教師の感情労働に関する一考察
A Study on Emotional labor of teachers岩 井 哲 雄* IWAI Tetsuo 要約:現在、感情労働論には、感情労働の疎外性を告発する感情労働否定論と、感情 労働の実践上の有効性を主張する感情労働肯定論の流れが並存している。本稿では、 これら相容れない二つの立場を原理的な水準に遡って再考することを試みた。これに より、一見すると反対の立場を採る感情労働否定論と肯定論が、そもそもの理論的源 泉であるホックシールドの感情労働論に内在していた相互作用論モデルと有機体モデ ルの並存という理論的な不徹底さをそのまま受け継いで共有しているということ、そ れゆえにまた、相互に有効な批判が行えない関係にあるということを明らかにした。 キーワード:A.R.ホックシールド、感情労働、感情管理、ストラテジー
Ⅰ . はじめに
教師の仕事は、感情労働の一つである。このように述べても、今さら何の驚きもないだろう。そ れくらい、感情労働という言葉は広く受容され流布している。しかし、感情労働の研究が順調に発 展しているかといえば、必ずしもそうとは言えないようである。 山本・岡島(2019)は日本における感情労働研究の現状と課題を的確に整理し報告している。そ れによると、我が国における感情労働研究は、1990 年代半ばからはじまり、「感情労働」概念を提唱 したホックシールド(A.R. Hochschild)の『管理される心-感情が商品になるとき』が邦訳された 2000 年から本格化し、2010 年から 2012 年にかけてピークを迎えたのち低調になっていく。また、こ の間の研究について、感情労働概念の拡大および変異、研究分野と研究対象の著しい偏り、感情労 働肯定論の広がりといった問題を指摘できるという。 山本・岡島が行った整理はあらゆる職種の感情労働に関するの研究を網羅的に分析したうえでの ものであるが、そこでの指摘は教職に限定してもほとんどそのまま妥当すると思われる。教師の感 情労働研究もまた、2000 年頃から感情労働否定論(いわゆる疎外論)としてまずは論じられ、その 後、これに対抗する形で感情労働肯定論が登場しつつも、両者のあいだに必ずしも生産的な論争が 生じることもなく、教師の感情労働そのものへの関心が低下していっているように見える。 本研究は、こうした感情労働否定論と感情労働肯定論の並存をもたらした原因はホックシールド の感情労働論自体に内在する理論的な不徹底さにあると捉え、この観点から特に感情労働否定論お よび肯定論の妥当性について考察するものである。まずは、ホックシールドの本来の主張でもある 感情労働否定論から見ていくことにしよう。 *幼小発達教育講座Ⅱ . 感情労働否定論
感情労働否定論はホックシールドの主張に沿ったものであり、その典型例はホックシールド自身 の感情労働論であろう。そこで、ここではまずホックシールドの感情労働論を取り上げて、その概 要を述べることにしよう。 ホックシールドの考えでは、感情は行為に先立って生じる。それゆえ感情への介入は後続する 行為を方向づける有効な手段の一つとなる(ホックシールド 2000:19,64)。こうした感情への 介入は感情管理(emotion management)と呼ばれ、感情管理は状況に相応しい感情を示す感情規則 (feeling rules)に則って行われる。例えば、葬儀の場では悲しむということが適切であり、これがこ の状況の感情規則となる(ホックシールド 2000:72)。もし葬儀の場で悲しみが湧かなければ、悲 しむことができるように、つまり感情規則に合致するよう自身の感情に介入することになる。 ホックシールドは感情への介入の方法、つまり感情管理の方法として、表層演技(surface acting) と深層演技(deep acting)の二つを挙げる。このうち表層演技は、自分の外見を変えようとする演技 であり、葬儀の例で言えば、悲しげな顔つきを作ったり、泣き真似をしたりすることがこれにあた る。もう一方の深層演技はさらに、感情に直接命じるものと、イマジネーションを間接的に利用す るものとの二つのタイプに分けられる(1) 。