音声科学への招待
松浦年男(北星学園大学) 1. 音声の性質 1.1. 音声学の目標 (1) 音の定義(大辞林第2 版より抜粋) 空気・水などの振動によって聴覚に引き起こされた感覚の内容。 また、その原因となる空気などの振動 (2) 音の分類 言語に使う音(=言語音・音声) 人間の出す音 音 言語に使わない音(=非言語音) 人間の出さない音 (3) 作業 人間が出すけど言語に使わない音にはどのようなものがあ るか,考えましょう。 (4) 音声学の目標 音声について,その知覚,産出,物理的側面を明らかにするこ と。 1.2. 音声研究の下位分野 (5) 音声研究の下位分野 a. 音韻論:脳内の言語処理 b. 調音音声学:発音動作に関わる部分 c. 音響音声学:物理的な実現の様相 d. 聴覚音声学:聞こえ方に関わる部分(6) 音声の連鎖(Denes, B.P. & Pinson, E.N.(著),切替一郎ほか(訳),『話
しことばの科学』東京大学出版会1966 より) (7) 作業 次の手順で活用語尾の形について考えてみましょう。 1. 何でもいいので動詞を 10 個挙げましょう。 耳 音波 耳 感覚神経 感覚神経 大脳 話し手 聴き手 運動神経 フィードバックの環 発声筋 音波 2. 動詞を活用語尾が「た」になるものと「だ」になるものに分類 しましょう。 3. 「た」になる動詞と「だ」になる動詞では何が違うか考えまし ょう。 (8) a. 言語学的段階(音韻論) イ:[母音],[高舌],[前舌] ア:[母音],[低舌],[後舌] b. 生理学的段階(調音) c. 音響学的段階(音響) /i/ /a/ d. 生理学的段階(聴覚) イ:高い感じの音,鋭い感じの音 ア:低い感じの音,鈍い感じの音 1.3. 音声の記述 (9) 作業 「「あ」よりも暗い感じの発音」をしてみてください。 →音を記述するには客観性(それを読んだ人が誰でも同じ音が 出せる)ことが必要である。 1.3.1. 調音的基準による記述
(10) International Phonetic Alphabet:国際音声記号1
世界中で使われる音を体系的に整理した記号。調音的基準によ って決まっている。 (11) IPA の表(斎藤純男『日本語音声学入門 改訂版』より) a. 多くの言語で現れる基本的な音 b. 日本語の記述でよく使う音 1 「国際音声字母」と呼ぶこともある(主流かも?)が,分かりやすさを重視して 「記号」としておく。
(12) IPA を使う上での基本的なルール a. 記号は必ず[...]で囲む。 b. 最新版を使う(現在は 2005 年版)。 c. 大文字に見えるものは全て小型大文字を使う。(例:[mBa]で はなく[mʙa]) (13) どのくらい細かく表記するか? a. 簡略表記 b. 厳密表記 (14) 「日本語の音声表記」について 日本語の規範的な音声表記というものは,厳密的にはない。た だ,多くの言語学者・音声学者が標準的なものとして記述して いるものはある。しかし,それはどの人もそうやって発音して いるということを保証するものでもないし,記述する人の音声 学的な立場や前提があるので,それを鵜呑みにするのは危険で ある。 1.3.2. 音響的基準による記述 (15) 音声の録音方法 a. アナログ(カセットテープ) b. デジタルメディア(MD,デジタルレコーダー) (16) 録音した音声を分析する方法 a. 音声分析ソフト b. 音声分析用の機械 (17) 主な音声分析ソフト a. Praat:フリー。マクロが充実している(松浦も作ってる)。更 新頻度がかなり高い。表示やマニュアルは英語(でも日本語の ガイドページも充実している)。 b. WaveSurfer:フリー。Praat よりとっつきやすい。英語(日本語 のガイドページはある)。 c. AcousticCore:商用(20 万くらい)。たいていのことはできる。 日本語表示。 (18) 見るもの a. 音波 縦軸が音の大きさ,横軸が時間軸を表す。縦に大きければ大き いほど音が大きい。 b. スペクトログラム 音波を数学的に分解したもので,縦軸が周波数,横軸が時間軸 を表す。濃淡で音の大きさを表し,濃ければ濃いほど(その周 (19) 「こんにちは」の音波(上)とスペクトログラム(下)の例 (20) a. (19)を見ても k-o-n-n-i-ch-i-w-a をどこで区切るかをはっきりと 決めることは難しい。 b. 音を記号で記述する時点でその人のバイアス(決めつけ)がか かっている。 c. ただし,決めつけそのものは悪いわけではないし,現実には必 要である。 2. 音声器官 (21) a. 音声器官:音声の産出に関わる全ての器官 b. 調音器官:調音に関わる全ての器官 (22) 調音器官の図
