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ドキュメント内 棲神 第貳拾六號 (創立三十周年紀念) (ページ 116-119)

十 如 是 事 の 碗

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本書は夙に録内の第二十八者に﹁十如是事﹂たる題蹴で牧鋒せられてゐる︒ところで本書の題抗は古来必やしも一

定してゐない︒銭外第十六巻三十七丁には﹁法華肝心静﹂といふ題蹴で牧録せられてゐたものであり︑また御者砂混

玉撮要紗︑御堂百和語式には﹁法華十如是肝心﹂といひ︑一ニ貰寺御者には﹁法華経肝心御堂同﹂といひ︑本満寺御書には

﹁即白芳成悌砂﹂と題してゐるのである︒然し一般には大体録内日銀の姐枕を踏襲してゐるのであるから︑

いま

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はその通稀に従って置くととにする︒

共に本堂百の連作年代について︑通師の御書目録には︑本書を文永九年二月に係けてゐる︒市してその根躍は明かで

左いが︑通帥は本書を最蓮房へ奥へられたものとするので︑本当の思想が︑かの諸法貨相紗の思想と同一基調にある

ととろから佐渡越作設を立てたものであらうか︒然してζの通師の文永九年設には古来より異論があって︑その設を

採用するものはないゃうである︒健立諦師の高岨年譜並に組者自失には本主円をかの一念三千理事と一念三千法門と

共に正嘉二年に係けてゐる︒その後奥目︑明目︑遺文等はとの諦師の設に従ってゐるのである︒

ととるで本書には年次の記載がないので︑そのいづれとも断定し難い︒もっとも本警は理体の本亮三身働を説いて

観念成僻義を強調する

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であるから︑その思想は佐前的であるといふととはできよう︒然しかLる思想は怯後の著と

倖へられる諸法質相釣や三世諸悌糟勘文砂等の?群の御堂再にもあるので︑思想的方而のみに依って本書の佐前謹作設

を主張するととはできないであらう︒従って確貨なる意味に於いては本書の品作年代は不明であるといふより外はな

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次に本警の封告衆についても︑その記載がたいので全く不明である︒もっとも通師は最蓮房へ奥へられたものとし

てゐるがその根擦は明かでたいので濯かに首肯し難いのである︒

かやうに本書の越作年代並に割合衆は不明であるが︑更に本書の御虞跡の所在︑並にその所一停についても明かでな

v

さて本書は法華経方便品の十如是の中︑相性体の三如是に依て︑三身即一の本質如来を詑き︑心性本鹿児の理体事用

の思想に立脚するものである︒従って本書に論やる迷悟は観念の世界であって︑それは謂ゆる唯心の浄土︑己心の本

併義に外たらないのである︒然してか

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思想はかの中古天台の理本畳親心思想と基調を同じうするものであって

開目︑本隼雨紗等の思想と遥かに異たるものである︒

もっとも本書のかLる思想は︑本書が位前の御堂百であるといふととで曲折明できるかも知れたい︒即ち現行の佐前の

遺文中には本書と同一基調の一群の御堂円があるので.かaAる思想は聖人の思想的段階の一一過程として認むべきもの

であ

らう

か︒

然し

五日

人は

Lる前提を定める前に.かLる御堂百自体の成立について考慮を梯ふ必要があるのではなか

らうかと思はれるのである︒そとで以下本書の成立について︑文献的研究を進めてみよう︒

由来本書の成立について多少の疑ひを挟んだ人が左いではたい︒即ち薩摩日叙師の何本諮問答十七僚に珍承南側

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の加筆として

珍師本第八難云︑十如宜相の御紗とて引中さるL紗と天台宗の十如宜相紗と引合見るに寸分もちがはや天台の砂也

此紗を以て本門弘粧の時謎門件続を立てれば誤の中の誤也︒語法也詩法也

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制に此段不及巾沙汰の限也︒

といって︑珍師まづ本書成立の慣値を疑ひ︑本書は天台宗の十如質相併と全同であるといひ︑次で承師との誌を受け

て︑天台宗の十如宜相紗は慈血児大師の十如釣のととであると註してゐるのであるο

また久成日相師は間和語式K.弐のやうた意味の理由を以て︑本書は慈風北大帥の詩作を侍思したものにあらざる

かと疑ってゐる︒

一本書の遺作年代不明在るとと︒

二金篇悉く自行己詮の法円であるととっ

三本書の異本の巻頭にある﹁敬白法華経即身成悌要一目﹂の文字について不審であると

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啓蒙はとの和語式の設を紹介してその次官﹄下に

されども入文の末に一度も南無妙法蓮華経と申せば等の言あれば異本にも依福山しがたし︒

といって︑暗に和語式の設に反封してゐる︒これに封して︑叫扶老は和語式の疑ぴを支持して木書の成立を疑ってゐ

るのである︒市して異本の巻頭にある法華経即身成悌要について

恵心借都の童円にとれと同名のものあり︑翻心木隼妙に引し之︑共の所引の文.4背中の文と同しくあるなり︒といひ︑

次いでとの悪心述作設を訂して

後日

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盟味

集上

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︑法

華即

身成

仰要

詑向

日記

畳超

︐述

とい

って

ゐる

かやうにとの十如是事は慈畳の十如質相紗と同文であるといはれ︑或は葱心または畳超の法華即身成師通記の体

需にるらざるかといはれてゐるのであるが︑と

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間の問題については︑扶老もまだっきとめた研究を進められなかっ

たかのやうでるる︒とLに於て私は恵心の著と停へられる法華即身成悌要記を検したるにとの書が遺文の十如是事

して

みよ

う︒

の底本と在︒たものでは−なからうかと思はれるのである︒そこでいま煩を厭は

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同者を比較劃服してその関係を考察

法華即身成悌要記

︵窓

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我身内本来三身即−ノ如来也っ而

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本末

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ドキュメント内 棲神 第貳拾六號 (創立三十周年紀念) (ページ 116-119)

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