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ヴィルヘルム・アルノルト (Wilhelm Arnold, 1826-1883) について

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ヴィルヘルム・アルノルト

(Wilhelm Arnold, 1826

1883)

について

(2)

目 次 はじめに 1 アルノルトの位置づけ (1) プロフィール (2) 法社会学研究の過渡期 2 アルノルトの研究の意義 (1) 法社会学研究 (2) 法慣習 3 アルノルト=ホイスラー往復書簡 おわりに キーワード: 文化と法生活 , 法社会学, ギールケ, 法の起源・発生の考察

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は じ め に

1975年にドイツの法制史家カール・クレッシェルは, 「19世紀の忘れら れたゲルマニスト ヴィルヘルム・アルノルト (18261883年 (1) )」 と題する 論文を発表した。 その後, 彼のアルノルト研究はしばらく中断していたが, 2013年にアルノルトとその友人であるホイスラーの書簡集を編集, 刊行し た (2) 。 私は, クレッシェルの上記1975年の論文より, わが国の一般的な法制史 あるいは法思想史の教科書, 概説書ではあまり取り上げられることのない アルノルトに興味を抱いた。 ドイツ法史上, アルノルトは, どのような意 義をもち, どのように位置づけられるか。 そこで, 本稿では, 今後の研究のために, アルノルトに関する二次文献 の情報をまとめておくことにしたい。

1 アルノルトの位置づけ

(1) プロフィール 以下は, クレッシェルの論文など (3) をもとに, アルノルトのキャリア, 著 作, 交流関係をまとめたものである。 1826年 10月28日, 法律家 (4) の息子としてヘッセン選帝侯国のボルケン Borken に出生。 始めハーナウ, 次にカッセルのギムナジウ ムで学ぶ。 1845/46年 冬学期, 法学と官房学を学ぶためにマールブルク大学に入学 する。 その後, ハイデルベルク, ベルリンの各大学で研究を 継続する。 1848年 11月13日, 法律学の国家試験を受ける。 実務修習では, はじ め都市裁判所試補, 最後には上級裁判所調査官を務める。

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この修習期間中も研究を継続する。 1849年 3月22日, ヘッセン都市法の歴史に関する学位論文でマール ブルク大学において法学博士の学位を受ける。 歴史研究のた め再びベルリンへ赴き, グリム兄弟 (5) と親交をもち, 家族づき 合いをする。 1850年 マールブルク大学でドイツ法の教授資格を得るためにベルリ

ンを離れる。 ランケ (Leopold von Ranke) との親交を継続 する。 同大学の私講師時代の研究対象はドイツ都市の国制史 であり, このテーマについて夏学期に同大で講義を行う。 1854年 ドイツ自由都市の国制史 都市ヴォルムスの国制史に関連 づけて (6) 刊行。 この翌年, フ ラ ン ク フ ル ト の 歴 史 家 ベ ー マ ー ( Johann Friedrich) と知り合う。 1855年 春, バーゼル大学の法制史教授として招聘を受け, 応じる。 この招聘に尽力したのが, アルノルトの ドイツ自由都市の 国制史 により, 彼に注目していた市参事会員で教授のホイ スラー (父) であった。 同名の息子ホイスラー (7) は, この時にアルノルトと知り合う (8) 。 バーゼル大学法学部のヨハネス・シュネル (9) とも親しくなる。 シュネルはアルノルトからバーゼルの修道院文書館再編のた めに助言を得る。 1861年 ドイツ都市における所有権の歴史について 刊行 (10) 。 1863年 バーゼル大学で講演 「歴史的観点から見た法と経済」 を行う。 4月1日, マールブルク大学に招聘される (11) 。 1865年 学部長を務める。 文化と法生活 刊行。 1868年 ローマ人の文化と法 刊行。 1870年 学部長を務める。 1872/73年 学長を務める。 1875年 ドイツ諸部族の定住と移住 刊行。 1879年 太古のドイツ 刊行 (初期ゲルマン時代)

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1881年 学部長を務める。 ドイツ史 第1巻 (これは 太古のドイツ の第3版)。 ドイツ史 第2巻第1分冊 「フランク時代」 (カール大帝ま でのフランク王国史)。 ※第2分冊 (フランク時代の国制と 法) は未刊行。 ドイツ帝国議会議員に選出される。 1883年 7月2日, 死去。 晩年の議員活動を除けば, アルノルトは基本的にアカデミズムの世界に 生きた人物である。 バーゼル大学, マールブルク大学という2つの大学に 在籍し, マールブルク大学時代には学部長や学長といった大学内での要職 も経験した。 また, 中世ドイツの国制史, 法制史に関する研究を多く発表 している。 交流関係をみても, 当時の有名な学者たちと接している。 ドイツの古事 学研究・言語研究で有名なグリム兄弟や, 近代歴史学の確立者であるラン ケである。 さらに, 本稿3章でも少し紹介するが, アルノルトが亡くなる 直前まで手紙を交わしたバーゼル大学のホイスラーとの交流も注目されよ う。 (2) 法社会学研究の過渡期 前節の年表より明らかな通り, アルノルトはおよそ19世紀半ばから後半 にかけて活躍した学者である。 では, ドイツ法史上, 彼をどのように位置 づけることができるであろうか。 すぐ後で述べるように, 特に法と経済の 関係の研究, つまり法社会学研究という視点からみたとき, アルノルトは 過渡期に活躍した学者と言えるのではないかと思う。 例えば, 手元にある 法学者名鑑に次のような記述を見る。 ヴィルヘルム・アルノルト (18261883) アルノルトは, バーゼル大 学とマールブルク大学のドイツ法教授。 また, 188183年には帝国議

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会議員。 定住史研究の補助手段として, 地名の意義を見出し ( ドイ ツ諸部族の定住と移住, 特にヘッセンの地名にもとづいて 1875年), また, 当時の実証主義的, 概念的な傾向に逆らって, 法, 経済, 社会 の関係に関する独自の理論を展開した ( 文化と法生活 1865年)。 文 献:K・クレッシェル 「19世紀の忘れられたゲルマニスト」 H・クラ ウゼ記念論集, 1975年, 253275頁;同ほか編:W・A―アンドレア ス・ホイスラー往復書簡, 2013年 (12) 。 引用文末尾から, いまなおクレッシェルの1975年の論文が基本文献であ ることが確認される。 また, 引用前半の定住史に関するアルノルトの研究 は, 都市や農村の形成史に関する中世史研究に影響を与えており, 興味深 いものである (13) 。 だが, この点については割愛する。 ここで注目したいのは, 引用文の後半で触れている, 法と経済の関係に 関する研究, いわば法社会学研究を, アルノルトが行ったということであ る。 ドイツ法史における法社会学研究と言えば, 一般的に名前が挙げられる のは, エールリッヒやウェーバーである。 しかし, アルノルトもまたこの 点でひとつ関与があったとすれば, すくなくとも時期の上では法社会学研 究の先駆者ということになろう。 ところで, アルノルトが法社会学研究の先駆者として位置づけられると いっても, 法と社会という視点がアルノルトに突如として生じたものでは ない。 そのきっかけとなるものは, 歴史法学派の民族精神論である。 この きわめてあいまいな概念を引き受け, 法と経済の関係のあり方を追究した のがアルノルトである。 以下では, ①ハーファーカンプ, ②ヤンセン, ③クレッシェルの研究書 や教科書から, アルノルトの位置づけを確認しておこう。 ①ハーファーカンプ プフタ研究で有名なハーファーカンプはアルノルトについて, 次のよう

