏は見え ぬのでるる。然るに文永十一年の下には 嘉 越 時 至 、 立 レ 去 ニ 此 地 二 格 託 = 子 檀 越 波 木 井 氏 賞 長 − 卜 = 隠 於 兜 良 一 と波木井氏に託して兜綴即ち甲斐に入るとあるが、入信のととには何等樹れて居らたい。然るに第品川六代六牙潮師の ﹁別頭統記﹂二四には、始めて正嘉中荏原義宗を介しての入信の記事がるる。叉﹁高岨年譜﹂︵四九七年﹀には宗組三 十六歳の正嘉元年の下に﹁是歳甲州南部貫長受戒﹂と述べて、古くより定嘉弘長の頃の入信と定めたのであった。 併し乍ら日記等の設には全く判然たる典擦がなく、通漫に諸慎越の入信を組停に掲載したに過ぎたいのである。故に 今はその根本資料たる宗凪の御遺文に就て之を見るに、波木井公開係のものは次の七篇である。 波木井公一一族と身延山

(14)

波 木 井 公 一 族 と 身 延 山 一 、 六 郎 恒 長 御 消 息 文 永 元 年 九 月 二、波木井三郎殿御返事 同 十 年 八 月 三 日 .六郎次郎殿御返事 建 治 三 年 三 月 十 九 日 四 、 地 御 書 弘安四年十一月廿五日 ヲ | 五 、 波 木 井 殿 御 報 同 五 年 九 月 十 九 日 ハ 、 波 木 井 殿 御 虫 日 同 五 年 十 月 七 日 七 、 南 部 六 郎 殿 御 書

五 月 五 日 以上の中第六の﹁波木井殿御書﹂は、朝師の﹁化導詑﹂には最も多く引用せられて居るが、往年﹁山一一小乗講義録﹂の﹁御 ︵?︶ ハ 安 房 ︶ ︵ 佐 渡 ﹀ ︵ 身 延 ︶ ︿同︶ ︿ 池 上 ︶ ハ 同 ﹀ 遺文匡謬録草案﹂に. 一々遺文中の原文を徴して、遺文中の川文を集大成せる偶作なるととを明示せる如く、古今を 所らうのあひだ.はんぎゃう−をくはへや候事恐入候。

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﹀ 通じて備作なることには何等の異議はないのである。最もその事貰を明にするものは、第五の﹁波木井殿御報﹂に と所持の抗に花押を省略する、古習に随はれたる事宜に徴しても、その後二十日御入誠の一週間前に、古来より御自 俸とも別描せらる L .あの長篇の執筆は認め得ぬのである。その他の六結中最後の﹁南部六郎殿御堂同﹂は、第十四代 事﹂といひ、文中に の普撃境師の﹁身延山銭外﹂馬本に牧められたるもので、文体から見ても疑ふ飴地もなく、その同時稿を﹁岡家誘法之 眠 れ る 師 子 に 手 不 レ 付 不 レ 眠 . 流 に さ を を 立 ざ れ ば 不 ニ 浪 立 一 、 不 レ 珂 = 噴 誘 法 ↓ 留 難 ・ な し 。 ハ 槙 九 同 ︶ とあるに依るに、宗岨の留難は﹁安園論﹂献上に出来するものである故に、本書は右の文意よりして、文臆元年以後

(15)

文永八年頃のまでのものと推定すべきである。随って順序上第二番目に列すべきであらう。殊に本書には一 a 十 輪 粧 ﹂ や南岳の﹁四安繁行﹂を引用せるととは注目すべきである。 御執筆の順序は租ぼ左記の如くであるが、次にはその宛名に就て吟味したければ左らぬ。先づ六郎 1 c 三郎とである が、﹁南部家文書い等に依ると貫長は幼名を芳三郎と呼びしより、産を略して一一一郎と呼んだが、後には六郎と呼んだと いふが、それは宛名に﹁甲斐園南部六郎三郎殿御返事﹂とあるに依て、共に同人の名であるととは明かである。然ら ば﹁南部六郎﹂と﹁六郎恒長﹂との同異に就ては如何といふに、﹁年譜孜異﹂中には、 書 尾 一 疋 = 南 部 六 郎 恒 長 二 按 窮 = 誤 貫 長 − 耶 ‘ 或 宜 長 一 族 耶 。 と述べ、﹁聖典大軒林﹂︵主﹀も亦之を依用して居るが、由来本書には宗祖の根本主張たる念悌無聞の法門を力説すると ム﹂は、営時鎌倉はいふに及ぼ歩、圏中は念併が流行した震である。由来市部一家は良一守口を奉じて居ったが、常に鎌倉 に出動の貫長は念伸者であったととも想像問来るのである。障って六郎恒長とは他に判然たる誇擦のない限り、恒長 は貫長の誤需であらうととは、本書が﹁本満寺銭外﹂に蒐集せられた点からもしか思はれるのである。叉木警が文永一冗 年九月の御執筆とすれば、全年十一月安房の小松原御法難の直前、東僚花房蓮華寺に於て停国房に﹁営世念働者無間 地獄事﹂宗 c︶を註した後執筆せられ、入信聞も在き貫長を敬誠せられたものであらう。 然るにその後はかん\しく貫長の入信の表現がなく、伊東の御流罪、小松原の御法難等相次いだ、故に羽田難はこれ 岡家の詩法に由来する旨を明かにすべく、﹁南部六郎御堂百﹂の御執筆となったのである。かくて文永十年の﹁波木井三 郎殿御返事﹂に 但 日 蓮 法 師 仁 度 々 聞 レ 之 人 々 、 狛 値 = 此 大 難 一 之 後 拾 ι 敗 。 貴 護 者 間 レ 之 一 雨 度 一 時 二 時 殿 、 難 し 然 末 レ 拾 御 信 心 之 由 聞 か 波木弁公一族と身延山

(16)

波木弁公一族と身延山 四 之 偏 非 ニ 今 生 事 ﹃

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と記されたるに依れば、質長の入信は前回二週の御消息等に依ていよ F t k 確定し、容易に之を拾っるとも見えたかっ た 。 か く て 佐 渡 御 流 罪 に 依 り 、 ﹁ 開 目 紗 ﹂ ﹁ 本 掌 紗 ﹂ 等 に 依 り 御 本 懐 の 開 顕 ・ せ ら る L や、文永十年八月ご百賓長に封して 正しくその奮宗たる真言の三者を破し、本門の三耐を開顕せられたのが本書である。 然るに本書は顕正を表とし破邪を裏とする故に、文中彰灼たる真言破はないが、とれに封しでは既に文永九年七月 ﹁真言見聞﹂︵制穴﹀を著し、民言破の資料を鎌倉夜住の耕殿日昭を始め諸弟子に詮られたととは、七月廿一日その港駅 たる﹁鼎殿御消息﹂に 此警は随分の秘書たり、己前の皐交の時もいまだ不レ被 L 事 粗 載 レ 之 、 他 人 の 御 脇 町 聞 ・ 泣 か ら ん 巴 前 に 御 存 知 あ る ぺ し 穂じてはこれよりぐ︵具﹀していたらん人にはよりて、法門御聴聞有べし

