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少女マンガ論の生成期と「24 年組」神話

The Making of Shojo-MangaRon (the Discourses on Girls Comics)

and the Myth of 24 nen gumi (Year 24 Group)

繁 富 佐 貴

Saki SHIGETOMI

(現代社会論専攻博士課程後期) 要 約 本稿は、1970 年代後半の少女マンガ論のはじまりと同時期に生成した「24 年組」をめぐる語りが、 1980 年代以降どのように引き継がれていったのかを考察した。「24 年組」とは、当事者たちの一時的な 呼称であるにもかかわらず、少女マンガにおいて重要な術語として用いられている点に着目し、「24 年 組」論前後の少女マンガ論を分析した。 少女マンガは 1970 年代半ばまでほとんど語られていなかった。主に男性論者が、「24 年組」と呼ばれ る作家たちの感性に着目しその可能性が魅力であると論じ、他方で女性論者たちは、日常性や少女とい う感覚に着目した。だが、男性論者の「24 年組」論を象徴とする少女マンガ論の高まりが、1980 年代以 降の一般的な関心をひきよせたため、「24 年組」が少女マンガ論の代表であるとする神話ができあがり、 それを基準として少女マンガを論じる方法が生成され、その後も引き継がれることとなった。

[Abstract]

The purpose of this paper is to clarify Shojo manga ron ,the discourses on girls comics and their tendency to attach rather too much importance on 24 nen gumi (Year 24 Group).

Shojo manga was hardly written about before the middle of 1970s, after which, it was mainly the male writers who took up the subject. Their focus was on 24 nen gumi, which they discussed by way of directing attention to the sensibilities and possibilities of the creators of Shojo manga. On the other hand, the focus of female writers discussing Shojo manga was on the significance of daily life and “shojo”. The male writers enhanced the reputation of Shojo manga with their own interpretation of 24 nen gumi, thus creating the myth of 24 nen gumi. The creation of this, in turn, led to the development, a method of critiquing Shojo manga, which is widely used even to this day.

はじめに

少女マンガ論には、少女マンガがマンガと異なる表現を生み出し、採用しているとするマンガ 表現論、作品に描かれる女性像に着目するジェンダー論など様々な方法がある。少女マンガ論が 始まったのは 1970 年代後半だが、そのときにとりわけ注目されたのが“花の「24 年組」”1であ

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ち込まれている。にもかかわらず、少女マンガ論の中での「24 年組」の位置づけについてはあ まり意識されてこなかった。本稿は、1970 年代後半の少女マンガ論のはじまりと同時期に生成 した「24 年組」をめぐる様々な語りが、1980 年代以降どのように引き継がれていったかを考察 する。そして、こうした語り方がどのように少女マンガの見え方を規定してきたのかを考えたい。 堀あきこ(2009)は、「24 年組」を以下のように要約している。 “(花の)二十四年組”とは昭和二十四年頃に生まれた少女マンガ家のうち、萩尾望都や竹 宮惠子・山岸凉子・大島弓子・木原敏江などを指す。彼女らは「少女マンガに文学性を与え た」と評されている作家であり、それまでの少女マンガにはなかった主人公の自己との向き 合いや、性に関する問題、親子関係といったテーマを追求し、また表現技法にも新たな手法 を取り入れた。彼女らによって少女マンガに革新がもたらされ、その影響は広くマンガ界全 体に渡ったといわれている(堀 2009 : 47-48)。 「24 年組」論においてほぼ必ず言及される、竹宮惠子・萩尾望都・大島弓子は、1970 年代『少 女コミック』(小学館)(以下、通称の『少コミ』用いる)に連載していた。小学館は、『少女サ ンデー』休刊後、集英社の『りぼん』『マーガレット』、講談社の『なかよし』に遅れをとってい た。当時の『少コミ』編集長山本順也は、1968 年学年誌掲載の少女マンガをもとに月刊『少コ ミ』を立ち上げた。予想外のヒットで 1970 年に週刊化されたが、同時に少女マンガ作家の確保 に苦しんでいた。『なかよし』で活躍しつつも専属契約を結んでいなかった萩尾望都、『COM』 に投稿していた竹宮惠子に声をかけ、ともに新しい作品を作り上げようとした(まんたん web 2007)。竹宮は、「あの頃の『少女コミック』は、山本さんという編集さんがいたこともあるけど、 マンガ雑誌としては後発で、まだ形ができていなかった。だから何でも描かせてくれそうだった んです」(竹宮 2001 : 253)と、『少コミ』の自由さが魅力だったことを認めている。 『少コミ』およびその姉妹誌である『別冊少女コミック』(以下通称の『別コミ』を用いる)な どでは、1971 年萩尾『11 月のギムナジウム』(『別コミ』)、1972 年萩尾『ポーの一族』(『別コミ』)、 1974 年萩尾『トーマの心臓』(『少コミ』)、樹村みのり『贈り物』(『別コミ』)、1975 年竹宮『風 と木の詩』(『少コミ』のちに『プチフラワー』)など、従来の少女マンガの”枠”を広げたとさ れる作品群が次々と発表された。このような『少コミ』の革新的な活動は、読者に好意的に受け 止められたようだ。『少コミ』1976 年 1 月 8 日号に掲載された「おしゃべりコーナー」という投 稿欄には、北海道の中学三年生から、次のような投稿が掲載されていた。「わたしたちの学校の 秀才ほとんどが、少コミファンだったということが証明してくれたんですもの。それに、少コミ に連載している先生方がよいのだからして決して、バカを作るような まんが書かない(ママ)の であります!わたしは竹宮先生のファンですが、いつも知的で、美しい表現におどろいていま す。/みなさん、これからも愛読者として知性と学力と人間性を高めていこう∼!!」(261 頁)。 読者である少女たちには少コミ読者は「秀才」であり、少コミに連載している作家たちの作品は 「知的」であると映ったのである。こうした読者ばかりではなかっただろうが、編集部がこの投 稿を採用し掲載したことからも、そのような印象を強めるように演出されたことが伺われる。 このように述べると、「24 年組」が充実した作家グループであるように思えるだろうが、ヤマ

