クララ・ツェトキン研究序説 : わが国におけるC.ツェトキン研究の史的素描(1)
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(2) . ク ラ ラ・ ツェ トキ ン 研 究 序 説 1 ) -- わが国における C・ツ ェ トキン研究の 史的素描 (. 大. 目次. 崎. 功. 雄. -. はじめに 1. 戦前日本におけるクララ・ツェ トキンの紹介 (本号). 1 1 戦後日本におけるクララ・ツェ トキン研究の動向 (継続) は じ め に. 1 933年6月 20 日, クララ・ツェ トキンは, 76回目の誕生日 (7月 5 日) を 半月後にして, プロ 83年はクララ没後50周年, 本 レタリア解放 運動に捧げたその生涯をモスクワの地で閉じた. 明19 年19 82年は生誕125周年に あたる. 人間は, 個人としても階級の一員としても歴史と共に生き, 又, その歴史を創造する. 歴史上に は, その時代の諸困難の由って来たるありかを究明し, 国民と人類の未来のために, その時代の課 題の解決を通じて寄与した一群の人々 がいた。 クララ・ツェ トキンもそういう人々の一人であっ た. 彼女は後発資本資本主義 ドイツが急速に独占資本 主義へと成長する時代に青春を過ごし, 国際的 帝国主義戦争と社会主義革命の時代に生きた女性である. しかも, 女性であることによ って, 資本 を統一した課題として解明し 主義固有の女性問題と正面から取り組み, 婦人解放と社会変革と・ . , そ の実現のために特別のエネ ルギーを注いだ人物でもあっ た. 又, 世界が戦争か平和かの大きな岐路 に立たされた時, 断固として帝国主義戦争に反対し勤労人民が平和のために闘うこと を要求し, 自 らもその先頭に立っ た人物でもある. SPD) 指導部が帝国主義戦争政策に同調 し, 政府の軍事費増大要求に賛成し ドイツ社会民主党 ( 914年8月にも, クララ・ツェ トキンは反戦平和の闘争を ていっ た1 91 3年春にも, 又決定的な時1 一貫して提起し, SPD の社会排外主義と改良主義と訣別して闘うのであった. ファ シ ズムと再度の 帝国主義戦争 が急迫した晩年にあっても, 反ファ シ ズム・平和・民主主義の国際的闘争を提起する の で あ っ た。. 教育学にとって「平和」とは何か. 五十嵐顕氏は, クララ・ツェ トキンの教育論を研究するに 至っ た契機にかかわっ て次のように語っ ている. 「 91 8年の 『戦後』 がどうして1945年の 『戦前』 へと変化したのかと い 194 5年の 『戦後』 は, 1 う歴史的関心を私の中に呼びおこした. そして, 戦前私らがならった教育学教養のおもな材料と なっ ていた ドイツの教育の中に, 当時私らが夢にも知らなかった反戦平和の教育, 反ファッショ の低抗と結びついた民主々義教育の戦闘的な潮流のあったことをすこしずっ知るようになった. . ◎. 11.
(3) . 大 崎 功 雄 簡 単 率 直に い え ば, ツ ェ ト キ ン に つ い て も, ヘ ル ン レ に つ い て も, レ ー ニ ン に つ い て も, そ の 教. 育論に関心をよせたのは, 私が生まれ, 育ち, 働き, 過失をおかしたりしてきたこの20世紀前半 を, 教育学の問題として少しでも確実に知り, その中の自分 を少 しでも確知 したいため であっ た」( . ). 教育において, したがって教育学において, 「平和」 は常識的でさえあるが, 「平和」 を実現する ことは人類の常識を越えた特別の努力によっ てのみ可能となる. 「平和」という人類的価値が本来の 意味において国民と人類の常識へと昇華するには,研ぎ澄まされた,原則的な努力を不可欠とする. .わけ 教育学においては 教育目的としての平和は統治者としての国民の統治能力の形成を不 とり , , 可欠の基軸としてのみ可能とされる, という日本国憲法の国民主権原理の不断の追究が特に必要と なろう. 五十嵐氏のレーニンやツェ トキン研究への接近は,以上のことだけでは言い尽くせないが, その中核は国と社会の統治者としての国民の統治能力の形成 (国と社会における主体の形成) を教 育の基本的カテ ゴリーとして明らかにし, 教育の相において構造化することにあったといえよう. さて, ツ ェ トキンは, プロ レタリア婦人運動の理論家・指導者, 勤労人民の教育運動の理論家・ 指導者であると同時に,帝国主義下における人民の解放の事業にトータルにかかわった人物である. とりわけ, ドイツ革命後の数年は ドイツ共産党(KPD)の実質的責任者たらざるを得なかっ た. 又, 彼女は文化問題においても有数の理論家であっ た. 要するに, 帝国主義の時代と大ロシア社会主義 革命の時代にあっての人民解放事業にトータルにかかわっ た革命家である. ツェ トキン像を描く場 合, この包括的視点は重要である. それは, 当時代の歴史的課題にかかわっ てのツェ トキンの思想 と理論の果した役割を全体的にとらえることを可能とする. それは, 又逆に, ツェ トキンが解明す ることの相対的に少なかっ た問題を浮かび上がらせることも可能とする. ドイツにおける経済発展 と階級構成, さらに国家権力とその支配機構の原理的かつ動能的解明, 革命の戦略・戦術について の自律的解明, 総じて経済学と政治学におけるツェ トキンの理論的自覚のありようは如何にとらえ たらよいか, という問題をツェ トキン研究において提起可能とさせるのである, 歴史研究において, 特定の人物が研究対象とされる場合, 既に研究者主体の歴史的条件と彼自身 の課題把握によって人物像が規定さ れるが, そう であればこそ, 包括的・トータルな人物研究を想 定しての切り口の個別性が問われる であろう. 研究する側 が彼自身の時代との格闘を通じて研究を 定立させるわけであるから, 発展的な個別的切り口が当然にも成立するのであるが, それは対象と する人物とその時代へのトータルな視 点を不断に持ち続けることを要求するものである. クララ・ツェ トキンは, わが国においてはどのように知られ研究されてきたのであろうか. 偶然 というべきか, ツ ェ トキン没後5 0周年という年を前にして, 筆者は彼女の家庭教育論に関する著作 や演説の邦訳と解説の仕事を依頼された. 筆者がその任にふさわしいかどうかは別にして, その予 備的仕事として, ツェ トキン研究史を断片的ではあるが整理してみたい. このノートは, わが国に おけるツェ トキンの知られ方,研究の状況をとりあえずまとめるという類いのものである.したがっ て, ドイツ本国における研究状況も含めての史料的検討, およびツェ トキン自身の教育史的検討に ついては稿を改めたい.. 12.