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と記して排殿、大進阿闇梨、三位一殿の三師に宛てられたのに徴して明かである。叉今の﹁波木井脅﹂の端許に 鎌 倉 に 筑 後 房 、 排 阿 闇 梨 、 大 進 阿 聞 梨 巾 小 借 等 有 レ 之 、 召 レ 之 可 レ 有 = 御 事 一 可 し 有 = 御 談 義 一 、 犬 事 法 門 等 粗 巾 、 紘 一 等 日 本 国 未 = 流 布 一 大 法 少 々 有 レ 之 、 随 御 息 T 問 可 − − 註 申 一 也

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曹 と は 、 と れ 波 木 井 公 の 奮 宗 た る 同 県 言 破 に あ る と と は 、 ﹁ 真 言 見 聞 ﹂ の 詮 献 と 併 せ 考 ふ べ き で あ る 。 以上の三喜に依て粗ぼ賓長公入信の事情を知り得るのであるが、その入信の時に就ては﹁年譜孜副さ﹁銭外考文﹂は 共 に 正 嘉 一 花 年 と い ひ 、 ﹁ 別 商 統 紀 ﹂ 二 四 は ﹃ 正 嘉 中 質 長 直 = 干 鎌 倉 ↓ 、 患 = 荏 原 義 宗 一 初 見 ︼ 一 高 組 一 ﹄ 宗 一 ﹀ と 述 べ 、 ﹁ 年 譜 孜 塁 に は そ の 随 伴 に 就 て ﹃ 西 山 翁 興 ニ 興 師 一 有 レ 奮 、 因 魚 = 大 士 槽 − 、 南 部 氏 依 = 翁 議 事 一 改 レ 宗 受 レ 戒 ﹄ ︵ 官 ﹀ と 越 ベ ベ 考 文 ﹂ に は ﹃ 祇 = 役 鎌 倉 一 因 常 = 高 組 之 檀 一 ﹄ ハ 一 で ハ ︶ と も あ る が 、 若 し 永 仁 六 年 の 官 士 興 師 の ﹁ 本 掌 分 興 帖 ﹂ に は

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甲斐岡市部六郎入選者、日興弟子也、何所ニ巾興−知 L 件 ︵ ﹁ 宗 皐 金 書 レ 興 門 集 竺 ﹀ と、その他藤兵衛、六郎次郎.六郎三郎等教人の名を列するに依れば、甲斐大井の庄出身の興師が、文麿元年宗祖山石 本入臓折師弟の紘を結んだ史質からも、興師を通じて宗祖の門に入ったのであらろ。且つ此の事は後に越ぷる興師身 延離山の折、切々の情を以て貫長を諌め、更にその第六男彦六原殿行義の問に答へた、正鹿元年十二月十六日の﹁原 殿御返事﹂に 入選御心替らせ給候欺.三代に披露し給候と申して候しかとも、向御心中不明に候て御聞候畢。 日興が波木井の上下の御筋には‘初登心の御師にて候事は、二代三代の末は不 L 知、未だ上にも下にも誰が可=御忘 候 っ と と そ 存 候 へ 。 ︿ ﹁ 宗 会 ﹂ 輿 門 集 、 4 抗 出 ︶ とあるに依て愈明かである。 そ の 他 彼 の ﹁ 百 六 筒 相 承 ﹂ に は ﹃ 延 山 地 踊 護 心 之 棋 一 五 日 興 敬 化 力 用 也 ﹄ ︵ 全 上 一 一 八 ︶ と 述 べ 、 ﹁ 瓦 入 所 破 抄 ﹂ ︵ 全 上 高 ︶ も 同意を記し.弟子日順の﹁従閉山倖日順法門﹂には更詳説して 一、波木井富士上人不レ可=背叩一一耳、父子起請数週有レ之.波木井にして法華法門を弘初させ玉市、富士上人根本に て御座.其後鎌倉には復大聖人の御説法を聴聞して法華宗に成玉ふ。さる間日興上人波木井の初殻心の師にて 御 座 事 無 レ 疑 云 々 ︵ ﹁ 全 上 ﹂ 一 一 八 ︶ とあるに徴して明かである。更に要法寺日辰の﹁組帥偉﹂には、此の間の事情を詳説して 閉山若年之時三井寺登播磨律師一疋能化随事文。共後富士西山下向、彼播磨律師事総身延津下、波木井六郎賞長堀内 天台談義作、伯者公開食及身延山越.貫長子息三郎清長封、営宗御法門談、清長韓間信仰奉‘同貫長妻聴=聞之一受 波木弁公↓一族と身延山 主主

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波木井公一一族と身延山 ム ノ、 法 、 貫 長 鎌 倉 下 向 、 清 長 親 父 向 法 華 法 門 語 、 質 長 退 官 交 法 尚 治 定 、 日 興 封 = 賓 長 一 法 談 、 間 レ 之 即 作 一 一 法 華 持 者 一 、 一 五 々 令 官 士 宗 忠 一 裏 集 ﹂ 史 停 第 二 ﹀ とあるに依れば、播腐公は興師と共に駿河の岩本質相寺の事徒であり、且つ播磨公の縁に依て興師と波木井家との総 が結ばれ、興師を介して貫長の子六郎ご郎清長︿三郎は彦三郎賞長の息の意か﹀先づ入信し、,弐で宜長の室の入信が あり、かくて同ヒく日興を介して賓長の入信となり。更に後錦倉に於て親しく宗阻より法義を受けて、貫長とん一不組と の関係は結ぼれたといふのである。 以上の身延御入山以前の披木井氏への三書、並に宮士門流の文書に依て、官長公の入信は粗ぼ弘長文永の交、興師 を介して縁が結ぼれ、後文永の初頃宗祖の法義を聞き‘十年間の信仰の糟績に依て宗組より﹃費謹者間レ之 一 雨 度 時 二 時 殿 、 難 み 耐 米 レ 捨 御 信 心 之 由 聞 レ 之 、 偏 非 = 今 生 事 一 ﹄ と ‘ 不 退 轄 の 信 者 と し て の 印 可 を 受 け 、 絡 に 第 四 笠 岡 た る ﹁ 波 木井三郎書﹂となり、設に奮宗の真言念怖を捨て、純の法華信者となられたのであった。随って古来よりの正嘉入信 のととも考ふべきである。若し奮宗に就ては﹁年譜﹂が既