前者は、意志の力で特定の感情を喚起したり抑圧しよう とするものであるが、これは実際のところうまくはいかないとホックシールドはいう。後者は、感 情記憶や仮定法を利用するものであり、葬儀の例で言えば、故人との楽しかった出来事を思い出し、 かけがえのない大切な人を失ったと思いなすことにより、本物の悲しみを引き出すような介入がこ れにあたる(ホックシールド 2000:39ff)。 こうして葬儀の場の感情規則に則って、その場に相応しい感情管理を行い、その場に相応しい行 為へと参列者が自身を方向づけることによって、葬儀はスムーズに行われることになる。つまり、 感情管理は最終的には社会的秩序の維持形成に寄与するものなのである。 こうした感情管理が賃金と引き替えに売られるようになったものが感情労働(emotional labor)で ある。工場の労働者の場合、品物ができあがったときに仕事は終わる。これに対して、ホックシー ルドが感情労働の典型として分析の対象としている客室乗務員の場合、乗客にサービスを提供し終 えただけでは仕事は終わらない。客室乗務員の仕事はサービスを提供し、乗客が満足したときに終 わるのである。そのために、客室乗務員は、自分の感情を誘発したり抑圧したりしながら、乗客の なかに懇親的なもてなしを受けているという感覚を作り出し、乗客の満足度を高めようと努力する。 こうした労働がホックシールドのいう感情労働にほかならない。そしてホックシールドは、この種 の感情労働が自己のある側面からの疎外(estrange,alienate)をもたらす可能性があるとして、これを いわば告発するのである。(ホックシールド 2000:6-9) 我が国の教師の感情労働研究も、多くはホックシールドの上記の認識を共有して議論を展開する。 例えば、油布(2007)は、「わが国に特有の献身的教師像をイメージし、教師として『感じるべきこ と』を自己に課して一心不乱に仕事に取り組むならば、膨大な仕事量の中で教師はバーンアウトに 結びついてしまう。一方、献身的教師像には無理があることを踏まえて、一心不乱に取り組むこと をやめるならば、バーンアウトには陥らないかもしれないが、そのかわりに、手を抜いているとい うような罪の意識、自責の念を抱えてしまうことになる」と述べ、教職がもつ感情労働という性格 により身動きがとれなくなる状況を指摘している(油布 2007:24)。秋田 (2015) もまた、教職がや りがいのある仕事であることを認めつつも、「教職のもつ無境界性によって、自分の感情を押し殺し シャドーワーク (影の仕事) をして相手に尽くしていく消耗感を覚える感情労働であるという一面」 をもつこと指摘している(秋田 2015:16)。油布や秋田はともにバーンアウトや罪の意識、消耗感など感情労働がもたらす否定的な帰結に着目しており、感情労働をもっぱら否定的なものとしてと らえている。これらはホックシールドと基本的な認識を共有する感情労働否定論ととらえてよいだ ろう。
Ⅲ . 感情労働肯定論
山本・岡島が整理しているように、我が国の感情労働研究は、ホックシールドと認識を共有する 感情労働否定論が中心の受容段階から、「感情労働」という用語の一般化を経て、感情管理をスキル ととらえる感情労働肯定論が広がる段階へと推移していると思われる(山本・岡島 2019:243)。具 体的に肯定論の立場をとる研究としては、伊佐(2009)、羽黒・羽黒(2011)、木村(2015)などを挙 げることができよう。ここでは、感情労働肯定論の比較的早い段階での主張の一例であり、また広義 にはホックシールドの研究領域と同じ社会学に属する伊佐の研究についてやや詳しく検討したい。 伊佐(2009)は、教師の感情労働者ととらえる我が国の先行研究の多くはその負の側面、感情労 働の疎外性を指摘するにとどまっていると述べ、伊佐自身は、これらの先行研究に対してむしろ感 情労働のポジティブな側面、戦略的な側面を明らかにすることを試みる。 伊佐は、小学校教師に対する聞き取り調査から得たデータから、教師の感情管理の技法を3つ抽 出している。一つ目の感情管理の技法は、怒りを静めるための「深呼吸」である。