(4) . わが国におけるツェ トキン研究の歩み (1). 1. 戦 前 日 本 に お ける ク ラ ラ ・ ツ ェ ト キ ン の 紹 介. 1 ( ) C・ツェ トキンはどのようにしてわが国に紹 介さ れたか. 「き みは, 酒 を の ま な い の か い」. 「いいえ一 「ロ ー ザは, 酒 の つ よ い 女 だ っ た よ」 「ロ ー ザ っ て, ル ク セ ン ブ ル グ です か」. 「ああ. アムステルダムの会議では, ローザが僕の通訳をしてね-あれは素晴らしい女だっ た. 火 み た い な 女 だ っ た. 朝 っ ぱ ら か ら葡 萄 酒 を の ん で, い つ も ほ る よ い き げ ん な ん だ が, そ う. いう時のあの女の頭の冴えようときたら, 男がたじたじだった」 面 影 がよ み が え っ て そ こ に あ る と いう よ う な, 話 し ぶ り だ っ た.. 「わたしたちは, ひさし髪に結っ て, 白い ブラウスを着たロー ザの写真しか知 らないけれど」 「あ の 女 は た い した も の だ っ た. ク ラ ラ も そ の 時 会 っ た が, ロ ー ザ に く らべ る と ク ラ ラ の 方 は. ずっ と常識的な女だ」 「ツェ トキンですか?」 「ああ, あれは常識的な女だ」 伸 子 は, 山 上 元 の 話 し ぶ り を 軟 か に ニ ュ ア ン ス の 深 い こ こ ろ も ち でき い た. た た か い の う ち に70歳 に な っ た こ の ひ と が, こ ん な 新 鮮 さ でロ ー ザ を 思 い お こ して い る こ と に, 伸 子 は 心 に. ふれて来るものを感じた. クララ・ツェ トキンとのくらべかたも, 男として山上元のうちにあ る婦人への好みが知らず知らずあらわれている. おそらく 多忙なこの人にとって, まれなくつ ろぎのひととき, どんな公の関係もない伸子のようなもの をあいてに, こういう昔話も出る, それら全体の雰囲気を伸子はよろこびをもって感じた (宮本百合子 『道標』 第3部, 『宮本百合 98 0年 417~41 子全集』 第8巻 新日本出版社 1 8頁) . 19 30年のある春の日の午後, 伸子こと百合子が山上元こと片山潜を彼の宿泊するモスクワのトゥ ウ ェ ルス カ ヤ 通 り の 上 に あ る リ ュ ッ ク ス・ホ テ ル に た ず ね た 時 の,く つ ろ い だ 語 ら い の 中 の 一 節 であ. 19 32年アムステル ダムにお る. 『道標』第3部が書かれたのは1950年のことである. 又片山潜は, 「 ける反戦世界大会における演説」 で, 1 904年9月の第2イ ンターナショナル・アムステルダム大会 で彼の演説を C・ツェ トキンと R・ルクセン ブルクが通訳してくれたを回顧 している (片山潜『白伝』 2 ) 百合子は その前に片山潜から聞いていたのである 岩波書店 314頁)( . , . クララ・ツェ トキンと直接面識をもった日本人は, おそらく片山潜がはじめてであっ たろう. そ して, その時期は190 4年 (明治37年) 日露戦争勃発直後, 日露の社会主義勢力の代表 (片山潜と G・V・プレハーノフ) が相互に侵略戦争反対を誓い合った劇的な時であっ た. わが国の労働運動史 5歳, クララ・ツ ェ トキ や社会主義運動史の推移からみて, 決して遅くはない時期 である。 片山潜4 ン 47 歳 であ る. クラ ラ . ツ ェ ト キ ン の わ が 国 へ の 移 入 の 歴 史 に つ い て は, お そ らく わ が 国 に お け る ツ ェ ト キ ン 研. 究の第一人者である伊藤 (松原) セツ氏がその著 『クララ・ツェ トキンの婦人論』 (啓降閣1969年) の 「はしがき」 や 「解題」 の一部 で既に触れているところである. 氏自身も述べられているように, クララ・ツェ トキンその人の名は, 国際婦人デーの創始者あるいは著名 な婦人運動家として古くか 13.
