• 検索結果がありません。

Vol.10 , No.2(1962)030光森 正士「西大寺釋迦像の造像と安置について」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "Vol.10 , No.2(1962)030光森 正士「西大寺釋迦像の造像と安置について」"

Copied!
2
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

西 大 寺 繹 迦 像 の 造 像 と 安 置 に つ い て ( 光 森 ) 二 二 二

西

一 造 像 に つ い て 南 都 西 大 寺 金 堂 の 繹 迦 像 は、 所 謂 清 涼 寺 式 繹 迦 像 で、 こ の 種 の 模 刻 が 平 安 朝 か ら 鎌 倉 時 代 に か け て 盛 ん に 行 わ れ た が、 そ の 中 で こ の 像 は 最 も 由 緒 正 し い 像 で あ る。 帥 ち 正 確 な 造 像 の 年 次 や そ の 次 第 は 叡 尊 の 自 傳 ﹃ 感 身 學 正 記 ﹄ に 詳 細 で あ り、 か つ ま た こ れ と 毫 座 裏 の ﹁ 造 像 銘 ﹂ と が よ く 一 致 し て い る。 こ の 像 は 像 高 五 尺 五 寸 五 分、 光 背 高 七 尺 二 寸 二 分、 皇 座 高 一 尺 五 寸 五 分 で、 流 水 衣 文 で 壁 線 上 と、 圓 形 蓮 華 唐 草 文 と が 繊 金 で 押 さ れ て あ る。 ﹃ 學 正 記 ﹄ ﹁ 造 像 銘 ﹂ を 参 照 す れ ば、 こ の 像 は 建 長 元 年 ( 叡 尊 四 十 九 歳 ) に 清 涼 寺 に お い て 直 接 模 刻 し、 善 慶 以 下 九 人 の 佛 師 に よ つ て 三 月 十 五 日 か ら 四 月 三 日 ま で の 十 八 日 間 を 要 し て 完 成 さ れ た も の で あ る。 因 み に 清 涼 寺 の 本 尊 繹 迦 像 は 高 五 尺 二 寸 八 分 で、 完 成 ま で 約 一 月 を 要 し た と い う こ と で あ る。 佛 師 善 慶 に つ い て は 詳 細 不 明 で あ る が、 建 長 七 年 に は 般 若 寺 の 文 珠 像 を 子 善 春 と 共 に 造 像 し、 完 成 を 見 ず 正 嘉 二 年 六 十 二 歳 で 残 し て い る。 彼 は 當 時 の 南 都 で は か な り な 佛 師 で あ つ た よ う で あ る。 四 月 三 日 に 完 成 し た 繹 迦 像 は 五 日 に 西 大 寺 へ 移 さ れ 十 三 日 よ り 五 日 乃 至 九 日 間 で 眞 野 末 國 以 下 三 人 が 厨 子 を 造 り、 一 方 十 五 日 よ り 廿 三 日 ま で の 九 日 澗 に 定 春 以 下 四 人 に よ つ て 繊 金 が 押 さ れ た。 総 て の 完 成 ま で に は 延 三 十 六 日 を 要 し、 善 慶 以 下 十 七 名 の 佛 師、 番 匠、 紬 師 の 手 に よ つ て 完 成 せ ら れ た の で あ る。 以 上 は 何 ら 珍 ら し く な い 記 録 の よ う で あ る が、 こ れ に よ り 等 身 の 繹 迦 像 を 造 顯 す る 際 に 必 要 な 佛 師 等 の 人 数、 及 び 造 像 所 要 の 日 数 等 が =剣 明 す る か ら、 現 存 邊 晶 と 合 せ も つ て、 鎌 倉 時 代 に お け る 造 像 の あ り 方、 次 第 等 の 一 斑 を 窺 う こ と が で き、 同 時 に 類 同 の 繹 迦 像 を 考 察 す る 上 に 非 常 な 資 料 を 供 し て く れ る。 こ の 意 味 か ら、 ま た 像 の 立 派 さ か ら も、 造 像 史 上 洵 に 貴 重 な 遺 品 で あ り、 記 録 で あ る。 二 叡 尊 の 繹 迦 像 造 顯 の 意 圖 叡 奪 は 嘉 禎 元 年 三 十 五 歳 の 時 西 大 寺 に 入 り、 翌 年 九 月 に 自 誓 自 戒 し て 比 丘 と な つ た が、 十 二 月 に は 一 旦 海 龍 王 寺 に 移 佳 し、 暦 仁 元 年 八 月 三 十 八 歳 の 時 に 再 び 西 大 寺 に 還 つ た。 そ の 時 西 大 寺 は 以 前 に 増 し て 荒 慶 し て い た と 記 し て い る が、 叡 奪 は 先 ず 四 王 院 に て 最 勝 王 経 を 韓 讃 し、 九 月 上 旬 に 四 王 院 の 本 奪 と し て 八 角 五 重 の 石 塔 を 建 て、 舎 利 一 粒 を 納 入 安 置 し、 一 寺 の 男 女 に 舎 利 供 養 を 行 わ し め、 八 齋 戒 を 受 持 さ せ て い る。 こ に お い て 叡 尊 の 興 法 利 生、 戒 律 復 興 の 志 と 舎 利 信 仰 と が 結 び つ け ら れ る。 舎 利 は 現 身 佛 た る 繹 尊 の 肉 髄 の 編 結 で あ り、 ま た 古 來 よ り 能 作 生 で あ る と 考 え ら れ た。 印 ち 佛 陀 一 代 の 教 え は 舎 利 に 結 集 し、 そ の 舎 利 は 佛 教 々 理 を 生 み 出 す 源 泉 で あ る。 故 に 舎 利 を 禮 拝 信 仰 す る も の は 全 て 救 わ れ る と い う の が 舎 利 信 仰 で あ る。 叡 尊 の 舎 利 信 仰 は ﹃ 法 華 寺 舎 利 縁 起 ﹄ ﹃ 學 正 記 ﹄ 等 の 諸 所 に み ら れ る 舎 利 湧 出 の 記 載 等 か ら 窺 え る ご と く、 確 に 呪 術 的 な 面 も 見 逃 す こ と は で き ぬ が、 舎 利 を し て 繹 尊 の 編 結、 佛 教 特 に 戒 律 の 源 泉 と し て の 信 仰、 帥 ち 編 繹 迦 の 精 神 の 面 に よ り 重 大 な 意 義 を 有 し て い る。 こ の 舎 利 信 仰 と 軌 を 一 に す る も の が、 清 涼 寺 式 繹 迦 の 造 顯