これは、ホック シールドの枠組みでは体を動かすことによる深層演技に相当する(2) 。二つ目の技法は、子どもに対 する認知の枠組みを変えることである。伊佐の論文では、問題を起こす子どもに対する感じ方をそ の生育史を想起することによって調整しようとする教師の例が取り上げられている。これは、ホッ クシールドの枠組みではイマジネーションを用いた深層演技に相当しよう(3) 。三つ目の技法は、教 育的演技と呼ばれるものである。これは、子どもに働きかけるために大げさに怒ってみせたり、大 げさにほめて見せたりするものである。これは、ホックシールドの枠組みでは表層演技に相当する。 伊佐が報告している教師の三つの感情管理の技法は、伊佐自身が気付いているように、ホック シールドが報告している客室乗務員の感情管理の技法にもそのまま見出すことができる(4) 。この点 では、教師が行うことも客室乗務員が行うことも何ら違いがない。だとすると教師も客室乗務員と まったく同レベルの感情労働者にすぎないということになってしまう。 こうした結論を避けるためには、何らかの点で客室乗務員と教師との差別化を図らなければなら ない。そのため伊佐は次のように言う。すなわち、客室乗務員は雇用主である企業に強制されて感 情管理を行っているのに対して、教師はより積極的な意味で感情労働を行っているのだ、と。そし て、教師が積極的に感情労働を行うことになるその理由を、伊佐は教職の再帰性という特徴に求め ていく。ここで教職の再帰性とは、「子どものなかにあるべき感情を作り出すためには、教師自身も 自らの感情を理想的なものとして規定しなければならない」(伊佐 2009:138)という関係を指して いる。教師がすすんで感情労働を行う理由はここにあると伊佐は考える。 教師の感情労働は再帰性を介して、それ自体として教育的な価値をもつであろう子どものあるべ き感情と結び付けられる。こうして教師の感情労働は積極的な意義を帯び、かくして感情労働肯定 論が確立される。 しかしながら、この感情労働肯定論は本当に成功しているのであろうか。この問題を考察する準 備として、次節では改めてホックシールドの感情労働論の理論構成をくわしく検討したい。Ⅳ . ホックシールドの感情労働論の問題点
感情労働否定論と感情労働肯定論との双方が議論の枠組みとして採用しているホックシールドの 理論にはある種の曖昧さ・不徹底さがある。この不徹底さは、感情社会学の誕生直後から意識され 論争にも発展している。日本において感情社会学を真っ先に受容した社会学者らもまた当然この問 題を把握し、1990 年代のうちにその克服を試みてさえいる。 例えば、『管理される心』の訳者でもある石川は、「ホックシールドには感情の社会的構築を主張 しつつ、同時に感情を実体的な概念として保守しようとする意図がある」と指摘する。というのも、 表層演技と深層演技とを区別するホックシールドにおいては、感情は一方では感情規則という規範 によって管理統制されるものでありつつも、他方では「『心』の内側の現象」でもあるからだ。こう したホックシールドの「構築 = 本質二元論は、理論的には不徹底だといわざるをえない」と石川は評 している(石川 2000:52)。中河もまた、ホックシールドの理論が「〈生理過程+認知的ラベルの付 与→感情経験〉という二本立ての説明図式」を採用している点を指摘している(中河 1999:203)。 上に指摘されるような二元論的あるいは二本立ての構成をホックシールドの感情の理論がとって いるということは、ホックシールド自身がかなり明白に述べていることでもある。ホックシールド の感情に対する捉え方は、『管理される心』の補遺に詳しく述べられているが、ここでホックシー ルドは自身の「感情」の概念がゴフマンらの相互作用論、ダーウィン、フロイトの3つの理論的な 流れを引き継ぐものであると説明している。ここでダーウィンとフロイトの感情概念はともに有 機体論的な概念と見なし得るので、ホックシールドは感情の相互作用モデル(interactional model of emotion)と有機体モデル(organismic model of emotion)という二本立ての説明図式を採用している ことになる(ホックシールド 2000:252)。 