(5) . 大 崎 功 雄. ら知られている反面, その人となり, 著作等については部分的・断片的にしか紹介されてこなかっ た. こ の小 論 は, そ う し た 数 少 な い ツ ェ ト キ ン 受 容 の プ ロ セ ス を フ ォ ロ ー す る と い う 点 では 氏 の ,. 触れているところと大筋において重複するのであるが, 異なっ た分野でのツェ トキン研究の進捗の ためには, 極く初歩的なものとしても意味のある ,ことであろう. さて, 片山潜が面識をもち, 宮本百合子が片山を通じて垣間見たクララ・ツェ トキンが日本に紹 介されたのは, 福田英子の創刊した『世界婦人』においてがはじめてと 思われる 1 . 907年10月1日 発行の同紙第18号は, その 「海外時事」 欄に 「今秋のスツツトガルト」 と題して, 第1回国際社会 主義 婦人会議 ( 1907年8月17 日 ~18 日) お よ び 第 2イ ン タ ー ナ シ ョ ナ ル・ シ ュ ト ゥ ツ ト ガ ル ト 大 会( 1 907年8月18 日 ~24 日) の模様を報道し, ツェ トキンに ついて次のように紹介している . 『ツェ トキンスの働き振り』 婦人会議は8月17日午前9時開会,クララ・ツェ トキンスは技場一致を以て戦長に推さ れたり, 彼女は社会党の運動には古き歴史と持つ人にて, 今はスツツトガルトなる日刊新聞 『平等』 の 主筆たり, 此新聞の発行高は3年前には1万1千に過 ぎざりしが 翌年は3方3千となり 昨 , , 年は4万6千に増加 し, 目下は毎日6万を発行せり, 此一事独逸に於ける急速なる婦人の覚醒 を知るに足るものあり, ツェ トキンスは3年前和 蘭アムステルダムに於ける万国社会党大会に も出席して演説の翻訳等を助けしが, 今回の大会にも第1日より独逸社会党の首領べ ゞルの長 ー 演説を仏蘭語に翻訳する等, 花々 しき活動を為せり, 又彼女は此一日婦人大会を司会し 演説 , を翻訳し, 其上日刊新聞に筆を執り, 翌日は更に社会党大会に斡旋の労を取るなど非凡の精力 3 驚く可きものありと言う可し」( 1 4 )は シ ュ ト ゥ ツ ト ガ ル ト に お け る 第 2 『世界婦人』 第1 8号および19号 ( 1907年11月15 日)( , インターの大会とそれに先立つ国際婦人会議において議論の焦点となっ た婦人の選挙権問題を報道. しているの であるが, ,婦人の制限選挙権の主張を 「軟派」 と呼び, 婦人の普通選挙権の主 張を 「硬 派」と呼び, 「硬派」が多数を占めたことについて論評抜きに紹介している そのあいまいな態度に . 5 ) ツェ トキンがこの二つの会議の報道とともに紹介さ れた ついては松原氏の指摘どおり であるが( , ことは, わが国における ツェ トキン受容当初の一つの性格を規定するもののように 思われる . クララ・ツェ トキンの名は, 先の婦人選挙権問題における 「硬派」 の見解とは直接に結びつけら れてはいないが, 婦人会議を司会し, しかもその議決を第2インターの大会に斡旋する労をとって いるという報道からみて,「硬派」 , 普通選挙権の主張者とのからみから把握されているといえよう. その限りにおいては正確 である. しかしそれにもかかわらず, 婦人の普通選挙権獲得を社会主義勢 力が共通の課題としなければならない根拠 とその意義については報道さ れることはなかった ツェ . トキンが婦人の普通選挙権を主張するのは, 女権論の立場から ではなく, 資本主義社会における婦 人問題の原理的把握の上に立っ て, 終局的にはプロレタリアートの解放とともに達成される婦人解 放の事業の一 環として, 婦人の政治的解放 の積極的意義とその一段階としての普通選挙権の意義を 6 )そ とらえるからであった. 第2インターの大会 での決議の提案理由を述べたツェ トキンの演説は( , れを雄弁に物語っ ていた. 部分的に抜すいすると, 次のとおり である . 「婦人社会主義者は, 婦人選挙権のことを, それが獲得されれば女性の自由 で調和的な生命発展 と生命活動のまえに立ちはだかっ ているすべての社会的障害をとりはらうことができるというよ うな問題のひとつであるとは評価していません. なぜなら, 婦人選挙権は, そのもっとも深い根 14.
(6) . わが国におけるツェ トキン研究の歩み (1). 源そのもの, すなわち, 人間の, 他の人間による搾取と抑圧の基礎である私有財産制に手をふれ てはいないからです。 そのことは, 政治的にはすでに解放されてはいても, 社会的には隷属 し, 搾取されている男子プロレタリアの状態を瞥見しただけ でわかります. …………ですからわたし たち社会主義者にとって, 婦人選挙権は, ブ ルジョア婦人にとっ てのように 『最終目的』 ではあ りません. しかし, わたしたちは, 婦人選挙権の獲得をわたしたちが最終目的をめ ざしてたたか うなかで熱烈に要求すべき一段階と評価しています」 . 「わたしたち社会主義者は, 婦人に本来的にそなわっている自然権として婦人選挙権を要求する のではありません. わたしたちは, 変革された経済活動, 変革された社会的存在, そして婦人の 人間としての意識のなかに根拠をもった社会的権利としてそれを要求するのです」 . 「………彼女の社会的存在とともに, 彼女の感情や思想の世界も変革されました. 彼女は, 女性 が数百年の長きにわたって自明のこととしてうけ入れていた政治的無権利状態を, ま ぎれもない 不正と感じとめました. 歩みののろい, 苦痛にみちた発展過程をへて, 婦人は, 古い家族生活の 束縛から公的生活の領域にのぼりでたのです。 彼女は, 完全な政治的同権を -- それが選挙にあ らわれているように -- 社会生活に不可欠のものとして,また社会的成人宣言として要求しまし た。 