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甲州南部の密寺といへば.営時に於ける甲斐の俳歌歌態 からも、その奮宗の真言なるととは知るべきでるる。故に﹁統紀﹂四に﹃謹拾ニ柿宗一﹄云々とあるは誤であらう。と れに就ては﹁身延山史﹂が貫長公の宗旨に就て御遺文に依れぽ念伸、先祖の宗旨に依れば真言といへるは、前越の如 ︿営時の事情に徴して受賞の設である。叉奮宗民言たるとーとは﹁波木井三郎殿御話事﹂に依ても明かである。 以上質長の入信に就て述べたが、かくの如き貫長公と宗祖との関係は、身延御入山以前は入信時代である、御入山 径を以て、正しく波木井氏の給侍時代といふべきである。されば波木井氏の遺文六篇中、前三篇は入信篇であり、後 の三篇は給侍篇である。弘安五年十月の﹁波木殿御堂同﹂は勿論除くぺきである。且つ三筋中最初の建治二年の﹁六郎

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・究郎殿御返事﹂は.貫長公の次男六郎弐郎清長が、白米民斗油一笛の御供養に封ずる御返事で、他の二篇は正しく質 長 公 へ の も の で あ る 。

二、渡木井公一族の給侍

弐に披木井公一族の給侍 b L越ぷるに先立って‘告示岨の身延御入山の本旨に就て一言しなければたらね。とれに就て は古来種々の設があるが、その根本の理由は三度﹁安園論﹂を以て、園家を諌障したが容れられぬ震に、御入山の意 を決したととは遺文中随所に述べて居られる。とれは御入山の根本の理由であって、宗組は四依金吾への御消息に、 そ の 御 心 情 の 一 端 を 一 不 さ れ て 情ら事のの情を案十るに、今は我身に温あらじ‘或は命に及ぽんとし、弘長には伊豆の園、文永には佐渡の島、諌 鴎再三に及べば留難重量せり‘悌法中怨の誠をも身には早や免れぬらん。然るに山林に世を遁れ遣を準まんと思ひ し に 、 人 々 の 語 様 に な り し か ど も 、 高 方 々 存 す る 回

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り し に 依 て ‘ 営 園 営 山 に 入 り て 、 巴 に 七 年 の 春 秋 を 詮 る 。 ︵ む ︶ と越べられし如く斗山林に世を遁れ道を進まんと思ふ﹄の語は、全く聖者の本心で一時の段春褒庇に依て、真に闘を 救ひ人を導くの観念の費るべき筈は泣い。普天台大師は長期修養の後、時の帝の請を容れて金陵に出で a h 偉導に従事 したが、数年にして得法の者の次第減やるを見て、再び天台山に入って修養を重ね:最後郷土の恩を報告 Y るため有名 たる﹁摩詞止観﹂を設かれたのであるが‘宗凪の身延御入山も法華経に依る民の鎮護園家の意を貫徹せんとの意に外 たらたかった。かくて宗阻はその法語嘉舎に遇は歩して、化縁謹きて絡に弘安の御入滅とたったのであるが、後世後 に趨べんとする波木井の南部一族が、吉野朝に馳せ参じて逸平く、不惜身命の勤王に迫んじたととは.全く宗組御入 波木弁公一一族と身延山 -(;

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波木井公一族と身延山 ノ1 山の傑志の宜際的表現と拝すべきである。 若し宗組が身延の地を選ばれたととに就ては、既に﹃人々の語様 k ﹄とある如く、勿論各地の憎那より懇請があっ たとも想像出来るが、今の諾を身延第九代の墜師は、その箸﹁報恩紗見聞﹂に﹃凹保金正口は伊豆へ、宮木殿は下線へ 蘇谷入遣はバ斗.科へ、太田殿は越中、宗長は池上へ﹄等と懇請があったが、﹃いづれも御用ひ無く南部殿へと御下畢﹄ と棒し。第十一代の朝師は﹁化導記﹂に此の文を引用して﹃叉串 HK 存する旨云々、御所存定不レ可 ι軽、此御文休意入 可 レ 案 ι之者﹄と述べて居るが、身延の御入山に就ては諌め波木井公と打合せがあったのでは勿論ない。何となれば文 永十一年五月十七日身延へ御着の日、御到着と同時に鎌倉なる犬檀那宮木殿へ、十二日に鎌倉御出瑳踊輪、竹の下、 車返し、大宮‘南部の五泊の後無事到着のととを報じ 十七日乙のととろ、いまださだまら‘?といへども、たいしはとの山中心中に叶ひて候へば、しばらくは候はんやら ん 。 結 局 は 一 人 に た て 日 本 閣 に 流 浪 す ぺ き み に て 候 。 叉 た ち と ど ま る み た ら ぽ 、 げ さ ん ︵ 見 参 ︶ に 入 り 候 べ し ﹄ ︵ 鰻 首 ﹀ と身延に定住は不決定の意も見へ、更に端書に け か ち れ 飢 掲 ︶ −

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ばかりなし。米一合もうらや、がし︵餓死︶しぬペし。此御房たちもみなかへして、但一人候ペし。 とのよし御房たちにもかたりさせ給 とあるに依れば、教人の弟子建も供奉したのでるらうが、恐らく突然の御入山であった第に、何等の用意の・なかった ととも拝せられるのである。既に衣食にさへ御不自由であった故に、勿論御住居の御庵室の準備訟どある筈はたい。 ために御入山後約一ヶ月聞は、或は古来申州一国を遊化せられ六月十七日を以て身延開闘のととがあったといはれる のである ο 何れにもせよ御入山後約一ヶ月聞に波木公の力に依て御庵室が西谷に建立せられ、始めて此の鹿に御安住

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となったのである o 併し甲州の遊化に就ては全年五月﹁法華取要紗﹂︵お﹀の御述作のありし点からも、叉遺文中﹃門 一町を出でや既に五筒年たり﹄︵長﹀とも、﹃此の山を出づる事一歩も候はや八年が間﹄︵ M 司︶等の文陀依ても。此の山 とは身延山であるととはいふ迄も在い。されば此の間波木井公の館に居られて﹁取要紗﹂の御述作のあったとと L 拝 ず べ き で あ ら う 。 斯様な宗岨突.然の御入山に依て、此に始めて波木井公一族の御給侍が始まったのであるが、﹃かりそめ﹄と遊ばされ し如く取急ぎ建てられた賞時の御庵室は、四年後の建治三伝ーには、改築となったのであるが、営時の有様は恐らく駿 河の某氏への﹁庵室修復書﹂に 去文永十一年六月十七日に、この山のなかにき︵木︶をうちきりて、かりそめにあじち︵庵室︶をつくりて候ひし が、ゃうやく四年がほど‘はしら︵桂﹀くちかきかへ ︵措壁︶をち候へども、なをす ζ と な く て

