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学校体系論における「総合」-香川大学学術情報リポジトリ

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学校体系論における「総合」

江 幡

は じ め に 日本の大学の現状に即しつつ大学教育を論じようとするに際しての従来から の筆者の関心は,端的には「学校とは小学校,中学校,高等学校,大学,高等 専門学校,盲学校,聾学校,養護学校及び幼稚園とする」(学校教育法第1条) という規定の意味するところにあった。我が国においては大学は学校体系の全 体を包括的に規定するところの法律の中において規定されており,しかも学校 であると定義されている。アメリカにおいても多くの州において州憲法の中に おいて大学と学校とが−・緒に.規定されているのが通例であるし,ソ連邦の包括 的な教育法である「国民教育基本法」(1973年)においてもほぼ同様である。し かし,イギリスにおける「1944年教育法」は学校体系,教育行政などを包摂す るきわめて多領域にわたる規定を含んだ基本的な法律であるが,大学について の規定はなされておらず,また日常的な一・般的理解においても大学を学校とし て位置づけることもなされていない。これは西ドイツやフランスでも同様で あっていわば西ヨ・−ロッパ的特徴ともいえよう。「大学ほ学校である」という性 格づ桝こ対する筆者の関心は,筆者が教育学なかんずく教育制度,教育行政の (1) 領域の考察に関心を持っているがゆえのことではあるが,「大学は学校ではな い」という性格づけと対比させながら大学教育論を展開することも面白いであ ろう。 その点とかかわらせつつ,従来の大学教育に関する諸論議における最も基本 的なモチ、−フを整理すると,かなり乱暴ながら,次のように表現できよう。1 つは「学問研究の学生に及べるもの」として大学教育を把えようとするもので,

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江 幡 裕 56 専門的な領域の中で進められてきた研究の成果(知識や技術の体系)や研究方 法を教授することによって学生を教育せんとするもの。2つにほ「中等教育の あとに続くもの」として把えようとするもので,高校を修了した青年期後期の 者に対する連続的な教育として大学教育を進めんとするものである(高等教育 としての大学教育)。この2つを大学教育の類型として実体化することば全くの 誤りであるけれども,大学教育の「総合」を追究するに際してのとりあえずの 概念整理としては意味を持つであろうと思われる。先に述べた筆意の関心から ほ当然のことながらここに整理した後者の視点に立ちつつ大学教育の「総合」 を考察することに興味を感ずる。 このような関心や興味に立って本稿の課題設定を進めてみると。このように 大学(教育)が中等教育に続く次の段階の教育であること,しかも幼・小・中・ 高に続く最終段階の学校であることのゆえに,大学(教育)は中等教育との接 続性を宥するものでありかつ高校以下の諸学校の直面する諸課題を共有するも のであるとの視点を設定することができる。いわゆる大学の大衆化の進行に よって高校生や大学生にとっても,大学の教師の側にとっても「中等教育のあ とに続くもの」とする大学認識はいっそう一・般化している。たとえば,学生と の会話の際に彼等が自分を「学生」ではなくて「生徒」という用語で表現した

り,あるいは「学校まで遠いので冬は辛い」と表現したりする場面に.出会うこ

とも今日ではそんなにまれでほない。それゆえ,大学に関するいくつかの問題 を考察しようとするとき,中等教育以下の学校がその歴史過程の中で示してき た諸々の特質や機能や,今日的課題として解決を迫られている諸問題と関連づ けたり,それらから示唆を受けたりしようとする方法的姿勢は可能であるし, かつ重要であろう。しかも,それは「学問研究の学生に及べるもの」という伝 統的な大学認識に対して新しい視界を開くことの可能性も有していると思われ る。 そこで,本稿においてはこれまでの教育史研究や教育制度研究を踏まえなが ら,学校体系の特質や課題について整理・考察を進めていくことを通して,本 号の特集テーマにおける「総合」に接近していくこととしたい。この学校体系 論は広い領域に及ぶところのものではあるが,筆者が従来から比較的関心を

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学校体系論における「総合」 57 もっていた学校体系の形態論,機能論の領域に限定しながら,かつそれらの歴 史的変遷及び今日的課題(ディレンマ)に焦点をあててみたい。学校体系の歴 史的発展過程ほ端的にほ「総合」をめざしての過程であると見ることができる。 それほ一・方においてそれぞれの歴史時点における課題解決の遂行として進めら れてきたものであるが,他方においてわれわれの将来を展望したときその「総 合」の成果として獲得されたの今日の学校体系ほきわめて大きなディレンマに 当面しているものと思われる。 Ⅰ 学校体系の「総合」 本章においては学校体系の形態的な特質を歴史的に概観しようとするのであ るが,その対象としては,今日の学校体系に系譜的に直結するものであり,か っ全国民的規模での国家的制度として成立したものであるところの近代国家の 下での学校体系に焦

点を当てていくこと 図1学校体系の類型(3類型)

高等教育段帽中等教育段階初等教育段階 とする。この近代的 な学校体系の形態的 な側面からの歴史類 型はおよそ複線型学 校体系,分岐型学校 体系,単線型学校体 系と分類されるのが 一・般的であり,しか もこの歴史類型の変 遷は学校体系の統一 下林型学校系統︵中等学校系統︶ 複線型 分岐型 単線型 出典:教育制度研究会「要説教育制度」 学術図書‖1984年.p19. 化,統合化の方向を 目指してのものであるということができよう(図1を参照)。 1“複線型学校体系 これは社会内部における階級的階層的な格差構造に対応して,中産階級以上

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江 幡 裕 58 の子ども達を対象とした学校系統と農民や労働者のような貧民・庶民階層の子 ども達のための学校系統とが互いに連結しあうことなく並列的に分離されてい る学校体系(したがって系統的学校体系とも表現される)である。ヨー・ロッパ において前者の学校系統ほその起源を中牡末にまでたどることができ,大学お よびそこへ接続するラテン語学枚,さらにはそこへの準備学校という3段階の 学校に卜おいて編成された。たとえば,イギリスでほ大学−グラマ、−スク、−ループ レパラトリ、−スクール,ドイツでは大学−ギムナジウムーフォアシューレとい う編成が19Cに定着した。後者の学校系統ほ小学校(基礎学校)系統と称され るもので,近代になって全ての国民に対する文字の読み書きや社会倫理を中心 とする初歩的な教育の必要性が認識されて発達してきたものである。当初ほ貧 民救済や児童保護の目的でヴォランクリ・−な形であるいは社会政策として進め られてきたものが,19C後半に至って国家的教育政策のもとで義務教育学校と して確立した。国家的制度としての義務教育制度は前老の学校系統の普及(全 国民への開放)を目的としたものではなく,自らの階級的努力によっては自分 達の子どもに対する教育を実現することができない庶民・労働階級の子ども達 を,国家主導の教育普及策によって社会化し,「市民」さらにほ「国民」へと形 成することを目的としたものであった。すなわち,後者の学校系統と前者の学 校系統とは別個のものとして明確に分離されたものであった。 この2つの学校系統は,教育対象の階級的・階層的相違に対応するだけでな