選挙権は婦人の経済的独立にとっ て不可欠の政治的な相関関係に .あります」 . 「わたしたちは, 制限婦人選挙権は, 女性の政治的解放の第1段階というよりはむしろ, 所有階 級の政治的解放の最後の段階だと思います. それは, 所有者の特権であって, 普遍的権利ではあ りません。 それは, 婦人を婦人だから解放するのではなく, 婦人であるにもかかわらず解放する のです」 . したがって, 『世界婦人』から知られるツェ トキン像は婦人運動家としてのそれであるが, その階 級的性格は伺い知 れない. こうした制約は, 当時のわが国の婦人運動や 『世界婦人』 の理論的水準 から生ずるものであると同時に, 同紙の創刊がまさに19 07年であっ て, 国際的なプロレタリア婦人 7 )以来のツェ トキンの理論的展開とプロ 運動の歴史や1 889年の『現代の婦人労働者と婦人の問題』{ レタリア婦人運動の推進について知ることのできなかった事情によるところが大きいといえよう. 創草期のわが国の社会主義婦人運動の後発性からくるところの制約といわねばなるまい. 『世界婦人』 はその第2 0号 ( 19 07年12月15日) において, 再びクララ・ツェ トキンの名 を彼女 の編集する 『グライ ヒハイ ト』 紙とともに紹介している。 「ク ラ・ o チェ トキン女史に依り編輯せらる・社会主義週刊新聞 『平等』 は 其読者4万6千よ ,. り7万人に増加せり, 同紙の本領とする処は, 主として無智なる婦人労働者を教育訓練するに在 り, 従って同紙は婦人組合より熱心に歓迎せられつ)あれり, 亦同紙の附録として, 多大の小冊 8 ( ) 子及チラシ類は一般に配布せられ居れりと」 . ともあれ, クララ・ツェ トキンは, ドイツ社会民主党の古い活動家で, 社会主義婦人新聞 『グラ イヒハイ ト』の編集者で, 「非凡の精力」をもつ婦人運動の指導者として知られることとなっ た。 し かも 『グライヒハイ ト』 の性格規定を 「無智なる婦人労働者を教育訓 練する」 ものとして紹介して いるところから伺えるように, 啓蒙的存在としてのツェ トキン像が描かれよう.. 15.
(7) . 大 崎 功 雄. ( 2 ) クララ・ツェ トキンの著作・演説の翻訳 クララ・ツェ トキンの名 が, 彼女の著作の翻訳とともに登場するのは,1923年3月1日発行の『種 蒔く人』3月号において始めて であろう. ここには, 山川菊栄の筆になる「露独革命と婦人の解放」 9 ) 訳者の解説は次のとおりである と題する訳文が4頁にわたっ て載せられている( . . 「此論文は, ローザ・ルクセン ブルグと並んでぢ虫逸社会民主党及び国際社会主義運動の双壁と称 せられ, 独逸共産党の中央執行委員にして同時に第3イ ンタナショ ナル婦人部幹事長として活動 している. クララ・ツェ トキン女史の執筆に係るもの. ロシアに於ても, ドイツに於ても, 婦人 1月革命は血統と財産に伴ふ一切の特権を廃 は革命に最大の望みを嘱していた.然るにロシアの1 滅し, 筋肉及び頭脳の労働のみを, あらゆる社会的政治的権利の基礎とした. ロシア婦人は家庭 に於ても, 社会に於ても, 男子と平等の権利を得, 母として生産者として, 十分に力を伸ばすこ とが出 来 新社会の最も有用な, 最も尊敬せられている成員 である. が革命後の ドイツ婦人は依 然として奴隷の状態を脱せず, 労働婦人は過労と失業に悩み, 街には売笑婦が充満している. こ の二国に於ける婦人の状態の相違は何に基くかツェ トキンの此論文は是に答へたものである」 ところで, 筆者は寡聞にして, この山川が訳出した 「露独革命と婦人の解放」 の原文をみていな い. ツェ トキンの3巻選集やその他の手許の文献にも該当する論文は収録されていない. 訳出され た内容からみて, この論文の執筆時期は192 2年頃と推定できる. 1~2 1923 年 3月 8 日は, わが国最初の国際婦人デーが開かれた日にあたる. 前掲の 『種蒔く人』 3月. 号は, 無産婦人号, 国際婦人デー記念となっている. (なお5月号は, わが国最初の国際婦人デーの 模様を伝えており, 国際婦人デーの史料的確定に役立っ ている) 既に前年には日本共産党も創立さ れており, 先の福田英子の時代とは異なっている. そう したわが国の背景とツェ トキンの活動の舞 台の推移から, ツェ トキンは単に指導的婦人運動家としてではなく, 明確に共産主義者として,「ド イツ共産党の中央執行委員にして同時に第3イ ンタナショ ナルの婦人部幹事長として」 知られるわ けである. しかも, 国際婦人デーの名とともに知られ, 定着していくこととなる. 以後, クララ・ツェ トキンの著作や演説が少しづつ翻訳されている. 管見するところ, 次のよう な も の があ る.. 0クララ・ツェ トキン. 「労働婦人の統一戦線へ」. 0 「ツ ェ トキンの祝辞」. (以上 『文芸戦線』 第5巻. 0クララ・ツェ トキン, 井沢操訳. 第3号 1928年3月号). 「国際婦人デーは新たなる大衆を募集する」 ( 『戦旗』 第2巻. 第3号 192 9年3月号) 0 ク ラ ラ・チ ェ ト キ ン, 長 野 兼 一 郎 訳. 年 -」 (『文芸戦線』 第6巻. 「カ ー ル・リ ー プ ク ネ ヒ ト と ロ ー ザ・ル ク セ ン ブ ル グ -1919. 第1号, 1929年1月号). 又, ク ラ ラ ・ ツ ェ ト キ ン の 解 説 と し て は,. 『文芸戦線』 第5巻 0近藤栄蔵 「クララ・ツェ トキン (読物)」 ( o田中運蔵. 第3号 1928年3月号). 「婦人革命家列伝」. 0加賀信子 「婦人解放とツェ トキン女史」 (以上 『文芸戦線』 第6巻 第3号 1 92 9年3月号) などがみられる. このようにして, クララ・ツェ トキンがプロレタリア婦人運動家として知られ, あわせて, 婦人 16.