それではホックシールドの感情の理論はなぜこのような不徹底さを残す構成をとるのであろうか。 ホックシールドは、「今や私たちは、制度――企業のような――が、…人の感情を監視することに よって人々をコントロールしているしくみを明らかにできるような理論を必要としている」と述べ、 「そのような感情に関する理論は、社会的側面と心理的側面を両方把握しなければならない」と言う (ホックシールド 2000:248)。しかしながら、ホックシールドの考えでは、ゴフマンの相互作用論 を援用するだけでは、感情の社会的側面と心理的側面の両方の把握はできず、したがって感情労働 という主題を十分に展開することができないのである(5) 。やや長くなるが、こうした判断の根拠が 述べられている箇所をホックシールド(2000)から引用しよう。 ゴフマンにとっては、行為とは〈表層〉演技のことである。行為者の関心は、肩の傾きや、 ちょっとした視線の角度や、笑顔の硬さに向けられているのであり、そうした身振りと相互に関 連しているであろう内面的な感情には向けられていない。…/深層演技についての考え方を発展 させるためには、…発達した内面的生活を営む自己に関する視点を持つ必要がある。ゴフマンの 考える行為者には、一般にこれが欠けているのである。…/…彼 [ ゴフマン ] が提示する行為者は …感情管理の能力も持たない。…感情経験の主体としての自己はどこに存在するのか?…ウイリ アム・ジェームズとフロイトは、自己を、感情を抱きそれを管理することができるものとして提 示していた。ゴフマンはそうではない。(ホックシールド 2000:245-6.括弧内は引用者) ホックシールドの理解では、ゴフマンの考える行為者が行う「行為」はそのまま表層演技と見な し得る。しかしこの行為者は自身の身振りには関心を向けるものの、自身の内面的な感情には関心 をもたない。自身の感情に関心を向けない以上、この行為者には深層演技は不可能であり、感情管理の能力ももたない(6) 。つまり、ゴフマンの相互作用論だけに依拠しながら、ホックシールドが構 想する感情労働論を十全に展開することは難しい。フロイトなどの有機体論のなかに見出すことが できる感情管理を行う自己をさらに取り入れることで、ようやく感情労働論を十全に展開すること ができるだろう。ホックシールドはこのように考えていると思われる。 さらにいえば、このような二元論的な理論構成をとらなければ、感情労働がもたらす疎外を告発 することもできなくなる。というのも、ある感情を偽りの感情とみなすには、偽りではない本来の 感情が存在しなければならないからである。ホックシールドが、「感情を管理することは、前もって 存在している感情のあり方を変えるように、積極的に努力することである」(ホックシールド 2000: 248-9)と説明するように、感情を管理するということが意味をもつには、管理されていない本来の 感情が前もって存在していなければならない。そのような本来的な感情の存在は、有機体論を受け 入れることによって確保されるであろう。 結局のところ、理論的な一貫性を犠牲にして、有機体論と相互作用論という相容れないはずの立 場をともに採用することによって、本来的な感情と偽なる感情の両方を確保することが可能になり、 また、これら二つの感情のあいだのズレとしての疎外の存在を指摘し告発することがさら可能に なっているのではないか(7) 。その結果として、ホックシールドの感情労働論には理論的な不徹底さ が残されるが、このことは意外にも見過ごされやすいのかもしれない。その背景にある事情を、例 えば中河は「そもそも、私たちが感情の操作という考え方をスムーズに呑みこめるのは、結局、『自 然な感情』というものがあるという想定を私たちが堅持しているからではないだろうか」と推測し ている(中河 1999:209)。
Ⅴ . 感情労働肯定論の問題点