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にいう。 「1865年, アルノルトは, 民族精神を, その実体をなす諸要素 (言語, 芸術, 学問, 習俗, 経済, 法, 国家) に解体した (14) 」。 1865年はアル ノルトの 文化と法生活 が刊行された年であり, また 「民族精神」 は, いうまでもなく歴史法学派のもっとも重要な概念である。 ハーファーカン プにしたがえば, アルノルトは, 歴史法学派のこの思想を批判的に継承し, 発展させた人物であるといえよう。 このあたりの事情について, 歴史法学派内部の動向も踏まえて, 見てお きたい。 ハーファーカンプは, 2018年に歴史法学派に関する包括的な研究 書 歴史法学派 (15) を刊行している。 同書は, サヴィニー像を基準とする従 来の歴史法学派への研究アプローチを改め, 歴史法学派に属するとされる 法学者たちの間での議論やコミュニケーションを追いながら, つまりは内 的視点に立ちながら, 歴史法学派の形成, 発展, 消滅を描くものである。 同学派は, フーゴー, サヴィニー, ハウボルトの法律学習の改革に始ま るが, 1820年代以前には有機体や民族精神というこの学派を代表する概念 や, サヴィニーが1803年の 占有権論 で行った研究方法が強調されたわ けではない。 また, 研究も古代研究志向で, 古代の新史料の発見という共 同研究プロジェクトのようなものであった。 学派内部での議論が活発になり, その特徴を自覚的に追求し始めたのは, 1820, 30年代以降である。 きっかけは, 例えば, ティボーによる非実務性 や古代志向への批判や, ヘーゲル主義者による非哲学的との批判である。 このようないわば外圧をきっかけに, それぞれの点について学派内での議 論が深まっていった。 非実務性に対しては実務性を考慮した新たなメディ アとして ライン学術年報 の創刊, また, 非哲学的との批判に対しては 法概念におけるシェリング哲学や覚醒神学 Erweckungstheologie の受容が あり, さらに法秩序に関して自由と必然, 直観と理性の問題などが積極的 に取り上げられ, 議論された。 しかし, 1830年代後半から, 学派の中心人物が次々に世を去り, (特に 1846年のプフタの死が) 学派内での議論を停滞させることになった。 また, 新たなリーダーと目されていたイェーリングも, 学派から離れ, 独自の道

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を歩むことになる。 歴史研究, 法の神学的基礎づけなどは, 新しい世代に は継承されることなく, 学派は終焉をむかえた。 さて, 学派の末期において, 民族精神はどのように見られていたであろ うか。 例えば, イェーリングにとって重要であったのは, あいまいな民族 精神ではなく, 法の現実 Rechtswirklichkeit であった。 民族精神の形而上 学的な基礎づけは色あせ, 直観や感情を引き合いに出すことは非学問的と 評された。 イェーリングは, ローマ法の精神 第2巻 (1856年) におい て, 法感情の支配を終わらせるために自然科学の方法を導入するといい, 1872年の 権利のための闘争 において, 法感情を学問的に観察する試み を始めた。 これは, 法感情の成立を考察した 法における目的 と1884年 の講演 法感情の成立について に通じる。 ここで彼は同時代の心理学を 利用したのだった (16) 。 アルノルトはどうか。 当時, 民族精神は 「神秘」 と批判されており, 彼 は次のようにいう。 「私たちは, なおも民族精神や有機体というスローガ ンをもってなにかを伝えようとすることをやめなければならない。 問題を, 解決する代わりに, はねつけてしまうために使うこの言葉は, 空虚な言葉 である」 ( 文化と法生活 9頁 (17) )。 そして, アルノルトは, 冒頭のハーファー カンプの引用で見たように, 民族精神を現実の諸要因 (言語, 技術, 学問, 習俗, 経済, 法, 国家) に分割して考察を進めようとするのである。 それ が, 文化と法生活 である (18) 。 ②ヤンセン クレッシェルが述べるところによれば, 彼も1970年代初めまではアルノ ルトを 定住と移住 (1875年) の著者として知るにすぎなかった (19) 。 彼が アルノルトに注目するようになったきっかけは, ヤンセンが, クレッシェ ルの指導のもとで作成し, 1974年に刊行した オットー・フォン・ギール ケの歴史法学の方法 (20) にあるという (21) 。 ヤンセンは, アルノルトの方法論が ギールケに影響を与えたという。 ここでヤンセンによるアルノルトの描写 を確認しておこう (22) 。

(9)

a) 法の起源・発生の考察 die genetische Rechtsbetrachtung (23) ギールケは, 法を生活関係に依拠させること, また, 法は, 自律性とと もに社会的機能があり, 共同生活の一部であることを説く。 学問的に理解 されるものは, その起源・発生にそくして説明されなければならない。 法 を生み出す共同体へと立ち戻り, 共同生活におけるさまざまな法形成の要 因を観察することが重要であった。 ギールケのこのような法の起源・発生の考察は, アルノルト 文化と法 生活 (1865年) を思い起こさせる。 彼はこの著書の中で, 法の概念的方 法とともに, 経験的な方法を用いて, 倫理的側面と経済的側面の法への影 響を明らかにした。 これによって, 従来, あいまいな形で, 有機的な法理 解とか, 法の起源・発生の考察とか言われていたものが, 具体化された。 アルノルトは, 文化と法生活 の 「まえがき」 (XI 頁) で, 歴史法学派 の理論を認め, そこからのみ学問的発展が可能であることを強調するも, しかし, これと同時に, 法と文化の関係, つまり, 法が成立するところだ けでなく, その後の進行と発展の経過の中でも法を観察していこうとする。 それは, 法がいつの時代でも民族生活の他の側面, 特に経済の状況との関 係で見せる, 法と文化の生き生きした相互関係である。 ギールケは, アル ノルトの目標設定に重要な功績を見て, 何度もこの著書に言及する。 アルノルトは, 文化と法生活 の 「まえがき」 (XXII 頁) で, 哲学者

トレンデレンブルク (Friedrich Adolf Trendelenburg, 18021872

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) の 倫

理にもとづく自然法 (Das Naturrecht auf dem Grund der Ethik, 1860) を

頻繁に参照している。 トレンデレンブルクの哲学は, アルノルトにとって, かつての抽象的で空虚な哲学 (例えばヘーゲルの哲学) の対立物であった。 トレンデレンブルクは, 彼の有機的な哲学を, ヘーゲルの概念の弁証法を 拒否することから発展させた (25) 。 また, アルノルトは, ロッツェ (Herman Lotze, 18171881 (26) ) の3巻に およぶ ミクロコスモス も参照している。 ロッツェは, 機械論的な自然 と, 人間の観念主義とを和解したことで知られている。 哲学は, 彼にとっ ては, 生の事実と結びついたもので, 出発点はただ経験だけである。 しか

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し, ロッツェにとって, 経験を超えて, より高次の目的がある。 それは, 機械論的な自然が仕え, そして, 個別の生活機能の関係を構成するもので ある。 アルノルトは, ロッツェの理論をわがものとし, そこから法を観察 する生理学的方法を発展させた (27) 。 さらに, アルノルトは, 別の著書で, 歴史学派のロッシャーとクーニー スの国民経済学に関する著書を挙げている (28) 。 また, アルノルトは 文化と 法生活 の 「まえがき」 (XXIII 頁) でイェーリング ローマ法の精神 (29) に も言及している。 最後にヤンセンはおおむね次のように要約する。 法は, 法以外のその他 の生活機能との関係の中で存在している, というギールケの見解は, 同時 代の法学と法哲学に, その模範を見つけた。 そのことはとりわけアルノル トとトレンデンブルクが証言している。 彼らは, 法の起源・発生の考察の 理論的正しさと必要性を証明するなどし, 支配的であった概念法学に欠け ていた現実との関係を指摘した。 倫理上拘束力のある法理念を強調するト レンデンブルクは, はっきりと, 概念法学の信奉者らがその影響をまさに 排除しようと努めた哲学に法学を依拠させた。 トレンデンブルクによるほ かに, 方法論において, ロッツェの ミクロコスモス とイェーリングの ローマ法の精神 によりその研究を決定づけたアルノルトは, とりわけ 法を経済に依拠させ, それと同じように, 純粋な法学的な見方に発展とい うものを対置させた。 このことは, トレンデンブルクとアルノルトにおい て 帰納によって行われるがゆえに ヘーゲルの 「純粋な思考」 への 反対物として理解された, 有機的思考という手段によって見られるもので ある。 「理念的リアリズム」 という概念によって, すなわち, 依然理念へ と向けられたリアリズムによって, この見方はもっともよく特徴づけられ る。 ギールケの, 法の起源・発生の考察は, まさに同じことであり, そし て, ここに哲学的な基礎を見つけた。 現実の社会を把握するという, この 方法は, 法学だけにとどまるものではなく, 同時代の国民経済学において も, 直接的な類似を見る。 シュモラーによって, 国民経済学の分野で追求 された学問の目標は, 例えば, ギールケの法学上のコンセプトとほぼ完全