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− − − 今 年 は 十 二 のはしら、四方にかんべを注げ、四方のかべ一そにたうれね。うだい︵有待︶たもちかたければ、月はすめ,雨は とどまれと、はげみ候へる程に人ぶなくして、がくしゃうハ畢生︶

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もをせめ、食・なくしてゆきをもちて、命をた すけ候と乙ろに、さきに上野殿よりいも二駄、とれ一駄はたまにもすぎ︵主︶ と遊ばされし如く、急 k k 建立した庵窓が右の如き有様となり、絡に修援のやむなきに至ったのでるらう。叉此の﹁庵 室修覆書﹂は文明十三年に、朝師が不慮に感得して大坊に納めたととは﹁化導記﹂下﹁朝師見聞﹂二吃に明かであ る。此の間常に波木弁公一一族の御給侍のあったととは、全年三月十九日の﹁六郎次郎殿御返事﹂に 白米三斗油一需給畢。いまにはじめぬ御心ざし申つくしがた︿候。日蓮が悦伎のみならや、標迦伸定て悦候らん。 ﹁我則撤喜、諸伸亦然﹂は是也。明日三位百却をつかはすべく候。その時委制可レ巾候 波 木 井 公 一 一 族 と 身 延 山 九

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波 木 弁 公 一 族 ム ﹂ 身 延 山

/ 、 良

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攻 良

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殿 日 蓮 花 押 衣 長

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兵 f!f:j 殿 、 、 4 歪 J 〆 = 一 − t M ﹂ とある如く、全く﹃いまにはじめぬ御心ざし﹄で常 K 御供養があったのである。 悲し此の宛名の六郎弐郎は‘最初入信したと侍へらる L 、賞長の次男清長のととであり、叉弐の次郎兵衛は弘安四 年 ﹁ 地 引 御 堂 同 ﹂ に 見 ゆ る 、 三 郎 兵 衛 尉 ︵ お ︶ 即 ち 橘 三 郎 兵 衛 光 朝 の 兄 で あ ら う と と は 、 ﹁ 南 部 出 家 文 書 L 日 阿 か ら も 察 せ ら る L 。更に﹃明日三位房をつかはす﹄といふに依れば‘同族であっても身延より柿隔れる地に居られたととが思はれ る。且つ此の三位房は勿論身延第三代の三位日進でなく、弘安二年の夏頃寂した、三位日行であらう。執れにするも 入山の折の庵室は三年目に改築せられ‘更にその後三年を隔て L 弘安四年、和措張された庵室の改築とたったのであ る

かく弘安四年再び庵室の大損張に依る再建のあったことは、全宇千一月廿五日の﹁地引御室円﹂に明かである。此の 時は十間四面の建物となり、且つ久遠寺の局観も拐げられたと倖へる。即ち 訪は十間四面にまたひさし︵庇︶さしてつくりあげ、二十四日に大師諦並延年心のごとくつかまつりで・::::坊は 地ひき山づくりし候しに、山に二十四日一日もかた時も雨ふる事なく、十一月ついたちぜうぼうハ小坊︶っくり、 馬 や つ く る ︵ 口 ∞ ︶ と越ぺらる a A 如く‘十月八日に大坊の桂建より九日十日雨日に屋根を葺き、十一日より十四日迄雨雲が降ったが、月 末には落慶と左り、廿四日落慶式が懇行せられ、大師講延年舞繋があり、頓思粧の行事もるり、十一月より附属の建 築にか L った様である。此の間披木井公一一族の奉仕のあったととは

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弐郎殿等の御きうだち︿公撞ーをやハ親﹀のをほせと巾し‘我心にいれてをはします事たれば、われと地をひき. はしら︵柱︶をたて‘とうびゃう

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へ藤兵衛︶むま︵右馬︶の入道、三郎兵衛ノ尉等巴下の人々一人もそらく︵疎 時﹀のぎ︵義︶たし。坊は鎌倉にては一千貫にでも、大事ととそ申候へ。 等とあって、宛名に﹁南部六郎殿﹂とあるは恐ら︿営時鎌倉在勤の貰長会に.報告のための御消息と拝される。﹁別踊 統紀﹂二十四には貫長公身延御在山と− b るのは営らぬ様でるる。 此の時宜長公の息彦次郎賓櫨は賓長公に代って奉仕せしめたのであろうが、文に弐郎殿とあるが、質長公には最初 入信の六郎弐郎清長があるが‘とれは恐らく異母兄で、質櫨は彦衣郎といひ兄に捕太郎長義があったのでるる。叉此 の時臣ヤとしては藤兵衛、右馬入選、三郎兵衛尉等の名が見ゆるが﹁八戸家偉記﹂には 話 レ 児 父 光 行 以 = 三 上 藤 兵 衛 官 助 、 幅 士 右 馬 允 忠 隆 一 億 = 侍 臣 − 、 貫 長 成 長 而 鴛 = 別 家 一 、 時 三 上 幅 士 従 属 一 再 々 ﹁ 南 部 家 文 書 ﹂ ハ 月 間 ﹀ とあり、叉﹁身延山開基﹂の下には 賓長嘗師=依聖人二建=立一宇精舎二子レ時家士三上藤兵衛長官暗号一晒士右馬入道長忠刊降、橘三郎兵衛光朝等奉= 行 之 \ 加 b 之貫長嗣子彦次郎賞糖、二男繭三郎等奉=父命−、日按=閥共越智入金上︶ とあるに依れば、時に奉仕した臣下は、三上官助の子長宮、一隅士忠隆の子長忠と光朝の三人であるが、﹁年譜孜異﹂上 は右三人は文永十一年宗祖を身延に請した︵上呈阿﹀とあるは誤であらう。 蕊に於て身延山の基礎は、会く波木弁会に依て築かれ、且つ常に側近にあった宜稽等は宗祖に代って、立正安園の 運動を二陣三陣相弐いで興すべく敬誠せられたととも察し得られる。庵室の成就した翠弘安五年には、前年より所努 波木井公一族主身延山

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波木弁公一族と身延山 のため宗岨の御健康はいよ/\勝れないものがあった。ために大願の成就するまでは一歩も身延を出で・?と決意せら れた宗岨も、弟子棺那の切なる勤めに依り‘同年の秋九ヶ年住み馴られし身延を後に、絡に常惜の三泊の温︵踊島耕 岩陥叫郡温本︶に寮養と決せられ、九月八日諸弟子並に賞檎始め一族の人々に守られ、病掘を愛訴に托されて下山、大 井、曾根、黒駒、河口、幕地、竹下、関本、平塚、瀬谷を粧て、十八日池上宗長の館に暫く御逗切となられた。その翌 九月十九日貫長公に港られた御消息には みちの閉山と申、かわと申、そとばく大事にて候けるを‘きうだち︵公達︶にす︵守︶護せられまいらせ候て、難 もなくとれまでつきて候事。をそれ入候ながら悦存候。さてはやがてかへりまいり候はんや’る遣にて候へども、所 らうのみにて候へば、不ぢゃう︵定︶・なる事も候はん・ヂらん。さりたがら日本園にそこばくもてあっかうて候みを 九年まで御き