さて、こうした有機体論と相互作用論との二本立ての図式(あるいは、本質と構築の二元論、も しくは生理過程と認知ラベリングの二本立て図式)というホックシールドの理論上の不徹底さは、 当然ながら、ホックシールドに忠実に感情労働の疎外性を告発する感情労働否定論にも、そのまま 引き継がれているはずである。この図式を採用しなければ、疎外という事態の存在を指摘すること はできず、存在しないものを告発することもできないのだから。 それでは、感情労働肯定論のほうがむしろ理論的な一貫性があって、少なくとも形式的には感情 労働否定論より優れているということだろうか。事情はそれほど単純ではなさそうである。 感情労働肯定論として取り上げた伊佐の議論をもう一度取り上げよう。伊佐は教師の仕事の固有 の性質である再帰性を梃子にして、感情労働に肯定的な意味を与えていた。ここで再帰性とは、「子 どものなかにあるべき感情を作り出すためには、教師自身も自らの感情を理想的なものとして規定 しなければならない」という関係のことであった。伊佐は、この関係を説明する際に、子どもらと は別の何かを気に掛けて発した言葉は子どもらに「見透かされる」と語る教師の言葉を引用してい る(伊佐 2009:138-9)。教師が本心から子どものためを思って発した言葉でなければ、子どもに指 導が入らないというのである。だから、ここで教師が抱くべき理想的な感情というのは、演技では ない、本当の感情ということになる(8) 。 ここで感情労働肯定論が、その肯定の根拠とするものが、教師の「本当の感情」であることに注 意しよう。これは、感情労働否定論が、疎外論的な主張を展開するための根拠として「本当の感情」 の存在を要請しているのとまったく同じである。そのため、感情労働肯定論もまた、否定論と同様 の、二本立ての理論構成という不徹底を内在させているはずである。 感情労働肯定論が否定論に対抗しようというのであれば、むしろ否定論の弱点である理論上の不徹底さを衝くべきだろう。言い換えれば、「本当の感情」など存在しないのだということを肯定論は 主張すべきだろう。「本当の感情」が存在しなければ、「本当の感情」と演技とのズレは生じようが なく、疎外という事態も成立しないのだから。 例えば、教師は教室の中では子どもを前にして演技をしているとしよう。教室から職員室へ戻っ たときに、教師は演技ではない本当の姿に戻るのだろうか。いや、それでも教師は同僚のあいだで 教師としての、あるいは社会人としての演技を続けているだろう。それでは教師が自宅に帰ったと きに、本当の自分に戻るのだろうか。いや、それでも例えば、父親/母親、あるいは夫/妻として の演技が行われているのではないか。だとすると、自室で一人きりになったときにようやく本当の 自分になれるのだろうか。それでも、現代の、日本人の、男性/女性という演技は行われているの ではないか。演技の覆いを取ったときに見出されるのは再び演技にほかならない。本当の自分はい つまでも見つけることができない。だからこそホックシールドも指摘するように、ゴフマンの理論 には自己を見出すことができないのだ。 こうした議論が正しいとすれば、演技と本当の自分とのズレである疎外ということは生じようも ない。肯定論の立場からは否定論の理論的な不徹底を衝き、ゴフマンの相互作用論の方向へ徹底さ せることで、否定論を封じることができよう。 しかし、一見して明らかなように、こうした議論は諸刃の剣であって、肯定論自身の定立を危う くする。本物の自己が存在しないのであれば、「本当の感情」の存在に教育的な価値の原泉を見出し ている肯定論も成り立たなくなるのである。いや、演技の連鎖の遡及にはいずれ終わりがあって、 自室に一人で佇むとき、あるいはその先に本当の自分が存在する、と肯定論は主張できるかもしれ ない。しかし、生徒の前で本当の自分になれないなら、何の意味もないだろう。だから逆に言えば、 肯定論が「本当の感情」の存在に訴えつづける限り、否定論への決定的な反駁も不可能なのである。 疎外論への反論が、まさに疎外論の枠組のなかで構成されているために、肯定論と否定論はいつも 運命を共にするしかない(9) 。
Ⅵ . おわりに