く,教育の目的や内容の相違をも含んでいた。中産階級向けの中等学校系統ほ

単なる3R’sの教育に.とどまらず,ラテン語教養を中心とする人文主義的な教 育を主要な内容とし,大学準備教育を行っていた。実科的・実務的な教育を追 求する動向も見られ学校数も増加するけれども中等学校系統としての正系的地 位を獲得することはなかった。他方,小学校系統は当初は4−6年間であり,

19C末から20Cにかけて義務教育年限の延長や義務教育以後も在学する子ど

も達の増加によって上級コ、−・スを上積みしていったが,その袋小路的性格は変 わらなかった。この学校系統ほ義務教育修了とともに社会を出ていくことを目 的とした完成教育の学校であり,基本的には中等学校系統とは格差づけられた 学校であった。

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学校体系論における「総合」 59 かくて,この後線型学校体系ほ社会経済的格差を直接的に反映するもので あって,その格差に対応しながら教育対象や教育の目的・内容さらには就学年 限,教師の資格といったきわめて多くの側面において「分離」を追求するもの であった。 (2)分岐型学校体系 国家政策による国民教育の確立の過程において,さらにほその定着の時期に おいて,庶民階級の側から,複線型のもつ階級間格差の維持・拡大という側面 に対する批判が厳しく行われた。ヨ、一Pッ/くにおいてほ19C末以降とくに労働 運動や教員運動の中に.おいてこの格差的,差別的な学校体系を克服すべく統一・ 学校樹立という課題が主張された。 その統一学校運動の目標とするところは,学校体系の最初の数学年について ほ先の2つの学校系統を総合して単一・の学校とすること,したがって,その新 たな学校においてほ子ども達の社会経済的な背景にかかわりなく共通な教育内 容,教育目的のもとでの教育ということを実現することであった。たとえば, ドイツにおいてほ統一学校運動は19Cの70年代以降,教員組合において共通 基礎教育の実現の要求とセットになって進められていた。1919年の「ワイマー ル憲法」に至って,「公立学校制度は,有機的にこれを構成しなければならない? すべての者に共通な基礎教育の上に,中級および上級の学校制度がっくられる。 ‥…子を一L定の学校に入学させるについてほ,その資質と性向とを標準とすべ きであって,その両親の経済的および社会的地位,または宗教上の信仰を標準 (2) とすべきでほない。」(第146条)と規定された。この規定においては,従来の 小学校系統およびギムナジウムの下級部分の学校(Vor・SChule)とを統合して 「基礎学校」(Grundschule)を創設して「すべての者に共通な」学校とすべきこ と,「中級および上級の学校」への入学にあたってほ親の「経済的および社.会的 地位」ではなく子ども自身の「資質と性向」を標準とすべきことが提案されて いて,とりあえずの統一学校の実現が示されている。けれども,この憲法上の 規定を受けて1920年に「基礎学校法」が制定されてこの「すべての老に共通な 学校」は民衆学校(Volksschule)の下級4学年とすること,それに並列する形の

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江 幡 裕 60 公立のフォアシューレほ廃止することを規定したのでほあるが,結局その後こ のフォアシュ・−レの廃止にほ成功しなかった。そして,これの実現には第二次 大戦の終了を待たなけれはならなかった。フランスにおいてほ第一次大戦の時 期に急速に統一学校運動の機運がもえあがり,1925′、−27年にかけて義務教育学 校である「初等学校(ecoleprimaire61さmentaire)」と,リセーやコL/・−ジュへ の準備段階である「初級クラス(classes61ementaires)」との総合を実現するた めの政策が採られたのであるが,その実現も同じように簾二次大戦以後であっ た。 かくて,学校体系における最初の数学年を総合化,統一イヒするものとしての 統一・学校の実現ほ多くの国において第二次大戦後のことであるのだが,かくし て達成された学校体系ほ分岐型を採ることとなる。先のワイマール憲法の規定 にもうかがえるように,学校体系上の統一・,総合は部分的でしかないところか ら「共通な基礎学校の上に,中級および上級の学校制度」が従来の系統的な特 質を残したまま並立することとなる。学校体系の最初の部分が総合されていて 1本化されはしても,途中から複線型の特質を残しながら分岐,枝分かれして いるという形態が採られることとなり,したがって,フォーク型とも称される。 さらに複線型学校体系との相違として強調されなければならないのは,枝分か れした諸学校への入学が「両親の経済的および社会的地位」をメルクマ・−ルと してでほなく,子ども自身の「資質と性向」をメルクマールとして行われると いうことが実現されたことである。いわゆる教育故会を保障するに際しての平 等,公正ということであるし,後の行論で改めて考察することになる能力主義, メリットシステムの展開ということである。 さらに,この分岐型の学校体系によって初等学校(小学校),中等学校の用語 が学校系統を意味する用語から学校段階を意味するものへと次第に転換するこ

ととなった。とくに中等学校は大学に至るための準備課程という意味での

SeCOndaryから,第1段の統−・共通の初等学校からつづく第2段の学校という 意味でのSeCOndaryへと転換した。 ところで,統一学校運動における学校体系の統合ということほ労働運動や進 歩的な教員運動を担い手としあるいは背景として進められたものであり,した

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学校体系論における「総合」 61 がって政策の立案遂行の場面においてほ中等学校教師や保守的党派が絶えずこ れに抵抗を示すというのが−・般的動向でもあったのであるが,他方それほ複線 型学校体系それ自体のもつ基本的な矛盾に促されての学校体系改革であり,し たがって1つの体制的必然であったことも忘れられてはならないであろう。こ の矛盾に関して2つの点を指摘することとしよう。 いずれの国においても中等学校系統の諸学校は私立学校を中心とするもので あったり(たとえばイギリスのパブリックスクール),あるいは公立であっても 長期間に及ぶ授業料を必要とするものであったところから,そこでの修学にあ たってほ経済的負担能力のあることが条件とされていた。ところが,数多くの 中産階級の形成に対する社会経済的需要が増大するにつれて学校数も増えてく るのであるが,そのような中等学校のアカデミズム,大学準備教育の社会的な 不適合と同時に生徒達の能力水準に対する批判が−・般化してくる。たとえば, 授業についていけない生徒あるいは中等教育修了を証明する試験に対する合格 率の低下,さらには中等学校途中でのドロップアウトの多さなどが指摘される ようになった。すなわち,社会の指導・支配階級である中産階級の後継者を養 成するためにその時代における最高水準の教育を与えるというのが複線型の下 での中等学校系統の枢要な目的なのであるが,その後継の候補者(生徒)を社 会経済的なメルクマ、・−−−・ルで選抜はしても彼等自身の能力水準や学習意欲ほ問わ ないということの矛盾が次第に顕在化することとなった。そこで,庶民階層の 子ども達をその能力にかかわりなく(部分的にほ彼等のうちの最優秀者には中 等学校系統への途を開いてはいたが),社会生活に必要な最低限度の教育を与え るための学校(終局学校)たる初等学校系統の中に押し止めることの不合理さ を改め,庶民階層の優秀者にも中等学校へ,さらには大学へと途を開くことが このディレンマを解くためにほ必要であることが広く認識されるようになって (3) きた。 他方において,自由主義国家から帝国主義国家への変容に促されて第一・次大 戦が国家総力戦として遂行されるに及んで全国民的規模でのナシ/ヨナリズムが 形成され高揚したこと,さらに戦後の復興期において多様な人的資源の形成, 活用が求められていたことなどを背景としながら,複線型学校体系が社会内部