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ダトモコ(1998)は、論者によって「24 年組」に該当する作家に違いがあるばかりか、記述さ れた年代によっても違いがあったこと「誰によって、いつ頃言われだしたかを明記したものは無 く、知っていることが前提になっているか、不明のまま通称とか俗称とか述べられる。つまり、 判然としないのが事実なのかも知れない。起源がわからないため〈24 年組〉に誰が含まれるの かは、記述者によってあるいは同じ記述者でもその年代の違いによって微妙に異なる」(ヤマダ 1998 : 59)と指摘する。ヤマダはその一例として、米沢嘉博の『戦後少女マンガ史』(1980 年) と『少女マンガの世界 昭和 28 年∼ 64 年』(1991 年)で、該当するとされる作家の比較を行っ た。「核となるまんが家」である「萩尾・大島・竹宮」に加え、前者には「木原・山本・里中・大 和・庄司・樹村」が含まれているが、後者ではそれらが省かれ「ささや・一条・池田・美内」に 変わっていると指摘している。おそらく、人名のこうした異同の背後には、論者による定義のず れが潜んでいる。 ところで、中心的作家である竹宮惠子(2001)によれば、“花の「24 年組」”は自らが呼び始 めたのだという。 竹宮 でも“花の 24 年組”というものはもともと私たちが言い始めたことなんですよ。 インタビュアー2 えっ?!そうなんですか?! 竹宮 ええ、そうなんです(笑)。それはもともと増山さんが言い始めたんだと思います。「だっ て考えたら 24 年組だよね、みんな」って。(略)平均をとるとそのへんがいいんじゃない かと。「言い方としても美しいしさあ」ということで自分たちで言い始めたんです。 (竹宮 2001 : 250-251) 竹宮もそのメンバーであった大泉サロンと呼ばれる少女マンガ家グループのプロデューサー業 も担っていた増山法恵が“花の 24 年組”の名付け親であった。 ヤマダですら、客観的な分類項目であるかのように述べているが、実は“花の「24 年組」”と は当事者たちが一時的に呼称として遊戯的に用いたことばなのである。にもかかわらず、少女マ ンガを論ずる上で重要な術語として当然であるかのように流通するようになっている。これはな ぜか。「24 年組」論前後の少女マンガ論を分析することで考えていきたい。 第一章 「24 年組」論以前 「24 年組」論が活況をむかえる前、少女マンガ論はどのようなものであったか。マンガ専門誌 での少女マンガの位置、評価のされ方を見ていくこととする。 「まんがエリートのためのまんが専門誌」と副題がつけられるマンガ専門誌である『COM』で は、少女マンガはあまり論じられていなかった。『COM』1970 年 12 月号に掲載された草森紳一 の「まんが考見録 少女まんがの瞳について」が、ほぼ唯一の例外だったほどである。草森は、 少女マンガの顔の描写が少年マンガとはまったく異なることに着目し、次のように述べる。 あまりにもでてくる少女の顔は、日本人離れしている。(略)もっともこれを好意的にみ

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るなら、この瞳の輝きというものは、ひょっとすると、言葉の綾をそのままうつしたからこ うなったのではないかとは考えられないこともない。(略)目の中の光の状態を、星のよう に感じて、それをそのまま絵にするならば、星をそのまま絵にしたっておかしくはない。そ れが絵の力というものである。/一転して、こんどは意地悪にみるならば、どうもおかしい のである。(略)/この瞳の星の多発さは、おそらくデザイン化されたところにその原因が ある。これはもはや、「キラッと目が光りました」のキラッではないのである。/もはやデ ザインなのである。生理感情の輝きではない。まるで宝石の義眼をそっくりはめこんだ人工 の瞳なのだ(草森 1970 : 123-124)。 少女マンガを少年マンガと同じ基準で捉えるのではなく、デザインとして把握する新たなアプ ローチの必要性を指摘する。この草森の記述に対する好意的反応として、『COM』1971 年 1 月 号に掲載された「ぐらこんロビー」では、石川県からの投稿(坂田靖子3)が掲載されている。 今まで『COM』ではほとんど「少女マンガ」について語られたことがなく、「少年まんが」 「青年まんが」もしくは「実験まんが」等についてばかりだったので、内心非常に残念に思 っていました。「少女まんが」は研究する価値のないものであるかのように扱われていたけ ど、「少女まんが」には「少女まんが」の読者がいるのですから無視されているはずはない のです。少女まんが家は基礎力不足である。ヒット作は全員、右へならえをする。目が大き すぎる。老人まで美少年である。「少女まんが」の欠点については、いろいろな所で発言さ れたと思い出しますが、なぜそんなことになるのか・・・・・・どうするべきなのか・・・・・・だれも 答えをだしません。/「少女まんが」は程度が本当に低いのならば、今ほど多勢のファンが いるはずがなく、キラキラピカピカにも理由があるのだし『COM』の数々のまんが論の中 で「少女まんが」だけのけものにされているのはとても変なことだと思います。/今回、草 森氏がそんな不満を解消してくださったのが非常にうれしい!(坂田 1971 : 304) これは、少女マンガが「語られないこと」への潜在的な不満を草森が「語ったこと」で多少な りとも解消されたよろこびであった。 他方で、少女マンガが低く見られていることとそれに対する不満は、『COM』への投稿作品の 講評に対する反論においてみられる。1971 年 1 月号に掲載された作品投稿コーナーで赤塚不二 夫は、たむろ未知の佳作入選作品に対し、次のように講評した。「この作品の最大の欠点は、こ れらの道具だてがあまりにも少女まんが的センスでかかれてしまったということだ。SF の魅力 のひとつである、マシン、背景にさっぱり力が入っていない。そのために絵は美しくとも、画面 に奥行きが感じられないのである。/作者はどうも女性であるらしい。その点は割り引くとして も、このままいけば、けっきょく例のごとしの少女まんがになってしまう危険が待ち伏せている のではないか」(赤塚 1971 : 239)。ここでは、作品の質を懸念するものとして「例のごとしの 少女まんがになってしまう危険」という表現が使われていた。それに対し、たむろは「ぐらこん ロビー」(『COM』1971 年 5 / 6 合併号)にて、その表現が、少女マンガを下に見ている発言だ として反発している。こうした評価は、「少女まんががいわゆる欠陥を意味しているのだ」とい