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︵師依︶候ぬる御心宮し‘中ばかり在く候へば、いづくに尤死に候とも、はかをば身延のさわにせ さ 営 候 べ く 候 。 ︵ 店 ﹀ と切々なる情を越ペ、被木井公の九ク年の奉仕を感謝し、齢命の程も計られぎる故、最後の墓所を身延と定められた と と は 、 立 敬 開 宗 以 来 四 回 難 霊 園 躍 の 間 に 属 し て 、 一ヶ月とは同所に居住の出来・なかった宗祖には.九ヶ年の身延は全く 忘れ難いものであったであらう。文中最後に時の御飛鳥の粟鹿毛は、 一時藻原殴の元に頂ける旨を述べられ、且つ所 勢のため花押を省略せられた旨を附記せられて居るが、池上の御逗習は絡に永遠の御逗留とも仏り、顎月十三日六十一 歳を以て御入誠せられ、絡に波木井殿への御消息が絶筆となったのであった。 かくて弘安五年十月廿五日御遺言に依り、御遺骨は諸弟子慎那に依て、身延に到着し、二十九日御衣木取り弟子日法 に依て御影像が誼立せられ、百ケ日御墓浩立御舎利を牧め︵﹁宗旨名目﹂下三口、﹁化事記﹂下︶ J ハ老儒を中心として月

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弐輪呑守塔の制が立てられ、子檀交互に守塔するととが決せられた。然るに正臆元年七回忌の折。輪次守塔の弊に鑑 みてか、宮長公に依て此の制が慶せられ、佐渡阿閤梨日向を以て第二組と定められた。詰めに波木井公重縁の白蓮阿 閤梨日興の離山を見るに至ったのである。 若し営時に於ける波木井公の所領に就ては宗祖は﹁秋元殿御書﹂には、 甲州、飯野、御牧、波木井の三箇郷之内、波木井と申す、此郷之内成亥の方に入りて二十飴里の深山あり。︵巧一﹀ とも‘亦﹁下山御消息﹂には﹃甲州、飯野、御牧、波木井郷の内身延の嶺﹄︵お︶等とある如く、官士川以内下山以南 南部北方の一帯を領したものでるらう。市して貫長公は既に文永十一年十月二十四日 在 レ 故 十 三 塁 立 = 四 方 堺 \ 今 日 蓮 聖 人 寄 = 附 之 一 、 白 レ 今 以 後 吾 一 家 輩 身 延 事 不 レ 可 し 存 = 魚 略 一 。 若 異 意 之 官 於 ι L 之 、 働法併勿論、於 L吾復不忠不孝罪科問、未来際迄子孫好=滅亡一庭、依市如 L 件 。 ︵ ﹁ 宗 接 金 書 ﹂ 上 聖 部 一 一

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の﹁寄進航﹂を認めて宗祖に寄進し、かくて弘安四年の入道して日固と精し、永仁三年乙未十二月十六日︵﹁南部家文 支 百 ﹂ 一 一 阿 作 − 一 六 月 三 誤 欺 ︶ 南部太郎賞友共一家中に宛て L 身延の揮の御事は堺を立て L 永代寄進之上子制般に見えたり。是偏に父母主君孝養報恩のため、若日国が跡末末の 中に不信悌怠の輩、身延の御話疎略を存せん不孝不法のゃから、 一 分 も 日 同 が 跡 不 レ 可 ι 、 孝 養 の 士 山 他 に 異 な る 問 未来まで禁じて置底也︵全上冗﹀ と置文を残し、金五年九月廿五日七十六歳を以て卒したのである。随って逆算すれば貞臆元年の誕生で宗組と同年で あ っ た の で あ る 。 ﹁ 南 部 家 文 書 ﹂ は ﹃ 以 = 天 年 一 卒 、 法 語 輝 山 源 公 ﹄ 一 一 阿 と 年 齢 は 明 記 し な い が ‘ 或 説 は 九 十 六 歳 寂 、 建 仁 ご 年 誕 生 と す る が 、 ﹁ 身 延 類 豪 ﹂ ﹁ 身 延 鑑 ﹂ ﹁ 別 両 統 紀 ﹂ 等 の 資 料 と は 別 で あ る 。 波木弁公一族と身延山

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波木井公一一族主身延山 P'f

三、南部家と宗門の資料

前項に於て宗祖と波木井公一族との関係を述ぺたが、失に南部家を研究するに営。て先づその系譜に依れぽ.貫長 会 以 前 の 分 は ﹁ 寛 政 重 修 家 譜 ﹂ を 始 め 、 ﹁ 身 延 類 棄 し ﹁ 化 導 詑 ﹂ 下 ﹁ 和 語 式 ﹂ ︵ 克 明

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﹁ 録 内 砕 蒙 ﹂ ︵ 一 二 六 一 同 ︶ ﹁ 録 内 扶 老 ﹂ ︵ 一 五 一 − 一 六 ﹀ ﹁ 年 譜 放 同 時 ﹂ ︿ 上 一 − ↓ 同 ︶ 遠 光 寺 臓 ﹁ 加 賀 美 遠 光 公 系 譜 ﹂ 等 執 れ も 同 一 で あ り 、 叉 宜 光 以 下 の 南 部 系 譜 は 粗 ぼ 明 か で あ る が、賓長以下の所謂波木井南部の系譜は﹁南部家文書﹂担九以外に之を知る由がない。叉此の﹁南部家文書﹂も奥州八 戸市部家たる賓檎の下は明かであるが貫長の置文に見る宜友、六郎弐郎清長等長義の異母兄に就ては不明でるる。唯 ﹁身延類棄﹂︵寛文八年︶﹁身延鑑﹂︵賓暦十二年︶が宜長直系ともいふべき披木井南部系譜を偉ふるのみである c 清和天皇より四代満仲、七代義光、義情、清光、遠光を経て十一代光行を以て南部家の租とし、南部一帯を領せし より南部と稿し、﹁身延類棄﹂の或設には光行に朝光、宮光次郎、行朝太郎、質長調、行運五郎の五子ありといひ。

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一 読 ・ と し て は 南部三郎光行の子有二ハ人−、お