(23) 声道のつくり 1. 口腔(こうこう,こうくう) 2. 鼻腔(びこう,びくう) 3. 咽頭 (24) 作業 発音するときにのアゴの動きを確認してみましょう。 2.1. 上の調音器官(静的調音器官) (25) a. 上唇 b. 歯 c. 歯茎(しけい) d. 硬口蓋(かたこうがい,こうこうがい) e. 軟口蓋 f. 口蓋垂 e+f 口蓋帆 g. 咽頭壁 2.2. 下の調音器官(動的調音器官) (26) h. 下唇 i. 舌尖 j. 舌端(ぜったん) k. 前舌 l. 後舌 m. 舌根 2.3. 喉頭近辺 (27) n. 喉頭蓋 o. 声帯 p. 喉頭 3. 発音のプロセス (28) 発音までの流れ 1. 気流の生成 2. 声の調節 3. 音の調節 3.1. 気流の生成 (29) a. 発生源:肺臓,喉頭,軟口蓋 b. 方向:流出,流入 (30) 呼吸のメカニズム 肋骨で肺をガシっとつかんで広げる. (31) 気流と音 発生源 気流の方向 流出 流入 肺臓 喉頭 放出音 入破音 軟口蓋 吸着音 3.2. 声の調節 3.2.1. 調音動作 (32) 声(voicing)の対立 a. 有声音:声帯が振動する音 b. 無声音:声帯が振動しない音 (33) 発声(声帯振動)のメカニズム 声帯のスキマ(声門)を調整し,呼気を出したり止めたりとい うサイクルを繰り返す。 (34) 発声の模式図 (35) 無声音のとき,声帯は離れている(閉じているのではない)。 3.2.2. 音響音声学的な観察 (36) 声帯振動の有無の音響的差異 a. 有声音 音波(の一部)に規則的な波が見られる。また,スペクトログ ラムの低い周波数域(下の方)に黒い帯(バズバー,ボイスバ ー)が見られる。 b. 無声音 音波がない,もしくは不規則な波が見られる。また,スペクト ログラムの低い周波数域は白い。 (37) 「いー」と発音したときの音波 Time (s) 0 0.05 -0.3042 0.3601 0
(38) 静かに「シー」としたときの音波 Time (s) 0 0.05 -0.08423 0.08096 0 (39) (38)で声帯振動させたときの音波 Time (s) 0 0.05 -0.1274 0.1878 0 (40) 「いと」(左)と「いど」(右)のスペクトログラム 3.3. 音の調節 (41) 音の二大分類 a. 子音 b. 母音 (42) 作業 子音,母音の具体例を挙げましょう。 3.3.1. 調音上の特徴 (43) 妨害の度合い 子音は母音に比べて口を閉じる(狭める)ものが多い。つまり, 気流に対する妨害の度合いが大きい。 (44) 半母音 ヤ行やワ行の子音(ローマ字でy や w と書く)は,母音的な要 素を持つ子音である。そのため,半母音と呼ばれる。 (45) 持続時間 子音や母音はそれぞれ固有の長さがある。しかし,その長さは 一定ではなく,位置や発話のときに他の音があるかなどによっ て変わってくる。なお,母音と半母音を比べたとき,母音の方 が長くなる。 (46) 子音,母音,半母音の違い 妨害が大きい 妨害が小さい 持続時間が長い 子音 母音 持続時間が短い 半母音(子音) つまり,母音が安定して発音されるのに対して,子音は瞬間的 に邪魔を入れる感じと理解しておくとよい。 3.3.2. 音響的な実現 (47) 妨害の度合い 子音は母音に比べて妨害の度合いが大きいため,音波を見たと きに振幅(縦幅)が小さくなる。 (48) 「まかせろ」のラベル付き音波 m a k a s e r o Time (s) 0 0.4732 (49) 持続時間 a. 現れる場所によって音の長さが変わる。 b. 半母音は母音に比べて短く実現する。 (50) 「あいうえお」(左)と「かきくけこ」(右)のラベル付き音波 a i u e o k a k i k u k e k o Time (s) 0 1.861