(8) . わが国におけるツェ トキン研究の歩み (1). 問題の科学的認識が徐々に ではあるがわが国の婦人運動に浸透していっ たことは, それ自体, ツェ トキン理解としては一面正当なことであったろう。 又, 啓蒙的でもあっ たといえよう。 しかし, こ のことは, 反面, クララ・ツェ トキンの全体的把握という点では, 一つの固定観念を形成すること になったのではあるまいか。 つまり, ツェ トキンが婦人であることにより, 婦人問題と婦人解放運 動の原則 的認識と指針を形成していっ たこと, 又, とりわけ第3イ ンターナショ ナルにおいて プロ レタリア婦人運動の国際的責任を負っ ていっ たことは, 彼女自身の選んだ道であったのであるが, 同時に, ツェ トキンは一革命家として, 現実の政治的変革と社会的変革に重要な位置を占めていた のであり, この後者の側面の解明が遅延することになっ たのではあるまいか。 とりわけ, 国際婦人 デー と の み ツ ェ トキ ン が結 び つ け ら れ て しま う こ と は, こ の 傾 向 を 強 め る こ と に な る の では な い だ. ろうか. クララ・ツェ トキンの全体的理解という面からとらえるならば, わずかではあるが, 次の三つの 著作と演説がその後邦訳されていることの意義は大きい。 第1は「レーニンの想い出」 , 第2は第3 インターナショナル第5回大会でのツェ トキンの演説, 第3は 「知識人問題」 である。 19 31年12月の 『レーニン研究』 (南北書院) 創刊号および翌年2月の同第2号に 「レーニン の思 ひ 出」 と 題 して クラ ラ・ツ ェ ト キ ン の 著 作 が邦 訳さ れ た。,こ れは, ク ラ ラ・ツ ェ ト キ ン が 1920 年 秋. およ び192 1年6 月 ~ 7 月 に モ ス ク ワ で レ ー ニ ン と 語 り あ っ た 時 の 回 想 を, 1924 年 1 月 末 お よ び 1 0 ) 後半の部分は 25年1月 末の二度にわたっ て綴ったもののうちの前半の部分の訳である.( 1 9 , 1 1 )とともに 水野正次訳『婦人に与ふ』 (共 1 9 25年1月に執筆された 「婦人がレーニンに負うもの」( , 生閣 1 927年)に収録されている.「レーニンの想い出」はその後半の部分が有名になり, 戦後, H・ ポリ ツ ト編, 土 屋保 男 訳『マ ル ク ス・エ ン ゲ ルスoレ ー ニ ンoス タ ー リ ン 婦 人 論』 (国 民 文 庫 1954 年),. 平井潔編訳 『レーニン青年・婦人論』 (青木文庫 19 56年) に収録され, 大方の読者が接することの できるものとなっている. 後半の方が先に訳さ れているということは, 日本における婦人運動ある いは婦人問題研究のあり方を示しているよう で興味あることであるが, その後半部分も含めて, こ の文書はたんに一般的談話の回想というものではなく, 極めて切実な政治的分析の記録である。 とり わけ, 前半の中心は, 192 1年 「3月行動」 における KPD の戦略・戦術についての政治的分析o評 『レーニン研究』 では 「レーニンの思ひ出( 2 価であっ た. ( ) 」 がこの部分に相当する。 それは, ツェ トキンが第3インターナショナル第3回大会 ( 1921年6月 22 日 ~ 7 月 12 日) と第2回国際共産主 義婦人会議に出席のためモスクワに訪れた時のレーニンとの会見録である. (なお「レーニンの思ひ 1 ) 」 と題しての訳は1920年秋モスクワに招待さ れた時のレーニンとの会見記で, 文化・芸術・教 出( 育の問題とポーラン ド問題がその中心となっ ている) 。 「3月行動」 の結果は, ドイツ共産党にとっ ても, 又一時 ドイツ共産党中央委員会から脱退した ツ ェ ト キ ン に と っ て も, さ ら に 第 3イ ン タ ー ナ シ ョ ナ ル 全 体 に と っ て も 死 活 の 問 題 と な っ て い た.. レーニンの分析は圧巻であるが, それらを通じて, ツェ トキンの果たすべき客観的役割が彼女自身 の意図や自覚の有無にかかわらず否応なしに大きくなっていることが読みとれる. ツェ トキン自身 に関してみれば, この意見交換は 「3月行動」 問題についての理論的整理であった. 「3月行動」 を 批判 し て い た ツ ェ ト キ ン は どん な 気 持 で レー ニ ン と 会 見 し て い た か. 邦 訳 に 述 べ さ せ る な ら ば, こ. うである. 「彼は果して, 左翼を固執したであらうか?或ひは又右翼を固持したであらうか? 『3月 暴動』 並びに 『攻撃理論』 を無係件で歓迎しなかったものはすべて, 右翼であり, 日和見主義者だと貼 紙を貼られて居った。 自分 はもどかしさに体を振はせて, 彼のこの問題に対する答弁を待ち受け 17.