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輔 研 一 戸 恕 # 賢 長 絵 本 等 は 巾 州 所 領 の 校 名 也 。 奥 州 の 市 部 は 非 = 本 名 一 、 開 州 ノ 市 部 後 領 = 班 、 州 一 故 有 = 此 名 一 。 南 部 大 膳 太 夫 信 濃 守 は 光 行 の 次 男 南 部 の 古 車 阿 也 。 彼 の 閤 八 戸 踊 六 郎 助 解 由 は 、 第 六 男 波 木 井 賞 長の苗育也。委細彼の家の系固に有レ之 とあるが、﹃伎の家の系闘﹄とは恐らく﹁南部家文書﹂の系固と見てよかろう。然るに南部家文書にも貫長の下に 南 部 元 組 三 郎 光 行 之 三 男 也 、 於 = 甲 州 一 領 = 教 ケ 所 \ 住 = 波 木 井 郷 一 、 故 世 人 或 稿 = 波 木 井 貫 長 一 。 一 一 同 とあって、南部の数ケ所の所領は、﹁身延類豪﹂の﹃松本等は甲州所領の在名也﹄とあるに依て明かであるが、貫長を

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光行の三男、或は四男、或は六男とするが、それは南部家文書所載の﹁源氏南部八戸家系﹂貫長の下に 彦三郎世人上略市呼=三郎一、故後改稽=六郎\質光同母弟。

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とある如く、異母兄弟の闘係で三男叉は六男と・なったのである。 若し﹁身延類豪﹂等に見ゆる波本井南部の系譜には 第 ノ、 郎 貫 長 接 続 日 国 . 第 繭 六 長 義 法 駿 日 敬 、 第 信 濃 守 長 氏 義 一 日 長 第 四 伊 豆 守 宮 氏 法 一 誠 日 遠 ‘ 第 五 兵 庫 助 行 氏 法 一 畿 日 理 、 第 ノ、 ハ 郎 失 郎 奉 行 法 強 日 事 第 七 三 た 良

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元 行 法 輪 日 要 、 第 八 信 濃 守 光 行 法 皆 目 法 、 第 }/., 右衛門佐長春 法 韓 日 限 第 十 信 濃 守 義 貴 法 強 日 洋 、 第 十 伊 賀 守 賀 行 再 検 日 詮 ‘ 第 十 輿 九 郎 賞 春 リ 高 山 日 得 第十三 織 部 貫 久 接 続 日 受 ‘ 第十四 級 官官 官 友 長日清、 第十五 主 計 助 賓 紹 共 同 揖 目 見 第十六 織部↓血宣義 共 続 日 柴 . の十六人を列ね、﹁身延鑑﹂中には更に宜耳目昌、賓忠日隆の二人を加へ、日 U れ ま で は 寂 年 月 日 を 附 記 し て 居 る 。 叉 ﹁ 甲 陽軍鑑﹂に依て質長より十代の義賓が、大永七年信虎のため峯城に自害し、波木井家は此に・滅亡すと停へるのでるる 以上は系譜としては心もとないのであるが、それを明にする史料として我等は‘次の二つの文書を懇げねばならむ。 一は富士の重須木門寺所臓の日興が永仁六年戊成︿︷示組滅後十六年﹀執筆の 日蓮弟子分興申御筆御本隼目録事 即ち興帥の﹁本隼分輿帳﹂であり。他の一は明治十八年重野博士に依て鷲見せられたる所謂蔀原文書とである。就 中後者は元弘建武年間︵組減五十年頃︶南部一族並に異聞の日樹、中老す・︶の日澄、日保、身延東之房日静等の皐 波木井公一一族と身延山 五

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波本弁公一一族と身延山 一 六 借が京都より身延の大坊並に波木井氏への消息八油、上包十一一葉で、右は上組藻原藻原点寸所臓の身延三代進師四代善 師等に依て執筆せられた、法論用意書たる﹁金制集﹂の裏打古文書である。とれ南部一族の勤王を知る唯一の資料で るる。右二者共に﹁日蓮宗金書﹂中

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前者は﹁興門集﹂、後者は﹁金綱集﹂附録として刊行せられて居る。 先づ興師の﹁本等分興帖﹂に就て見るに、借俗に分って借廿八、俗品川八の都合六十六名を列ね、俗を俗弟子十一二‘ 女入治子七、在家弟子十八に分って居るが、若し同分にすれば駿河四十一 ︵中駿河八、富士二十一、無鹿在十二は概 ね 宮 士・で伊、三向武出九十斐甲)るあ一即。るあで名豆各倉鎌、江遠、ち 俗 { 曾

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ノ、 J¥ /¥ 右の如く甲斐は借並入道十五、俗二、女二の十九名を敷ふるが、更にその地方別を分ったらぽ次の如くである。 ノ、 寂 日 長 ︿ 鰍 樺

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肥前耳、日仙︵小室可因幡長︵下山可越前房.播磨公︵波木井 J 遇 侠 志 . 六 郎 . 六 郎 次 郎 ‘ 六 郎 三 郎 、 イ ホ メ ノ 宿 ノ 尼 、 踊 ∼ ハ ハ 南 部 ︶ 藤 兵 衛 、 踊 次 郎 、 繭 三 郎 ︵ 波 木 井 ︶

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俗 ︵ 日 一 而して右の中波木井並に南部に属するもの備に二人、入道八、尼一の十一人を敷ふるととが出来る。而して是等は執 庄 司 入 道 ︵ 大 井

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左 衛 門 四 郎 ︵ 下 山 ︶ 五 郎 後 家 ハ 曾 根 ︶ ‘ 庄 司 入 道 後 家 ︵ 大 井 ﹀ れも本寧の授興があったのであるから南部一族中宗祖並に興師に依る師信の人 K と 見 る べ き で あ る 。 +引の藻原文書は消息八題、上旬十二葉であるが、消息は何れも宛名を蹴き、筆者は日静の四月、十二月、正月の三 語。無名の二題。日樹、源宗秀、源長行の各一週である。若し日静等は身延九代成就恩師の詑に依れば、営時身延日 善ハ四代﹀民間の日樹・中山の日一冊等三個寺の貫主が同心にて上格し供奉の謬匠も敷人あった、時に延暦寺の播勝明堅 と問答し、身延東之房日静出でて問答に勝てる旨を倖へる官記︵﹁宗金﹂奮記炉問﹀に見ゆる皐併で、日静の三週中卯月 の一通は異例即ち病筑見舞であり、他の二通中十二月十六日のは元弘二年で、全月十三日南部彦次郎賞糖の式保河原 に於ける最後と、下山南方の関所のととが記してある。他の一週は建武二年正月八日で、南部殿の飯守城への勅立‘ 並に昔時の合載と出羽山城入道の六僚河原に於ける最後を報告せるものでるる。その他無名の二週は中に﹁葱光房宗 要﹂等の見ゆるのは、忘らく営時修皐のため上務中の皐生よりの誼信であり、他の日樹のは民聞の日樹で孫七他界の 報告であり、また宗秀、長行の二人も恐らく南部一族中の人々で、執れも営時京都に在って身延への通信である。 若し上包の十二葉に就ては、中九葉は出雲公御房宛で、共中長行義聞の三通には﹃みのぷのさはへまいらせさせ給 べく候﹄とあるのは、身延大坊宛であり且つ営時間雲公は要職にあった役併と忠はれる。若しその執筆者は長行外武 光二、行経、宣義各一で何れも源氏であるから、南部の一族であらうが、武光の一葉には﹁到来元弘元年八月六日巾 勉﹂とある。若し他の五葉中樫日澄は営時叡山遊串中の九老品川の大乗阿閤梨日澄であらう、︵﹁統紀﹂上回