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う前提をもっている。少年まんが/少女まんがという区分けの「レッテル」があるため、「少女 まんがばかりが批難され、バカ扱いされているのが、いささか不公平」である。その「レッテル」 のため、少女まんがが「少女まんがイコール欠陥まんが旧態依然まんが」であると認識され、評 価されないのだとして不満を述べる(317-318 頁)。1971 年 7 月号の「ぐらこんロビー」でも、 たむろの不満に対して賛同の意が表された。「第一はですね、『COM』はやたらと少女趣味を否 定して、あれはよくないとかいっておりますが、いったいどこが悪いのか、構成についてもスト ーリーについても絵についても、具体的にはなにも書いてはないではありませんか」(埼玉県か らの投稿 278 頁)。この投稿に合わせるかのように編集部は次のようなコメントを掲載した。 「『COM』はまんが ... を載せる雑誌です。少女まんがを無視できるはずはないのです。とにかく自 信を持っておおくりいたします」(279 頁)。編集部が少女マンガを無視していないという旨の発 言を掲載しなければならないほど、少女マンガ読者は少女マンガ評価の現状に不満を抱いていた とも読み取れるだろう。たむろの投稿の講評をめぐる投稿欄でのやり取りからは、マンガに対し て先駆的な役割を果たしていた『COM』でさえも、1970 年当時、少女マンガを評価する姿勢に は至っていなかったことが伺える。 しかし、『COM』外部にも、前述の草森と似たような姿勢をとる論者がいた。マンガ論者でも ある石子順造(1972)は、例として「あこがれ旋風」(すずき真弓『少コミ』連載第 31 号(7 月 30 日号)分)を「点検」し、次のように述べる。 少女たちには、「少女マンガ」という、別項のマンガのコンテクストがある。いいかえれ ばふつうにいう「少女マンガ」のマンガは、その他のマンガとかなりはっきり異質の表現、 なのである。それは、むしろデザイン、すなわち対話つきのデザインに類似している。(略) マンガという形式をとり、マンガ誌というメディアによって、作家としての理念なり人間観 なりをメッセージとして伝達する、といったコミニケーション(ママ)の古典的な概念はここで は通用しない。そういったコミニケーション(ママ)概念を不変なものとしてマンガを〈読む〉 人には、「少女マンガ」はなんとも退屈で、それこそ内容がない、という一語で片付けられ てしまうにちがいない。「少女マンガ」は、そういったコミュニケーション(ママ)に比して なら、インフオアメーション(ママ)として受けとるほかはない。それは、〈見る〉=〈歌 う〉=〈聞く〉ものなのだ。(略)「少女マンガ」には、ドラマがない、内容がない、という だけでは、じつはなにもいったことにはならない。ドラマとか内容とかとは一応切れてしま ったレベルで、表現が表現として成立しようとしているからだ。(略)ここでぼくは、(略) 当の読者である少女の感興への推断を試みるという愚を犯してみることにしよう。おそらく 彼女たちは、目で音楽を聞いているのだ。(略)そのリズムやメロディで歌う声を、こだま のように聞く体験、それが「少女マンガ」の読むではなかろうか、とぼくは推断する。(略) したがって、少女の図像は、”これは少女マンガなのです”という、ただそのことを表示す る標識として、デザインされざるをえない(石子 1972 : 14-19)。 ここには、少女マンガには少年マンガと「読み」の方法が異なり、読者である少女でしか共有 できない「『少女マンガ』の読む」(石子)姿勢があった。それゆえ、少女マンガは、少年マンガ

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と同様の切り口で語ることができないのである。少女マンガとは、読者である少女にだけ通じる コミュニケーションの形式であったため、少女ではないものにはなかなか理解できなかった。少 女マンガが「語られないこと」の根底には、こうした事情があったのである。 第二章 少女マンガ論の生成4 「24 年組」論が始まる以前の少女マンガは、熱心なマンガ読者ですら注目していない存在であ り、少年マンガと比べ一段低い評価しか与えられなかった。少女マンガ読者は、その点が不満だ った。マンガ論者の中には、少女マンガは少年マンガとは異なるアプローチが必要だろうと考え ている人もいたが、例外的な存在だったようだ。その後、少女マンガに対する見方は、どのよう に変化するにいたったのかを以下論じる。 (1)マンガ論者の関心は「24 年組」へ 1970 年代半ばには、マンガ評論の舞台となる有力な同人誌・雑誌が創刊された。1975 年、迷 宮(後に現在のコミックマーケットの母体)は同人誌『漫画新批評大系』を刊行した。他方で 『漫波』(清彗社)を引き継ぐ『だっくす』(1977 年改題)を経て、1979 年にマンガ専門誌『ぱふ』 (清彗社/雑草社/ふゅーじょんぷろだくと)が登場した。これらの雑誌では、少女マンガの特集 も組まれるようになり、むしろ次第に少女マンガ特集のほうが中心を担っていたようだ。 実際、少女マンガへの社会的注目は急激に上昇していた。1975 年宝塚歌劇による舞台化でブ ームとなった池田理代子『ベルサイユのばら』(1972 ∼ 73 年『週刊マーガレット』(集英社)連 載)や、1976 年のアニメ化で話題となり大人気を博した、いがらしゆみこ原画・水木杏子原作 の『キャンディ♥ キャンディ』3(1975 ∼ 79 年『なかよし』(講談社)連載)など、大きな話題 をさらう作品が登場している。では、この時期に、少女マンガはどのように捉えられていたのだ ろうか。 『漫画新批評大系』には、マンガ論の中心メンバーでもあった米沢嘉博、村上知彦らが寄稿し、 当時同人誌としては大きな影響力を持っていた。同誌では、創刊準備号(1975 年 7 月 26 日発行) で「特集 萩尾望都」、創刊号(1975 年 11 月 29 日号)で「特集 水野英子」が掲載された。 「24 年組」の作家として最初に注目されたのは、萩尾望都であった4。迷宮が中心となって発行 した評論集の増刊号『萩尾望都に愛をこめて』(1976 年 4 月 3 日初版)の編集後記では「現在の まんがを語るとき、どうしても語り落とすことのできない作家、萩尾望都。/ジャンルとしての 少女まんがを越えて、憧れの図式をもって、その扉を別世界に向けてただ一人あけ放った彼女に ついては、しかし、逆に、まだとても充分語られたとはいえないのが実状です」(かみしま=永 1976 : 52)と、萩尾が少女マンガのジャンルを越えている存在であることが述べられている。 この評論集では、主に『11 月のギムナジウム』、『ポーの一族』が着目され、萩尾の世界観が考 察されている。次に特集が組まれたのが大島弓子である(「作家研究 大島弓子」『漫画新批評大 系』(1976 年 7 月 25 日号))。この特集では、主に短編の作品が取り上げられ、描き出される世 界観が他の少女マンガ作品と比べ独特であること、それが大島の資質や感性によるものと解釈さ れている(夏樹映 1976 : 86-91)。