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江 幡 裕 62 における階級分儲をただ反映しているのみならず積極的に固定化あるいは拡大 再生産していることも大きな梗稔となっていた。たとえば,フランスの統一学 校運動を担ったインテリ・グル・一プである「コン/くニオン」のメンバ、−・が 「戦 争のあいだ中合一・された国民は平和の時代にも分割されてほならぬ」とか「父 親達ほ同じ蟄療で戦っているのだ。子ども達も同じ腰掛の上に坐って勉強する (4) のが当然だ」と主張する中に典型的にうかがえる。近代国家が自らの積極的な 作為によって学校制度を作り上げることの目的は決して単に「市民(私的な自 由な人格)の形成」のみならず,その国家を構成するに足る「国民の形成」と いうことを含むものであってみれば,社会内部における支配と被支配という2 つの階級に眉接対応するところの「2つの国民」を形成するというのはディレ ンマであった。国家自体はこの2つの階級の対立を諸種の社会立法,福祉立法 などを通じて緩和することはなしえてもそれを止揚することほ不可能であると ころから教育政策の領域においても同じように「階級の分裂にもかかわらず共 通な国民」をイデオロギ・−・的に実現するという機能を分岐型学校体系に求めよ うとした。 かかる時代的なそして構造的な梗椅を解決せんとする教育政策として多くの 国は単線型から分岐型への転換を,いわゆる下からの批判や運動を与件としつ つ図ったのであるということができよう。 (3)単線型学校体系 これは先に考察した統一学校化が全ての学校段階において実現しているよう な学校体系で,したがって学校段階の途中で袋小路となっているような学校が 分岐していない形態のものである。分岐型が多くの場合は初等学校段階での総 合であったにすぎないのであるが,それが前期中等教育の段階さらに後期中等 教育の段階へと進んだ形態であり,したがって単一・種類の学校が連続的に編成 されるとともに(onetrack system),単一Lの梯子を子どもたちが学年を追って 登っていくような形態(1addersystem)を採る。かくて,学校体系をそれぞれ分 離された学校系統として編成するのではなく,子ども達の発達段階およびそれ に対応した教育内容や方法の順序性に対応したところの学校段階の積み重ねと

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学校体系論における「総合」 63

して編成するものであるところから,この単線型は段階的学校体系と称するこ

ともできる。

この学校体系の典型ほ,一・般に指摘されているところであるが,アメリカに

見ることができる。アメリカにおける国家的(州)学校体系の確立は南北戦争

直後から19C末にかけて,公立学校の普及拡充という形態を採って進められ

た。公立初等学校は義務教育制度の確立という課題を実現すべく各州で設置さ

れるのであるが,ヨ、一ロッパ諸国のように庶民労働階層のみを対象とするもの

でほなかった。また,公立中等学校(highschool)ほ中産階級の急速な増加を背

景として,古くからのイギリス風の文法学校さらにほ19C頭初に急速に増加し

た私立中等学校であるアカデミーを圧倒しつつ,増設が続けられた。州ごとの

相違はありながらも,アメリカにおいてほ社会階層に対応して異なった学校系

統を並立させるという形態の学校体系は19C後半には克服されて,単線型の学

校体系を作り上げてきたと,大まかには見ることができよう。とはいいつつ,

/\イスクールにおける統一・,総合はそう容易ではなかった。大学に接続する/、

イスク1一ルと職業教育中心のハイスク、一ルとの並立はとくに後者の需要の増加

によって強化された。さらにはそれへの批判として,従来の8−4制を6−3

−3制へと改革して,ジュニア/、イは双方の教育(普通教育と職業教育)の統

合を図りかつシニアハイは大学への準備教育のための普通教育を維持するとい

うことも20Cに入ると進められた。ニュ・鵬ディール期になるとハイスクールに

おける選抜ほごく−・部で続けられるのみで,すべての若者に開かれた共通な教

育を提供することを意図するものとなり「COmmOnSChool」の性格をもつよう

になった。しかし,人種間格差を反映した社会経済的格差のゆえにこのような

共通な学校へ接近できない子ども達も多数存在していた。

また,第二次大戦以後の日本の学校体系も単線型学校体系として評価するの

が−・般的である。高等小学校は廃されて初等教育は完全に新しい6年間の小学

校へと総合化 単一イヒされた。中等教育においても従来の男子普通教育,女子

普通教育そして実業教育という系統的編成は改められて中学校・高等学校へと

総合されるとともに段階的編成の形態を採ることとなった。とくに,高校三原

則の一つとして「総合制」が強調されたことは,すなわち義務教育以後の教育

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江 幡 裕 64 においても総合化が意図されたことはヨーー・コッパ諸国と比較して画期的であっ た。また高等教育についても当初ほ大学に統一一・・総合されていたが,その後暫 定指眉としてさらにほ恒久的学校として短期大学が加えられるとともに,高等 専門学校あるいは専修学校の創設へと多様化されてきた。高校も総合制の方向 は途中で放棄され,多様化の方向が追求されてきている。 世界的に見ても又日本の現状を見ても単線型学校体系ほ.完全にほ実現されて おらず,いわば学校体系の歴史類型を設定するに際しての理論モデルでしかな い。多くの国々においてほ複線型から出発したものが単線型の方向を目指しな がらも未だ分岐型である。さらに言うならばイギリスにおいてほ他のヨーロッ パ諸国に比しても比較成功裡に分岐型から単線型への転換を進めているのに対 し,日本は,指摘したように,かなりの程度において単線型を実現していたの がその後分岐型に近づいているということは,比較教育的関心にとってほ面白 いポイントになるであろう。 ⅠⅠ学校の歴史的機能の「総合」 以上の行論においては学校体系の形態の側面に限定して近代以降の歴史的な 素描を行い,教育の対象や目的の格差的相違に対応して複数の学校系統が並立 する形態が総合統一・されて学校段階,教育段階の積み重ねという形態へと変遷 してきていることを明らかにした。本章においては少しく視点を変えて,学校 が果たしてきた歴史的機能(学校の歴史過程の中に見出すことのできる典型的 な教育磯能)を類型論的に整理しながら,今日においては学校体系の内部にお いてその諸機能が総合・統合されているということについて考察することとし たい。 その歴史的楼能ほ大まかに3つぼどに類型化することができると思われる。 第1は当該社会において支配的な階級憫層にある老が自分達の子どもをその支 配的地位にふさわしい人格へと形成するという機能である しエリートをエリー トに育てる)。第2ほ被支配階級に生まれた子どもを大人になってからもその被 支配階級の内部で生きていこうとするようにと教育する枚能である(庶民を庶 民のままに止める)。第3には被支配階級に生まれた者に支配階級へと上昇する