(9) . 大. 崎. 功. 雄. た. 事実, 彼の返事の如何は共産党イ ンターナショナルの色々の目的, 行動力は勿論, その存在 すら左右して居っ たのである. 私がドイツ共産党中央委員会を脱退して以来, ロシヤの同志との 通信は絶えてしまっ て, その結果私は 『3月暴動』 及び 『攻撃の理論』 に関するレーニン意向に 関しては, 或ひは懐疑的な, 或ひは助成的な雑多の風聞や憶 測を耳にするばかりであった 私の . 到着二三日後, 彼と長い対談の挙句, 私は次のやうな明確な返答を得た」( , 2 ) ここでは, レーニンの分析を知ること が主題ではなく (それについては上杉重二郎氏が詳細に検 討している( ) . 3 ) , この対談を通じて知られるツェ トキン像が重要である. みられるとおり, 「3月行 動」と KPD の理論, 戦略, 戦術の検討が対談の目的であり, ドイツの運動に責任をもつツェ トキン の誠実な姿が浮かびあがる。 同じく 「3月行動」 を批判したパウ ル・レ ヴィ とクララ・ ツェ トキンとに対するレーニンの評価 の違いは一考を要する. 「我々 が採るべき戦術の根本は 貴女が 〔ドイツ共産党……引用者〕 中央委員会に提出した決議文 を明瞭に述べてあります. あの決議は, パウル・レヴィ 一のパンフレッ トとは異なり, 些も否定 1 4 ) 的でなく, あの批判は徹頭徹尾肯定的だ. …」( 「私は彼 〔レヴィ -…引用者〕 に, 孤独癖と自己満足の傾向と並びに文学的虚栄の影がありはし まいかと怪しま ざるを得ない。 成る程, 3月暴動に対して卒直な批判は己むを得なかったらう . けれども, パウル・レヴィ 一の言ふ所は何 であったか?彼は実に党そのものを粉砕して居る 彼 . は実は批評して居るの ではなくして, 一方晶 き で, 誇張的で, 波糟でさ へある 彼は党が利用し . 得られるべきものを何一つ与へていない. 即ち彼には党との連帯精神 が欠けて居る」( , 5 ) われわれは, ここに, 同じく「3月行動」 に批判的であっ たツェ トキンとレヴィ の相違と 又彼ら , の人柄・資質の相違をみてとることができよう クララ・ツェ トキンが幾多の困難の中 で復元力を . もっ て前進していっ たその資質を伺い知ること ができる。 「そんなことよりも〔KPD およ び第3インター内での陰口や非難をい ちいち気にすること……引 用者〕 あなたは絶えず労働者達, 社会大衆に目をつけて居っ て下さい, クララさん 絶えず彼等 . に同情し, 我々 の達成すべき仕事に目を注い でいらっ しゃ い. さうすれば, こんな些細な問題は 眼前から消滅します」( . 6 ) さて, 「レーニンの思ひ出」 が邦訳された意図は筆者にはわからないが, その主題は 「3月行動」 と KPD の理論, 戦略, 戦術の分 析であっ た. 「3月行動」 と 「攻撃の理論」 の俊別 KPD 多数派の , とっ た 「攻撃の理論」 の幻想性, 「3月 行動」 は中部 ドイツの労働者たちが 「ブルジョ アの手下共に 喧嘩を売ら れて, 闘っ たのだ」 という批判的o調和的・同情的総括, ツェ トキンの KPD 中央委員会 脱退の誤まりとその経緯における KPD 側の誤まり,等々 レーニンの分析は明快 である ドイツ革命 . 史研究者にとってはそのまま研究への糸口ともなる しかし, この邦訳が日本の読者にとってもつ 。 意味は, 前衛党の組織論, 党の戦略・戦術にかかわる問題でもあったろう 以上のことをひとつひ . とつ立ち入ることは, この小論の課題 ではない。 問題は, これらの事柄が敢えてクララ・ツェ トキ ン と の 対 談 で行 わ れ, ク ラ ラ ・ ツ ェ ト キ ン を 通 じて 述 べ ら れ て い る こ と ツ ェ トキ ン が そ れ を も の , に して い る こ と であ る。 婦 人 運 動 の み な ら ず, ドイ ツ 革 命 運 動 の トレ ー ガ ー と して の ツ ェ ト キ ン が , 18.
(10) . わが国におけるツェ トキン研究の歩み (1). そこ では レ ー ニ ン に よ っ て 期 待 さ れた の であ っ た.. では, 何故期待され得たのか。 既に, レヴィ との比較においてレーニンが語っ ていたツェ トキン の資質がその根拠であろう. それは, 労働者大衆の苦悩に注ぐ目であり, 「党との連帯精神」であっ た. 先 に, 宮 本 百 合 子 を 通 じて, 片 山 潜 が, ク ラ ラ・ ツ ェ ト キ ン を ロ ー ザ リ ル ク セ ン ブ ル ク に 比 し. て 「ずっ と常識的な女」 ととらえたことをわれわれはみたが, その常識性は婦人に対する片山 (あ る い は 百 合 子) の 好 み の 問 題 であ っ た. し か し, こ こ で レー ニ ン (あ る い は ツ ェ ト キ ン) の 言 葉 を. 通じて照らし出さ れるツェ トキン像は, 言葉の本来の意味で自己本位にならぬ 「常識的な人間」 で あるとみることは, 読み込み過 ぎであろうか? ともあれ, 邦訳 「レーニンの思ひ出」 は, その読者層が誰であったかを問わず, これまでのプロ レタリア婦人運動家ツェ トキンという像を,一歩も二 歩も深め,革命運動のトレーガーとしてのツェ トキン, したがって包括的クララ o ツェ トキン像を描かせる契機となり得るものであっ た。 次に, 第2の邦訳文献に移ろう。 1932年5月 20 日発行の 『コミンテルンoプロトコール全集』 第 3冊(白揚社)がそれである. これには, 1924年6月 24 日, 第3インターナショナル第5回大会第 1 1会議に お け るク ララ・ツェ トキ ンの ドイ ツの情 勢につ いての 演説 が収 録さ れて い る (同 書 165~213 頁). 内 容 は 1923 年 10月 の KPD の 敗 北 と 統 一 戦 線 の 戦 術 に つ い て であ る. こ こ では「3. 月行動」においてとった態度を批判的に発展させ, 10月以前, ルール地方における革命的情勢に対 する連帯的行動, 統一戦線の戦術を駆使しなかっ たことに端的に示さ れる KPD 中央委員会の立場 が10月の敗北を招いたと, ツェ トキンは断じている。 ツェ トキンの分析はこれ又ドイツ革命運動史. 研究の視 点形成になるもの であるが, そしてそれはより詳細に吟味されなければならないが, 革命 運動の全体的トレーガーとしてのツェ トキン像を描かせるものである。 