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その後、少女マンガへの着目はいわゆる「24 年組」の作家だけではなく『少コミ』以外の雑 誌に掲載された作家までひろがるようになった。「特集 少女マンガの光と影」(『漫画新批評大 系』(1976 年 12 月 19 日号))では、この時期に少女マンガが隆盛を極めてきたことが指摘され、 少女マンガ作品の作風のひろがりが特集されている。萩尾・大島といった『少コミ』作品に限ら ず、『セブンティーン』や陸奥 A 子(『りぼん』に掲載)などまで言及されているが、特集が組 まれる様な大きな流れまでには至っていない。次号の「特集・作家竹宮恵子」(『漫画新批評大系』 (1977 年 SPRING 号))では『風と木の詩』(1976 年『少コミ』)を中心にすえ、竹宮作品が、 「少年愛」の衝撃と共に少女マンガを文学的な領域まで高めたと、その世界観が賛美されている。 さらに、倉多江美(「倉多江美アトランダム」『漫画新批評大系』(1977 年 12 月 31 日号)、「特集 倉多江美」『だっくす』(1978 年 7・8 月号))、樹村みのり(「作家研究樹村みのり」『漫画新批評 大系』(1978 年 7 月 29 日号)、「特集 樹村みのり」『だっくす』(1978 年 11 月号))、山岸凉子 (「特集 山岸凉子」『だっくす』(1978 年 9・10 月号))など少女マンガが次々と特集された。こ れらの人々は、論者によって 24 年組に見なされたり、されなかったりする作家たちである。 この時代に活躍した作家たちが「24 年組」という一つの集合体として広く認知されるに至っ たのが、「特集 総括花の 24 年組 午前一時のシンデレラたち」(『漫画新批評大系』(1978 年 12 月 17 日号))だろう。そこでは、萩尾・竹宮のみならず、山本鈴美香・山岸凉子・樹村みのり・ 木原敏江など昭和 24 年前後生まれの作家たちが取り上げられた。ここで名前の上がった作家た ちが後々「24 年組」メンバーとして認識されたようである。 では、どのように少女マンガは論じられたのか。中心的なマンガ論者であり、同時代的に「24 年組」を評価した村上知彦(1977 → 1979)は、次のように述べる。 少女まんがとは何か。あるいは、なぜ「少女」まんがなのか。(略)「少女まんがの現在」 と銘うってはいるが、少女まんがの全体像を、正確にカバーしようと意図したものではない。 (略)だから少女まんが本流に属する作家は、むしろ見事に抜けおちている。(略)少女まん ががぼくに何らかのインパクトを与えうる、そのこと自体への疑問とこだわりから出発して、 まんが状況を映す鏡としての少女まんがとその活力のありかを探ろうとする試みであった。 (略)「枠組みをのり越えようとするまんが」、それが、このシリーズでとりあげうる作家を 選ぶとき、ぼくが設定した基準だった(村上 1977 → 1979 : 166-167)。 村上は、「ぼくが設定した基準」から自分に「何らかのインパクトを与えうる」作家や作品だ けを取り上げるという自覚的な選別によって少女マンガを論じた。このような批評態度の背景に は、1970 年代後半はマンガ論全体での批評の枠組みが変化したことも作用している。この時期 のマンガ論の変化について瓜生吉則(2000)は、1970 年代後半以降、マンガを外側から論じる 方法ではなく、行為主体である「〈わたし〉」に依拠した「〈わたし〉語りによるマンガ論」が発 生したと述べる。石子順造の「マンガ史論はマンガ『私論』であっていいはずだ」(1975 = 1994 : 178)という期待にこたえるかのように発生した「マンガを読み込んできた若い人たち」 による、新たなマンガ論である。「〈わたし〉の感覚への絶対的な信頼があってこそ、石子の予期 した「私論」を過剰に実践して」いき、「『マンガ読者』はもはや論者の外部で対象化されること

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なく、〈わたし〉という絶対的な行為主体に繰り込まれることにな」った(瓜生 2000 : 132-134)。 村上の批評は、「〈わたし〉」からみる作品語りのスタイルの典型例である。同時に(男性)論 者による少女マンガの密やかな軽視の表現でもあった。とはいえ、少女マンガ独自の特質を評価 する必要性が感じられていったことも否定できない。それに伴い、その特質を表現することばも 模索されていた。とくに少女マンガ作家の「感性」に着目するタイプの議論が目に付く。作家の 「感性」は読者の「感性」に響くことで賛辞へと変化する。そしてそのときに、取り上げられる 作品のかなりの割合が、24 年組の作家によって占めてられているのである。これは「斉藤次郎 VS 斉藤正治 驚くべき少女マンガの日常」『だっくす』(1978 年 7・8 月号)と題された座談会 での発言からも伺えるだろう。「斉藤正治:たとえば、さっき言った大島弓子さん、あれだって、 どきっとする場面ていうのはね、今までの文化の価値判断を、全部とはいわないけどある部分ひ っくり返してしまっている。(略)なぜ好まれて、なぜ注目をひくかっていうとね、(略)あんな 自分の小さな空想を描きながら、なおかつ文化に対する相渡り方の大きさみたいなものを、僕は 感ずるの。それが僕の胸の中の部分をすごく共感しあうわけ」(斉藤・斎藤 1978 : 129)。作者 の「感性」は、「少女漫画の新しさ」として受け止められる。「斉藤次郎:何でもないといえば何 でもない世界を描きながら、かするみたいな、感性がもうかすっていくだけみたいなところだけ でね、一つのドラマが作れちゃう。そこがやっぱり少女漫画の新しさで」(同: 131)。読者の 「感性」へとうったえかける作者の「感性」は、「少女漫画の新しさ」として評価される枠組みで あった。 このようなかたちで注目される「少女漫画の新しさ」は、従来型の少女マンガへの反乱として 捉えられる。村上(1978 → 1979)は次のように書いている。「少女まんがのこの一〇年ばかりの あいだのひろがりと深まりには、たしかに目をみはるばかりのものがあった。その中核を担って いたのは、言うまでもなく先述の『二四年組』世代であったが、彼女たちに共通していたのは、 少女まんがの〈枠〉に対する挑戦であったと思う。差別されたジャンルとしての〈少女まんが〉 の内部からの反乱として、『二四年組』の果たした役割は大きい。押しひろげられた〈枠〉は、 さまざまな表現を可能にした。いや、さまざまな表現の試みが〈枠〉のひろがりを生み出した、 と言うべきだろうか」(村上 1978 → 1979 : 51)。「24 年組」によって持ち込まれた少女マンガの 可能性こそが、着目される原動力だった。 しかし、このような「24 年組」論の熱狂的な高まりは、マンガ論者の中では長くは続かなか ったようである。先述した村上は 1980 年代に至らない時点ですでに予言している。「少女まんが はいま、非常な困難のただなかにある。と言ったら奇異に聞こえるだろうか。(略)少女まんが が全体としてその不定型なエネルギーと熱を失いつつあるのではないか、個々の作品の達成度の うえに安住して、のり越えるべき壁の存在を見失っているのではないかという、気さえするのだ」 (同: 50-51)。少女マンガが既に衰退しつつあるという村上の予兆に呼応するかのように、専門 的な評論の中で「24 年組」への熱い注目は、1980 年ごろをピークに 1985 年以降にはほとんど語 られなくなる。 他方で、米沢嘉博(1980 → 2007)は、『戦後少女マンガ史』で少女マンガ全体の通史を行って いる。これは少女マンガを歴史的に捉えようとする最初の試みであった。