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学校体系論における「総合」 65 ことの機会(可能性)を開くようにと教育するということ(庶民の中からエリー トを選抜する)。 これらの類型はその発生の歴史的順序性を示すものではなく,したがって学 校の機能の歴史的な発展段階を表象するところのものでほない。この頬型ほ学 校の概念を広く設定しながら注意深く見ていけはいずれの歴史段階においても 常に存在してた学校機能であろうと思われるのであるが,その吟味は現在の筆 名の力量を越えるものである。本章においてはそれぞれの類型についての典型 的な事実に触れながら整理するとともにそれぞれの機能の果たす意味について 確かめていくこととする。 (1)「エリートをエリートに育てる」 特定の共同社会内部において組織的な教育がしかもその社会の規律や秩序と 適合したものとして維持されているとき,その教育ほたとえ個別具体的には親 と子の間の,あるいほ師弟関係の間の個人的な偶然的な形成関係と見えたとし ても,共同社会それ自体が次の世代の構成メンバ・一に対して行う形成関係であ り,したがっておとな世代が子ども世代を当該共同社∴会のメンバーにふさわし い人格,イデオロギーを身につけさせることを通してその社会全体を維持発展 せしめんとする共同的,体制的な形成関係である。ところがその共同社会が生 産労働に従うのみの階級と生産に必要な財,手段を保有しつつも彼等の労働に 支えられて生きる階級とに分裂しているがゆえに,その社会の共同性,全体性 の体現体である国家の教育政策は「教育における階級的区分」を必然化する。 教育史の教え.るところでは国家的な学校体系のスタートは,支配階級が自らの 子ども達に軍,祭,政の教養あるいほ芸術的教養を身につけさせることによっ てその階級にふさわしい人格へと形成することを目的とした学校体系の確立で (5) あった。たとえば,7才以上30才に至るまでの国家的教育体系を作り上げてス パルタ教育という教育の−−㌧典型を作りあげたスパルタの学校体系ほ奴隷制貴族 である自由市民階級の子ども連を対象にしたものであるにすぎず,彼等に征服 されて奴隷とされた先住民族ほ市民社会内部にあっては全く無権利の存在とさ れ教育されるべき対象でほなかった(人口比率についてほたとえば全人口40万

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江 幡 裕 66 (6) 人,自由市民2万人ともいわれる。)また日本においても大宝律令の下で「五位 以上の子孫および東西史部の子」を入学資格として設立された大学を同じよう な例と見ることもできよう。 ところで,近代における支配階級とは商業の発達によって12,13世紀に勃興 した商業都市の中に生まれて封建主義,絶対主義の中で成長し,ついにほ市民 革命を経て支配階級としての地位を確立した市民階級(中産階級)である。と くに市民革命期における彼等は身分制の下で継承された土地と政治的特権に寄 食する存在でもなく,冒険的,投放的な−・獲千金によって生きる存在でもなく, 自らの内に内在する能力と誠実な努力とに頼りながら自ら労働する存在であ り,合理的な思考と行動様式とによって自己を規律する自由人であった。かか (7) る「ロビンソソ的人間類型」を近代社会を生きる典型的な人間類型と見るとき, それは単に経済学的人間類型のみにとどまらず,教育学的人間類型でもある。 彼等が中産階級の親の下に生まれて親の事業の後継者として,あるいほ自ら の才覚によっていっそうの社会的貢献(社会的上昇)を図ることの可能な葛と して成長するためにほ勤勉,倹約,つつしみを親の手はどきとして教えられる だけでほ不十分であって,読み書きから始まって体系化された知識,合理的な 行動様式,社会の中で中産階級として生きるに必要な諸々のイデオロギーを組 織的にしかも長期間にわたって教えられることが必要とされた。それゆえ,中 産階級がその経済的な支配力を身につけかつ1つの階級として自立するように なると,彼らほ自らの階級的な共同利益の問題としてしかも階級的な力の結集 として自己の階級の後継者を教育すべく学校体系を作り上げていく。 たとえば,1512年にロンドンに設立されたセントポール・スクールは神学者 である.J。コレットの設立になるものであったがその管理ほPこ/ドンの絹織物 商同業組合にまかされ,人文主義の興隆の中でラテン語古典を中心とした教育 を進めていった。それほ様々な出自の生徒を対象とほしていたが,次第に社会 的勢力を強めつつあった中産階級の支援を待つつ彼等の教育に応えようとする ものであった。その他にも,ほぼ同じ時期に,世俗的な私人やギルドによって 設立された文法学校や,あるいほ王や教会の寄附,設立であったものが世㌧俗団 体によって維持管理されるようになった文法学校などが発展し,イギリスにお

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学校体系論における「総合」 67 (8) ける支配階級の後継者教育の中枢たる文法学校系統を確立していった。 他方,羊のような中産階級のための教育を国家の積極的な政策によって整備 していく′努力の例をプロイセンに見ることができる。たとえば,18C末から19 Cにかけての大学進学者の抑制政策はその典型である。1788年に古典語学校卒 業試験規定と大学入学試験規定が公布され,前者の規定する試験の合格者だけ が大学において公費財源からの奨学金その他の給費を受けることができるとの (9) 制限策が採られた。その時期ほ農業資本主義の発展に伴なっで身分制社会の崩 壊現象があらわになった時期であって,下級市民や農民の子ども達の中で官途 につくことを目指して大学進学を意欲する動向が強まっていた。他方でほ大学 の入学制度は未整備で,「哲学科の主任が行う形式的な入学試験のようなものは あったが,それは出身学校の校長か出身教区の牧師または名士の紹介状を持参 すれば軽く済むし,また,たとえそれがなくともそれほどむずかしいものでほ \1小一 なかった。」それゆえ,大学の学生の水準の低下が指摘されるようになったとこ ろから,出身学校での卒業試験によっで良質の学生を選抜せんとして先の2つ の布告が定められた。しかし,これは厳密にほ大学入学者の選抜方法について の規定でほなく,奨学金を受けなければ大学での修学が困難であるような階層 の生徒の大学進学を制約することを目的とした規定であった(授業料を払って 進学しようとする生徒にとって先の2つの布告ほ無縁であった)。すなわち,大 学進学要求の高まりを背景としつつ,中産階級以上の出自の者達の要求に応え, したがって彼等の後継者教育の機関として大学を磯能せしめようとする政策意 図をここに読み取ることができる。他方において大学予備門たる古典語学校も, この結果,卒業試験の実施資格を公認された学校は一・流の学校としての地位を 獲得して19Cに入ってギムナジウムへと発展していくこととなり,中産階級の ための学校系統が完成されることとなった。 ところで,近代市民国家の成立の過程は国によって多様な形態を採るのであ るが,近代的学校体系の1つの典型としてすでに述べた複線型学校体系の下に おける中等学校系統は支配階級たる市民階級(中産階級)の階級的な共同利益 を達成すべく編成されたところのものであった。また彼等の教育要求ほ,彼等 が身分制的拘束から解放されているが故に.彼等の個人的な才覚によって限りな