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に一致する (30) 。 b) 法源 (31) 法の民族性が保証されるのは, 裁判所が, 実定の現行法の解釈にとどま ることなく, 現行法を時代の法意識に合わせて変更するときである。 この 試みをアルノルトは 文化と法生活 (1865年) で行った。 アルノルトは, ギールケと同じように, 歴史法学派の基礎の上に立ち, また同じく, サヴィ ニーと彼に続くロマニステンの欠点も認めている。 アルノルトは, たしかに, 法源としての学問について語り, その特性を 証明しようと試みた。 しかし, 彼は判決と学問を区別しない。 彼が証明し ようとしたことは, ただ次のことだけである。 制定法と慣習法は法源とし て今日もはや十分ではない。 なぜならば, 直接的で無意識に形成される慣 習法は, 生活機能の分化が進行することによって衰えていくからである。 また, それゆえ, 法の健全な形成のためには, 内的な承認にもとづく学問 法を肯定することが必要である。 アルノルトは, ギールケとは違い, 現行 法を超えた法形成 Rechtsfortbildung extra legem の権能をも裁判所に認め ている。 アルノルトは, 今後も慣習法が存在し, みずからを新たに作り上げてい くということを否定しない。 しかし彼はまた, それは昔ほど簡単にはでき ないと考えている。 このような状況で, 無意識な慣習法による法形成は, 熟慮と意識によって行われる行為に代わられる。 すなわち, 法学がこの任 務を負う。 法学にそれが可能なのは, 法学は, 純粋に形式論理によっての み行われるのではなく, 同時に法をその内的基礎と目的にしたがって規定 していくことを試みるからである。 法は, 現行法に拘束されるのではなく, むしろ現行法から新しいものを形成していく。 かりに法学が抽象的, 概念 的にのみ思考するならば, それは問題である。 しかし, 法および生は形式 論理のように矛盾なく一貫して発展しないのだから, 法学は形式論理だけ に的を絞ることはできない。 たしかに, 法学は古い法概念から出発するが, しかしそれに固執するのは, 法学が生をその概念の中で支える場合だけで

(12)

ある。 法が, 形式論理的側面とともに, 経済的側面と習俗的側面をもち, この点にそれぞれの時代の特徴が現れる。 法の自立性 die   des Rechts は概念の自立性だけであり, 経済と習俗とがその基礎にある ゆえ, アルノルトははっきりとベーゼラーの理論 (学問は既存の法からの み新たなものを発展させる これはギールケもまた信じるところ) を拒 否し, 次のように述べる。 「学問が生み出す法はかつてそもそもまだ存在 しなかった。」 「したがって, 古い概念ではなく, 文化の新しい形式こそ, 学問が正しく発展させ, そして基礎づけなくてはならない。」 ( 文化と法 生活 392, 394頁 (32) ) 学問法の場合, 法の効力を生じるための外的な標識は必要とされない。 慣習法の場合, 法的確信と並んで, 直接の慣行が付け加わる。 制定法の場 合, 制定法の形成と並んで, お上の要求が付け加わる。 学問法は, 内的妥 当根拠だけをもつ。 それは納得いく理論の真理である。 内容的に承認され る限りで, 学問法は存在する。 そして, 学問法は, 時の経過の中で慣行  と慣習 Herkommen によって慣習法の形式を帯びる。 ここまでの内容をヤンセンはおおむね次のようにまとめる。 今日, 個々 の生活機能の分化が進行することによって, 社会の統一的な行為の基礎が 失われ, だからまた, すべてのものに拘束力ある慣習法を形成することは さらに難しくなっている。 それゆえ, 今, 法学が媒介機能を引き継ぎ, そ して, 熟慮によって, かつて慣習法としてまだ直接的で無意識に民族の生 活のなかにあり, つねに存在した, それぞれの利益の平準化を生みださな ければならない。 法学はこれができる。 なぜなら, 法学は, 創造的な活動 をすることができ, ただ形式論理的に活動するのではないからである。 法 学が古い法と結びつくことは, この場合, 次の点でのみ意味がある。 すな わち, その結びつきが, 生活によって, 正当化されるときである。 生活の 発展と同じように, 法の発展も先を見通すことはできない。 だから, 学問 はかならず現行法を超えて行かなければならない。 学問法の効力根拠は, 理論それ自身ではなく, 学問法の内的な真理内容が承認されることではじ めて生みだされる。 制定法や慣習法とは異なって, しかし, 学問法は外的

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な効力根拠を持たないのである (33) 。 これと同じことは, 学問法だけでなく, 現行法を超えた法形成について の裁判所の権限にもいえる。 アルノルトは, 生活の現実が, 現行法を改変 し, 新しい秩序を作り出すよう要求しても, そのために慣習法の存在を前 提としない。 アルノルトもギールケも, 時の経過の中で個々の生活機能が ばらばらになっていったという歴史観は共有しても, 慣習法を形成する当 時の能力の判定については異なる。 ギールケはここで非現実的な態度を示 す。 ギールケは, 現行法を超えた裁判所の法形成を否定する。 ギールケは, 近代の法発展における慣習法の役割を過大に評価する。 その理由は, ロー マ法継受に関するゲルマニストの理論だけでなく, ギールケの有機的な organisch 歴史の理解にある。 つまり, 歴史の発展は, 分化が進むにもか かわらず, 最後には統一へと進み, 近代においてさえもなおすべての対立 を超えて, すべての法を支え発展させる統一的な国民的法確信が存在する, というものである。 ギールケは, 各人が生き生きした法意識としてそれ自 身のうちに経験する, ひとつの自律的な法理念 eine autonome Rechtsidee

(または, 法理念の自律性 die  der Rechtsidee) を信じて

いる。 ギールケによれば, 法の理念 die Idee des Rechts は, 言語や神の 観念などと同じように, 人間の共通財産であり, われわれ人間の内的統一 の証である。 アルノルトと同じように, 生活機能の分化が進んでいることを認めても, 法仲間 Rechtsgenossen の中で生き生きと存在し, 法仲間を拘束する法理 念が存在することをギールケは肯定する (34) 。 法理念へのギールケの信念こそ, 彼に慣習法の優越的な役割を主張させたものである。 法形成は外的な生活 条件によっても決定され, 近代においてはますます複雑になっている, と いう考えは, ギールケの慣習法優位の陰に隠れてしまった。 ギールケの哲 学が, 慣習法の形成が後退しているという現状の認識を妨げた。 ③クレッシェル クレッシェルが着目するのも, アルノルトの法社会学研究である。 1975

(14)

年の論文以外に見られるアルノルトの記述を記しておこう。 アルノルトは, ベーゼラーから (ベーゼラー自身は実際にはやらなかっ た) 法社会学的考察を引き継ぎ, その成果が 文化と法生活 (1865年) であった。 そこでのアルノルトの問題設定は, 法生活の条件と前提の探求, 法と経済の関係を探ることであり, 法は人間の共同生活の中から成立する ものであることが彼の研究の前提にある。 また ドイツ諸部族の定住と移 住, 特にヘッセンの地名にもとづいて (1875年) は, 近代の地名研究の 中でも基礎的な作品である。 しかし, そこでの部族史や地名学の研究成果 はそれほど重要ではなく, 初期の経済的・社会的状態の解明が重要であっ た。 アルノルトを地名研究に導いたのは, 言語的関心ではなく, 初期ドイ ツの法生活の社会的前提・条件の探求である。 ただ, その試みは, 社会学 的理論の完成には及ばないものであった (35) 。 さらに, 版を重ねて現在も刊行される, クレッシェルの教科書では次の ように説明される。 法と社会的現実の関係は, 2つの方向から考察されうる。 ひとつは, 法の社会的前提とその変化はなにか, が問われうる。 この問いは, オ イゲン・エールリッヒやカール・N・レバンシュタインなどの著名な 法社会学者にとって, 中心的課題であった。 ・・・しかし, この問いに は多くの法学者も取り組んだ。 名前を挙げれば, ルドルフ・フォン・ イェーリングである。 ・・・イェーリングと並んで, すくなくともさら に, 社会的現実に法のルーツをもとめる理論によって, オットー・ギー ルケやローレンツ・フォン・シュタインに影響を与えた, W・アルノ ルトの名も挙げられてよい。 これについては, K・クレッシェル 「19 世紀の忘れられたゲルマニスト:ヴィルヘルム・アルノルト (1826 1883年)」 H・クラウゼ記念論集1975年, 253275頁 (36) このように, アルノルトの功績のひとつは, 法と社会の関係について研 究を始めたことにある。 またさらに, 後述のように, クレッシェルは, 中

