健常者の傾斜面における寝返り動作の運動負荷量の比較
馬渕 希実
<要約> 本研究の目的は,ベッド面の傾斜による寝返り動作時の運動負荷量の変化を明らかにすることである. 被験者は健常成人12
名(21
~23
歳).課題動作は0
°,2
°,4
°の傾斜上での背臥位から側臥位への2 パターンの寝返り動作の反復である.結果,上肢パターンで,斜面角度0
°と2
°で酸素摂取量のみに 有意差が見られた.傾斜により身体の回転運動が容易になるが,寝返り動作終了時に制動力が必要とな り,運動負荷量への影響が相殺されたことが要因として考えられた.また,2
°の斜面角度で心拍数以 外のデータにおいて上肢パターンで有意に値が高く,2
°程度の傾斜では重力が骨盤回旋に与える影響 は下肢パターンに比較して上肢パターンの方が小さいと推測された.本研究より,ベッド面の傾斜は寝 返り動作の運動負荷量に必ずしも影響はしないこと,2
°の傾斜上では下肢パターンよりも上肢パター ンで運動負荷量が多くなることが示唆された.1.はじめに
寝返り動作は,われわれの日常生活動作のうち でも重要な運動スキルとなっており 1),臨床の現 場でも評価や動作指導が行われる対象となるこ とが多い 2).そして,今日,高齢化・医療の発達 による要介護人口の著しい増加に伴い,介護者の 身体的・精神的負担の訴えが増加していることが 介護現場での問題としてあげられる 3).介護の現 場では現在介護用ベッドとしてギャッジアップ 機能で寝返り動作を補助するものや,寝たきりの 要介護者の褥瘡や関節痛の予防のために,時間や 傾斜の角度を設定して夜間の睡眠時に身体上の 体圧の分布を変化させることを目的としてベッ ド面に大きく左右の傾斜をつけられる機能が付 いたもの(寝返りベッド4M-SG-39D
:フランスベ ッド株式会社製)がある.しかし,患者の日常生活 動作としての寝返り動作を支援するものや介護 者の負担の軽減を目的とするために,ベッド面に 左右の傾斜をつけられるものはない. 寝返り動作を円滑に行うことに関する先行研 究としては,寝返り動作では体幹を回す力は上 肢・下肢が運動軸を越えて移動するときの落下力 を利用している 4)という報告や,健常な女性のう ち,高齢者は骨盤回旋力の筋力値(体重比)が若年 者の40
%にまで減少しており,寝返り動作時の骨 盤回旋への円滑さに影響を与えている 5)という報 告や,上肢の振りのみで行う寝返りでは,骨盤帯 からの寝返りと比較して大きな脊柱回旋角度を 要する 7)などという報告はなされている.また, 適切なベッド高の調節,足底(床面)条件,接触点 までのリーチ距離の確保が寝返り介助動作効率 を改善し,腰痛,介護疲労の軽減に重要である 3) という報告もなされている.しかし,これまでベ ッド面の寝返り方向への傾斜が寝返り動作時の 運動負荷量に及ぼす影響についての報告はない. そこで,傾斜面上での寝返り動作時の運動負荷量 を明らかにすることで,理学療法場面への応用や, 先に挙げた介護現場における問題に言及ができ るのではと考え,本研究の目的とした. 本研究では,水平面において0
°,2
°,4
°とベッドの傾斜角度を変化させ,各条件において, 背臥位から側臥位への寝返り動作を大きく上肢 の振りを先行させて行うもの(上肢パターン)と下 肢の振りを先行させて行うもの(下肢パターン)に 分類し,それぞれの運動負荷量を計測した. 仮説は,ベッド面の傾斜面の角度と寝返り動作 時の運動負荷量には関連がある,寝返り動作パタ ーンごとに運動負荷の変化に差が見られる,とし た.