(2)

-536-で あ る 平 安 朝 以 後 さ 三 國 傳 來、 生 身 の 繹 迦 と し て 上 下 に 奪 崇 さ れ た 清 涼 寺 繹 迦 像 を、 戒 律 復 興、 興 法 利 生 を 所 念 し た 叡 奪 が 模 刻 造 像 せ ん と 獲 願 し た こ と は 實 に 意 義 深 い。 ま た 弟 子 忍 性 の 感 化 に よ り 延 慮 元 年 よ り 文 殊 信 仰 に 入 り、 建 長 七 年 般 若 寺 に 文 殊 像 を 造 顯 す る が、 そ の 願 文, 中 に 生 身 の 文 殊 た る こ と を 強 調 し て 記 し て い る ご と く、 叡 奪 に あ つ て は 生 身 の 繹 迦、 生 身 の 文 殊 と い う こ と に 多 大 の 意 義 を 認 め て お り、 一 貫 し た 信 仰 態 度 が 知 ら れ る。 故 に こ の 繹 迦 像 の 造 顯 に は 彼 の 教 學 實 践、 戒 律 復 興 の 運 動 と 密 接 な 關 係 を 有 し て い る こ と が 知 ら れ、 現 在 西 大 寺 末 寺 に 同 類 の 繹 迦 像 が 多 く 現 存 す る こ と は 西 大 寺 流、 眞 言 律 宗 の 弘 布 と も 密 接 に 關 係 し て い た と 解 さ れ る。 三 安 置 に つ い て 繹 迦 像 は 先 ず 四 王 堂 に 安 置 せ ら れ た こ と は ﹃ 學 正 記 ﹄ ﹁造 像 銘 ﹂ よ り 明 白 で、 ﹃ 行 實 年 譜 ﹄ の 記 載 は 誤 り で あ ろ う。 四 王 堂 は ﹃ 西 大 ・寺 流 記 帳 ﹄ ﹃ 七 大 寺 巡 禮 記 ﹄ か ら 知 ら れ る 如 く 天 平 紳 護 元 年 の 創 建 と 傳 え ら れ る。 繹 迦 像 は 建 長 元 年 か ら 正 嘉 元 年 頃 ま で の 九 年 間 は こ の 四 王 堂 に あ つ た が、 永 仁 頃 に、 四 王 堂 か ら 西 室 に 移 さ れ た こ と が ﹃ 西 大 寺 田 園 目 録 ﹄ よ り 剣 明 す る。 こ の ﹃ 田 園 目 録 ﹄ は 信 糠 性 を 有 す る 資 料 で あ る。 繹 迦 像 は 當 初 四 王 堂 に 安 置 せ ら れ た が、 そ れ は 本 尊 と し て で は な く 假 安 置 で あ つ た。 今、 西 室 建 立 の 経 緯 を ﹃ 學 正 記 ﹄ か ら 求 め る と、 弘 安 三 年 六 月 廿 六 日 に 本 末 諸 寺 の 僧 尼 の 合 力 に よ り、 叡 尊 の 持 佛 堂 と し て、 叡 尊 の 再 三 の 鮮 退 に も 拘 ら ず、 報 恩 謝 徳 の 懇 誠 と し て 建 立 せ ら れ た も の で あ り、 こ れ は 當 時 既 に 八 十 歳 の 高 齢 の 叡 蝉 の た め に、 彼 の 老 後 の 隠 居 所 と し て 建 立 せ ら れ た も の と 解 さ れ る。 ﹃ 行 實 年 譜 ﹄ に は 繹 迦 像 が 西 室 の 本 尊 と せ ら れ て い た と あ る が、 こ れ は ﹃ 田 園 目 録 ﹄ の 記 載 と 一 致 す る の で 事 實 と 信 じ て い い だ ろ う。 恐 ら く 叡 尊 は 繹 迦 像 造 顯 當 初 か ら こ の 像 の た め の 佛 殿 建 立 を 志 し て い た ろ う が、 當 時 の 西 大 寺 で は 不 可 能 で あ つ た の で、 先 ず 四 王 堂 に 假 安 置 し た の が、 そ の ま 年 月 を 経 て い た が、 弘 安 三 年 に 西 室 が 建 立 さ れ た の で、 新 房 に 早 速 繹 迦 像 を 迎 え た の で あ る。 