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世法に関する彼独自の理解, すなわち, 当事者の契約により設定される法 をあらわす 「法慣習 Rechtsgewohnheit」 という語は, アルノルトの 文 化と法生活 に見られたという。 次章では, 法社会学研究, 法慣習にポイントを絞り, アルノルトに関す る説明を記すことにしよう。

2 アルノルトの研究の意義

(1) 法社会学研究 本節では, クレッシェルの論文にもとづいて, アルノルトの 文化と法 生活 (1865年) の概要を見てみよう。 中世史家リーチェル (Siegfried Rietshel (37) ) はアルノルトの業績を評価し た。 一般的にいって, アルノルトの ドイツ自由都市の国制史 所有権 の歴史 定住と移住 において, その評価は同意を得るものである。 し かし, クレッシェルは, これに加え, 文化と法生活 の重要性も見過ご してはならないという (38) 。 同書 「まえがき」 によれば, アルノルトは, 同書を 「法の生理学 eine Physiologie des Rechts」 といい, その目的は法の生理的な条件を発見する ことにあるという。 そして, 考察の対象は歴史的なものである。 この時, 民族精神という概念や, 有機体というあいまいな概念は役に立たない。 民 族の生活を理解するための唯一の方法は, 学問の分業により行われるもの である (39) 。 続いて, 第1部 「国民生活と法」 の内容である (40) 。 その第1章では 「国民 生活の諸要因とそれらの相互作用」 を考察する (これはそのまま第1章の 見出しである)。 アルノルトは, 国民生活の力として, 7つの要因を挙げ る。 まず, 言語 Sprache, 技術 Kunst, 学問 Wissenschaft であり, これら 精神的な性質に依存する。 他方, 経済 Wirtschaft, 法 Recht, 国家 Staat は, 人間の有限性や歴史的秩序に依存し, また多様性に条件づけられる。 そして, この2つのグループを仲介するのが習俗 Sitte である。 このルー

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ツは精神的な力にあるが, その効果は経済, 法, 政治生活に及ぶ。 そして, 両グループは相互作用の関係に立つ。 第1部の第2章では, このうち, 経済, 法, 国家の密接な相互関係が語 られる。 これらの領域は, 他の領域なくしては考えられないものである。 この3つの領域の根源にある衝動は, それぞれ自己愛 Selbstliebe, 法感 覚 Rechtssinn, 共同感覚 Gemeinsinn であり, これらも他をなくしては考 えられない。 すなわち法は, 法感覚や衡平感情  だけでは なく, 同時に自己愛あるいは共同感覚をも前提とする。 まず, 経済と法については, 一方, 経済上の行為は法の形式を与えられ, あらゆる経済制度は法制度である。 したがって, すべての法命題は経済的 な内容や関係を持つ。 それは私法でもっとも顕著である。 この関係は, 譲 渡, 遅滞, 無効などではごく間接的だが, 所有, 売買, 婚姻, 後見などで は直接的にあらわれる。 いずれにしても, 法と経済が相互にばらばらになっ てしまうことが長く続くことはない。 このように法は孤立した領域ではな く, 歴史の全体的な発展の中で生みだされてきたものである。 しかし, 法 にとって経済生活の必要性だけが決定的要因であり, 法はそれに従わなけ ればならない, というのは誤りである。 法は立法の形式において真の経済 的利益と偽の経済的利益を区別するために介入しなければならない。 経済 に他の要因を考慮することが求められるのだから, それだけいっそう法的 判断においても (経済的要因だけでなく) 法感覚や共同感覚も優先される ことがある。 次に, 経済と国家の関係に関する考察では, 各時代の経済形態と国家形 態が対応させられる。 まず古代と中・近世の経済が区別され, 後者はさら に3つの時代に区別される。 その第1期は, 自然が生産力であり, 農耕と 物々交換 Tauschhandel が支配する。 この時代の国家形態は, 出生身分に よる社会構成とガウ Gauverfassung である。 第2期は, 自由な労働が始ま る時代である。 この時代には, 商業 Handel と営業 Gewerbe が土地から 解放される。 ここでは都市の市民身分だけでなく, 自由農の身分も誕生し た。 しかし, なおもすべての借地 Leihewesen は, 経済的に見れば負担

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Belastung および土地への拘束と異なるものではなかった。 この時代の成 果は, 職業身分が貴族身分に取って代わり, そして, 少なくとも都市では, 近代国家の基礎が築かれた。 第3期は, 土地と労働に加え, 資本が生産力 となる。 この時期には, 近代の領域国家において, 貨幣経済が浸透し, 貢 租 Abgabe と賦役 Dienst からの解放によって, 人格の自由ばかりでなく, 所有の自由がもたらされた。 したがって, 人格と所有という2つの概念は, 政治的かつ法的な概念であり, しかしそれよりももっと経済的な概念であ る。 ここに示されるのは, 国家が一方的に経済発展に規定されるのではな く, 経済発展が同時にますます国家の発展に依存している, ということで ある。 最後に, 法と国家の関係を考察する。 アルノルトは, 国家は徐々に法秩 序から独立していくものであるから, 法 Recht に重要な影響を認める。 すべての制度は初期においては, 同時に政治的であり, かつ私法的な性質 をもつものであった。 すなわち, 家族法, 所有権, 取引法, 相続法が公的 な性格をもつことも少なくなく, 同様に, 王国, 都市, 政府, 行政が私法 的な性質を持った。 しかし, 発展した国家は, 立法により, 直接的に法に 作用する。 それは経済に対するのと異ならない。 また, 国家は, 裁判所と 訴訟法の整備によっても法に影響を与えた。 最後に, 法曹身分の政治的地 位も国家と法の関係にとって重要であり, アルノルトは, 理論と実務の分 業は不可避であり, この区別を再び廃してしまおうというのは明らかな後 退であるという。 第2部 「法の元素 Element」 が続く (41) 。 おおむね次のような内容である。 アルノルトは, 法の特性を, 生き生きしたもの etwas Lebendiges, 関係的 なもの etwas Relatives と捉える。 その上で, 法の元素の1つ目として, 事実的な基礎, 経済的な基礎を挙げる。 また, 法律家には, 論理的な推論 よりも, 生き生きした影響力が大事である。 次に, 2つ目として, 習俗 Sitte を挙げる。 かつて法はまったく習俗のなかにあり, 習俗にルーツが ある制度がだんだん法制度へと移行した。 習俗という基礎から法を引き離 すことは, 空虚な抽象化であり, なにものも残らない。 習俗は法の生き生

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きした力であり, 法とは法の資格を与えられた習俗である。 都市の婚姻契 約は, たしかに客観的な意味で法ではないが, しかしそれには同意があり, ここに習俗の意義がある。 習俗は, 事実から法への移行を媒介する。 最後 に, 3つ目として, 形式的なものを挙げる。 それは, 歴史的に見て, 3つ ある。 すなわち, 図 Bild・シンボル Symbol, 語 Wort・言葉 Sprache, 概 念 Begriff である。 古い時代の法の表現は, 図・シンボルの形をとる。 そ こに, 法を, 直接的に見てとり, 感覚的に理解できる。 しはし, やはり, 本来の, 本質的な法の形態は概念であり, それなくして法は考えられない。 語によって, 言葉において, 概念は理解される。 第3部 「法の歴史と体系 (42) 」 では, 法源の歴史的役割, より正確には, 法 源と呼んでいる法の成立形態について考察する。 法の本来の源泉は国民の 生活であり, 習俗 Sitte であり, したがって歴史それ自体である。 最も古 くは慣習法である。 これは, 古い文化段階の, 習俗から直接に成長してい く法である。 国家の設立とともに, 立法が加わる。 この立法という道具に よって, 民族は, 習俗に表れるその意思を自由に使う。 最後に, 法学は新 しい時代の慣習法である。 その妥当根拠は, 慣習法や立法とは異なり, 外 的なものではなく, 内的なものである。 学問の法生産能力に疑義はない。 とはいえ, 法律家の作業は, 既存の法から新たなものを発展させる論理的 作業だけでない。 アルノルトは次のようにいう。 「法概念を発展させるた めには…その時代の文化が法概念に何を要求しているのかを研究しなけれ ばならない…したがって, 古い概念ではなく, 文化の新しい形式こそ, 学 問が正しく発展させ, また作り上げなければならないものである。 法の精 神と好んで呼ぶものは, 結局のところ, 時代の精神だけである。 そして, 法学が加えるものは, 法学がその精神に与える法的な装いである。」 ( 文 化と法生活 393394頁 (43) ) これらの法源のあり方は, 各時代の経済の生産力と相応する。 すなわち, 自然には慣習法, 労働には立法, 資本には学問法である。 アルノルトはい う。 「慣習法は, その静かに活動する働きにおいて, 自然のもつ静かに活 動する力と比較されうる。 制定法は, 法産出の本来の形態として, すべて