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江 幡 裕 68 い社会的成功を可能とするとの期待と同時に,次の世代における社会経済的な (したがって階級的な)没落の恐怖をも内包するものであった。それゆえ,彼 等ほ自らの階級的共同利益たる後継者教育の実現には熱心でありかつ切実なも のがあった。さらに,したがって自己の階級的利益を確保しうる学校体系(古 典語学校体系たる中等学校系統)の確立が最優先されることとなり,庶民階級 の子ども達の教育に対する配慮ほ慈恵的,治安対策的なものに止まっていた。 (2)「庶民を庶民のままに止める」 共同社会の世代的な継承発展を組織的,体制的な教育避織において遂行せん とする側面から見たときの学校の歴史ほ,以上の行論において素描したように, 当該社会の支配階級の世代的再生産という機能が様々の変転を経て展開されて きた過程であったということができよう。他方において,被支配階級に在る暑 が,たとえば農奴としてあるいは自由な農民として(その存在形態ほ歴史的, 地域的に多様であったが)1人前に田畑を耕すことができるようになるための 教育,あるいほもっと広義に共同社会に適応しつつ1人の人格として生きるこ とができるようになるための教育は,意図的,組織的な教育でほなく経験的, 自然的な世代間伝承であった。被支配階級の人間がその中で生きていくには文 字を必要とはしなかった(彼等の誰もが身につけるべき教養として)というそ のような社会が人間の歴史の中でつい最近まで(おそらく19Cまで)続いてい たということでもある。 しかしながら,このことは組織的,体系的な学校の教育に関してのことであっ て,庶民に生まれた子どもが次の世イ℃において庶民として生きるに必要な教育 ということに関する歴史的事実が存在しなかったというのではない。たとえば, 特定地域社会内部での習俗とか民族的風俗などの[如こおいてかかる教育枚能に 関する事実ほ数多く見出すことが可能であり,最近における社会史的,民俗史 的な方法による教育史研究においてなされているところである。 次の項で述べるような庶民に生まれついた子どもに社会的上昇の機会を開く という機能でほなく,彼等を将来においても庶民という階級や身分に止めてお くという機能を遂行すべく編成された学校制度の歴史的な発生時期を確定する

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学校体系論における「総合」 69 ことほ困難であるけれども,1つの典型としてほルタ、−・による学校制度設立の

提案を挙げることほ可能であろう。彼は1520年,1524年,1530年と教育改革

についての提案を行って民衆教育の確立を説いたのであるがその趣旨は以下の ようなものであった。当時の腐敗したキリスト教信仰を克服するためにほ,民 衆自身が文字を知り読書能力を身につけることによって母語に翻訳された聖書 から直接に神の声,信仰の神髄を理解し吸収することが必要とされる。そのた めには,親ほ市民としての,キリスト教徒としての義務として自分の子どもを 学校に通わせ,他方,都市政府ほ同じく義務として学校を設置しかつ無償就学 rll) を保障するのでなければならない。ここに今日に続く義務教育の基本的構図を 見ることができる。彼の提案は教育史的に.は多方面から慎重に検討されなけれ ばならないものでほあるけれども,庶民が庶民として生きていくに際して彼等 の全ての者を対象とした学校教育を受けさせることの必要性を強調するものと しての民衆教育の構想を見ることができる。彼の提案の直後にいくつかの領邦 国家においてそれを国家的制度として実現する試みもなされるがいずれも定着 しなかった。ほぼ200年後の1763年にフリードリッヒ2世(大王)がプロイセ ソ領内において義務教育制度を実現すべく公布した「地方学事通則」は画期的 であった。これは両親および雇い主に対して5∼13,4才の子どもを男女を問わ ず就学させるべきことを義務づけて,キリスト教(国教たるルタ・一派、)の信仰 を確かなものにすることおよび読み書きの初歩に習熟させることを目的とする ものであった。これはフリートリノヒ大王の絶対主義的な富国強兵策の一・環と して採られたものであり,かつその完全実施には至らなかったものであるが, その政策意図ほ端的には次のようなものであった。すなわち,身分制的な秩序 が次第に弛緩しつつあった社会状況を背景にしながら,農村の中で身分制的拘 束の下における貧しい生活からぬけ出して都会に出てもっと楽で身入りのい い,しかも社会的上昇の可能性の開けた仕事に就くために学校で教育を受けよ うとする,当時しだいに強まっていた風潮をおさえて,絶対主義国家を支える 基本的生産たる農業生産の人口を確保するとともに彼等を忠誠心をもつ臣民に. まで形成しようとするものであった。彼はある書簡の中で農民教育の積極的な 意義を述べたあとに続けて次のように述べている。

(16)

江 幡 裕 70 「………… 田舎でほ少しばかり読み書きを習ってお桝一ゴ,それでたくさんだ。 もしそうでなくて,かれらがあまりたくさんのことを知りすぎると,か れらは都市にでて,書記とかそういったたくヾいのものになりたがる。だ から,農村での人民の教育は,彼らがどうしても知っておく必要のある ことだけを,しかも彼らが農村から逃げださないで,おとなしくそこに (1カ とどまっているようなやり方で教えるようにしくまなければならぬ。」 さらに,イギリスにおいてほ上とはば同じ時期の18C後期以降,産業革命の 進展によって,被支配階級を構成するものとして労働者階級が生まれ,急速に その数が増加してくる。彼等ほ苛酷なエ場・炭鉱労働の下で奴隷的な生活へと 定められるとともに彼等の子ども達のある老は長時間労働に毎日従事し,ある 老は無職で街頭にあふれるという状態であった。それゆえ,この労働者階級の 子ども達の保護救済が大きな課題とされるに至った。救貧法さらにはエ場法に よる政策が進められる一・方で宗教団体などを中心とするVOluntaryな事業とし て慈善学校(charity school),日曜学校(Sunday school)が急速に普及してく る。これはいわば中産階級の良心と喜捨による労働者階級の教育であるけれど

も,しかしかかる教育のための学校を充実し普遍化するというこの事業は

VOluntaryな運動の限界を越えるものであった。それゆえ,一・方で労働者教育の 有用論と無用論の論争を経て,他方労働運動における「権利としての教育」の 主張を背景としながら,その事業の国家の手による推進が進められ,19C後期 以降義務教育制度が発足拡充せしめられることとなった。これは先の行論にお いても何度か指摘したように全ての国民を対象としたものではなく,中産階級 を対象とした学校体系(中等学校系統)からは明確に分離されたしかも労働者 および農民を中心とした庶民階級の子どもが将来的に被支配階級内部の存在と して生きていくに必要な基礎教育を行う学校体系(小学校系統,庶民学校系統) であった。 このようにみたとき,「庶民を庶民のままに止める」ための教育が社会的共同 性をもつ組織的な学校体系によって,しかも全ての被支配階級にある者を対象 として進められるようになったのは,部分的あるいは先進的な試みはあったけ れども,19C後半において主要ないくつかの国々が義務教育制度を設置した時

(17)