(51) (50)における各音の時間長 あいうえお かきくけこ k --- 0.051 0.105 a 0.123 0.054 k --- 0.091 0.168 i 0.246 0.077 k --- 0.091 0.162 u 0.206 0.071 k --- 0.091 0.157 e 0.149 0.066 k --- 0.089 0.154 o 0.134 0.066 合計 0.857 0.748 「かきくけこ」における母音部分の長さは「あいうえお」における母音 部分よりも短く,むしろka,ki,ku,ke,ko それぞれの長さの方が近い。 (52) 「多様」(左)と「対応」(右)のラベル付き音波2 t a j oo t a i oo Time (s) 0 1.217 (53) 確認問題 下の 2 つの音声波形は「まど」か「まどり」です。さ て,どっちがどっちでしょうか?また,音声波形を子音と母音 の部分に分けてみましょう。 2 ヤ行の子音は"j"で示している。 4. 母音の構造 (54) 母音の対立 なる(naru)-にる(niru)-ぬる(nuru)-ねる(neru)-のる(noru) (55) 練習 (54)のように母音だけが異なる単語の対を探しましょう。 (56) 練習 発音された母音を書き分けましょう。 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) 4.1. 調音的特徴による母音の記述 (57) 調音音声学における母音を作る要素 a. 舌の最高部の前後 b. 舌の最高部の高低(口腔内の空間の広狭) c. 唇の丸め (58) 作業 次の母音のペアを比較して,舌の最後部の前後がどう変わる かを確かめましょう。 a. い-う b. え-お (59) 舌の最高部の前後3 a. 前舌母音(まえじた) b. 後舌母音(うしろじた) c. 中舌母音(なかじた) (60) 作業 次の母音のペアを比較して,舌の最後部の高さがどう変わる かを確かめましょう。 a. い-え-あ b. う-お-あ (61) 舌の最高部の高低 a. 狭母音 b. 半狭母音 c. 半広母音 d. 広母音 (62) 作業 次の母音のペアを比較して,唇の丸めがどう変わるかを確か 3 呼び方はそれぞれ「ぜんぜつ」「こうぜつ」「ちゅうぜつ」と呼ぶ人もいるが, 「こうぜつ」が「高舌」と紛らわしいので,ここではこの呼び方にしている。
めましょう。 a. え-お b. い-う(できるだけ強調して発音する) (63) 唇の丸め a. 円唇母音 b. 平唇母音 (64) 練習 次のとおり発音しましょう(逆回りも)。 「え」→唇を保って「お」→「お」→唇を保って「え」→「え」 (65) 練習問題 下の画像は日本語の母音を調音したときの MRI 画像で す。どれがどの母音か同定しましょう。 4.2. 聴覚的特徴による母音の記述:基本母音 (66) 基本母音 聴覚印象に基づいて決めた言語の記述に使う基本的な母音。第 1 次と第 2 次の 2 種類がある。 (67) 第 1 次基本母音の設定方法 1. 可能な限り舌を上あごに近い状態にして「い」を発音する。こ れが1 番になる。 2. 可能な限り口を大きく開き,前に出し(舌端は下の歯茎に付け る),「あ」を発音する。これが4 番になる。 3. 1 番から 4 番までで聞こえに応じて 4 分割し,中間段階の 2 つ を2 番,3 番にする。 4. 4 番の状態から可能な限り舌を後ろに下げる。これが 5 番にな る。 5. 可能な限り舌を上あごに近い状態にして,唇をすぼめて(丸め て)「う」を発音する。これが8 番になる。 6. 5 番から 8 番までで聞こえに応じて 4 分割し,中間段階の 2 つ を6 番,7 番にする。なお,6 番と 7 番も口をすぼめる(丸め る)。 (68) 第 1 次基本母音の調音的な記述と音声記号 1 番[i]:唇を丸めず,舌を前にやり,口をほとんど開かない。日本 語の「い」よりも狭い。 2 番[e]:唇を丸めず,舌を前にやり,口をわずかに開く。日本語の 3 番[ɛ]:唇を丸めず,舌を前にやり,口を広めに開く。日本語の「え」 よりも広いが,「あ」には聞こえない。 