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の経済の生産物の本質的な源泉として, 労働に相応する。 その結果, これ ら2つは, それぞれの領域における, 最も重要な, また, ある意味では唯 一の要因である。 いつでもすでにある古い慣習法と制定法を前提とし, 両 者が結び付いた力によって活動する学問は, その対応する像を, 同じく自 然と労働の結合から生じた, 経済の産物の新たな形式である, 資本のなか に見出す。 そして, 学問が後に慣習法の機能を引き継ぐように, 資本は, 自然の力を私たちのためにますます利用し, 意識してある目的のために利 用する道具である。 資本はいわば新しい時代の自然の力, あるいは自然の 力が拘束され, また経済の労働が服しているように思われる形式である。 …」 ( 文化と法生活 396頁 (44) ) 文化と法生活 の最後のページで法体系の考察があるが, これは割愛す る (45) 。 (2) 法慣習 (46) クレッシェルは, 1994年に刊行された論文 「法史学における法概念 (47) 」 で, 彼が使った 「法慣習 Rechtsgewohnheit」 という言葉はアルノルトの 文 化と法生活 より採られたことに言及している。 この法慣習という考え方は, 1960年代, 70年代のエーベル, デーメリウ ス, ハーゲマンの研究に触発されたものであり, 本稿 「はじめに」 でも触 れた通り, クレッシェルが, 自身の教科書 Deutsche Rechtsgeschichte 2, 12501650, 1973, S. 84 ff (48) . で, 慣習法 Gewohnheitsrecht と区別するために, 取り入れたものである (49) 。 なお, 今ここで, 中世法に関する論争に立ち入ることはできないので, 注にいくつかの文献を挙げるにとどめる (50) 。 さて, 既述の通り, クレッシェルが法慣習という言葉をどこで見つけた かと言えば, それはアルノルトの 文化と法生活 (1865年) であった (51) 。 クレッシェルは, アルノルトは法制度は習俗 Sitte から生じると見ている, と述べ, アルノルトの 「はじめは徐々に習俗から法慣習が生じ, そして法 慣習から法が生じる。」 ( 文化と法生活 270頁 (52) ) という言葉を引用し, 婚

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姻契約の例を指摘 (同書272頁) する

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。 クレッシェルはこのあと, 1954年 に発表した自身の論文 Waldrecht und Landsiedelrecht im Kasseler Raum

(54) にもとづいて, 中世後期の法慣習の具体例を挙げるが (55) , その紹介はここで は割愛する。 これに続いて, クレッシェルは, 彼が考える法慣習というあ り方が, 19世紀の法学者のどの著作に見られるか, 時代をさかのぼりなが ら論じる。 まず, 19世紀末の著作である。 ギールケの1895年の ドイツ私法 でも, 法と権利の区別, (確信と慣行により成立する) 慣習法と法曹法 (裁判慣 行と学問) の区別についての標準的な説明があるにすぎない。 ストッベの ドイツ私法ハンドブック (第2版, 1882年) も同様の説明である。 これ らの説明はヴィントシャイトと変わらない。 彼らは, 慣習 Herkommen や 私的自治 Privatautonomie において, 法と権利 objektives und subjektives

Recht の区別や, 法命題 Rechtssatz と法関係   の区別があ いまいにされていることを批判する。 また, ギールケは, 1873年の ドイ ツ団体法論 第2巻で, 中世ドイツの法観念がこれらの区別をしていない ことを批判する。 クレッシェルはギールケを評して次のようにいう。 「し かし, ギールケはドイツ中世法の独自構造を認めることができなかった。 彼の最終目標は, ただ (言葉の上で) 「古いドイツ法の理念の不完全さ」 であった。 したがって, ギールケのパンデクテン法学的な概念こそが彼を 中世独自の法概念へと到達することを妨げ, またそのような概念のために 彼は慣習や契約による規範設定などの事柄が気に入らなかった (56) 。」 次に19世紀半ばの著作である。 最初に取り上げられるのはアルノルトで ある。 彼の 文化と法生活 (1865年) は, ギールケの団体法論が刊行さ れる数年前に発表された。 同書でアルノルトは, 経済その他の社会生活と 法生活の関係を深く追究しようとしている。 しかしながら, アルノルトの 法概念は近代の法理解におけるように客観法であった。 例えば, 婚姻契約 を締結するという都市の習俗は, それ自体ではなおも法のルールではない。 その習俗が慣習法に昇格して初めて, 法としての資格を得ることになる (57) 。 クレッシェルはさらにゴールドシュミットの 商法ハンドブック 第

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1巻 (1864年) を取り上げ, そこにわずかの進展が見られるという。 ク レッシェルが注目するのは, ゴールドシュミットが同書において商慣習 Usance に取り組んでいることである。 ゴールドシュミットは, これを 「商行為に独自の法命題と法制度の内容豊かな源泉」 と見て, 「商慣習はお よそもっぱら中世の商取引を規律した…その若々しい力に商法は」 「とり わけ商慣習の生命力に満ちた発展, ふさわしい新たな規範の成立, 現行の 規範の完成と補充, 時代遅れの規範の排除を負っている」 ( 商法ハンドブッ ク 第1巻第1章233, 235頁 (58) ) という。 ただ, ゴールドシュミットは, プ フタの慣習法論を採用し, 商慣習を広狭二義に区別している。 すなわち, 法命題から生じる狭義の商慣習と, 法関係から生じる広義の商慣習である。 ここに, 法慣習という中世の現象と, 慣習法とが, はっきりと区別されて いる。 ベーゼラーは, 1847年の 普通ドイツ私法体系 で民衆法と法曹法を区 別し, 18351840年の 相続契約論 で法曹法を学説と裁判慣例により形 成された制度とする。 他方, 民衆の習俗と生活関係から生じる民衆法につ いては, プフタとは異なって, それに対応する慣行を必要とした。 慣習 Herkommen は, 法を形成するのに必要な力を獲得するために, 徐々 に習慣づけること die   を必要とする, 長期間継続 する慣行とされる。 また, テール (18071884) は, 1851年の ドイツ私 法入門 で慣習法   について論じた。 ここにはじめて, 日常の法生活に対置される, 客観的法秩序の浸透を見ることになる。 そして, さらに19世紀前半の著作へと進む。 1828年にプフタの 慣習法 論 が刊行されたのとほぼ同時期の1829年に, ルンデの 普通ドイツ私法 原理 第8版と, アイヒホルンの ドイツ私法入門 第3版が刊行された。 両著作の法源論では, 慣習 Herkommen, 契約にもとづくアウトノミー die   Autonomie (ギールケが 「不完全な, 古いドイツ法の理念」 とよんだもの) が, 中心的位置を占め, 両者は密接に関係している。 アイヒホルン (59) はまず, 自ら選んだ法規定に服する自由がローマ法よりも 広くドイツ法の中にあることを強調する。 また, 慣習法は, 慣習

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Gew-ohnheit から導き出されるルールであり, 個々人の行為がいわば第三者に とっても拘束力を持つことになる。 また, ルンデもアウトノミーと慣習法を密接に関係づけ, 「慣習 Her-kommen とドイツ法慣習は, 不文のドイツ私法の源泉である」 とし, 貴族 の家族契約 Hausvertrag を引き合いに出す。 契約により法を設定すること を通じてアウトノミーを行使することが, 慣習とされる。 これは, 民族精 神や法確信に立脚するプフタ以来の慣習法論よりも, 慣行がはる かに大きな意味を持つ普通法上の consuetudo 理論に合う。 慣行は, 効力 を持つためには, 時効の全期間ずっと継続しなければならない。 この他のゲルマニストたちも, 長期間にわたって行使される契約にもと づいた実務の例に注目する。 それは, 例えば, ピュッターの貴族の家族契 約の研究, ストルーベンの ius villicorum の研究, レンネプの Landsied-elrecht の研究, クリスティアン・ルートヴィッヒ・ルンデ (先のユストゥ ス・フリードリッヒ・ルンデの息子) の隠居分 Anteil などの研究である。 ピュッターにとって, 慣習法は, 制定法に優位し, アウトノミーにルー ツをもつ。 それは, 自分の行為と法関係を自ら選んだ規範  に 合わせる自由のことである。 フーゴーは, おのずからつくられるものを大 事にし, ロマニストの民族精神よりも古風な慣習 Herkommen を念頭に置 いた (60) 。 以上のように, 古いゲルマニストたちは, 慣習 Herkommen へと結実す る法律行為の実務を法形成の優位なものとしており, 彼らの慣習法は法生 活の実務に密着した事実上の慣行であった。 それに対して, 事実 から法は生じないとし, 慣習法の概念から慣行を引き離してしまったのは ロマニストのプフタであった。 慣習法の規範的性格は, 歴史法学派とパン デクテン法学の遺産である。