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この巨大なる怪物になってしまった少女マンガの「今」を把えることは困難なことだ。マ ンガファン達が問題にしたがる、大島弓子、萩尾望都、竹宮恵子(ママ)、山岸凉子といった作 家だけが語られることで、根強い人気で売れている里中満智子、庄司陽子、いがらしゆみこ が語られぬことは片手落ちであるだろうし、それ以上に「今」という形で分断された少女マ ンガだけを語ることも問題だろう(米沢 1980 → 2007 : 18)。 米沢は、この時代のマンガ論者が好んだ少女マンガだけを取りあげて語ることに疑念を抱き、 少女マンガをマンガ論者が好んだようなアプローチではなく、少女の文化から捉え直そうとする。 少女雑誌のスタイル画の技法を少女マンガに取り入れることに高橋真琴が大きな役割を果たした とし、少女マンガ史の始まりは少女雑誌であるという新たな試みを行った。だが、米沢も村上と 似たような感覚を否定できなかったようだ。後に米沢はこの時期の少女マンガが枠を広げること で、魅力を欠くことになったと振り返っている。「量的にさらに拡大していこうとする少女マン ガは、そのあまりの広がりと許容量の広さに寄りかかることで、中心となるべき核を失い、漠然 とした形で定着してしまったのだ。また、少女マンガ家の数が増え過ぎたことで、わずかな差異、 ファッションや趣味、絵柄の違いでしか作家を受け入れなくなっていった」(米沢 1991a : 8)。 米沢は、1990 年当時の少女マンガには 1970 年代の少女マンガの同様の魅力を兼ね備えていない ために魅力がないように感じている。少女マンガを幅広く歴史的に位置づけようとしたのは米沢 のみであったとはいえ、米沢が少女マンガ論を書いた動機もまた、少年マンガを読みなれたもの が少女マンガの新しさを発見するという風潮に応えるものであったため、次第に変化する 1980 年代の少女マンガの流れに適応できなかったのだろう。 (2)「24 年組」以外からの少女マンガアプローチ この時期には、注目すべき少女マンガ論が、もう一つ登場した。橋本治(1979 → 1984)の 『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』である。『だっくす』などでの連載を元に書かれたこの論評 は、単行本化され、独立したかたちで少女マンガを論じた初めての単行本となった。この本は、 「24 年組」を少女マンガの中心とするのではなく、むしろそこから外れている作家たちを積極的 に取り上げ、少女マンガの持つ「空気感」を作家ごとに文体を変えることで表現しようとしてい る。例えば、「倉田江美論」では、作品内の描写をする際に用いられるコマ内の擬音表現の使わ れ方に着目し、その乾いた音が作品内部の乾いた空気を表現するものであると述べる(1979 → 1984 上巻: 12-16)。「江口寿史論+鴨川つばめ論」では、少年まんがが「男らしさ」という前提 を共有することで普遍の存在であるため読者が限定されていないのに対して、少女マンガは愛読 者だけが読者であるため、すでに限定された存在となりうるのだと指摘した(同下巻: 70-71)。 「陸奥 A 子論」では、彼女がオトメチックマンガの代表であると述べ、その特長について「日本 の女の子の、普通の可愛らしさをそのままマンガにしてしまった」ことで、ヨーロッパの少女を 描くという「日本の少女マンガの伝統と離れ」ていると述べる(同下巻: 120-121)。ここからは、 普通の少女を描くようになったことも少女マンガの革新の一つであると捉えていることが読み取 れる。「普通の女の子」が、「そのまんまの自分が一番スキ」と言ってもらう様な「当分の間 、、、、 続く 夢が、オトメチックマンガ」(同下巻: 125)の特徴なのである。「大島弓子論」では、大島作品