学校体系論における「総合」 71 期であったということができる。そしてそれは,当該社会の中に生きる全ての 老が文字の読み書きを中心とした基礎的教養を持つことがここで生きるための きわめて基本的なかつ共通の条件とされるように.なった時期でもあるというこ とを意味する。 なお,以上の行論は支配階級の主導によって設置された学校が被支配階級に 生まれた老を被支配者にふさわしく教育して彼らをその内部に押し止めるとい う教育傲能に焦点をあてて展開してきた。しかし,被支配階級の中にある者達 が自らの努力によって自己教育を進めるための学校を設置するという歴史的事 実がなかったのではない(学校の機能の弟4の類型)。たとえば,ペスタPッチ のノイホ・一フやシュタンツにおける貧民学校,R.オ・、・・・−・エソのニュー・ラナーク における労働着学校,あるいはトルストイのヤスナヤ・ポリヤーナでの学校な どは中産階級的庶民教育の限界を越えるものであろう。あるいはチャーティズ ム運動の過程におけるホール(講堂,会館)は自己教育のための社会教育施設 といったものであるし,各地で進められた日曜学校ほ自らの階級の後継者教育 (畑 の枚能を果たしたものである。さらにほ日本における例として,大正末の新潟 県における小作争議の中で生まれた木崎村農民小学校を挙げることも可能であ (14) ろう。 学校の枚能に関する主題的考察の展開にあたってはこのような被支配階級の 側からの自己教育に関する歴史的な考察は不可欠であると思われるが,本稿の 意図を越えるものであるのでこの程度の指摘にとどめたい。 (3)「庶民の中からエリートを選抜する」 庶民階級に生まれた者達が生活体験による自然的,伝承的な教育ではなくて 組織的な学校教育を受けようとする必要や要求を持つようになったのは,おお まかにほ先に引用したようなフリードリッヒ大王がその書簡の中で恐れていた 状況が一・般化して来る時期であったということができよう。その状況とは封建 制的身分制を中心とする社.会秩序が緩み商業経済が勃興して商業都市や,商人 や職人を中心とする中産階級が発達してくるという社会変化である。それはた とえば以下のように表現されるところのものであった。

(18)

江 幡 裕 72 「変化,それは封建社会を特色づけている封鎖性がくずれて,商業・交易 がひろくおこなわれるようになり,貨幣経済が発達し,都市一商工都市 がいたるところにあらわれて繁昌しほじめ,半奴隷の身分にしばりつけ られていた人たちが,その身分からぬけだし,都市に出て商人にな、つた り,下っ端役人になったり,職人になったりして,いわば,いくらかで R‖読 も立身出世ができるようになる−という変化であった。」 これほ端的にはそれ以後数世紀を経て開花していく資本主義経済社会の糸口 を閃いたところの変化であるが,12,3Cにおけるこのような都市経済の興隆は 庶民の学校教育に対する大きな需要を生むようになった.。すなわち,農村にお ける身分制的栓楷と貧困を抜け出して都市で仕事に就くためにほ文字を知って いることが有利な条件となること,そこでいっそう成功をおさめるためにほ高 い学問的知識を身につけることが決定的な武器となること,農村においても交 換経済の浸透につれて文字の読み書きの必要もしだいに高まってきたことと いった新しい状況の展開の中で,庶民階級の中には自分の子どもに文字やさら にほ学問を教えることによってその社会的上昇を図ろうとする意欲がすこしず つ強まってきた。このように教育を受けることしかも可能ならより高い水準の 教育を受けることほ庶民階級に生まれついた老が社会的上昇を図ろうとすると きのかなり確実な手段であるということが当該社会内部においてしだいに−・般 化してきた時期において,「庶民からエリートを選抜する」という機能を学校数 背が果たすようになったということができよう。しかも,学校に対するこのよ うな期待は今日のわれわれの上級学校へのさらには−・流の学校への進学を支え ているところの基本的なかつ一・般的な動機として継承されてきてもいる。 かくて,このような庶民階級の期待に応えるべくヨーロッパにおいては12, 3Cに商業都市を中心として数多くの学校が設置されていく。学校とほいいつ つ設置基準とか教育内容の基準とかがあるわけでもなく全くの自然発生的なも のであったから,その設置者も寺院・修道院,都市政府,商人や職人のギルド, 私人などと多様であったし,教育内容の広がりや水準もその学校にどんな教師 がいるかによっておのずから決定するようなものであった。長い期間に及ぶ消 長をくりかえしながら,血・流の学校は皇帝や法皇の保護や特許を受けて大学へ

(19)

学校体系論における「総合」 73 と上昇し,あるものはその大学への準備学校(ラテン語学校,文法学校)とし て定着していくとか,あるいほ大学への接続を求めずにより低い教育とされた 母語による教育を行う母語(国語)学校となったりしていった。いわば自然淘 汰的な過程の中で学校の種別化が定着していった。 この自然発生的な「庶民の中からェリ・−一トを選抜する」学校ほ端的にほ庶民 階級の子ども達に中産階級で生きるに必要な教育を与えようとするものであっ たところから,資本主義的経済の進行につれて中産階級の数が増えしかも彼等 の支配力が強まるにつれて,これらの学校の一・流水準のものほヰ産階級の子ど も達を対象とする学校へと大きく変容していくこととなる。かくて,大学やラ テン語文法学校ほ,すでに先に考察したように「、エリ、−トをエリートに育てる」 学校として定着することとなり,19Cにおける国家的学校体系が複線型として 完成するとこれらは中等学校系統を形づくることになり,庶民学校系統とは明 確に峻別されることとなる。 さらに,日本に卜おける都市的性格の学校としてほ庶民(主にほ町人のちにほ 農民も含むようになった)の子どもを対象として俗人教師が教える寺子屋が典 型的であるけれども,部分的にはともかく総体的にほ前項において考察した「庶 民を庶民のままに止める」という機能を中心とするものであった。士農工商の 身分制の枠の中で庶民として生きるに必要な教育をめざすものであった。身分 制の枠を越えて社会的上昇を可能とする手段としての学校が機能した歴史的事 実ほたとえば幕末期における私塾あるいは郷学の中に見出すことも可能である けれども主要には明治以後のことであると思われる。 ところで,日本における「庶民の中からェリ鵬トを選抜する」枚能に関して ほ,明治期にスタートした体系的な学校制度が複線型ではなくて分岐型であっ たことに注目してよいであろう。最初の学校体系の構想ほ1872年に出され,個 人主義的功利主義的な理念に支えられたところの単線型の性格の強いもので あったが定着しなかった。曲折を経て1900年頃には学校体系は定着するのであ るが,それは図2に示すように分岐型のそれであった。 まず第4学年修了時までほ統一学校の形態であるがここで高等小学校と実業 補習学校への分化が行われる(1907年度からは義務教育が6年に延長されてこ

(20)

江 幡 裕 大 国21900年の学校体系 学 院 の分化はなくなって第6学年修了時となる)。そして第6学年修了以後には大ま かに3つの学校系統への分化が行われる。1つはそのまま高等小学校を続けて 実業学校や師範学校へと至る学校系統(職業教育系統)。第2は女子のみを対象 とした,そして女子高等師範学校と接線ほするが多くの生徒にとってほ袋小路

(21)