そ し て 當 時 の 不 穏 な 國 家 の 情 勢 に 封 し、 そ の 安 泰 と 正 法 久 佳 興 法 利 生 を 所 願 す る た め、 繹 迦 に 愁 歎 を 訴 え、 加 護 と 利 釜 を 所 る 秘 法 を 修 す る た め に 西 室 に 本 奪 と し て 繹 迦 像 を 迎 え た の で あ ろ う。 そ れ は ﹃ 興 法 利 生 表 白 文 ﹄ か ら も 推 察 で き る。 こ の 安 置 に 關 し て 諸 先 學 の 異 読 が あ る。 そ れ は 繹 迦 像 と 光 明 眞 言 堂 と を 無 理 に 結 び つ け た り、 ま た 新 佛 殿 建 立 の 記 事 を 肯 定 せ ら れ た り し た も の で あ る が、 こ れ ら は 信 頼 で き る 資 料 か ら は、 成 立 し が た い と 思 わ れ る。 光 明 眞 言 は 文 永 以 降 に 盛 ん に 行 わ れ た も の で、 こ れ と 繹 迦 像 と の 關 係 も 明 白 で は な く、 た と え 關 係 が あ つ て も 文 永 以 降 で あ る。 憶 測 で は あ る が 西 室 で 行 わ れ た 秘 法 は 悔 過 で は な い か と 思 わ れ る の で あ る。 以 上 の よ う に 繹 迦 像 は 假 安 置 の 四 天 堂 か ら、 西 室 の 本 尊 と し て 移 置 せ ら れ た の で あ る。 以 上 は 西 大 寺 繹 迦 像 の 造 顯 と 安 置 に 關 し て の 不 十 分 な 記 述 で あ る が、 要 す る に こ の 像 は 鎌 倉 時 代 盛 行 の 清 涼 寺 式 繹 迦 像 の 中 で 最 も 由 緒 正 し い 像 で あ り、 こ の 種 の 模 刻 繹 迦 の 造 像 史 上 に お い て 最 も 貴 重 な 遺 品 の 一 つ で あ り、 叡 奪 の 造 顯 の 意 圖 は、 そ の 根 源 に 戒 律 復 興、 蹄 繹 迦 の 精 神 に 立 脚 し て お り、 生 身 繹 迦 の 分 身 と し て 造 像 し た。 そ し て そ れ は 舎 利 信 仰 と 共 に 興 法 利 生 の 旗 印 で あ つ た の で あ る。 繹 迦 像 は 四 王 堂 假 安 置 せ ら れ た が、 途 に 佛 殿 の 建 立 が 成 就 し な か つ た の で、 自 分 の た め に 建 て ら れ た 西 室 に 本 尊 と し て 迎 え た の で あ る。 そ し て 先 學 の 四 王 堂 か ら 光 明 眞 言 堂 へ 移 置 せ ら れ た と の 読 は 誤 謬 で あ る と 思 う。 西 大 寺 繹 迦 像 の 造 像 と 安 置 に つ い て ( 光 森 ) 一 三 三

参照

関連したドキュメント

Instagram 等 Flickr 以外にも多くの画像共有サイトがあるにも 関わらず, Flickr を利用する研究が多いことには, 大きく分けて 2

○珠洲市宝立町春日野地内における林地開発許可の経緯(参考) 平成元年11月13日

協同組合間の提携について

 もうひとつは、釣りに出港したプレ ジャーボートが船尾排水口からの浸水 が増大して転覆。これを陸側から目撃 した釣り人が

 記録映像を確認したところ, 2/24夜間〜2/25早朝の作業において,複数回コネクタ部が⼿摺に

米田 仁 さん  米田 進 さん  築田 武治 さん  築田 裕治 さん  外舘 初義 さん 外舘 勝光 さん  外舘 守 さん  岡崎 慎一

5月 こどもの発達について 臨床心理士 6月 ことばの発達について 言語聴覚士 6月 遊びや学習について 作業療法士 7月 体の使い方について 理学療法士

2-2 に示す位置及び大湊側の埋戻土層にて実施するとしていた。図 2-1