現在、感情労働論には、感情労働の疎外性を告発する感情労働否定論と、感情労働の有効性を主 張する感情労働肯定論が並存している。本稿では、これら相容れない二つの立場を原理的な水準に 遡って再考することを試みた。こうした原理的な水準での議論というのは、感情の実在性の有無に 関する議論であり、実のところかつて構築主義 - ポジティヴィズム論争という名で争われた問題に他 ならない。しかしながら、この論争が結果的には曖昧なかたちで決着をみたためか、この論争の成 果は現在の感情労働に関する研究にはほとんど引き継がれ生かされていないようにみえる。その結 果が、現在の感情労働否定論と感情労働肯定論の並存という状況だとみることができる。 感情労働という概念はまずはホックシールドによって否定的な意味合いで用いられた。この魅力 的な概念はしかし、感情労働の告発に終始してその先の展望が描きにくいせいか、感情労働肯定論 の登場へと原理的な吟味を十分に経ずに飛躍してしまったようにみえる。 教師の感情労働について言えば、たしかにそれは教師の多忙化につながり、あるいはバーンアウ トの一因になるように思われ、それが問題であるということも頷ける。しかし感情労働否定論は、 感情労働の告発後の教師の仕事のイメージを提出することができない。感情労働が問題だからと いって、教師は感情労働を止めるべきだ、子どもには無感情に関わるべきだ、と論じることはほと んど不可能に思われる。客室乗務員が感情労働を止めたところで旅客機の飛行に支障がでることは まずないだろうが、教師が感情労働を止めたなら子どもの成長にどんな支障が生じるのか予想もつかない。告発のあとに有効な提案ができないのであれば、感情労働をポジティブに捉えなおしてみ るという試みが現れるのも当然である。 こうして一見すると正反対の立場を採る感情労働否定論と肯定論であるが、本稿で明らかにした のは、この二つの立場が同じ枠組みを共有していること、同じ理論的な不徹底さを弱みとして共有 しているということである。教育社会学者の山本は、構築主義の立場から、「あることがらを『別様 に語る-異議申立てをする-』というときでさえ、語るべきことがらがすでに先行する言説の構成 物であるとすれば、異議申し立ての言説は見かけ上は対立していても、当の『ことがら』の存在を 自明視するという点では先行言説を補強している」と述べている(山本 1996:84-85)。これと同じ 関係が、感情労働否定論と肯定論の間にはあるのである。 感情労働についての議論を生産的なものにするには、感情社会学の草創期にあった問題意識に立 ち戻り、感情労働否定論と肯定論とが共有する枠組みとは異なる出発点をあらためて据える必要が あるのではないだろうか。 註 (1)ホックシールドは、当該の説明箇所への注のなかで「積極的に体を動かすこと」というもう 一つの深層演技の方法を挙げている。例えば、しかめっ面をゆるめ、握りこぶしを開くことによっ て怒りを静めるといった方法がこれにあたる。(ホックシールド 2000:275) (2)註(1)を参照。 (3)伊佐はこれを直接感情に働きかける方法と解釈していると思われるが、むしろイマジネー ションを用いた間接的な管理ではないかと思われる。 (4)客室乗務員が表層演技を行うことは言うまでもないが、そのほかにも深呼吸(ホックシール ド 2000:62)や、また不愉快な客を「飛行の恐怖の犠牲者」と捉え直すといった認知枠組の転換 (ホックシールド 2000:26)を用いていることを報告している。 (5)『管理される心』の「まえがき」には、ホックシールドの理論形成の起点がC.W.ミルズにあっ たこと、多くを負うことになるゴフマンを経て、さらにその欠落をフロイトが補完する関係にある といった理論形成プロセスの簡単な説明がある。(ホックシールド 2000:vii-viii) (6)『管理される心』第3章への註(1)においてもホックシールドは「ゴフマンは表層演技ので きる自己は仮定したが、深層演技のできる自己は仮定していない」と述べている(ホックシールド 2000:275)。ホックシールドは、ゴフマンの理論から内在的に深層演技に相当する概念を導出する ことができないことをよく自覚していたからこそ、ゴフマンとは別にスタニスラフスキーを援用し、 ここから深層演技の概念を借用せざるをえなかったのだと考えられる。 (7)こうした理論構成を、たとえば、崎山(2007)は「疎外論図式」、中河(1999)は「疎外論の 論理構成」「疎外論のレトリック」と呼んでいる。 (8)西川(2006)も対人援助職一般の感情労働について伊佐とほぼ同様の次のような見解を示し ている。 特定の相手に対して長期的なサービスを提供する場合、特に相手を援助し成長を促すことを必 要とするような仕事においては、相手との信頼関係の構築・維持が重要になる。この場合は、 相手や自分を騙す「演技」はかえって信頼関係を損ね、あるいは感情労働従事者の心理的スト レスの原因となり、感情労働の質を阻害することにつながりかねない。(西川 2006:5-6) つまり、不特定の客に対するその場限りのサービスとは異なり、特定の相手との長期的な関係のな
かでは、演技はかえって信頼関係を損なうことにつながる。というのも、演技は長期的な関係のな かではいずれ見破られてしまう可能性も高く、あるいは見破られてしまう不安をかかえながら仕事 に携わらざるをえないからである。だから長期的な関係では、演技ではない本心によって構築され るような信頼関係が要請される。 (9)肯定論の問題点はほかにもある。例えば、油布は、「感情労働を戦略(strategy)として考察す るというこのようなスタンスは、現代の労働の中で感情の持つ意義を確かに把握してはいるものの、 労働過程の中でどのように都合のいい『労働者』にされていくのかという、搾取─被搾取という視 点については何も触れていない」( 油布 2010:35) と述べ、その無防備さを指摘している。 また渋谷は、「顧客による経営管理」というテクノロジーについて、それが「労働者の『経営参加』 を要請し、労働者が自らの感情に働きかけて『自発性』を引き出すように促す」ものであると述べ、 感情労働のなかの労働者の自発性が、実は狡猾な新自由主義的なシステムによって巧妙に調達され たものであることを示唆している(渋谷 2003:34-35)。 参考文献 秋田喜代美・佐藤学、2015、『新しい時代の教職入門』有斐閣. 黒羽正見・黒羽諒、2011、「教師の教育行為に現出する「感情労働」に関する一考察」『群馬大学教 育実践研究』第 28 号.
Hochschild, A. R. 1983,The Managed Heart; Commercialization of Human Feeling, University of California Press.= 2000,石川准,室伏亜希訳『管理される心─感情が商品になるとき』世界思想社. 伊佐夏実、2009、「教師ストラテジーとしての感情労働」『教育社会学研究』第 84 集. 石川准、2000、「感情管理社会の感情言説-作為的でも自然でもないもの」『思想』第 907 号、岩波書店. 2016、「ホックシールド『管理される心―感情が商品になるとき』」『日本労働研究雑誌』 No.669. 木村優、2015、『情動的実践としての教師の専門性-教師が授業中に経験し表出する情動の探究』風 間書房. 前田泰樹、1999、「情緒をめぐる語りの理解可能性について」『ソシオロゴス』No.23. 中河伸俊、1999、『社会問題の社会学-構築主義アプローチの新展開』世界思想社. 西山真規子、2006、「感情労働とその評価」『大原社会問題研究所雑誌』NO.567. 岡原正幸、1987、「感情経験の社会学的理解」『社会学評論』38 巻3号. 崎山治男、2007、「感情社会学という暴力─「生きられた感情」をめぐって」『立命館産業社会論集』 第 43 巻第3号. 渋谷望、2003、『魂の労働』青土社. 武井麻子、2002、「感情労働と看護」『保健医療社会学論集』13 巻2号. 油布佐和子、2007、『転換期の教師』日本放送出版協会. 2010、「教職の病理現象にどう向き合うか―教育労働論の構築に向けて」『教育社会学研究』 第 86 集. 山本準・岡島典子、2019、「我が国における感情労働研究と課題―CiNii 登録文献の分析をもとに」 『鳴門教育大学研究紀要』第 34 巻. 山本雄二、1996、「言説的実践とアーティキュレイション―いじめ言説の編成を例に」『教育社会学 研究』第 59 集. (本研究は、日本学術振興会・科学研究費助成事業(課題番号19K02473)による助成を受けた。)