3 アルノルト=ホイスラー往復書簡

本稿の最後には, 2013年にクレッシェルらにより編集・刊行されたアル

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ノルトとホイスラーの往復書簡について記しておこう。 これが刊行される までの経緯はおおむね次の通りである。 1972年ないし1973年に, アルノルト宛の手紙をその子孫が所持している ことを教えられる。 その大部分はバーゼル大学時代の同僚ホイスラー (Andreas Heusler, 18341921) からの30の手紙であった。 さらにアルノル トがしたためた返信がバーゼルの公文書館にあることを教えられる。 そこ でアルノルト=ホイスラー往復書簡の編集を思いついた。 関係者の同意を えて, 手紙の原本 (最後の13通) を譲り受けたのが, 1976年1月6日であっ た。 この後, 大学の移動や新たな企画への着手など, クレッシェルの個人 的な事情もあって作業は中断したが, 2010年1月, 法慣習に関するフラン クフルトでの会議において, ミヒャエル・シュトライスがこの往復書簡に 関心を示し, 新たな作業補助者もえて, 2013年にアルノルト=ホイスラー 往復書簡が刊行されるに至った (61) 。 いま一度, アルノルトとホイスラーの出会いを確認しておこう。 アルノ ルトは, 1855年にバーゼル大学に招聘された。 そのきっかけとなるのが, 1854年に刊行された, 2巻に及ぶ初の大著 ドイツ自由都市の国制史 で ある。 この著作が, バーゼルの市参事会員で教授のホイスラー (父) の目 にとまり, アルノルトはバーゼル大学に招聘された。 アルノルトのバーゼル大学赴任が, 息子ホイスラーを近づけることにな る。 ここでホイスラーの経歴も見ておこう。 ホイスラー (息子) は, バー ゼル大学教授である (62) 。 彼は, まずバーゼルで研究を始め, ゲッティンゲン とベルリンでもそれを継続した。 ベルリンではホイスラーもまたグリム兄 弟と親交をもった。 ベルリンでの勉強の中で, ホイスラーは, ゲルマニス トであるカール・グスタフ・ホーマイアーからごくわずかしか影響を受け なかった (「ホーマイアーは, 愛すべき男だが, 退屈だ」)。 それに対して, ホイスラーは, 回想の中で, チューリッヒ人フリードリヒ・ルードヴィッ ヒ・ケラーというロマニストのすばらしい講義を称賛した。 ケラーは, 1847年以降, かつてのサヴィニーの講座を担当していた。 ホイスラーは, 1856年に博士号の試験に合格し, 彼のベルリン時代は終わった。 バーゼル

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へ戻った後, 教授であり民事裁判所長官であったヨハン・シュネルの勧め で, バーゼル修道院文書館の整理と目録作成の仕事に就いた。 ここでホイ スラーは, 彼自身の証言によれば, 初めて, 彼にとって講義の中では生命 をもたなかった 「古ドイツ私法と…実践的しくみの中で」 出会った。 続い て, ホイスラーが 「この頃に法理論家ヴィルヘルム・アルノルトと親しく なった」 と回顧しているので, アルノルトもこの頃に文書館での仕事に参 加していたことがわかる。 ホイスラーが聖ペーター修道院の文書の目録を 作成せねばならなかったとき, アルノルトは聖レオンハルト修道院の仕事 を割り当てられていた。 2人はこの仕事を通じて独自の研究の示唆を得て いた。 ホイスラーはスイスの破産手続の歴史に関する論文を執筆した。 こ の論文は, シュネルによって, 彼が1852年から編者を務める スイス法雑 誌 に掲載され, ホイスラーは1858年に教授資格論文として用いた。 アル ノルトの業績 ドイツ都市における所有権の歴史 もはじめはホイスラー と同じようにこの雑誌のためのものとして予定されていた。 しかし, シュ ネルは, 大規模で (彼が見る限り) 古事学的な 「ドイツ式の成果」 をスイ ス人の読者が好むと思われず, その結果, 1861年に著書として刊行された。 ホイスラーが時折アルノルトの教室を訪れたこと (手紙18), 文書に関 する共同研究あるいは大学での教師の仕事 (1858年よりホイスラーはバー ゼル大学で民事手続法を担当することとなった) が2人の友情を確かなも のとした。 アルノルトが故郷ヘッセンに戻ってからも, 彼が亡くなる1883 年まで親交が続いた (63) 。 この 「アルノルト=ホイスラー往復書簡」 には, 1858年から1883年の間 に2人の間で交わされた59通の書簡が収められている。 バーゼル大学での 同僚時代から, アルノルトがマールブルク大学へと移り, 彼の死まで続け られたことになる。 数えてみると, 内訳は, アルノルトからホイスラー宛 は29通, ホイスラーからアルノルト宛は30通である。 手紙の内容は, 家族, 健康, 講義, 学問・研究, 政治のことなど多岐にわたる (64) 。 2人の学問業績に関して言えば, 中心的なテーマは, 中世都市の国制で あった。 ホイスラーは, アルノルトの 自由都市の国制史 (1854年) を

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思い浮かべながら, 都市バーゼルの国制史 (1860年) を執筆した。 同じ ことは, ホイスラーの ドイツ都市国制の起源 (1872年) にも言える。 この著書の刊行は, アルノルトを喜ばせたらしい (手紙35)。 また, アル ノルトが1877年に 国制史 新版の問題に立たされたときにも (手紙45), ホイスラーは, 説明を要すると思われるポイントを, アルノルトに伝えて いる (手紙46)。 さらに, 彼らは, 1863年に亡くなった, 彼らの助言者ベー マーに対する感謝を込めた追悼においても (「私たちの, 永遠のベーマー」 手紙7。 また, 手紙12, 13も参照), カール・ヘーゲル, ゲオルグ・ルート ヴィッヒ, そしてゲオルグ・フリードリッヒ・ニーチェのような評論家を 拒否することにおいても (手紙36), 一致している。 ホイスラーは, アルノルトの 文化と法生活 (1865年) も賛同をもっ て読んだ。 なぜなら, ホイスラーは, かつてバーセル修道院文書館での仕 事の際に議論した問題 (手紙18) を, その中に認めたからである。 しかし それにもかかわらず見過ごしてはならないのは, 2人の学問上の道が, 徐々 に, 別々の方向に離れて行ってしまったことである。 例えば, アルノルト はどうやらホイスラーの大著 ゲヴェーレ (1872年) をほとんど扱って いないように思われる (手紙37)。 ホイスラーも, すでに, それがアルノ ルトにはあまり気に入られなかったと考えている (手紙38)。 ホイスラー 自身, アルノルトの 定住と移住 (1875年) に対して, みずからの言語 研究の無知を認めている (手紙40)。 アルノルトの ドイツ史 に関して は, ホイスラーははっきり賛同をもって読んだ (手紙52)。 しかし, アル ノルト (1883年に死去) は, ホイスラーの大著 ドイツ私法提要 (1885 / 86年) に接することはもはやできなかった。 また, はやくも1863年にホイスラーは, 当時, 法制史研究において領域 形成 Territorialbildung の重要な点について妥当で明快な説明に到達して おらず (手紙8), アルノルトのランデスホーハイトの歴史の研究計画を 励ましている (手紙40)。 残念ながら, この計画が実行されることはなかっ た (手紙42, 47 (65) )。 さて, 上記では, 学問に関する手紙のやり取りの中でホイスラーの ゲ