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に読み込まれたメッセージ性を読み解こうと試みた。「少女マンガは、少女達の物語です。少女 たちに与えられる、少女の為の物語です。社会の中で生きている少女達の物語です」(同下巻: 276)。大島作品は少女マンガが少女のためのものであるという前提をもっている。そのうえで、 橋本は、少女という自己は肯定されるのだという「ハッピイエンド」を大島は描こうとしている と考えた。「みたすべきものとみたされるべき“意識”。今それが一つになりました。私は私にな ったのです」(同下巻: 302)。橋本の少女マンガ論は、少女マンガの空気感を読み解こうという 試みであり、その点において男性論者の 24 年組論とは性質的に異なっていた。 このように、橋本の議論は、(コミケの立ち上げに関わった米沢を除けば)少女マンガを読む ことの少なかった男性批評家たちと比較したとき、方法論的にも主題の選択という点でも、当時 の少女マンガ論のなかでかなり突出したものだった。それでは、女性の論者は、少女マンガをど のように論じていたのだろうか。女性の少女マンガ論者のはじまりについては、批評誌がペンネ ームによって論考を掲載する形式だったため、はっきりとした時期を示すことは難しい。だが、 やはり 1970 年代半ば以降に、少女マンガを論じる女性論者が出てきたようだ。おそらく、1976 年から 1978 年にかけて、『宝島』、『別冊宝島』、『漫画批評大系』、『だっくす』に論考を発表した 竹田やよい、犬養智子、かがみばらひとみ、早川芳子、そして中島梓らが、最初期の人々であろ う。ここでは、彼女らの論考からその特徴を見ていくことにする。 主に女性論者は、娯楽性に価値をおく少年マンガと少女マンガでは作品の方向性が異なる点を 指摘した。竹田やよい(1976)は、少女マンガは「読者がその作品を窓口として背後に広がる美 しき幻想世界へと自己を投入する手段」(竹田 1976 : 134)であり、「現実逃避の道具」(同: 139)であると述べる。同様に、犬養智子(1977)も、少女マンガには「読み手とマンガの世界 の間の、同化作用」(犬養 1977 : 124)が生じる点で少年マンガと異なっていると論じた。その うえで、彼女たちは、男性論者への反論を試みていた。男性論者が少女マンガに興味を持つのは、 男性文化における表現様式が頭打ちであったために、女性的表現に魅かれるのだ。早川芳子 (1978)は、次のように述べる。「少女漫画とは、今現在、女が、女のために、女自身の独自のや り方でもってする、唯一の表現形態だと・・・(略)また、あえて言わせていただけば、大人=男 性たちの表現が沈滞期にある以上、大人になっていない青少年の目も、少なからず少女漫画へと 魅きつけられてゆく・・・・・(もちろん青少年の興味を買うために、少年漫画的要素の濃い少女漫 画=萩尾・樹村・竹宮氏等が、大きな役割を果たしましたが)」(早川 1978 : 60)。同時に、男 性論者たちが、少女マンガを論じようと言うよりは、論じやすい少女マンガのみを掬い上げる姿 勢を牽制した。「青少年の興味を買う」ような作品とは特定の作品であると述べたことからも、 「24 年組」論が少女マンガのすべてを論じているわけではないと感じていたことが読み取れる。 それに対して、彼女らは、少女マンガの日常性に着目した。中島梓(1978a)は、木原敏江を 「『少女マンガ』のなかへ、なかへ、とますます内向してゆく(ママ)」(中島 1978a : 3)作家と位 置づけ、内包される「日常」から「少女マンガ」を解き明かそうと試みる。少女マンガには少年 マンガとは異なる「理屈づけ」があり、それは「『日常』そのものの部分の成立」の基礎となっ ている(同: 4-6)。このような少女マンガの日常性を重視する姿勢は、前述した早川においても 見られる。「少女漫画が少女漫画である故に、すぐれて成立する特徴とは、大きなことより小さ なこと、非日常より日常、未来よりあえて過去現在を見つめる視線だとここで位置づけたいので

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す」(早川同: 60-61)。こうした姿勢は、「少女まんがの〈枠〉に対する挑戦」(村上 1978 → 1979)と、少女マンガの可能性にひきつけられていた男性論者の少女マンガの読み方とは根本的 に異なっている。 そこには、少女マンガに対する読み方の違いが横たわっていた。かがみばらひとみ(1977)は、 未知の世界ではなく、既知の世界から自分の感覚とすり合わせるのが少女マンガの新しい読みで あったと論じる。「読む側の反応がある程度パターン化し、条件反射に近いものになっている。 最初から、それに従った反応を期待し、そういう予測された刺激をもとめて読む。読者にとって 作品は未知の新しい世界を開くのではなく、既に知りつくしている自己の内にある感覚を呼び覚 ます引き金にすぎない。(略)読むほうもかく(ママ)方も、そうした類型へ、自分を寄りそわせる ことで、『少女マンガ』を十二分に享受する。作品とは、そのための方便にすぎない」(かがみば ら 1977 : 27-28)。このような自己と少女マンガの感覚を介した読みが成立した前提を「少女」 にもとめる。「少女マンガの魅力とは、この『少女』にまつわる幻想を除いてはあり得ないのも 確かなのではある。(略)少女マンガ支持層の拡大は、この『少女』が、(略)感覚それ自身とし ては、明確な輪郭を持たないつかみどころのないものへと昇華されていったことに理由がある。 読み手も、書き手も、そこに、自由に自己の理想的な鏡像を描きこむことが可能になったのだ」 (同: 29-30)。だからこそ、「少女」ならざる男性読者は、こうした関係を少女マンガと取り結ぶ ことはできなかった。そのため、同時代の少女マンガを的確に論じ分けることができなかった。 「この辺の「少女」の捉え方の多様性と複雑さが、『少女マンガは男には解らない』と言わせる理 由だろう。(略)少女マンガに自己を投入できない分だけ、彼らは少女マンガが持っている全体 的な虚構性 ロ マ ン を受け入れることができるだろう」(同: 30-31)。かがみばらの記述からは、男性論 者が、彼女たちと異なる点から少女マンガ論を展開したことに対して、全面的に賛同できるもの ではなかったと捉えていたことがうかがえる。 このように、女性論者には男性論者とは別の側面から少女マンガの特質をあらわす方法が模索 されていた。 第三章 市民権を得た少女マンガ論 「24 年組」以前には少女マンガは感覚的にわからないと述べていた男性論者が「24 年組」時代 になると一変し、その可能性に魅力を感じるという姿勢をとった。少女マンガの女性読者は、男 性の少女マンガへの捉え方そのものが変化したわけではなく、わかる作品だけを論じているから だとしてその姿勢に違和感を抱いていた。彼女たちは、少女マンガを語るには日常性や少女の感 覚へのすり合わせという男性論者とは異なる部分に注目すべきであると指摘した。 こう考えると、少女たちの日常性を描くことに少女マンガの本質を見出そうとした女性批評家 にとって、読み慣れない男性読者にアピール(するように見えた)「24 年組」のみを過度に重視 する態度は、潜在的には否定されるべきものだったはずである。しかし、「24 年組」をめぐるこ うした議論が、マンガ読者をこえた一般的関心を、少女マンガにひきつけたこともたしかである。 象徴的なのが 1981 年 7 月号の『ユリイカ』での「少女マンガ〈総特集〉」だろう。論者は、秋山 さと子(心理学者)、中野収(メディア論研究者)、橋本治(評論家・小説家)、飯田耕一郎(漫