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。妙寂とあ 波木弁公一族と身廷山 七

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波木井公一族と身延山 i¥. るは尼僧であらうが不明である。叉宛名に大夫殿とあるは静師の正月八日の消息中に見ゆる、三井孫三郎.藤原規資 よりの欣・なるより、恐らく営時上浴中の二人より身延の大夫殿へのものである。若し興附の宗祖﹁御遺物配外帖 L に ﹃ 御 崎 一 疋 . 小 袖 一 、 大 夫 公 ﹄ ︵ ﹁ 宗 皐 金 者 ﹂ 興 門 吋 ﹀ と あ る 大 夫 政 で 、 若 し ﹁ 御 堂 日 略 註 ﹂ に ﹃ 大 夫 公 、 宗 長 の 子 ﹄ ︵ ﹁ 也 市 会﹂宮記官﹀とあるに依れば池上︷一市長の息で、或は営時身延の大坊に居ったのであらう。また宛名の筑前八公は興師の ﹁ 山 一 刻 組 御 題 化 記 録 ﹂ に 依 れ ば ‘ 御 棺 の 後 陣 で 耕 阿 闇 梨 日 昭 と 共 に 右 側 の 間 人 中 第 三 に 見 え ︵ ﹁ ん 一 不 全 L 興 門 ト 。 ﹀ 。 叉 ﹁ 身 延 御 番帖﹂には伊賀公と並ハに七月守塔に営り

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全 上

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﹁御遺物分間帖﹂には﹃御馬一西、小袖一、御念珠﹄︵全上 p c ︶ を 拝受した中老日合で、 下組野呂妙興寺の開山である。若し宛名に﹃身延山久遠寺御坊中﹄とあるは常時身延に居った ためである。その他執筆の併日保は矢張中老で、上総興津妙畳寺の開山であらう。若し﹃謹上二位殿御坊中進候﹄の 一一葉は併臼樹で・とれも営時上務中の員間日樹からであらう。若し消息中に見ゆる人名中、南部一放と思はる L は 市 部式出弐郎、原殿、伯者律師御房、南部殿、小田殿、阿谷殿、

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入道、山城入道、孫七、宮原殿等である o 併し乍ら 上拐の﹁身延類楽﹂を始め、南部家の古記、興帥の﹁本盆分興帖﹂藻原文書等に見ゆる南部一族の人と沿ぼしき人々 の開係を知り得る唯一の手掛としては、会く弐の一系闘があるのみである c

此にいふ波木井家の系譜といふのは、昭和六年七月七日に本山結の秋山主計氏から示された、たしか堅六寸長さ二 尺 H A ら歩の古い小厚い紙に記されたものであった。早速何かの参考になると思って寓して置いたが、その後藻原文書 や興師の﹁本律分輿帖﹂等と封照研究した所が、不思議に合致する点が多いので、再び同氏に等ねたが失ったとのこ

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とで誠に残念であった。 先づ此の系譜の重点は﹁身延類豪﹂に、所謂光行に六子あって松本、南部、一間士、木崎、長 江、波木井の所領の名の 一致する乙とである。とれは恐らく﹁身延類豪﹂に載せた、波木井の南部家中心の系譜で、 興帖並に藻原文書等と その原本か否かは不明であるが、恐らくその縛寝であると ︶ 又 は ・ : ・ ・ ・ を 以 て 之 を 附 記 す る と と に とは疑はれたいのである。以下先づ設系譜を出し、次で分 封服するととにしゃう。併し便宜上研究の結果をもハ する。共の外﹁本隼分典帖﹂はホ、 如くである ο 信 定 長 光 義 遠安.:!,J-郎 加 駿 武 江 田 霞 信 賀 河 国 守 三 楯 浪 美 守 太 且I: 無 守 次 郎 光 遠 清 光 |

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光 逸見黒源

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太、射櫨

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吾 楯無 隆 平 井 四 郎

藻原文書は・モを以てその関係を明かにする。即ち今の波木井南部家系譜冒とは左の 光 本 朝 秋 山 太 郎 −

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松 ?小笠原次一

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4 4・ 由 民 一 一 ll 行南部三郎|一|踊 経 酬 賀 美 問 丁 木 俊於曾五郎丁長江ハ永井︶? ﹁酌木井賞長時脳

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長 部 質 光

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遠江入道 ﹁左近勝監 I l −−右馬朗 ﹁ 大 和 守 光

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光 家 ホ 清 ホ 雀 友 コk l~ 経 長 六西l六 郎 谷l良II 四 三 郎 郎

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馬 後 三r 守 守 郎 葎弧西I~蔵 間三谷!写人 .ft~ 郎で;奥 F州 越 長大郎次郎 波木弁公一一族と身延山 ー上綿守 ー 伯 渇 日 守 川 叫 斐 子 也 丸

(32)

波 木 弁 公 一 一 族 と 身 延 山

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光 家 質 l l 口 u | | ! 六 武 モ 質 郎 炊 又 五 郎 政 光 行 ハ 日 氏︵日 氏 一 | 一 次 郎 三 郎 粥 次 郎 ノ ー 行 | 一 ﹁ 蝿 三 郎 安 質 信 法篠掬 名 樟 問 叡守郎 貨 信 民調関郎 経 戒伯 名 嘗 日守 友民 民 〈 伯モ 警 律 師 ? 宗八郎次郎

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義 身 延 山 信 占 /、 光 房 修 三 理 亮郎

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杉 三 氏 房 捕 六 郎 房 身 延 山 信 監 太 郎 刀 三 郎 先づ光行の所領の地名中南部、波木井の外一踊士は富河村の字、松本は東山梨郡岡部村の字、長江は東八代郡永井村 氏 郎 | | 帯 持 で奮長江挺であらう。木崎は本臓には同名の地名は見営らたい。叉系譜に依て明かなる如く本系譜は南部主家の賞品ん系 光 岡 日 光 身 延 山 信 と、波木井の南部賓長系を中心にしたものである。本研究は就中後者を中心とするものでるるが、本系譜中注目すべ 波木井公一一族と身延山 きことは、所々に所領の地名を記入した点である。即ち貰長公の披木井を蛤めとして‘光経丹後守の西谷、又五郎の