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ヴェーレ にアルノルトが関心を示していないことに触れた。 じつは所有 権概念をめぐっては, アルノルトとホイスラーの見解は対立しており, こ れを見ておくことは, ドイツ法史上の 「ゲルマン・イデオロギー」 を知 るためにも重要である。 最後に, この点について, クレッシェルの別の論 文 (66) から確認しておこう。 周知のように, 所有権について2つの考え方がある。 つまり, 無制約で 全面的な支配とするローマ的所有権概念と, 制約があり分割可能とするゲ ルマン的所有権概念である。 中世イタリア法学でも, この分割所有権と包 括的支配権としての所有権 (絶対的所有権概念) の2つの考えが存在した。 これはさらに, 17世紀の 「パンデクテンの現代的慣用」 の学説, 18世紀の プロイセン一般ラント法などの法典にも継承された。 しかし, 19世紀に入ると, 分割所有権理論は批判の的となり, ローマ的 所有権概念が採られた。 それは, ブルンスやベッキングなどの反対者もい たが, ティボー, サヴィニー, プフタ, そしてヴィントシャイトによって 定式化されることになる。 これには, 当時の立憲主義, 自由主義といった 思想が背景にある。 では, このようなローマ的所有概念に対置されるゲルマン的所有権概念 は, どこから, どのように出てきたか。 まず, ドイツ法に関する最初の著 書は1791年初版のルンデの著書であるが, ここには, ゲルマン的所有権概 念の主張や, それとローマ的所有権概念の対立は見られない。 ルンデ以前 の1757年のゼルヒョウの著書でも同じである。 19世紀に入っても, 例えば, 1823年のアイヒホルンの著書でも所有権は 「それ自体としては無制限」 と される。 このような状況が変化するのは, 1828年にアルブレヒトが刊行し たゲヴェーレに関する著書からであり, その後ベーゼラーをはじめとする ゲルマニストたちによってゲルマン的所有概念が主張されていった。 そし て, アルノルトの ドイツ都市における所有権の歴史について 文化と 法生活 ローマ人の文化と法 , やギールケの ドイツの法人概念の歴史 により, ゲルマン的所有概念が最終的に確立されていった。 しかし, クレッシェルが注意を向けるのは, このようなゲルマン的所有

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概念の史料根拠がない, ということである。 例えば, ホイスラーは, 1885・ 1886年の ドイツ私法提要 で, 予断にとらわれず史料を検討した結果, アルノルトやギールケとはまったく異なる所有権像を描いた。 彼の所有権 概念は, ローマ的所有権概念であった。 こういったことからクレッシェル は, ゲルマン的所有権概念は, 歴史研究の成果というよりも, 法政策上の 信念であった, という。 ゲルマン的所有権概念は, ローマ的所有概念およ びそれに立脚する自由主義的法治国家の所有概念と対立し, ブルジョワ法 に対する批判として援用されたものであった。

お わ り に

以上, 二次文献より, アルノルトに関する情報をまとめた。 プロフィー ルからわかるように, 彼は, 研究者として, 中世史研究に関する多くの業 績を残したが, これらはグリム兄弟などの影響を受けたものもあった。 こ の点に関して, 学問的または私的な交流関係も興味深い。 また, 歴史法学 派の民族精神を継承しながらも, それに飽き足らず, より具体的に, 法と 経済・社会の関係を問う, いわば法社会学研究の先駆といえるものを残し ている。 また, ドイツ法の大家ギールケに影響を与えた点でも, 世代を媒 介する役割を果たしたと言えよう。 さらに, 中世法に関する論争の中で, クレッシェルに 「法慣習」 という語を与えたという意義も大きいであろう。 現在, 上記の論争を通じて, 近代的な法理解とは異なる, 中世における法 のあり方を理解する上で, 慣習法とは区別された法慣習という語は, 法史 研究上のキータームとなっている。 また, 所有権概念に関しても, ゲルマ ン・イデオロギー解明の一つの手掛かりを与えていた。 雑駁ながら二次文 献から分かることは, これまで必ずしもメジャーな人物とはなってこなかっ たアルノルトにも多方面からアプローチする可能性があるということであ る。

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(1) Karl Kroeschell, Ein Vergessener Germanist des 19. Jahrhunderts. Wilhelm Arnord (18261883), in: Festschrift Hermann Krause, (Hrsg.) Sten    Schlosser/Wolfgang Wiegand, , 1975, S. 253ff. 同論 文については, 参照, 西村稔 知の社会史 木鐸社, 1987年, 157頁以 下。

(2) Karl Kroeschell/Drothee  (Hrsg.), Briefwechsel Wilhelm Arnold - Andreas Heusler, Frankfurt am Main, 2013.

(3) Vgl. Kroeschell (Anm. 1) S. 255261 und Kroeschell (Anm. 2) S. 3 f. (4) 当時, アルノルトの父親は司法官試補 Justizamtsassessor であった。

彼は, 18401848年にはカッセル市長  となり, 最後 はヘッセン選帝侯国信用金庫総務部枢密参事官 Geheimer Regierungsrat Direktionsmitglied der kurhessischen Landeskreditkasse となった。 (5) アルノルトは, 1861年の ドイツ都市における所有権の歴史 ではヴィ ルヘルム, 1865年の 文化と法生活 ではヤーコップの思い出を記す。 この交流がアルノルトの研究を豊かなものにした。 それは例えば, バー ゼル時代の 「古ドイツセミナー」 や, ヤーコップから示唆を得た1871年 の 定住と移住 である。 (6) 史料はダルムシュタット都市文書館に保管されていたヴォルムスの記 録であり, アルノルトは, 中世ドイツにおける都市の自由は, 自由都市 の裁判共同体の創設により成立したとする。 これに対する批判がないわ けではなかったが, 全体としてきわめて好意的に受け止められた。 ラン ケは, バイエルン国王マキシミリアン2世にアルノルトをミュンヘン大 学の法制史の教授に推薦したが, これは叶わなかった。 (7) 彼も, かつてのアルノルトと同じように, 1855 / 56年にグリム兄弟の 家に出入りしていたが, まもなくバーゼルに戻った。 (8) この後, 息子のホイスラーは, 1858年に民事訴訟法の講師となる。 1860年の 中世における都市バーゼルの国制史 は2人が学問的にいか に近くにあったかを示している。 ホイスラーは, 彼の ドイツ都市の起 源 で, ドイツ自由都市の国制史 におけるアルノルトの見解にはっ きりと同意している。 (9) シュネル (Johannes Schnell, 18121889) は, 1837年よりバーゼル大 学でスイス民法と刑法を教える。 1852年に スイス法雑誌 を創刊する。 (10) これは, 文書館での仕事の際に聖レオンハルト修道院の史料を利用し たものである。 しかし, 長く民事裁判所の長官を務めた実務志向のある

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シュネルから見ると, アルノルトの古びた研究は実りなきものに思われ た。 彼は, アルノルトを評して, 退屈でペダンティックな学者で, 史料 に史料を重ねて, なんの成果にも到達しない, という。 シュネルは, ア ルノルトの研究は スイス法雑誌 にはふさわしくないと判断し, 結局, アルノルトの研究は1861年に単著として刊行された。 この著書にはすで に, 法を, それを基礎づける経済的, 政治的要因 (「新しい自然法」) と ともに考察することが意図されている。 アルノルトは, ヴィルヘルム・ ロッシャーに同意し, より深い根源の解明を国民経済学に期待している。 (11) アルノルトが担当していたバーゼル大学のゲルマン法講座は, ホイス ラー (息子) が引き継いだ。

(12) Gerd Kleinheyer/Jan  (Hrsg.), Deutsche und   Juristen aus neun Jahrhunderten, 6. Aufl., Heidelberg, 2017, S. 495. (13) 例えば, 地名研究でアルノルトに言及するものに, 増田四郎 西洋封 建社会成立期の研究 岩波書店, 1959年, 387頁。 また, 都市における 自由借地の成立について, 林毅 「ケルンにおける自由世襲借地 freie Erbleihe」 西洋中世都市の自由と自治 敬文堂, 1986年, 所収。 (14) ハンス=ペーター・ハーファーカンプ (守矢健一訳) 「19・20世紀の民 事法ドクマーティクにおける, 生との連関」 日独法学 2729号 (2012年), 70頁。

(15) Hans-Peter Haferkamp, Die Historische Rechtsschule, Frankfurt am Main, 2018.

(16) Haferkamp (Anm. 15) S. 318 f.

(17) Zit. nach Haferkamp (Anm. 15) S. 319. 今回, アルノルトの著作などの 言葉は二次文献による (以下でも同様)。

(18) Haferkamp (Anm. 15) S. 319 f. (19) Kroeschell (Anm. 2) S. 1.