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画家・漫画評論家)、有川優(マンガ評論家)、岩下誠徳(ジャーナリスト)、伊藤比呂美(詩人)、 鈴木志郎康(詩人映像作家)、今泉文子(ドイツ文学者)、大原えりか(翻訳家)、望月 典子(女 性論)、西嶋憲生(映像芸術)、諏訪優(詩人)、榊原淳子(詩人)。詩人や文学者、心理学、ジャ ーナリストなど多岐にわたっている。先述したマンガ専門誌、同人誌が、多少とも専門的な読み 手による少女マンガ論を熱心な読み手に対して届けていたとすれば、こちらは他分野の人が一般 読者に向けた少女マンガ論といえるだろう。論者自身が少女マンガに熱心であったという印象は 受けない。中野収が「おそらく、編集部の依頼がなければ、ぼくと少女漫画の没交渉は続いたこ とだろう」(中野 1981 : 21)と記述していることからも明らかである。一方で、秋山さと子は、 「心理学者の立場からすれば、このような類型的な構図と記号的な表現は、かなり自閉的なもの である」(秋山 1981 : 9)と記述し、自分の立場からであるものの少女マンガを捉えようとする 姿勢が見られる。 ここからは二つの側面が浮上する。一つは、興味が無くとも論じられているというブームがあ るばかりか、少女マンガが優れた表現のひとつとして一つの市民権を得たため、少女マンガを論 じることに抵抗がなくなったことである。もう一つは、一般的な論での盛り上がりが、「24 年組」 が語る価値のある少女マンガとして神格化されていく過程となっていたということである。この 特集で取り上げられた少女マンガ家は、萩尾望都、竹宮惠子、大島弓子、樹村みのりらである。 池田理代子論なども散見されるが、マンガ論者が「24 年組」論で取り上げた作家と大差がない ことから、「24 年組」を中心に評価するという流れを受け継いでいることがわかる。「24 年組」 が少女マンガの全体を示したものではなく、一部でしかないという印象を少女マンガ読者が持っ ていたとしても、マンガ論者の注目によって(ある意味で熱狂的に論じられたからこそ)一般的 な関心へとつながる道筋ができたのだということもできるだろう。 例えば、中島梓は、マンガの読者ではないものがマンガについて語ることに不満を抱いていた。 「他に、特集されるにあたってこんなに『知らない』ことが恥じられないジャンルがあるだろう か?―マンガだから、『それで当然だ』と、皆は思うのだ。不用意な発言をしてもゆるされる、 よく考えぬいたのでないことばを、きわめて感覚的に使用しても許される。なぜか?――マンガ だから、たかがマンガ、だからだ」(中島 1978b : 250)。マンガを知らなくても論じられてしま うのは、マンガが軽く見られているからなのだ。彼女にとって、マンガ論がブームになっている こと自体、嫌悪すべきことである。もっとも、同時代に生まれた質の高いマンガ論および少女マ ンガ論には肯定的な態度を示しているが。「だって橋本治さんの倉多江美論のような、ほんとう のマンガ評論も、いまようやくあらわれはじめたところではないか?少女マンガを愛そう、そし て少年マンガを愛そう」(中島 1978c : 91)。 中島は後に、この時期の少女マンガ論について次のように回顧している。 24 年組、と通称するけれども、中には二三年生まれの池田理代子、二五年生まれの竹宮 恵子たちをも含めている。むしろ、同世代である、ということよりも、その作風に何か通じ るものがあったといっていいだろう。彼女たちが嵐のように登場するまで、少女マンガは 「要するに少女マンガ」でしかなかった。(略)内容がそうだったというよりも、男たちは 「女子供」の世界に対して共感を持とうとはしなかった(略)(不思議なことに、しかしそれ

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以前のほうが実際には少女マンガが男性の手で描かれている率は高いのである)(略)要す るに「少女たちが過渡的に読む少女小説のマンガ版」としてしか見られてはいなかった。無 害であったし、女子供でもあったのだ。 そういう社会理念にやにわに叩きつけられた「24 年組」の挑戦はしかし鮮烈で、あまり に強烈であったのでひとつの文化現象だったという印象さえ与えた(中島 1991 : 88)。 中島梓は、1970 年代後半に『ぱふ』や『漫画新批評大系』で論陣を張っていた女性論者たち のなかで、1980 年代後半以降も積極的に発言を続けた唯一の人であり、そのぶん、かなり先鋭 化した批判意識を発信していた。だが彼女は、「『24 年組』という十把一からげの扱い」に不満 を持ちつつも「橋本治のようにはじめて正面切って男性評論家が彼女たちの少女マンガを論じる ようになり、高い文学性と芸術性を持つ彼女たちのマンガはすでに立派な表現としての地位を獲 得した」(同: 89)と述べている。結局のところ、中島にしても、「24 年組」神話を乗り越える ことができなかったのである。(実際問題としても、彼女は少年愛趣味の発信者として『JUNE』 に協力したわけで、「24 年組」文化の内部のひとだったのだが。)このようにして、男性論者が 「24 年組」論ばかり扱うのに不満を持ちつつも、どのようなかたちであれ社会的な関心をひきつ けたという業績を全面否定することはできない。そうした厄介な構造を、この時期の少女マンガ 論は抱え込んでしまったのである。 おわりに このようにして、「24 年組」を少女マンガ論の代表とする神話ができあがることとなった。こ のことが、1990 年代以降の少女マンガを語る際に、ある種の偏向をもたらすことになる。「24 年 組」には、作家の「感性」や可能性の「枠」のひろがりに魅力を感じた人々は、「24 年組」基準 に少女マンガを捉える試みから離れようとしなかった。他方で、「少女まんがの〈枠〉に対する 挑戦」(村上 1978 → 1979)は、その可能性をつきつめていった結果、「中心となるべき核を失い、 漠然とした形で定着」(米沢 1991a)したという印象が根付くことになった。そのため、懐古的 な少女マンガ論は出現しても、少女マンガとしての魅力は「24 年組」がピークであり、それ以 降は衰退しているのだという文脈が出来上がることとなった。また、レディースコミックややお い/ BL などを論じる際に、参照されることでこうした見方が強化されていった面もある。 勿論、「24 年組」と呼ばれた作家たちが、少女マンガの可能性を広げ、価値を高めたばかりで はなく、素晴らしい作品を描いているということは事実であるし、その功績は疑いようが無い。 だが、「24 年組」を基準とすると、少女マンガと見なされずにこぼれ落ちていくものがあまりに 多い。むしろそこにこそ、「語られない」少女マンガの特質があるのではないだろうか。そのた め、1970 年代の「24 年組」基準から少女マンガを論ずることに距離を置き、新たな少女マンガ 論を構築する必要がある。