学校体系論における「総合」 75 となっている高等女学校(女子普通教育系統)。第3は専門学校へあるいは高等 学校や予科を経て大学へ接続するところの男子のみを対象とした中学校(男子 普通教育系統)である。この3種類の学校系統ほ途中での部分的な修正ほあり ながらも1945年まで続いた。学校体系の完成定着した1900年の時点において (そこに至る過程を含めればそれ以前から),初等教育の前期段階(当初4年, まもなく6年)が統一学校化されていて全体として分岐型の学校体系を採って いたということほ,ヨ㌧−Pッパ諸国の統叫学校化の時期よりもかなり早いもの であったといえよう。したがって,「庶民の中からェリ、・−−−・トを選抜する」機能を 果たす形態的な条件は日本の方が早い時期から備えていたということができ る。学校体系の運用の実際についての注意深い比較検討がなされなければなら ないけれども,かかる特質ほわが国における立身出世主義的学校観あるいは学 歴主義的な雇用構造と密接な関連性を有するものであろうし,さらには戦後教 育改革に.よる単線型の度合の強い学校体系の採用の条件づくりをなしているも のであろうと思われる。 (4)学校の機能の「総合」 以上に述べてきた学校の歴史過程の中における3類型ほ,棟型化の作業が一 般的にそうであるような強引さと粗雑さとを免れてほいない。たとえば,エリー トの教育に関してほ,貴族階級の後継老教育は多くの場合家庭教師による廷内 教育の形態であったし,中産階級の後継者教育も彼等が社会の支配階級として の力を強める中で内部的な階層分化が生まれ,したがってその階層ごとの後継 者教育の学校は単純ではない。たとえば,産業革命以降ラテン語学校系統と並 ぶもう1つの中等学校系統として拡張を見せた実科的中等学校(たとえばイギ リスやアメリカのアカデミー,ドイツのミッテルシューレ)ほ下層中産階級の 形成を主要な政能とするものであったが,それらが対象としたのは中産階級の 子ども達と同時に庶民階層の子ども達でもあった。さらには,庶民階級からの エリート選抜に関しても先に.述べた都市的学校以外においても,たとえばキリ く161 スト教教会毒幾構の中に学校が組.織されていて聖職者の教育を行っていたが,か かる学校ほ庶民に教会磯構におけるエリートとなる機会を,したがって教会権

(22)

江 幡 裕 76 力の弓削、時期においてほそのことが社会的な意味でのエリートとなる機会を保 障するという機能を果たしていた。さらに,中産階級の自己教育のための古典 語学校の系統においても,収容老の−\定の割合ほ庶民階級出身者に割り当てら れていることが多かった。たとえば,イギリスでの宗教改革直後の1541年にカ ンタペソ、・・・−・大聖堂の付属の文法学校が再編されて,50名の正規学生は「貧窮の 老でなければならない」との規定がなされていた。とはいえ,この規定の運用 ほ「もしジェソレレマンの子どもが学問に適している場合には,その子どもの 入学を認め,もし適していない場合には,貧しい子どもで学問に適している者 がその代わりに入学を認められる」というものであった。また,大学における 庶民階級出身者の受容についてほ,先の行論において触れたプロイセンに串け る1788年の大学入学名の制限のための政策からおおよその実情をうかが.え.る。 すなわち,当時のプロイセソの大学においてほ庶民階級出身者を修学せしめる 方策として公費による奨学金などの方策が採られていた。しかしながら,エリ・− ト教育のための学校としての地位を確立した時期以後におけるこれらの諸学校 が受容した庶民階層出身諸とほ決して下層農民ではなく中農以上の農民あるい (17) ほ都市における下層中流であった。また同じようなことほェリ、−ト選抜の機能 の先駆けであった中世商業都市における学校の生徒達についてもほぼ該当する ものであって,1人の男子の労働力を失っても(都市へ送り出しても)困らな い程度の家庭であったと思われる。 ところで,前章において述べた学校体系の複線型から単線型への総合,統合 ということは教育対象や教育目的・内容の統合であるのだが,本章の主題に即 して表現するならそれは同時に学校が果たして釆た歴史的諸機能を単一・の学校 体系の中へ総合するということを意味するものであるということがいえよう。 本章において整理した3つの機能は従来ほ個々の学校種操あるいは学校体系ご とに遂行されていたのであるが,嘩線型学校体系はその3機能を1つの学校体 系の中に内包せしめるものである。たとえば,複線型学校体系はすでに何度か 言及したようにエリート教育の機能と庶民教育の機能を互いに隔てられた別個 の学校系統の中でそれぞれに進めていて,エリート選抜の機能は例外的あるい は補足的な形で行われてはいても学校体系の正当な磯能としては位置づけられ

(23)

77 てはいない。

他方,単線型体系においてほ学校段階の区分の形態において3つの機能が編

成されていると見ることができる。この学校段階区分ほ国によって異なるもの

であるが,日本について見てみるならば,まず庶民教育の機能ほ義務教育の修

了に事実上対応している中学校修了をもって学校を離れていく者に対して果た されるところの学校の機能である(今日において高校進学率が93%を越えてい

るところから大部分の者にとってほ実際にほ高校修了となっている。)ェリ㍉・・・・・ト

教育の機能は大学あるいはそれ以上の学校段階である大学院が果たしていると

見ることができる。さらに指摘しておかなければならないのは,高校が次いで

大学が大衆化の方向へ進んでいくにつれてエリい・・−−・ト養成の機能が大学あるいほ

大学院へと上昇していく一・方において,高校段階,大学段階という1つの学校

段階が全体として保有していたエリート養成機能が分化していくことである。

すなわち,高校段階それ自体の全体的なエリート養成機能がその大衆化の中で

拡散,分解していって,格差構造が生まれてしまう。いわゆる高校間格差が生

じて,エリ・一十養成機能が序列化されると同時に庶民教育機能が顕在化し独自

化されてくる。普通科高校の間での序列化および職業科高校の地位の低下など

ほ,高校の大衆化に伴なって高校教育の機能が分化し序列化されていくことの

きわめて典型的な実例であるということが可能である。このことはそのまま大

学段階にもあてはまる。

さらに,単線型においては学校体系が段階的に下から上へと構成されている

とともに,次章において詳しく考察するようにその学校段階の上昇(すなわち

上級学校への進学)は能力主義の原腰によって規律されているところから,ど

の段階までの学校へ進むか(それのみならず上の段階のどのような序列の学校

へ進むか)は,支配階級に生まれついたか,被支配階級に生まれついたかによっ

て左右されるべきではなく(少なくともわれわれの規範意識としては−この

点に関してほ後の行論で改めて考察を加える),当事者の進学意欲を前提としつ

っ彼等の能力の優掛こよるべきであるとされる。すなわち,約言するなら単線

型学校体系とは庶民階級の子ども達に対して中産階級の子ども達に対してと対 等・平等にエリートへと上昇する機会を提供し開放しているような学校体系な

(24)

江 幡 裕 78 のである(より正確にほ,はずなのである)。複線型の下にあってほいかなる社 会階級に所属するかに.よって学校系統が決定され,したがってどの学校系統を 終えるかによって所属することになる階級階層がすでに決せられていたのであ るが,単線型においてほ階級的出自に関係なく誰でもが共通な学校において共 通な教育を受けているのである。そしてこの「共通な教育」とは先の 能に.対応して教育の目的や内容が格差づけられた形で分化するとか,学習者達 の間における分離・分断を行うとかがなされていないということである。この 共通な教育をどの段階まで修了して社会生活に入っていくかということが社会 的上昇の可能性をかなりの程度において決定づけることとなる。すなわち,そ