(20) Albert Janssen, Otto von Gierkes Methode der geschichtlichen Rechts-wissenschaft. Studien zu den Wegen und Formen seines juristischen Denkens,,1974.

(21) Kroeschell (Anm. 1) S. 253 f. und Kroeschell (Anm. 2) S. 1.

(22) ヤンセンの著書については, クレッシェルが参照している箇所 (108 頁以下, 171頁以下) のみに言及する。 Vgl. Kroeschell (Anm. 1) S. 254 n. 5.

(23) Janssen (Anm. 20) S. 171180.

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の方法を個別から普遍に進む分析的方法にあるとする。 ヘーゲル哲学に 反対。 参照, 岩波書店編集部編 岩波西洋人名辞典 増補版 岩波書店, 1981年, 941頁。 (25) ギールケもまた, ヘーゲル哲学に対して, アルノルトと同じ異議申立 てをしており, いくつかの外在的な理由からみてもトレンデレンブルク はギールケに対しても影響を与えたと思われる。 ただ, これはアルノル トのように明瞭ではない。 ヤンセンはまず, この影響を推察する根拠と して, アルノルトに対するトレンデレンブルクの影響, ギールケの師匠 であるベーゼラーとトレンデレンブルクの交流, ギールケと交流のあっ たディルタイがトレンデレンブルクの徒と知られていること, ギールケ 自身 ドイツ私法 第1巻112頁注1でトレンデレンブルクの 倫理に もとづく自然法 を参照していることを挙げる。 しかし, これに加えて, トレンデレンブルクとギールケの考えが実質的に一致していることとし て, トレンデレンブルクの, 理性と歴史の対立の克服, 歴史的法と理性 的法の結合をという哲学と, 帰納により一般原理へといたる方法論を指 摘し, これがギールケの哲学と方法論とも完全に一致するという。 (26) ライプツィッヒ大学で生理学, 医学, 哲学を修める。 1842年にライプ ツィッヒ大学哲学科助教授, 1844年にゲッティンゲン, 1881年にベルリ ンで各大学の教授を務める。 当時の自然科学的思潮と思弁哲学を調和し た新たな形而上学を樹立した。 自然科学的には厳密な因果的機械観をと るが, 自然過程は神が最高善を実現するための手段であり, 神の下に統 一されているとする目的論的観念論を哲学的立場とした。 参照, 岩波書 店編集部・前掲注 (24) 1736頁。 (27) ヤンセンは, ロッツェの名はギールケの著作に確認できないとしつつ も, ロッツェの哲学的関心はギールケの精神科学の理解と適合する, と いう。 ギールケもロッツェ哲学の前提から出発しており, 自然科学の認 識を精神科学に適用するというロッツェの試みは, ギールケの客観性の 追求に対応する。 (28) ロッシャー, クーニース, ヒルデブラントによりつくられた歴史学派 に属する, ギールケの友人であり, 後にベルリン大学で同僚となるシュ モラーは, オーストリア学派メンガーに対して, 国民経済学における歴 史的方法を擁護した。 これと同じことが, ギールケとラーバントの論争 にもいえる。 シュモラーとギールケの目標設定ははっきりと一致してい る。 2人は, 同時代の哲学に関しても, ディルタイの 精神科学入門 に取り組み, そこに経済学と法学のそれぞれの方法の哲学的基礎を見出

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している。 (29) イェーリングが, 個人・社会の利益・目的の考察を本格的に始めるの は, ローマ法の精神 の後に刊行した, 法における目的 からである。 参照, 平田公夫 「ルドルフ・フォン・イェーリング」 勝田有恒・山内進 編者 近世・近代のヨーロッパ法学者たち ミネルヴァ書房, 2008年, 343344頁。 (30) Janssen (Anm. 20) S. 178180. (31) Janssen (Anm. 20) S. 108113. (32) Zit. nach Janssen (Anm. 20) S. 110. (33) Janssen (Anm. 20) S. 111. (34) ギールケは, 支配機構としての国家概念から法を引き出す法律学的・ 形式主義的傾向に反対して, 「国家における倫理的=法的な共同体の側 面」 「法におけるフォルクの倫理的意識側面」 の復権に関心があった。 参照, 村上淳一 ゲルマン法の自由と誠実 東京大学出版会, 1980年, 136141頁。 (35) カール・クレッシェル (佐々木有司・平田公夫訳) 「ゲルマニスティッ クの法学と歴史法学派」 ドイツ近代の意識と社会 河上倫逸編, ミネ ルヴァ書房, 1987年, 所収, 9596頁。

(36) Karl Kroeschell, Deutsche Rechtsgeschichte, Bd. 3 : Seit 1650, 5. Aufl., Weimar/Wien, 2008, S. 185 f. (37) リーチェルの研究については, 林・前掲注 (13) 187頁;村上・後掲 注 (54) 574頁以下に紹介がある。 いずれも, 自由な借地の成立に関し て, 通説を批判した1901年の論文に言及する。 (38) Kroeschell (Anm. 1) S. 264. (39) Kroeschell (Anm. 1) S. 264 f. (40) Kroeschell (Anm. 1) S. 265269. (41) Kroeschell (Anm. 1) S. 269272. (42) Kroeschell (Anm. 1) S. 272274. (43) Zit. nach Kroeschell (Anm. 1) S. 273. (44) Zit. nach Kroeschell (Anm. 1) S. 273. (45) Kroeschell (Anm. 1) S. 274.

(46) これは, 1990年に開催されたドイツの法制史学会文化会のテーマであ り , そ の 成 果 と し て , Gerhard Dilcher et. al., Gewohnheitsrecht und Rechtsgewohnheit im Mittelalter, Berlin, 1992 (筆者未見) がある。 参照, ゲアハルト・ディルヒャー (海老原明夫訳) 「慣習法の理論―旧ヨーロッ

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パから近代へ」 法の近代とポストモダン 海老原明夫編, 東京大学出 版会, 1993年, 所収, 118119頁。

(47) Karl Kroeschell, Der Rechtsbegriff und Rechtsgeschichte, in : ZRG GA 111 (1994), S. 310329.

(48) 現在の記述は, Vgl. Karl Kroeschell/Albrecht Cordes/Karin Nehlson-von Stryk, Deutsche Rechtsgeschichte 2, 12501650, 9. Aufl., 2008, S. 8688. (49) Kroeschell (Anm. 47) S. 313 f. (50) 中世法の論争およびクレッシェルの見解については, 村上淳一 「「良 き旧き法」 と帝国国制 (1)」 法学協会雑誌 90巻10号 (1973年) 1241 頁以下;西川洋一 「カール・クレッシェル 中世の国制史と法制史 翻 訳と解説」 国家学会雑誌 97巻 7・8 号 (1984年) 530頁以下;カール・ クレッシェル (西川洋一訳) 「12世紀における法と法概念」 石川武監訳 ゲルマン法の虚像と実像 創文社, 1989年, 所収などを参照。 論争の要約 として, Johannes Liebrecht, Das gute alte Recht in der rechtshistorischen Kritik, in : Funktion und Form : Quellen- und Methodenprobleme der mittelalterlichen Rechtsgeschichte, (Hrsg.) Karl Kroeschell/Albrecht Cor-des, 1996, S. 185ff. また, 近年の歴史学方法論の動向と関係づけてクレッ シェルの法慣習を説明するものとして, 西川洋一 「「パフォーマティブ・ ターン」 の中の中世国制史」 国家学会雑誌 131巻 1・2 号 (2018年) 1頁以下。

(51) Kroeschell (Anm. 47) S. 314. Vgl. Kroeschell (Anm. 2) S. 1. (52) Zit. nach Kroeschell (Anm. 47) S. 314 n. 15.

(53) Kroeschell (Anm. 47) S. 314 n. 15. (54) これは農村における自由な借地の成立について論じたものである。 ク レッシェルが同年に発表した別 の 論 文 Rodungssiedlung und   とともに, クレッシェルの説を紹介するのは, 村上淳一 「中世農 民の 「自由」 な借地について」 法学協会雑誌 82巻5号 (1966年) 573 頁以下。 (55) Kroeschell (Anm. 47) S. 315319. (56) Kroeschell (Anm. 47) S. 323. (57) Kroeschell (Anm. 47) S. 323.

(58) Zit. nach Kroeschell (Anm. 47) S. 323.

(59) アイヒホルンの法源論については, 参照, 村上淳一 ドイツ市民法史 東京大学出版会, 1985年, 3638頁。

参照

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