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波木井公一一族と身延山 舶原、光氏の宮原、貰義の小回、政義の杉山、行義の原がそれである。以下諸古文書と針服研究を試みやう。 先づ﹁本律分興帖﹂に就て見れば、披木井に越前房、播腐公の二信︵興師弟子︶、藤兵衛︵長官﹀、繭次郎︵長氏︶捕三 郎︵光氏︶の三入道、南部に遇侠志、六郎︵貫長可六郎次郎︵清長︶よハ郎三郎︵家長︶、イホメノ宿ノ尼︵妙経︶?‘ 捕 占 ハ ︿ 光 長 ︶ の 六 入 道 の 十 一 名 を 見 る が 、 越 前 田 加 は ﹁ 御 遺 物 分 配 帖 ﹂ に ﹃ 衣 一 、 小 袖 一 、 袈 裟 一 ﹄ ︵ ﹁ 宗 全 ﹂

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を拝領 し‘﹁守塔番帳﹂には駿河村松海上寺開山中老淡路公日賢と共に三月輪番を勤めた‘富士興師の弟子日排で氷く波木井 に居ったととは‘正臆二年六月賞長より興師への消息に﹃叉越前殿くはしく申さるべく候﹄︵﹁富士宗畢婆集﹂資料類 葉一一ヲとあるに見て明かである。播磨公は前掲要法寺日辰の﹁組師惇﹂に 彼播謄律師事縁、身延樺下波木井六郎賞長、堀内天台談義一広々、 とある、﹁統紀﹂十一に見ゆる中老日源で二月十九日の賓長より興師への献に けさんに巾候はんと、あい存候て申て候し事、はりま︵播磨︶房に申

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が 、 巾 て 候 け る や ら ん ︿ ﹁ 宗 金 ﹂ 上 聖 勺 ︶ ム﹂ある如く、貫長公と闘係ある越前房と同じく波木井に居った興師の弟子であった様である。若し日辰﹁組師傍﹂の 記事に依れば‘平く波木井に在て賞長等のために天台の談義があったとすれば.恐らく本宗師信の以前であらうが何 れにしても波木井に居ったととは明かである。若し藤兵衛は﹁地引御書﹂に見ゆる、賓長の重臣三上宮助の子長官主 る ζ とは﹁南部家文書﹂に明かであり、正臆二年の貫長の興師への消息に‘﹃御迎に藤兵衛入遣を進らせ候て、入り給 ふ ペ き 由 ﹄ 一 疋 々 ︵ ﹁ 富 士 宗 曲 学 要 集 ﹂ 費 料 類 豪 − 三 ︶ と 見 ゆ る は 同 人 で る る 。 遇 侠 志 入 道 、 イ ホ メ ノ 宿 の 尼 は 不 明 で あ る 、 後者は或は光経の下の妙経かとも思はれる。 次に藻原文書の消息八通.上包十二葉中‘以下﹁山一示準金書﹂﹁金綱集附録﹂に依り、南部開係とゐぼしき人名を出さ

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ぽ弐の如くである。 西 谷 殿 ︵ 貫 長 子 光 経 、 孫 宗 経 ? ︶ 正 月 八 日 静 師 消 息 第 一 一 一 ︵ ﹁ 金 綱 集 附 録 ﹂ 同

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宮原殿︵貫長孫光氏︶宗秀、長行消息︵全上 H M m ﹀ 小田殿質義︵貫長孫︶静師消息第三、上包︵全土 H M M ︶ 源武光︵宮原殿息︶上包二︵全

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︶ 下山問所︵貫長孫杉山殿政義?︶十二月十六日静師消息第二︵全上守︶ 孫七︵全政義弟?︶卯月二十八日静師、宗秀消息︵全上設問︶ 原殴︵全行義﹀静師消息第二︵全上守︶ 南部法失郎︵宜長子、宜稽﹀全上 南部殿︵質檎子長総?﹀静帥消息第三︵全上附八︶ 伯脅律師御房︵小田殴系?﹀静師消息第二︵全上司ぇ︶ 源行経︵光経子叉五郎舶開殿?︶上包︵全上可︶ 似宗秀︵光経孫叉三郎?︶八月十二日の消息︵全日七︶ 加長行︵長義子?︶霜月二十八日消息、上包一二、︵全上京町︶ 妙寂︵光経子妙経?︶上包︵全上守︶ 千同殿秋山殿︵草臣?︶静師消息第二︵全上司八﹀ 三井孫三郎、藤原規賢︵重臣︶上包・静師消息第一二︵全上読む 波木井公一一族と身延山

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波木弁公一族と身延山 二阿 常陸前司、出羽入選、山城入選︿京臣︶静師消息第三︵全土 m A ︶ 以上の中岡谷殿といふのは、貫長子光経か、或は孫︷一万経で今の身延西谷に位したのであらう。宮原殿は光氏で今の波 木井川南方高台濯に、原殿は行義で今の波木井川設に、小田殿は質義で今の小田畑原謹に居住せるより、波木井南部氏 中賓長の孫に営る人々で、地名を以て呼んだのであらう。就中原殿は宮士興師と親交のあったととは、正臆元年十二 月十六日の﹁原殿御返事﹂に、興師身延離山の事情を細々認め、﹃身延滞を罷出候事面目なさ、本意たさ、難=巾宝同一候 へ ど も ﹄ ︵ ﹁ 宗 全 ’ 一 興 門 一 一

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等との文意より見るも明かである。叉京都より屡交通せる武光は宮原肢の息であり。光経 の息又五郎は船原に居住し、京都にあって書を寄せたる行経とたぼしいのである。如上の日静等の消息並に他の上包 等に見ゆる諸氏は何れも、被木井一一族で営時勤主に参加された人々であらう。 若し静師の第二消息に﹃下山之南方関所﹄云 k とあるは、小田殿の弟に杉山殿政義があるに依れば、政義が下山の 南方杉山に居住し、質稽等と共に吉野朝に参し、且つ貰櫨等と同時に六依河原に殉じ、ために杉山の地が問所となっ たのではなからうか。叉﹁興門正義﹂に依れぽ﹃隠=入甲斐杉山−﹄とあり、とれを阜川氏の﹁興帥身延離山の研究﹂ には四八代郡富里村の杉山とあるは、今とは別であらう。叉杉山殿政義を孫六といふに依れば、静師並に宗秀の消息 に見ゆる孫七他界とあるは、杉山殿の舎弟のととかも知れぬ。 又静師の消息に見ゆる南部彦次郎は、とれ貫長公の息長義の肉弟賓糟で、﹁南部家文書﹂には貫長公の耐子︵が九︶と あるが、波木井家としては長義があり、更に長義にも賓友、清長、家長、光長、光経の四回持母兄があって、西谷等に 居住したととは明かである。若し長男長義は繭六郎と稀し、入道して日教といひ‘正和二年十二月二十四日入寂して 居るが、身延第廿一世乾帥の﹁霊費目録﹂に依れば、

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