れほかつては学校系統隼よって規定されていたものが,単線型は学校段階に

よって規定されることとなる。かくて,単線型学校体系は(複線型との対比で いえば分岐型も含めて),能力主義的な教育機会保障ということを原理としつ つ,社会的に必要とされる多様な人的資源を養成・配分するというきわめて総 合的な性格をもった機能を果たしているということができる。 ⅠⅠⅠ学校体系論における「総合」 (1)教育の機会均等 学校体系がしたがって学校の機能が総合化されるに至って,初等学校,中等 学校の用語ほ学校系統を表現するものから今日われわれが−・般的に理解してい るように学校段階を表現するものへと転換されることとなったことについては すでに先の行論において指摘した。すなわち,学校体系は国により時期によっ て多様ではあるが,基本的には,第1段学校たる初等学校,第2段学校たる中 等学校(分岐型でほ系統的な分化は残るが単線でほ統劇学校,総合学校となる) と編成されるとともに,大学もエリート教育のための学校系統の頂点としてで はなくて,総合化され段階的に編成された学校体系における第3段階学校(高 等教育機関)として位置づけられることとなる。かくて,大学も再編,総合を 迫られることとなり,かつ大衆化が促進されることとなる。 では,かかる学校体系全般の総合化に至る過程を貫ぬく基本的な方向性ほど のようなものであったのであろうか。総合化の過程とほ何を学校体系の原理と

(25)

学校体系諭における「総合」 79 して実現せんとするものであったのか。これに関してはたんねんな考察と注意 深い記述とによって答えるのでなければいけないであろうが,端的には学校体 系における平等化したがって教育機会保障の均等化の実現ということであった と答えることが可能であろう。 近代公教育を国家的教育制度の側面から把えようとするとき,それは基本的 には社会内部に.おける私的(市民法的)自由としての「教育の自由」(教育する こ.との自由,学習することの自由)を所与の基本前提としつつ,その自由の実 現を公権力の積極的な作為によって普遍化することを意図するものであった。 それゆえ,その「教育の自由」の内包する本質的矛盾である「教育の自由の階 級性」の克服の方向ではなく,その補正緩和およびイデオ・ロギー的禰縫の方向 において学校体系が編成されることとなった。その学校体系は市民社会内部の 格差を直接・間接に内包,反映するものとしての複線型学校体系として成立し た。その後,社会内部における産業技術の高度化や職業構造の変容あるいは帝 国主義的国家間競争の激化という社会の体制的変容に対応しながら,他方にお いて労働階級を中心とした社会的平等をめざす多様な労働運動や社会改革運動 さらには彼等の政治的勢力の伸長に促されてそのような格差的な学校体系は改 革を迫られるようになる。 学校体系の平等化に関する論議ほ,その実例をあえてイギリスの複線型学校 体系の定着過程にあった時期に求めてみるなら,典型的には以下に示す2つの 主張の対立する場面の中で展開されたということができる。 イギリスの民衆教育の政策に関する当事者であったp/ミート・ロウほ1867年 にいわく。 「下層階級の人びとは彼等に与えられた義務を果たすように教育されるべ きである。彼らほまた彼らが出会うより高級な教養を理解し,敬意を表 するように教育さるべきである。また上流階級の人びとほまったく異な る教育を受けねばならないのであって,下層階級の人びとに高度の教養 が示された場合彼等がそれに屈服し,敬意を表すようにその教養を示す (撒 ことができなければならないのである。」 また,1830∼40年代にかけて普通選挙権獲得運動を中心としたチャーティス

(26)

江 幡 裕 80 ム運動の中心人物であったW.ラベットは,1837年にすでに,「教育についての 訴え」のパンフレットで以下のように主張している。 「そこでわれわれほひとつの原理として,すべての正しい政府はできるだ け大きな害悪を阻止し,最大の善を促進しようとすべきである,と考え る。ところでもし無知が悪を生みだす最大のみなもとであり,知識が幸 福のもっとも有効な手段であることがしめされうるなら,あらゆる階級 のために.できるだけよい教育の制度をつくりあげることほ,あきらかに 政府の義務である。 われわれほさらに,貧困や不平等や政治的不正ほ,社会の−・部の人々 に教育の恵みを与え,はかの人々を無知のうちに放置しておくことから 生ずる,と考える。したがって,一・般にこの抑圧と無知の体制の犠牲者 である労働諸階級は,あらゆる片よった教育制度に対し不満をのべる正

(19) 当な理由をもつ。」

民衆教育に関して,前者は「庶民を庶民に止める」機能に期待をこめてその 拡充を図ろうとするものであり,しかもそれほ複線型学校体系として実現され ていく。それに対し,後者は対比的に言えば「庶民が人間らしく生きる」こと を実現する機能に期待をこめてその民衆教育の平等化を図ろうとしつつ,その 実現は先に指摘したように一世紀近くのちのこととなる。複線型から分岐型さ らにほ単線型への変還ほ前者のような階級的不平等を前提とする学校体系か ら,後者のような「あらゆる片よった教育制度」を克服して「あらゆる階級の ためにできるだけよい教育の制度」を獲得せんとする方向を目指してのもので ある。 かかる教育の機会均等の法的表現の実例としては先に指摘したワイマール憲 法の規定を挙げることができようし,わが国における実例としては戦後教育改 革の中で制定された教育基本法第3条の次の規定を・指摘することができよう。 いわく, 「①すべて国民は,ひとしく,その能力に応ずる教育を受ける機会を与え られなければならないものであって,人種,信条,性別,社会的身分, 経済的地位又は門地によって,教育上差別されない。

(27)

学校体系論における「総合」 81 ②国及び地方公共団体は,能力があるにもかかわらず,経済的理由によっ て修学困難な者に対して,奨学の方法を講じなければならない。」 上記第1項においてほ教育上の差別を許さない要田として6個の事項が示さ れている。これらの事項によって示されるところの差別禁止の原則に関しては, (細 筆老自身すでに他の論稿において考察を加えているところであるが,(ここにお いて簡略に整理するなら)われわれは教育上の差別禁止の3原則を読み取るこ とができよう。第1ほ学習者およびその保護者自身にとって何ら責任のない(彼 等の努力や能力によっては克服しえない)要因によって教育の機会を制約する ことであって,人種,性別,門地がその典型として示されている。第2は信条 の項目にうかがえるのであるが,そしてこれは従来は宗教的,政治的中立性の 問題として解釈され展開されてきているのであるが,学習者および保護者の宗 教的・政治的な選択や価値観の違いによって教育機会の獲得に有利,不利がも たらされてほならないということである。これほ先に指摘したところの「教育 の自由」(とくに学習の自由)に直接つらなる原則であるとともに,近代人権カ タログにおける「精神・内心の自由」の原則が教育の領域へと貫ぬかれたとこ ろのものである。第3には,広義には第1の原則に包摂されるものではあるが, 教育機会の阻害要因として最もリアルであると同時に普遍的であるところの 「経済的地位」の格差によって教育上の差別が生ずることを許さないというも のである。前記2つの原則がいわば禁止を規定する形に止まっているのに対し, この第aの原則ほ上に引用した第2項の規定からも理解されるように,公権力 に対して経済的格差による教育上の差別を是正するための積極的作為を義務づ けているのが特徴的である。 このように教育基本法3条の規定にうかがえるような教育機会均等の原理こ そが,先の行論において明らかにしたような学校体系の形態的,機能的な総合 化の過程の中で追求されてきた基本的な方向である。 (2)能力主義 能力主義ほ【一・般には企業経営,組織経営における人事管理の原則であるとさ れ,さらに教育の領域への能力主義の導入は「1950年代後半から1960年代にか

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