とりわけ,SPD の影響下に ある労働大衆,あらゆる階層の人民との結合を強力に推し進めるというツェ トキンの統一戦線論は, 社会民主々 義主敵論への方向をとらないもの であり, この時期の反ファ シ ズム運動研究に興味ある 視点を提供するものであろう. ツェ トキンを運動のトレーガーとしてとらえる時, 問題の多面的接 近を可能とさせる。 第3の邦訳は, 『社会科学』 (改造社)1 928年11月号に載った「クララ・チェ トキン『有識者問題』」 1 7 ( 〉 であ る。 こ れ は, 1924 年 7月 7 日, 第3イ ンターナショナル第5回大会での報告 「知識人問題」 の訳である. ここ では, 知識人もしくは高等教育修了者の失業や貧困, 科学o芸術・教育・文化の ブルジョア 的反動化, ファシズム化, これらの危検に警鐘が鳴らされ, 知識人と資本主義の矛盾が 強調されている. 知識人の二面性を明らかにするとともに, 知識人との同盟を強調する. こうした 内容が主軸となっている. 全体として, 科学o芸術・教育・文化等の否定的傾向が強調さ れ, その 創造的側面の解明がなされないなどの問題も含まれているように思われる. と こ ろ で, ツ ェ ト キ ン は か な り 早 い 時 期 か ら, プ ロ レ タ リ ア ー トに と っ て の 文 化 問 題 を 重 視 し た. 人であっ た。 筆者の知る範囲では, 早くは18 97年10月 5 日, SPD ハ ン ブ ル ク 大 会 で「プ ロ レ タ リ ′」 と題して演説している それ以後のツェ トキンは, 政治と文化 アートに最良の社会主義文学を. 。 の区別の上に文化のもつ政治性をよく理解し, 政治の主体になることを通じてしかあり得ない人民 解放の事業において, 人民の政治的実践のもつ教育力と並んで, 優れた文化のもつ人民の政治的主 体形成の機能を鋭くとらえていくの であっ た。 SPD およびそれに続く KPD における有数の文化問 題の理論家であり, 教育問題の解明と政策立案は, 彼女の婦人論と並ん で文化論を背景にして理解 されなければならない性質のものである. 邦訳された 「有識者問題」 は, 知識人と結合する統一戦線的発想 での現状分析が主題 であり, こ れを通じて, わが国における読者が, 知識人問題・文化問題に肉迫し, 新しい地平でのツェ トキン 19.
(11) . 大 崎 功 雄. 像を結んでいく可能性が生まれていた. こう して, ここにおいても, 包括的ツェ トキン像への糸口 が示されていたのである. 管見では, 1932年の邦訳を最後にして, ツェ トキンの著作等の翻訳はないよう である. 舞台は戦 後に移されるのである. ( 3 ) まとめ 戦前のわが国におけるクララ・ツェ トキンの知られ方について, 数少ない典拠をもとに, いわば 点 と点をつ な ぐ形 で フ ォ ロ ー して み た. そ れ ら の い ず れ の 典 拠 に お い て も, ク ラ ラ ・ ツ ェ ト キ ン が. 研究の対象として設定されていたわけではなかっ たが, ツェ トキンのどの側面が紹介されているか を お さ え る こ と に よ っ て, ツ ェ トキ ン 像 の 切 り 口 の いく つ か を と ら え る こ と が でき た.. わが国で最初のツェ トキン紹介となっ たと 思われる1907年の『世界婦人』の記事においては,ツェ トキンは ドイツ社会民主党の婦人運動家, 婦人の普選運動のリーダーとして登場した. 3年には, ツェ トキンの著作がはじめて邦訳されたが, わが国最初の国際婦人デーが催された192 『種蒔く 人』 に載った山川菊栄の解説と訳により, ツェ トキンは, ドイツ共産党と第3インターナ ショ ナルにおけるプロレタリア婦人運動の指導者として知られた. 「露独革命と婦人の解放」と題す る訳文は, ロシア革命による婦人の解放を報知する内容であり, 山川の解説も含めて, ツェ トキン の啓蒙的側面を読者にみせてくれる. あわせて, この時期から, 国際婦人デーの名とともに, ツェ トキンの名 が定着していくこととなる. 1907 年 と 1923 年 に お け る, ツ ェ ト キ ン と ツ ェ ト キ ン の か か わ る 婦 人 運 動 に つ い て の, こ の 二 つ の. 文書の認識は, その階級的性格において異なるものではあるが, 婦人運動家としてのツェ トキン像 を提示するものである. 1 92 0年代末から3 0年代初頭にかけて出さ れるツェ トキンの著作や演説の邦訳は, 以上のような ツ ェ トキ ン 像 と 異 な っ た 切 り 口 を 開 い て い る. と り わ け, 1931 年 12月, 翌 2 月 に 『レ ー ニ ン 研 究』. 1 ) ( 2 ) 」 は, 革命運動の全体的トレーガーとしてのツェ トキン像へ に載せられた 「レーニンの思ひ出( の接近を示唆するものであっ た. これに先だって1927年に訳された「レーニンの想い出」の後半も 含めて, ツェ トキンの 「レーニンの想い出」 は広範な領 域・主題を含むもので, そのこと自体, 運 動のトレーガー像を示しているの であるが, わけても前半の邦訳 「レーニンの思ひ出」 は, ドイツ の1 921年の「3月行動」の分析を基軸にすることによっ て, レーニンを通じての, ドイツ革命運動 の トレ ー ガー, ク ラ ラ・ツ ェ トキ ン 像 を示 し て い る の で あ る. 1932 年 の 『コ ミ ン テ ル ン・プ ロ ト コ ー. 10月敗北) についてのツェ トキ ル全集』 に邦訳さ れた, 第3インター第5回大会での ドイツ問題 ( ン演説も, 以上のツェ トキン像を示しているし, 又それを補強するものである. さらに又, 1928年に『社会科学』で邦 訳さ れた「有識者問題」は, 以上の視点で日本の読者がツェ トキンその人の科学・芸術・文学・教育・文化についての思索と行動について逆上ることを可能と 1 ) 」 (文 化・芸 術・教 育 に つ い て レ ー ニ ン と ツ ェ ト して い た. 内 容 と し て は, 先 の「レ ー ニ ン の 思 ひ 出(. キンの意見交換がなされている)ーがその一つの刺激剤になり得たといえる. そして, おそらくは, 戦後のツェ トキンの教育論研究のスタートも, このあたりが手掛かりとして意識されていたのかも 知 れない. 以上, ツェ トキン研究の切り口の多様性が, わずかではあるが確認でき た. 戦前における新聞, 雑誌, パンフレッ ト, 回想録等々, 筆者の見落しているもの が多々あると思われる. 点と点をより 実証的につないでいくためにも, これら史資料の発掘が期せ られねばならない. そのことを課題と 20.