2.対象と方法
1
対象 対象者は,健常者12
名(22.08
±0.66
歳:平 均±標準偏差,男性7
名,女性5
名)である.こ の寝返り動作の反復の実験を行うにあたり,被験 者に対して本実験の目的と内容,およびもし協力 を断っても不利益を受けないことを十分説明し, 研究協力への同意を得た.被験者の身長や肥満の 程度など体格の違いによって寝返り動作時の運 動負荷量に変化が現れることが考えられるが,今 回 ,特 に肥満 や痩 せすぎ のも のはい なか った(BMI20.89
±0.98
).また,いずれの被験者にも寝 返り動作に支障を及ぼすような整形外科的,神経 学的疾患はなかった.2
課題動作 今回,寝返り動作は右方向に向かって行うもの に統一した.寝返り動作には多くのパターンが存 在するが,今回は上肢パターンと下肢パターンの 2 種類に限定して行った.寝返り動作の開始肢位 と終了肢位の設定は,臥位の患者が起き上がる前 に行う準備動作としての寝返り動作を想定し,背 臥位から側臥位とした.3
実験時の環境について ベッドは寝返り動作が十分可能な幅のものを 使用し,ベッド面には,寝返り動作時の滑り防止 のためにウレタンマットを敷いた.また,落下防 止のために寝返り方向にもうひとつ別のベッド も設置したうえで実験を行った.被験者は呼気ガ ス分析のためにマスクを装着するが,そのサンプ リングチューブが寝返り動作を阻害しないよう, サンプリングチューブの長さには十分余裕を持 たせた状態で上部に固定した.ベッド面の傾斜に ついては,あらかじめ計算しておいた厚さの板を ベッドの脚の下に挿入することで2
°,4
°の傾斜 をつけた. 図 1 実験時の環境4
計測項目および計測方法計測項目は,心拍数(
Life Scope 6
:NIHON
KOHDEN
製),酸素摂取量,二酸化炭素排出量, 分時換気量(Aeromonitor AE-280S
:MINATO
製)の
4
つである. また,寝返り動作1
回の遂行時間は,寝返り動 作パターンによる差を明確にするために,メトロ ノームを用いて2
秒に統一した.これは,反動の 利用には運動速度の増大がポイントとなり6),と くに寝返り動作では遂行時間を2
秒にすると寝返 り動作開始時の動作の反動を上手く利用できる が,3
秒で行うとうまく利用することができない という報告 7)を基にした.また,本研究では課題 動作は寝返り動作の反復としたが,被験者には背 臥位から側臥位への寝返り動作のみを行わせ,側 臥位から背臥位への動作は他動で行った. 各被験者には計測を開始する前に実際に計測 を行うベッド上で十分に動作練習を行わせ,寝返 りパターン,寝返り動作遂行時間,側臥位から背 臥位へ戻る際は完全に脱力することについて確 認した後で計測を開始した. 計測方法は,まず背臥位で3
分間安静時の各デ 木の板で斜面 角度を設定 落下防止のため別の ベッドを設置 ウレタンマット サンプリングチューブは上部で固定 寝返り方向ータをとり,そののちに
0
°,2
°,4
°の順にそ れぞれの角度で上肢パターン,下肢パターンの順 で計測を行った.各試行開始前に心電図計の心拍 数値が安静時の心拍数に等しい数値を示し,疲労 の影響がないことを確認したうえでそれぞれの 実験を行った.5
分析方法 分析方法は,心拍数は各試行時のピーク値,お よび酸素摂取量・二酸化炭素排出量・分時換気量 は各試行で得られたデータの平均値の,それぞれ 安静時の値との差をデータとして扱い,①同動作 のパターンにおける傾斜面角度ごとの比較,②同 傾斜面角度における動作パターンごとの比較を 行った. 統計処理の手法はそれぞれ次のようにした.① の比較では,各動作パターンにおける角度ごとの データを一元配置分散分析にて比較したのち,Bonferroni
法による多重比較を行った.②の比較 では,各角度における動作パターンごとのデータ を対応のあるt
検定にて比較した.①②ともに有 意水準は5
%未満とした. 統計解析はSPSS
社製SPSS for windows
11.5.1
を使用した.3.結果
1
同動作パターン,斜面角度ごとの比較 上肢パターンで行った寝返り動作の酸素摂取 量は,0
°で43.67
±18.35
[ml
/min
],2
°で117.88
±13.88
[ml
/min
],4
°で82.25
±27.70
[ml
/min
] となっており,0
°と2
°の比較のみで有意差が見 られた(p
<0.05
:p
=0.019
).その他のデータでは 有意差は見られなかった.2
同傾斜角度,動作パターンごとの比較2
°の斜面上で行った寝返り動作で,下肢パタ ーンに比較して上肢パターンで酸素摂取量・二酸 化炭素排出量・分時換気量が有意に大きかった (p
<0.05
:p
=0.002
,p
=0.025
,p
=0.017
).また, 同条件下での心拍数の比較でも上肢パターンで 運動負荷量が大きい傾向が見られた(p
=0.068
).4.考察
(1) 同動作パターン,斜面角度ごとの比較 本研究において,有意差が見られたのは上肢パ ターンでの寝返り動作で0
°と2