4 番[a]:唇を丸めず,舌を前にやり,大きく口を開く。日本語の「あ」 に近い。 5 番[ɑ]:唇を丸めず,舌を後ろにやり,大きく口を開く。日本語の 「あ」よりこもって聞こえる。 6 番[ɔ]:唇を丸めて,舌を後ろにやり,口を広めに開く。日本語の 「お」よりも広い。 7 番[o]:唇を丸めて,舌を後ろにやり,口をわずかに開く。日本語 の「お」よりも狭い。 8 番[u]:唇を丸めて,舌を後ろにやり,口をほとんど開かない。日 本語の「う」より狭く,舌が後ろにある。 (69) 作業 基本母音の 1 番から 8 番までをできるようにしましょう。 (70) 第 2 次基本母音:第 1 次基本母音の唇の丸めを反対にしたもの(+ 中舌狭母音)。 (71) 練習問題 日本語の 5 母音を基本母音に基づいて記述しましょう。 4.3. 音響的特徴による母音の記述:フォルマント (72) 波形の比較 0 0 い あ (73) 母音の音響的な相違点=波形の形 (74) 作業 波形の形をもっと具体的(詳細)に述べましょう。 (75) 波形の分析方法 a. あらゆる波は正弦波に分解できる(フーリエの定理)。逆に, 正弦波を組み合わせることであらゆる波を作り出せる。 b. 2 つの波が同じ方向に重なれば増幅し,逆の方向に重ねれば減 衰する。つまり,足し算と引き算の関係になっている。 c. 母音も同じで,(72)にあるような波は,正弦波の組み合わせに 分解できる。
(76) 100Hz の正弦波(左太)と 400Hz の正弦波(左細),2 つの波を足 した周期波4(右) 0 0.01 0.02 0.03 0.04 0.05 0 0 0.01 0.02 0.03 0.04 0.05 0 (77) フォルマント a. 母音の音声波形から分解した波には弱い部分と強い部分があ る。そのうち強いものを,低い周波数から順番に第1 フォルマ ント,第2 フォルマント,第 3 フォルマント…と呼ぶ。 b. 母音の分析では第 1,第 2 フォルマントが重要である。 c. フォルマントはスペクトログラムにおいて色が濃い部分にな る。 (78) 作業 次の発音練習をしてフォルマントを聞いてみよう。 a. ガラガラになるぐらい限界まで低い声で「アーエーイー」と発 音して,声の高さがどう変わるかを確かめましょう。(きしみ 声=第1 フォルマント) b. ささやき声で「イーエーアーオーウー」と発音して,声の高さ (厳密には高さはないのですが)がどう変わるかを確かめまし ょう。(ささやき声=第2 フォルマント) (79) 調音動作と音響の対応関係 a. 舌の高低=第 1 フォルマント b. 舌の前後=第 2 フォルマント c. 唇の丸め=両方のフォルマント (80) 舌の高低と第 1 フォルマント 舌が高ければ高いほど第1 フォルマントは低くなる。 (81) 舌の前後と第 2 フォルマント 舌が後ろに行けば行くほど第2 フォルマントは低くなる。 (82) 唇の丸めとフォルマント 唇が丸いとフォルマントが低くなる。 4 周期波とは周期的な波を指す。 (83) 日本語での母音のフォルマント イ エ ア オ ウ (84) ウ段の音声学的性質 a. 中舌化=第 2 フォルマントが「オ」より高い。 b. 平唇化=典型的な[u]に比べ,フォルマントが全体的に高く実 現する。ただし,(83)ではあまり顕著には見られない。 4.4. 母音の諸特徴 (85) 母音連続 a. 二重母音:滑らかに移動して調音された母音連続 b. 連母音:急激に移動して調音された母音連続 (86) 長母音(ネパール:左)と母音連続(綿アメ:右) Time (s) 0 0.6 -1 1 0 Time (s) 0 0.6 -1 1 0 (87) 調音結合(○囲み=舌の広狭と上下):点線の間=「ら」「だ」 Time (s) Fo rm an t f re qu en cy ( H z) 0 0.5 0 1000 2000 Time (s) Fo rm an t f re qu en cy ( H z) 0 0.5 0 1000 2000 か ら だ ひ だ り 5. 子音の構造 (88) 子音の分類基準 a. 調音方法(閉鎖の度合い,タイミングなど) b. 調音位置(前後) c. 声帯振動(3.2 節)