(12) . わが国におけるツェ トキン研究の歩み (1). して 今 後 に 残 し, ひ と ま ず 戦 前 わ が 国 に お け る ツ ェ ト キ ン 把 握 の 歩 み の 項 を 終 え た い。 ( ・ 8 2 & 2 o 9 } .. )王. 1 ( ) 五十嵐 顕 『マルクス主義の教育思想』(青木書店1 9 77年)2 61頁, 2 ) 五 十 嵐顕氏 は, こ の第2イ ン ター・ア ムステ ル ダム 大会 を, 1905年 と記 して いる が (クラ ラ・ツ ェ トキ ン 著 (. 五. 十嵐顕訳 『民主教育論』 明治図書 19 6 4年 1 4年である. 9 8頁) 90 , 正しくは1 ( 3 ) 労働運動史研究会編 『明治社会主義史料集』(別冊) 1 『世界婦人』 明治文献資料刊行会 19 61年 1 40 頁. なお旧字体は新字体に改め, ふり仮名は省き, 和数字は算用数字に改めた. 以下, 引用はこの例にならう. ( 4 ) 同書 14 8頁. 5 1 ( ) 松原セツ 『クララ・ツェ トキンの婦人論』(啓隆閣1 9 6 9年)2 3頁. l ld i l i i l i tar ( ) C1ara Zetkin:Der Kampfum das Frauenwahl 6 rechtso e Pro e er nzum kl as s enbewuBt en po ‐ i f i h l ten t t tki tl907 s chenLebenerwecken e Reden und Schr n: Ausgewa ara Ze . Bandl .22 r , . Augus ,in ,C1 Di l l B i l S 4 4-3 5 8 は同 書に よ t 9 5 7 3 4 3 頁所 収 訳文 上書 8 頁~6 松 原 同 邦 訳は e z Ve r n ag e r っ た. . . , , , , . , lag de l iner Vo lks=Tr innen=und Frauenf i t t ( 7 ) C1ara Zetkin: Die Arbei r r er rage des Gegenwar ‐ . Ver , ,Be bun己‘ 1 8 89 .東京大学経済学部図書館所蔵, , ( 8 ) 労働運動史研究会編 『世界婦人』 前掲 1 5 6頁. ( 9 ) クララ.ツェトキン (山川菊栄訳)「露独革命と婦人の解放」( 『種蒔く人』 第3年 第4巻 第1 7号 大正12 年3月 号. 種 蒔 き 社, 1923 年 3月 1日, 172~175 頁).. i i 1 (Ende Januar l925 l ) ( o ) C1ara Zetkin : Er nnerungen an Len ) n ara . 1 (Ende Januar l924 ,1 , in , C1 Ze in:Ausgewah l i f l l inl960 tk te RedenundSchr ten t e z Ve r ag . Band3 .『レー ニ ン研 究』 ,89一160 ,Di ,Ber ,S. 創刊号と同第2号で訳されたものは, 1の部分である. Januarl925 1 te Reden ) ( 1 ) C1ara zetkin: Wアasdie Frauen Lenin verdanken( ara zatki n; Ausgewah1 .in ,C1 i f 161-177 ten undSchr a .Bd .3 .○. , , . ,a ,S. ( 1 2 ) クララ・ツェトキン 「レーニンの思ひ出( 2 『レーニン研究』 第2号 南北書院19 2年2月, 37頁) ) 」( 3 . 1 ( 3 ) 上杉重二郎 「19 21年夏におけるクララ・ツェ トキンとレーニン」( 『北海道大学教育学部記要』 第3 0号, 1 9 77 年) . 2 ) 9頁, なお, これに続く訳文は, 『ツェ トキン選集』 に収め ( 1 4 ) クララ・ツェ トキン 「レーニンの思ひ出( 」 前掲3 i f 110- l k Ausgewah 3 ten i C 1 Z t t a e RedenundSchr n: a r a e られて いる 原文と 異なっ て いる. Vg1 .Bd . . ,0. . ,S . ,a 111 .. ( 1 5 ) 同上 41~42 頁. ( 1 6 ) 同上 40 頁. i i t l l l s schen r Kommun e rataufdem V. KongreB de ( 1 ) C1ara Zetkin: Die工ntel ektue enf rage 7 . Ausdem Ref i f l i l t lnt l il924 te RedenundSchr tki a en e n:Ausgewah ernat ona n .9-56 . ,3 . .○. .Bd .7 ,a ,S .Ju .i ,C1ara Ze. (本学助教授・旭川分校). 21.
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