°の斜面上で行 ったものの酸素摂取量の値のみで,その他のデー タの比較では有意差は見られなかった.寝返り動 作では,身体の多くの部分が寝返り動作に参加す るため,つり合いをとるためのおもりの作用をす る部分が非常に少ない 8).そのため,寝返り動作 を安全に遂行するためには何らかの制動力が必 要となる.ベッド面に傾斜のついた状態での寝返 り動作では,重力が骨盤の寝返り方向への回転運 動を助ける一方,安全な寝返り動作遂行のために より大きな制動力が必要になり,重力による運動 負荷量への影響が相殺された可能性があり,それ が今回の結果の要因として考えられた. 表1 上肢からの寝返りにおける各データ(安静時の値との差) 安静時との差0°
2°
4°
心拍数 (beat
/min
)26.75±5.82
25.50±5.26
23.75±5.03
酸素摂取量 (ml
/min
)43.67±18.35
117.88±13.88
82.38±21.01
二酸化炭素排出量 (ml
/min
)60.50±19.42
110.67±22.52
82.25±27.70
分時換気量 (l
/min
)2.42±0.90
3.55±0.99
2.74±1.08
表2 下肢からの寝返りにおける各データ(安静時の値との差) 安静時との差
0°
2°
4°
心拍数 (beat
/min
)25.00±4.64
20.83±3.78
18.92±3.62
酸素摂取量 (ml
/min
)62.94±20.68
55.96±12.81
68.01±23.88
二酸化炭素排出量 (ml
/min
)72.83±18.59
76.04±17.92
84.12±15.27
分時換気量 (l
/min
)2.520±0.83
2.56±1.07
3.31±0.74
心拍数は各試行中のピーク値,酸素摂取量・二酸化炭素排出量・分時換気量は各試行中の平均値. 表中の値は安静時の値との差を示す. 図 2 斜面角度別心拍数[beat/min] 図 3 斜面角度別酸素摂取量[ml/min] 図 4 斜面角度別二酸化炭素排出量[ml/min] 図 5 斜面角度別分時換気量[l/min] 心拍数は各試行中のピーク値,酸素摂取量・二酸化炭素排出量・分時換気量は各試行中の平均値. 図中の値は安静時の値との差を示す. *p<0.05(同動作パターン,斜面角度ごとの比較(Bonferroni 法による)) **p<0.05(同斜面角度,動作パターンごとの比較(対応のある t 検定 による)) (2) 同斜面角度,動作パターンごとの比較 本研究において,心拍数以外のすべてのデータ で上肢パターンでの運動負荷量が有意に大きく, 心拍数でも上肢パターンの方が高い値を示す傾 向が見られた.寝返り動作には,いくつかのパタ ーンが存在する.その分類方法としては,動作の 開始部位や体幹運動パターン(寝返りを行う際に 骨盤と肩甲帯どちらを先行し回旋させるか)によ るもの 9)や,上肢・下肢・体幹の動きの組み合わせ方によるもの10)などがある.これらの研究より, 寝返り動作の開始から終了までに身体各部の運 動方法には多くのパターンが存在するが,骨盤は 身体各部と比較して重量が大きいことや胸郭と
1
本の脊柱と筋で連結していることを考えても,寝 返り動作の完遂には骨盤回旋力に大きく依存し ている11)と考えられる.上肢パターンでの寝返り 動作では,上肢よりも重い下肢が後方に残されて いることで,下肢の振りを先行させる寝返りより も骨盤を回旋させるための力学的効率が悪い 9). しかし,本研究の条件の中では0
°と4
°の斜面 上での動作パターンの比較で有意差が認められ なかった.このことから,2
°程度の傾斜角度の 場合,重力が回転運動に与える影響は下肢パター ンと比較して上肢パターンの方が小さいことが 考えられた.5.限界
本研究は,寝返り動作の多様な動作パターンの うち二つに限定して分析するに留まっている.そ のため,健常成人の寝返り動作パターンのうち, 他のいずれの動作パターンに対しても適用でき るとは限らない. また,課題動作を寝返り動作反復の全動作を自 動で行わせることに設定し,被験者には背臥位か ら側臥位までの寝返り動作のみを行わせた本研 究と比較研究することで,理学療法現場で寝たき りの患者の運動の機会を得る目的で寝返り動作 の反復を行わせるにあたり新たな知見が得られ るかも知れない. さらに,対象者を高齢者などの要介護者とする ことにより,若年健常者を被験者として行った本 研究と比較検討することも必要と考える.謝辞
本研究を終えるにあたり,ご指導を賜りました 本学諸先生,ならびに実験に協力して頂きました 被験者の皆様に,心より感謝申し上げます.引用文献
1) SEKIYA Noboru et al. : Kinematic and
Kinetic Analysis of Rolling Motion in
Normal Adults. JOUNAL OF THE
JAPANESE
PHYSICAL THERAPY
ASSOCIATION 7:1-6,2004
2) Ritcher R:Description of adult rolling
movement and hypothesis of development
sequences. Phys Ther, 69(1):63-71, 1989
3) 前島洋・他:ベッド環境が寝返り動作および その介助動作に与える影響.日職災医誌