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[注] 1 24 年組とは「花の」を冠して述べられることもあり、通称であるため著者により括弧付きで表され ることがある。漢字および数字表記については一定ではなく、筆者によって異なっている。本稿で は、数字表記を採用するが、引用に関しては表記されたまま用いることとする。 2 この本の編集者であり、少女マンガ研究者の藤本由香里である。 3 1977 年にデビューし、24 年組の次世代の少女マンガ家として現在まで長期にわたって活躍する作家 となった。 4 宮本大人(2001)は、この時期の少女マンガが「『(花の)24 年組』とも呼ばれたある部分だけを切 り出すことによって、初めて、『少女マンガ』は『語る』べきものとして『発見』されることになっ た」(宮本 2001 : 86)と述べる。 5 原題では・部分はハート(白黒は、媒体(雑誌・もくじ・ふろく・コミックス)によって異なる。 ここでは、一般的表記である黒を採用する)である。 6 水野英子は、24 年組の作家ではないが、女性の少女マンガ家として先駆者であった。その影響が大 きかったのだろう。 [引用・参考文献] 赤塚不二夫,1971,「赤塚不二夫 ストーリーまんが教室」『COM』虫プロ商事 1971 年 1 月号 289 頁 石子順造,1972,「少女論〈1〉 前章――なぜ「少女マンガ」論でなく少女論なのか?」,『漫画主義』北 冬書房 10 号 1972 年 9 月 11-20 頁 石子順造,1975 = 1994,『戦後マンガ史ノート』紀伊國屋書店(復刻版) 犬養智子,1977,「男が知らない少女コミックスの世界」『別冊宝島』宝島社 1977 年 5 月号 122-131 頁 瓜生吉則,2000,「マンガを語ることの〈現在〉」吉見俊哉編『メディア・スタディーズ』せりか書房 128-139 頁 かがみばらひとみ,1977,「序論・少女幻想の時代」「特集 少女マンガの光と影」『漫画批評大系』迷宮 4・5 合併号 1976 年 12 月 19 日号 → 1977 年 7 月 31 日号 3・4・5 合併抜粋版 26-31 頁 かみしま=永,1976,「編集後記」『萩尾望都に愛をこめて』迷宮 1976 年 4 月号 52 頁 草森紳一,1970,「まんが考見録 少女マンガの瞳について」『COM』虫プロ商事 1970 年 12 月号 123-125 頁 斉藤次郎・斉藤正治,1978,「斉藤次郎 VS 斉藤正治 驚くべき少女マンガの日常」『だっくす』清彗 社 1978 年 7・8 月号 123-132 頁 竹内オサム,2004,「マンガの批評研究誌 もくじ一覧」『ビランジ』13 号 2004 年 4 月 92-126 頁→ 2009,『本流!マンガ学―マンガ研究ハンドブック』 晃洋書房 所収 1-38 頁 竹田やよい,1976,「少女マンガはドラッグである」『宝島』宝島社 1976 年 9 月号 131-139 頁 竹宮惠子,2001,『竹宮惠子のマンガ教室』,筑摩書房 中島梓,1978a,「木原敏江に愛をこめて」「総特集 総括花の 24 年組」『漫画新批評大系』迷宮 4 号 1978 年 12 月 17 日号 3-11 頁 ――――,1978b,「おとなはマンガを読まないで」『中央公論』中央公論社 1978 年 11 月号 248-257 頁 ――――,1978c,「マンガ戦線共闘せよ!」『だっくす』清彗社 1978 年 12 月 87-91 頁 ――――,1991,「未曾有の時代」『別冊太陽 子どもの昭和史 少女マンガの世界Ⅱ 昭和 38 年− 64 年』平凡社 88-89 頁

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夏樹映,1976,「透明な疲れから…」「作家研究 大島弓子」『漫画新批評大系』迷宮 1976 年 7 月 25 日 号 86-91 頁 橋本治,1979,『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ上』北栄社→ 1984 河出書房新社 ―――,1979,『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ下』北栄社→ 1984 河出書房新社 早川芳子,1978,「女・子供の声」『だっくす』清彗社 1978 年 12 月号 60-66 頁 堀あきこ,2009,『欲望のコード―マンガにみるセクシュアリティの男女差』臨川書店 宮本大人,2001,「昭和 50 年代のマンガ批評、その仕事と場所」,『立命館言語文化研究』13 巻 1 号,83-94 頁 村上知彦,1977,「少女まんがの現在」,『日本読書新聞』1977 年 6 月∼ 12 月→ 1979,『黄昏通信トワイ ライト・タイムス 同時代まんがのために』ブロンズ新社 所収 144-167 頁 ――――,1978,「少女まんがのゆくえ」,『だっくす』1978 年 12 月号 雑草社→ 1979,『黄昏通信トワ イライト・タイムス 同時代まんがのために』ブロンズ新社 所収 50-59 頁 ヤマダトモコ,1998,「まんが用語〈24 年組〉は誰を指すのか?」『コミックボックス』ふゅーじょんぷ ろだくと 1998 年 8 月号 58-63 頁 米沢嘉博,1980,『戦後少女マンガ史』新評社→ 2007,筑摩書房 ――――,1991a,「少女マンガの系譜」『別冊太陽 子どもの昭和史 少女マンガの世界Ⅰ 昭和二十 年−三十七年』平凡社 4-8 頁  ――――,1991b,『別冊太陽 子どもの昭和史 少女マンガの世界Ⅱ 昭和三十八年−六十四年』平凡 社 「ユリイカ臨時増刊 少女マンガ〈総特集〉」,1981,『ユリイカ』青土社 1981 年 7 月号 秋山 さと子,「ソフィアの涙―少女マンガの内的世界」8-19 頁 中野 収,「少女慢画の構造分析」20-31 頁 橋本 治,「吉田秋生―ヒーローの秋」32-49 頁 飯田 耕一郎,「山岸涼子―無限なるものへ」50-61 頁 有川 優,「やまだ紫―主婦のいる風景」62-71 頁 岩下 誠徳,「倉多江美―少女はインテリジェンスの扉を叩く」72-81 頁 萩尾 望都・吉本 隆明,「対話 自己表現としての少女マンガ」82-119 頁 伊藤 比呂美,「青池保子―男の肉体って何だ」120-125 頁 鈴木 志郎康,「少女マンガ―気分の擁立」126-130 頁 今泉 文子,「池田理代子―白雪姫はどこに目覚めるか」131-137 頁 大原 えりか,「萩尾望都―愛のために凍結した時間」138-147 頁 望月 典子,「大島弓子―かくも赤裸々な葦の群」148-158 頁 西嶋 憲生,「竹宮恵子―交わりあう意志」159-167 頁 諏訪 優,「樹村みのり―菜の花畑のむこうのむこう」168-174 頁 榊原 淳子,「高野文子―おひさまがさしてるまんがが読みたい」175-181 頁 [参考 Web] 毎日 jp まんたんウェブ 特集:「地球へ…」竹宮惠子、「ポーの一族」萩尾望都… 「24 年組」少女マン ガの革命(2007 年 8 月 27 日閲覧) http://mainichi.jp/enta/mantan/archive/news/2007/04/08/20070408org00m200004000c.html?inb=yt

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参照

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